ヲトナの普段着

2003年11月27日(木) デジカメでエッチな写真を

 猿が木の枝を道具に使ったことから人類は始まったという人もいるようですが、道具に人間の文化を変える力があることは、誰もが認めるところでしょう。良い文化を生み出すこともあれば、悪しき文化を作り出してしまうこともある。人と道具とは、切れない関係にあるもののようです。
 
 
 デジタルカメラ、いわゆるデジカメが世に出てから、おそらく多くの場面で人の生活に微妙な変化が生じてきたことと思います。フィルムを使わず楽しめる撮像の世界。パソコンという道具と連携した機能。それらはそれまでの銀塩カメラにはない新しい道具を認識させ、人の心の奥底に眠っていたものを呼び覚ます力も秘めていたようです。
 
 現在僕が手にしているデジカメは、数えること三台目となります。携帯電話についているカメラをデジカメと呼ぶかは議論があるところでしょうが、それを含めず三台という計算です。最初に手にしたデジカメはもう壊れてありませんが、二台目のものは、一ヵ月半前に手にした三台目となるデジタル一眼レフとともに、いまも現役で活躍しています。
 
 それら三台のデジカメ共通の被写体があります。いわずと知れた本日の本題、エッチな写真です。恋人のヌード写真(もちろん本人承諾の上です)だけでなく、自身のヌードも幾度か撮ってきました。振り返れば、デジカメを手にする以前にも、女の裸体を写真に納めたい衝動というのはあった気がします。それがデジカメという道具の出現によって実現し、僕のなかの性描写に関する認識を、いま徐々に変えようとしているわけです。
 
 
 暗室を持っていれば話は別ですが、銀塩で女の裸体を撮れば、それを写真としてみるにはどこかの写真店へと持ち込まねばなりません。プロカメラマンや芸術を心底理解する環境であるならまだしも、一般的にはやはり憚られる行為でしょう。僕自身、それは恥ずかしくて到底できませんでした。
 
 環境が人を変えるとよく言いますが、いわば自分で撮影して自分で現像できる道具ともいえるデジカメを手にしたことで、僕は見る側から撮る側への意識変革を、いつのまにかしてきたのかもしれません。それまで一生懸命みていたモロ画像やモロ動画に興味がなくなり、自分が実際に写してみてはじめて気づいた「肉体の美」を、どこか芸術と重ね合わせてみるようになってきました。
 
 その背景には、ヴァギナや自分のペニスを写真に記録してみたり、果ては女と交わっていわゆる「ハメ撮り」を経験したなかから、徐々に「意外とつまらないもんだな」という「実感」を手にしたことが大きかったのだと思い返されます。秘部にこだわるよりも、柔らかくカーブを描く女の体に流れる影を追い、それを写真に写しこむほうがより深く僕を満足させるようになってきたんです。つまり、写すことによって、僕の中の裸体写真への見方も変化してきたといえるでしょう。
 
 
 これは、テレビの歌番組がなぜなくなったかという理屈に似ている気がします。僕の論理でしかありませんが、カラオケの出現と普及がその主原因であろうと感じています。カラオケが一般に広まり、通信カラオケによって曲数が無制限に近いほど増えて、いまや宴会といえばカラオケはセットのような存在にもなってきました。次から次へとカラオケにあわせて歌うことによって、人々の意識のなかでは、「聴く」楽しみが「歌う」楽しみへと変化していったのではないでしょうか。その結果、テレビの歌番組は廃れてしまったと、そう僕は感じています。
 
 そのような意識改革というのは、じつは生きているとさまざまな場面で遭遇するものなのですが、意外と無意識のうちに過ぎてしまっていることが多いようです。例えば結婚もそうかもしれませんね。結婚といういわば契約を結ぶことによって、男と女の意識には微妙な変化が生まれるはずです。結婚した途端に夫が暴力を奮うようになったとか、結婚した途端に愛情が薄れたという話は珍しくもないでしょう。
 
 デジカメからは少々離れますが、ネットという世界の出現も、やはり人々の性認識に大きな変化を及ぼしたと実感しています。ネットを介して出逢い交わる男女の多くは、おそらくネットがなければそのような性生活は経験しなかったのではないでしょうか。潜在的に男にも女にも、性に対するオープンな願望はあったのだと思いますが、それを顕著にし行動へと変化させたのがネットであるといっても過言ではない気がします。
 
 
 環境によって人が変化するのは、これは仕方がないことなのだと思います。道具を生み出すのが人間の文明というものであって、その文明の恩恵に預かるのが文化なのですから、デジカメの登場が男女問わず裸体描写に対する認識を変化させても、なんの不思議もないでしょう。
 
 デジカメでエッチな写真を撮ることを、僕は恥ずかしいとかいやらしいとか悪いことのようには思っていません。むしろ、写真というものを通して真実の姿を客観的にみることの大切さ、それによって自身におこる変化に気づくことのほうが、僕は遥かに人生においては重要である気がしているほどです。
 
 恋人が写真を撮りたいと言ったら、少々恥ずかしくても撮らせてあげるといいですよ。そして事のついででもありませんが、相手の写真も撮ってみてください。おまり大袈裟な物言いはしたくありませんが、そこから新たな何かがみえてくるかも……しれません。



