沢の螢

akiko【MAIL

My追加

タルコフスキイとヤンコフスキイ
2006年01月31日(火)

ロンドン在住中、ナショナル.フィルム.シアターの会員になり、安いお金で、世界のいい映画をたくさん見ることが出来た。
英国をはじめ、アメリカ、ヨーロッパの映画は言うまでもなく、日本映画も、当時ソビエトだったロシアの映画も上映された。
毎月、テーマが設定されて、特定監督、俳優を中心に、特集でプログラムが組まれることもあった。
機関誌の上映予定表を見て、月単位で、チケットを予約購入しておく。
1本500円くらいの安さである。
決められたシートで、ゆっくりと映画の世界に浸る。
私にとっては至福の時間だった。
日本映画では、黒澤明、小津安二郎、大島渚の作品が、取り上げられた。
母国語で、他の人より先に、笑ったり泣いたり出来る楽しさ。
その代わり、英語の映画は、耳だけが頼りだから、セリフの半分以上は聞き取れなかったが・・。
フランス、ドイツなどの映画となると、英語の字幕を頼りにしなければならないが、耳より目で見る方が、よくわかるような気がしたのは、文字情報の方が、慣れていたと言うことかも知れない。。

ソビエト映画は、日本では、あまり見る機会がなかったが、このシアターで見た、アンドレイ.タルコフスキイの2本の映画は、大変印象に残っている。
「鏡」、そして「ノスタルジア」。
タルコフスキイは、1932年生まれ。
1986年に亡命先のパリで亡くなっている。
54才という若さ。
生涯に残した映画作品の数は、あまり多くないようだが、私の見た2本の映画に限っても、映画詩人と言っていいような、詩的幻想的な映像と、自分の生涯を重ね合わせたようなストーリイの運びが、感動的だった。
二つとも、主演は、オレグ.ヤンコフスキイ。
ソビエト映画の、主力俳優だった。
シアターでは、特集映画の前後に、監督や、出演俳優を招いて、インタビューや、講演を行うこともあった。
ちょうど「ノスタルジア」の上映前に、このオレグ.ヤンコフスキイが会場に姿を現し、司会者のインタビューに答えたことがある。
それと知らず、当日の切符を買っておいた私は、ラッキーだったのだが、映画で見るより、ずっと気さくな感じの俳優の顔に接して、嬉しかった。
英語で交わされた会話なので、記憶には残っていないが、「ノスタルジア」のワンカットの演技に苦労した話を、フィルムを写しながら語ったことだけ覚えている。
5分ほどのシーンを、ロングで撮るのに、何度も取り直したエピソードだったと思う。
それから1年後にソビエト崩壊。
「鏡」と「ノスタルジア」で、強烈な印象を残したあの俳優は、その後、どうしているだろうか。


旅へのいざない
2006年01月30日(月)

今日からウイークデイの朝、10分間、モーツァルトの生涯と作品を取り上げた番組を、毎日流すというので、早速BS2にチャンネルを合わせた。
音楽はディヴェルティメントの2楽章。
映像は、幼い頃から両親や姉とともに、旅をしていたモーツァルトの軌跡を追う。
ナレーションは山本耕次。
ソフトで耳障りのいい声である。
モーツァルトの音楽は、いつか何処かで耳にしていたように、自然に入ってきて、心地よい。
毎朝、これを見ていたら、今までそれと知らず、知っていた旋律が、モーツァルトだったのかと、あらためて思うものも出てくるだろう。
今、時々「モーツァルトの手紙」を読んでいるが、神童とも、天才とも言われている彼の、人間くさい一面もよく出ていて、興味深い。

番組が終わり、そのままにしていたら、「世界我が心の旅」という、過去に放映したらしい番組の映像に変わり、高野悦子さんがポルトガルを旅したものだったので、そのまま終わりまで見た。
パリの映画学校イデックに学び、監督を志したが、いろいろな経緯で、監督にはならず、岩波ホール支配人を皮切りに、映画の仕事を幅広く続けている高野さん。
世界中に、同じ志を持った友人知人が居て、ポルトガルへの旅も、その縁につながっている。
岩波ホールで上映した作品は、商業ベースに乗りにくいアジア、アフリカの作品や、地味だが問題意識のあるテーマを取り上げたものが多い。
私もよく通ったが、今でも、印象に残って居るのは、インド映画「大地の歌」三部作。
一日に一回の上映で、休憩を挟んで、全部で八時間くらいかかったと思う。
それからドイツの女性監督作品「ドイツ青ざめた母」。
グルジアの「落ち葉」という映画。
題名が思い出せないが、ソ連当時の、優れた作品もいくつか見た。
最近の岩波ホールについては、知らないが、状況が違っているかも知れない。
高野さんにとっては、映画発掘は、旅の続きであるのだろう。
この人の講演も、何度か聞いたが、決して居丈高なところがなく、女性らしい柔軟な、静かな語り口は、とても説得力のあるものだった。
こういう番組を見ると、旅への思いに、心を誘われる。

我が子わが妹、夢に見よ
かの国に行き、ふたりして住む心地よさ
のどかに愛し、愛して死なむ
君にさも似しかの国に

ボードレールの詩の一節。
愛する対象は、人ばかりではない。
その地に根づいた文化、遺跡、暮らしの形。
そして人々が育んできたこころ。
それをもとめるのが、旅の心なのだろう。


オペラ「魔笛」
2006年01月28日(土)

新国立劇場で、モーツァルトのオペラ「魔笛」を見る。
昨年ウイーンで、私たちの合唱公演のソリストだったバスのアントン.シャリンガー氏が、パパゲーノ役で出演するというので、それもあって、チケットを買った。
佐藤三枝子の夜の女王が一番聴きたかったし、パミーナ役のソプラノ、砂川涼子も、期待出来た。
寒中のオペラはマチネーがいい。
夫と一緒に午後からゆっくり出る。
お茶代わりの軽食を途中で買い、開演前のロビーで食べる。
開演は午後3時。
25分くらいの休憩を挟んで、6時に終わった。
舞台からちょっと遠い席になってしまったが、十分楽しめた。
モーツァルトのオペラは、端役が居ないと言われるくらい、主役以外の登場人物も、生き生きしていて、楽しい。
コロラチュラ佐藤三枝子の夜の女王は、期待通り。
空中に釣り上げられての歌唱に、ややボリュームが欠けたのは、不安感があったからか。
でも、見せ場のアリアは良かった。
砂川涼子は、数年前に見たトゥーランドットの舞台から、さらに歌唱力がアップして、いい演奏を見せてくれた。
パパゲーノは、このオペラの道化役だが、いい芝居を見せて、舞台をさらっていた。
このオペラ劇場では、よく、知った人に会うが、今日も、昔の合唱仲間に会い、休憩時間に話が弾んだ。
終わって外に出ると、もう日は暮れていた。

今年はモーツァルト生誕250年ということで、ザルツブルグやウイーンなど、ゆかりの地では、観光客も多く、賑わいそうである。
日本でも、モーツァルトの音楽が、いろいろ取り上げられそうだ。
NHKでも、毎朝、10分間モーツァルトの音楽を、流すとか。
こういう試みはいいことである。
私は、昨年、いち早くモーツァルトの魂を追って、ウイーンに行ったので、今年は、お祭りから距離を置き、モーツァルトの手紙を読んだり、彼の作曲のピアノ曲を練習したり、今まで聴いたことのない作品を、探ってみようと思う。
今年になって最初に見たオペラが「魔笛」というのも、何かの縁であろうか。


