Wakako's Diary 道すがら記

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- 2002年12月14日(土)

朝、出発のギリギリまで惰眠をむさぼってから家庭教師へ。十分眠っていたはずなのに、家庭教師先でも寝言までいってうつらうつらしてしまう。

午後から生化学の勉強会。過去問の解答を確認しあったという感じだった。みんなが良く理解しているので良い刺激になった。

今週は大学から帰って来てから良く眠った。そろそろ本腰を入れて生化学のネジを巻きます。


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補 / 生活費・言葉、アメリカで(つづき) - 2002年12月13日(金)

今朝、未明から起き出して生化学の勉強の予定が・・洗濯物を手洗いして干すのに結構時間がかかり、大してはかどらず。おまけに、お弁当を作ったのに、電車で眠ってしまい、慌てて降りた時にお弁当とお茶を置き去りにして来てしまった(汗)。あーあ。。お財布落とすよりはいっか。。

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とある読者の方より、ワタクシが話しているのは、NHK的標準語というより、イントネーションやスピードなどの点で島根的標準語ではないか、方言より標準語を好むくせに英語は嫌いだったというのは権力という観点から矛盾する態度ではないか、という御指摘を受けた。しまね的標準語..そうかもしれない。一度だけ広島出身の人に「近い」とずばり「松江か津和野か」と当てられたことがある。聞く人が聞けば、イントネーションから判別可能らしい。我が姉妹はあまりカツゼツがよくなくて、くぐもったような声と話し方をしてるのもあるし。あと権力についていえば、おそらく私は権力、というか権威に弱い人間である。学歴とか、社会的立場とか、そういうことに対してすがるところのある、弱い、いささか自助努力と判断を怠るところのある人間なんだと思う。そしてまた、母の価値判断の態度に非常に似ていると思う。

英語についていえば、下に書いたようなこと・・権力を感じて小学生のアメリカ滞在中に英語を話そうとしなかったというのは、まず何よりも権力を感じたから、というより、間違えることを恐れたという方が実は近い。学校への登校初日、美術室に鉛筆を置き忘れた私は、日本でならったとばかり「ペンシル」と級友にいった(忘れるforgetは知らなかった)。が、それは通じなかった。描くまねでもすれば良かったのかもしれないが、それはキムという名の級友には「ペンシボー」と聞こえ、彼女は怪訝な顔で「ペンシボー?」と尋ね返した。「ペンシル、ペンシル」と私は繰りかえした。が、通じなかった。
そこで私は、それ以上日本でならっていったことばを話そうとするのがいやになった(新しく学ぼうという態度に欠けていた)。そして、同時に、日本でアメリカからお客さんが来た時、日本語を一切交えず父と母が自宅にて接待を卑屈なまでに一所懸命していた姿が思い出され、どうしてアメリカ人の人は日本に来たら英語で接してもらえるのに、日本人がアメリカに来てもそうはいかないのか、と子どもっぽい真直ぐさで腹が立ち、それ以上英語で話さないことに決めたのだった・・
これが私が小学生の時アメリカで英語を話そうとしなかったいきさつである。

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先日書いたことの補足。

なぜ生活費を親から出してもらうと妹(上の妹)から文句が出るのか。
それは、妹が大学の被服学科を卒業したあと、パタンナーへの夢を実現すべく、服飾デザインの専門学校に入学した際、学費の100万だかを自分のバイト代で払ったことによる(親に文句いわれたくなかったんだろう)。そのくせ、私はのうのうと修士に入ってからも学費など親に当然のようには出してもらってたし、さらに留年したりしてたから、妹にしてみればだらしない姉だったことだろう(留年に関していえば、ノーベル賞を受賞した田中耕一さんが、やる気が出なくて大学2年の時留年を経験したということを今日テレビで始めて知った。人生、紆余曲折あっていいんだな、なんて思った)。

まぁ、そんな妹も卒業してから昨年までは服飾関連で働いていたけれど、観念したのか、昨年の11月から公務員を経て現在は半官半民みたいな会社で一般事務職員をやっている。

