Wakako's Diary 道すがら記

You are what you do, what you think, and what you eat. ホテル割引予約 - HotelClub

 

 

- 2002年12月20日(金)

生化学の勉強。昨日は尿素回路を覚えた、と思ったが、解剖実習中に班のメンバーと言い合ってみたらどうも不確かだ。うーん、記憶を濃くしていこう。
いつかは絶対救ってくれるはず、と、今は過去問を中心に勉強中(一昨日、一通りまとめプリントの最後まで到達したけど、ざっと目を通す域を出ていないことを痛感。とにかく、今晩どれだけ頑張れるかだ。

あと、2年前に買った「コンパクト生化学」(南江堂)、コメディカルの学生さん向けの薄めの本なのだけど、字も図も大きめで分かりやすいことを発見!

+++

それから私的な愚痴。
学校で周りの若い同級生達が、(私が)もうすぐ人妻になるとか、ジューンブライドとか言って喜んでて、実のところ、聞かれる度になんて応えたら良いのか分からなくて「まだ先のことだけど」と言ってごまかしてる。おばさんっぽく見えるのかなぁとちょっと気にしながら。

+++

ところで、後期に入ってから学年全体的に、猛烈に勉強するようになった。
遊びグループだった男の子達も、連日勉強会をしていたりしているらしい。とにかく熱が入っている。
後期に入ってから、始めの5週間余りは、毎週人体構造学の試験があったことがまずあると思うけれど、今回の生化学も力が入っている。前回の内分泌、組織学で、前者は50人再試該当、後者は同じく70人(一学年おおよそ100人)という恐ろしい事態を迎え、それなりに学年全体としては試験に向けての準備で盛り上がっていたが平均点では通らないという事態を迎え、勉強に加速がかかっているのだ。
ちなみに、次回の内分泌は、センター試験レベルから国試レベルまでまぜてあるらしく、器官とマクロとミクロの理解が必要とのこと。組織学の本に加え、人体解剖学アトラス、発生学の教科書を読んでおけとのことだった。

それはよいこととして、実際に臨床の実習などで動くのはまた違うんだろうなぁと思いながら、準備の不十分さを感じながら、できるだけ進めておこうと思っている。

 ++

覚え書き(現在判明分)

12/21(土) 生化代謝学
   23(月) 人体構造論(総論・循環器)再試験
   28(土) 人体構造論(内分泌)再試験
1/6(月)   統計 再試験
  10(金)  生理学実習テスト? 
         解剖実習口頭試問(骨盤)
  11(土)  組織学総論 再試験
  14(火)  生理学実習テスト?
  15(水)  生化学実習テスト
  25(土)  人体発生学
  27(月)  解剖実習口頭試問(背部・下肢)
2/3(月)   解剖実習口頭試問(上肢)
  4(火)   神経生理学
  13(木)  解剖学実習口頭試問(頭部)
  14(金)  臓器生理学?
  17(月)  分子遺伝学
  20(木)  核酸生物学
  21(金)  人体構造学(呼吸器・消化器)再試験
未発表・未定の科目複数アリ    


-

まちがい / お父さん / 実験 / お母さん - 2002年12月19日(木)

何かと自分をまちがえられるのは、自分がちょっと他のところに滑り込んだような気がして、ちょっと可笑しくなることが多い。
今日は、学士編入で入ったと生化学の先生に間違えられて、「文系出身ですか?一つうえに文系出身の人いるけど、学士の人で試験に落ちた人はいないからちゃんとやれば大丈夫ですよ」と励まされたり、若い同級生に「もう入籍したの?(←なぜいきなり聞いて来るのかは不明)名字変わったの?変わると何になるの?」って聞かれたりして、なんかおかしかった。

+++

夜、テレビで面白いこと放送してた。お母さんとお父さんは離婚しちゃったけど、がんばりすぎている娘の仕事をがんばり過ぎて来た父が応援して、お父さんが今は娘とお父さんが月一回デート(って一緒に買い物とかに出かけてるの。)してるんだって。
成人して、自分が仕事で追い込まれたことを通して初めて、父の姿を理解できたんだって。
なんか分かるなぁって思う。私も、母の気持ちを理解するには何年も、或いは10年20年のギャップがあったり、恥ずかしながら父の障害(父は難聴なんだ。補聴器つけてまぁ普通に生活してるけどね。それをバネに、大学ではオール優だったんだって。不十分なところも沢山あるけど、すごい努力家で尊敬してる)をおぼろげながらも理解できたのも、大学入って、文学部で難聴の友人が出来てからだもん。そういうことってあると思わない?

