沢の螢

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九月尽
2003年09月30日(火)

庭の木犀が花を付けはじめ、いい香りを漂わせている。
せいぜい、10日か2週間くらいの間しか咲かないが、私の住んでいる地区には、木犀が多く、今頃道を歩くと、あちこちからこの花の匂いがしてくる。
毎年家に来る庭師が、心得ていて、花の終わった頃を見計らって手入れに来てくれる。
「時期を見て、お願いします」と、先日、電話を掛けておいた。

足の指を骨折してから今日で40日、はじめて靴を履き、一人でバスに乗って、整形外科に行った。
ギブスが取れてからは、家の中で少しずつ歩き、家の中の仕事も、夫の手から私に戻りつつあるが、外に出るのは不安だった。
でも、10月にはいると、連句の行事やそれに絡んだ小旅行、親の顔も見たいし、大学の公開講座など、社会復帰しなければならない。
「途中で、ダメだと思ったらすぐ電話しなさい。待機してるから」と夫に言われ、ケータイを持って出た。
バスの時間を調べておき、あまり待たずに乗った。整形外科までバスで3停留所、歩いても行ける距離である。
火曜日の午後なので、すいていて、あまり待たずに順番が来た。
レントゲンを撮ってみると、新しい骨が出来ていて、少しずつ快復しているが、最初の段階で、ずれてしまった箇所は、まだ隙間が出来たままである。
しかしこれ以上、ずれることはないし、あとは、時間が治してくれますと言われ、帰ってきた。
来週末からの旅行も、跳んだりはねたりするものでなければ大丈夫だと言われ、ホッとした。
歩くとき、折った方の足を引きずる感じがあるが、多分、だんだん気にならなくなるのだろう。
帰りのバスを待つ間、気温が下がり、日が西に傾いて、秋の気配を感じた。
行くときは、午後の日差しの暑さで、少し汗ばむくらいだったのに、わずか1時間半ほどの間に、変化していたのだった。
これからは、日も次第に短くなり、3ヶ月で、今年も終わる。

先週末に、私のパソコンのモニターを修理に出した。
この1年ほどの間に、いくつもの横線が入ってしまったので、メーカーに言うと、液晶画面の故障なので、直すか取り替えますと取りに来た。
10日か、2週間と言われたので、その間は予備の98を使っていたが、今朝、「修理が終わったので、発送しました」と連絡があり、すぐに品物が届いた。
液晶パネルを交換したとのこと、画面は新品になったわけである。
ブランクは、正味4日間、インターネット生活には、ほとんど支障なかった。
綺麗になった画面を見ていたら、あちこちいじりたくなり、整形外科から帰って、早速、サイトの更新をした。
今月最後の日記、平穏に終わる。
昨年来引きずっていたことに、自分でケリを付け、誠実でない人たちと、あらためて、はっきり訣別し、前向きに行くことにした。
世の中から離れて、一人静かに過ごしたことは、私にとって良かった。
明日から日記ページも、新しくなる。


半角の距離
2003年09月25日(木)

半角の距離で付き合う利口者

これは、どこかの連句座で付けた私の句である。
パソコンに縁のない人もいたので、解らないかも知れないと思いつつ出したが、インターネットとは無縁でも、ワープロはほとんど出来るらしく、すぐに採ってもらった。
大人の付き合いというのは、まさにこうしたものなのであろう。
「あなたは人と深く付き合おうとするから、すぐに傷つくし、相手にとって、負担になるのよ」と言ったのは、飲み友達の一人である。
「あなたの歳で、そんなにピュアでいられる人って、珍しいわね。それで過ごしてこられたんだから、むしろ幸せね」と言ったのは、何かにつけて、相談役になってくれる年上の友人である。
ずっと定年まで社会の一戦で働いてきた人たちから見ると、私は、人生経験が乏しく、人づきあいが下手で、いつまでも子どもだと言うことになるのであろう。
自分に非がなくても、何かあったときの原因になってしまうのは、それだけ、立ち回り方が稚拙だからであろう。
だから、そんなことをよく知っている人は、私のような人間をあおり立てて、自分は表に出ずに、代理戦争をさせるのである。
最近、そういうことが、やっと解ってきた。
現在、私の周辺では、ひとつのことを巡って、侃々諤々の事態が起こっているようである。
私に足の骨折というアクシデントがなければ、その中に巻き込まれていたかも知れない。
幸いというのか、ひと月、人里から離れていたお陰で、ホットな現場に立ち入らなくて済んでいる。
ところが、私の足の快復を待っていたように、その現場に引きずり込んで、旗振りをさせようという誘いがかかってきた。
一見正義の旗印のようであるが、本当は、それぞれの権力の争いに、私のようなおっちょこちょいを利用したいのである。
シュプレヒコールには、声の大きな人が必要だし、正論を吐きたがる私なら、すぐに乗ってくると、見ているのであろう。
冗談じゃない。
無視することにした。
権力には、無縁のところにいたい。
私は利口者ではないが、このことに関しては、正確な情報を持たないことを理由に、半角どころか、全角の距離を置くことにした。
私にとって大事なのは、自分にとっての正義は何かと言うことである。
心の自由を何より大事と考え、それを損なう相手には、戦いを辞さないが、目標は高く置きたい。
今、周辺で起こっていて、百家争鳴のごとく聞こえてくる現象は、私の価値観から言うと、戦いに値しない。
だから、参加しないのである。
昨年、事柄は違うが、似たような現象があった。
私は海外旅行に行っていて、そこから距離を保つことが出来た。
今回は、足の骨のお陰で、こちらの意志とは関係なく、浦島太郎になっている。
私が現場に登場する頃は、事態も、かなり変わっているであろう。
しかし、こんな風に、自分の身の振り方について、少し慎重になってきたのは、元々の私の性格から言うと、決して良い傾向ではないのである。


崩れた薔薇
2003年09月23日(火)

