| 2004年02月05日(木) |
ヲトナの解体新書 壱 /くちびる |
摩訶不思議なるはヲトナの世界 理解を超えた共振に 男も女もその身を委ねる 趣くままに 見果てぬままに 人体の部位で無用なものなどないのが正論だとは思いますが、とりわけ大切なものを挙げるとすれば、内臓を除いては僕は唇(口も含む)を筆頭にしたいと考えます。生殖器という声もありそうですけど、生命を司る根本に関わるのは、命の糧である食物を摂取する口に違いなく、ヲトナとして体を考える本シリーズも、その辺からはじめてみようと思うわけです。 口には前述のように食物を摂取する他に、言葉を発して意思の伝達をはかるという機能があります。身振り手振りや筆談という手段もあるにはありますが、直接的な言葉で交わすコミュニケーションに勝るものではないでしょう。つまり口とは、自分を相手に理解してもらうための第一の扉という解釈ができるかと思います。それが故に、口が災いの元となる場合もありますし、たったひとつの言葉で人生が大きく変化することもあるんです。 また口、というよりはこちらは唇になろうかと思いますが、肉体のなかでも上位クラスの敏感な部位は、愛情表現でもあるキスや肉体への愛撫においても、相手への刺激のみならず自身が「快感を覚える」能力を備えています。かつてコラムにもしたためましたが、キスやフェラチオ、クンニリングス等の愛撫で自身が感じてしまうのは、ひとつは精神的な面もあるかと思える一方で、愛撫を施している自身の唇そのものが反応している事実もあるように思えます。 日本の精神文化には、面白いというか一種独特のものがあると感じているのですが、唇や口というものにも、他の国々とは少々異なる認識を持っているような気がします。例えば、その美貌や体を武器に夜の街を彩る女たちが、見知らぬ男に体を開きはしても、唇だけは与えないという話もききます。逆に、いかにして落とした女であれ、性器を交えて恍惚とした世界をともに彷徨ってはみても、唇を重ねることがなければ何かが足らないように思えることもあるでしょう。 これは西洋の古い話になりますが、紀元前の北欧には、ドルイドと呼ばれる魔術師(祈祷師の類)がいたとききます。彼らは軍隊が戦争に赴く際に同行し、戦場で味方の兵に災いが降りかからぬよう、戦地に唾を吐いたり尿を放出したりして「結界」と成したそうです。おそらくは、体内から湧き出す液体に神に近いものを覚え、それを聖なるものとしたのだと推測するわけですが、日本人が持つ唇や口というものに対する認識の根幹にも、どこか似たような意識が垣間見られる気がするのは僕だけでしょうか。 指で愛撫されるよりも、唇で陰部を愛されたほうが、多くの人は悦びを覚えるものと思います。そこには、指とは違う唇の柔らかさや舌を交えた愛撫の奥深さという物理的な側面もあるでしょうけれど、およそ機能の主ではないところの唇というもので愛されている精神的な歓喜も、決して少なくないのではないでしょうか。再度拙著で恐縮ですが、「そんなところにキスするなんて」という台詞も、そのような心理的背景から出た言葉のように思えてきます。 美味しい唇と称すると、女性に変な目でみられるかもしれませんが、容姿が異なる数だけ唇もやはりさまざまな顔をみせてくれるものです。僕にとっては、体のほかのどの部位よりも、この唇の質感が嗜好を左右します。「巨乳好みじゃないから」という言葉を吐いて憚らぬ僕ですけど、好みのコンパクトサイズの胸であっても、柔らかいとかどうだとかを気にしたことはありません。されど唇だけは、重ねて絡めた瞬間に自分好みであったりすると、即座に倒錯が僕の体を駆け巡るから不思議です。 女は素顔が一番美しいと感じる僕にとっては、唇もまた「素」が一番です。とりわけキスに際しては、ルージュやグロスといったお飾りは気分を一気に萎えさせてしまいます。みている分には美しいと感じるのですが、いざそこに自分の唇を重ね合わせた刹那、肌と肌とで滑らかに絡まない状況に気落ちするわけです。味覚もあろうかと思えますけど、やはり触感でしょうか。絡めていればいずれは剥げ落ち、素と素でのキスになるのですからそこまでこだわるなと言われそうですが、さりとてキスの寸前に「はい、これ」とティッシュを手渡すのもどうかと思えますし、なかなか難しい命題かもしれません……。 近年、夜の繁華街を徘徊していると、怪しげな店の呼び込みが「おにいさん!お触りどころか、ディープキスも当たり前ですよ!」