沢の螢

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前期終了
2004年07月30日(金)

4月から週一回通った「神学講座」前期の授業が終わった。
秋学期は9月下旬からである。
「パウロの書簡」と「マタイ福音書」について、学んだが、聖書の奥の深さを感じる。
何年かかっても、終わりと言うことはないであろう。
このひと月は、猛暑のため、そして、ぜんそく性の風邪のため、体調がすぐれなかったが、何とか9割方出席することが出来た。
受講生は皆熱心で、年配の人が多いのに、酷暑の中を通ってきていた。
これから8月中旬にかけて、夏期集中講座もあるが、私はパスすることにした。
こちらは毎日なので、ちょっと通えそうもない。
今月は、連句も2度ばかり欠席、終わっての飲み会も、ほとんど不参加である。
「顔色が悪いよ。体大事にしなきゃ」と気遣ってくれた人がいる。
でも、インターネット連句は、気の合う仲間でやっている。
これがあるので、あまり浦島太郎にならずに済んでいる。

蓼科の小屋にも、まだ行けずにいるので、日曜日から行くことにした。
涼しいところに行き、少し英気を養って来たい。


慈雨
2004年07月26日(月)

夜中に雷の音を聞いた。
今朝起きると、かなり雨が降っていたことを知った。
ものすごい暑さが続いたあとの雨。
気温も、少し下がったようだし、まさに恵みの雨である。
ずっと、夏風邪が治りきらず、気管支喘息症状になって、つらい日が続くが、これで、気分も少し凌げそうである。
振り込みが溜まっている。
後で郵便局に行かねば・・。

昨日テレビで見た岸恵子の「ギリシャ紀行」はよかった。
アテネから、ミコノス島など、あちこち歩きながら、彼女独特の視点でレポートしていく。
間に、ギリシャの映画監督テオ・アンブロビゲスとの対談をはさみながら・・。
岸恵子は、24歳でフランスの映画監督、イヴ・シアンピと結婚、それ以来フランスと日本を行き来しながら生活している。
一女をもうけたが、シアンピとは離婚、その後は、世界を股に掛けて、本も書き、テレビにも出ている。
日本では、成熟したおとなの女をヒロインにした映画やドラマは、ほとんど無いから、彼女が日本で出るのは、朝ドラの脇役くらいだが、それでも、さすが、大女優だなあと思うような風情があって、たいてい主役を食っている。
昨日の番組でも触れていたが、1990年に蜷川幸男演出の「水の女」というテレビドラマは、ギリシャも舞台になっていた。
第一級の美人は、年齢と関係なくいつまでも、美しく、人を引きつけるものだなあと、感嘆した。
更に14年、昨日の岸恵子も、ホッソリした体に、あでやかな衣装を身につけ、隙のない身のこなしであった。
女優という言葉にふさわしい女優がホントに少なくなった今、彼女のような人を見るとホッとする。
私の偏見だが、女優は、女優らしくあって欲しい。
隣のお姉ちゃんみたいな人が、そのまま画面に出てきても、わざわざ見る気にならないからである。


猛暑(2)
2004年07月20日(火)

寒さには、耐えられる方だが、この暑さには、ちょっと閉口する。
それなのに、冷房がキライで、閉め切った部屋で、人工的な冷気が漂うと、もう外に出たくなる。
だから、夏は私には、イヤな季節である。
日本の夏は高温多湿、ジワッと汗が出てきて、体中がだるくなり、何も出来なくなる。
こういうときは、熱中症にかかっているのかも知れない。
人間の体は多くの水分で出来ているので、大きなペットボトル2本分の水分が足りなくなると、危険だとか。
だから意識的に水分補給しなければいけないのだが、年を取るに従い、喉の渇きに鈍感になるので、気が付いた時は手遅れなんだそうな。
昨日連句の集まりがあり、5,6人ずつのグループに分かれて連句を巻くが、その席で、そんな話が出た。
連句は、年配者が多い。
「じゃ、せいぜい水分を取りましょうね」と言うことになって、テーブルの上のペットボトルがたちまちカラになった。
場所は、和風の家なので、古いタイプのクーラーがあるだけ。
全部の部屋には届かず、私の居たところは、扇風機を置いて貰ったが、さすがに暑さには参った。
飲みかつ食べながら7時間あまり、歌仙が巻き挙がり、愉しい話も弾んで、いい気分で帰ってきた。
寝るときになって、寝室のクーラーが故障していることに気づく。
隣の部屋のクーラーから、扇風機で、空気を廻したが、寝苦しい夜となった。
今日も暑そうだ。
午後から、クーラーの修理が来ることになっている。


