| 2003年10月27日(月) |
わがままな男への対処法 |
外面と内面の異なる男というのは結構多くいるようで、家庭内での傍若無人な振る舞いに嫌気がさしている妻族も、決して少なくないのがいまの世というものでしょう。わがままな夫をコントロールできずにいる方々に、今日はヒントを差し上げましょう。 妻にレイプまがいのセックスを行う。SMを強要する。自分は外で何をやってるかわからぬくせに、妻には外に出るなと釘を刺す……。 これまでもコラムで書いてきた男の非道さの数々ではありますが、彼らにはおそらく共通する性質があるように僕には感じられます。それは、精神的に幼いということです。自己の理性をコントロールできない。欲しいものは力ずくで手にするくせに、手にしたものが逃げ出すのが怖い。これらはいずれも、幼い子供によくある状況に似ているように思えるんです。 夫の非道に悩む女の声に耳を傾けていると、じつに夫のことを考えて深く悩んでいることに気づきます。けれど、男とは概して、そんなに複雑な生き物ではないんです。男は直感で生き、女は論理で生きるという見方がありますが、そういう非論理的な生き物である男に論理を適用しようと思っても、うまくいく道理がありません。あまり考えすぎないほうが賢明でしょう。 さりとて、いわば男の暴力ともいえる状況に甘んじているだけでは、女としての幸福もままならず、なにか手を打たねばならないということになるわけですが、これからお話しするふたつのヒントを軸に、もう一度男というものを再考し、「術」を試みてみてはいかがでしょうか……。 前述したように、男のなかには、どこか幼子に似た心理があるものです。「子供だな」と感じたならば、まずは彼のそこを突く方法を見つけてみましょう。おそらく多くの場合、夫の非道な行為に拒否反応を示したり、「こうして欲しい」と要求をぶつける方がほとんどではないでしょうか。それ、駄目です。絶対に男は言うことをききません。 ディベートというほどのものでもありませんが、僕が最も苦手とする妻の攻撃は、「どうしてわかってくれないの?」と疑問符をストレートに投げかけられることです。自分の弱点を曝してどうするという気もするのですが、これが実は最も効果がある方法のように僕には思えるんです。ディベートの基本は、相手がどう出てくるかを予測することであると同時に、相手が反論できない道を見つけ出すことに他ならないでしょう。 男の心が子供であればあるほど、疑問符を投げかけられると返答に窮するはずです。ただし、疑問符なら何でも良いというわけではありませんよ。「どうしてそんなことするの?」なんて問いただした日には、彼は自分が思うところをずばずばと論じまくることでしょう。自分のことしか考えない夫だからこそ、目の前にいる妻の心など読めるはずがないんです。つまり、疑問符は常に「どうして私の気持ちがわからないの?」という論旨に沿うものとすべきです。 返答に窮するとどうなるか。そこで沈黙が生まれます。その間隙をついてはいけませんよ。そこで彼に時間を与えることです。なぜなら、疑問符を投げる最大の目的は、彼に考えさせる姿勢を持たせることなのですから。答えを妻が提示してもいけません。どんな答えであっても、必ず夫にそれを出させる。そうなるように疑問符を繰り返し投げるんです。 通用しない男もいるかと思われます。けれど、一度は愛し合って夫婦となったのですから、心の底から涙と共に振り絞る疑問符の一撃は、きっと夫の心に隙間を作ってくれることでしょう。何を隠そうこの僕も、遠い過去にそういう思い出がありますからね……。その隙間を、どうぞ大切にしてあげてください。 もうひとつ、男を上手に転がすヒントをお教えします。それは「アメとムチ」です。実はこれこそ、子供を育てていく上で忘れてはならない「バランス」であると僕は思うのですが、それを大人である夫にも適用できるということに気づいて欲しいですね。 じつはこの理屈は、前述の疑問符とそう大差ないんです。男というのはどこかプライドの強いところがありまして、わがままであればあるほど、それが自分以外の価値観を拒否しようとします。