と声をかけてくれることがあります。裏路地入れば、僕が若い頃から当たり前になされていた「サービス」には違いないのですが、こう表立って宣伝されると、いまどきの若い子はキスくらいは誰相手でも平気なのかなぁと顔をつい曇らせてしまいます。 確かに体というものに対する価値観は、かつてと比べると変化している気がします。もちろん人それぞれですし、ケースバイケースには違いないのでしょうけれど、どことなく寂しい気がしてなりません。 僕自身は別段、自分の唇というものに「聖なる印」を感じたりはしませんけれど、魂とまでは呼ばないまでも、何かしら他とは異質のものが宿っているようには思っています。それがときに聖となり、そしてときに悪となる……だから、唇は僕にとって永遠の浪漫たりうるのかもしれませんね。 赴くままに 見果てぬままに……
| 2004年01月29日(木) |
救われない男 /そして男は女から逃げ出す |
男の生き方を理解しようとする際に、その行動心理を分析することは重要です。通り一辺倒の論理ではなく、ときに理解を超越した心理をも許容できる気概がなければ、男を知ることなど無理だと僕には思えます。やはり救われない男として、僕はそう思います。 過日、好きな作家の作品を読みました。物語は十六世紀前半のフランスはパリが舞台。主人公の夜警隊長ドニ・クルパンと、その友人で美貌の天才神学マギステル(種々の学位取得者:先生)ミシェルのふたりが、カルチェ・ラタンを騒がす殺人事件と陰謀に挑むというものです。 ご存知の方も多いかと思いますが、当時の僧には色欲に走るものも少なくなく、僧であるのをよいことに、結婚を前提としない男女の関係が横行していた時代でもあったようです。物語は確かにミステリーという軸を中心に展開するのですが、ミシェルとドニを巡る女の物語も伏線として張られており、人間物語としても読み応えがある作品であったと思えます。 そんななかでも、ミシェルが事件を解決してパリを去る最後の場面で、ドニがミシェルの心理に気づく際の記述が、とりわけ僕の心を強くとらえました。以下、作品より抜粋します。 『ミシェルは、なにもしなかった。いや、なにもできなかった。恐らくは、あまりに知的であったがために、この神学マギステルもゾンネバルト教授と全く同じ理由から、女性を受け入れられないのだ。 美貌の学僧が頻々と恋人を替えた理由も、今では頷けるような気がする。薄情に捨てるのではなく、ミシェルは男に否といわせぬ女の存在感から、いつも逃げ回っていたのだ。豊富な女性経験は、百人とも二百人とも逸話されるが、もとより、ひとりの男が全部を救えるはずがない。かりそめに抱き寄せることができたとしても、本当の意味では、ひとりの女も救えやしない。 だから、私に負けたという。負けを認めるからには、もしや悔やんでいるのだろうか。愕然としながら、遂に私は真実に開眼した。ミシェルは女性を受け入れようとしていた。いや、女性に縋(すが)ろうとしていた。この男が救いを授けるのではない。知性の敗北を予感しながら、神学マギステルは生きる理由を危うくされて、今ひとたび女性に救いを求めたのだ。 佐藤賢一著「カルチェ・ラタン」より抜粋 』 男がなぜひとりの女のもとに定住しないのか。その理由は、じつにさまざまであろうと思えるのですが、ひとつには、ミシェルのような心理もあるのだと思います。事実僕自身、この一節には溜息すら漏れるほど感じ入ったものです。目の前にいる女が嫌いになったわけではない。ましてや、よそにもっといい女ができたわけでもない。それでもいつからか、男はその場を後にすることを考えはじめる……。 ここでいう「男に否といわせぬ女の存在感」という下りに、女性であれば抵抗を感じる方も少なくないでしょう。女に言わせればそんなものを望んだわけではない。男を自分の手許に縛り付ける気もなければ、むしろそうしないよう努めてきたつもりだと。されどだからこそ、理解を超越した心理が、そこにはあるんです。女がどう接したかは問題ではないんです。男という生き物が、女になにを望むか、それをどのように自分という存在にすり合せていくかが問題なんです。 それでは、男はいつでも女の手から逃れて自由になりたいのかと、そう切り返す方もいるでしょうね。答えは否です。というか、その問いそのものが、じつは心理を考慮した際には見当違いの問いということになります。「ドニ」は真実に開眼し、「ミシェルは女性を受け入れようとしていた」「今ひとたび女性に救いを求めたのだ」と書いています。