夏の雷
2004年07月15日(木)

久しぶりの雨でした。
雷と共に来たにわか雨。
私は、建物の中にいましたので、はじめは気づきませんでしたが、かなりの雨だったようですね。
そのせいか、少し暑さが和らいだようです。

お手紙有り難うございました。
いつも、会報を送って下さって、有り難うございます。
今回は、冊数が足りなくて、わざわざ増刷して下さったとのこと、恐縮です。
本当に感謝しています。
このごろは月に一回の発行になったようですね。
そのためか、例会でのことや、メンバーの作品、エッセイまでぎっしり詰まっていて、なかなか読みごたえがありますね。
会のIT化は進んでいて、半分以上の人たちは、インターネットをやっておられるのでしょうか。
私のいた頃に比べて、ネットの占める割合が増えているようです。
それも大変結構なことですが、まだまだインターネットに縁のない人もいるので、情報が不公平にならないようにしなくてはいけませんね。
メールは便利なので、気軽に連絡が取りやすく、そうでない人との、情報の差が出来てしまいます。
小さなことですが、会を運営する人が、その辺を配慮する必要があります。
私が会を止めたのも、もとはといえばそんな不公平さから来たことでした。

最近の私は、インターネットでの連句を運営する一方で、よそのサイトにも、参加しています。自分で、ボード連句を管理するのは、結構大変ですが、人のサイトに参加するのは愉しいですね。
いい意味で、無責任というか、気楽に付き合っていけます。
私のボード連句は、今、三カ所に分けて動かしていますが、オーソドックスなもの、ちょっと遊びが入ったもの、誰かに捌きをお願いしてゆっくり巻くもの、といろいろですが、なるべく参加者の皆さんが、愉しんでくれるように心がけています。
先月そのうちのひとつが満尾、いま歌仙興行中です。
今ネット上に表示されてますので、気が向いたら見てください。
一度百韻もやりたいのですが、これは時間が掛かり、捌きの問題もあって、ちょっと難しそうです。
ベテランで、ほっておいても、どんどん付けてくれる人が7,8人いないと、苦しいでしょう。
でも、いずれはやりたいと思ってますので、そのときは参加して下さい。
実際の座では時間制限があって、なかなか機会がありませんが、インターネットなら、メンバーさえ整えば、可能だと思いますので・・。
ただ、インターネット連句は、時に、面倒だと思うこともあります。
顔が見えない故の気遣い、対応の仕方がありますし、しじゅう、パソコンに向かい合っていなければなりません。
時々、やめちゃおうかと思ったりしますが、参加した人が、愉しかったと言ってくれると、またそれで励みになって、始めたりします。やはり好きなんでしょうね。
所属結社も、上に立つ人が居なくなり、目に見えないところで、いろいろな動きが出ています。
上昇志向の強い人は、力のある人に近づいて、自分の周りを固めようとしますし、人をけ落とすための策を講じたりします。
本来、こうしたことに無縁であるはずの女性の一部にも、妙な裏技を使う人があり、私は、そうしたこととは、一線を画しています。
当然、軋轢もありますし、可愛げがないので、疎外されるようなこともしばしばありますが、人に喰わせてもらってるわけじゃなし、風雅、風狂の道に遊ぶのに、おのれ以外の何に媚びる必要があるでしょう。
でも、圏外にいると、人がどんな動きをするかよく見えて、なかなか愉しいですよ。
ほんの少数ですが、理解してくれる人とは、仲良くしています。
当分、静観しながら、気持ちよく参加出来る場所だけ、出入りしています。
愉しく、生き生きした場があれば、それに越したことはありませんし、それ以上のことは、もはや望みません。
会を止めてからは、あなたとも、お会いする機会が無くなってしまいました。
とても残念に思っています。
いつか、ご一緒に風雅の遊びが出来ることを望んでいます。
ところどころ、筆の滑ったところがありますが、お許し下さい。
どうぞお元気でご活躍下さい。