言い換えると、外部、つまり妻からの言葉に対して、わがままな夫の心には強大な防御線が張られていると考えても間違いではないでしょう。それを上手に利用するんです。 「アメ」とはいわば「褒めること」です。「行為を認める」と解釈しても結構でしょう。非道といえども、どこかにひとつやふたつは良い所があるでしょ。それを認めてあげることです。自身を認めて貰えることで、彼の防御線に少しの隙間ができると思います。そこを「ムチ」で突くんです。 手法としては逆でもいいかと思えます。以前ある女性にお話ししたことがあるのですが、アナルセックスを強要する夫に対して「アナルだけは絶対に嫌なの、でもあなたのことを愛しているしあなたの気持ちもよくわかるから、もっと別の愛し方で私を気持ちよくして」という具合に話をもっていくよう提案してみました。彼女が実際にそうしたかどうかはわからないのですが、要はそういう風に否定と肯定のバランスをとるということです。 立つ瀬がない、という言葉があります。男をこの状態へ持っていってはいけません。それは決して男を立てるとか、女が退くということではなくて、相互のバランスを考慮しつつ、男を窮地に追い込むことだけはしてはいけないということです。 男の僕がいうのも妙ですが、僕は男よりも女のほうが賢い生き物だと思っています。男なんて単純なものです。褒めれば喜び侮辱すれば怒る。ただそれだけの生き物です。褒めると慎重になり侮辱すると謙虚になる生き物とは違うんです。そこを忘れないことです。 女は賢く生きてください。そして男を上手に手の平に載せ、共に幸福の道を歩んでください。されど僕のアドバイスを実行して失敗しても、責任を当方に持ち込まないでください……おねがいします。賢き女に幸あらんことを。
| 2003年10月23日(木) |
オナネタの違いで学ぶ男と女 |
オナニーを手伝うネタに何を選ぶかは、男もそれぞれ女もそれぞれという所がありそうにも思えるのですが、概して、そこには男女の性の違いによる背景が潜んでいる気がします。オナネタを考えることは、男女を理解するに好都合なんです。 僕がこのヲトナごっこを始めた衝動は、世にアダルトサイトは数あれど、そのなかに大人の女性が愉しめるサイトが少ないのはなぜだろう、という辺りからでした。アダルトというとどこかいけないもののように捉えられがちですが、成人に達すれば楽しんでも誰も文句を言わないコンテンツなのに、三十四十を越えたいい大人がこそこそ見るのは変ですよね。堂々ととは言いませんが、ごく普通に一般のコンテンツと同じように愉しめる世界であっていいはずです。 男だからとか、女だからとかという物言いは、僕はあまり好きではありません。男だからアダルトが好き。女だからアダルトを見るのはおかしい。そういう物事の判断は、どうも僕の性格に馴染みませんし、それが前述した「大人の女性が愉しめるアダルトコンテンツ」の疑問へと繋がっていったのだと思います。 それともうひとつ、かつて僕は某アダルト動画配信サイトのお手伝いをやっていたことがあったのですが、その頃やはり、どうして女性の客が少ないのだろうかと不思議でなりませんでした。いま思えば馬鹿馬鹿しい気もするのですが、男連中がこれほど寄り付いてくる動画の世界を、女だってきっと好きであるに違いないと、当時の僕は本気で思っていたんです。それはおそらく、まだ気づかぬ世の多くの男連中の意識でもあろうかと推察してもいます。 ヲトナごっこを開設して、さまざまな女性から話をきくことができました。当初、僕が女性に寄せる質問はいつも同じで、「アダルト動画は好きですか?」とか「オナニーのネタは何ですか?」という類のものでした。そうストレートに訊いたわけでもありませんが、サイトの性格を理解してくれた女性たちは、割と忌憚の無い言葉を返してくれた記憶があります。 冒頭で書いたように、男といえども、女といえども、それをひとまとめに括って論ずることなど無理に違いないのですが、概して「男は視覚に遊び、女は想像に戯れる」傾向が強いように感じています。わかりやすく言えば、男はアダルトビデオをみてオナニーをし、女は官能小説の世界に身を委ねる、という感じでしょうか。