無くて七癖という言葉があります。どれほど癖のない人のように見えても、七つくらいは癖があるものだという意味ですが、いかに無さそうにみえてもあるのが男の下心というやつかもしれません。けれど、それが無くなる岐路が男の心にはあるんです。 およそ僕が知る範囲の男のなかには、ひとりとして女に対する下心がないと感じられた男はいません。そういう奴らとばかり付き合っているからだ、などと言われそうですが、男の本能には潜在的に女を狙うなにかがあって、表面に出ようが出まいがそれは下心として存在しているのだと僕には思えます。 かくいう僕にも、下心は常に付きまとっています。明らかにフィーリングが異なる女相手にはないかもしれませんが、恋愛意識以前の段階ですでに、僕の中には何らかの形で多かれ少なかれ下心はあると自覚しているんです。 けれど、それが表面に出ることはそう多くありません。自制心というものを理由に挙げる方もおれらるかもしれませんが、そうではなくて、僕の中で別の視点での「線引き」がされているような気がするんです。つまり、下心を伝えたほうがいいか、あるいはそうでないか、という線引きです。 妙な喩え話になりますが、かつて仲間たちと、温泉場や海外を遊び歩きながら、さまざまな色里を見てきました。はじめのうちは、気に入った女とセックスすることに強い関心を抱き、宴会といえば単なるコンパニオンよりは夜の相手もしてくれる手合いを選んでいたものです。しかしある時期から、そういう選択よりもコンパニオンとじっくり楽しむことを選ぶようになったんです。 女とホテルにしけこむよりは、仲間と一緒になってコンパニオンと騒いでいたほうが楽しい。理由は明快です。性的欲望の最終処理をそこで女と行うよりも、それは処理されなくともより時間を楽しめる道を選んだということです。 そう考えるようになった僕のなかには、暗い部屋で女と絡み合う下心よりも、たとえ酒を飲みながらの会話だけであっても、そちらのほうがいいという価値基準が生まれました。つまり、妙な下心など出さずにいたほうが、時として楽しめるし自分を満足させられるものだということを、僕は経験のなかから見出したのだと思います。 僕が女に対して下心を出すか出さないかの線引きは、どちらが自分にとってより価値があるであろうかという判断に依ります。もちろんそこには、「相手にとっての有益性」も加味されますよ。自分とどのような関係を持つことが、目の前にいる女にとってより意味があるのか。それを考えることも、僕は自身のなかでの線引きに繋がっているように感じています。 仮に、僕が下心を出さないようにしようと決めた相手に対しては、僕の姿は極めて紳士に映るかもしれませんね。それを偽りだという方もいるかと思いますが、僕はその時点で下心を捨てていますので、いわば「あった下心がなくなった」状態なんです。ないのですから偽りではありません。下心がない状態でも、僕は存分に関係を楽しみ謳歌しているんですからね。 女から見て、そんな男の心の中を見抜くのは、やはり難しい所作なのでしょう。僕と相対した女の反応を顧みると、どちらかというと皆さん僕のことを信頼してくれていたようですが、男が誰しも必ず下心を捨てられるというものでもないと思えます。悟られぬようにするから下心なんですから……。 男と女の関係には、じつにさまざまなものがあると思います。ベッドを共にする恋人もあれば、キスすらせずに酒を酌み交わす関係もあるでしょう。ネットが普及している現在では、逢うことがなくとも成立する恋愛関係もあります。 どれが一番だなどという下劣な判断基準は、僕の価値観のなかにはありません。いずれも僕にとっては大切な関係ですし、天から与えられた限られた縁なのだと思います。僕はそれらの縁を大切にしたいから、それぞれの状況で最善と思える道を選ぶんです。それが、僕のなかから下心を消すか残すかの岐路になっているのだと思えます。 ですから、男のなかから下心が消えたからといって、自分を女として見ていないと考えるのも間違っています。体を重ねるだけが男と女ではなくて、互いが持っている性をいろいろな手段で絡めあうのが、本当の男と女の関係なのでしょうからね。
| 2003年10月02日(木) |
セックスのメインディッシュ /好みの体位 |
