- 2003年03月26日(水) 今日こそは解剖実習に参加しよう、と思っていたのだが、結局、夕方まで眠っていた。頭痛を抑えてバイトへ。なんとなくじめじめしていてすっきりしないし、生活に対してやる気を失っているというか。。 気持ちの上では留年を受け入れ、実験については楽しみにしているくらいだが、体がついていってない感じである。 河合塾から通知が来た。おかげさまでゼミ指導に採用されたが、平日出来ないと言ったのに入っている!なぜ?担当者に明日申し出る。 ++ ところで、4月7日から実験の補助ということで、「お勤め」が実は楽しみ。思い出せば、大学院の時も在籍しながら(教員免許を取りたかったので、実習するのは在籍している方が圧倒的に便利だったし、単位もガシガシとれたし)、出版社で働いていたし、なんか好きなのかも。。 今の反省点としては、ブンガクブの院生の時も、お勤め気分で、今ある材料でどう仕事するかと深刻にならずに研究してリャアよかったんだよね。芸術家的にクリエイティブにやろうとし過ぎず、サラリーマン、或いはせいぜい日曜大工みたいな感覚でやらなきゃ、しんどくなるよ、と今にして思うのである。 - 母の紡ぐ話 - 2003年03月25日(火) 実家から戻って来た。実家では、一番下の妹もおり、当たり前の生活を刻むことができてよかった。 また、実家からは、木箱(コーヒーとかワインとか、入れてあったようなやつね。かつて高校生の時、妹がどこからか取って来て部屋のインテリアとして使ってたもの)を取って来た。 こうして日に日に荷物が増えるので、せっかく3月頭に片付けたのに、私の部屋はまたブタ箱状態になっている。。 ++ 立川志の輔というタレントがいる。野太い声だなと思っていたが、それが訛りだとは余り思っていなかった。母が、「訛りがあるでしょ?」と、話を始めた。 母によれば、あれは、独特の漁師訛りで、以前から富山の人だとは知っていたという。それが、なんと、同じ小学校出身だとつい最近知ったと言う。NHKに「ようこそ先輩」という番組があり、それに彼が出ることになったのだという。そして、以前、といっても昭和30年頃だが、産休の代理で一時母校で教師をしていた母の姉がそのことをかつての同僚から聞き、母に伝えたという。母は見のがしてしまったらしく、再放送を楽しみにしていた。 富山の有名人といえば、私にとっては室井滋である。彼女の細長い顔は、一種の富山らしい顔である。あと、今はあの癒し系サラリーマンノーベル賞受賞者、田中耕一さんね。 いつも帰省すると、母は居間のコタツに(あるいはコタツテーブルに)ハマって、途切れることもなく話を始める。普段しない分をここぞとばかりに、いろいろなことを話す。私は大概相槌を打って聞いている。 今回は、そんなことに始まり、いとこの話から、母方の親戚について、母は紡ぐように話を始めた。まとまりがあるわけでなく、心に浮かんだことをそのまま話しているような感じである。 話を聞いていて、母方の親戚には何人か医者がいることが分った。私が小さい頃、富山の日赤で見てもらったとかいう大叔父とか(そして入院すると電話するとすぐ便宜を図ってもらって個室が用意されたとか、母は嬉しそうに語っていた)、誰某の嫁ぎ先が病院だとか、開業する気がなくてずっとつとめていた誰某とか、、 今まで親戚に医者がいるとは思っていなかったが、どうも、そういう流れで見れば、決して医者は親戚に少なくなく、私が再受験して入り直したり、いとこが再受験していたりするのも何やら自然な気がして来た。 母は、私がいると仕事が進まない、いなくなったらする、と言っていたが、私が邪魔しているトイウより、私がいることで母が話をしている(サービス精神なのか、話したいのか、どちらにせよ)と思う。もちろん、全く目くじらをたてることではないが。。 その他、一番下にも色々と話をしていた。何度か、いつまで松江に住んでいるのかしら、誰かと同居シタイわ、と一番下にも言っていた。そうしたいんだな、そうすることになるのかもな、と思いながら、母と一番下の妹がかもしている妙な調和に、見とれていた。 - - 2003年03月24日(月) 昨日今日と、特筆すべき事項なし。 ただ、朝起きて、昼間活動して、夜眠る、という当たり前の生活を刻む。 