「イースト/ウエスト 遙かなる祖国」
2004年07月11日(日)

昨日表題の映画を見た。
1998年のフランス映画。舞台は旧ソビエトが主である。
第2次大戦後の冷戦時代、スターリン体制下にあったソビエトは、ロシア革命後にヨーロッパに亡命したロシア人達を、故国に迎えると発表した。
その呼びかけに応じて、帰国した人々を待っていたのは、過酷な現実であった・・。
鉄のカーテンの向こうにあって、西側にはほとんど報道されなかった歴史的事実を、一人のロシア人医師と、その妻であるフランス人女性の姿を通して、語っている。
妻と息子を守るために、体制に順応していく夫、フランスへの帰国を願い自由を求める妻、それを縦糸に、監視社会の中でのソビエトでの人々の生活や、命がけで脱出を計る若者の姿などが横糸になって、見応えのあるドラマに仕上がっていた。
カトリーヌ・ドヌーブが、一家を助けるフランスの大物女優役で出ている。
妻と息子をフランス大使館に逃がした夫は、ひとり島に流されて生き延びるが、家族に再会したのは、ゴルバチョフ政権になってからであった・・・。
監督は、現在ベラルーシに住む、フランス人女性の証言から、この映画を作ったらしい。
ちょうど北朝鮮拉致事件や、曾我さん一家の現実とオーバラップして、感慨深かった。
昭和20年代終わり頃、自由な夢の世界があると言われて、日本から北朝鮮に帰った人たちも、似たような現実に直面したのではないだろうか。
平和で自由な国に住み、思想の制約もなく、家族が離散する心配もなく暮らしていることが、どんなに貴重なことかを、しみじみ考えさせられた。


猛暑
2004年07月09日(金)

ここのところものすごい暑さである。
梅雨は明けたのかどうなのか、わからないが、34,5度の暑さが続いている。
脳味噌まで溶けてきそうである。
プール熱は、ほとんど治ったような気がするので、薬も、もう今日からは飲んでいない。
ただ、うがいだけはしっかりやっておく。
夫が会合で出かけ、私は夕方から「神学講座」に行った。
「まだ出ない方がいいよ」と言われたが、今のマタイ伝についての講義はとても面白いので、欠席したくなかった。
冷房対策に、上着を持って出かけた。
教室では、いちばん冷房の当たらないところを選んで坐った。
大きな教室なので、空調がきつめになっている。
一時間半の授業は無事に終わった。
聖書の読み方が、大分わかってきて、面白い。
帰ってくると、夫は巨人戦を見ながら夕食をはじめるところであった。

今日のテレビは、朝から、曾我ひとみさんの家族再会のニュースで持ちきりだった。
マスコミの騒ぎ方はちょっと異常な気がするが、それだけ話題が大きいと言うことであろうか。
19歳で拉致され、24年間北朝鮮で過ごした曾我さん。
一昨年帰国したが、ほかの人たちと違っていたのは、彼女が、米軍の脱走兵と結婚していたために、今回の再会に漕ぎ着けるまでに、日米北朝鮮の、3国に跨る難しい問題があったことだった。
1年9ヶ月。
彼女は、よく耐えて、今日の日を迎えた。
地元の人たちも、彼女には、温かい目を注いでいる。
飛行機から降りてきた夫の胸に飛び込んだ曾我さん。
その熱い抱擁と涙の中で、彼女の一年9ヶ月の日々は、報われたかも知れない。
しかし、実はこれからが本当の苦労である。
生まれた国が異なるひとつの家族。
前の世紀の影を、まだ引きずっているのである。


プール熱
2004年07月05日(月)

