沢の螢

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インフルエンザ
2005年01月30日(日)

昨日外出の折り、電車の隣の席に坐った若い男が、ひどく咳をしていた。
明らかに風邪の咳なので、次の駅に着く前に、降りる振りをして席を立ち、次の車両に移った。
座れなかったが、風邪をもらうよりはいい。
帰宅後は、うがいをし、手を洗い、ついでに耳の穴も、拭っておく。
水分が不足すると、風邪を引きやすくなるので、気を付けている。
外でお酒を呑んで、体が火照り、そのまま冷たい空気に当たるのが一番いけないらしいので、飲んだときは速やかに帰宅する。
今年になってからまだ風邪を引いていないが、油断は出来ない。
昔、ある声楽家の奥さんが、イタリア留学中の夫に付いて、彼の地で暮らしたとき、一番気を使ったのは、夫に風邪を引かせないようにすることだったと言う。
声楽家にとって、声が命だから、言うまでもないが、食事や睡眠はもとより、自分が外出先で風邪を引かないことにも、神経を使ったらしい。
ウイルスを持って帰れば、夫にも移るからである。
そこで、電車に乗ったときは、席に座らず、ドアのそばに立つことにしていたそうだ。
電車が停まるたびに、ドアが開き、自然に換気するので、電車内のよどんだ空気から、幾らか解放されるからと言うのである。
なるほどと思った。
それから私も、そのように実行している。
すいているときは、やはり坐りたいが、混んでいるときは、ドアの傍に張り付く。
日本の場合、ドアが開くと、ドドドッと人が乗り込んでくるので、換気の効果がどのくらいあるかわからないが、少なくとも、車内中央で、人と人の間に挟まれて、咳やクシャミを浴びるよりは、マシだと思う。
昨日は、集まりがあって、出かけたが、いつも来る人が欠席だった。
さんざんサカナにして愉しんだが、今朝電話があり、風邪で熱を出していたらしい。
「8度の熱でねえ」と言っている。
声は割合元気だが、心細そうだった。
愉しい集まりが続いて、せっせと出ているうちに、とうとう引き込んだらしい。
「しばらくのんびりして、お大事に」と電話を切った。
このところ、自然災害や、大きな事件が続いて、風邪のことは、あまり話題にならないが、インフルエンザは、じわじわと広がっているようである。
今が一番寒いとき。
気を付けねば・・。


ロミオとジュリエット
2005年01月25日(火)

シェイクスピアの表題の悲劇は、あまりにも有名な話で、あらためて、ストーリイを綴る必要もない。
仮死状態になったジュリエットの姿を見て、悲観したロミオが、毒を仰いで死ぬ。
そのあとに目覚めたジュリエットは、後を追うように、死を選ぶ。
もうすこし早くジュリエットが目覚めていたら・・と思う。
あるいは、ロミオが、毒を仰ぐのが、もうすこし遅かったら、と思う。
ところが、まさにこの話とそっくりの出来事がイタリアのパドゥヴァで起きた。
ロミオとジュリエットと違うのは、老年期の夫婦だったこと。
67歳の妻が突然倒れ、昏睡状態になった。
70歳の夫は、妻に付き添い、懸命の看病を続けた。
しかし4ヶ月経っても、妻の意識は、戻る様子はない。
呼びかけにも応えない妻の状態を見て、悲しみのあまり絶望した夫は、ガス自殺を遂げた。
ところが、なんと、その12時間後に、妻の意識が回復した。
傍にいるはずの夫の姿を探したが、すでに、死んだあとだった。
妻の意識快復が、もう半日早かったら、夫婦は、元の幸せな日常を取り戻せたであろうに。
今日のテレビで報じた実話である。
4ヶ月経って、意識が戻るというのは、滅多にあることではなく、ほとんど奇跡と言えることだそうである。
イタリアのその地は、ロミオとジュリエットの悲劇の舞台ヴェローナと、60キロくらいしか離れていない町。
偶然と言っても、似すぎた悲劇。
残された妻の心を思って、涙が出てしまった。
つらい話である。
神様は、時々、こんな残酷なことをなさる。


モーツァルトのレクイエム
2005年01月23日(日)

