| 2003年12月18日(木) |
【番外編】セックスでテクニックは必要ない |
セックスを考えたとき、そこに技術的なエッセンスを無視して語れる人は、やはり皆無に近いのかもしれません。セックスにテクニックは必要ないかと問われれば、「まったくないのも困りものだ」と応えそうな気もします。ただしそのテクニックは、できるなら別の視点で捉えて欲しいものです。 自惚れもここまでくれば奥義かと思うのは、自分が著した文章中に、「いいこと言うよな」と自ら感じてしまう一節をみつけたときです。このコラムを公開したのは、ヲトナごっこを開設してちょうど二年目が始まる日、つまり今年の二月十八日でした。 その記念日に公開したコラムのなかに、次のような一節があります。 「セックスに未熟だからという理由で、男を喜ばせることができないなどとは、決して考えてはいけないんです。知っているか知らないかよりも、素直に心と体を開けることのほうが、はるかに男にとっては喜びへと繋がるものです」 比較的文章量の少ないコラムだったわりには、いいこと言ってます。僕は常々、女性から相談を受けると「ありのままの姿で思い切って飛び込んだほうがいいよ」と応えています。関係が悪化するなどということを怖れず、いまのありのままの姿を相手が受け入れてくれることを信じなさいという意味でもあります。繕ったり技巧を用いようなどとは考えずに、拙くても行き届かなくても、とにかく相手に心と体を素直に開くことが一番だと思えるからです。 ギブアンドテイクの概念というのは、愛し合う者同士では日常的に交わされているものかもしれませんね。自分に捧げられたものを、次は相手に自分なりの形で返してあげたい。与えられるだけで満足している人もなかにはいるようですが、やはり与えられているだけでは、自身が相手を愛しているという証を得られないのが人間というものではないでしょうか。 だからどうしても、折に触れて「何かしてあげたい」と考えてしまう。セックスに際しては、相手を悦ばせるだけの技量が自分にないことを、反面恥ずかしくもじれったくも思えてくる。その心理は自然なものなのかもしれません。セックスの最中に上手にコミュニケートできるならそれほどでもないでしょうけど、寡黙なセックスを常道とする男は多いですからね。息づかいだけの静かなセックスが、女の不安を助長しているともいえると僕には思えます。 相手が悦ぶ姿というのは、言い換えると、こちらの想いを受け入れてくれているということになるでしょう。物を贈るにせよ、行動で伝えるにせよ、そこに込めた想いが伝わり悦びの反応を返してくれると、人は誰でも幸福感に包まれるものです。それを知っているからこそ、どうにかして相手を悦ばしてあげたいと望んでしまう。果てには、セックスの経験にも技量に拙い自分が、相手にとって「申し訳ない」存在へと変貌してしまうのも、どこかわかるような気がするものです。 冒頭で僕は、「別の視点で」という表現を使いました。技術的に男を性行為で悦ばせることが叶わなくとも、別の方法で悦ばせることができるのではなかろうかという意味です。乱暴な物言いですが、男には支配欲や征服欲のようなものがあります。程度の差こそあれ、誰もが少なからず意識しているものでもあるでしょう。そしてその亜流として、「女を作り上げたい」という欲求も、やはりあるのではなかろうかと推察しています。 変な喩え話になりますが、見るからに恋愛やセックスに通じていると感じさせる女には、なかなか男は寄り付かないものです。ひとつには組し難いという理由もあるかと思えるのですが、やはりなによりも、自分が「手篭めにされる」可能性が行動を邪魔しているのだと僕には感じられます……僕自身はそうです。 ですから、そういう完成品に近い女よりも、むしろ未完成の女のほうが魅力的に見えてくるものなんです。その背景には、自分でも支配し征服できるという目論みがあるかもしれませんし、しいては自分好みの女に仕立て上げられる可能性があると感じるかもしれません。いずれにしても、男という生き物は、異性に対しては殊のほか冷静に自己判断する面があります。そんな男心をくすぐるというか満たす道を探すことも、僕はひとつのテクニックに違いないと思うんです。 フェラチオがとても上手な恋人とめぐり合うと、それはそれは至福に感じるものです。それは正直な男の本音に違いないでしょう。だからといって、常に男が恋人にそのような技量を求めているかといえば、応えは「否」となるように僕には思えます。そんなことよりも、男に心も体も預けて、彼の腕の中で、彼の体の上で、およそ誰にも見せたことのないような歓喜の表情を浮かべることのほうが、僕には遥かに男冥利に尽きると思えるからです。 セックスでテクニックなど必要ありません。必要なのは、どれだけ自分をありのまま投げだせるかということです……。 ----お詫び-------------------- 現在掲載している番外編コラムですが、「恋愛コラムより二篇、セックスコラムより二篇」と前触れしておきながら、当方の単純な勘違いで「恋愛コラム一篇、セックスコラム三篇」であることが数日前に判明しました。なにより、当の本人が慌てておりまして……。 書き直すことも考えたのですが、僕のなかでは年内スケジュールの段取りも終了し、ある意味で完結していましたので、甚だ身勝手ではありますが、このまま予定通り更新させていただくことにしました。 ちなみに、置き去りにされた恋愛コラム一篇とは、三月二十四日に公開した「わたし面食いじゃないの」でした。哀れんでやってください……。