逢うときはいつも他人
2006年01月27日(金)

先日、夫が、眼の検診のために、大学病院の眼科に行った。

9年前、飛蚊症があるというので、近所の眼科に診て貰った。
多少白内障の気もあるらしく、「今はまだ大丈夫ですけど、そのうち手術することになるかも知れませんよ」と言われた。
いつも気にしながら過ごしていたが、この1年ほど、パソコンの画面が見にくいとか、字を間違えやすいとかいうことが多くなり、「いよいよ手術しなきゃだめか」と、まず、行きつけの開業医に、大学病院への紹介状を書いてもらいに行った。
白内障の手術は、難しいものではないらしいが、失敗例は、よく聞く。
私の知っている人でも、手術の後にばい菌が入って、3週間もの入院に至った例がある。
夫の知人にも、似たようなことがあった。
いい病院だと言われていても、手術は執刀医次第だから、いきなり行くよりも、一筆書いて貰えば、いくらか安心かというくらいのことである。
そこで、紹介状を持って、大学病院に行ったと言うわけである。
眼に関する様々な検査を受けたらしい。
その結果、「特に手術しなければならないような症状はありませんよ。眼鏡が合わないのかも知れませんね」と言われ、眼鏡は半年前に新調したばかりだが、眼鏡屋に行った。
病院でも、眼鏡用の検眼はしてくれるが、目に異常のない場合は、眼鏡屋の検眼の方がいいようだ。
すると、検眼を終えて眼鏡屋の言うには、「私どもは商売ですから、作れと言われれば作りますが、今の眼鏡で、合わないことはないですよ」との返事だった。
強いて言えば、片方のレンズが少し度が合わなくなっているが、片方だけ変えることは出来ないので、もうしばらく、今の眼鏡で、様子を見たらどうですかと言う。
つまりは、大学病院でも、眼鏡屋でも、夫の視力と疾患について、特に何もしなくていいという結論だったことになる。
「まあ、目も老化しますから、多少は、見えにくくなりますけど、手術とか、すぐに眼鏡を変えるとか言う段階ではないですよ」ということである。
9年前に診た眼科医の言った言葉が、一種のマインドコントロールになっていて、何でも、白内障のせいにしていたことになる。
私も、最近夫の撮ったデジカメ写真が、どうも、みな白っぽく写っているので、これも白内障のせいかと思っていたが、関係なかったことがわかった。
「眼というのは、見えないと思っていると、よけい見えないんだな。すっかり思わされてたよ」と、憤懣やるかたない表情である。
そして夫が、私の顔を見てつくづく言うには、「今まで見ていた君の顔は、やっぱり、真実の君だったんだな」。
ん、ん?
これってどういう意味?
白内障だから、見えていたのは、私の顔じゃないと思っていたわけ?
こんな筈じゃないと思っていたってこと?
「・・・と言うことだよ」と、夫はさっさと自室に逃げてしまった。


五年目
2006年01月23日(月)

ホームページを、一番最初に立ち上げたのが2002年正月。
今年から5年目に入った。
2001年夏に、私専用のPCを買い、はじめはメールとインターネットを覗くのがやっとだったが、夫がホームページを作っているのを見て、自分も作りたくなった。
自費出版しようかと、時々書きためていた原稿があり、インターネットにアップすれば、お金もかからず、手軽ではないかという、単純な理由である。
後になって、ネットの特殊性を知るにつれ、著作権のことなど考えると、出版物の方が、本当は私には合っているのではないかという気が、今ではしているが、そのときは、そう思わなかったのである。
思い立ったが吉日とばかり、まず、ヤフージャパンでIDを取り、ジオシティーズに、最初の1ページを作った。
ページの作り方などは、全くわからないので、サーバーお仕着せの、子供っぽいテンプレートをそのまま使った。
日記も、掲示板も、サーバーの既製品だった。
そのうちに、飽き足らなくなり、夫が使っているホームページのソフトを借りて、もう少しデザイン性のあるページに、作り替えた。
そして、正月を待って、アップしたというわけである。
一月ほど経つと、ページの作り方も、だんだんわかってきて、次第に面白くもなり、手持ちの原稿を、次々とアップロードした。
掲示板も、日記も、カスタマイズして、画像などを載せられるようになった。
ただ、私のwindowsMEは、買っていくらも経たないのに、エラーが多く、ホームページソフトを使うと、よく、フリーズした。
私の使い方も、悪かったのかも知れないが、その年の秋に、ビルダー7をインストールしようとしたら、そのまま動かなくなった。
一つの器械に、二つのホームページソフトは無理だったのかも知れない。
このときは、保存も怠っていたこともあり、それまでに作ったファイルもメールも、すべて失われてしまった。
悲しくて、三日ほど、メソメソした。
それまでにも、何度もフリーズして、そのたびに、夫に助けて貰い、修理に出したり、サポートセンターに問い合わせて貰っていたが、度重なる器械のエンストに、ついに夫が、業を煮やし、近所のPCセンターで、OSを、XPに入れ替えてしまった。
しかし、XPに変えてからは、エンスト現象はほとんど起きず、サイトも次々更新を重ねることが出来た。

今は、無料のサーバーで三つ、有料のサーバーで一つ、サイトを管理している。
私の場合は、全くの個人サイトで、机の引き出しの中を、そのままインターネットに載せているような性格のものなので、実生活とは無関係な、ネット上の見知らぬ訪問者が来るのは、歓迎だが、実生活で、知っている人には、なるべく見せないというやり方をしている。
プロの作家なら、実生活を見せて食べていくのだから、仕方がないが、私は、名もない一市民なので、せっかくネットの中で愉しんでいる想像の世界を、リアルの世界に引き戻されたくないからである。
知らない人は、書いてあることを、そのまま、読んでくれるが、なまじ、知っている人は、先入観があるし、現実と結びつけて、あれこれ詮索しがちである。
それが一番いやなのである。
今までに、サイトの引っ越しを何度もしているが、すべては、わたしの心の自由が失われることを防ぎたいからであった。
そうやって、いつの間にか5年目に入った。
ページのデザインや作り方だけは、いくらか上手くなったが、肝心なのは、中身である。
昨年末、PCを新しくしたのを機に、無料サーバーにアップしているサイトを一つ、ほかのサイトに合流し、そのサーバーから抹消した。
これも、サイトの整理と、心の自由のためである。
ソフトは、最近はビルダーに絞っている。
使い慣れると、大変便利なソフトである。
ブログは、今のところ無料サーバーにお世話になっているが、そろそろ movable typeに切り替えるべきかも知れない。
私には、まだ技術が伴わないので、すこし先のことになるだろう。
市井に生きる平凡な女が、ネットという場で、自分なりの考えや見方を発信し、心のありようを見つめていくのが、私にとってのブログであり、ホームページである。
アクセス数など、多くなくてもいいから、それに共感してくれる人が見てくれればいい。
ファイルの量も、かなり多くなった。
ブログを含むサイトの整理と構築を、まじめに考えるときが来ている。

大寒が過ぎ、いちだんと寒くなった。


初雪や
2006年01月22日(日)