2003年11月25日(火) 尊重と無関心 /恋人とのスタンス

 恋は盲目という言葉があります。あばたもえくぼ、恋に落ちると相手のすべてが素晴らしく見えてしまうものかもしれませんね。そんな素敵な恋人と自分との間に、ふたりを繋ぐ一本の線が見えてくるのも恋というものでしょう。ところがそれはときに、いけない盲目へと繋がってゆくんです。
 
 
 恋をすると盲目になるのは、心の中に理性をもしのぐ欲求が芽生えるからに他なりません。それは自己をより深くしって欲しいと望み、相手をより微細にしりたいと思い、果てにはふたつの心と肉体をもって唯一の存在にまで高めようとするもののようにも思えます。独占欲や嫉妬心は人間として誰もが持つ性質に違いありませんが、それを顕著にするのも恋の魔法なのかもしれませんね。
 
 人と人とを繋ぐ糸や線というものを大切に考えることは、僕はとても素晴らしいことだと思います。恋人ができると、相手との間にくっきりと一本の線がみえてくる。はじめはその線が光り輝いてみえていたのに、いつからか気づくとその線以外の線がみえないほどに、目の前には一本の線だけが存在を誇示するようになり、やがては線が線でなくなってくる……。
 
 そうなると、人は相手の行動が自分以外のものと結びつくことを嫌うようになるでしょう。他の線の存在を認めなくなるんです。これが嫉妬であり、独占欲であろうと僕は思います。けれど、それでふたりが気持ちよく幸せへの道を歩めるなら問題ないのですが、世の中とは得てしてそのようにはできていないものなんです。
 
 
 僕がウェブで書き物をするようになったのは、五年半ほど前のことでした。以来さまざまなジャンルで文章を書き現在に至っているわけですが、その過程にあって、恋人の存在が物書きの妨げになりかけたことが幾度かありました。著作に費やす時間を私に向けて欲しい、などという台詞を聞いたことこそありませんけれど、僕の文章に過去の女の影をみるのが嫌だとか、ウェブを通じて見知らぬ人たちと言葉を交わす姿をみたくないと言われたことはあります。
 
 気持ちはわからなくもありませんが、悲しいかな僕という男は、自分が進む道に立ちはだかるものは、たとえ恋人であろうと排除する性質を持っています。いわば冷たい男かもしれません。僕自身のなかでは、それだけ創作という行為に情熱も人生も注いでいるんだという自負があるのですが、そんなものはなかなか理解もされないでしょう。恋は盲目ですから……。
 
 さりとて、恋人に冷たいかというと、「これほど恋人に優しい男もそうそういないよ」と言葉にこそしませんが自分では思っています。ふたりのために用意した時間にあっては、およそ「世界には君と僕しかいないんだ」なんて口が浮いて天に昇るような台詞こそはきませんが、僕の視界からは彼女以外の女は消え去ってしまいます。ある種、没頭するタイプかもしれません。
 
 そのバランスというか、僕の中での割り振りは、なかなか相手には理解しにくいものがあるのでしょうね。一緒にいるときはとろけるような時間に包まれていても、離れて各々の生活に入ると、ときに釣れない態度もとります。理由は一応説明しますし、僕の姿勢も言葉では伝えますけど、それが相手に理解されているかは別問題かもしれません。ただ僕の中には、そういう僕の人間関係におけるスタンスの存在を、せめて恋人ならわかって欲しいという願いもあるにはあるんですけどね……。
 
 
 若い頃から、僕は「他人に無関心なやつだ」といわれてきました。自己中心的だとか、わがままだとか、そういうニュアンスではなく、隣の人がなにをしていようが気にしないという意味での無関心です。それは兄弟に対しても同様でして、以前はよく妻に「せめて兄弟に対してくらいは、もっと関心持ちなさいよ」と諭されたこともありました。それほど無関心なんです。
 
 僕自身はそういう自分の性格を、「相手の人格を尊重してるからだ」と応えることにしているのですが、正直いうと、そこまで昇りつめているわけでもありません。ただいえるのは、僕は自分の存在を尊重して欲しいと常に願っています。自己顕示欲というものではなく、僕は僕なんだという周囲からの認識です。自分に対してそれを求めるならば、相手に対してもそう接するべきであろうと、僕はそう考えます。
 
 ですから、僕はたとえ恋人であろうとも、むやみやたらと心の中に土足で踏み込んだり、僕が関与しない生活や人生に物申すなどという行動には出ないんです。そしてそれは、僕自身に対してもそうして欲しくないという、無言のメッセージでもあるのかもしれません。
 
 
 いつでもどこでもべたべたしているだけが恋愛であるとは、僕には到底思えません。確かに離れているときに恋人を想うことはあります。それは当然でしょう。恋しているのですから。されどそんな想いのなかにも、自分と相手とのスタンスを常に意識している僕がいるのは事実です。
 