| 2003年12月15日(月) |
【番外編】言い出せなくて /セックスレスの一因 |
三大欲のひとつともいわれる性欲を、夫婦の関係から切り離して考えるのは、やはり無理があるのでしょうか。セックスレスという言葉を裏返すと、どこか「セックスしている関係が正常」であるかのようなイメージがつきまとう気がして、少々首をひねりたくなってきます。 そういえばセックスレスに関して、過去にもコラムを書いたなと思いつつ紐解いたら、昨年末に二篇を公開しておりました。今年の公開ではなかったんですね。もう一年経つのかと感慨もひとしおですけど、やはりあのときも反響がかなりあって、お手紙も幾通かいただいた記憶があります。セックスレスという状況に対する悩みや想いは、人知れずそこここで燻っているものなのだと実感しています。 過去三回、セックスレスをテーマに書きましたが、僕のなかにはふたつのコラムに寄せる想いが現在もあります。ひとつは「夫婦(もしくは親しい間柄)だから言えないこともある」ということと、「セックスだけが夫婦ではない」ということです。前者はセックスレスの原因に関することで、後者はその解決策を模索する上でのヒントといえるかもしれませんね。 セックスレスの原因も多岐にわたるとは思いますが…… ・浮気行為等により、伴侶以外の異性と関係を持っている ・SM等性行為の認識に隔たりがありすぎる ・思っていることを言えずに縁遠くなる ・セックスそのものに飽きてきた、もしくは淡白 ・嫌われた
他にも色々ありそうですが、こうして列挙したものをよくみてみると、いずれにおいても「コミュニケーションの不具合」が感じられる気がします。 気持ちのやり取りというのは、極めて難しいものです。「言わなくてもわかるでしょ」と仰る方もいますが、そういう人ほど核心を歪めてみていたりします。言わなければ伝わらず、言わなければわからないのが人間であると悟るべきでしょう。さりとて、表題にもあるように、言いたくても言い出せない状況というのがあるから、話はややっこしくなってくるわけです。 僕の経験上からは、同じ要求を幾度も繰り返し拒絶されると、次第に要求し難くなるという状況がありました。意外と多くの方が同じ経験をされているだろうと推察もしています。拒むという行為を、おそらくは当事者はそれほど深く重い意味で成しているわけではないのだと思います。とても単純な理由で、極めて軽い態度で反応を返しているのでしょうが、それが積み重なると、人の心に足かせをはめてしまうということがあるんです。 人は、自分以外の人との関係が悪化することを望みません。夫婦や恋人ともなれば、なおさらのことでしょう。「言ってくれればいいのに」と後になっていわれても、幾度となく拒否されることによって、「これ以上要求すると嫌われるのではなかろうか」という想いが心に芽生え、言い出せない状態を作り出してしまうもののように思えます。 これを回避するには、やはり相手の言葉に真摯に耳を傾けるしかないでしょうね。同じ拒絶するにしても、短い言葉で処理してしまうのではなく、「気持ちは嬉しいけど、いまは〜の理由があるから駄目」とか、「今日は駄目だけど、いついつならいいわよ」とか受け答え方を工夫してみるといいかもしれませんね。 セックスレスという状況を目の当たりにして、どうしても相手とのセックス行為に固執してしまうと、少々問題解決は難しくなる場面もあるように思えるのですが、そのようなセックスレス意識から脱却する方法は、幾つかあるような気がしています。とりわけ、「セックスだけが夫婦の関係を決めるものではない」という価値観は、セックスレスという問題にとどまらず、僕にはとても大切なものの見方のように思えるものです。 夫婦がともに人生を歩んでいく上では、セックス以外にも大切にすべきものは沢山あるはずです。心も体も愛して欲しいと望んで、殊に満たされない肉体の火照りに神経が行ってしまうと、とかく人はそれにのみ視線が向いてしまい、視野が狭くなってしまうことも少なくないように思えます。 されど、セックスだけが夫婦ではないと思えるようになれば、他の「繋がり」もセックスと同等もしくはそれ以上に感じられて、そこから新たな夫婦の関係が構築されてゆくのではないでしょうか。僕自身はそのようにして、セックスレスという状況を乗り越えてきたと思い返されます。 五月に公開したコラム本編でも触れたのですが、セックスレスだからセックスしてはいけないという道理はありません。多少複雑な物言いになりますが、セックスレスという状況下にあって、あまり必要以上に「セックスできない」と思い込まないほうが、僕はいいのかとも感じることがあります。 それは、前述したように、セックスだけが夫婦関係ではないとはいいつつも、一方では、生き物としての人間を考えたときに、種の存続がその使命であるならば、やはり性行為は自身の存在を裏付ける重要な行為であると、本能的に体に刻まれている側面も否定しきれないからです。ですから、状況は状況としても、せめて思い込みで自身を奈落へと突き落とすようなことだけは、避けたほうが賢明だという風にも思っています。 夫婦間でそのような問題を、忌憚なく話し合えればいいのでしょうけどね……なかなか難しい問題に違いありません。