昨年、私の誕生日に、息子夫婦が、花瓶に入った真っ赤な薔薇を贈ってくれた。
それは、本物の薔薇の花を、特殊な加工をして、そのままの色と形を保ったまま、薄い灰緑の花瓶に活けたものだった。
「これは造花じゃないんですけど、水をやらなくていいんです」と息子の妻が言い、食堂とキッチンの境にある棚の上に、飾ってくれた。
そこは花瓶の置く場所で、時々花を生けたり、花の代わりに、果物の鉢を置いたりしていた。
人が歩くそばではあるが、そこに花があることで、キッチンの目隠しにもなり、対面式の流し台の奥から、居間と食堂が、花瓶越しに見えて、いい雰囲気を醸していた。
それが、今日、花瓶ごと床に転がってしまったのである。
花瓶のそばには、果物鉢があり、夫は買ってきた林檎をそこに入れようとして、花瓶に腕が触れてしまったのだった。
水の入っていない花瓶はガラスや瀬戸物ではなく、軽い樹脂のようなもので出来ていて、簡単にひっくり返ってしまったのだった。
その時の夫の一声が「こんなとこに置くほうが悪い」だった。
私は、床に転がった花瓶を起こし、バラバラに崩れた花を拾いながら「そんな言い方はないでしょう」と言った。
今まで、10数年、花瓶の置く場所だったところである。
「そこに花があると、君の顔がほどほどに見えて、丁度いい」なんて、冗談を言ったのは夫である。
場所が悪ければ、前からそう言って、置き場所を変えればいい。
それに、過ちだとしても、そんな言い方はないだろう。
「あ、悪かったなあ」と言えば、こちらも「こんなところに置かなければ良かったね」と言える。
最初に夫が、自分の過ちを、人のせいにしたことで、私は、口をきく気がしなくなった。
他人ならこんなことはない。
すぐに謝るし、相手も、咎めるよりは、むしろ、慰める対応をするだろう。
それで、お互い、傷つかずに済む。
なまじ夫婦だから、そんなことになるのである。
しかし、夫はその直後に、卵を二つとり落としてしまった。
もともと不器用な人なのである。
にわか主夫になって、ひと月、買い物も、洗濯もしてくれて、私の足を庇ってくれているが、大分疲れが出ているのだろう。
花瓶を落としたことで、自分もショックを受けているのである。
そして、思わずいってしまった一言が、私を傷つけたことも、わかっている。
そんな気持ちの動揺が、卵なのだった。
何か言ってあげればいいのだが、私は、黙っていた。
そんな気になれなかった。
崩れた薔薇は、わたしの心のような気がしていた。
「この卵、どうしよう」というので、「何かに入れておけば、オムレツにでもするから」と、そっけなく答えた。
ケンカの時、私は言うべきことは言ったあとはダンマリを決め込む。
何日でもそれで通せる。
夫のほうは、黙っていることに耐えられない。
ケンカの原因とは関係ないことを、あれこれ話しかける。
それに対し、私は最小限の返事はするが、決してこちらからは話しかけない。
若いときは、もっと、ホットなケンカをした。
さすがにつかみ合いには至らないが、激しく言い合った。
その間にあって息子は、どちらにも付くことが出来ず、子どもの時は、それなりに苦労したようである。
だんだん歳をとり、二人とも、ホットなケンカをする情熱がなくなり、気まずくなると、自室に入って、それぞれの世界に閉じこもる。
今や、家庭の平和は、スペースの問題である。
なるべく顔を合わせないように、空間があることが必要条件である。

夫は、卵を片づけると、午後からの外出の支度をするべく、2階に上がっていった。
私は、無惨に崩れた深紅の薔薇の花びらを、一枚一枚テーブルに広げ、少し涙をこぼした。


野分
2003年09月22日(月)

ここ数日、地震が起こったり台風が来たり、それと共に、気温も下がってきた。
昨日あたりは、かなりの雨でもあった。

ひと月も、逼塞していると、自分の所属している集団の動きさえ、わからなくなってくる。
何かが起こっているらしいのだが、自分で直接見聞きするところにいないので、今は関心の持ちようがない。
でも、現実の場にいる人たちは、まさに渦中に身を置いているので、その中で、それぞれ、考えたり、動いたりしているわけだが、外から見ると、所詮コップの嵐にしか見えない。
だから、当事者達と、外から眺めている人との間に、温度差が出て来るのは、仕方がないことである。
電話やメールで、断片的に耳にし、今起こっていることについて、意見をきかれても、判断の材料がないのである。
「何も言うことはありません」としか言えない。
すると、「そう言う態度は良くない。みんなの問題として、一緒に考えるべきだ」とのメールが来た。
ひと月家に閉じこもっている人間に、何を基準に考えろと言うのか。
わたしが責任を持って言えるのは、自分の身に起こったことだけである。
直接話をきいてもいない人たちのことは、それこそ、事実関係を正確に知らなければ、軽々しく意見は言えないことであろう。
そのように返事し、「こういうことは、メールでなく、ちゃんと顔を見ながら話しましょう」と結んだ。

メールでは、苦い思いをしている。
私が、ある場所から去る羽目になったのも、もとはと言えば、舌足らずなメールから始まったことだった。
長いこと、休んでいる人たちがいたので、「何かあるのでしょうか」と気遣うメールを、リーダー格の人に送ったことから、自分がやめる話にまで発展してしまったのだから、皮肉なことである。
誰が休んでいようが、知らん顔していれば良かったのである。
「誰も、人のことなんか気にしてませんよ。ほっとけば良かったんですよ」と、わたしがやめたあとで、ほかの人から言われた。
わざわざ電話で言うことではないが、メールなら手軽に訊けると言うことがあり、訊いてみる気になったのである。
そんなことは、その当事者達は知らない。
やめたきっかけは、別の話ではあったが、それまでの経緯には、メールがなければ、なくて済んだだろうと思える、マイナス情報が働いている。
顔を見て話したことは一度もないのに、メールは、その相手を、自分に近い存在と思わせるまやかしを含んでいる。
よく考えると、人間関係と言えるような繋がりさえ、本当はないかもしれないのに、あるかのごとき錯覚をするのである。
そして、ないはずの関係が壊れ、それで現実の人間が傷を受けている。
考えてみると、バカな話である。

きのう、「あなたを友達だと思っているから」とメールをくれた人に、「私も同じです。だから大事な人とは、メールで遣り取りしたくないのです。近いうちに、直に話したいですね」と返信した。
「実は私も、誰ひとり援軍のない中で、たった独りの戦いをしています。でも、その代わり、人に借りを作らなくて済むから、気楽です。
スターリン時代のソビエトじゃあるまいし、理不尽な『粛清』には、戦わなくちゃなりませんから」と、付け加えた。
多分、向こうは、私の言わんとすることは、わかってくれたと思う。

どうやら台風は過ぎたようである。
午後から爽やかな風に変わった。


彼の日の君はいま・・
2003年09月20日(土)