 それを「盲目ではなくコントロールできている状態」と呼ぶのかどうかは、率直なところ僕にもわからないのですが、恋人だけの自分の人生ではない、しいては、妻や子供たちだけの僕の人生ではないという想いへも繋がっている気がしています。そのスタンスを、距離感を、本当に大切にできる人とは、やはりお付き合いしていても心地いいですね。



2003年11月20日(木) 女は顔が命 /イク刹那にみるもの

 セックスで頂点に達するその瞬間、人は何をみているのでしょうか。累々と受け継がれた生命の起源を想う人などまずいないと確信できるのですが、目に映るもの、脳裏をよこぎるもの、それはどのような姿をしているのでしょうか。
 
 
 男は視覚で奮い立ち、女は想像の世界に濡れる。以前オナニーのネタについて書いた際にも、そのような視点で性の違いを考えたことがあったのですが、視覚で燃える男のなかにも、タイプは幾つかあるように思えます。つまりオナニーで射精するとき、男は女のどこをみているかという分類です。
 
 ウェブのアダルトコンテンツには、オナネタとなるものがおよそ無限大かとも思える量で展開されています。写真から動画、そしてライブ映像と、視覚を刺激するエッチネタには事欠かないのがウェブ世界でもあるでしょう。僕自身これまで、さまざまなソースをみて、その世界で活動する女たちとも言葉を交わしてきました。意外と数多く聞かれたのが、「男の人ってヴァギナとかすぐに見たがるし、見せてればそれでいいんでしょ」という類の発言でしょうか。当たらずも遠からじ、とは思いますけど……そう簡単に言われる男も悲しいなとも思います。
 
 確かにヴァギナには不思議な魅力があります。これまで幾つのソレをみてきたなどと数えたこともないからわかりませんが、確かに固有の形態を持ち、「目は口ほどにものを言う」でもありませんけれど、ヴァギナに連想される女の姿というものはあるのだと実感しています。だからといって、ヴァギナだけみてれば満足するというものではないでしょう。少なくとも僕は、オナニーのその最後の瞬間に、ヴァギナを連想することはまずありません。
 
 
 いよいよイクぞという瞬間には、僕は女の顔をみるのが大好きです。理由は幾つか思い当たります。快楽に酔いしれている女の顔を美しいと感じ、そこに言い知れぬ妖艶をみるからだとも思いますし、実際にセックスしているような視線、つまりは正常位で女の顔をみながら射精する瞬間と重ねている気もします。悶絶するその表情が、自身の愛撫や性技によるものだという自負心も、そこには隠されているかもしれませんね。
 
 いずれにしても僕は、ヴァギナや乳首をみて射精するようなことはありません。皆無とはいいませんが、好んでしないということです。もちろんその過程には、体の隅々まで味わいつくす時間があるわけですが、最後の最後は、快感を露骨に浮かべる女の顔がいいですね。そう、セックスに際しては、女は顔が命だとすら僕は思います。
 
 しかしそういう男がいる一方で、秘部にこだわる男がいるのも事実でしょう。まさか自分が挿入している最中に相手のヴァギナを覗き込もうとするとは思えませんが、目を閉じてそっとヴァギナに自身のペニスが挿入されているシーンを思い描いているかもしれません。恋人が挿入時に目を閉じていると気づいたら……それを疑ってみるのも一興かもしれませんね。責任は持ちませんけれど。
 
 ヴァギナはペニスを受け入れ、乳首や胸は男を包み込む、そして顔は、男にすべてを許したことを教える最後の砦でもあるのでしょう。僕の記憶には覚えがないのですが、ですから無表情な女とのセックスは、とても味気ないように想像してしまいます。アダルト動画でそういう女を見かけた記憶はあります。やはり僕のペニスに反応はありませんでしたね。
 
 
 さて、想像の世界に濡れる女という生き物は、はたして最後のその瞬間になにを思い浮かべるのでしょうか。自分が男であるだけに、そこのところは大きな謎です。あまり目を見開いている女の絵というのにお目にかかったことがないのですが、なかには男の生態を観察しつつ果てる女もいるのでしょうね。
 
 きっと多くは、あまり意識してないという返答になるかと想像しています。感覚の世界に身を委ねる女だからこそ、絵的なものにこだわらないという気もしますし、本当にイクときには、そんなものに構ってられるかという方もいらっしゃるでしょう。なりふり構わぬ最後の姿を目の当たりにすると、それも真なりと思えるものです。男の立場の言い分ですけどね。
 
 ただもしかすると、想像の賜物だけに、男以上に露骨な姿を想像しているという可能性もあるかと思いもします。それこそいきり立つペニスが脳裏をよぎったり、普段では思いも寄らない自分の淫らな姿に想いを馳せたり、およそその場のセックスからは想像つかない世界にいるのかもしれませんね。それも想像でしかないのですが……。
 
 
 人形は顔が命と詠ったCMがかつてありました。それは人形の美しさを形容したものなのでしょうが、女が見せる刹那の顔の表情には、美しさを超越した何かが潜んでいるように僕には思えます。言葉や態度では表現しきれない心と体の奥底に眠る何かが、女の顔を通じて何かを訴えているようにもみえるんです。
 
 ですから、枕で顔を隠したりはしないでください……お願いします。


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ヒロイ