男は直感的かつ即物的であって、女は感覚的かつ精神的であるという言い方もできるかと思えます。 その違いの主因をどこに求めるかも、また難しい気はするのですが、ひとつの拠り所として、生き物としての生殖活動にそれをみるのも間違っていないかもしれません。つまり、男は種を撒いて己の種を存続させることを目的に生き、女は胎内に芽生えた生命を大切に育むことを目的とするという考え方です。 種を撒く行為は、極めて即物的です。その為には、あれこれ面倒な回り道などせず、視覚や聴覚という直感的な刺激によって精子を目一杯生産し、それを次から次へと種の存続のために放出することが肝要でしょう。一方女性は、胎内で受精した生命を育てる際に、少しずつ自身の胎内で成長する我が子の将来に思いを馳せます。父親よりも母親のほうが子供への愛着が強いとよく言われますが、その背景には、自分の胎内から生まれ出たという事実以外にも、そのプロセスにおける小さな生命への思いいれもあるのではないでしょうか。それはどこか感覚的であって、やはり精神的な面が大きいもののように僕には思えます。 このようなコラムを書くようになって、折に触れてトラブルの相談などにも耳を傾けているわけですが、いつも思うのは、その辺の男と女の性に対する認識の違いが、トラブルの背景には見え隠れしているということでしょうか。話をきけばとても単純な違いのように思えるでしょうが、それが現実に目の前にあると、なかなか背後が見えてこないのが当事者というものなのかもしれません。 何をネタにオナニーするかということを、くだらぬ低俗な話だなどと思わず、一度恋人なり夫婦なりで話あってみると面白いかもしれませんね。そこにはきっと、男と女の違いが歴然と見えてくるはずです。違いを知るというのは、とても大切なことなんです。男と女が違うのは当り前だろう、などと思ってはいけませんよ。その当り前を具体的に認識できていないから、さまざまな食い違いが生じるわけですからね。 そしてその違いが、愛撫や性行為そのものの違いにも結びついていることが見えてくれば、ある意味で打開の道も開ける気がします。男に己の直感的かつ即物的な姿を認識させ、女はまるで違う感覚を持っていることを知らしめることができれば、互いの感性を融和させつつ展開する次のステージも、そう遠くないのではないでしょうか。
| 2003年10月20日(月) |
自分を変えたい人々へ |
このようなコラムを書いていると、あたかも人生相談のようなお手紙を頂くことがあります。とりわけ、自分自身への嫌悪を覚えている方は少なくないようで、「変われるかしら」と訊ねられる毎に、僕はいつも「変われます」とお答えしています。 生まれ変わりたい、やり直したい、人生にはとかくそういう想いがつき物です。人の心には常に主観が付きまとい、思うに任せない状況を望み叶わずと判断するからなのでしょう。しかし残念というか無情というか、時間というものは逆戻りするどころか、その歩みを留めることすらしてはくれません。思い通りに運ばない人生のなかで、手をこまねいて時間の流れだけをただ見つめている人は、決して少なくないんです。 さりとて、誰もがそれに甘んじているわけでもないでしょう。その状況から脱して、一見何の変化もないように見えても、それまでとはまるで異なる幸せな人生を歩む人も、この世には数多くいます。幸福より不幸を望む者などいないはずです。誰もが幸せを求め、ただその一点のみを目指して歩くのが人生だともいえる気がします。 そのためには、納得しきれない現状から抜け出すには、やはり自分自身を変えなければならないと、そう考えている人も多いことでしょう。ところが、生まれながら体の隅々にまで染み付いている自分の性格というものを、果たして本当に変えられるものだろうか。そこで悩んでしまい、先へと進めない、あるいは進む先を見つけられないでいる方を僕はよく見かけます。 十数年ぶりの旧友との再会。僕の中学卒業時のクラス会は二年に一度くらいのペースで行われているのですが、毎回参加する旧友とは別に、およそ卒業以来ではなかろうかと思えるほど久しぶりに再会する仲間がたまにいます。