なぜか、旅行を巡る葛藤。 - 2003年03月11日(火) 体調が悪く、悪寒がして、5時半過ぎまで眠っていた。昼まで眠っているというのを越えて、夕方まで眠っているというのは、先週の木曜に続き2日目である。そんなに疲れる毎日を送っているのかなぁと思うが、心がどこか縒れているのかもしれない。解剖実習はどこへやら。。 それもあり、また色々そうとうごちゃごちゃ考えた末に、旅行のキャンセル。お金の遣い方とか、行ったら行ったで楽しいけど、連れて回られるならともかく、1人でガシガシ回るにはこのところの体力の無さとか、単に良い子で居ようとしてるだけじゃ無いかとか(やたらこのところ親の「帰省して」モードが感じられた)、 また、旅行フリークと思っていた友人曰く、 「旅行を実行するだけ、になると億劫になる気持ちワカル。向こうにワンダーランドが広がってるわけじゃなし、移動して御飯食べて寝て、が面倒になるだけだよな、と思う。キャンセル代もったいなさに出掛けて、ああやっぱり来て良かったわ〜となることが多いね、私の場合。」 そうなのだ。ワンダーランドは広がっていない。飛行機に乗ったとたん全てがリセットされるわけじゃ無いのだ。そりゃ、ちょっと気分転換に海外旅行に行って元気になって来る、それはそれでいいことだし、私ももうちょっとエネルギー値が高かったら一人旅をしてくるだろう。ただいまは、何となく部屋の片づけと、週4回ほどの家庭教師だけで十分、手一杯な感じだ。 試験に終われる毎日だと、今年度の試験が全て終わったあと、30分ほど喫茶店に入って自分が読みたかった本を広げるだけで、こんなにくつろげるんだ、って感動した。試験資料を広げなくても良い私の時間。わざわざ、バンコクのスタバに入らなくてもリラックスできるんだ、と当たり前ながら、発見してしまったことは大きい。 いま、ここに、ちょっとした時間の隙間に、非日常が転がっている。 勿論、一度はハノイに行ってのんびり旧市街を訪問し、ハロン湾クルーズを楽しみたいとは思うが。。 決め手は予備校フェローの採用面接。これは時給3000円、そして問題の作製(作問)なんかするとまたそれで1万円もらえるという有り難いバイトである。 面接日時変更してくれと言ったけどぎっしり入ってて無理と言われ、なんだかんだいいながらキャンセルする方向に。。はぁ、しかし、、面接の案内もっと早くくれよぉぉぉ、日時が都合の悪い方は早急に連絡してください、と今日来た案内あるのはいったい何なんだ? というわけで、今回の旅行のキャンセルを巡る私の葛藤はようやく終わり、その分(ホントにイイコちゃんだと思うけど)、帰省して、親の要望通りパソコンをきちんとセットし直して、読まない本や古着を整理しよう。 - 30000ポイント / 本 - 2003年03月10日(月) 私がにわかにお熱を上げ始めてしまったファッションサイトは、今、30000ポイントためると商品券が3000円分もらえるという、プレゼントを実施している。ちなみに、この30000ポイントというのは、1円1ポイントの加算ではない。10円が1ポイント。だから、30000ポイントためようと思ったら、実に、30万円以上はお買い物をしなきゃならないのだ! こうかくとぎょっとする。 実際、最初、私は、おそろしぃ〜、こんなにためれるもんか、と思った。百貨店やふつうのお店のポイントだって、キャッシュバックはトータルで3万円とか5万円とか購入した時点で可能じゃないか、と。 が、その疑念はすぐに吹き飛んだ。 例えば、3000円のバーゲン品を3点買ったとしよう。そしたら9000円。5000円のバーゲン品を3点買ったら15000円。私のような、割り引き大好きの人間は、安くなっているということ自体、そのお得感がたまらなく魅力的だから、一度のクリックで3点は買ってしまう(この、ワンクリックで買い物ができる、というのが、ネットのお店やオークションの魔力なのだ)。前からいいな、あると便利だな、なんて思ってた品がバーゲン品だったりすると、当然迷いはない。 で、ですね。お買い物かごの注文を確定するクリックが仮に月に一度だったとしよう。そして、毎月、必要に応じて(あるいは欲望に応じて?)クリックしたらば、1万5千円×12=18万円なり。 さらに、クリックが2回、3回と度重なるか、あるいは、私のような値引き主義ではなく、旬の服は定価で先取り、または、バーゲンなんて待ってられない、行ってられない、と、定価で服を買うとなるとですね。。 