恋人であれ夫婦であれ、倦怠期というのは訪れるものです。なかにはそういう時期を経ずに長年連れ添う方もいるでしょうが、倦怠期というものには、人の心のさまざまな性質が見え隠れする気がします。そしてそれは、ネットにおける儚い縁にも繋がっているように思えるんです。 ネットという世界では、人と人とが日々天文学的数字で出逢い、そして別れてもいます。ここで出逢うと、実生活での縁より遥かに短い時間で親密になり、じつに些細なことで縁遠くもなります。仮想空間だからとか、うわべだけの関係だからとか、理屈は色々取り沙汰もされるところでしょうが、ひとつには、やはり短時間に構築された関係の希薄さが、別れの背景にあるのではないでしょうか。 別れられるか否か、その判断基準も人それぞれかと推察しますが、別れられない要因の多くは、過去の経緯というものだと僕には思えます。夫婦にとって「子はかすがい」といいます。離婚に悩む人たちのなかには、子供がいることで離婚に踏み切れないという方も少なくないでしょう。それも過去の経緯です。情を交わしてきた年月が長ければ長いほど、相手との関係に終止符を打つのは難しいものです。やはり過去の経緯ですよね。 ネットで男女が急速に親密になるのは、いわずと知れた「匿名性の世界であってしがらみがないから」だと僕は思うわけですが、反面、急速に親しくなった相手との間には、じっくりと時間という流れのなかで温めてきたものが少なく、それ故に別れに際してそれを引き止める要因となるべき過去の経緯も希薄だという論理になろうかと思えます。 そのようなネットにおける希薄な関係の背景には、じつは恋愛における倦怠期に対する上手な処し方のヒントが隠されているように、僕には感じられるんです。 倦怠期というものを考えるときに、まず前提としておきたいのが、気持ちが離れている状態は倦怠期とは異なるということです。ここを取り違えては話がややっこしくなってきます。されどそれを倦怠期と勘違いしている人も、意外と少なくないかもしれませんね。その辺をまずはしっかりと見極めてください。 倦怠とは、文字通り飽きたりだらけたりすることです。恋愛に限らずさまざまな場面で、人の心には「慣れ」という感覚が沸き起こります。仕事もそうですし、日々の生活もそうでしょう。それらはよく「新たな刺激がないから」というニュアンスで原因を取り沙汰されるものですが、悲しいかな人生には、そうそう次から次へと新たな刺激など登場しないものなんです。倦怠期には、ある意味「ないものねだり」的な要素もあるように思えます。 現在もしくは「これから」の自分を思うとき、出逢った頃に感じた燃え上がるような情感を再び得られるのだろうか。馴れ合いとなりつつある状況下で、相手は果たして本当に自分のことを想いつづけてくれているのだろうか。そのような不安や疑念が、人の心に影を落とし、倦怠期の悪い側面を見せつけようとします。どうにか事態を打開したくとも、切っ掛けも手立てもなく、悶々としたなかで空気だけが濁っていく……それが倦怠期でしょう。 ここまで書けば、勘の良い方ならお分かりかと思います。倦怠期の背景には、過去の「良かった瞬間」のみを強調して思い出す心があって、それを未来に望もうとする願いがあるんです。そしてそこには、ふたりの関係において最も大切であるべき「過去の経緯」が、とかく忘れられがちだということです。もちろん「良かった瞬間」も過去の経緯には違いありませんが、それは一部分に過ぎないでしょう。それ以外の、いわば地道に積み重ねた関係、言い換えれば絆の深さに、意外と倦怠期においては気づかないもののように僕には思えます。 人は残念ながら、常に同じテンションで未来永劫活動しつづける生き物ではありません。時に沈み、時に浮かびあがりつつ、それを繰り返して生きていくものでしょう。恋愛関係も然りです。「付かず離れず」が理想だともききますが、なかなかそういう関係を構築するのも難しく、実際は微妙にくっついたり離れたりを繰り返すものでもあると思われます。 だからこそ、そのくっついたり離れたりしつつも関係が継続してきた理由を、倦怠期という時期にこそ考えるべきではないでしょうか。