+++

実験でぽかミスをした(と思う)。おまけに、廃液を間違ったところにちょっとだけど流してしまった。私は平気な顔をしていたけど、私が流して大丈夫と言ったため流してしまった同じ班のメンバーは、間違いに気付いてから思うように実験が進められていないことに気疲したのか泣いてしまった。そのことは他のメンバーが察しで、言わないでおこうと言っていたのに、無邪気に口にしてしまったこと、周囲の人の気持ちを思い遣った行動をとるべきだったとものすごく反省。

+++

母の入院について、妹とちょっと話した。病状を説明してくれるよう、母に頼んで、家族で話し合おう、と主張する私に対して、妹は言った。誰もあんたみたいにストレートに話してくれと言って心を開く訳じゃない、と。言えるなら言ってる、本人が言うのが辛いから言わないんだ、父がどの程度把握してるかまず確認しよう、と。
母は、入院の前々日電話で話した時も、明るくはりのある快活な声を出していた。優しく、良いお母さんでいたいんだろう。6年前ほどに私が泣いて電話した時に、「いつまでもお母さんはあんたのお母さんなんだから甘えていいんだよ。お母さんにもお母さんがいて、甘えてるんだよ」と言った時のように。その時、どれだけ胸がツンとしたことだろう。母は、おそらく、自分の母に甘えてもきたと思うが、自分の本当のお母さんでないと言うことで小さい時から溝を感じて来たに違いないのに。それなのに、お母さんにもお母さんがいる、と言った母。お母さんには本当のお母さんがいないんだ、と幼稚園の時食卓を囲んでいるときにいきなり泣き出した母と比べて、包容力が格段に違うことを私は感じた。

母。

なぜかこの日記の、ひとつの主要なモチーフとなっている。


-

- 2002年12月18日(水)

12/17(火)
そろそろ本腰入れて勉強しなきゃ、、と思いながら、バイトから帰るとバタンキュー。またまたバイト中、瞬間的にうとうとしてしまい、金切り声で「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と起こされたしな。。良く眠っている。疲れてるのかなぁ。

12/18(水)
朝から解剖実習。骨盤の骨学と、臀部の筋肉と神経の観察だった。思ったより時間がかかった。


-

母 - 2002年12月17日(火)

母がまた昨日より入院している。
娘達にも心配をかけるまいと、黙っておいてくれと父に言ったらしい。
急を要することではなく、10日ほどで退院できるとのことだが、
一番心配なのは、母が、自分の状態や気持ちを全て自分の中で処理しようとしてしまうことだ。どういう検査を受け、どういう薬剤投与を受け、どういう状態なのか、ということは、母しか把握していない。
それでもいいのかもしれないが、周りの者も把握しておいて良いのではないだろうか、などと思ってしまう。

ただ、これは、医療職を志しているものとして、患者本人と家族や周りのサポートのこと、あるいは周りに親しい人がいない場合のこと、など考えねばならないことだ。

孤独、いや、一人でいることが当たり前になってしまえばそれは普通に耐えられることなのかもしれないが。

ひとり、という深淵。医療ではどうしようもない深淵。


-

- 2002年12月16日(月)

一旦朝起き出してから、勉強中の休憩で一眠りのつもりがぐうぐうと10時前まで眠ってしまった。あちゃー。

ゆえに午後出勤。12時52分に学校について、4分で着替えて、腹部の試問へ。今日はかなり癒し系。腹部動脈と腎静脈、鼠径管について尋ねられた。恥ずかしながら、鼠径管を覆って保護している筋肉が外腹斜筋だと今日まで知らなかった。。

次回の解剖実習の手引書の和訳をプリントアウトしてから帰宅。久々に時間が早かったので、駅まで歩く。

これから解剖の予習と生化学の試験の準備。

++

妹から連絡があり、母が今日から入院したようだ。妹も驚いていた。
急を要することは無いが、、とのことだが、一番心配なのは、
母は、心を閉ざしがちで、何でも一人で抱え込みがちなところである。
心を開いてもらいたい。


-

ずるい? - 2002年12月15日(日)

午前中と夕方と二軒家庭教師。朝はギリギリまで眠って、家庭教師先では昨日に続いてまたまた「お姉ちゃん、お姉ちゃん」とたびたび起こされる始末。合間には美容院でカット。そのあと、また夕方の仕事まで少し眠る。疲れてるのかな。最近、ちょっと運動不足なので、こまめに身体を動かすようにしよう。