その他にも、一応私が今の学校に入り直すにあたって親が目くじらを立てなかったことの一つに、私が相応の貯金をしていて(入学時で500万円程度ありました。勤務年数の割に多い額と思います。放漫経営(?)により、現在は約半分になってるはず。ちなみに、6年間完全に自宅外で自弁しようと思えば、1000万円ほど必要と聞きますし、実際そうでしょう)もちろん、それはそれで親に生活費や学費を出してもらう大学院生をしながら、その間働いていた分は自分用にためていた、という、親の経済力に立脚したものではあるが)、生活費は自分で出すと言ったし実際少なくとも今は、自活していることが大きい。独立している、と親はみなしていて、安心しているし、それを少しは周りに対して誇りにしていると思う。

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ことば、出雲弁に対してアレルギーのあった私は、当然関西弁も何年も苦手だった。今は、うまく使えてはないけど、ツールの一つかなって思ってるけど。

そして、英語教員をやってたけど、アメリカに滞在していた小学生の時の私は英語嫌いだった。詳細はまた後日に書くことがあるかもしれないが、とにかく、英語がアメリカ合衆国という国の権力(政治的、経済的)を感じさせていやだったのだ。小学校2年にして、鋭い(?)子どもだったのかもしれない。
いや、一応、日本でアンビック(現イーオン)なる英語学校の子ども教室に通っていたし、登校初日には勇んで英語で話そうとしたのだけれど。

ともあれ、当然そのような子どもは学校で問題視され(特にアメリカでは、沈黙は美徳ではなかったので)、耳が聞こえないのか、から始まり、知能が低いのではないか、問題がある子どもではないか、と通っていた公立小学校の校長先生から両親宛に手紙が来たりもした。それでも子どもの我々にはおとがめが特になかったのだから、母はどうやって返事したのだろう。

あとになって、つまり、大学生になってから、少数言語を学ぶ旅行好きの友人が出来てからそのことを話したことがあった。彼女は、今までの友人と違う反応を示した。それは庇護されていて、話さなくても安全に生活できたからだ、言った。その通りだった。英語はパワーを感じさせて嫌いだと口を聞かなくてもスクールバスは朝になると私を連れて学校まで行ってくれたし、行けば午前中は英語を母語としないクラスでの授業が保障され、人種差別は特にない落ちついた学校であった。貿易黒字が問題視され、ジャパンバッシングが始まる以前で、それでもニューヨーク州の地方都市にもごくふつうにスーパーにはキッコーマンの現地工場のお醤油と、日清のカップラーメンが並び、サンリオのキティーちゃんのキャラクター商品がひっそりと流通していた。中国人か日本人かとしょっちゅう尋ねられたが、それを理由に子どもの世界で私は不快な思いをしたことはなかった。英語を母語としないこどものための教室には、世界地図がかかげられ、生徒の出身地にはその国旗がピンで止めてあった。バングラディッシュ、ベネズエラ、ナイジェリア、イエメン、韓国、その他数十ヶ国の国旗が踊っていた。日本人の少ない町だったので、お米は韓国人の経営する小さな食料品店でカリフォルニア米を買っていた。乾物の独特のにおいがした。お味噌は手に入らなかったので日本から送ってもらっていた(同じ時期に、日本人の多い大都市に行くと、お豆腐でも油揚げでもスーパーで手に入れることが出来たのは衝撃だった)。韓国の人の顔を見ると、どことなく黒い髪とモンゴリアンの風貌が懐かしかった。日本語の新聞は、1週間遅れで送られて来て、幾つかの日本人家庭の間で回し読みしていた。私も、日本語の新聞が来るのが待ち遠しかった。ニューヨークだとか、サンフランシスコだとか、大都市みたいに日本語の本を売っている紀伊国屋がなかったから、持っていった岩波少年文庫を、繰り返し繰り返し読んだ。現地に住んでいる日系2世のお兄さんは、日本語は流暢だったけど、読むのは骨が折れるといって、私が小難しい本を読んでいると驚いた。
そして、英語を話さなくても、子どもは、話したいという欲求を学校にいる間ちょっとおさえていれば済み、校長先生から両親が注意の手紙を貰うだけのことで、生活は安泰だった。週2日休みがあって、週末旅行にしょっちゅう出かけ、しょっちゅうホームパーティーがあった。輸入牛肉など日本ではまだ流通していなかった頃で、お肉が安くてど〜んと食べられるのは、食べ盛りの私には嬉しかった。美しい(そして人と調和した)自然に囲まれていた。