6月終わりに一度、38度くらいの熱を出し、それはいったん収まった。
買い置きの風邪薬を飲み、2日くらいで治ったので、医者にも行かなかった。
しかし、また一昨日夕方、体がだるいので熱を測ったら、37度2分ある。
前日から喉が少し痛かったし、大学の講座で、教室の冷房が寒かった。
私は低体温なので、7度越えると、かなり熱があると判る。
そこで、3時間ほど横になり、夫の作った夕食を食べて寝た。
そういえば数日前から目が赤くなり、気になっていた。
昨日は、連句のある日だが、欠席して、一日ごろごろしていた。
今日になって、目も赤くないし、熱もなかったが、喉の痛みが消えないので、午前中に医者に行った。
するとプール熱だという。
「私、水泳はしないんですけど」と言ったが、子どもなどがプールで感染するので、そんな名前が付いているが、誰でもうつるのだという。
「家族にもうつりますよ。あまり人中に出ないように」と言われ、薬を貰って帰ってきた。
たまたま電話が掛かってきた友人の話によると、今、流行っているそうである。
この前の発熱は、それだったのかも知れない。
自己判断で、適当に薬を飲んで、放置したのがいけなかったようだ。
正しく薬を飲んで、しばらくおとなしくすることにした。


ブログを作るまで
2004年07月04日(日)



私がホームページを開いたのは、2002年の正月。
はじめは、ジオシティの無料スペースに、ホームページソフトを使って、まず表紙(ホームページというのは、正確には表紙ページを言うのだと後で解った)を作った。
そこに連句のボードを繋げ、あとは、ジオシティのサービス日記ツールで、日記を書くくらいがやっとだった。
ソフトの使い方になれるのにも、時間が必要だった。
やがて、ページもだんだん増え、連句ボードに参加する人にも、公開していたので、顔見知りの人の中にも、見る人が少しずつ出てきた。
ところが、半年ほど経って、私のサイトをめぐって、当時入っていたグループの一部の人たちとの間に、亀裂が起こり、私は、グループをやめ、しばらくしてから、サイトのアドレスを別のサーバーに移した。
その人達は、私のサイトが、グループの趣旨に合わないから、グループページに、リンクさせられないとか何とか、理屈にならないことを言っていたらしいが、要するに言いがかりで、本音は、グループから、出て欲しかったのである。
それが解ったので、自分から退会を申し出た。
私は、小さいながら堅実に成長していたそのグループが好きだったし、メンバーの人たちも、善良なやさしい人達だった。
しかし、ほんの一人か二人であっても、私に悪意を持つ人がいるとわかった以上、そんなところにいたくなかった。
以後、その人達との交流はない。
この件については、一度もまともな形で話し合われることはなく、ほかの人たちは、正確なことは何も知らず、すべての罪は、やめていった私にあるとされて、今に至っている。
グループと関係無しに、付き合いのある人、真相はわからないままに、心を痛めて、私を気遣ってくれた人もいる。
しかし、すでに2年も経ち、私の存在は、もはや過去のことになって、新しいメンバーも増え、そんなことがあったことすらも、今は話題の範疇にないだろう。
関わった人たちにとっては、私の名前すらも、聞きたくないはずである。
サイトの方は、何の罪もないから、アドレスを移してからは、遠慮無く運営している。
私がサイトに何を書き、何を載せようが、ネットのルールを守っている限り、自由である。
どこのダレにも、とやかく言われる筋合いはない。
検索で私のサイトを探し出した人が、サイトに書かれていることを、勝手に、現実の出来事と結びつけて、私の現実の生活圏で、触れ回ることも、ヤクザのいんねんと同じ行為である。
サイト上のことに文句があるなら、サイト上で言えばいいのである。
その為に掲示板も付けてある。