ウイーンの聖堂で、モーツァルトのレクイエムを歌うというプロジェクトに参加することになった。
実現は11月はじめだが、今日から練習が始まる。
今日の練習会場は、横浜のさる小ホール。
朝9時半集合なので、1時間半前に家を出た。
東横線の最寄り駅から、坂道を7分ほど歩き、10分前に会場に着いた。
まだつぼみはないが、梅林のある会館である。
エントリーした参加希望者は110人ほどいるらしい。
初日とあって、休む人もほとんど無く、100人近くが、出席し、椅子が足りないくらいであった。
厳寒の日であるが、熱気溢れる会場で、まず事務方の人たちの連絡事項、ウイーンに参加者を連れて行く旅行社の人の説明があり、休憩を挟んで、練習が始まった。
参加者の平均年齢は若くないが、なかなかよくハモっている。
指揮者は、昨年の暮れ、ハ短調ミサを振ったモーツァルト専門家。
今年は、ウイーンでの演奏ということで、力が入っているのがわかる。
言葉の解釈、ウイーン式ラテン語の発音も含め、丁寧な練習の仕方である。
私は学生時代に一度、40代に入ってから地域の合唱公演で一度、レクイエムを歌っている。
今回は3回目になる。
前2回はアルトで歌ったが、今回はソプラノでエントリーした。
ハ短調ミサも、ソプラノで歌った。
今日は、事務的な打ち合わせで多くの時間が取られたので、曲の練習は、1時間ほどだったが、まずは順調な滑り出し。
今後、11月の本番まで、月に3回の練習が予定されている。
少々きついが、滅多にない機会なので、嬉しい。
終わってから、何人かで食事をし、帰宅。
さすがに疲れた。
今年は、この合唱公演を中心に過ぎていきそうである。


大寒
2005年01月21日(金)

昨日は大寒だった。
夕方から出かけたが、それ程の寒さではない。
今日も、風はなく、よく晴れている。
今年は花粉が、例年の20倍とか、30倍とかいわれている。
夏が暑かった翌年は、花粉の量が多いとのこと。
花粉症の人には、つらい季節がやってくる。
花粉症になる人は、もともと日本の島にいた大和民族だという説があるが、本当だろうか。
杉は外来種なので、そのDNAの人が、アレルギー反応をおこすというのだが・・。
花粉症にならない私は、渡来人の子孫かも知れない。
ともあれ、花粉症の家人のためには、その時期、洗濯物も、布団も、外には干さないようにしなければならない。
今日は、まだ大丈夫だというので、外に洗濯物を干した。
風が出てきたら、いち早く取り込むようにしている。
朝起きたとき、1時間ほど窓を開けて、空気を入れ換え、あとは閉めておく。
外出から帰ったときは、うちに入る前に、服や持ち物をよくはたいてから入る。
もうじき、そんな季節がやってくる。
2月はじめから4月終わりくらいまで。
その時期、外国のどこかに行っていればいいのだろうが、簡単ではない。
数年前、家人は、花粉から逃れたいと行って、半月ほど、インドに旅行した。
花粉だけが理由ではなく、インドにはまだ行ったことがなかったので、ひとつの夢だったのである。
しっかりしたツァーに入っての一人旅は、なかなかよかったらしい。
帰ってきた頃には、日本の花粉も収まっていた。
私にとって、怪我の功名だったのは、「じゃ、私も一人でどこかに行くからね」という約束を取り付け、その夏、シベリア横断の旅に行けたことである。
だが、今の世界情勢では、何処に行くのも、危険と隣り合わせ。
それは前からあったに違いないが、予測できないことが、増えたということと、日本人がお金以外の目的で、ターゲットにされる事態になってきたと言うことでもあろう。
いやはや・・。


昭和80年
2005年01月19日(水)