過去の良い瞬間だけをみず、苦楽をともに過ごした時間の流れを、じっくりと振り返る良い機会だとすら思います。慌ててはいけません、ないものねだりもいけません、自分にできること、相手がしてくれたこと、それらをゆっくりと自分のペースで熟考して、自分がいま置かれている状況を再確認してみることです。 倦怠期って、意外と幸せな瞬間かも……しれませんよ。 ----Information-------------------- 次回木曜日の更新より、四回にわたって今年を振り返ることにしたいと思います。方法をあれこれ考えたのですが、手許に日々のカウント集計がありますので、それに基づき、反響が大きかったものから四つを選び出し、現在思うところを番外編としてまとめてみることにします(準備の都合上、集計は11月末日現在で行いました)。 それを前に、総括を少々……。 ヲトナごっこで現在公開されているコラム総数は242篇。うち、昨年著したものが154篇ありますので、今年は88篇を公開したことになります。週に二回の更新頻度で、連休等を考慮しても、90篇以上は書けるかと思ったのですが届きませんでした。それでもまずまずの数字かと自分では感じています。 恋愛コラムとセックスコラムを、後半はできるだけバランスよく出したつもりなのですが、やはり前半に恋愛コラムに偏ったせいか、比率で恋愛コラムが半数に対し、セックスコラムは三割強ということになりました。 ところが、反響をランキングにしてみますと、上位20のなかで恋愛コラムは4篇に留まります。これは、単純にセックスコラムのほうがタイトルからくるアクセスが多いという理由であって、コラムのテーマや内容そのものを反映しているのではない気もするのですが、読者が関心を抱いている分野という点では、やはり重要な資料であろうと思っています。 されど僕としては、やはり恋愛コラムとセックスコラムのバランスをとりたいので(頑固ですみません)、ランキング上位4つということでなく、恋愛コラムから上位2つ、セックスコラムから上位2つを選び出すこととしました。 今年のヲトナごっこを振り返りつつ、ご高覧下さると嬉しく思います。
好むと好まざるとに関わらず、お互いが求め合ったときが生理中であったという経験は、ヲトナであれば誰もが一度は経験するのではないでしょうか。そのとき行為に及ぶ者もいれば、何らかの理由を手に避ける者もいる。果たしてその境目にあるものは……。 生理のときは、彼氏に逢うのも抵抗があるんです。そういう話を耳にしたことがありました。なんでも生理の際に「独特の匂い」を嗅ぎ取る能力を持つ恋人との経験があったようですが、人間の鼻って、そんなものまで嗅ぎ分けるのでしょうか。僕には到底及ばぬ世界です。 匂いはわかりませんが、それこそフェロモンとでもいうのか、女が発散する空気のようなものを感じることはあります。よく生理の前後には男が無性に欲しくなるという話も聞くのですが、そういうときの女の体からは、目に見えぬなにかが放射しているのかもしれませんね。ご注意ください……。 匂いやフェロモンはさておき、女が男を欲するサイクルというのは、おそらく生物学的には繁殖の頃合と合致するのではないでしょうか。いかにも論理的な物言いに聞こえるかもしれませんが、となると、話が少々食い違ってきます。それこそ排卵日前後に欲しくなるというなら理屈は通るのですが、多少なりとも妊娠の可能性が低い生理中ともなれば、その論理は当てはまらないからです。 ただ、これは僕の無茶な論理かもしれませんけど、生理というのは受精卵の着床を助ける子宮内壁の組織が、その役目を終えて体外へと排出される現象でもあるわけですから、ある意味では「次の受精卵を受け入れる準備をする」段階という見方もできるかと思います。だから男が欲しくなるというのも、どこか強引な気はするのですが、不思議であるだけに想像が広がる女体の神秘といったところでしょうか。 生理中のセックスには血液の放出を伴います。それを嫌がる人は、男女問わず多いかと推察しています。僕はそれほど気にしないほうですが、やはり「好んでやるものでもないでしょ」という気はしますね。