その通りです。女になにかを期待し、縋りたいと思うから追いつづけるんです。はなから逃れたいのなら、近づく道理がありません。 救うとか救われるとか、男と女の関係はそんな陳腐なものでもないに違いありませんが、衝動の一端には確かにそういう想いがあるでしょう。ミシェルのような男は、女に自らを救ってもらおうと思い近づくんです。言い換えると、己の理想や目指すものを理解し包み込んで欲しいがために近づくんです。されど、肉欲と理想との狭間で、女への情を覚えるにつれ否という言葉を発せなくなり、自滅とも思える道を邁進していずれは逃げ出そうとしてしまう。本来の自分を取り戻すため、本来の理想を捨てないために、好きな女のもとから離れようとするんです。 はなはだふざけた話だと思います。女の側からしてみれば、これほど扱い難い生き物もいないでしょう。自分の言動とは無縁に、男のほうが勝手にあれこれと思いめぐらして自分を縛ってしまうのですから。されど、男にはそういう一面もあるということです。 そのような男への対処法として、距離をおくという方法があろうかと思えます。前出の抜粋に照らせば、「男が否といえる程度に存在感が薄れる距離まで離れる」ということになるでしょうか。土台が嫌われてるわけでもなければ、捨てられたわけでもないんです。叶うなら男は、女に救いを求めているわけですから、それが成就する環境を作れば宜しいということになります。 身勝手だというかもしれませんが、実際にそうやって適度な距離感をもってくれると、男には女を再度見直す余裕というものが生まれてきます。そこで縁を切ってしまえばそれまでですけど、細々とでも繋がっていることで、互いをより深く考える環境を構築することも可能なんです。 話は少々脱線しますが、かつて亡父に「経営者ってのは孤独なものなんだよ」といわれたことがありました。自分でその立場になってみると、いやがうえにも実感できる言葉です。そしてそんな立場にあって、その孤独を真に理解できる人が周囲に少ないことにも気づきました。 優しく慮る言葉は数多くあります。心無いものも、真に思いやってのものもあるでしょう。されどつまるところ、自分の道は自分でないと切り開けないんです。それをわかっていながら、心のどこかでは救いを求めようとしてしまう。縋れるものをみつけては、そこに手を伸ばし、やがてそれが自分自身でないことに気づいて窮屈な感覚に包まれてしまい、そして手放す。 ミシェルが女を渡り歩く衝動も、僕が自分の人生を歩むそれも、そう考えると大差ないような気がしてきます。自分を保持しようと努めれば努めるほど、嫌な男に成り下がってゆくんです。それが、男というものなのかもしれません。救われない男です。
| 2004年01月06日(火) |
小説書きます!ヌード写真撮ります! |
ヲトナごっこは、一昨年の二月に開設しました。いわば年明けの正月であっても、ヲトナごっこにとっては年度末の時期なのですが、新年ですので抱負も込めて、僕が現在考えている三年目のヲトナごっこの展望を記録したいと思います。 僕は、書き物は生涯かけて取り組んでいこうと考えています。生業にすることを考えるほど自惚れてはおりませんが、僕なりの目指し憧れる文章世界というものがありまして、それを老後までを視野にいれて、着実に構築していきたいと考えているわけです。 物書きにとって、四十はまだひよっ子に違いないでしょう。もちろん若くして才覚を現す人も数多くいらっしゃいますが、人生の機微を覚えてそれを文字に置き換える作業が書き物であるとの視点によれば、ある程度思うところを文章に込められるようになるのは、やはり年端を重ねてからだと僕には思えるからです。 正直に告白しますけど、昨年までは、とにかく書いて更新することに主眼を置いていた部分が僕のなかにはありました。内容を吟味しなかったとか、思索を中途半端に済ませたという意味ではないですよ。書き続けることをひとつの命題と自身に課して、そのなかから自分なりに何かを手にしようとしていたのだと思い返されます。その方向性を、今年は少々変えてみようと考えています。 平たくいえば、書きたいものをじっくり書くということになるかもしれませんが、現状で身についている技量がどの程度のものであるのかを再確認するというか、一度形にしてみながら次の一歩を考える一年にしたいと思っています。 具体的には、小説に本腰を入れます。