その点、少数言語を話す者は、往々にして経済的、社会的、政治的に弱い立場に置かれ、世の中によく流通している言葉を話さないと生活ができないことがままある。日本語を母語とする者が、日本語だけで生活できることは、幸せなのだ。

ことば、言葉。


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- 2002年12月12日(木)

生化学の実習は、実験を5時半くらいまでやって、そのあとデータの処理(得られた数値をプロットしてグラフにする)、さらに先生による講議形式の解説があり、8時過ぎまで学校にいた。あまり違和感なくいたけど、よく考えたらこの時間までいたのは始めてだった。

終わると外がとても寒かった。

夕食は、野菜沢山のポトフ(レトルトパウチ食品)、きんぴらごぼう(お惣菜)、べ−グル(ポール・ボキューズのパン)、みかん。野菜不足を感じて野菜を沢山とった。
このレトルトパウチのポトフはなかなか優れものである。コンビニで買った明治製菓の製品で、大きめの野菜野菜が120グラム(一日の理想摂取量の約1/3)が入っている。キャベツ、にんじん、たまねぎ、じゃがいも、さやいんげん、牛肉が具で、248円だった。レンジで2分あたためれば食べごろだ。ほんと、レトルトパウチがよくがんばってるぞ、というくらい入っている。ただ、これだけとって一日の理想摂取量の1/3ということは、いかに野菜は沢山とる必要があるか、ということである。ちなみに、90キロカロリーしかない。ちなみにお昼は学食のおにぎりセット、朝はポールボキューズのレーズンコッペパンとチーズ、ヨーグルト少々、みかん。

例のごとくそのあと3時間ほど眠って、これから少々生化学の勉強をするつもりだ。




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解剖のある水曜日。 - 2002年12月11日(水)

朝から解剖。8時10分の最寄り発の電車に乗っても(つまり8時に家を出ても)9時からの実習に間に合うことを知ってしまった(汗)。前回の消化器系の血管の走行の確認の続きで、今日は、消化器各器官と、腎臓、副腎を確認した。腹壁後部の血管の走行には確認に相当手間取ったが、4時半には駅についていたし、ラッキー(それでも帰ると疲れて2時間は眠ってた)。

それから、Sonyの携帯は壊れやすいらしく、今朝もいきなり調子がおかしくなった。auショップで直してもらおうと帰り寄りかけたらいきなり直るんだもんなぁ、勘弁してほしいよぉ。ちなみに、同一機種を使っている妹は、すでに修理にだしてまともになっていると言っていた。

デパ地下に入っているパン屋さんでパンを買って帰宅。堅いフランスパンが好きなんだよね。ここではたと、母のことを思い出した。母は、結婚してから暫く(勤めを辞めて、かつ自分のお給料の貯金がなくなるまで)毎日デパートで買い物するのが当たり前だと思っていたらしいが、確かに、帰り道の便利な場所にデパートがあれば毎日食料品なら買うのに寄っちゃうよね。さして高い訳じゃないし(コンビニよりやすいし、モノも豊富)。あ〜あ、どこかしら母の生活パターンに似てるよ。やはり生活を共にして来た親子というんでしょうか。。

帰ってからパンとクノールカップスープと、生野菜サラダとゆで卵で夕食(ちなみに、朝は100円均一だったキツネうどん、お昼は大学の食堂で酢豚の定食400円なり)。そのあと、2、3時間眠って、今は目が覚めて来て生化学の過去問で勉強しているところ。もうちょっと過去問を集めよう。

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昨日は、自分のことばかり考えて、日記にも疲れてくると云々とか書いたし、どのように「私を見て」と思うのか自分を見つめてメールを送ったりしたけど、一日近く経って来てから恥ずかしくなって来た。「わたしわたし」ばかりなのが未熟に感じられて(これでも、だいぶマシになって来ていると思う。去年に比べても)。でも、ちょっとしたメールを読んで、思わず涙してしまった。うれし涙。心が通じ合っているのって嬉しいし、心が暖かくなる。



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リサイクル好き - 2002年12月10日(火)

うまく身の回りを片付けたり、真にモノの有効利用をしているとは言い難い私だけれど、リサイクルは好きである。
家具で言えば、ローチェスト、棚二つ、テレビ、洗濯機、鏡、電気スタンドは、養子に頂いた(あるいは買い取った)ものである。
養子に出したものでは、今年度は、ホットカーペット(1畳用)、自転車かな。