昨日勉強会をした折に、再試スパイラルにはまっている私のことを、こんなものに本気になって全力投球してられるか、と、試験の準備を本気でやってない、舐めてかかっている、ずるい、と学士メンバー達が評していると聞いた。一部あたっているところはあるが・・確かに教養はどうしてまたせねばならなぬのかなど、思ったものだが・・ッて舐めてるだけじゃないんだけどなぁ。。その他は時間確保の難しさ、その中でも瞬発力を出す体力の無さ、変に自分を責めてしまうところ、、こういった要素も絡んでいる。あと、言い訳になるが、10月は調子崩しているところに忙しくなって、回復が遅れ、時間と気分的に勉強に手がつきにくかったというのもあるな。。
でも、ずるい、か。うーん。余裕かましているように見えるのかなぁ。

このごろは、逃避なんだか疲れているんだか、とにかく勉強しなきゃと思いながらよく眠っている。うーん。。睡眠は確保しなきゃならんが、勉強がはかどっていない。。ほんとうに、もっと余裕が欲しい。

お客さん用の敷き布団や、ホットカーペットカバーを揃えた。

あと、以前ポーラ美術館のミュージアムショップで買ったコットン&セルロース製のキッチンワイパーはすぐれもの。食器汚れも素晴らしく良く落ちる。商品情報、販売ショップはこちら


-

- 2002年12月14日(土)

朝、出発のギリギリまで惰眠をむさぼってから家庭教師へ。十分眠っていたはずなのに、家庭教師先でも寝言までいってうつらうつらしてしまう。

午後から生化学の勉強会。過去問の解答を確認しあったという感じだった。みんなが良く理解しているので良い刺激になった。

今週は大学から帰って来てから良く眠った。そろそろ本腰を入れて生化学のネジを巻きます。


-

補 / 生活費・言葉、アメリカで(つづき) - 2002年12月13日(金)

今朝、未明から起き出して生化学の勉強の予定が・・洗濯物を手洗いして干すのに結構時間がかかり、大してはかどらず。おまけに、お弁当を作ったのに、電車で眠ってしまい、慌てて降りた時にお弁当とお茶を置き去りにして来てしまった(汗)。あーあ。。お財布落とすよりはいっか。。

++

とある読者の方より、ワタクシが話しているのは、NHK的標準語というより、イントネーションやスピードなどの点で島根的標準語ではないか、方言より標準語を好むくせに英語は嫌いだったというのは権力という観点から矛盾する態度ではないか、という御指摘を受けた。しまね的標準語..そうかもしれない。一度だけ広島出身の人に「近い」とずばり「松江か津和野か」と当てられたことがある。聞く人が聞けば、イントネーションから判別可能らしい。我が姉妹はあまりカツゼツがよくなくて、くぐもったような声と話し方をしてるのもあるし。あと権力についていえば、おそらく私は権力、というか権威に弱い人間である。学歴とか、社会的立場とか、そういうことに対してすがるところのある、弱い、いささか自助努力と判断を怠るところのある人間なんだと思う。そしてまた、母の価値判断の態度に非常に似ていると思う。

英語についていえば、下に書いたようなこと・・権力を感じて小学生のアメリカ滞在中に英語を話そうとしなかったというのは、まず何よりも権力を感じたから、というより、間違えることを恐れたという方が実は近い。学校への登校初日、美術室に鉛筆を置き忘れた私は、日本でならったとばかり「ペンシル」と級友にいった(忘れるforgetは知らなかった)。が、それは通じなかった。描くまねでもすれば良かったのかもしれないが、それはキムという名の級友には「ペンシボー」と聞こえ、彼女は怪訝な顔で「ペンシボー?」と尋ね返した。「ペンシル、ペンシル」と私は繰りかえした。が、通じなかった。
そこで私は、それ以上日本でならっていったことばを話そうとするのがいやになった(新しく学ぼうという態度に欠けていた)。そして、同時に、日本でアメリカからお客さんが来た時、日本語を一切交えず父と母が自宅にて接待を卑屈なまでに一所懸命していた姿が思い出され、どうしてアメリカ人の人は日本に来たら英語で接してもらえるのに、日本人がアメリカに来てもそうはいかないのか、と子どもっぽい真直ぐさで腹が立ち、それ以上英語で話さないことに決めたのだった・・
これが私が小学生の時アメリカで英語を話そうとしなかったいきさつである。