ユニクロなどで済ませれば話は全く別ですが(とはいえ、あのタイプの商店は、量を買わせることを目的にしているような気がしてならない)、3枚、必要に応じて春物ブラウスだの、ニットだの、買ったとしましょう。翌月にはスカートやワンピを買ったとしましょう。あと、値引き主義の有無に関係なく、ストッキングだの、靴下だの、下着だの、そういうものは消耗されてゆきます。。したらばですね。必要な基本を揃えるだけで、一月2、3万かかるなんてことは特におかしくもなくあるのです。。 ってことは、30000ポイントなんて、1年くらいかけて、かつ、そのサイトを愛用してれば、まぁ貯まっちゃうわけで。。 (あああ家計簿の習慣を復活させねば。今年度は、細かく費目をわけられる生協の家計簿をゲットできず、自分のデータをとってないのです。平均的なデータを私は見たことがないので、折を見て調べて見ようと思うけれど、控えめな額なのかどうなのか良くわからない。感覚として、むちゃくちゃ多くはない気がする。今の大学の若い同級生は、以前の大学に比べて、断然に服にお金かけてる・・それが楽しみであったりもするのだと思う・・印象がある。以前の大学では、生協の生活費調査とかあったけれど、男女とも、そこまで被服費って膨張してなかったと思う。家賃、食費の順に多かった。ジーンズにTシャツとかなら、お金かからないしなぁ。それもあるのか、今も、前の大学に入り込むと、今の大学より学生があどけなく見え、あ、ガクセイだな、若いな、って思う。在学中は、女の子の素っピンはごく普通だったしな。医学部みたいに、先が確定してないこともあるのかも) なんて冷静(?)に考えつつ、今朝も、私はそのサイトでお買い物してるんですね。そして、メールを見てあれ、って思えば、昨晩も買い物してんじゃん(汗汗汗)! 今朝はバッグ、これは通学その他に必要だし、私がモノをいつもいっぱい詰め込むから、すぐやられるからどうせ使うのよ。 昨晩はねぇ。。ニットだとか、花柄ワンピだとか、まぁ、そのうち、暖かくなれば着るでしょう。。 あ、迷ってたブラウスは、品質が説明文と違うという理由をつけて返品しました。 なんかねぇ、、ほんと、我ながら、心の中のナニカを埋めるかのように、ショッピングしてるんじゃない、って気がする。買い物してモノを揃えるのは、お金さえあれば、手軽にモノを手に入れる一種の全能感をもたらしてくれるからねぇ。。 今朝は、自己嫌悪に陥らない品だったけど、昨晩は、さすがに、クリックしちゃった時点で、そんなに服が大切か?と自己嫌悪に陥ったのを、思い出した。 ++ そして、今日は、衿野未矢さんの「依存症の女たち」(講談社文庫、書き下ろし)を読みたいがゆえに、本屋をハシゴ。 古本屋での3冊(単行本を全て半額でゲット)に加え、3冊と雑誌1冊買っちゃいましたわ。ま、本は、所有したい(という願望を持ったこともあったけれど)より、今は読みたくて買うわけだから、いいとして、ただそれでも、今度は金額ではなく、一度に買う册数に、また、ナニカを埋めようとしちゃあいないか、と自問自答してしまった。とはいえ、雑誌も・・お恥ずかしながら、これまた「まるごと買える!」を売り物にしているファッション誌Look!sなのだけれど、見て楽しめ、読むこともでき、買うこともでき、すべてコーディネートしてあるものも細かく掲載ページが表示されており、かなり優れものです。もちろん、きちんと感溢れる格好をしたい人には、全体的にちょっとカジュアルすぎるかもしれないけど。。まぁ、「9着でも毎日新鮮!2週間着回しコーディネート」なんてのは、私みたいな学生が参考するには、丁度いいかも。 と、また服の話になってしまったが、「ふつうの医者たち」(下記参照)「依存症の女たち」「イラクの小さな橋を渡って」(池澤夏樹著、光文社)という新刊を買った。また、読後感を書くと思う。 はじめて、アマゾンマーケットプレイスの出品でミスをやらかしてしまい、返金手続きをすることになった。出品を間違えていて、独和辞典なのに、独和&和独としていたのである。ううう、いままで評価が全て5つ星だったのになぁ。。 久しぶりに、ふと、バスの中でぽろぽろ涙が出て来て泣いてしまう。 ++ 一昨日書き忘れたが、南木圭士氏は「医者という仕事」の中で、優しい心と丈夫な体はなかなか両立しにくい、と書いている。さらに、今日読み始めた同氏の「ふつうの医者たち」(文春文庫)では、そのいきさつ(氏の考えの深化)が書いてあり、人の変化はゆっくりゆっくりしているものなのかもしれないと思う。 - - 2003年03月09日(日) 依存症の本を読みながら、考えさせられる。 友人に手伝ってもらって、部屋の片づけ。大分スッキリした。今年に入ってから2回目かな?ありがたい。これで快適! 明日、思ったような品質でなかったブラウスは返品しよう。 - 本2冊:丈夫な体と優しい心 / わたしの中の依存症 - 2003年03月08日(土) ぼちぼち、ネットオークションにいらないものを出品している。本やビデオをアマゾンのマーケットプレイスに出品するのはわりと簡単だが、服や雑貨と言うのは、そのような定型がないものである。デジカメで写真をとって、服なら改めて採寸して、説明の言葉をつけて。。。手間ひまかかるけど、ぼちぼち出品していこう。 また、ボタンが外れたら糸と針を使って直すこと以上の裁縫を、ひさしぶりにしている。とはいっても、大したことはない、サイズのお直しだ。スカートのサイズで合うサイズのものは売れていて、好きな色がひとまわり大きいものしか残ってなかったら、フレアスカートなら割合簡単にお直しできる。 その他、100円ショップで裾あげテープを買って来たので、パンツの丈も直す予定。 ++ 天気は、冷たいみぞれみたいな雨が時々降った。傘のない雨の中を、自転車で郵便局まで行く。ふと、谷山浩子の歌に、「冷たい水の中を君と歩いていく」というのがあった、と思い出す。 家庭教師2件。行き帰り、久しぶりに、テスト資料ではなく、文庫本を読んだ。 一件目の行きは、南木圭士の「医者という仕事」(朝日文芸文庫)。これはわたしが貸した本が久しぶりに返って来たのか、それとも貸してもらっているのか判然としない。というのも、貸してもらっていると思っていたが、ページを繰るにつれ、読んだ覚えがふつふつと蘇って来たからだった。 以前読んだ時には、心に残らなかったのだが、冒頭、医者という仕事には、優しい心、丈夫な体、そして程々の頭が必要だ、という丸谷才一氏のエッセーに共感する作者の言葉があった。 末期肺癌患者と向き合う中で、自らも心を病んでしまい、小説を書くということでバランスを取るようになった作者の言葉は、おそらく医師の大勢の見解を示さないではあろうが、小説を書くことで視線を低くすることができている、病を得ている人に寄り添おうと思えば、視線を低めることだ、とあり、我が意を強くした。 もちろん、気持ちだの優しさだのは、適格な医療技術や診断能力とは全く別のカテゴリーである。 が、優しさが求められる場もあるのではないだろうか? 次、一旦家に戻りたかったのだが、JRのダイヤが乱れており、戻る代わりに本屋を覗いた。 たまたま、「ひとりになれない女たち:買い物依存、電話・恋愛にのめりこむ心理」という本が目に止まった。依然にも気にかかっていたような気がして・・レディコミの研究書を出していたからだ、と今気づいた・・、わたしはその本を手に取り、そして、読むことに決め、本を買って外に出た。 バイトへの依存、食べることへの依存、交友関係の依存、、、誰でもいくらかはなる可能性を秘めているだろうし、私自身、病的とは言えないまでも、それぞれ思い当たる過去の経験はある。 そして、今は、買い物。 筆者の言葉を引用すると、 「 衝動買いの経験は、誰にでもあると思う。でも、今度あなたが衝動買いした時、胸に手を当てて考えてほしい。「欲しいものを手に入れた」という満足感があるかどうか。支払った金額に見合う愛着を、そのものに感じるか。「またバカな買い物をした」と暗い気持ちになってはいないか。 「楽しいお買い物」と「買い物依存症」との距離は、あなたが考えている以上にずっと近いのである。」(p.39) 筆者がかつてそうだったように、私も綺麗なファッションビルや雑貨屋さん、そして百貨店を覗くと元気になる。そして、何となく散漫に買い物をしてしまうことがよくある。心の中で「子どもでもいたらこんなふうに自分のためにお金遣わないのにね」と思いながら。 それを自分のための優雅さと取るか。それとも、無駄遣いと取るか。 微妙なところである。日記の注意深い読者の皆さんはお気付きの通り、生活費が、学費が、などといっている割に、私はしょっちゅう買い物をしていて、それをもちろん、楽しんでもいて、日記にも書いている。 買い物への推進力は、これは私が自分で稼いだお金、自分のために遣う、であり、そして、過去を振り返れば、小さい頃、同級生に比べ、拘束が厳しかった我が家では自由にモノを買うことが出来なかった、それを補償すべく、好きなものを好きなように買い揃える快感を味わっているのでもあろう。 