今年は昭和で数えると、80年である。
戦後60年たち、その頃子どもだった世代が、かろうじて覚えている戦争の記憶。
あと10年もすれば、戦争の記憶は、完全に日本人の脳裏から消えてしまう。
人はあまりつらい、悲しい体験をすると、それを忘れたいという気持ちが強く、意識的に避けようとする。
私の一世代上の人たち、あるいは、実際に戦地に行った人たちが、長く沈黙してきたのは、そのようなことだったかも知れない。
戦争体験をを語り継ぐと言うことは、次の世代が同じ愚かな過ちを繰り返さないための、最も大事なことだと信じているが、一方で、最近、私は、それがどのくらい、役に立つのかと言うことに、いささか、疑問を抱いている。
文明は進歩するが、文化は、むしろ、衰退しているのではあるまいか。
遠い異国で起こっていることが、茶の間のテレビで、リアルに伝えられる反面、それとテレビゲームとの違いが、わからなくなっている人たちが、確実に増えているのだから。
些細なことで、人の命を奪うという事件が、多すぎる。
そして、それが自分に繋がる人間のしていることだという自覚がない。
インターネットで垣間見る、人を傷付けて、それを快楽にしているとしか思えないような人たちの遣り取りを見ると、人間は元もと、残酷で、攻撃的な生き物だと思いたくなる。
アフリカに住む野生の動物たちは、自然の摂理に従って生きており、たとえばライオンは、自分より弱い生き物を捕らえて、食料にする。
生きるための本能である。
しかし、其処には、神の摂理が働いていて、決して、自分の胃袋を満たすため以上の殺戮はしない。
縞馬や鹿などが、たまに餌食になっても、群れ全体が大量に殺されると言うことはない。
そしてそれらの生き物も、生きるための手段として、別の生物の命を貰っているのである。
多分、人類誕生の初期の人間も、同じ摂理で、生きていたのであろう。
だが、現代を生きる人間は、そんな単純な構図ではないようである。
大国が小国を支配するという図式も、ギリシャローマの昔から変わらないが、そのやり方が、だんだん巧妙になっている。
大義名分のベールを被せて、小国の平和を守るという形で、乗り込んでいき、ちっとも、その国の人達から、歓迎されていないのに、自分流のやり方を押しつけて、うまく行くと思っている。
命令で現地に行き、命の危険をさらしながら、それが、その国のためになっていないとしたら、若い人たちの気持ちは、すさんで来るではないか。
25年前、私は日本在住の外国人に日本語を教えるという仕事をしていた。
最初の生徒は、アメリカ人の若い人で、日本の大学に留学していた。
彼は、ベトナム戦争の末期に従軍したことがあり、その時、立ち寄った日本に興味を持ち、仕事を辞めて、来日した人だった。
彼が言ったことで、印象深かったのは、「アメリカは、戦争に勝つことは出来ても、その国の人たちの心までは、支配できませんね」という言葉だった。
彼の兄は、同じくベトナム戦に行き、そこで知り合った現地の女性と結婚、子どもが3人いて、ベトナムに暮らしていた。
「私だって、こうして日本に来ています。出来れば日本で就職したい。だからアメリカは、人材を二人失いました。アメリカの負けです」と、半分冗談めかしていった。
国と国が理解し合うというのは、根本的には、人と人とが、お互いを理解しようという努力なのだろう。
「鬼畜米英」などと言って、国民を戦争に駆り立てることが出来たのは、身近に、西洋人など、見たことのない人たちがほとんどだった、当時の日本人だからこそ、為政者にとって、可能だったのである。
今の日本人にとっては、アメリカもヨーロッパも、それ程遠い国ではない。
情報は隠しても、どこからか、入ってくるし、為政者にとっては、遣りにくい時代である。
大国の偽りの正義も、暴かれてしまう。
また、有効な意見も持たずに、ただ反対だけしていればよかった反対勢力も、頭を使わねば、支持されなくなった。
そのなかで、高齢化する昭和の戦争体験者達が、次の世代に、戦争の悲惨さと空しさを、どれだけ伝えていけるか、難しいものを感じる。
しかし、そうしなければ・・。

寒さの一番厳しいこの日、息子は39歳の誕生日を迎えた。
「おめでとう」のメールを送った。


日脚伸ぶ
2005年01月18日(火)