初雪や太郎次郎の起きる声

先月、都心の小グループで巻いた連句は、私のこの発句で始まった。
これは、有名な三好達治の詩の一節、

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ

から発想したものである。
この冬の寒さは格別で、今にも雪が降りそうな日が続いたが、東京ではまだ雪を見なかった。
しかし、北の国では、毎日のように、大雪が降り、その模様が伝えられていた。
雪掻きの作業中、あるいは、雪道での転倒などで、高齢者が亡くなったり、けがをしたりする事故が、続くようになった。
私たちが想像するような、生半可な雪ではないのである。
三好達治の詩は、しんしんと降った雪の静けさが伝わるが、今年の雪の降り方は、毎年慣れている雪国の人たちにとっても、今までにないような現象であるらしい。
雪に、心情的なロマンチシズムを感じたりするのは、そう言うところで暮らしたことのない都会人の、勝手な思いこみだと、昨日連句で一緒になった、雪国出身の人たちが話してくれた。
昨日はじめて降った雪。
電車のダイヤが乱れ、行くのに、時間がかかったが、その連句会では、今年はじめての集まりなので、おいしいお寿司と、お酒で、盛況だった。
いつもなら、二次会に行くところだが、帰りのことを考え、まっすぐ帰ってきた。
さすがに二次会の参加者は、少なかったようである。
今朝、気温が大分低いらしく、雪が半分固まっている。
なまじ、雪掻きなどして、積んでおくと、なかなか解けないので、人が歩ける程度に道をあけるに留めた。
連句サイトの表紙を、雪の写真に変えた。


時を超えるもの
2006年01月18日(水)

昨日、20数年ぶりに懐かしい人と会う機会があり、すばらしい時間を過ごした。
その人は、南米のある国に住んでいるが、日本人である。
17歳の時、父親の転勤で、両親と兄とともに、日本と反対側にある国の、首都にわたった。
私は、ちょうど同じ頃に、夫の駐在に伴い、息子とともに、そこに住んで、2年近く経っていた。
たまたま、私の通っていた語学学校に、その兄弟が入ってきて、知り合ったというわけだった。
日本にいれば、年も、環境も違う者同士が、ふれあう機会はあまりないし、道で歩いていても、お互い風景の中の一部でしかなかったろう。
しかし、外国で、出会った日本人同士というのは、時に、日本では考えられないほど、大変密接に結びつくことがある。
特に、見知らぬところで、耳慣れぬことばばかりが聞こえてくる異国では、すれ違っただけであっても、日本人の顔を見ると、ホッとし、駆け寄りたくなるほど懐かしくなる。
日本にいれば、日本人を懐かしいなどと、少しも思わないのに・・・。
若い兄弟と私は、すぐに友達になり、教室が終わると、その兄の運転する車で、家まで送ってもらったりした。
ちょっとエキセントリックでシャイな兄、人なつこくて、笑顔のすてきな弟。
外国の駐在員で、ハイティーンの子供を連れてくるケースは、当時、その国では少なかった。
小中学校は、日本人学校があるが、高校は現地の学校、またはアメリカンスクールに行くことになるので、日本の学歴を子供に付けたい親たちは、子供が高校受験期になると、母親だけが付いて帰国し、日本の高校を目指すケースが多かった。
だから、高校、大学に通う年頃になって、親の転勤で現地に来た兄弟は、大変珍しかった。
親たちの方針もあったのだろう。
同世代の、日本人の友達のいない地で、彼らは、いつも寄り添って、お互いをかばいながら、行動していた。
そんな二人が、とても、いじらしく思え、彼らの母親ほどではないが、年長の友達として、話し相手くらいにはなってあげたいという気持ちになった。
まず言葉をマスターしなければ何も出来ないと言うので、語学学校に通う傍ら、家でも、個人レッスンを受け、早くその国に馴染もうと、努力していた。
語学学校の休み時間や、帰宅の車の中で、話すくらいしか、機会はなかったが、日本での学校生活のことや、将来の夢など、いろいろと聞くことが出来た。
そのうちに私の方が、日本に帰国することになった。
私は、家にある日本語の本や、歌のテープなどを、少し残し、日本から手紙を書くことを約束した。
空港に送りに来てくれた彼らの、ちょっとさびしげな笑顔を、よく覚えている。

帰国後、私は折りに触れ、日本の生活の様子や、流行っている歌のことや、映画の話など、書き送った。
向こうでは日本語の本が手に入りにくいので、時には、話題になっている本を送ったりした。
兄の方からは、全く返事が来なかったが、弟の方は、必ず返事をくれ、今、何をしているか、どんなことを考えているか、学校での友達のことなど、向こうの様子を知らせてくれた。
もう、その国で暮らすことに決めていて、親たちは、彼らを残して、数年後に帰国した。
その母親とは、年賀状のやりとりをするようになり、兄弟の様子も知ることが出来た。
やがて彼は、大学に入り、就職し、現地の女性と結婚した。
時々現地を訪れる彼の母からは、「ことづかりました」と言って、コーヒーや、Tシャツなどが送られてくることもあった。
そうやって、いつの間にか、27年の歳月が流れた。
同じ時間の経過でも、私と彼とでは違う。
少年が成長し、大人になり、仕事をし、家族を持ち、今は、3人の男の子の父であり、仕事もある成果を収めて、日本に出張に来る立場である。
私の方は、子供の成長は同じくあるが、家庭人としての生活は、基本的には変わらない。
だが、彼が、短い滞在期間の間に、私に会う時間を作ってくれたことに、私は感動した。
21歳の時に、日本に一時帰国し、ちょっと会う機会があっただけだから、それを入れても、24年ぶりである。
その間、彼は、アメリカに留学したり、何度か仕事が変わり、一時、交信が途絶えたこともあった。
私の方も、10年後に、別の国に、数年暮らし、互いの様子も知ることなく過ぎた時期があった。
しかし、いつも、頭の隅には、今、どうしているだろうという思いは、あったような気がする。
そして、その細い糸を繋いでいてくれたのが、彼の母親だったと言うことになる。

私たちは、再会を喜び合い、ワインで乾杯し、お互いの過ぎた年月の話に、時を忘れた。
もう立派な社会人である彼だが、少年の頃の、人なつこい笑顔は、そのままであった。
そして、今は、もう、大人と子供ではなく、同じ人間同士で、話が出来るのが、何より嬉しかった。
明日は地方に行く予定があるという彼と、いつの日か、再会を約束して別れたが、帰りの車中で、暖かい涙が、私の胸を濡らした。
思ったのは、時間の経つすばらしさである。
海を隔てて、ほとんど顔を見ることもなく、長い年月が流れたが、昨日会った人のように、会話を続けることが出来た。
たぶん、心の中で、時間の経過を埋めるものが、しっかりあったと言うことだろう。


ケータイを持つということ
2006年01月16日(月)