連れ合いは朝から合唱の練習に出かけた。
大学時代、私たちは、同じ合唱団にいた。
女性の少ない大学なので、混声合唱は、学内の学生だけでは成り立たない。
そこで、女声だけを近くの女子大から募り、混声合唱団として、活動していた。
私は、混声合唱の経験は初めてなので、大変興味があり、先輩に誘われて、入団した。
そこでの4年間は、充実して愉しかった。
二十歳前後の若者の集まりだから、歌の活動以外にも、それを通じての友達づきあい、当然、恋も葛藤もあり、波乱に満ちた青春を送った。
貧しく、しかし、心豊かな時代だった。
その時は、どうしてこんなつらい思いをしなくちゃならないのと思うようなことが沢山あったが、いつも心があつく燃えていた。
その頃のスナップ写真は多くモノクロである。
男性は、黒い詰め襟の服、夏は、白いシャツに下駄なんか履いている。
女声も、質素なブラウスとスカート、革の鞄だけが、唯一贅沢な持ち物だった。
合唱の練習は週に2回あり、終わると「沈殿」と称して、喫茶店に入り、会話を愉しんだ。
年に一度の演奏会は12月にあり、その年に練習した曲の中からプログラムを組んで、行う。
夏と春には、4泊5日の合宿があり、高原や海辺に行った。
そんな中で得られたことは大きい。
卒業後も、時々同期会をやっていたが、最近は、複数年次に渡っての集まりも出来、そこで昔の歌を歌ったりする。
来年、51回目の定期演奏会がある。
現役学生のステージに加えて、OBも参加することになり、私たちも、参加することにした。

夕方、連れ合いが、昨年の集まりの写真をもらって帰ってきた。
連れ合いの隣で、笑って写っているのが、昔、合唱団のマドンナと言われた人である。
シャープな顔立ちで、一世を風靡した。
彼女に、心を奪われた男性は多い。
しかし、本命と思われた男性は、別の人と結婚し、彼女は、全く違う世界の人と、見合い結婚した。
今は、オペラのアリアをレッスンしていて、今月末に、発表会がある。
わたしが惹かれていた人は、背の高い痩せたテノール、神経が繊細すぎて、かみ合わず、私の片想いに終わってしまった。
毎年同期会で会うが、その妻は私の友達である。
年月が経つことの素晴らしさは、何もかもが、セピア色の額に入り、時々取り出して、穏やかに眺めることが出来ることであろう。
来年のステージ、昔の仲間とモーツァルトのミサを歌う。
今から楽しみである。


カラス来訪
2003年09月19日(金)

昨日から、家の中では、少しずつ歩くようにしている。
まだ、左右がアンバランスで、健康な方の足に負担がかかるので、あまり長く立ったり、速く歩いたりは無理である。
夕べは、12時前に寝た。
「君は、この頃不健康だぞ」と言われ、私自身も反省しているので、深夜族から、徐々に脱皮しようかと考え、まずは、その日のうちに寝ることを目標にした。
今朝は、連れ合いがゴルフに行ったので、私もついでに早起きし、ホームページを見たり、始まったばかりの連句の書き込みをした。
まだ、パジャマのままだった。
さあ、これからシャワーを浴びて、と思っていたら、裏口のインターフォンが鳴る。
玄関の場合は、速達か、宅配便だが、それにしても、まだ9時前だからちょっと早い。
裏口から来るのは、大体セールスか、宗教などの勧誘。
「今手が離せないので」と断ればいいので、出た、
すると、近所の奥さん。
「お宅のゴミを、カラスがつついてます」という。
「済みません」と、足のことを忘れて、パジャマの上にエプロンを掛け、素顔に、口紅だけ塗って、裏口から出た。
ゴミは、スーパーのレジ袋に入れ、それを更に、丈夫なプラスチックの籠に入れて出すが、袋のゴミが、籠の周りに散乱している。
生ゴミは匂いが洩れないよう、ポリ袋に入れたものを、広告の紙で何重にも包んで、紙などのゴミの間に入れて出すのだが、今朝、連れ合いは、急いでいて、それを怠ったと見える。
量も少ないので、それ程厳重にしなくても大丈夫だと思ったのだろう。
私の地区は、ゴミは、めいめいの家の前に、出す決まりである。
だから、よその家にまで、ゴミが散らからなかったのは、幸いだった。
でも、時間が経ち、風でも吹けば、そのうち、あちこちに散乱してしまう。早く教えてもらって良かった。
急いで、道路を掃除し、ゴミを包み直し、デパートの紙袋に入れ、籠の上から段ボール一枚を被せて、置き直した。
教えてくれたのは、2軒先の奥さん。
こちらを気遣う様子で見ていたので、「有り難うございました」と礼を言った。
包帯をした私の足を見て、「どうしたの」という顔をしたので、「骨を折ったの」と、口の形で教えた。
「アラ」と、奥さんはすまなそうな顔をした。
わかっていれば、自分がやって上げたのに、と思ったのだろう。
また、連れ合いが、リタイアして、今は家にいることがわかっているので、手を出すよりも、教えてあげた方がいいと判断したのかもしれない。
私は、近所づきあいは得手でないので、挨拶程度だが、この奥さんは俳句をやっているので、顔が合うと、そんな話をする。
カラスのお陰で、私はひと月振りに、裏口に出ることになった。
「ゴミは出してあるから、帰るまでそのままにしておきなさい」と言って出た連れ合いは、留守中にそんなことがあったと知ったら、さぞガッカリするだろう。
とんだところで、リハビリ訓練になった。


女友達その3
2003年09月18日(木)

シャンソン歌手の友人から電話。
「もう足はいいんでしょ」と訊く。
「おかげさまで、昨日やっとギブスが取れたわ。でも、あと2週間位は、大事にした方がいいみたい」というと、それならあとは時間の問題ね、と安心して話を始める。
彼女と話すと長くなるので、椅子にかけ直し、楽な姿勢に変える。
ずっと付いていた男の先生のグループから抜け、今は、もうひとりの女の先生のところで、代稽古を務めているという。
結構忙しいのよと、まんざらでもないようだった。
彼女は、男の先生のグループで、先生の片腕同然の位置にあって、グループのために尽くしてきたが、最近になって、あとから入ってきた少し若い女性に、お株を奪われて、自分からやめたのである。
その話は、何度か電話で聞かされて、「そんな先生、縁を切っちゃったら」と、私は無責任なアドバイスをしたのだった。
今までの縁を大事にするより、新しく登場した方に目がいくという人は、あまり信用できない。
その彼女だって、そのうち、また新しく入ってきた人に、席を奪われるに決まってるわよ、と私は言ったのであった。
逡巡した挙げ句、その先生のもとを去り、新しい道を開いていくという彼女に、声援を送った。
今日の話はその後日談である。
行動に移すまでは、充分考えるが、一旦決めて、実行したあとは、もう後ろを振り返らないと言うのが、彼女の潔いところである。
女の先生のところで、新しい仕事も順調にいき、11月のリサイタルにも出演させてもらうことになって、レッスンに励んでいるところに、突然、件の男先生から電話があった。
話をしたいという。
今さら私に何の用かと思いながら、出かけていくと、あなたにやめられたのは、残念だった、惜しい人を失ったと、その先生は言い、
「そこからが腹の立つ話なの」と彼女が怒って話してくれたのは、次のようなことだった。
あなたがいなくなって、戦力が落ちた、出来れば戻って欲しい、でも、ちょっとわけがあって、すぐというわけに行かないと言う。
「どんなわけですか」と訊くと少し言いにくそうに打ち明けたのは、彼女のいなくなったあと、得意になってあとを引き受けていた若い方の彼女が、今は、自分が一番だと思っているので、そこに、戻ってもらうわけに行かない、だから、グループとは別のところで、自分を支えて欲しいと言ったというのである。
つまり、その先生は、彼女の実力を認めていて、いなくなったことを惜しんでいる。
しかし、新しい彼女のほうも、大事なので、二人が鉢合わせしないような場で、両方をうまくコントロールしようと言うのである。
「失礼な話ね」と私は言った。
こんなことは男のエゴである。
虫が良すぎる。
「あなた、なんて言ったの」と訊くと、そこからが、私よりは、利口な彼女である。
「ピシャリと拒否するのは簡単だけど、これで、向こうの弱点がわかった。だから上を行ってやろうと思ったの」という。
それは、結構なお話ですわと、婉然と笑い、ごちそうさまと言って、そのまま帰ってきてしまった。
「イエスともノーとも言わなかったから、向こうは、判断のしようがないわ。いろいろ恩義のある先生だけど、誠実でない人は、キライだから」と彼女は言い、「それに応じる気はないし、もう過ぎた話だわ」と笑った。
私だったら、きっとストレートにケンカしてしまう。
その結果、もう後戻りできないところまで行ってしまう。
相手に借りを作らせ、悪い印象を残さずに、結末を付ける、彼女のようなやり方が、女の知恵かも知れないと、つくづく思った。
「でもね、本当は、私、傷ついてるの。やせ我慢なのよ」といった言葉が、心に残った。