++

先日書いたことの補足。

なぜ生活費を親から出してもらうと妹(上の妹)から文句が出るのか。
それは、妹が大学の被服学科を卒業したあと、パタンナーへの夢を実現すべく、服飾デザインの専門学校に入学した際、学費の100万だかを自分のバイト代で払ったことによる(親に文句いわれたくなかったんだろう)。そのくせ、私はのうのうと修士に入ってからも学費など親に当然のようには出してもらってたし、さらに留年したりしてたから、妹にしてみればだらしない姉だったことだろう(留年に関していえば、ノーベル賞を受賞した田中耕一さんが、やる気が出なくて大学2年の時留年を経験したということを今日テレビで始めて知った。人生、紆余曲折あっていいんだな、なんて思った)。

まぁ、そんな妹も卒業してから昨年までは服飾関連で働いていたけれど、観念したのか、昨年の11月から公務員を経て現在は半官半民みたいな会社で一般事務職員をやっている。

その他にも、一応私が今の学校に入り直すにあたって親が目くじらを立てなかったことの一つに、私が相応の貯金をしていて(入学時で500万円程度ありました。勤務年数の割に多い額と思います。放漫経営(?)により、現在は約半分になってるはず。ちなみに、6年間完全に自宅外で自弁しようと思えば、1000万円ほど必要と聞きますし、実際そうでしょう)もちろん、それはそれで親に生活費や学費を出してもらう大学院生をしながら、その間働いていた分は自分用にためていた、という、親の経済力に立脚したものではあるが)、生活費は自分で出すと言ったし実際少なくとも今は、自活していることが大きい。独立している、と親はみなしていて、安心しているし、それを少しは周りに対して誇りにしていると思う。

++

ことば、出雲弁に対してアレルギーのあった私は、当然関西弁も何年も苦手だった。今は、うまく使えてはないけど、ツールの一つかなって思ってるけど。

そして、英語教員をやってたけど、アメリカに滞在していた小学生の時の私は英語嫌いだった。詳細はまた後日に書くことがあるかもしれないが、とにかく、英語がアメリカ合衆国という国の権力(政治的、経済的)を感じさせていやだったのだ。小学校2年にして、鋭い(?)子どもだったのかもしれない。
いや、一応、日本でアンビック(現イーオン)なる英語学校の子ども教室に通っていたし、登校初日には勇んで英語で話そうとしたのだけれど。

ともあれ、当然そのような子どもは学校で問題視され(特にアメリカでは、沈黙は美徳ではなかったので)、耳が聞こえないのか、から始まり、知能が低いのではないか、問題がある子どもではないか、と通っていた公立小学校の校長先生から両親宛に手紙が来たりもした。それでも子どもの我々にはおとがめが特になかったのだから、母はどうやって返事したのだろう。

あとになって、つまり、大学生になってから、少数言語を学ぶ旅行好きの友人が出来てからそのことを話したことがあった。彼女は、今までの友人と違う反応を示した。それは庇護されていて、話さなくても安全に生活できたからだ、言った。その通りだった。英語はパワーを感じさせて嫌いだと口を聞かなくてもスクールバスは朝になると私を連れて学校まで行ってくれたし、行けば午前中は英語を母語としないクラスでの授業が保障され、人種差別は特にない落ちついた学校であった。貿易黒字が問題視され、ジャパンバッシングが始まる以前で、それでもニューヨーク州の地方都市にもごくふつうにスーパーにはキッコーマンの現地工場のお醤油と、日清のカップラーメンが並び、サンリオのキティーちゃんのキャラクター商品がひっそりと流通していた。中国人か日本人かとしょっちゅう尋ねられたが、それを理由に子どもの世界で私は不快な思いをしたことはなかった。英語を母語としないこどものための教室には、世界地図がかかげられ、生徒の出身地にはその国旗がピンで止めてあった。バングラディッシュ、ベネズエラ、ナイジェリア、イエメン、韓国、その他数十ヶ国の国旗が踊っていた。日本人の少ない町だったので、お米は韓国人の経営する小さな食料品店でカリフォルニア米を買っていた。乾物の独特のにおいがした。お味噌は手に入らなかったので日本から送ってもらっていた(同じ時期に、日本人の多い大都市に行くと、お豆腐でも油揚げでもスーパーで手に入れることが出来たのは衝撃だった)。韓国の人の顔を見ると、どことなく黒い髪とモンゴリアンの風貌が懐かしかった。日本語の新聞は、1週間遅れで送られて来て、幾つかの日本人家庭の間で回し読みしていた。私も、日本語の新聞が来るのが待ち遠しかった。ニューヨークだとか、サンフランシスコだとか、大都市みたいに日本語の本を売っている紀伊国屋がなかったから、持っていった岩波少年文庫を、繰り返し繰り返し読んだ。現地に住んでいる日系2世のお兄さんは、日本語は流暢だったけど、読むのは骨が折れるといって、私が小難しい本を読んでいると驚いた。
そして、英語を話さなくても、子どもは、話したいという欲求を学校にいる間ちょっとおさえていれば済み、校長先生から両親が注意の手紙を貰うだけのことで、生活は安泰だった。週2日休みがあって、週末旅行にしょっちゅう出かけ、しょっちゅうホームパーティーがあった。輸入牛肉など日本ではまだ流通していなかった頃で、お肉が安くてど〜んと食べられるのは、食べ盛りの私には嬉しかった。美しい(そして人と調和した)自然に囲まれていた。