ひと頃までは、若い人だけの持ち物のように思われていた携帯電話。
中高年の間にも広がりはじめ、ここ1,2年の間に高齢者向きの、操作の易しいケータイまで登場した。
居所がわからなくなったり、事故に遭う確率の高い年寄りには、いざというとき、手元の機械で、簡単にS0Sを発することが出来れば、どんなにか心強いだろう。
私の仲間は、中高年が大半だが、今や、ケータイを持つのは、特別なことではなくなった。
高齢の人の中には、自分が持つと言うより、家族によって、持たされているという人もいる。
出先で、突然心筋梗塞でも起こしたようなとき、連絡出来ないと困るからと言うのである。
「娘がウルサイから持ってるのよ」と言いながらも、ケータイなら、孫からも気軽に掛けてもらえるので、まんざらでもなさそうである。
私も、まだ個人用のケータイがそれほど普及していなかった頃から、持っている。
自分では、全く必要性を感じなかったが、息子が、たまたま正月の福袋で、ケータイの機器を当てたからといって、私にくれたのである。
タダなら頂戴と言って、黒い不細工な器械を貰ったが、よく考えてみると、機器よりも、ケータイ会社の電話料の方が、ずっと高いものであることを、認識していなかった。
そのころのケータイは、文字通りの携帯用電話機であり、カメラも、メール機能も付いていなかった。
しかし、アッという間に利用者が増え、付属する機能も向上し、さらには、カメラも付き、メールはもとより、データベースとしての用途にも、使えるらしい。
ブログは、ケータイ対応になっている場合が多く、パソコンを持たない人でも、電車の中から、ケータイでブログに発信している人もいるようで、その点だけは、うらやましい。
私も、最初の黒電話的機器から、シルバーピンクのスマートな機器に、そして、また、二つ折りの機器にと、見かけだけは向上したが、パソコンと違って、指先で、操作する小さな器械は、どうも使いにくいし、分厚な説明書も読む気にならず、未だに、使いこなせない。
ごく必要な最小限の電話番号を、亭主に入力して貰い、順番に押しているうちに、掛けたい番号が出てくるというような、アナログ的操作の域を抜けていないのである。
「パソコンを使って、ホームページだの、ブログだのやっている人が、おかしいわね」と、友人たちはあきれている。
私のケータイに掛けても、大体が通じないと言うので、よく文句を言われる。
電源を切ってあることが多いからだ。
「私のは、110番と救急車と、あとは亭主に連絡するだけでいいの」と強がりを言っているが、せっかくなら、メールもインターネットも、パソコンと同じく使いこなせるようになりたいと思っていた。

昨日、青山で、私の所属する会の、新年の行事があった。
ケータイを持って出るのを忘れたが、あまり気にしなかった。
会が終わり、20人ばかりで、飲み屋に繰り出すことになった。
いつも仲良くしている人が、別のところで待っている人を誘ってくるから、というので、私は、ほかの人たちと飲み屋に先に行くことになった。
「今日ケータイ忘れてきたわ」というと「じゃ、何かあったら他の人に掛けるから」と彼女はいい、そこでいったん別行動になった。
私はみんなと一緒に飲み屋に行った。
店に着き、みんな店の人に案内されて、階下にあるらしい部屋に降りていったが、私は、彼女がすぐに来るだろうと思い、入り口のそばの、客待ち用のいすに座って、彼女を待つことにした。
「あと一人二人来ると思うので、来たら下に行きますから」と店の人に言うと、お茶を持ってきてくれた。
次々と、いろいろなお客が入って下に消えていった。
ところが彼女はなかなか現れない。
「どうしたの」と様子を見に来た人に「・・・さんから電話があるかも知れないから、あったら知らせて」と頼んだ。
わざわざケータイの番号を、彼女は他の人に訊いたりしたのだから、来るにしろ、来ないにしろ、遅くなれば、連絡があるはずだと思ったのである。
どのくらい待っただろうか。
ずいぶん時間が経ったような気がする。
場所がわからないのではないかと、外に出てみたりした。
店の人も、気にしている。
もしかしたら、誘った相手が来ないと言うので、そちらと一緒に別のところに行ったかのではないか・・。
私は、こんなところで、むなしく待ったことを後悔しながら、ともかく下に降りてみることにした。
「ちょっと狭くて、申し訳ないですが・・」と店の人に案内されていって見ると、確かに、狭い部屋に、びっしりみんなが座っており、もうすでに、乾杯もしたらしく、出来上がった雰囲気である。
そう言うところに、すんなりと馴染んで行けないのが、私の変に気の弱いところである。
「・・・さんから何か言ってきた?」と訊くと、「何も来ないわよ。番号がわかればこっちから掛けるけど」というので、手帳を見ると、なんと、今年用の新しい手帳には、肝心の情報が何も転記されていない。
そんなやりとりも、すでに賑やかにおしゃべりに興じている人たちには、聞こえない。
私は、雰囲気に出遅れたことと、詰まらぬ判断をしてしまったことで、だんだん憂鬱になり、そのまま、帰る気持ちになってしまった。
たぶん、彼女は、気が変わって、来ないのだろうと思った。
もやもやした気分のまま、家に帰った。
夫は夕食の最中である。
考えてみると、私は、新年会の昼食のまま、何も食べていなかった。
残りの物で、私も夕食をすませた。

大分経ってから、彼女から電話がかかってきた。
帰宅途中の駅からケータイである。
「どうして帰っちゃったの」と言っている。
誘いに行った相手が、行きたくないと言うので、じゃ、さよならというわけにも行かず、喫茶店でお茶だけつきあって別れ、それから飲み屋に行ったのだという。
私が店を出て、入れ違いくらいだったようだ。
私が入り口で待っていたことを聞き、悪かったと謝っている。
「電話してくれたら良かったのに」というと、「あなたのケータイだったらそうしたんだけど、遅くなっても行くのだから、向こうで会えるし、わざわざ他の人に連絡しなくてもいいと思ったの」という。
「絶対来てよ」と私がいい、「・・・さんに電話するから」といった彼女。
それは、もし、状況が変わったら、連絡するという意味だったらしいのだが、私は、来るにしろ、来ないにしろ、電話を掛けて来ると思いこんでしまった。
話してみれば、どちらも悪意のない、ちょっとした行き違いなのである。
彼女は、まさか、私が、さんざん待った挙げ句、帰ってしまったとは、思わなかったらしい。
「そう言う行き違いはあるよ。そんなときは、お互いを責めずに、悔やめばいいんだよ」と夫は言う。
確かにそうだ。
みんなと一緒に下に降りていれば良かったのに、勝手に、待っていた私の思いこみ。
そんなこととは、知らず、私がいると思って来た彼女。
その結果、謝らなくてもいいことに、謝る羽目になってしまった。
しかし、根本的な信頼感があるから、時間が経てば、解消するだろう。
「あなたがケータイを持っていたらねえ」と彼女は言った。
そうだろうか。
ケータイで、連絡出来ると言うことが、当たり前になるまでの人付き合いは、もっとお互いを気遣い、起こる可能性のあることをあれこれ想像し、会えなかった場合の手だてを考え、緊張感を持っていたのではなかったか。
ケータイがあることに頼ってしまうと、いつの間にか、そうした気配りも、思いやりも、忘れてしまう。
ケータイを持っていないのが、悪いという理屈になってしまう。
「君の名は」のすれ違いは起こらなくて済むが、何か、大事なことも、失っていくような気がしてならない。
昨年参加した合唱公演。
150人近くの団員の連絡手段は、メーリングリストだった。
費用もかからず、時間差もなく、大変便利だった。
中高年が多いので、高齢の団員の主として女性たちの中には、メールも、インターネットもだめという人が、少しいた。
その人たちへの連絡は、ファックスや、郵便を使った。
「済みませんねえ」と、毎回、お礼を言われた。
考えてみると、私たちは、それが普通の時代に育っているのである。
だから、自分が、出来るようになったからと言って、出来ない人たちを疎んじてはいけないのである。
メールやインターネットが普及して、昔とはちがい、格段に便利になった現在。
私はやはり、ケータイは、今の程度の使い方でいいことにする。
利便性に慣れて、他者への想像力が減退することを畏れるからである。
幸い、パソコンは、何とか使える。
これ以上便利でなくていい。
ケータイの使い方に習熟するよりも、その分、人の気持ちに敏感でありたい。
ケータイがなければ、つきあえないと言う人とは、つきあわなくていい。
そんなことを思った。