ギブスよさらば
2003年09月17日(水)

今月いっぱいは、ギブスをしていて下さいと言われていたが、今日整形外科に行くと、「もう外しましょう」と医師の手で、ギブスが外された。
レントゲンを撮る前だったが、足をあちこち触ってみて、もう大丈夫だと、判断したのだろう。
私の表情が、余程嬉しそうに見えたのだろうか、「でも、しばらく包帯はしててもらいますよ」と言われ、レントゲンを撮る間、裸足で、待っていた。
私のギブスは、かかとを包むために、足の底から外側を包んだだけの簡単なもの。
折った骨は小指から少し上の、一番外側の部分だが、かかとを固定しないと、その部分に力が加わるからであろう。
確かに、そんな簡単なギブスでも、どうしても歩かねばならないときは、これで患部が保護されていることがよくわかった。
包帯を取ればはずれるので、シャワーを浴びたり、足がむくんだときは、ちょっと外して、氷で冷やしたりした。
それでも、ギブスを付けていれば、煩わしいし、イヤでも、ジッとしていなければならない。
暑いときは、汗もかくので、正直、不快だった。
取れて、ホッとした。
レントゲンを撮ると、ずれはそのままだが、新しい骨が出来つつあるので、このまま時間が経てば治るでしょう、でも、骨というのは、完全に付くのにあと2週間はかかります、それまでは、気を付けてくださいと言われ、足先からかかとに掛けて、きっちり包帯を巻かれて帰ってきた。
家にはいると、今までギブスで守られていた足が、急に不安定になったようで、まだ、キャスター付きの椅子が必要だが、リハビリのつもりで、慣らしていくほかあるまい。
私をお姫様のように、大事にしてくれた連れ合いは、「急に歩いちゃダメだよ。まだ病人のつもりでいなさい」と気遣ってくれる。
今日で、26日。食事や洗濯をはじめ、あれこれ世話をしてくれた連れ合いも、大変だった。
完治したら、おいしいものでも食べに行きたい。
こんな事は、第三者にはわからない。
昨日、どうせ暇だからと思ったのか、私に、コンサートのチケットを電話で取って欲しいと、頼んだ人がいた。
仲良くしている人ではあるが、その無神経さにあきれてしまった。
確かに、私は、すぐに電話を取れるところにいるし、足以外は元気である。
でも、連れ合いの助けがあって、日常を過ごしているのである。
その人は、追っかけの歌手がいて、チケットを取るのに、いつも苦労している。
苦労して取った挙げ句、余分に買うことになってしまったからと言って、招待されたこともある。
でも、足の骨を折って、家にいる人間に、自分が予約時間に仕事があるからと言って、そんなことを頼む人がいるだろうか。
「医者に行かなければならないから無理」というと、「何時頃行くの。昨日行ったんじゃないの」という。
そんなことは、こちらの都合である。いちいち、人に説明する必要があるだろうか。
その時間、私がいたとしても、それを、彼女のチケッと予約に費やすことはない。
元気なときなら引き受けないわけでもないが、自分のことさえ、連れ合いに頼っている人間が、電話でひとのチケットなんか取ったりしていたら、それこそ、連れ合いに悪い。
そんなこと、想像できないのだろうか。
取れるかどうかもわからないのに。
親しさを通り越して、こんな事は、人を侮っている。
「わるいけど、お役に立てないわ」とおだやかに言ったが、しばらくこちらからは近づかないことにした。
毎日のように、電話を掛けてきて、親しくしているひとではあるが、ちょっと、距離が出来たような気がした。


朝冷
2003年09月16日(火)

今朝、窓から冷たい風が入ってきたので、目が覚めた。
連れ合いが、昼間小開けにしておいた窓を、閉め忘れたらしい。
まだギブスはしているが、手すりにつかまって2階に上がるのも、それほどきつくなくなったので、3日前から、2階の寝室で寝ている。
それまでは、下の居間のソファで寝ていた。
寝心地が悪く、何度も目が覚めて、安眠は出来なかった。
今日は、整形外科に行くはずが、連休あとで、込んでいそうな気がしたし、午後からは、連れ合いが夕方出かけるのにちょっと忙しいというので、医者に行くのは、明日に持ち越した。