mothersのおっしゃることは、そのとおりだと思う。 昨日は、せっせと不要参考書をネットオークションやアマゾンのマーケットプレイスに出品(値段のつけ方がわたしはお人よしかも。。といいつつ、ちょっととりすぎ?って感じで売ってしまうこともあるし。。)。 なお、1999年4月から2000年3月までの英語雑誌timeもこの際処分しようと思っている(一号のみ欠)。世紀の変わり目らしく、ノストラダムスの予言はあたるか、なんてタイトルもあるし、数年前はまだe-commerce勃興期だったということを反映するように、the man of the yearはアマゾン・ブックストアの社長だというところに世相が反映され、the man of the centuryはアインシュタインだというところに納得。 きちんと教材、あるいはご自身の読み物としてご活用いただける方にお譲りしたいと思っている。ネットオークションにも出しているが、ご希望の方は私までご一報いただけるとありがたい。 - 「イラクの小さな橋を渡って」 - 2003年03月22日(土) 池澤夏樹氏の「イラクの小さな橋を渡って」読了。この人は、12月にこの書を書き、戦争がはじまることになるとき、それが降りかかる普通の人たちの姿を伝えたかった、と書いている。個人の主観交じりの紀行であるが、本を読み、写真を見る限り、イラクの普通の姿は、隣国のイランと大して違わないのではないか、と思う(数年前、イランを訪れ、個人の手配旅行であったがために、現地の旅行代理店の方のご自宅をも訪ねるチャンスがあった。3都市回ったが、イランは、一度恐喝まがいのお兄ちゃんたちにあった以外は(実害なし)、きわめて穏やかな落ち着いた大国に見えた。今は、首都のテヘラン(数年前で800万都市だった)に地下鉄が走っているという)。嗚呼、はじまっちゃったな、と愕然とし、同時に、本を読み、写真を読む限り、このような普通の生活が成り立たせているインフラもまた、破壊された分は一からやり直しなのだ、と戦争の非生産性を思う。 友人のアイディアでは、国連にでもリングを作り、国家の代表者同士に素手で取っ組み合いでもしてもらい、放映権を売れば、きわめて平和的であるし、商業主義に乗って国連も収入があるし、良いのではないかという。おそらく、オリンピック並の視聴率は期待できるのではないか、と。わたしも戦争がおこるたびにそう思う。国家の代表者同士、あるいは組織の代表者同士が、大平原にでも一列に並んで、素手で取っ組み合いすればよいのだ。それが文化というものではないだろうか。 - テレビは一日中イラクのことを報道している。 - 2003年03月21日(金) 早く終わってほしい。 ++ 真っ青な晴天、だったらしい。 昼過ぎまで寝ていて、お風呂に入ったり洗濯したり、メールを書いたりしている。 贅沢なことをしている気分になる。 今日もフォローのつもりで電話して、さらに墓穴をほるということをしてしまった。このところ、そういうパターンが多すぎる。 ただ、そのことで不快感をかけているにしろ、自分が何かのせいにし過ぎる、そして認知が歪んでいる部分がある、ということがはっきりして来た。 つまり、直接のストレス源に、論文の時もそうだったが、正面からなり、何なり、向き合っておらず(別に戦法は正攻法じゃなくてもいいのだが)、他に幾つも理由があるかのような状況、それはいかんなぁと。 八つ当たりなどで迷惑はかけているが、こういう気づきを、自分の成長の肥やしにしていくことができればいいのではないか、今は、そういう気持ちだ。 - とうとうイラクへの攻撃が始まった - 2003年03月20日(木) 月曜日以来、バタバタしていて、また、私も気が動転していて、日記を書く余裕がありませんでした。アクセスしてくださった皆さんありがとう。 ++ 本試験で通ったのは実習試験と数えるほどの講議で、再試続きの本年度後期でした。 それでも、めげずに、最後まで受けましたが、どうしても一科目力不足で、一科目留年、いわゆる、単独留年をすることになりそうです。学長や副学長が鶴の一声でも出さない限り。 該当の科目は、内分泌で、再試験で43点でした。