俳諧曼陀羅
2006年01月14日(土)

人間というのは、厄介なものだ。
政界でも、会社組織でも、近所付き合いでも、PTAの集まりでも、およそ人間が複数いれば、そこには、必ず、楽しいことばかりではない現象も起こる。
それは、そこに集まる人の、学歴とか、出自とか、品格に関わりないことの方が多い。
立派なお家柄の、お嬢さんの集まりだって、やはり、血の通った人たちであれば、表に出る形は、品の良いヴェールをまとっていても、嫉妬、競争意識、好き嫌い・・・そう言った感情に根ざした、目に見えない人間関係のずれは起こるであろう。
いや、むしろ、ヴェールに隠されているだけに、始末が悪いかもしれない。
町内会のえげつないおばさんの井戸端会議では、衒いなくさらけ出し合うような、人に関するうわさ話も、表に出さない代わりに、ひそひそと囁かれて、やがて、「ここだけの話」の筈が、富士のすそ野のように広がっていく。
話の発端になったこと、はじめに口を切った人は、必ずいるはずだが、みんなの耳に届く頃には、その出所はわからず、尾ひれだけが付いて、いつの間にか、とんでもない話になっていたりする。
そして、噂の標的にされやすい人と、蔭でよからぬことをしていても、何故か、あまり悪く言われない人といるのも、不思議なことである。

私はこの10年以上、俳諧の道を歩いているが、一人でたしなむ短歌や俳句と違い、一つの作品を複数で作り上げて行くので、その過程においては、人間くささの極みみたいな面がある。
どんなに気取って、取り繕っていても、いつの間にか、本性が現れてしまうのは、俳諧という文芸の特質でもあるのだろう。
この中には、森羅万象すべてが盛り込まれるので、花鳥風月だけで、成り立つわけではない。
恋もあれば、人間の持ついやらしさ、滑稽さ、優しさ、悪辣さも、句の対象になる。
また、複数で巻くと言うことは、ある種の切磋琢磨であり、競争意識も働く。
表面では、行儀良く一つの座にいても、心の中では、いい意味でも、悪い意味でも、たたかいに似た気持ちがあるのも事実である。
それなら楽しくないではないかというのは、外から見た見方で、野球でも、ダンスでも、自分の技を磨き、同時に人と競うことによって、向上するから、そこに喜びがあるのと同じである。
ただ、それが、志の高い次元であれば、お互いにとってもいいことなのだが、必ずしも、そうはいかない。
詩心、連句の技に優れた才能があっても、人の集まる社会では、生かされない場面もある。
性格も、好みもあるし、どんな世界にあってもそうだが、人の間を上手に渡り歩く才の長けた人には、時に、文芸性が負けてしまうことのあるのも、この世界の特徴である。
昨年、私の周りには、そうした現象がいくつかあり、連句など止めてしまおうかとさえ、思ったこともあった。
最初に書いたことだが、何か事があったとき、私は標的にされやすい方である。
つきあいが下手だとか、立ち回りが不器用だとか、いろいろ原因はあるであろう。
しかし、複数で、同じ事を一緒にしていて、それがうまくいかなかったとき、何故、私にいちばん原因があるという風になってしまうのだろう。
「その話題が出たとき、我関せずと言う顔していればいいのに、あなたは、律儀に説明しちゃうからよ」と、ある人がいった。
なるほどと思った。
日頃私の親しくしていた人たちの間に出た話だったので、こちらから言うことではないが、話が出たからには、当事者の一人として、ちゃんと説明しておこうと思ったのだ。
しかし、人の心はわからない。
私の意図と違った受け取り方をされても、仕方がない。
私は、自分が誠実であれば、人もそれに答えてくれると思う方だが、哀しいかな、そういうひとばかりではない。
一見、同調するような顔をしながら、後ろで、舌を出すような人もいると教えてくれた人がいた。
当事者の中でも、私とは違った見方をしている人がいれば、そちらからも、違う情報が伝わるであろう。
そして聞いた人は、自分が好意を持ってるか、あるいは、自分に都合のいい人間の見方を信じるのであろう。
魑魅魍魎。
自分に直接関係ないことでも、人のトラブルには、首を突っ込みたいものだし、話を面白くするための、尾ひれは、みなつけて回る。
真相を知るのは、関わった人たちのみ。
その間にさえ、とらえ方の違いがある。
ましてや、その現場にいなかった人たちが、又聞きで、あれこれ言う理屈はないのだが、それが人の集まりというものなのだろう。
こんな事で、今まで精進してきた俳諧の道を逸れるのは、つまらないと思いつつ、私は、それに携わる人たちが、次第に嫌いになり始めている。
ほんの少数であるが、信頼出来る人がいるから、止めずにいるが・・。
この2年ばかり、打ち込んでいる音楽。
昨年のウイーン公演が終わって、また新たな動きがある。
今年は、同じ指導者が、バッハの「マタイ受難曲」に取り組むというので、それと関連して、聖書研究にも、重点を置こうかとも思っている。


家族の新年会
2006年01月08日(日)

夫の弟から暮れのうちに誘いがあり、今日、そこに両方の家族が集まることになっていた。
義弟は夫より8つ若い。
まだ夫婦とも現役である。
その息子、娘が、この5年ばかりの間に所帯を持ち、私の息子夫婦も併せて、10人になった。
正月には、兄弟が集まる習いになっていて、弟一家が、こちらに来るというのが、長く続いていたが、最近は、義弟の方が家族が多いので、こちらから行くようになった。
義弟の家は、湘南にある。
息子夫婦と、だいたいの時間を合わせ、午後2時前後に着いた。
甥夫婦、姪夫婦がすでに集まっていて、台所で忙しそうにしていた。
居間には、大きな食卓に、10人の席が作ってあり、顔が揃ったところで乾杯した。
夫の父は夫が大学を出た年の秋に亡くなり、義弟はまだ中学生だった。
夫の母は、70歳の誕生日を過ぎたばかりの秋、亡くなっている。
今の時代としては、短命である。
義弟にとっては、私の夫が、父親代わりのような存在であった。
進学、就職、結婚まで、何かと、相談相手になっていた。
早く親を亡くした兄弟というのは、特別に結びつきが強いようである。
正月くらいにしか、会わないが、お互いを気遣っているのが、よくわかる。
それに、8つも年が離れているので、普通なら兄弟げんかをするようなことも、二人の場合は、なかったらしい。
夫も、弟も、親を早く亡くしたせいか、ともに25歳で結婚した。