なかには、とても中学時代からは想像できないくらいに、大きな変貌を遂げた友人もいるんです。 彼らと言葉を交わすと、大方はあれこれ考えるのが面倒になったというような、多少投げやりな返答がきかれるものですが、酒の席でのことですので、その言葉の裏には相当の葛藤があったであろうといつも拝察しています。けれど、ぼそっと口にした「面倒になった」という言葉の裏側に、じつは「人は変われるんだ」という確信への道筋が隠されているもののように僕には思えてなりません。 まず基本を考えてみましょう。本当の自分の姿です。多くの人たちは、おそらくなにがしかの「しがらみ」のなかで、自分というものを少なからず繕って生きているはずです。自分が所属する環境やグループに適合できるように、自分自身を合わせているといってもいいでしょう。それが本来の自分に極めて近い姿であるならば、誰も悩んだりはしないはずです。異なるから悩みもするし、どうにかしたいと思うのではないでしょうか。 変われるか否かを考える以前に、まずは本当の自分というものをどれだけ正確に把握しているかを見極めて欲しいと思います。大抵は「嫌な奴ですよ」という答えが返ってきそうに思えるのですが、謙遜か理想が高いのかしりませんが、好きであろうが嫌いであろうが、世界でただひとつ確実であり唯一でもある自分という存在から目を背けてしまっては、よりよき人生の道など見つかる道理がありません。 嫌な奴だからそのまま表現したら嫌われるに決まってる。おそらくは、これが「変われない」と思う原因の核心ではないでしょうか。これまでも幾度か書いてきたことですけれど、好きか嫌いかを判断するのはあなた自身ではなく、あなたを取巻く周囲の人たちのはずです。それなのに、「わたしはピーマンが嫌いだから、あなたもきっと嫌いでしょ」と言い張っている。馬鹿らしいとは思いませんか……。 自分を見極めることがなぜ大切なのか。それは、自分を最も理解できる人間が、自分自身でしかないからです。自分以上に自分を理解できる人間など、残念ながらこの世には存在しません。であるならば、最も理解できる自分自身で、本当の自分というものをしっかりと認識してあげなければいけないでしょう。 そして、決して畏れることなく、ありのままの自分を表現してみて欲しいと思います。それはときに、あなたの隣人に嫌な思いをさせることもあるでしょう。けれど、所詮人間は、どこかで支えあって生きていかねば生きられないんです。至らない点があればそれを優しく補おうとする気持ちこそが、僕は愛というものではなかろうかと考えています。さらには、そうやってありのままのあなたを受け入れてくれる人こそが、あなたを本当の幸福へと導いてくれる人であろうとも思えます。 変わろうとするのではなく、本当の自分に戻ればいいんです。下手な理想を夢想し、自分らしくない姿へと変身することが幸福への道であるとは、僕には到底思えません。それは周囲を偽るだけでなく、自分自身をも偽ることになるのですからね。 さらに付け加えれば、本当のありのままの自分を曝け出せないということは、それだけあなたの隣人を信用していないという理屈にもなるでしょう。とても失礼な話ですよね。 僕は女性の素顔が好きです。化粧をしていない顔という意味ではないですよ。言葉を交わしていると、心のなかが見通せるような女性です。誰にでも一長一短ありますので、なかには気に食わない心を持つ人もいるにはいます。それでも、僕はそういう女性を素晴らしいと思います。反面、心が見通せない人は駄目ですね。つまらぬこだわりに縛られて、実にもったいないと感じてしまいます。 人間は十人十色です。いい所もあれば悪い所もある。けれどそれが、その人の個性へと繋がるんです。個性は意図的に作られたものではなく、その人本来の姿であるべきでしょう。是非ともそんな本来の自分の姿を、見極めて表現できるようになってください。そうすれば自ずと、「なんか最近変わったね」と周囲に言われるようになることでしょう。 それがきっと、あなたの幸せの道に繋がっているはずですよ。
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