けれど、男の中にはそれを好んでいる者もいるようです。 「生理中なら中出しできるから」という理由は、おそらく多くの男連中が口にしそうな理由だと思えるのですが、とんでもない間違いですよね。女性はよくご存知だと思いますけど、生理中だから妊娠しないという保証はどこにもありません。確立が低いというだけの話です。 思えば、いわゆる「性教育」の不徹底が、そのような間違いを生み出している気もしなくもありません。大人になってもなかなか真面目に性を語れないのですから、青年期にそれを求めるのも酷だといえるかもしれませんが、愛撫の方法なんかより遥か以前に学ばねばならないことでしょう。愛する者の体のことなのですから……。 僕自身、過去に幾度か生理中のセックスを経験したことがありますけど、概して「いつもより敏感に反応している」風に見えました。実際にその辺のことを言葉で交わした女性もいましたけど、特に生理前後に男の体を欲しくなる体質(?)の方は、体がそれを望んでいるからか、いつになく感じてしまうものなのかもしれません。そういえば、ペニスの先端で感じる子宮口の様子も、いつもより硬くなっていたかな……ま、気のせいかもしれませけどね。 生理のときにセックスをすると、「変な感じじゃなかった?」と相手に尋ねられます。無理もない問いかけかと思います。事実、いつもと同じだったとは言えませんから。日頃から愛液の多い人なら意外とそうでもないのかもしれないとか、妙な想像をしてしまうのですが、やはりヴァギナ内にいつも以上に液体状のものがあれば、摩擦係数が低くなるのは当然の話でしょう。 だからといって、「気持ち悪かった」とか「ぜんぜん感じなかった」なんてことはありません。もちろん個人差はあるかと思いますけど、そういう心配は無用かと思います。むしろ僕の場合は、いつになく感じている相手の姿に、やはり平素とは異なる刺激を覚えているといったほうが適当でしょう。セックスはペニスだけでしているのではないんです。どうぞご安心ください。 セックスとは、相互理解だという気がします。お互いをより深く知る機会でもあるわけです。そういう意味では、生理を理由にセックスを拒むか或いは行うかも、一対一という関係のなかで正面から話すべき事柄ではないでしょうか。男に女の体の仕組みを知ってもらう、またとない機会だとも思えます。 無知ほど怖いものはありませんよ。生理の仕組みを知らない男、妊娠のシステムを知らない男というのは、驚くほど多いのが実情であろうと僕は想像しています。彼らと上手に愛を交わしていく意味でも、生理中のセックスは、いい題材ではないでしょうか。
女を求める男がいて、男を求める女がいれば、そこに出逢いという瞬間が巡ってくるのは自然なことなのかもしれません。フィールドがない時代ならまだしも、ネットという不特定多数の男女が屯する世界が身近になった今、出逢いは天文学的数字で日々繰り返されていることでしょう。 どうも出逢い系という言葉に僕は抵抗があるというか、特化するのが間違っているように思えてならないのですが、そもそもネットにコミュニケーションツールとしての特性があることを思えば、このウェブ世界はあらゆる場所に出逢いの要素が隠されているに違いありません。もちろん、出逢い系サイトはその目的を明確にした場には相違ないのですが、それだけをとって出逢いを語るのもどうかと思えるんです。 とはいっても、久しく世話になっていませんが、僕もいわゆる出逢い系サイトを利用した経験があります。それが縁でお付き合いした方も過去にいました。おしなべて、心に風穴を持つ方がほとんどだったように思えますし、到底遊び人という印象は僕のなかに残っていないのですが、それだけに、出逢い系という言葉から一般の方々が連想されるであろう世界に、少々拒絶反応を示してしまう僕でもあります。 僕の場合は、ある考えのもとに、闇雲に出逢い系サイトに登録している女性にメールするということはしませんでした。僕自身が登録時にできるだけ自分を正確に伝えられるメッセージを掲載し、あとはそれを読んで反応してくれるのをひたすら待っていた感じです。