俗に四十八手といわれるセックスの体位ですが、それをすべて経験された方はどれほどいるのでしょうか。僕も見識はあるものの、完全制覇していません。その多くは主流となる体位の亜流に違いないのですが、あなたはどんな体位がお好みですか。 和洋問わずフルコースには料理の順序があるように、セックスにもその時間のなかで織り込まれるさまざまなエッセンスや順序があるような気がします。前戯や後戯という言葉もありますけど、挿入する行為そのものにも、やはり人それぞれに無意識のなかにも序列があるのではないでしょうか。即ち、好みの体位です。 僕は、極端にアクロバティックなものは好みません。いつもとっている体位を思い浮かべても、正常位から挿入したままそこを軸に横向きになり、後背位へといったら回転して元の正常位へと戻る、それから相手を抱え上げての対面座位、そして騎乗位。クライマックスは正常位が多いでしょうか。おそらく多くの方々が普通に行っている流れではなかろうかと、リサーチしたわけでもありませんが想像しています。 ちなみに、「四十八手」と称される体位のなかには、これら「正常位」や「後背位」「座位」といった表現は使われておりません。ご存知でしたか。四十八手が出来たのがいつの時代なのか定かではないのですが、およそ日本文化らしい名称が使われていますので、興味がある方はネットで検索でもしてみてください。 僕が最も好きな体位は、対面座位です。セックスの流れの中でも、正常位や後背位の後になりますので、順序としても僕の中では、この対面座位がメインディッシュと称して間違いないでしょう。なぜ好きかという理由ですが、幾つかありそうな気はしますけど、総じて「密着度が高いから」ということになろうかと思えます。 人はなぜセックスをするのか。そこにはふたつの大きな柱があるでしょう。ひとつは紛れもなく「種の存続」です。生殖活動は、生き物にとって本能的なものでもあります。そしてもうひとつは、人間ならではの感情を伴う性行動、即ち「合体してひとつになること」であろうと僕は考えています。もちろん、性的快感を覚えたいからという理由もあるでしょうが、僕の中では、どうも前述したふたつの理由に比べると核心の部分で弱い気がするんです……。 合体してひとつになるとは、はたしてその背景にはどんな心理が隠されているのでしょうか。過去に恋愛コラムでそのエッセンスを綴ってきましたが、恋愛の究極は「君になること」であろうと僕は推測しています。つまり、自己という殻から飛び出して、自分が惚れた相手そのものになることです。相手のことをもっと知りたいとか、自分の気持ちを理解して欲しいとか、想いは色々あるでしょうが、その根本には、このような「君自身になってしまいたい」という核心があるように思えます。 それは所詮叶わぬことです。けれど人はそれを追い求めようとする。そしてセックスという行為において、ひとつの「幻影」のなかに到達点を見出すわけです。それが「一緒にいきたい」という衝動であったり「ひとつになりたい」という衝動であろうと、僕にはそう思えます。いかにして「ひとつになった」手応えを得るか。それは人それぞれだと思いますが、僕の場合は、それが対面座位という形である場合が多いということです。 もちろん、ひとつになる感覚以外にも、僕が対面座位を好きな理由はあります。挿入した状態で胸を愛撫し易いとか、挿入感そのものが奥深くまで挿入されてる感覚(或いは性器同士の密着感)を得られやすいとか、対面座位ならではの醍醐味はあると感じています。けれどやはり、互いが互いの体を両腕でしっかりと抱擁しつつ「ひとつになる」感覚は、不思議と他の体位では得られないもののように思えるんです。 かつて恋人と対面座位にあったとき、「混ざっていくみたい」と言われたことがありました。彼女はそれまで、座位に対してそれほど強い嗜好を感じていなかったようですが、そのときはじめて、座位によって「ふたりが混ざり合ってひとつになっていく」感覚を覚えたのでしょう。 性感というものも、実に多岐に渡ると思えます。女性の体には性感帯が沢山あると聞いていますし、ヴァギナひとつとっても、クリトリス、ラビア、子宮口、Gスポットと、それぞれに感じる箇所はあるようです。けれど、そういう物理的な快感という側面ではなく、「ひとつになりたい」という究極の願望を満たす要素が、対面座位にはあるのでしょうし、それこそが、性感帯に囚われない五感を研ぎ澄ました総体的な快楽へと繋がるもののように僕には思えます。 セックスが単なる欲望処理の行為であるならば、それは動物と何ら変わらないでしょう。人間が人間でありながら行うからこそ、そこには直接的な刺激以外の世界を展開できるのだと僕は考えています。体面座位という体位は、そんな僕にとっては、昔もいまも、そしておそらくこれからも、メインディッシュでありつづけることでしょう。 でも、対面座位では射精しないんですよね。これ不思議でしょ。射精は正常位が一番気持ちいいんです。つまり、射精する体位だからそれが最も好みの体位であるとは限らないということです。それからも、セックスの主目的が性器の刺激によるとは限らないという論理が、少なからず見えてくる気がしませんか。 みなさんのメインディッシュは、どんな体位でしょうか……。
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