| 2003年12月29日(月) |
よいお年をお迎えください |
ヲトナごっこも、いよいよ本年最終コラムとなりました。書くことが好きで、人間観察が好きで、たどたどしくも展開してきた僕なりの世界でしたが、葛藤を繰り返しつつも読者の皆さんに支えられてどうにか年を越せそうな気がしています。 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、 久しくとゞまりたるためしなし。 世中にある、人と栖と、又かくのごとし。 これは、ご存知鴨長明「方丈記」の冒頭の一節です。これまでもコラム等で触れたことがあるかと思うのですが、古文が苦手な僕にあって、数少ない記憶に残る一節でもあります。幾度となく紹介するということは、僕の中でこの一節に対する想いが強いということであり、人間関係や世情を見事に描写した文章でもあると感服しています。 人の世の儚さをしみじみ感じ入るようになるのは、年端を重ね身内の死を経てであるのかもしれません。人生には限りがあるということ、時間は止められない絶対的なものであるということ、そして、人の心ほど思うに任せないものはないということを知るにつけ、方丈記の文言にある泡沫(うたかた)が僕の脳裏をかすめます。 ただそのような流れ行く世にあって、黙然と消え行くものを眺めているのではなく、だからこそ澱みのひとつひとつを味わって生きていくべきであろうとも感じています。いうなればそれこそが、僕がこのヲトナごっこで目指しているものであり、人間を描きたいという衝動の根底に流れるものであるように思えているわけです。 一年を振り返ると、今年もさまざまな出逢いに恵まれたと思い出されます。世の中には、このインターネットという世界を、さもゲームの延長でもあるかのように捉えている輩も少なくないようですが、僕にとっては、現実の人間関係と寸分違わぬものとして認識されています。それがときに、自身の心を深く傷つける結果となることもありましたが、概してここには人間世界の縮図が盛り込まれているに相違ないと感じています。 生きるということは容易ではありません。精神的にも肉体的にも、もちろん社会的にも、これほど人間を取り巻く環境が多様化している現代にあっては、そこに人知れぬ悩みや苦しみが介在するのも無理はないと思えます。それを手短な言葉で翻訳することは無謀であり、一概に論じられないことも充分に承知しています。それだけに、人間関係の多くを占める男女の問題、とりわけ理解が困難であろう心の文(あや)を考えることは、僕にとって今後も手放せない課題となるでしょう。 出逢いにときめき、出逢いに考えさせられ、そして出逢いに感謝する。いまや僕にとってのインターネットは、コラムという文章表現に留まらぬ世界ともなりつつあるように思えます。それは、書きながら己が研磨されるが如く、僕自身も少なからず変化させられてきたと感じるからです。 想いは文字にすると形を変えます。それはあたかも、自分の姿を第三者に撮影してもらったときのように、自分でありながら新たな自分をそこに具現化して見せつけるんです。僕のなかから出た文字たちは、僕自身でありながらも僕ではないのかもしれません。彼らから僕が学んだこれまでを思うと、ふとそんな気にさせられることもあります。それはきっと、偉そうな能書きを連ねている僕自身が、いまだに本当の自分を探し続けているからなのでしょうね。 僕は、コラムはある種の問題提起だと考えています。土台他人の言葉などというものは、指針にこそなれ本質とはなりえません。僕がここで展開する世界は誰のものでもなく僕自身のものであって、ただそれをコラムという形態で公開することによって、何かしら読者の方々に感じてもらい、そこから皆さん個々の展開をしてもらえればと常々思いつつ書いています。 そういう観点においては、ヲトナごっこは僕個人のサイトであり、ここに蓄積された文字たちは明らかに僕という人間を構築しつづけていると感じる一方で、ひとりひとりの読者の方たちこそがここでは主役なのかもしれないと思えるふしもあります。僕が当初、このサイトに「ヲトナごっこ」と名づけた衝動は多少変化している気がするものの、意外と的を得ているのではなかろうかと自負する面も、正直なところ感じている昨今でもあります。 大人になるということはとても大変なことであり、男が男であることを本当に自認し、女が女であることを心底理解する道は、生ある限り果てしない道でもあるのかもしれませんね。 サイト運営にも関わることなので、僕の個人的な年末年始を少々書き添えておきますが、明日後半より僕は東京を留守にします。帰京は年明け正月二日となりますが、落ち着いてネットできる状態になるのは、数日してからであろうと推測しています。掲示板やメールに関しては、携帯電話で管理できるようにしていますが、その間は何かと行き届かない点もあろうかと思います。どうぞご了承ください。 最後になりますが、一年間、本当にありがとうございました。かつて、書いても書いても無反響で、どうして自分はこんな礼儀知らずで無責任、非常識な世界で活動しているのかと投げやりになった時期もありましたけれど、ヲトナごっこを開設してからの日々は、そんな僕の心を充分癒すに余りあるものがあったと感じています。それもこれも、すべて読者の皆さんのおかげに相違ありません。 来年もどうか、ヲトナごっこをよろしくお願いします。 そして、どうぞよいお年をお迎えください。
カナシイネ ドレホド君ヲ 想ッテイテモ 伝ワラナイノハ カナシイネ セツナイネ 僕ヒトリノ 君ジャナイ 分カッテイルカラ セツナイネ サミシイネ 僕ノ姿ガ 映ラナクトモ 輝ク瞳ガ サミシイネ クルシイネ 幸セニナッテ 欲シイノニ 僕ニワデキナイノガ クルシイネ カナシイネ カナシイネ カナシイネ 愛スルコトハ カナシイネ 君ノ幸セヲ 願へバ願フホド 僕ノ心ハ チヂコマル 遠クノ空ヘ 見ヘナイ君ヘ メリークリスマス
| 2003年12月22日(月) |
【番外編】そんな所にキスするなんて…… |