前の持ち主がいたものは、由来の物語がまた面白く感じたりする。

新品じゃなきゃいや、という人も世の中には多いのだろうけど、私は抵抗がない。

なぜか。まず勿体無い。使えるものを捨てるのは、モノが泣いているような気がする。
それから、小学校2年生の秋から1年間、アメリカ合衆国に滞在した時、ガレージセールを経験したことは大きい。モノは買うもの、という観念はそこで打ち砕かれた。家具は一通り全て、主にちょうど入れ替わりで帰国するご家族から譲って頂き(だから1週間は家具なしで寝袋を貸して頂いて家具が来るのを待った)、帰国時にはガレージセールで全て売り払った。意外なものも欲しがる方がいると言うこともそこで知った。絵本なんかも人気だった。
次に、文学部の院生時に火災に遭った時、救援の手を方々から差し伸べて頂き、家財道具をほぼ頂き物で揃えてしまった経験も大きい(クラブ活動などでうまく人脈を持っていると、自宅生が入学後何年か経ってからに下宿を始める場合、家財道具を一切譲ってもらって済ませることは十分可能なようでした)。ちなみに、そのときの冷蔵庫やローチェスト、アイロン、テレビなどは、一旦就職した時に気前よく(?)ばらまかせて頂きました。

まぁ、引き取り手がいなかったとしても、声をかけるだけかけてみるというのが私の主義です。

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今日は、ミカエリスメンテンの式の追実験となるような酵素反応の速度の確認実験をした。

帰りには、しょうゆ味の煮物を食べたくなって、
デパ地下で豆藤のお惣菜セットを買って帰る。400円の幸せ。

気分が落ち着きつつあるこの頃とはいえ、いっぱしに研究者として活動や発言している同年代の方の姿をみると、
あぁ、大したことはしてないなぁ。。何してるんだろ、、
ってちょっと落ち込まないでもない。
今はもう別の道って割り切ってるけど、3年くらい前は、文学部の同窓会が出してる研究室便りみたいな欄見て、悔しくなって泣いたもんな(汗)。

あと、(自分では)大分克服しつつあると思うのだけど、「私を見てみて。私を愛して。私のことを可愛いといって」という子どもっぽい涙が疲れてくると頭をもたげる。昨日も、自分でホームパーティーしたいと思ったくせに、連想でいろいろ思い出しちゃって、落ち込んで涙まで出て来たもんな。私ってひどすぎて可愛くなくて人前に出せない人間なのかなぁとか、価値がないのかなぁとか。青春を返してとか(笑)。

実際の私は、そこまで悲観すべき状態でもない、のかもしれないのだけど。

自信、かぁ。むつかしいなぁ。過大なのも困るけど、なさすぎると、ホント私なんか飲み会に顔出すのさえ気が引けちゃうことがあるから。。

バランスとって生きてくのには、まだもうちょっとかかりそうだ。



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生活の創意工夫 - 2002年12月09日(月)

冬の休暇中に、一時帰国する旧友が2、3日わかこ邸に滞在することになっている。日々、バタンキューで、あまりに散らかっているので、今週一杯は差し当たりテストがないのを幸いに、少しずつ片付けておくことにした。まずは、買ったばかりの布製の釣り下げ型ストックホルダーを二つ早速吊るして、冬の服を納めてみた(通販で頼むと一つ2480円から3480円するのですが、大手スーパーのインテリアコーナーで買うと6段の棚がついて1580円、3段なら980円です)。うーん、私には着てない服が多すぎる。。安物買いをすぐしちゃうし(食料品でも日用雑貨でも、すぐまとめ買いしてしまうのだ)、頂き物は頂くし(服も然り。妹からお古を大量に貰っている)、かといって、バザーやフリマに出す以外は処分しないので、貯まる一方。買い物は精選して、一つ一つ使い切ることが肝要かな。。
ともかく、持っているものを可視化することにした。見えるようにすることで、何があるか把握しておくようにするのだ。
その他わかこ邸に多いのは、書籍と紙類だが(あと買いだめしてある食料品)、書籍は教科書以外は最近は余り増えていない。これも、段ボール製のストッカーを買うのは勿体無いので、段ボール箱をうまく利用することにする。これなら破れてもすぐゴミの日に出せるし、次のも作れるし、今度引っ越す時にも便利だ。
ともかく、年間100万円生活目標に!だ。