一日ほんの数分であろうが、日が長くなっているような気がする。
大寒に近づき、さすがに、朝晩は寒いが、日中は、晴れていれば暖かい。
今朝、朝食のあとで、庭にメジロのつがいが来ているのを見つけた。
今、家の周りは、暮れからの道路工事で、大きな音がするので、鳥の鳴き声は聞こえないが、枝から枝にメジロが飛び渡っている。
2階にある夫の書斎に内線を掛ける。
「珍しくメジロが来てるわ」というと、「アレ、いつも来てるよ」という。
私が気づかずにいたらしい。
夫は、デジカメで、始終庭を観察して、芽吹きや生き物の様子を見る習慣になっている。
「アラ、言ってくれればよかったのに」というと、「気が付いてると思ったんだ」という。
今までは毎年、冬近くになると、庭の真ん中に、餌台をしつらえ、野鳥のために食べ物を置いていたが、鳥インフルエンザが話題になってからは、それを止めている。
家には、さまざまな野鳥が来るので、万一、近くに発症例が出たとき、家の野鳥たちが、犯人にされてはかわいそうだからである。
餌台を置かなくなったせいか、庭から鳥の声が消えた。
木々の芽吹きが始まり、虫が付くようになると、自然の恵みをもとめる鳥たちが、帰ってくるが、真冬は、えさが不足するのである。
私は、鳥に限らず、人が飼っている生き物は嫌いだが、自然の生き物や、野鳥は好きである。
鳥の、生きる力をそこなわないように、えさをやるのは、冬に限っている。
しかし、昨年から止めてしまったので、野鳥たちは、他の場所に移ったのであろう。
正月に息子夫婦が来たとき、息子の妻が「鳥が来ないんですね」と言った。
生き物は嫌いだという彼女だが、野鳥のことは、覚えているらしい。
わけを話すと「そうですか。いつもここへ来ると、鳥の鳴き声がするんで、どうしたのかと思いました」と言った。
今まで、鳥の話なんか、出したこともなく、無関心でいると思った息子の妻が、そんなことを心に留めていたのかと、意外であり、嬉しかった。
先日、暮れに買った蜜柑を、一袋、忘れたまま、腐らしてしまった。
鳥にやるには、充分なので、庭のあちこちに、置いておいた。
多分、それを食べに、メジロが来たのであろう。
メジロは、甘い物が好きなのである。
庭の紅梅が蕾を付けるのも、間近。
その頃には、野鳥たちが、花の蜜を吸いに帰ってくる。

昨日は、夕方から風が吹いて寒かった。
都心の某大学の神学講座に行く。
昨年4月から行き始めた夜間の神学講座。
「パウロ書簡」「マタイ福音書」「マルコ福音書」と、3つの講座を受講し、今4つ目の「諸宗教の神学」を受講中。
あと3回で終わる。
この神学講座を、週3回2科目ずつ受ければ、3年で、神学の全体が学べるようなカリキュラムが出来ているが、私には週に一度行くのがやっと。
多分10年掛かるであろう。
西洋の文学、美術、音楽に触れていくと、どうしても、聖書を理解したい気持ちになり、思い立った。
受講する人は、ベールを被った神学校の女性たちや、宗教科の教員免許状を採るための単位受講者のほか、私と同じく、キリスト教徒以外の人たちも多い。
数えたことはないが、大きな教室に、70人くらいはいそうである。
今まで無縁に過ぎてきた分野。
とても刺激的で面白い。
夕方5時半からの授業が終わるのは7時。
寄り道せずに帰ると、8時近く。
夕べは、夫が、鍋を作ってあった。
この頃覚えて、気に入っている「常夜鍋」。
豚の薄切りと、ほうれん草を鍋にして、大根おろしとポン酢で食べる。
冷えた体に、とても美味しかった。


成人式
2005年01月11日(火)

暮れからバタバタしているウチに、もう今月も10日経ってしまった。
この三連休の一日は、義弟の家に集まった。
昨年11月に、義弟の娘が結婚し、新しく親戚となった姪の連れ合いを交えて、ゆっくり団欒した。
私たち夫婦と息子夫婦、義弟夫婦と、その息子夫婦、娘夫婦と、全部で10人。
まだ孫はいないので、おとなだけの集まりである。
数年前までは、正月は、いつも私のところで集まる習慣だったが、昨年あたりから、義弟の方に移っている。
こうして集まるのも、年に一度がやっと。
働き盛りの息子の世代は、忙しく、親との付き合いは、こんな形でしかないが、それでいいと思っている。
30,40になってからも、親子の付き合いを最優先するようでは、仕方がない。
親子の縁は、黙っていても、切れるわけではないのだから。
集まれば、世代を超えて、いろいろな話題に花が咲く。
愉しい一日となった。