普通に出逢い、普通に恋に落ち、普通に体を重ねる。そんな「普通」を経験できないどころか、異常な状態を世間一般であると思い込まされた女の存在は、それを目の当たりにした僕にとって衝撃的なものでした。その背後には、男という獣(けだもの)の身勝手と、社会が包括する性問題までも見える気がしたものです。 今年一年間に公開したコラムのなかで、第二位に三十ポイント以上の差をつけて堂々の第一位に輝いたのが、三月十七日に公開したこの「そんな所にキスするなんて……」というコラムでした。もちろん、その内容に反響があったとは解釈していません。各日記系リンク集に更新報告をしたところで、所詮はタイトルでしか「最初のワンクリック」を判断できないのですから、内容よりはむしろタイトルに反響があったというべきなのかもしれません。 このタイトルから、果たして読者の方々は何を連想されたのでしょうか。いま改めて考えてみても、その内容は多岐に渡るように思えます。むしろ僕がコラム本編で書いたような僕自身の経験などは、想像しなかった方のほうが多いのではないでしょうか。さりとてそれがウェブ世界の掟であるならば、そこから読者層を広げるのも著者の力量でしょうし、どのような内容を読者が想像したかを考えることも、書き手として学ぶべきもののようにも感じられます。 恋愛にしても結婚にしても、互いの位置や関わり方というのを考えるのは、他でもない当人同士でしょう。そんなものはマニュアルがあるわけでもありませんし、当人同士が納得していれば他がとやかくいう筋合いのものではないように思えます。これは、幸せというものに決まった形がなく、その時々、その人たちによって、さまざまに織り成されることに似ています。 けれどだからといって、それを盾に生きてよいという理屈にはならないでしょう。人は誰でも、幸福になる権利を手にしています。それは誰かの価値観で左右されるものではなく、自分自身の人生は自分自身で歩まねばならないという絶対的な論理の下に与えられた権利です。それを無視し、言い換えると相手の人権を尊重せず、自らの価値観のみで恋人や夫婦というものを考えるのは少々乱暴ではなかろうかと僕には思えるんです。 悲しいことに、現代にあっては、じつに幼稚な男の大人が大勢生まれてしまいました。ある意味で頂点に近いともいえる経済立国のなかで生まれ育ち、社会という枠の中で人間性を度外視した機械人間として生きてきた男たちのなかから、野獣にも似た人種が生成されるのも無理はない気がします。上手に人間として生きる術を、身につける事ができなかった人たちです。 そういう男の牙にかかった女も不幸ですけど、男のほうも可哀想だなと思います。社会や組織の価値観を基盤に生きることは、彼らにとって日常であり決められた道筋のようにみえるところもあるでしょう。それを真っ向から否定するつもりは、僕にもありません。されど、いずれは社会や組織から離れ、その役目を終えるときが来る事を思うと、その瞬間の彼らの存在はどうなるのだろうかと胸が痛くなってきます。 僕はこのヲトナごっこを通じて、これまで再三にわたって「人間であること」を書いてきたつもりです。社会の一員であることを捨てろとは言いません。組織に組していることをいけない事とも思いません。ただ、それ以前に人間であることを、決して忘れて欲しくないと願っています。世にある問題、とりわけ男女間の問題の多くが、その辺に原因の根を潜めているように思えてならないからです。 結婚して子供までいるのに、クンニすらしてもらったことがない女。夫の自分に対する乱暴で身勝手なセックスが、いわば普通のセックスであると思い込まされていた女。人間としての尊厳など無視され、あたかも檻で飼われた動物の如く扱われている女は、僕が知らない世界にも大勢いるのかもしれません。僕はそんな屈折した社会の、ほんの氷山の一角を見ているに過ぎないのかもしれません。 そう思うと、いかに男というものが身勝手な生き物なのか、社会というものが彼らをどれほど屈折した生き物へと変貌させてしまったのかを痛感もします。 男だけに原因があるわけではないと、そう仰る方もいるでしょうね。その言もわかるところはあります。けれど、相手を思いやることが愛であって、夫婦手を携えて生きていくのが常道であるならば、一方的な価値観や方法論の押し付けはやはり間違っています。悩み苦しむ人たちがすべて、自分と同じように生きられるとは限りませんし、それぞれに事情があり個々の性質を持つ以上は、それを尊重すべきだと思うからです。 単一の社会に組して生きていくからには、そこにあるルールやモラルを遵守すべきであると僕も思います。しかし、それを逆手にとって闊歩している輩をみるにつけ、これでいいのだろうかと思う気持ちもありますし、だからこそそれに抗して、人間として与えられた人生や幸福を考えるべきであろうとも思えるんです。 タイトルを見てこのコラムを開いた方は、「エッチなことが少しも書いてないじゃん」と憤慨されることでしょうね。すみませんでした。けれどもしも、性というものを興味本位や欲望のみで捉えているのであるなら、この機会に是非とも、男と女というものを真剣に考えてみて欲しいと願ってやみません。 決して脅すつもりなどありませんが、あなたのそういう身勝手な考え方や行動は、いずれ必ず、あなた自身へと降りかかってきます。二十歳そこそこのあんちゃんが言うなら信憑性も薄いでしょうけど、不惑の四十を過ぎたおじさんがいうのですから、多少は説得力もあろうかと思います。なにより、あなた自身の幸福のために、身勝手な価値観は捨てて、異性と真正面から向かい合ってみてください。 目先の快楽になど惑わされず、人間として与えられている立場や役割を理解すれば、そこから自ずと、あなたらしい道が開けてくるのではなかろうかと推測します。そういう人がひとりでも増えてくれることを祈りつつ、今年の番外編を締めくくることにします。
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