| 2003年12月11日(木) |
【番外編】既婚者恋愛の正当性 |
恋愛という感情の本質を考えたとき、はたしてそこに、既婚者であるという制約はどのように作用するのだろうか。既婚者が伴侶以外の相手と恋に落ちることを、人はわかったような顔でモラルに反するというけれど、人間の核心は、人生の真実は、モラルだけで推し量っていいものなのだろうか……。 日本という国に生まれ、ある程度の幅はあるものの共通の価値認識を持つ社会に組して生きている以上は、そこにルールやモラルが必要であることは当然だと思います。そういう意味では、既婚者が恋愛する行為に正当性を見出そうなどということは、至極馬鹿げた無謀な行為なのかもしれません。 既婚者恋愛を語ることすら否定する方がおられるのも事実ですし、僕自身、過去に自分が書いたコラムに対して、「不倫を助長するようなことは書かないでください」と女性からお便りを頂戴したこともありました。けれどその後も、僕は書き続けています。助長するなどという気持ちは更々ありませんし、ましてや弁明するつもりもありません。現実から目をそむけるような行為は、僕が考える物書きの道にはありませんし、むしろそこから人間の本質を探り出すことのほうが、遥かに賢明であると感じられるからです。 人の心を裏切るのはいけないことです。場合によっては、到底許されない行為となることも少なくないでしょう。されど、彼が、彼女が、その道を選ばざるを得なかった心の背景を知らずして、誰が彼らを責められるでしょうか。僕はね、夫や妻である前に、父親や母親である前に、ひとりの人間であることを書きたいと常々思ってきました。それは決して「人間の権利を盾にする」のではなく、「自分も相手も同じ人間である」という原点に立ち返って物事を考えて欲しいという願いでもあるんです。 二月末から三月にかけて、延べ五回のシリーズで公開した「既婚者恋愛の正当性」には、じつに数多くのアクセスをいただき、感想等のお便りも沢山頂戴しました。あれやこれや書きましたけど、僕があそこで表現したかったことはただひとつ、「人生は誰のためでもない、自分自身のためにあるんだ」ということでした。 本編では「ある人生」と題して、ある女性のケースを紹介しましたが、あれはフィクションなどではなく現実です。僕がその場を目撃していたわけでもありませんので、断言するのは少々乱暴かもしれませんが、その後も幾つか似たような経験をされた方の話を耳にしていますし、あれ以上のひどい生活を送っている方の声も聞きました。コラムでは僕自身多少「容赦しちゃったかな」という柔らかい表現であったように思い返されるのですが、現実とは驚くほど醜く辛らつなものなのかもしれません。 結婚し子を授かったならば、その子の行く末にある程度の責任を親は持つべきだと僕は考えています。そういう意味では、本編に登場した女性が娘のために自分の人生を送ろうと考え至った経緯に、胸をなでおろすような心境となったのは事実です。されど彼女が、「娘が成人したら、もう自分は死んでも構わないって真剣に思ってた」と続けたとき、それでいいのだろうかと思いました。 生き物の最終目標は、種を存続させることなのかもしれません。異性と交配し子を成すことで、自身の生命の存在を確認する。それは人間にとっても、無意識のうちに体に刻まれている使命のようにも思えます。だからといって、それのみで人生を終えようとする姿には、やはりあまりに悲しいものが多く残ってしまいます。 彼女が思い至った「女としての人生」が、その後どのように展開していったかを、じつは僕はしりません。けれどそれは、決して誰から批難されるものでもなく、彼女の人生という道のりの中では、極めて賢明な選択であったろうと僕は推測しています。不倫とか不義とか、世の中には既婚者が恋愛した際に用いる言葉がいくつかありますが、そんな言葉で人生の何たるかを言い尽くして欲しくなどありません。極めて不愉快です。 ただ悲しいかな、世の中には一方で、そういう人生の背景を持たずに「いい気になってる」馬鹿が大勢いるのが現実でもあるでしょう。だから真剣に人生に悩む者が、より苦しい立場へと追い込まれてしまうようにも感じられます。人間は愚かな生き物だといにしえの賢者が申したそうですが、つくづくそうかもしれないと感じ入ってしまう自分が、また悲しいですね。 隣の芝生は青く見えるといいます。人生においてそのような場面は幾度となく登場し、人はそこで繰り返し悩み苦しみ、そして過ちをおかすこともあるでしょう。けれど僕は、それを白黒はっきりさせるような視点ではみたくありません。それは、経験が人生にとっては何よりの師であって、そこから自身が身をもって手にするものこそが、先々の人生を豊かにしてくれると信じているからです。 間違いをおかさないよう努めることは大切かもしれません。されどそれが、本当に間違いであるのかを見極めることのほうが、僕は遥かに大切だと思っています。人間にはとても素晴らしい能力が備わっています。それは「許す」という心です。どうかその「許す」という深い愛情をもって、既婚者恋愛の核心を見極めてみてください。そこにはきっと、ひとことでは言い尽くせない人間の奥深さと真実が、小さな輝きをみせくれると僕は思いますよ。
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