今日は、昨年のウイーン演奏旅行のDVDを持っていき、みんなに見て貰った。
義弟はバイオリン、甥はフルートを趣味にしているので、音楽には関心がある。
あれこれ感想を交えながら、終わりまで、見てくれた。
たくさんのご馳走と、二世代にわたるいろいろな話題で時が過ぎ、ほろ酔い気分のまま、帰る時間になった。
義弟の家から駅までは歩いて五,六分である。
義弟が、送ってきてくれた。
東海道線に乗る息子夫婦、湘南新宿ラインに乗る私たちは、ホームで別れた。
電車の座席には、暖房が入っている。
夫は座ってしばらくすると寝てしまった。
団らんの場から、車中に代わり、気が付くと、今日の集まりの中に、二つの親世代、甥夫婦、姪夫婦、そして息子夫婦が揃ったわけだが、次の世代である子供が居ないのだった。
少子化ということばが、最近言われるようになり、人ごとのように思っていたが、考えてみると、身近にも、同じ現象があったのである。
結婚13年になる息子夫婦は、はじめから子供を欲しくないわけではなかったと思う。
共働きで、忙しく過ぎ、気づいてみたら、子供が居なかったと言うことだろう。
結婚5年目の甥夫婦、まだ一年ちょっとの姪夫婦は、そのうち、家族が増えるかもしれないが、今は、居ないと言うことである。
にぎやかで、落ち着いた雰囲気で楽しく過ぎた食卓の周りには、和やかで暖かい笑顔があったが、子供が一人二人混じっていたら、ずいぶん違った雰囲気になっただろう。
でも、帰るまで、そんなことに考えが及ばなかった。
高齢化と少子化の間には、関連性はないと思っているが、とかくセットで論じられる。
老人にかける予算を減らして、少子化対策に回せなどという議論があるのを聞くと、何か変だなあと思う。
10年先には、私の世代はかなり減るし、20年先には、団塊の世代がぐっと減るから、黙っていたって、高齢者の割合は、減少するのに。
戦後のベビーブームで、爆発的に増えた世代が、高齢者になれば、いずれ少しずつ減るのは、自然のことなのだ。
日本の人口は多すぎるくらいだから、むしろ、減った方がいいくらいだ。
高度成長期に、さんざん働いて、税金をうんと納めてきた高齢者を、お金がなくなったら、手のひらを返したようにバカにして、粗末に扱おうなんて、姑息なことをして、それが子供の生まれる有効な手段だと思っているなら、それを本気で考えている人たちは、相当なバカだ。
若い人も、確実に年をとる。
目先の現実を変えて、悲惨な未来が待っていることになるのに、それで幸せなんだろうか。
子供の問題は、もっと基本的な、人間の愛情とか、幸せとか、家族観に基づいているものなのに、世代間の確執を呼ぶような議論に持っていくから、年金生活に入った高齢者は、だんだん暮らしにくくなり、老人を邪魔者扱いにするような空気が生まれ、社会全体がギスギスしてくるのに。
子供を持ちたいという気持ちは、おそらく、政治や国策とは違うところで、出てくるものではないだろうか。
今日の新年会は、家族の良さ、ありがたさをあらためて感じた集まりだった。
若い三夫婦が、やがて、自然に家族が増えるような状況が生まれたら、それも楽しいだろうなあと思いつつ、電車に揺られていた。


初学び、初買い物
2006年01月07日(土)

年があらたまって、一週間経った。
今日は、昨年秋から受けている比較文化の講座を受けに市民大学へ。
「音、祈り、ことば」というテーマで、日本および外国の様々な文化を対象とする。
韓国のパンソリ、アフリカやアジアの音楽と宗教的習慣、バッハの音楽、そして今日は、日本の古能、古歌舞伎について、実演を伴った内容。
朝、あまりに寒いので、さぼり心がわいたが、すでに、13回の講座のうち、海外旅行で2回休んでいる。
それに、講師は、どんなに寒くても、教えに来るのだ。
心に鞭を当てて、出かけた。
外に出れば、寒さはそれほどではなく、バスで10分の駅前の教室に行く。
逡巡していた分、少し遅刻したが、実演の舞踊などは、すべて見ることができた。
この講座も、来週で終わる。

教室を出て、駅ビルの本屋へ。
本は増えて困るので、あまり買わないが、見て歩くだけで、出版界の様子を知ることが出来るし、本屋ほど、好奇心を満足させてくれるところはないから、外出の折りには、かならず立ち寄ることにしている。
その中で、たまたま手にした古本屋とコーヒーの店についての本。
推薦の喫茶店の中に、家からすぐのところにそんな喫茶店が出ていて驚いた。
バスに乗る道沿いにあって、いつも前を通るのだが、入ったことはなかった。
今度、一度入ってみようと思った。
今、よく売れている本を一通りめくってみて、必ず寄るのは、パソコン関係。
webデザインの本を手に取ってみる。
これらは、立ち読みで、だいたい用が足りる。
買いたい本がいくつかあったが、家にある膨大な本のことを考えて、ぐっと我慢。
最後に、ビジュアルな作りで出来た家計簿と、ティーンエイジャー向きだが、これなら書くのも楽しいのではないかと思える、小型の日記帳を買った。
家計簿は、落第主婦の私のため。
結婚以来付けていた家計簿を、この5年ほど付けなくなってしまった。
収支が合わずに、いらいらすることが多く、精神衛生上良くないと、止めたのだが、今年からまた復活することにした。
90歳を過ぎても、ちゃんとお金を自分で管理している母を見習ってである。
そして、ビジュアルな日記帳は、母のためである。
母のところに行くと、壁に、毎月一枚入ってくる新聞社のカレンダーが貼ってあり、それに、その日のことを、びっしり書き込んでいる。
母が、数年前までずっと日記を付けていたことは知っているので、こんなカレンダーではいかにもかわいそうである。
「もう、書くこともないから、これでいいのよ」と言っているが、大きな字で月日の入っている、カラフルな日記帳なら、カレンダーとは別に、書く気になるのではないかと思う。
本屋の一階下には、ランジェリーの店。
暖かいパジャマを自分のために買った。
食料品は、正月過ぎからちょくちょく買っているが、買い物らしい買い物は、今日が始めてであった。


腹立たしい話
2006年01月05日(木)