のっけからつまらない話になってしまったが、私の「サイト受難」みたいなことを、書くのが本意ではなく、ブログの話をしたかったのであった。
今、私はあるブログサーバーに自分のブログを作り、せっせと書いている。
ちょうど1週間経ち、ブログの使い方も、ブログ界の様子もわかってきた。
日記プラス掲示板の機能を併せ持ち、タイムリーであることが、魅力。
今のところ私は、いくつかのカテゴリーを作り、過去の日記や、ボードに書いたことの中からも、今日的な話題を再編集したり、毎日のニュースから硬軟取り混ぜて、書いたりしている。
やがて、そちらが、メインになるだろう。
ただ、非公開的、閉鎖的な、私のサイトの性格とは、合わない点もあるので、相互リンクはしていない。
個人的な文芸作品を中心にしたものと、日記やエッセイとを、サイトとブログで使い分けすることになるだろう。


別れた妻を庇う男
2004年07月02日(金)

昨日、保坂尚輝の離婚会見があった。
ちょうどリアルタイムで、やっていたので、コマーシャルで中断したとき以外は、その有様を見ていた。
この人のことは、あまり知らなかったが、今回、初めて、彼の喋っているのを聞いて、その男らしさにすっかり惚れてしまった。
妻である女優が、別の男とどこかのバーで、やや親しすぎる情景を写真に撮られたことで、その前から時々出ていた離婚の噂が、一気に結論に行ったように思われていたらしいが、それは直接の原因ではないらしい。
離婚はすでに決まっていて、法的には他人になってからのことだから、そのことで彼女を責めるつもりはないし、彼女自身の口から出ていないので、コメントしないと語ったが、まあ、そんなことは、どうでもいい。
有名人というのは、つらいものである。
本来プライベートな事柄であるはずのことを、世間に晒さねばならない。
弁護士を伴って、記者会見に現れた彼は、この会見を開くについての理由をまず述べ、予め20社のマスコミ関係記者から出ていた質問事項のうち、多いものについて、答えるというやり方で始まった。
私が感心したのは、彼はこの会見中、妻に関する批判、非難めいたことを、ひとことも口にしなかったことである。
そして、二人の子どもに対する親としての気遣い、同居している妻の母や、マスコミ関係者が訪れることに依る近隣への配慮を、述べていた。
もっと感心したのは、問題写真について、相手の男が「火遊びが過ぎた」とコメントしたことについて、「自分が愛した女、子どもの母親である彼女を、そんな風に片づけたことは赦せない」と語り、妻と子どもの名誉回復を訴えたことである。
男と女が、別れるというのは、他人には計り知れないさまざまなことがある。
有名人であってもなくても、それは同じであろう。
彼は、自身が子どもの頃に両親を亡くした経験があって、家族、子ども、と言う結びつきは、ことのほか、大事に考えているように見えた。
法的には離婚という形を取って、妻と自分の、仕事人としてのこれからの人生を尊重したいと言うことのようであるが、家族としては、いまだに一緒に住んでいて、生活上の変化は、何もないと言う。
親権は彼が持ち、それと関係なく、二人で子どもを育てていく姿勢は、変わらないと言う。
アメリカなどでは、珍しいことではない、新しい形の家族像を追求しているのだろうか。
そのあとに、芸能記者団が、つぎつぎと質問したが、あまりのくだらなさと、程度の低さにあきれてしまった。
彼らの関心は、離婚の原因が何かと言うことと、彼の妻であった女優と写真の相手の男とを、彼がどう思っているか、それが離婚にどう結びついたかにあるらしかった。
彼の説明だけでは納得できないし、ニュースにならないと言うのであろうか。
自分たちの描いたドラマに、しきりに誘導しようという気持ちが見え見えで、彼の肉声を、あまり理解していないようであった。
いつものことながら、あんた達、わかっちゃいないのねえ、と、言いたい気持ちであった。
この種の会見は、後で見ると、テレビの都合のいいように編集されて、ゆがめられてしまうことが多い。
当事者達は、それが解っていながら、会見に臨まねばならない。
腹立たしく、不快なことには違いないが、その世界で生きていくからには、ある程度、サービス精神も発揮しなければならない。
でも、テレビというのは、人の生の姿をさらけ出す。
芸能記者達にとっては、解りにくかったらしいこの会見、むしろ保坂の人柄をよく写してくれて、私はいっぺんでファンになってしまった。
別れた妻を人間として認め、それを貶めた相手の男に、決然と挑む姿、それこそ男らしい男である。



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