運転免許の更新を忘れていて、ひと月経つ。
実際には15年間、ほとんどハンドルを握ってないので、免許証も身分証明書代わりに持っているだけだが、「持ってた方がいいかしらね」と連れ合いに訊くと、「そりゃ、持ってた方がいいよ」という。
足が治ったら、手続きをすることにしたが、せっかくの優良ドライバーカードが、なくなってしまう。
イギリスでの免許証も持っているが、有効期間15年、これも、切れているはずである。
日本に帰国したとき、日本の免許証の更新を忘れて一度失効している。
忘れるというのは、必要性を感じていないからで、日々運転している人なら、こんな事はないであろう。
これから生きている間に、車を運転することがあるのかどうか。
私は地理オンチだし、バックと車庫入れがダメなので、日本に住んでいる間は、自分から運転することはないような気がする。
免許を取ったのは40代に入ってからだが、試験場では優等生で、試験も一度でパスした。
何のきっかけだったか忘れたが、急に免許を取ることを思い立ち、教習所に通った。
教習は面白かったが、一度、教官のあまりの暴言に、教習中の車から降りてしまったことがある。
教習所の責任者が割って入って、その後の教習は、スムースに行った。
免許を取ってから3年位は、一生懸命運転した。
スーパーやデパートの買い物、連れあいを駅に送る、スポーツで怪我した息子を学校まで届けるなど、家族の足にもなっていた。
ただ、知らないところに行くのは、相当緊張した。
よく道がわからなくなり、道ばたに止めて、地図を見たり、バスの後ろについて行ったりした。
進入禁止の道に入って、怒られたこともある。
病気をして、何度か入退院を繰り返している間に、車の運転は、もともと向かない上に、相当のストレスになっていたことがわかった。
そのうちに、亭主の転勤でイギリスに行くことになり、海外運転免許に切り替えたものの、あちらでは、ついに運転せずに過ごした。
日本に帰ってからも、避暑地で、何度かハンドルを握った位である。
もう、運転免許などなくてもいいのだが、何かの必要性が生じたとき、はじめから取り直すのは不可能だと思うので、持っていることにした。
運転の中では、高速道路の走行は好きだった。
バックと車庫入れがないし、信号もなく、ひたすら前に進めばよい。
「旧日本軍だね」と連れ合いが笑う。
中央道の走行は、ひと頃私が半分位は運転した。
一般道に降りてから、連れ合いに変わる。
道を間違えるからである。
今は、助手席に座って、口で連れ合いの指南役を務めている。
連れ合いの方は、30年前に南米で免許を取り、今や私の運転手として、なくてはならぬ存在である。


情報の行方
2003年09月15日(月)

2,3日前から家の「秘書」が、なにやら慌ただしい。
さるところから、地震に関する情報が来て、それがかなり確信に満ちているというので、備えをしているわけである。
ゴルフの予定を取りやめ、風呂場に水を張ったり、預金通帳や年金証書をまとめて、手元に置いたりしている。
流星と、電波の関係で、地震を測定するとか。
詳しいことは、聴いたが、忘れた。
前に、2000年問題の時も、秘書は、カセットコンロを買ったり、ペットボトルに水を溜めたりしていた。
私も、息子夫婦も、あまり同調しなかったので、「何かあっても知らないぞ」と怒っていた。
結果的には、何事もなく終わり、それで良かったわけだが、この種の情報は、人により、受け取りかたが違うであろう。
何が正確な情報かと言うことは、実は、よくわからないのである。
受け取り方によっては、流言飛語となり、何も起こらなければ、それが一番良いわけだが、逆に「あの話はウソね」と言うことになってしまう。
秘書は典型的A型人間、備えあれば憂いなしを地でいく。
常に理想というものがあって、それに近づくべく努力する。
綿密に計画を立て、すべてにわたって気を配る。
現役の頃は、危機管理能力を買われて、そちらのほうでも活躍していた。
私が社長だったら、ブレーンとして、いの一番に取り立てたいひとである。
私のほうは、対照的なO型人間、よく言えばおおらかだが、ずぼらで、計画性に欠け、ノーテンキである。
決して、太っ腹でもないのに、「何とかなるわよ」と、どこかで肝の据わったところがある。
夕べは、私も、秘書の指導で、預金通帳をまとめたり、保険証と診察券を集めたりしたが、あまり本気になれなかった。
「天災は忘れた頃にやってくる」というのは、本当だと思う。
だから、備えがあれば、それだけ、安心なのかも知れない。
私の歌の先生は、阪神大震災のあと、極度の地震恐怖症になり、大きなリュックを買って、毎晩、中身を点検し、必要なものを、時々入れ替えて、枕元に置いていた。
ある時、試しに背負ってみたら、あまりに重くて、立ち上がれなかったという。
これじゃあ、地震よりもぎっくり腰のほうが心配だというので、また、中身を点検し直し、3分の1くらいに減らしたらしい。
つい笑ってしまったが、先生のほうは本気だった。
弟子達が、真剣に聴いてくれないと気を悪くし、「あなた達、そんな心がけじゃあ、地震の時はあの世行きね」と怒った。
プリマドンナが、ベルカントで、喋るのだから、迫力はあったが、みな、神妙な顔はしつつも、先生に見習って、リュックを用意した人は、あまりいなかったようである。
戦争体験があったり、戦後の混乱期に生活上の苦労をした年配者の話をきくと、程度の差はあるが、イザと言う時の、何かしらの備えはしている。
知り合いや親族で、食料や燃料などを、倉庫に分割して保管し、まさかの時は、無事だったほうから提供する約束になっているという話もきいた。
さすが、と感心するが、かといって、真似をするところまで行かないのは、危機感が薄いからであろう。
家の秘書だって、騒いでいる割には、それ程の処まで行かない。
第一、私が足の骨を折っているのに、この重い体を抱えて逃げてくれるとは、とうてい思えない。
「少し体重を減らせ」などと言うが、何十年もかかって増えた体重は、減るのも、同じだけかかるのである。
「万一の時は、置いて逃げて。決して恨みませんから」と言ってある。
今朝も秘書は、救急箱など開けて、「包帯はある。消毒薬もある。バンドエイドは足りるか・・」などと、点検している。
それを聞きながら、私は、新しく始まった連句の行方のほうが、気になっている。


妖しい話
2003年09月14日(日)

テレビで、自民党総裁選の番組など見ていたら電話。
月に一回行っている、東京郊外の連句グループの男性である。
足の具合を尋ねたあとで「ちょっと教えていただきたいんですけど・・」という。
「お役に立つかどうかわかりませんが・・」と言って、質問に対して、私のわかる範囲で、答えた。
内容は、前回私が行かれなかったときの、連句付け合いについてだった。
恋句に閨の情景を言った句があり、次に、阿修羅が来ているのがわからないと言う。
「この恋は、力のある人に、半ば手籠めにされている女の気持ちを言ったものでしょう。
次に阿修羅の句が来るのは、そう言う心の状態を受けたんじゃないでしょうか。」
ああ、そうですねと、向こうは納得した。
「でも、肌を差し出す、という表現はちょっと引っかかります。肌を許すならわかりますけど・・」と付け加えた。
窓を開け放って喋っているので、もともと小さくない私の声は、電話ではなおさら大きくなり、窓越しに連れ合いのいる2階の部屋にまで聞こえたらしい。
「凄い話をしてるんだなあ」という。
連れ合いは連句はしないが、私がパソコンの出来ない頃、連句の清書をやらされたり、普段の会話に時々出たりするので、連句が森羅万象すべてを、扱う遊びだと言うことは、何となく理解している。
確かに、朝っぱらから、閨の話や、肌を差し出すのがどうのこうのと、知らない人がきいたら、何事かと思うであろう。
「まあ、近所の人に変な誤解をされても困るから、そんな話になったら、窓は閉めた方がいいよ」と笑っていた。
いつか夜遅く、連句仲間の女友達から電話が掛かってきて、連句に引っかけて男の品定めになり、女同士の気安さで、あれこれ喋っていたら、寝たはずの連れ合いが降りてきた。
「君は、どんな連中と付き合ってるんだい。あの手の男はおいしくないなんて、ゲラゲラ笑って、人がきいたらビックリするよ」という。
「アラ、連句の話よ」と言ったが、「こんな夜中、君の話は全部周りに聞こえるぞ」という。
「声は聞こえても、内容まではわからないでしょ」と言ったのだが、草木も眠る丑三つ時、いい年をした女が、きわどいことを言っているのは、確かに、ぞっとする光景ではある。
私の書斎は、道路から2メートルくらい離れているが、風向きによっては、遠くまで聞こえるかも知れない。
気を付けようと思った。