そして、ローン地獄やカード地獄に今のところ幸いにして落ちないで済んでいる、買い過ぎないためのストッパーは、ガクセイであるがゆえに、自由にできる額が限られることである(例えば、価値観や行動パターンにもよるが、社会人の友人で、今も母校の大学の学生食堂をこよなく愛用している人がいる(わざわざバスに乗って食べに来るくらいだ)。海外旅行も実質本位、盗まれても良さそうなものしか持っていかない。さすがに安全面に不安があるので、激安宿には泊まらないが、値段に見合ったお金の使い方しかしない。。そのような身の回りのことに関しては、彼女と私は金銭感覚も近い。が、やはり、可処分所得には大きな差があり、彼女が欲しがって、実際に買おうかどうか迷うアンティークショップの7万円の家具や、10数万するペルシャじゅうたんを買おうかどうかと私は悶々とはしない。それは私にとっては入手不可能な次元と位置付けられているからである)。 際どいところだと思う。 買い物で楽しく元気になっている、そして、身の回りに気に入ったものがあるのは嬉しいことである。が、不要品を同時にせっせとオークションに出す、どこか、刹那的である。要るか要らないか、もう少し考えた方がいいのではないか、と。 誰もが依存症になりやすい時代、筆者はそういう。 本の後半をまだちゃんと読んでいないので、今日はここまで、また後日取り上げる。 部屋の隅に、服がビニール袋をかぶったまま積み重ねてある。今日、ネットのセレクトショップサイトに注文して届いた商品だ。イギリス製のブラウスとか、鍵編ニットだとか、イメージ通りのものもあり、あれ?というのもあり、一度ずつ手にとってみたあと、そのまま積み重ねられている。 あれ?という商品は、返品しようかどうか、今暫く、考え倦ねている。 ま、月曜日までに決めよう。必要かどうかという基準で。 - 京阪沿線風景 / so on - 2003年03月07日(金) 今日も派遣会社に新規に登録に行った。 よくネットで派遣案内を見かける会社だけど、意外にこじんまりとしていて、個人経営らしかった。 今日は、結構、暖かく応対して頂いた。 朝雨が降っていたので、車窓からの風景もしっとりしていた。 面白くて、ついつい外の風景に魅入っていた。 何度も何十回も見なれた風景なのに、初めて気がつく自転者屋さん「じゃりんこ千恵」なんてのもあったりして、おもしろかった。 ++ あくまでも労働観の違いでしかないが、 弱っているものの立場に立とうとしない、せめて想像力を働かせようとしない、 そういう人には、私は人に接する仕事に就いてほしいと思わない。 せめて、想像力にかける者は、 学力だけでなく、想像力をも身につけるように努力せよ。 モノを書くと言うことは、線を引くと言うことである。 明確にするために、あるいは、曖昧なら曖昧なことを認識するために。 だから、モノを書いたり、ホームページを公開すること自体、好意的な反応ばかり返って来るわけじゃない。それは認識しておかなきゃならない。 - 休息 / 20代半ばへ。 - 2003年03月06日(木) 昨日今年度の試験が全部終わって、意外に疲れていたらしい。今日は大学に行って有志の解剖実習に参加させてもらう予定だったのだけど、疲れて午前中のみならず、午後6時まで布団から起き上がることもなくひたすら眠ってた。うーん。まぁ、休息も大事か。 ++ 20代半ば、そのときは贅沢に使ってしまった時間、と思うようになったけれど、それでも今も時々、疲れているとき、泣いてしまうことがある。 今は今を肯定して、生きていこう、そう思うようになった(つもり)なのに。 誰も交換できない人生を送っているし、 どの人生にもそれなりの苦労があるのは分ってるけど、 火事にあって、それを暗い20代半ばの理由の全てにしたらいけないけど、 ウツ(?)とそのときはわからずに1人でアパートでごろごろ寝込んでたこと、それは自分の努力の範疇じゃない(と思うのは逃げかもしれないけれど)。 日々、教職の授業だけはマメにとって、バイトで英語教えて(それは真面目にやって)生きてる実感が全然なくて、毎日過食で、体重計に乗ってやけに細かく食べたものと体重だけ記録してて、それだけで生きてることを確かめてた、それだけで精一杯だった。だから、あなたがずっとひとりだった(そりゃ私にも人間関係が下手という原因はあるだろうけど)のは、人物的に問題があったんでしょ、とか言われても困る。 