自分の不勉強は分っており、フォローしようもない点数ですが、もっと早くこのことが分っていたら、本試験のことなど(図示せよと書いていないのに、図示していないという理由でマイナス15点など)先生に質問できたのに、という思いもあります。 また、内分泌は、50名ほど受けた再試を、大反対を押し切って当初の日程では都合がつかない、その日程では留年すると言って来た2名のために日程を動かした挙げ句、自分が不合格になり、留年になるので苦笑を禁じ得ません。 さらに、自己満足でしかなかったのですが、解答集など作って多数に配っていたくせに頭に入っていなかったし。。ギャグみたいな不合格です。 何よりも、授業中に学生たちの前で「ボーダー」と言われたのを、いいように取り過ぎていたのでしょうが、このような結果を出されるのなら、そのようなことは仰らないで頂きたかった、少なくとも、来年からはそのような言動で学生を振り回すのは辞めて頂きたい、そういう思いで一杯です。 もちろん、再試験に引っ掛からないことがベストですし、同世代としてもどかしいと(エールの意味で)言われたこともあります。が、私自身、一生懸命がんばってもどうしても、今年は生活費を得るための時間の制約や、精神的なことからくる不調のことで(勉強がどうしても手につかない、とにかく感情失禁の嵐で涙が止まらない、電車の中や自室でのみならず、授業中でさえ涙が出る、というのは、経験していないとなかなか想像しずらいかもしれません)ベストの力で走り抜くことができませんでした。それでも、最後まで諦めず、誠心誠意、試験を受け、質問をしにいき、再試験を受け、理解を深めていけたことに対しては、(低レベルでこそあれ、そして全く自慢することではないのですが)よくがんばったと、自分を誉めてあげようと思います。 先生方も、怠けていたのではなく、最後までがんばったのだと、ご理解は頂いているようです。 4月からは、解剖の研究室で、何やら壮大で夢のある研究計画の一端を担わせて頂くことになりそうです。実際の作業は、マウスの脳の切片を作る仕事ですが。。かなり学際的な、元気の出る研究テーマです。おまけに、実験補助ということで、雇って頂けますし、論文も書かせて頂けます。このことは、有り難いご配慮だと思います。 医学部(理系学部)だからなのか、それとも単科大だからなのか、ドアを叩けば研究をいくらでもさせて頂ける環境のようです。まえにいた大学では考えられないことですし、座学では得られない経験です。 実験が面白すぎて3年生に戻るのがいやになったら、、 それはそれで、そのときに考えましょう。 - 眠り姫 - 2003年03月16日(日) 3/15 結局、体調不良で一日ほぼ眠っていた。よくこんなに眠ってるなぁと思うくらい眠っている。体が欲してるのか、変な夢を見てばかりなのが困り者である。いきなり留年して退校命令を受ける夢なんかは、余りにもリアルに感じられ、夢だと思われず、寝ぼけながら電話してしまったくらいだ。 ともあれ、こんな過ごし方して!という焦燥感はない。まぁ、眠れる時に眠ってましょう。 ネットオークションで、入札2つめのモノが届き、出品のモノは2つめが売れた。 3/16 昨日の反動で、明け方ちょっと眠った以外起きていた。そのせいで、家庭教師から帰って鎮痛剤を飲んでひと休みしたら、夕食の約束の時間より寝過ごしてしまって、友人を1時間待たせてしまう。ううう。すまん。 友人はユトリロキッチンの「アジアンパフェ」を食して機嫌をなおしていたから良かった。。 家庭教師から帰って来たら、今日は妙に悪寒がしたし、昨日も体調が良くなくて一日眠っていたので、旅行はキャンセルして良かったと痛感。 ++ 今日したこと。 MLで研修医の生活についての質問。/ 手紙を書く。 アマゾンブックストアから届いた本をぱらぱら読む。 家庭教師。 荷物の発送。 ヤフオクでHarris花柄バッグの落札!(汗汗) フレアースカートの裾のお直し。 法蓮草と卵のソテー、トーストの朝ごはん。 ユトリロキッチンの晩ごはんの蕪と人参、湯通しした鶏肉、昆布の酢みそ和えがおいしかった。 - 起床、6時25分、昼過ぎまで朝寝 - 2003年03月14日(金) 一旦朝起きたものの、8時半頃からまた1時頃まで眠っていた。