数年前、ある文芸サークルに参加していた。
15,6人くらいの小さなグループで、主催者の住む地区を中心とするメンバーで成り立っていた。
どこにでもある自治体の、コミュニティセンター主導型の活動サークルの一つと言ったらいいだろうか。
私はその地区の住人ではないが、はじめはゲストとして招かれ、何度か行くうちに、「入りませんか」と言われて会員になった。
ほかにも、地域外の人が何人かいて、私だけが特別と言うわけではなかったのである。
家から行くには、バスに乗り、私鉄に乗り、会合の場所によっては、途中で乗り換え、さらには、またバスに乗り、という具合で、決して行きやすいところではなかったが、私はそのグループが好きだったし、メンバーも、いい人たちだったので、途中まで夫に車で送ってもらったりして、例会には、他のことに優先して出席した。
1年半くらいたっただろうか。
些細な行き違いから、私はそのグループから抜けることになったが、そのいきさつについては、ここには触れない。
インターネットでは、私は、サイトごとに決まったペンネームを使い、ニュースなどで公表された以外の、実在の個人や団体について、固有名詞をはじめ、それを特定するようなことは書かないが、たまたま私の実名とペンネームを結びつけることの出来た人が見に来た場合、ネット上に書かれたことを、すべて実在の事実や人物に当て嵌めて、詮索されるのは困るからである。
ケータイなどで、ちょくちょく覗いている知人が居ることも、知っている。
リアルの場で話題にしなければ、こちらも、そのままにしておく。
私が自分のサイトで、何を発信しようが、それがネット上のルールを侵さない限り、本来自由な筈だが、それを黙って見ている限りは、ただの観客に過ぎないからである。
もし、言いたいことがあれば、これも、ルールに従って、コメント欄に書き込むなり、メールボックスに送信すればよい。
人の思いこみというのは、厄介であるから、たとえば、テレビドラマを見ても、自分と同じ状況にあるヒロインが出てくれば、それを自分のことだと思いこむタイプの人はいるであろう。
実際に、私のホームぺージを、しつこく検索で追いかけてきて、そこに書いてあることを、事実と引き比べて検証し、少なからぬ数の人たちに怪文書のごとく流すといった、とんでもないこともされている。
知らない人が見たら、どこの世界にでもありそうな、どうということのない記事であった。
書かれた記事を、どう読もうが、読み手の勝手だが、私は、特定団体の記録係でもなければ、魅力のない無名の人物の評伝を書く義務はないから、記事内容がたまたま読み手の状況と似た現実があったからといって、「あそこに書いてあることは、事実と違う」などと、文句を言われても困るのである。
こんなことは、ちょっと物を書く人なら、わかることである。
だいたい、どこの誰とも書いていない記事の主人公が、その読み手そのものであるなどと、誰が特定するのだろうか。
サイトやブログに、私の書くものは、自分の心の問題が主なので、面白おかしい内容ではないが、その中には虚の部分も混じる。
小説のようにフィクションにした部分も、ずいぶんある。
その中で、私は男になったり、どこかの誰かの人格を借りて、ありそうでなさそうなドラマを作って愉しんでいる。
ニュースや、有名人についての記事は、伝えられる事実に即してはいるが、テレビや新聞の受け売りではない。
すべて私の見方、考え方に沿って書いている。
そうやって、発信している記事を、いちいち検事のごとく、事実検証などされては、たまったものではない。
第一、家族、知人、友人、その他、リアルの世界の人には、一部のカテゴリーを除き、公表さえしていないのである。
だから、たまたま見つけた私のサイトやブログの書き手が、私だと言うことは、推測でしかないのである。
そうはいっても、思いこみの激しい人に、私の生活圏で、怪文書など回されては困るので、場面や人物設定は、芝居仕立てにして、配慮している。

前置きが長くなったが、私が腹を立てているのは、そのような虚実の皮膜の世界の話ではない。
つまり、固有名詞があり、団体名が明らかにされている場所でのことである。
前述したグループの発行する会報が、100号に達するというので、前後に記念の記事を特集したらしい。
私のところに送って来るわけはないが、そのグループで実権を持った人のサイトに、その会報の記事を一部転載したのがあって、そこで見て知った。
そのサイトは、グループの活動状況も載せているが、誰でも見ることの出来る別サイトにリンクしているから、私でも、アクセスできるのである。
そして、特集記事の中には、過去の会員の作品なども出ていて、私の名前や作品も、実名そのままで出ている。
多くの人の目に触れるインターネット。
しかも、やめて何年も経つ私の名前。
その名前と作品の一部を転載するのなら、あらかじめ、一言断りがあってしかるべきではないか。
いったん会報に発表された物だからといっても、無断で転載することはないだろう。
せめて、会報の一部くらい送って知らせるべきではなかろうか。
会報の段階なら、配布の範囲は限られているからまだいい。
インターネットサイトは、どこの誰が見るかわからないのである。
その危険性を、サイト管理者はわかっているのだろうか。
本人にことわりなく、実名をネットにさらすという無神経さ。
実は、この無神経さと配慮の無さこそ、私がグループから去った一番の原因なのだ。
グループの責任者宛に、クレームを送ろうかどうか迷ったが、これまでの経緯で、そんなものは、無視され、誠意ある対応がなされないことはわかっている。
載っているのは名前と作品の一部。
住所や電話番号まで晒してあるわけではない。
記事そのものも、そのうち、スクロールされて、見えなくなるだろう。
そう思って、静観することにしたが、腹立たしいことには違いない。


「女の園」
2006年01月04日(水)

最近、テレビをあまり見なくなってしまったが、懐かしい映画などをやっていると、見る。
新聞の購読も、昨年4月から止めてしまったので、テレビ番組のために、300円ほどのテレビ雑誌を買っている。
今日は、午後からいつも見る番組にチャンネルを合わせたら、緊張感のないつまらない画面が流れてきたので、あちこち回していたら、BSで、木下恵介監督作品「女の園」という、昭和20年代後半の映画をやっていたので、途中からだったが、終わりまで見てしまった。
規則の厳しい女学校の寄宿舎で起こった、女生徒と学校側との対立を縦軸に、女生徒たちの友情と恋愛を横軸に織りなした映画である。
高峰三枝子の女舎監、岸恵子、高峯秀子、久我美子らの女生徒、それに田村高広。
みな若く美しい。
このころの映画作りは、シナリオも、ロケも、演技も、大変丁寧に時間をかけて作っていったと見えて、ロングで回した場面が多い。
恋人同士が歩きながら、深刻な話をするところなど、そのままカメラが移動する形で撮っている。
同時代の小津安二郎、成瀬三樹男なども、同じ手法をとっている。
黒澤明は、ちょっと違うようだが、いずれにしても、日本映画が黄金時代といわれた、昭和20年代から30年代終わりにかけての映画は、見ごたえのある作品が多い。
映画監督になりたいという夢を持ちながら、許されずに役人になってしまった私の父は、暇があると、私を映画館に連れて行ってくれた。
本当は父が見たかったのだが、私の下に、まだ小さい妹たちを抱え、映画など行くべくもなかった母に遠慮して、父は、私をダシに使ったのである。
時には、私の友達も、一緒に連れて行くことがあった。
おかげで、私は小学校高学年の頃から父のお供で、大人の映画をたくさん見ることが出来た。
その代わり、家に帰ると、必ず感想文を書いて、父に見せることになっていた。
父は、「子供の情操教育」と称して、母への言い訳にしたのである。
母にも、映画の話をしたくて、たまらなかったが、我慢した。
母も、本当は、映画が好きだったのである。
その代わり、年に2,3回、弟妹たちの面倒を父と見ながら、母の映画館行きに協力した。
留守番の父は、夕飯を作って、母の帰りを待った。
父に手伝って作ったカレーライスの記憶も、懐かしい。
母が、顔を上気させて帰ってきて、やや興奮状態で話した「赤い靴」という映画は、イギリスのバレエ映画。
その後私も見たが、モイラ・シアラーというバレリーナ主演の、アンデルセンの童話を下敷きにした映画は、カラーで美しく、バレエの場面がすばらしかった。
このころの映画は、そうした記憶と深く結びついている。
イタリアンリアリズムの映画も、アメリカの音楽映画も、フランスの恋愛物も、中学生までは、父と一緒に見た。
映画は、少女時代の私にとって、文学作品と並んで、人生の教師であり、心を豊かにするものであった。
私の描いた映画の感想文、父はどんな風に読んだであろうか。
中学も終わりくらいになると、私は友達と映画館に行くようになり、感想文を父に見せることも、あまりなくなってしまったが、父は、自分の見た映画と同じ映画を、娘がどう見たかということを、いつも知りたがっていた。
だが、私の方は、もう思春期になっていて、そんな話をいつまでも父親と話すことが、煩わしくなり始めていた。
そんな態度を見て、父は、もう娘が自分の手の届かない世界を持ち始めたことを、悟ったようだった。
映画の感想文の最後は、高校3年に見た「居酒屋」というフランス映画。
マリア・シェル主演の、ゾラの小説の映画化。
「いつの間にかずいぶん大人っぽいことを書くようになったね」と父が言った言葉を覚えている。
どんなことを書いたのか、私自身は、忘れてしまった。