都内の喫茶店で、月一回連句をやっている。
12,3人が集まって、三席に別れて連句を巻く。
巻きながら、それに関連した話題も弾む。
色恋の話ばかりではないが、当然、会話の中には、それも入ってくる。
周囲には、関係ない客もいるので、もし聞き耳を立てたら、いったい何のグループかと思うであろう。
時々、気が付いて、声をひそめたりするが、すぐに忘れて盛り上がってしまう。
気取らずに、そんな話も出来るのが、ある程度年を重ねた男女の付き合いの良さである。
今日の電話の相手は、和より5,6年上の人。
「どうぞお大事に」と言って、話が終わった。


あつい秋
2003年09月13日(土)

このところの暑さはどうだろう。
今頃になって、酷暑の夏が戻ってきた感があるが、台風、あるいはそれに似た気象の変化から来ているようだ。
今朝、私のために、10月の新幹線の切符を買いに駅まで行った連れ合いが戻ってきて、「いやあ、あつくて参ったよ」というなり、浴室に飛び込んで、シャワーを浴びた。
家の中でジッとしている私のほうは、大きく開けた窓から入ってくる風と、扇風機で、それ程には感じない。
それでも、室内温度が30度を超えると、さすがに冷房を入れたくなる。
この夏はあまり冷房を入れずに過ごしたような気がするが、秋も半ばに入ってからの暑さはこたえる。
でも、空は秋だなあと思う。
日の光は、少し低めになっているし、雲の形も、夏ではない。

今日は新宿で連句があるはずだが、ギブスをした状態では、出席ならず。
今頃は、連句も終わり、愉しく飲んでいるのだろうと思うと、ちょっと悔しい。
飲み屋で転けたなんて、みっともないので、こちらからは言わないでいるが、それでも、日ごろ交流のある人には、だんだん伝わって、見舞いの電話やメールが入ってくる。
メールは、6月になってアドレスが変わり、限られた人にしか教えてないので、そう多くはない。
「退屈しのぎに、文音のお付き合いしますよ」とメールをくれたのは、私のネット連句の常連の一人。
ちょうど6人で、ネット連句を始めるところだったので、その人も誘うことにした。
折角だから両吟で、ネット上のあつい恋でもしようかと、ちょっと心が動いたのだが・・。
連句のいいところは、虚構の世界を、愉しめること。
舞台の役者になったつもりで、実生活では、縁のなくなってしまった恋を、たっぷりと演じることが出来る。
虚構の世界ではあるが、やはり嫌いな人とは出来ない。
両吟でやるなら、相手が心憎からぬ男であれば、愉しみは倍加する。
それには、連句の実力が、ほぼ拮抗していることも大事である。
力の差があまりありすぎると、片方が先生になってしまい、教室のようで、あまり愉しくない。
それ以上に、必要なのは、感性の合うこと。
打てば響くようなものが感じられないと、世界が広がっていかない。
ある時、私は、両吟で、これ以上得られないのではないかと思うような、充足感を味わった事がある。
自分で意識していないものが、体の奥底から引き出されたような、一種のエクスタシーに近いものを感じた。
面白いように、句がどんどん出てきた。
私にとって、最高の付け合いであった。
そんなことは滅多にない。
第一、両吟を設定すること自体が、難しい。
実力だけでない、いろいろな意味での相性があるからだ。
巻いているときは、お互いに対して、熱くなり、一種の疑似恋愛に陥っているようなものだから、ある程度のリズムと、集中力が必要である。
その状態を、終わりまで持続させるのは、それほど簡単ではない。
途中で、熱が冷めてしまうと、倦怠期の夫婦のように、中身の薄いものになってしまう。
この9年間に、わたしの両吟経験は、数えるくらい。
今年になって、一巻、巻いたが、時間ばかりかかって、お互い、あまり燃えなかったような気がする。
両吟で、感動と迫力に満ちた一巻が出来たら、その相手に、少しばかり悪いところがあっても、許せそうな気がする。
いつか、そんな機会に恵まれたいものだと思う。
4,5人での付け合いは、それ程濃密なことはない。
メンバーに、多少力の差があっても、うまく適応できるので、ネット連句としてはちょうど良い。

連れ合いは、夕方からサッカーを見に行った。
もう阪神の優勝は近いことだし、巨人ファンとしては、今年はいい年ではなかった。
明日も暑くなりそうだ。


舞台の裏表
2003年09月12日(金)

自民党の総裁選だの、都知事の言動に関することなど、世の中の話題はさまざまあるが、そんなことの評論や、意見は、どこぞの議論好きがやるだろうから、私は、やはり、自分が見聞きしたことを、シナリオにして、ドラマを組み立てていく方が面白い。
小さな世界でも、人が集まれば、何かしらの悲喜劇が生まれる。
渦中の人はそれなりの苦労があり、権謀術数も働かせなければならないが、外から見る分には、割に冷静に人の動きを捉えることが出来る。
主導権争い、それにまつわる人の動き、昨日の敵が今日の友、その逆もあり、興味は尽きない。
善人と悪人、昔の芝居には、見るからにキャラクターがそれとわかる装いをしていた。
しかし、現代劇は、少し複雑である。
良い人だと思っていると、これが実はとんでもない悪人だったり、見たところは、いかにもワルそのものなのに、本当は、繊細でやさしい人だったりする。
付き合いの中で、試行錯誤を重ね、何度か裏切られたり、傷ついたりしながら、だんだん自分なりの判断と、見る目を養って行かねばならない。
同性に関しては、かなりわかるし、見抜くことも出来る。
最近、私は、まえから親しくしている女性を、友達のカテゴリーから外す事にした。
誰とも親しくし、どこにでも、出かけて行き、頭が良く、才能がある。
彼女と話していると、話題が弾むし、情報も沢山持っているので、つい気を許して、こちらも、いろいろなことを喋ってしまう。
友達づきあいをするには、お互い誠実でなければならないが、1年近く付き合ってみて、彼女には、誠実さは期待できないと判断した。
私に悪意を抱く人たちとも、うまく付き合い、それは大人の知恵だからいいとしても、彼女を信頼して話したことも、向こうには、筒抜けだとわかったからである。
節操のない人は、やはり信頼できないし、友達とは呼べない。
今まで通り、付き合うが、一線を引くことにした。