ホントよく眠っている。 歩くのが気持ちよくなるような晴れ。 したこと。 スカートの裾上げ。裾がほつれて着なくなってしまっていた。さっそく、100円ショップで買った裾上げテープを一つ使い切る。 ボーダーのニットをお直しに持っていった。母が若い頃に来ていた年代物だ けれど、デザインが新しい。ランダムの紺のボーダーが白地に入っている。 ただ、虫食いあとをかがるのは、一箇所1500円はするといわれ、何箇所もあるので、かがり方を教わって帰宅。 ついでに、uvカット効果のあるファンデーションを購入。輸入モノから始まり、最近、だいぶんピンク系の色が増えて来た。 荷物の受け取り。 銀行や郵便局。 友人を囲んで食事会。このごろ話さない話題が出て面白かった。 3月15日、朝、雨。 3月15日する予定のこと。 ニットのお直し。 スカートの裾のほつれのお直し。 お礼状。 引き続き、ぼちぼち部屋の片づけ。 - 起床、午後3時 - 2003年03月13日(木) 今日も、午後3時過ぎまで、うとうとと眠っていた。おまけに、シーツに鼻血がついていた。解剖実習をしていて鼻の粘膜が弱くなって切れ易くなっていたのだが、眠っている間に鼻血が出るなんて初めてだ。 まぁ、夕方からのバイトには余裕で間に合う時間だったし、いいとするか。そんなこんなで、解剖実習に参加すると、いささか自慢げに豪語していたのに、ちっとも参加していやしない。 今日は、いよいよ、スノコベッドを組み立てた。組み立ててみると、案外幅が広いことに気づいたが、そのくせ、手持ちのお蒲団を載せてみると丁度良かった。セミダブルのベッドに丁度良いとは、蒲団がそもそも大きめだったのかな? 部屋が狭くならないように、その他のモノをどんどん片付け整理する予定。 - 300円 / 通過点 - 2003年03月12日(水) 意を決して、今日はとうとう古着屋さんに行った。もちろん、新品の来ていない服を売るためである。どきどきしながら開店時間より早くついてしまい、うろうろ辺りを見て回りながら時間を過ごしていざ、初めて入るお店にと足をふみれた。以前、服を売るのにいいと聞いたことがあった店である。 「ただ今込み合っておりますので」と、暫く待たされてから店の奥の個室に呼ばれた。店員さんが値踏みしている間、私はドキドキしながら待っていた。いくらぐらいになるんだろう?500円?もっといったらいいけど、どうだろう?? 5分くらいに感じられた2、3分後、店員さんの声がした。 「はい、買い取りは300円です。よろしいですか?」 う、と私は一瞬詰まった。13000円だの5000円だのの値札だってそのままつけて来てるのに、元手は数万かかってるんだぞ!(とはいっても、妹が買ったものが4枚、親戚から譲られたものが1枚、私は1枚買っていただけであるが)表の店には、まるで新品がバーゲン品になった程度の、それなりのお値段がついているではないか。 「じゃ、これ、持って帰っていいデスか?」と私が自分で買ったものを持ち帰ろうとすると、「これが200円なんですよ」と店員さんが応えた。私は「イイです」と諦めた。表に出す時は、10倍以上の値段をつけるに違い無い。。。 そして、今日思い知ったのは、ごく当たり前のことであるが、モノを買うということは、すぐ売り飛ばすためにする行為ではなく、そのお金に見合っただけ使うこと、それが一番倹約であるということである(そして、要らないものは買わない!)。 一旦買ったら、次売るのにも、新品であろうと、半額以下になる、という市場原理の厳しさ(?)を実感したのである。 300円。 私が帰りに、100円ショップで片づけのためのカゴを3つ買ったが、それと同じ値段ではないか。。 とどめを差すかのように、私はセレクトショップで売り切れ、入荷待ちとなっていたラメのバレエシューズをたまたま見つけたので、勢いよく飛びつくように試着して何のためらいもなく買い(まるでファッション雑誌で見てました、欲しかったんです、と言わんとばかりだった)、そのあと白い革のベルトを店員さんのアドバイスを貰いながら買い(ベルトは使ってると壊れるので(汗)、足りてなかった)、帰宅後、通販で頼んでいたスノコベッドを受け取ってとうとう念願のベッドを手に入れ、そして買い物依存傾向に終止符をうった。 