いささかホッと正月2日目
2006年01月02日(月)

新しい年が巡ってきたが、暮れから元旦にかけて、何もしないようでも、主婦は気持ちがせわしい。
この10年あまりは、大晦日から正月にかけて、息子夫婦がやってきて、2泊ほどするのが、習慣になっている。
息子の妻は働く女性だが、いまどきの人には珍しく、家事も、自分でやるタイプ。
「共働きなんだから、奥さん任せはだめよ」と息子に言うが、「いえ、私がやった方がうまくいきますから」と、彼女の方は気にしない。
確かに、何事も手早いし、子供の頃から母親にしっかりしつけられたらしく、家事を苦にしないようだ。
わずかな正月休みだというのに、せっせとおせち料理など作り、車にどっさり積んでくる。
家に来ると、そのままエプロンなど掛けて、台所に直行し、料理の仕上げに取りかかる。
「そんなに動かないで、少しのんびりなさい」と言うが、婚家でそんな気にならないことは、経験上、私もよくわかる。
今年は、年末年始の休みが四日しかないので、泊まるのは一泊だけになると、息子から電話があり、「同じ東京にいるのだから、日帰りでちょっと来ればいいわよ」と言ったが、息子の妻にしてみれば、実家には泊まりに行くのに、亭主の家には日帰りというのでは、悪いと思うらしい。
「普段、なかなか行けないので正月くらいは・・・」と息子がいい、結局、大晦日から元日にかけて我が家、そのあと彼女の家に一泊、最後の一日だけ、自宅で、ゆっくり過ごすと言うことに落ち着いたようだった。
四日からは、もう仕事だという。
「料理も大変だから、いいわよ」と言ったのだが、やはり、大晦日、彼女の定番となっている和洋折衷の正月料理を、たくさんタッパーウエアに入れて持ってきた。
試食もかねて、それらを並べ、私が作ったのは、サラダとつまみ少々くらいで、ほとんどは彼女の作った料理で、夕食となった。
今年は誰も、紅白を見ないというので、ウイーン演奏旅行のDVDをかけ、モーツァルトの「レクイエム」の演奏本番を見てもらった。
旅行の話も含め、話が弾み、いつの間にか年が明け、シャンパンで乾杯した。
正月は、みな、10時頃まで寝ていた。
それから新年の食卓を囲み、年賀状を見たり、息子夫婦と団らんしながら夕方まで過ごした。
夕方6時過ぎ、息子たちは、彼女の家に行くと言って、出て行った。
向こうでも、親たちが待ちかねていたことであろう。

そして今日は、今にも雪が降りそうな寒さ。
夫婦二人で、また静かな平常の生活に、早くも戻っている。
特別でないこんな平凡なことを、長々と書いてしまうのは、年をとったと言うことかもしれない。
平凡で平和に暮らせることのありがたさを、このごろつとに感じている。
今年、私は年賀状を、昨年より減らしたが、ほとんどつきあいもない義理の賀状を、いっさい止めたからである。
出せば、受け取った方は、返してくる。
出さなければ、来年は向こうから来ないだろう。
数の多さを誇る気もないのだから、実質的なつきあいの範囲に留めることにした。
それで、今年は60枚くらいで済んだ。
今年貰った年賀状を見て、来年は、また差し出し先が変わるかもしれない。
自分の身の始末を、少しずつ付ける年になってきている。


新たな年の初めに
2006年01月01日(日)

大分前に頃柳徹子がテレビで言っていた。
「若い頃は一日が長かったけれど、五十,六十になると、10年が束になって飛んでいく感じ・・」。
私自身もまさにそれは実感である。
過ぎた日々を思い出すとき、若いときも、決して一日が長かったとは思わないし、いや、むしろ楽しいことは、アッという間に過ぎていくような経験の方が多かったと思うのだが、年を重ねてのそれと違うのは、まだまだ先に時間があると思えたことだろう。

昨年11月はじめ、ウイーンの大聖堂で、モーツァルトの「レクイエム」を歌うという、劇的な体験をしたが、日本から講演旅行に参加した120人のメンバーは、20歳の大学生から75歳のシニアまでの、多世代にわたる構成だった。
歌や練習については、年齢による差は、あまり感じなかった。
一時間直立したままのステージ練習では、基礎体力の劣っているはずの、私たち中高年よりも、若い人の方が、耐久力がないように思えたし、ソプラノとテナーの高音は、若い連中の方が勝っていたが、音楽の理解や表現、声のコントロールなどは、年齢差よりも個人差だと感じた。
旅行中、荷物を持ったり歩いたりの場面でも、年齢の高い方が若い人たちに、一方的に助けを借りたり、面倒をかけると言うことも、ほとんどなかった。
瞬発力や、スピードは叶わなくても、判断力や、想像力は、若さよりも、人生経験が上回る。
だから、いろいろな年齢の人たちが集まった団体旅行は、それなりに、得るところも、広がりも多く、プラスに働いたのである。
それよりも、一番世代の差を感じたのは、公演旅行が終わり、12月に入って、打ち上げパーティで再会したときだった。
「すばらしい体験に恵まれて、感動しています」という趣旨はほぼ共通。
高齢メンバーの多くが、「こんなことは、もう、これからの人生には、ないと思います」という感想が多かったのに比べ、若い人たちが、「今年こんないい経験をしたので、来年はもっといいことがあるのではないかと思います」と述べたことである。
当たり前といえば当たり前だが、残り時間の少ない私たちと、まだまだあと半世紀は生きる可能性のある人たちとの、決定的な違いを見たように思った。
来年に楽しみを求められる若さを、うらやましく思い、そして、いつ生を終えてもおかしくない年齢に達しつつある私たちの、残された時間を思った。
過ぎた日々は、あとから振り返ることが出来る。
青春も、恋も、権力との闘いも、私たちにはあった。
20代から50代にかけて、男の人たちの多くは、自分と家族のため、そして、それを取り巻く社会と国の経済を向上させるために働き、女性たちの多くは、それを陰で支え、また自分も参加して、人生を過ごしてきた。
でも、若い人たちにとって、行く手にあるものを想像することは難しいだろう。
これからの人生に何が待っていて、その中でどう生きていくのか、どうやって、自分の道を見つけるのか、すべては、未知の世界である。
期待と不安をない交ぜにした気持ち。
たぶん、笑顔で来年への夢を語りながらも、心の奥底には、それらの感情は隠されているだろう。
でも、過ぎてきた時間より、これからの時間の方が、ずっと多いのだという事実は、何にも代え難い。
10年が束になってと言える10年が、これから先残っているかどうかさえ予測できない世代にとっては、一日一日が大切なのだ。
昨日から泊まりに来た息子夫婦が帰っていき、また夫と二人になった静かな夜に、こんなことを書いておきたくなった。



BACK   NEXT
目次ページ