居室がすっきり片付いて、じゃらじゃらものを持っていないひとは、ホントすごいと思う。

あと、破れた靴下、ストッキング、そして空きペットボトルを利用して、無印良品で大袋で買ったドライ・ラベンダーを少しずつ入れ、芳香剤を作る。ひとまず5個作って、大学のロッカーや、衣類の間、TVの上に置く。手を動かして工作したい気分になったのは、芸大志望の教え子が、カレンダーを手作りしていることに触発されたのもあるかな。以前の隣人も、カレンダーや身の回りのインテリア、アクセサリーなど、うまく自分で作っていたことを思い出した。何でも買ってそろえる必要はない。

まだまだ片付ける必要があるけれど、なんだかちょっと嬉しい。

あとは、寝袋はあるのだけど、お客さん用にお布団があるといいかな?ってそれはものを増やし過ぎかも(汗)。ともあれ、どんどん改造して住みやすくする予定デス。


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12/7-8 - 2002年12月08日(日)

12/7(土)
細胞生理学の再試験を受けた。教科書の「細胞生物学Essential」を改めて読み、その内容の濃さに驚いた。ただ、途中で思うように準備できていないことにいらだち、ちょっと逃避モードに入って殿に愚痴メールを打ちまくったり(ひとまずいつも感情を受け止めてくれてありがとう)、さだまさしの自伝的小説をドラマ化した、NHKの夜の連続ドラマ「精霊ながし」の再放送をまとめてみて物悲しくなって泣いたりしてた。朝も行きの電車の中で鬱々隆年しそうになった時どうしようかとか、辞めるべきかとか、考えてたし。。
それでも何とか受けて、客観式だったので早速友人達と食堂で自己採点してギリギリ60点ちょっとありそうなのを確認した(落ち着いて勉強していれば!もっと点が伸びたはず。。汗。間違えたところは復習して理解しておこう)。これを落とすと留年だ、と脅えていたし、おまけに、この細胞生理学が通らないと統計学の再試験を受けさせてもらえない(?)と先生から言い渡されていたので、ひとまず、終わって非常にほっとした。

家庭教師の教え子には、テストが非常に多いこととカリキュラムが詰まっていて終わる時間が読みにくいことを説明し、週1、2回でいいとの了承を得た。良かった。家庭教師の帰り、またまたJRで寝過ごす。有り難いことに寝過ごしても今のところ京都駅で目が覚めているからいいけど。。帰ってから次の朝まで、ぐっすり眠った。

12/8(日)
朝、近所の家庭教師の時間までぐっすり眠った。買い物して、棚に吊るす布製の収納ホルダーを追加で2個(通販やお洒落なインテリアショップの半額で同じものがスーパーでは入手できる)、それから食料品(野菜、卵、大豆製品、それから100円ショップに対抗するかのように100円均一になっていたレトルト食品)大量に購入して歩いて帰宅。歩くのは気持ちがいい。
2時からレトルトのカレーとみかんでお昼。
ちょっと生化学の試験資料に目を通してからもう1軒家庭教師に。
帰省の日程も決めた。

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自分の感情や体調などをコントロールする術を身につけるための術(解決法)を身につけルことが学生期間にはできるし、し終えておくべきこと、と金曜日に学士で入って来られた方が仰っていた。そうだな、と思うと同時に、人を見るまなざしが暖かい方だな、と思った。

それから、なんだかんだと若いクラスメートにも支えてもらってる。理解力とか、刺激になることも多い。ありがとう。





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- 2002年12月06日(金)

金曜日、何をしたという訳でもないけれど、解剖の観察には何か疲れてしまった。なんだか4人班というのは人数が多いような気さえしてしまう。体力的に大変だし、テーブルや教室のスペース、御遺体の用意など、現実的には無理だと思うけど、一人で自分の分は責任持ってみない限り(それかものの分かった指導者についてみせてもらうかしないと)身につかないなぁという気がしている。