寒に入ったからか、やはり寒い。
今朝は、さすがの私も、暖房をフル回転させた。
1時間くらいで、暖まるので、朝食が済むと切る。
庭に猫が入ってきたので、落とし物をされないうちにと、追い払ったが、思わぬランニングをしてしまった。

昨日は成人式だったが、今年はあまり混乱はなかったようだ。
式典で、祝辞など、聞かずに騒いだり、式の間中、携帯電話で、遣り取りしたり、行儀の悪いのは多少あったらしいが、警察沙汰にまではならなかったらしい。
今の若い人は、なんて言うつもりはないが、一定時間ジッとしていることさえも、我慢できないようでは、おとなとは言えない。
寿命が延びて、トシヨリがいつまでも、頑張っているから、若い人の出番が無くなり、いつまでも、子どもでいられるようになってしまったことも、悪いんだろうけどね。
もっと、役割を与えたらいいのだ。
私は息子が15歳の時、近所の葬式に、親の代わりに参列させた。
ちょうど、私たち夫婦が、はずせない予定があったためだが、息子は、香典を持って、斎場に赴き、近所の人たちのやり方を見て、無事にこなしたらしい。
15歳というのは、昔で言えば元服の年。
親の代わりを果たせる年である。
ましてや20歳ともなれば、親がいなくたって、一人で生きていけるはずである。
大学まで行かせてもらっているのに、いつまでも子どもではしょうがないではないか。
パラサイトで、居心地がよすぎるから、成人式での、実の処し方もわからない。
あの世代の親たちは、一体、家でどんな教育をしているのだろうか。
私の周囲の、少し上の世代は、もう成人を迎える孫がいたりするが、孫達にとっては、祖父母というのは、金蔓でしかないような話を聞く。
そんなことで、目尻を下げているおとなも悪いのである。
だからって、トシヨリは早く死ねなんて言わせない。
今の便利な時代が、当たり前のように与えられていると、思わないでほしい。
つい半世紀前の日本は、こんなじゃなかったんだから。
古いものから学ぼうとしない態度は、どこかでしっぺ返しされる。


冬晴れ
2005年01月05日(水)

このところ、天気の良い日が続く。
割合に暖かい。
暖房は、日中はほとんど要らない。
我が家は、暖房機という物を置かず、天井と床から温風で暖めるやり方なので、安全性は抜群だが、じかに当たるガスストーブのような暖かさにはちょっと欠ける。
厳寒の時は、フルに稼働させないと効かないので、寒い冬は、暖房費が月に3万円くらいになることもある。
私は寒さ、暑さも自然の生業だと思っているので、冬でも、暖房をケチる方だが、長くビジネスマンをしてきた夫は、すぐに機械に頼る。
せっかく暖房が付いてるのに、使わない方が勿体ないという。
正月に来た息子達は、もっとひ弱である。
「ここへ来ると風邪を引くんだよね「などと言って、寝るときも、暖房を点けっぱなしである。
昔は、炬燵にくるまって、寒さを凌いだものだなどと言っても、始まらないので、文句は言わないが、彼らが老人になる頃は、平均寿命は確実に短くなっているだろう。
瞬発的な体力は、彼らのほうがあるかも知れないが、持久力は、私の世代のほうが強いのではあるまいか。
でも、確かに、自分のいるところが、ホワッと、柔らかな暖かさに包まれていると、幸せな気持ちになるし、人にも優しくなれる。
ちなみに、私の書斎は、冷暖房は付いていない。