その点、少数言語を話す者は、往々にして経済的、社会的、政治的に弱い立場に置かれ、世の中によく流通している言葉を話さないと生活ができないことがままある。日本語を母語とする者が、日本語だけで生活できることは、幸せなのだ。

ことば、言葉。


-

- 2002年12月12日(木)

生化学の実習は、実験を5時半くらいまでやって、そのあとデータの処理(得られた数値をプロットしてグラフにする)、さらに先生による講議形式の解説があり、8時過ぎまで学校にいた。あまり違和感なくいたけど、よく考えたらこの時間までいたのは始めてだった。

終わると外がとても寒かった。

夕食は、野菜沢山のポトフ(レトルトパウチ食品)、きんぴらごぼう(お惣菜)、べ−グル(ポール・ボキューズのパン)、みかん。野菜不足を感じて野菜を沢山とった。
このレトルトパウチのポトフはなかなか優れものである。コンビニで買った明治製菓の製品で、大きめの野菜野菜が120グラム(一日の理想摂取量の約1/3)が入っている。キャベツ、にんじん、たまねぎ、じゃがいも、さやいんげん、牛肉が具で、248円だった。レンジで2分あたためれば食べごろだ。ほんと、レトルトパウチがよくがんばってるぞ、というくらい入っている。ただ、これだけとって一日の理想摂取量の1/3ということは、いかに野菜は沢山とる必要があるか、ということである。ちなみに、90キロカロリーしかない。ちなみにお昼は学食のおにぎりセット、朝はポールボキューズのレーズンコッペパンとチーズ、ヨーグルト少々、みかん。

例のごとくそのあと3時間ほど眠って、これから少々生化学の勉強をするつもりだ。




-

解剖のある水曜日。 - 2002年12月11日(水)

朝から解剖。8時10分の最寄り発の電車に乗っても(つまり8時に家を出ても)9時からの実習に間に合うことを知ってしまった(汗)。前回の消化器系の血管の走行の確認の続きで、今日は、消化器各器官と、腎臓、副腎を確認した。腹壁後部の血管の走行には確認に相当手間取ったが、4時半には駅についていたし、ラッキー(それでも帰ると疲れて2時間は眠ってた)。

それから、Sonyの携帯は壊れやすいらしく、今朝もいきなり調子がおかしくなった。auショップで直してもらおうと帰り寄りかけたらいきなり直るんだもんなぁ、勘弁してほしいよぉ。ちなみに、同一機種を使っている妹は、すでに修理にだしてまともになっていると言っていた。

デパ地下に入っているパン屋さんでパンを買って帰宅。堅いフランスパンが好きなんだよね。ここではたと、母のことを思い出した。母は、結婚してから暫く(勤めを辞めて、かつ自分のお給料の貯金がなくなるまで)毎日デパートで買い物するのが当たり前だと思っていたらしいが、確かに、帰り道の便利な場所にデパートがあれば毎日食料品なら買うのに寄っちゃうよね。さして高い訳じゃないし(コンビニよりやすいし、モノも豊富)。あ〜あ、どこかしら母の生活パターンに似てるよ。やはり生活を共にして来た親子というんでしょうか。。

帰ってからパンとクノールカップスープと、生野菜サラダとゆで卵で夕食(ちなみに、朝は100円均一だったキツネうどん、お昼は大学の食堂で酢豚の定食400円なり)。そのあと、2、3時間眠って、今は目が覚めて来て生化学の過去問で勉強しているところ。もうちょっと過去問を集めよう。

++

昨日は、自分のことばかり考えて、日記にも疲れてくると云々とか書いたし、どのように「私を見て」と思うのか自分を見つめてメールを送ったりしたけど、一日近く経って来てから恥ずかしくなって来た。「わたしわたし」ばかりなのが未熟に感じられて(これでも、だいぶマシになって来ていると思う。去年に比べても)。でも、ちょっとしたメールを読んで、思わず涙してしまった。うれし涙。心が通じ合っているのって嬉しいし、心が暖かくなる。



-



 

 

 

 

INDEX
past  future

 Home