僕から先にメールした経験は、ほとんど皆無といっても過言ではないでしょう。 ですから、やり取りはそう頻繁であったとも思えません。けれど、一回の文章掲載で数名の方からメールを頂いておりましたし、返信を数回繰り返すとやはり徐々に絞られてくるというか、フィーリングがあう相手が残るものだなと実感もしました。まあ、現在続いていないということは、それらは長続きしないということにもなろうかと思えるのですが……。 その場限りの接点を求めるならば、出逢い系サイトも悪くない気がします。しかし長い付き合いというか、より深く人間の核心に触れたいと考えているのであれば、僕はあの手のサイトは無意味であるとすら思っています。切っ掛けは必要でしょというご意見もあろうかと思いますが、いかんせん軽い輩が群れている状況では、切っ掛けも何もあったものではないでしょう。 さりとて、そういう男女を批難しきれないのも、現在のネット事情というものかもしれません。僕自身も充分にそういう経験をし行動もしてきたのかもしれませんが、やはりネットが持つ匿名性の世界には、どこか人の心の奥底を露呈しやすい環境があるのだと思えます。問題なのは、匿名性の世界で精神を解放できても、現実に「逢う」となるとそう簡単には自己を解放できないということでしょう。当たり前の話なんですけどね……。 ところがその「当たり前のこと」に気づいていない人たちが、出逢い系には意外と多くいるのではないでしょうか。言い換えると、ネットという特殊な世界での自分の存在と、現実世界での自分自身とを上手に繋ぎ合わせることができないということになろうかと思います。 ネットという世界は、とにかく人と人とを短時間で結びつけます。利便性も大きいでしょうけど、やはり匿名性であるということ、実生活のしがらみがないということが、そんな現象を生んでいるように僕にはみえます。ところが実際に逢うとなれば、そこには少なからず自身の人生や生活が関与してきます。ウェブで思い通りになっていたことも、ひとたび逢うという行為の前では、そう易々とはいかないということです。 出逢い系を軸としたトラブルが社会を賑わすことも少なくありませんが、そんな光景をみるにつけ、人の心の弱さというか、ネットという道具に振り回されている人間の悲しさをみる思いがするものです。 個人サイト(ウェブ日記等の単一コンテンツも含む)を通じた出逢いというものを経験された方も、おそらく少なくないかと思います。僕自身幾度となくそういう経験をしてきていますが、出逢い系に比べて遥かに素敵で実があるとも感じています。 何より、その人をじっくりと観察することができます。個人サイトの主旨によってさまざまではあるでしょうが、文字であれ写真であれ、また音楽であっても、そこに展開される管理者の世界に触れることで、かなり多くの人間的情報を得られることでしょう。 惜しむらくは、彼らすべてが出逢いを目的としてウェブコンテンツを制作しているわけではないという点でしょうか。恋愛関係や性的関係に関わらず、人と人とが出逢えばそれは出逢いでしょうと思えるならば、僕の意図するところも容易に想像できるかと思えるのですが、そのような人たちばかりとは限りませんからね。 けれど僕は、いわゆる出逢い系サイトの掲示板等を通じた関係よりも、そういった個人サイトを経てのもののほうが、遥かに人間と人間との付き合いに近いように感じますし、そこに男女の恋愛感情の芽が潜んでいないとも言い切れない気がしているんです。目的は別として、切っ掛けとしての場がある限りは、そこに可能性もあって不思議はないということです。 ネットが秘めた力には、じつに凄まじいものがあります。それをここで事細かに論ずるのは無理がありますし、僕にできるかどうかもわかりません。けれどその実力のほどは、実際にネットを利用している人ひとりひとりが、それぞれの形で実感されていることでしょう。 そんななかから、素敵な出逢いが生まれますことを、心よりお祈りしております。
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