昨日も今日も、冬晴れ。
昨日は久しぶりに図書館に行き、数冊の本を借りた。
日本では、こんなに暖かく、平和な風景にいるが、インド洋津波の被害は、予想を超えた大きさで、死者の数は、10万を超える。
悲惨な状況を、メディアを通してしか、知ることは出来ないが、心が痛む。
両親と弟を失って、一人生き残った少年の涙はいたましい。
そんな例が、数え切れないほどあるらしい。
わずかな金額を寄付するくらいしかできないが、被災した人たちが、心と体に受けた傷が、早く癒されるように、願っている。


遅まきながら・・
2005年01月03日(月)

年賀状というのは、昔から、1月1日に着くように出すのが、一般的だったのだろうか。
郵便局に行くと、もう12月中旬から年賀状用の箱が据え付けてあり、まとめて投函できるようになっている。
夫は、何でも早くやる方なので、12月になると、年賀状の用意に取りかかる。
デザインを考え始め、いくつかのひな形を自分で作り、文面を考え、24,5日頃には、いつでも投函できる態勢になる。
しかし最近は、周辺に、年末に亡くなる人があったり、不祝儀の報を聞くことも、少なくないので、あまり早く投函しないようにしているが、それでも、28日までには、送ってしまうらしい。
そうすれば、元旦初日に確実に配達されるようである。
私は、何でも人より遅いので、28日までに年賀状を投函できるなんてことは滅多にない。
大晦日の夕方になったり、年が明けてから、受け取った年賀状を見て、その相手に出すという事態になることが多い。
暮れは気分が慌ただしく、「おめでとうございます」なんて、書く気にならないというのは言い訳で、要するに、手順が悪いのである。
正月に受け取る人の気持ちになって出すのが、年賀状の趣旨なのであろう。
年が明けて、やっと、そういう気分になって出した年賀状は、早くても1月4日、場合によっては7日、8日になってやっと相手方の郵便受けにはいる。
タイミングを外して届いた年賀状は、気の抜けたビールみたいで、あまり嬉しくないかも知れない。
それを承知していながら、今回も私は、年内には賀状を出せず、夕べ夜中まで掛かって、年賀状を仕上げた。
おせち料理を食べ、家族で正月を祝い、息子夫婦が引き払ったあとの作業である。
昨年の年賀状の写真を取り替え、文面も新しくし、一枚一枚手書きで宛先を書き、今日、出先のポストに投函した。


謹賀新年
2005年01月01日(土)

家族で祝う静かな正月です。
大晦日は結構な雪でしたが、息子夫婦は、予定通り、夕方やって来ました。
「雪で滑ると危ないから、無理しないで」と、息子に電話を掛けておきましたが、幸い夕方には道路の雪も、ほとんど解けて、運転に支障はなかったようです。
彼らが到着したので、おせちの味見を兼ねて、一緒に夕食を取りました。
息子の妻は料理が得意です。
いつも、おせち料理を車にいっぱい積んで、持ってきます。
30日の午前中まで仕事があったというのに、会社の帰りに、買い物をし、沢山の料理を拵えて、大晦日に持ってくるのが、習慣になっています。
私がするのは、かまぼこ、伊達巻き、酢締めの魚など、出来合を買ってくるだけ。
きんとんだけは、作ることになっているので、栗の甘露煮と、大きな金時芋を買いました。
みんなで紅白を見ながら、話が弾みました。
寝たのは、夜中の3時近くでした。
ですから、今朝は、10時くらいまで寝坊です。
日が差していて、昨日の雪も、だいぶ溶けています。
年賀状が来ました。
私は、年内に年賀状を出すことが出来ませんでした。
明日、息子夫婦が帰ったら、一枚一枚手書きで、返事を出そうと思います。
重箱に、料理を詰め合わせ、4人で、新年の膳を囲みました。
社会の一線で働いていて、いつも忙しく、滅多に顔も見せない息子夫婦と、人生の秋にいる私たち夫婦。
健康で、つつがなく暮らしていることが、何よりの喜びです。
ひとしきり箸が通い、お雑煮を食べると、もう昼の時間になっていました。
いつもは、みんなでお墓参りに行くのですが、今日は、まだ雪が残っているかも知れないので、取りやめました。
代わりに、居間にある仏壇に、お線香を上げました。
午後から息子夫婦はどこかへ出かけ、夜戻ってきました。
道路はすいていたようです。
こうして、平成17年の最初の一日が終わりました。



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