それとは別に、私が直接関わっていない人たちの間でも、いくつかの対立する動きがあって、そこに、複数の人たちが絡み、勢力図が大きく変わりそうである。
そんなところに、本来権力とは無縁であるべき小さなグループまで、取り込まれて、片棒を担いでいたりする。
旗揚げ公演と見まごうような集まりに、意外な人が招かれていて、アラ、あの人は、あっちの派じゃなかったの?とビックリするが、老獪な大人達のドラマは、混沌として、行方が定めがたい。
こうなると、主役にも、悪役にもなれない人間は、己の分を守り、誰とも争わない代わりに、誰の配下にもならないという、態度を貫く以外にないが、これが案外と難しい。
人は、孤独には、弱いものである。
強がりを言って、孤高を保っていても、寂しさはいかんともし難い。
妥協して、適当なところで折り合いを付けて、どこかの傘の下に入ってしまう方が楽であろう。
でも、それを潔しとしない、私のような人間も、ホンの少数であるが、存在する。
人から見ると、可愛げがないから、あちこちで虐められるし、疎外されることも少なくない。
門戸を開いて、誰にでも声を掛けているかのような集まりなのに、「ご遠慮下さい」なんて言われたりする。
そんな中で、へつらったり、ありもしない色気で、陰の実力者に近づくのは、こちらのプライドが許さない。
人に喰わしてもらってるわけじゃあ、あるまいし。
志す道は、ただ一つ、自己の詩心を磨き、それで、勝負する。
それしかない。
あらためて、その意を強くしている。

10月の国民文化祭に行くことにした。
今朝連れ合いに指定券を買ってきてもらった。
連休初日なので、希望の時間からかなり遅い列車になってしまったが、とりあえず確保した。
それまでに、足がすっかり治るといいのだが・・。

夕べのお月見連句は、盛会だったらしい。
骨のことさえなければ当然参加してたのに。
でも、友達から様子を伝える電話があった。

流言飛語のたぐいかも知れないが、今月16日、17日を中心として、大地震があるとか。
連れ合いの処に、しかるべき筋から入った情報だが、ホントだろうか。
明日から、風呂場に水を張っておこうかと、連れあいが言った。


仲秋の名月
2003年09月11日(木)


足の骨折で、外出できないでいる私に「月はどこで眺めても、同じ月です。お大事に」と、やさしいメールをくれた人がいる。
毎年、都内の公園や高層ビルのレストランに集まって、男女10人くらいで、月をエサに団欒するはずが、取りやめになってしまった。
「こちらに構わずどうぞ」と、連れ合いが言ったが、「みんなで集まるのは、xxさんの全快祝いを兼ねて」と言うことになり、今夜は、男だけ2.3人で、飲むということになったらしい。
それとは別に、都内の公園内にある会場で、「お月見連句会」というのがある。
昨年は、よく晴れた日で、月の眺めは一段と素晴らしかったが、今日も、よく晴れている。
主催の人に、先日欠席の連絡をしたら「あなた、自分が出られないから雨が降るといいなんて、思わないでよ」と冗談を言いながら「でも、骨は大事にしてね。無理すると、あとに残るからね」と結んだ。
「きっといいお天気になりますよ。私も、家で、眺めながら、俳句でも作ることにしますね」と答えた。
この天気なら、満月にふさわしい眺めになるはずだ。
夕べ遅く見舞いのメール。
「お月見会で会えないとは残念。あとで様子は知らせるから、心静かに養生されたし」と、これは何かと気遣ってくれる連句仲間の男性。
女友達は、電話である。
「あなたの分も、頑張って、良い句を出すからね」と慰めてくれた。

連れ合いは、主婦代行で、内心くたびれているようだが、文句も言わずに、3度の食事の世話や洗濯、買い物、すべて、やってくれている。
ただ、掃除はどうも、億劫のようだ。
私は、骨折以来、2階の寝室に上がるのが大変なので、下の居間のソファで、タオルケットを掛けて寝ている。
先日、体のあちこちを、虫に食われてしまったので、「きっと、ダニかなんかいるよ」と、連れ合いが、掃除機を掛けてくれた。
ソファの隙間に、細い器具を差し込んで、吸い取ったら、それから、虫に刺されることはなくなった。
家の中の移動は、キャスター付きの椅子である。
「長くなるとわかってたら、ちゃんとした車椅子を借りれば良かったね」と言うが、それ程のこともない。
キャスターが引っかかるところは、立ったりしなければならないが、この頃は、痛みもないので、椅子に座りきりばかりでもない。
馴れると、移動もスムースである。
台所の用事も、立ち仕事でなければ、もう出来るが、連れ合いが、「動くな」というので、任せている。
料理の味付け、下ごしらえ、果物の皮むきなど、座って出来ることは、私がやる。
「まあ、いずれ、こういう生活になるかも知れないから、練習だよ」と、あきらめたらしい。
でも、インターネットがあるお陰で、退屈せずに済んでいる。
時間は充分あるので、前から思っていて出来なかった新しいコンテンツを入れ、ネットサーフィンも楽しんでいる。

ネット連句を再開することにし、連衆を決めて、ボードも新しく作った。
それに先駆けて、独吟三作目を、始めることにした。

曼珠沙華あなた恋ふ日の足の裏

先日、お祭りに引っかけての余興で出した句のうちの一つ。
自分では気に入っている。
これを今回の独吟に、発句として使うことにした。


BONE2
2003年09月09日(火)


骨というのは、案外厄介なものらしい。
足の小指の根元、わずかな部分でも、折れると、治るのに時間が掛かるのは、大きな骨と同じだということがわかった。
昨日整形外科に行き、もう、ギブスが取れると期待していたのに、今月いっぱいは少なくとも、着けていなければならないと言われ、ガッカリしてしまった。
「いろいろ予定があるんですけど・・・」と言ったが、お医者さん、「骨に訊いてみてください。しばらく我慢してって、言いますよ」
側で看護婦さんも、「簡単なギブスで済んでいるから、いい方ですよ。ひどい場合は、すっぽり被せて、お風呂にも入れませんよ」と、言う。
確かに、私のギブスは、足の裏から膝の下まで、外側を包んで、包帯で巻いているだけ。
包帯をとれば、はずれるので、シャワーを浴びることも出来る。
最初のうち、腫れがあったためか、血行が悪くなって、むくんでしまい、気になったが、それも大分取れてきた。
シャワーのあとは、氷をタオルに包んで、足の甲に載せておくと、気持ちがいい。
今月中の予定はみなキャンセルしたが、10月11日からの連休に、東北への小旅行がある。
それには行きたいので、ほかのことは、少し見合わせる。
10月2日から、週一回、ある大学の公開講座に行くことになっているが、初回は、無理かも知れない。
うらめしきは、骨である。