防腐と防臭のために解剖実習室では冷房が効いてさえおり、物理的にストレスなんだと思う。

ともあれ、学校で勉強するのを止めてゆったりと駅まで歩いて(帰宅してみると、JRが人身事故で止まっているようなので、さっさと帰って良かったと思った)デパ地下でチキンの香味上げとサラダを買って帰り、ちょっと豪華な気分で夕食。なんかお腹にまだ入りそうだったので、デザートに、冷蔵庫に1ヶ月半前からあったアイスクリーム(エスキモーの「メープルバニラ」100円で、なかなかいける。1カップ140キロカロリーなのも嬉しい)。これから試験の準備。G蛋白の理解が必要かな。


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- 2002年12月05日(木)

酵素を反応させる生化学実習の実験は、反応液を何度か作り直したりして、結構手間取った。ただおかげで、濃度が違うと使い物にならないことは良く分かった。

昨日生活費について書いたが、、自分で(ある程度まで?)用立てねばならぬということであって、派手に遣えはしないが、困ってると言う訳ではない。こうして学び直すことができていることは恵まれているとも思う。ただ、愚痴ったところ、10年来の友人がどうしても困ったら100万か200万は用立てる、出世払いで返してくれ、と申し出てくれ、有り難いと思った。

昼、級友達と話していて、まだまだ細胞生理学の試験の勉強が不十分であることに気付く。飲みのお誘いはお断りして(しくしく)、チャンポンで幸せを感じてから帰宅。帰宅後、一眠りしてから今起きたところです。今から準備。前期、暗号でしかなかった言葉が、最近ようやく意味をなして来たことを喜びましょう。 


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生活費 / わがまま - 2002年12月04日(水)

またテストに落ちた(組織学)。十分な知識を身につけていないことは事実であるから勉強するにやぶさかではないが、勉強時間を思うように確保できなかったことに悔しくて泣いた。最近は勉強から逃避なんてしていない(してられない)。ちなみに今回、約100人中合格は31名で、平均点は54点。私も平均点ジャストである。あともう少し勉強を積み重ねておけば良かったのだろう。ついついまた若い同級生に愚痴をこぼす。こちらの感情を受け止めてくれてありがとう。

生活費を稼ぐのは、私のような体力のさしてない(?)人間にとって結構大変で、帰って来たらもうそのままバタンキューだ。今日は予想以上に解剖が長引いたので、家庭教師、遅らせて下さいと言わずにもう今日はキャンセルさせて下さいと行くのを止めてしまった。今月は7日、23日、28日と再試があり、21日には生化学の本試験がある。漏れなく通らないと冗談にもならない。もう、自分のことを優先しよう。

とはいえ、私だって以前の大学は両親に出してもらっていたのだし、留年した時だって生活費や学費のことなんざちょっとも考えずに当然のようにお金を出してもらった訳で、えらそうなことは言えない。
今だって、自分の意志で入り直したんでしょ、しんどいなら辞めたら、と言われれば終わりである。

また、自分の時間を確保したいがために親にさり気なく生活費を出してもらうことについて先月打診してみたが、「貯金があるんでしょ、それまず遣いなさいよ」「出したら有紀ちゃん(妹)たちがうるさいじゃない。」と、目配せをするような口調で素っ気無く却下された。

まぁ、自分で選んだ道なんだ、まずは貯金のさらなる切り崩しですな。

解剖のあと、何かしら歩きたくなって駅まで30分かけて歩いて帰った。

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実習など休みがちな同級生に対して。
だらしないとか(私もテスト落ちまくってるからそう思われてるかと思うと余計悔しい。マイペースな部分もあるからなんとも言えないけど)わがままとかいう意見、構い過ぎる必要もないと言う意見、様々ある。しかし、物理的に起きれない分についてはフォロー可能で(する必要が)あろうし、やはり来ないのはそれなりの理由がある訳で、わがままとかだらしないとかそういうことではない。学生課と友人にできることはあると私は思っている。もちろん、実習を休みがちなことは問題だから、本人がしっかり参加することが必要である。が、それをあげつらうより、参加できる体制を整えることが、建設的なんじゃないかと思う。もちろん、最終的には本人が参加することが肝要であるし、何から何まで回りがする必要はない。

そして何より私が心にとめるべきと思うのは、誰だって常にフルパワーで動けるとは限らないと言うことである。

私は自分にも人にも甘いのだろうか、それとも私は気が長いのだろうか。



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