沢の螢

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大晦日
2006年12月31日(日)

息子から夫宛に、「ブログ書いてるから見てよ」とメールがあった。
息子夫婦は、東京の下町に住んでいる。
40歳になったが、子どもは居ない。
忙しく、半年に一度くらいしか顔を合わせないが、この正月は、キャンセル待ちしていたハワイ旅行に行けることになり、今日の飛行機で発つはずである。
息子は、一人っ子だから、マザコンなどと言われないように、昔から、母親の私には、意識的に距離を取っているが、父親には、自然なスタンスで付き合っている。
だから、電話もメールも、私は夫から内容を間接的に知らせて貰うだけである。
ブログを見ると、今月になって開設したホヤホヤで、毎日、自分で撮った写真を載せ、そこにエッセイ風の文章を添えてある。
「今晩は(こんにちは)皆さん」で始まる文章は、その日その日に感じたことや、思ったことの平易な文章ばかりだが、世の中の動きも捉えて、率直な感想も入っており、我が息子ながら、なかなかいい線を行ってるなと感心した。
文体はですます調で、柔らかく、上から物を言うような調子もない。
ブログランキングに参加しているというので、開けるたびに、クリックしている。
「さすが私の息子だわ」と一人、喜んでいる。
こういうのを親バカというのだろうが、滅多にこんなこと書かないんだもの、たまには、許して貰いたい。

さあ、あと一日で2006年も終わり。
昨日は母に電話し、妹の家で年越しするというので安心。今、ケア付きマンションに住んでいて、正月も、そこで過ごすことになっていたが、やはり心細かったと見える。
日頃近くに住む妹が、ちょくちょく様子を見に行っており、母とも一番気が合っている。
5月に父が亡くなり、気弱になっているが、93歳でも、私達には、まだ母親でいたい母。
「風邪を引かないように、気を付けてね」という言葉が返ってきた。

この数日、あるネットサイトで、実に腹立たしい、不快なことが起こっていたが、騒ぎを起こした本人が、トーンダウンして、表面的には静まった。
誰とも特定できない人を加害者に仕立て、自分が被害者であると訴え、「追放」「排除」などの言葉を使い、サイト全体の力をバックに、怨念の対象である相手を、引きずり出し、人民裁判にでも掛けかねない勢いだったが、そんなことが、出来るわけがない。
「そういう事実は、存在しません」と、まずある人が言ったが、収まらず、今度はその人を相手に、攻撃を仕掛ける事態になった。
さすがに、「加害者」の名前まで出さなかったのは、本人の訴える被害状況がはっきりせず、いつ、どういう状況で起こったのか、曖昧なので、そんな恣意的なことで、迂闊に、名指しで攻撃すれば、明らかな誹謗中傷になり、場合によっては、司法の出番となるので、そこはわかっていたのだろう。
相手を特定しないが、対象になった人には、状況判断で自分のことだとわかり、ほかの人にも、わかっている。
だが、名指ししない限り「加害者は私です」と名乗るわけはないし、その相手から、もし「誹謗中傷だ」と抗議されても、自称被害者は、「誰とは言ってません」と逃げることが出来る。
つまり、相手への気遣いと言うよりは、自分の保身のためであり、騒ぎの当人は、こうしたネットの闘い方に馴れているのである。
みんなが黙って、見ていれば、感情の赴くまま、攻撃の言辞を吐きだしたあとは、いずれ、自分で収拾しなければならなくなる。
過去にも、似たことがあり、相手を結果的にその場から追い払ったあとで、人から窘められて、相手に謝り、落着したのだが、今回、また同じ事を蒸し返したのは、そのときの反省も、詫びも、本物ではなく、ただのポーズに過ぎなかったことになる。

そして、さらに騒ぎを拡大したのは、過去の現場には存在しなかった人が、正確な状況のわからぬまま、安易に反応し、「被害者」を救う正義の味方気取りで、旗振りをしたことだった。
ネットで困るのは、騒ぎの当事者はもちろんだが、それよりも、元々、自分が責任を持って収拾するほどの誠意も、度量もないくせに、中途半端に介入して、問題の核心をずらせてしまう人の存在である。
こういうのを「煽り屋」という。
こういう人は、今、実社会で話題になっている現象を、ファッションのように考えて、遅れまいとする意識が働くから、取りあえず、話題に飛びつくのである。
本当に「加害者」が居るのかどうかわからない状況で、もっともらしく「人に危害を加えるのは悪いことです」的な、マニュアル通りの説教を垂れたが、見えない「加害者」を傷つけただけで、解決にはならず、自分が盾になって、「被害者」を守るほどの心意気もないから、次第に形勢が不利になると、いつの間にか逃げてしまった。
取りあえず、時流に乗って、参加してみただけのことなのだろう。

救いは、普段は滅多に登場しないが、物事を深く冷静に見つめる賢者が、サイトに一人いて、騒ぎの本人にきちんと向かい、感情的でなく、理性的に対応したことだ。
自分がターゲットにされているわけではないが、敢えて火中の栗を拾い、その人の間違った点をわかりやすく諭し、その遣り取りのうちに、「被害者」も、気持ちが落ち着き、感情的な物言いも、収まった。
ネットは顔が見えず、じっくり話すことも出来ないが、こういう事態が起こってみて、文面から、ある程度、ネットの向こう側にいる人の人間性も、思慮の深さ、浅さも、うかがい知ることが出来る。

謂われなき加害者にされ、「煽り屋」から、「因果応報」などと非難された人は、最後まで、登場せず、沈黙を守った。
元々、「加害者」などは存在しないのだが、名前を出さなくても、攻撃の対象になっているのが誰かは、過去の状況から特定は出来る。
下手な発言をするより、我関せずを貫く方が賢明である。しかし、これは、かなりつらい事ではあろう。
だから、当事者でもなく、自分の利益にもならないのに、火中の栗を拾って、結果的に救ってくれたサイトの賢者には、どんなに感謝し、こころを救われただろう。
騒ぎを起こした人も、救われたことになる。
このまま暴走が続けば、やがて、「いったい誰のことを言ってるのよ」ということになり、名指しされた人も黙っていないだろうから、「あなた、ホントに被害者なの?」と、疑問を持つ人も出てくるからだ。
もし、その賢人が、深い知恵と人間性をもって、発言しなかったら、かつて品格のあったサイトは、無惨に荒れて、壊滅状態になり、カウンセラーか司法の出番ということになっただろう。
私の居る処じゃないと思いながら、見ていたが、その経過の中で、賢者の宝石のような言葉に触れ、その人がいる限り、やめずにおこうかと、考え直した。
盥のお湯だけでなく、赤ん坊まで流してしまうような愚かさは、無視すればいい。
黙ってみていた人たちの沈黙にも、意味がある。
それを感じたからである。

掃きだめに賢人ひとり年果つる
北風や首振りせはし風見鶏 13:25



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