問題があったと思ってずっと悩んでたけど、 あんな環境でどこが楽しく青春が送れたというの? 病気に感染して登校停止になった人間に、 どうして学校にきてみんなと遊ばない、って非難されてるように感じてしまう。 歪んでるだろうけど。 それに、今、よろけながらも学生しながら生きてて、手探りながらも前に進んでて、改善すべき点はあるけど、それなりにがんばってることに満足しているのに、私の20代の暗さを責めるようなことを言わないで(いや、自分で自分を責めているのだろう)。 私が明るい20代半ばを送ってたら良かったのですか? せっかく、今を肯定して生きていこうとしているのに。 ++ 疲れているとき、涙がぽろぽろでてくる。 その時はそのときで精一杯だった、 明るい青春なんて私の辞書にはなかった、でも精一杯だった、 そして、きっと、私の歪んだ(或いは、私にはそれが事実と映る)認識は、 私に特有のモノではない、と改めて昨日、思った。 客観的に見て、すごく綺麗な家庭教師の教え子は、「自分よりみんなきれい」と言い(私の100倍は絶対綺麗だ)、 「わたし、人に弱味を見せないんですよ」と言いながら、 何年か病気で外に出られなかった、 「私にも憧れがあったんですよ、 大学入って、同じ年の友だちいっぱい作って。 お姉ちゃんが、すごくうらやましかった」 と言った。そして、強気な(に見える)彼女の目がそのとき初めて、ちょっと湿ったように感じた。 そういう意味では、私も、大学に入って、同じような年頃の友だちをいっぱい作った、好きな時間を好きな場所でふんだんに過ごした、幸せな人間である。 今も、愚直でスマートではないけれど、好きなように生きている。 それでも、思い出して悲しくなることがある、 過去が、悔しくて克服できてない証拠なんだけど。 - 終わりました。 - 2003年03月05日(水) ひとまず、今年度のテストが終わりました。今日が臓器生理学1の再試験だったんです。なんせ、3月1日、3日、4日、そして今日5日と、再試4連チャンという素晴らしい状態(!!!!)でありましたので、今日も、昨日の試験が2時頃に終わってから勉強しました。今日こそは、ほどよい緊張感で、睡眠も削りました。 はぁ、そしてなんとか終わった! 難しかったような気がしたけど、直後に採点して頂いて、大丈夫そうだとわかりました(そして今日知ったのですが、今日が学年の進級の判定の教授会なんだそうです。来週が全体の進級判定試験で15日に進級が判明するのかな)。 そして、(本試験で通れば苦労はしないのだけれど)まるで抑制ニューロンが全開しているかのように要領が悪くて、人並みの点で通ったのは代謝生化学(これは、本試験で100点満点で48点以上あれば、レポート点を加味して合格。私は平均点くらいとってた)ぐらいじゃないかな?詰めが甘いやらなんやらで、なんだか試験に落ちまくった(まぁ、結果として勉強になったという点では良かったけど)。 10月以降、どれだけ試験と再試験を受けて来たことか!!! ほぼ人の倍は受けたぞ!(自慢にもならないが) 一つ、まあ、誉められるとすれば、これだけ落ちまくっても、めげずに全部受けたことかな(ホント、自慢にもならないが)。 今日も直後に採点して頂いて、がんばったのはわかるというコメントのあとに、センセイにも言われた。 「要領悪いンか?まぁ、ココロザシがある限り、なんとかなるでしょう」 要領悪いなら悪いなりにやるしかなく、 思うに、前期で細胞生理学を理解しないまま、臓器生理学や薬理、内分泌、組織学に突入したはきつかった。細胞膜間の情報伝達と言うやつね。 そして、あとは解剖(人体構造学)の講議!ああああ、人体構造学の講議と試験と解剖実習が平行していたらまだ分かりやすかった。 だから、後輩には、細胞生理学と、細胞の遺伝あたりは、教養科目だけどちゃんとやっておけと言いたい。 (って、来年は今年の比でなくテストがヘビイらしい) とにかく、今も完璧に理解できてるわけじゃない。 でも、諦めなくて良かった(もちろん、進級の可否はまだわからない)。 今日は4人再試を欠席してたけど、いいんだろうか。。なんて思ってしまった。 後回しにしたところで、私のぐうたらな性格のことだ、 それよりは「いま、ここで、理解すること!」だ。 なんかなぁ、文学研究科で留年して、だらだら論文を後回しにしたことの教訓があるとすれば、 ・後回しにしたところで、ぐうたらな私は後回しにした分、今以上に素晴らしい出来にするわけではない(意図的な時間稼ぎはある程度有効である)。 ・困ったときは、1人で抱え込んだりするのではなく、手の内を見せた方が、援助が得られやすい。 という二点だろうか。 昨日今日と雪がちらついていて寒いので、余り解放感もないんですが。。 とにかく、終わった! ++ というわけで、まずは晴れてネットオークションに服が出せると、帰り、カメラ屋さんを覗いた。画像付きで出品するんだい。案外、安い、30万画素くらいのデジカメがない。一旦戻って、結局、当初の予定より相当お値段オーバー。ともあれ、遅ればせながら、デジカメを買った!(中古で良かったンだけど、とりあえず良さそうなのがなかった。オークションは自動入札してる人には負けるので途中でやめた) 部屋を片付けて、解剖実習をさせてもらって(春休み中、もういちど解剖したいと希望する者が多く、御遺体を2体も提供して頂いている)、、 ああ、旅行は、、、どうしよう、、 ともあれ、デジカメ、そして春休みだ! わーい! 後記:デジカメを早速使った。確かにオールインワンで使いやすい。 が。バッテリーが異様に早くなくなる。これがこの商品の欠点か!うぐぐぐぐ。急いでアダプターを注文した。うげげげげ。こりゃ、途中のイイ景色をパシャ、とかじゃなくて、ほんと、室内専門、オークション専門だなぁ。。不要品がなくなったら、これも一緒に処分するかも。。。(バカ) - - 2003年03月04日(火) 日記ですが、あまりにも(まるで公開していない個人日記みたいに)セキララに書き過ぎていたみたいです(それゆえ、読む人の大半にとっては非常に面白かったと思います)。 大切な人をとても苦しめ、悲しませてしまいました。本当に、今後書き方には気をつけようと思います。 ++ 掲示板にも書いたことですが、こちらにも挙げておきます。 着ていない衣類を売りに出そうと思っています。 一応、ネットオークションに出そうと思ってますが、 こちらでほしい方がおられましたら、 優先的にお譲りします。御一報くださいませ。 ・春夏物スーツ(特殊な加工をした麻と綿で、赤だけどピンクっぽく見える。ヘリンボン生地。リマージュライカという、関西の女性服のメーカーのもので、ブランド名は、「四つ葉」を意味するquatre feuilles。 京都でしたら、京都伊勢丹に入ってます。 サイズ40、69800円で上下去年の春買った。上はジャケット、下は膝下丈のタイトです)。以前の勤務していた高校の卒業式に着ていこうとおもいながら、結局式服を着ていき、一度試着しただけです。 ヘリンボン生地で、モノとしてはイイと思いますが、 ガクセイ生活をしていると、スーツなんてそんなに着ることないんですよね。 喪服(医学部生なので必須)と、リクルートスーツみたいなシンプルなやつと、あと、ちょっとフォーマルな時に着るカジュアルな感じのスーツが1、2着あれば足りるのでした(汗)。 というわけで、着る機会がないので、 引き取り手を募集しています。 ・あしながおじさんのオレンジのペタンコ靴(24cm)。革。 去年の5月に5900円で購入、2回履いただけ。 1500円くらいでお譲りしたいです。 - 空、青く、花、開く - 2003年03月02日(日) そこかしこで梅の花がほころんでいる。あと一月もすれば桜の季節だ。 急用ができて新大阪まで行くのに、京都駅まで、ひさ〜しぶりに自転車をこいでいった。おそるおそる、スピードを落としてながら。 空は広く晴れ上がっていて、心地よかった。 ほんと、春だ。 昨日とりあげた本の最後の方は、「フォーカシング」について取り上げてあった。往々にして、内省的な人は、「自分に語りかける」ということをするが、自分の声を聴くことがまず大事で、それが「フォーカシング」なのだという。勿論、より自分の声を聴きやすい技法はあるが、何も特別なことではない。 また、自分の声に語らせるのに、そばに人がいて受容してくれる方が、集中しやすいのだという(カウンセリングルームでは、かような環境が作られているわけである)。 聴くと話すと、両方大切なんだな。 帰り、ついつい京都駅ビルで、赤のパンプスを買っちゃう。あと、通学用のバッグも。まぁ、いいかぁ。。バックは必需品だし。 かわりに、あしながおじさんのオレンジ色の靴が要らなくなるのですが(2回くらいしか履いてない)、ほしい方がおられれば差し上げます。って、24.5cmだからなぁ。。なかなかみつかんないのよね。 夕食を友人と近所の自然食系のカフェでとり、食後お茶しながら友人は私の教材を見たり雑誌のインテリア特集を見たりして、私は勉強して、よかった。 