したがって、コラムの更新は極端に減ることでしょう。小説の内容をここで顕にすることは控えますが、僕のなかでは、ヲトナごっこをやってきた経験から生まれ、ごっこのコンテンツとして堂々としたものに仕上げたいと思っています。ま、とにかく作品としてまとめるのが遅いヤツですから、かなり長い目で見てやってください……。 男女の問題やセックス等の性問題は、ヲトナごっこの主軸でありますし僕自身常に強い興味を抱いているテーマでもあります。それらをすべて小説に込められるとも思っていませんので、収まらないものはコラムという形で表現することになろうかと想像しています。 書き物を生涯の友としていきたいという思いと平行して、写真趣味も少しずつ身につけていきたいと昨今は考えるようになりました。いわば人生趣味の二本立てとでもいいましょうか。現在僕が胸に抱いている老後のビジョンというのがありまして、大好きな森のなかにある小屋で好きな書き物をしながら、疲れたら周辺をカメラを手に散策する……というのが夢なんです。じじくさいですけど。 これまでは風景を主に撮ってきましたけど、今年はポートレイトの勉強をしようと思っています。ウェブで公開する意図は皆無ですが、写真というものを覚えるためのひとつの方法として、人物写真を主眼においてみようということです。もちろんヌードです、ヲトナごっこですので……という想像はあまりして欲しくないのですが……。 僕は絵をみるのが好きでした。母がとても画才に長けた人でして、若い頃から水彩画に親しみ現在でも描いているようです。彼女の血を受け継いでおきながらも、天は僕に描く才能は与えてくれなかったようで、そちらは美大に進んだ妹のほうにいってしまったのですが、中学生の頃から美術館に通っては絵画に見惚れていた経験が、いまになって写真趣味として開花している気もします。 文章も同じなのですが、憧れるもの、目指したいものというのが僕のなかにはあります。数多くの絵画をみてきて僕のなかに蓄積している「僕なりの美世界」を、写真という媒体で表現してみたいと思うようになってきました。そのためには、まずは写真を学ばねばなりません。 よく、画家が裸婦のデッサンをやりますよね。昨年、撮影会でヌード撮影を経験したときに、ふとそんな光景が僕のなかに浮かんだんです。少々大仰な物言いになりますけど、かのダヴィンチが人間を描くときにその内部に興味を覚えたと同じように、目で見ることができる極限の姿、すなわち裸体というものには、やはり人間の美が刻まれているのだと感じるようになりました。 もしかすると、肉体を知ることは心を知ることに繋がるのかもしれません。甚だ的を得ていないのかもしれませんが、ヌード写真というものを通して、僕がこれまでヲトナごっこで展開してきた心理世界の一端でも感じられることができればいいなと、密かに胸に秘めている昨今でもあります。 あ、タイトルに「ヌード写真撮ります」と書いておきながら、公開しないなんてずるいですかね……でも公開するつもりは現段階では皆無ですので、よろしく。それ以外の写真は、現在あるコンテンツの作風に則って公開していく予定です。 人にはそれぞれ、天から与えられた生き方があるように思えます。僕は決して運命論者などではありませんが、遺伝子によって伝えられたものの信憑性、生まれ育った環境によって育まれる個性とその将来については、どこか運命的なものを感じずにはいられないと考えているひとりです。これは言い換えると、「自分にできることを自分らしくこなすこと」と翻訳されるのではないでしょうか。 老後を語るのは早いと多くの人たちに言われますが、「そうかなぁ」と僕は思います。生きていくということ、自分を生かすということ、それらを考える上では、やはりどこまであるかわからぬ自分の人生を、より具体的に考えることに何の異がありましょう。書き物と写真は、僕にとって趣味という範疇でしかありえないものですけど、現段階で考えられる「自分にできること」には違いなく、また伸ばして共に歩んでいきたいものでもあるわけです。 叶うなら、このヲトナごっこという場所を通じて、僕はそれを僕なりに表現していきたいと願っています。そしてその足固めをすることが、今年の大きな目標ということです。 そんな僕の動向共々、今年もヲトナごっこをどうぞよろしくお願いします。
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