昨日、ファッション誌の「9着で2週間着回し」特集を見ながら自分のワードローブをひっくり返して整理し直して、「あ、こんな服あったんだ」と、服が十分足りていることを認識したこともあるのかもしれないし、それに加え 今日の300円ショックが効いたのだろう。 そしてなによりも、いい加減、満ち足りた、というのかな。 ++ ところで、今年度受験まで受け持った生徒さんは、ふたりとも、志望学部には進学するが、第一志望大学ではない。 ひとりは、親元から一旦離れるよい機会ではないかと思ってみている。彼女は柔軟だから、いろいろ吸収していくことだろう。 もうひとりは、「志望の大学ではないですが、活動していきます」とメールが来た。が、どこにいても志がある限り、することには変わりはない。私は返した。「お分かりのように、大学は通過点です、以前語ってくれたような夢に向けて一歩一歩進んでください」、と。 あくまでも、大学は、(あるいは大学生という時期も)通過点である。 高校生の時、社会の先生はしょっちゅう、「高校なんて通過点だ」と授業中に語っていて、それはほぼ授業の本筋からは外れていたから、聞いていない生徒も多かったと思われるが、私は聞き耳をたてるように聞いていた。そして、先生のいうことに同感した。新設校に通っていたのだが、創設期の熱気がそろそろ沈静化する時期で、どこかしら私達の学年は覇気がなかった(ようにわたしには感じられた)。そして、私自身、文化祭だの体育祭だの、遠足だの、甲子園の応援だの、そういった学校行事から極めて距離をとって覚めた目で眺めていた。 しかし、先生は「大学も通過点だ」とは仰らなかった。あるいは、仰っていたのだが、私が聞いていなかっただけかもしれない。私は、文系か理系か、体力がないから泊まり込みの実験なんて出来ない、文系だ、社会システムを維持し動かす法学部にいこうか、いやどうせなら好きなことをやろう、文学部だ、と考えた。そして、文章を書くのが好きだったので、モノ書きになりたい気持ちがあったが、ものかきだけでは食べていくのが難しかろう、研究者になって文献を読み、論文を書いていれば良い、と思い、さらに、当時読んで非常に面白かった「室町記」という、歴史と当時の時代背景を描いた考察が、山崎正和氏によって書かれており、山崎正和氏は美学美術史学出身であったので、受験前より、迷わず美学美術史を志すことにしたのであった。こんな血沸き肉踊る文章がかけるんだ、とわくわくしたのである(本業とはあくまでも違うとそのときは気づかなかった)。さらに、続いて読んだホイジンガの「中世の秋」も芸術作品への言及の多い文化史であり、わたしはますます美学を専攻しようと思った。 そうして、私は、いくぶん、大学は通過点ではなく、そこで人生の大きな保障が得られるかのように勘違いして入学し、時間を過ごしたのであった。論文を書くことに対して自分がどれだけ自分を追い込み、そして、さくさくと書く手順が苦手かということを痛いほど知るまでは。 そして、高校生の時には思いもよらなかった教員免許を取り、高校の教壇に立ち、今は医学部に在籍している。 高校の先生は、愛校心やきれいごとの団結や友情などを煽るのではなく、おそらく冷徹なモノの見方を生徒に促すつもりで高校は通過点です、と語っていたのだと思うのだが、それ以外に、大学も通過点です、と語るべきではなかったのだろうか。 しかし、そこで、大学も通過点ですなんて言ってしまっては、受験と言うシステムが成り立たなかったのかもしれない。目先の合格の向こうに幸せがあると保障するかのように幻覚を与えることで若者たちを駆り立てるのが効率が良かったのかもしれない。 が、通過点は通過点であり、その通過の仕方も、そして通過したあとも、自分で作っていくものだ、ということが、ようやく今ごろ自然に実感として口をついて出て来るようになり、もし、今教壇に立つなら、生徒たちに向かってそう言うだろう、と思うのである。 もちろん、通過点だからといって軽く見るのではない。 が、そこはゴールではなく、次へのスタートなのである。 -
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