お部屋のお片付けはもちろんだけど、 ベッドと机がほしいよぉぉぉ。テストが終わったら揃えようと思います。 ++ がんばれ☆ - 所感。 - 2003年03月01日(土) 発生再々試。 あとは、余分なことを考えずにひとつひとつ潰して行こう。 モグラ叩きみたいに。 逃げたくなることもあるから、逃げたくなる気持ちは分かる。 以前の修士課程の時の私は、論文から逃げていた。 楽しめたらベストだったし、自分にとって価値がないのなら潔くやめれば良かったのかもしれない。ただ、修了はしたかったけれど、逃げていた。 その時から比べて、今も、「あ、逃げてる姿勢だな」と思うこともある。 ただ、逃げたくなっても、今は一時的なパニックも治まり、ひとまず、「諦めないこと!」「一つ一つ潰すこと!」、最後には、(へこんだ時なんかは)、「ここで負けてたまるか!負けるのは簡単だけど、そんなちょっとしたことで1年棒に振ってたまるか!」と、受けにいっている。 リセットすることにして、先延ばしするよりは、今、できるところまでやろう、そう思う。 正面からぶつかってできる限り完璧になればそれがベストだ。 そして、それが本試験でできるのが最高だ。 ただ、どうしてか、なんだか理解もぼんやりとしがちで、こけてばかりいるんだよな。。 今日も、どうして?同世代としてもどかしい、と理由を尋ねられた。 自分でも、どうして力がイイ感じで出せていないのか良く分からない。 要らないこと、あるいはテスト以外のこと、を抱え込みすぎていたりするのかもしれず、また、部分的には、気持ちが少々逃げている部分に気づくこともあるし、さらに、前期や10月11月に理解が不十分だったことをベースにしている事項に関しては、今も弱いな、この機会に補強しておかなきゃ、と思う。 とにかく、もう一度受けさせてくれるということは、勉強してそれを確認するチャンスがあると言うことだから、前向きに行こう。 今日中に、薬理と、臓器生理(肺、心臓、血液)のメドを立てておこう。 ++ 「生理学テキスト」は、カラーの図が満載で、分かりやすいけれど、 機序が余りきちんと書いていないので、ちょっとペラペラしているということが分かる。 ++ memo 3度目にしてようやく読んだ本。 「孤独であるためのレッスン」諸富称彦(NHKブックス)・・より 「ひとりでいる能力」について力点をおいて書かれている。 「考えてみれば、この国ほど、「みんな同じ」という抽象的観念に毒され、少数派に属する人への配慮を欠いた国はないのではないでしょうか。たとえば、JR。山手線で、次の駅名をモニャモニャ、と日本人である私でさえ、よく聞き取れないような声で話す。外国から来た方や聴覚に障害があるか多などの存在が全く視野に入っていない。」p.58 「「あなたの気持ちはよく分かります。でも、一生それを続けるわけにはいきませんね。 あなたは、「いつかは結婚したい。母とも離れたい。でも、今は」と思っているかもしれない。しかし、その「でも、今は」が曲者。「でも、今は」「でも、今は」と、決断を先延ばしにしていると、結局、いつまで経っても決断できない。(中略)そうなって、「あのとき、母がああでさえなかったら」と、一生お母さんを恨み続けている方も、結構いるんです。 そうならないために、ここは、一時の感情に流されないで、よーく考えて決断した方がいい。 自分を幸せにできるのは、自分だけ。心を鬼にして自分の幸せを手にすることが、結局はみんなのためにいいことだったというのも、よくあることですよ」p.71-72 「「バツイチ」「バツニ」といった言葉に象徴されるように、以前にくらべると離婚もかなり身近に感じられるようになってきました。しかしまだまだ離婚に対する世間の否定的なまなざしは強く、それが離婚した夫婦やその子どもたちを自己否定的にさせてしまう場合も少なくありません。(中略) 自分の人生は自分で決める、自分で選ぶことの重要さがしばしば指摘されます。たとえば、小学校、中学校の進路指導でも、人生の自己決定・自己選択の力を育てることが重要であると説かれます。 私はこの、人生の自己決定・自己選択を認めるにあたって、その最も重要な前提として、「離婚し、再婚する権利」が認められなくてはならない、と思います。 離婚を「夫婦関係がどうしようもなくなった場合の最悪の選択」と考えるのでなく、「運悪く夫婦のマッチングが悪かった場合に、それに固執せず、新たに仕切り直すための前向きな選択」と受け止めることが、「自分で選ぶ人生」の不可欠の前提として、当然認められなくてはならない、と思うのです。 つまり、離婚は、転職同様、「新たに人生を仕切り直すための、前向きな選択」。離婚したからといって、決して自分を責め続けるべきではありません。 「このままでは夫婦はだめになるだけ」とわかりつつ、ずるずると関係を続ける夫婦がまだまだ少なくない中、離婚された方は、お互いの幸福のためにさまざまなプレッシャーに負けず、前向きな選択をなされたのです。むしろ自信を持っていいくらいです。もしチャンスがあれば、再度の離婚を恐れず、結婚にチャレンジして頂きたいと思います。」p.74-75 「こうした傾向(引用者註:さみしさをうめるために誰かとつきあっていないと不安になること)がさらに強いのが、二人、三人と同時に複数の異性とつきあう”多重恋愛”の 若者たち。一見快楽主義的に見えますが、多重連来の網の目に絡まっている若者の多くは、ごく普通の真面目な学生たちです。 そして、彼ら彼女らがしばしば口にするのは「自分が傷つくのがコワイ」という言葉。特定の異性との関係に自己限定すると、相手を失ったときのダメージが大きい。それを避けたいから”本命”は決めず、同時に複数の異性と関係を持ち続ける、というのです。 ”不道徳”の一言で片付けるのは簡単ですが、私はむしろ、その背後に、若者たちの痛々しいまでの”傷つきやすさ”を、そして、傷つきを恐れるがゆえにどんな人生の可能性にも自分を懸けることができない”リスク回避の生き方”が見て取れるように思います。」p.84 「 何がほんとうに大切かを知り、それ以外のものは、思い切りよく捨てることができる。実はこれが、しあわせになるための近道の一つです。」p.104 「 私が勧めているのは、他者とのかかわりの中にありながら”心の孤独=ひとり”の状態を保てる状態」p.118 「 逆説的な言い方になりますが、この人生を孤独に生き抜いていくとき、どうしても必要なのが、どこかで自分を無条件に支え、見守ってくれている人の存在です。 「この人は、私を無条件で支えてくれる。私が、多少のヘマや失敗をして世間から見放されたとしても、この人だけは、私の味方になってくれる」 そう思える人の存在です。 この、無条件の支えがあるからこそ、それをバネにして、人はひとりで生きていくことができるのです。 ふだんはほとんど意識していなくても、”私は、この人に無条件に支えてもらった”という経験があり、実感があってはじめて、ひとりで生きていくためのふんばりが効くのです。」p.119-120 「 もちろん、人間はどうしようもなく孤独である、というこの真実を引き受けるのは勇気の要ることです。 しかし、人生の本質的な孤独、さみしさ、わかり合えなさを知った者同士だからこそ、深いところで通じ合える、響き合えるものです。 それは、ごまかしようのない、人生のリアリティに直面して生きているからです。 人は、自分を深く生きれば、どうしても孤独にならざるをえない。けれど、孤独を知り、孤独を引き受けた者にしか手に入らない深い出会いがある。 これは、人生の普遍的真実です。」p.162 「ロジャーズはこう言います。人は、現実の、あるがままの自分を心の底から認め受け入れたとき、はじめて、意味のある変化が生じて来る、と。」p.190 「 カウンセリングとは、人が自分の心の声を聴いていく、そのお手伝いのことです。カウンセリングを通して、人は”自分の心の主人公”に、言い換えると”自分の人生の主人公”になっていくのです。 カウンセリングでは、このようにして人が自分を受け入れ、自分の声の心に耳を傾けて、真に”自分自身”になっていく上で最も必要なことは、他の誰から無条件に受け入れてもらえる関係においてはじめて可能になると考えられています。 他者に受容され共感される関係こそ、人が真に”自分自身”になる上で必要不可欠なものだ、と考えらえているのです。」p.190-191 「母親(またはその代理の人)が、やさしく、暖かな配慮を持って、子どもがひとりで思う存分好きなことをするのを見守る。こうしたサポーティブな環境の中で、子どもはひとりでいられる能力を身につける、というのです。それはなぜでしょうか。このサポーティブな環境の一部を子どもは自分の人格の一部に組み込むからです。」p.207 -
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