連句関係の人からメール数通。
「足の具合はいかが。心配してます」と、これは男の人。
「私がいないからと言って、欠席裁判をしないように」と返事を送った。
「しばらくお目にかかれなくて残念。尾ひれを付けて、いろいろ噂の種にしますから、安心してご養生下さい」と、別の男性。
「そんなこと言ってないで、ネット連句に参加されたし。もうメンバー登録したので、断りは受け付けません。発句を、土曜日までに送ること」と、返信した。
男の人は、事務的用件以外は、気軽に電話という風には行かないようで、こんな時は、メールが便利である。
私は、昨年、メールで不快な思いをしてからというもの、顔見知りの間では、メールを使わないようにしているが、こんなお見舞いみたいなものは嬉しい。
友好関係にある人となら、気持ちよく遣り取りできる。
人にケンカをふっかけたり、中傷誹謗の道具にしたり、また、メールならあまり罪にならないと思うのか、まやかしの誘惑めいたことを言ってくるのは、不愉快である。
今様ドンファンは、手で撫でる代わりに、言葉で撫でる。
同じ文面をコピーして、いろいろな人に送りつけているのではないかと、疑いたくなる。
送られた方は、みな自分だけだと思うのだろうか。
竈にのさばる猫じゃあるまいし、いい加減にして欲しい。
削除してしまえば、何も残らないような手段で、女ひとり落とせると思うなと言いたい。
信書の秘密に触れるのではないかと思うのは、人と遣り取りしたメールをコピーし、べたべた貼り付けて、複数の人に送ったメール。
メーリングリストなんか使って、廻したメールが、不注意で、とんでもないところに流れてしまったりしているのに、本人は気づかない。
「心当たりありません」と送り返してやったが、届いたかどうか。
こんな事をする人は、神経がどこかおかしいのである。
インターネットを信じすぎる人は、実社会の礼儀に疎くなるのかも知れない。
メールの遣り取りはもちろん、実際にも、付き合いたくないと思う。

同性の友達とは、メールの遣り取りは、ごく事務的なこと以外はしない。
会えなければ、電話である。
夕べ遅く、「足の具合どう?」と電話。
私の書斎には、手の届くところに受話器が置いてあるし、市外の人に掛けるときは、もうひとつ、IP電話を使う。
電話代が安いので、長電話になるときは、こちらを使う。
あれこれ、喋って、夜中になってしまった。
夕方、お見舞いの品一つ届く。
干菓子に、手書きのお見舞い状が添えてあった。
連れ合いが、「きちんとした人だね」という。
お礼状は、手書きの封書で出そうと思った。

足はダメでも、アタマと口は、健在なので、ホームページの修復、更新が終わったこともあり、ボード連句を再開することにした。
気持ちにケリを付けたことが一つ。
後ろは振り返らないことにした。
残暑の1日。
明日も暑そうだ。


見込み違い
2003年09月08日(月)

骨折を軽く見ていたわけではないが、イヤ、当初は、軽く見ていたフシもある。
折ったのが、金曜日の夜、痛いことは痛かったが、骨が折れているとは、想像もしなかった。
場所は、麻布の小料理屋。
狭い和室に、犇めいて、会合を愉しんでいた。
離れた席の人に用があり、そこへ行くのに、人の背中をすり抜けるのが面倒なので、三和土にあった店屋の突っかけ下駄に、左足をかけ、右足は床に置いた状態で、先へ行こうとした。
ところが、左足をおろした位置が悪かったのと、木の下駄がひっくり返ったために、ぐらっと、傾いてしまったのだった。
痛いと思ったが、すぐに起きあがって、目的の人のところへ行き、用事を済ませた。
それから、2時間ほど、飲んだり食べたりし、途中でトイレにも行き、座を移動したりもして、終わりまで付き合った。
帰るときになって、ヒールの靴を履いたとき、痛さが増していることに気づいたが、友人と一緒に六本木までタクシーに乗り、あとは、地下鉄とJRを乗り継いで、最寄り駅まで自力で帰ってきた。
それからタクシーに乗り、家の前で降り、家に入った途端に、動けなくなった。
やっとの思いで、2階の寝室まで、連れ合いの肩につかまって上がり、そのまま寝てしまった。
翌日は、土曜日、「午前中は医者もやってるから、行こうか」と言われたのに、どうせ捻挫だから冷やせば治るわよ」と、たかをくくり、行かなかった。
日曜日になり、ずいぶん患部が腫れているようなので、救急の整形外科に行くことにして、シャワーを浴びたり、御飯を食べたりしているうちに、どういうわけか、痛みが治まってしまった。
じゃ、明日まで待とうと言うことになり、とりあえず、家にあった湿布用の貼り薬を張って、その日は、ほとんど横になっていた。
それでも、まだ骨が折れてるとは、思わなかったのである。
レントゲンを撮ると「骨が折れてますね」というので、ギブスを作ってもらい、「一週間後に来てください」と言われて、帰ってきた。
1週間という事は、1週間で治るという意味だと、勝手に解釈し、次の週、帰りは靴を履いて帰るつもりで、スニーカーを持っていったら、看護婦さんに、「とんでもない」と言われてしまった。
レントゲンを撮ったら、「5ミリずれてます」と言われ、痛みが治まって、少し動いたのがいけなかったかと反省。
今度は、おとなしく過ごした。
そして、今日の結果は、「悪くはないですよ。でも、ギブスは、してて下さいね」と、同じ姿で帰ってきた。
整形外科は、待ち時間が長い。
先週は2時間待った。
今日は、連れ合いに、病院から一旦帰宅してもらい、終わる頃、電話を掛けて、また迎えに来てもらった。
待合室で、私に話しかけてきたのは、90を超えた母親に付き添ってきた女性。
自分も、腰痛で、ほかの整形外科に通っているという。
「私も腰痛があるんですよ」というと、「いいお医者さんがいますよ」と、自分の車に戻り、持ってきたのは、別の整形外科のパンフレット。
整形外科は、専門分野があって、ここのお医者さんは、脊椎専門だから、一度行くといいですよと、そのパンフレットを、私にくれた。
ここの医者の目にはいると悪いので、バッグに仕舞った。
今日の待ち時間は1時間半。


秋の別れ
2003年09月06日(土)

秋燕や訣別のわけ語られず   

人は、この世に生を受けてから死ぬまでに、いくつもの出会いと別れを繰り返す。
最初に出会うのが、自分をこの世に送り出してくれた母であり、父である。
子どもにとって、100パーセント近い存在である親も、だんだん成長するにつれ、75パーセントになり、半分になり、やがて、結婚するときは、その相手が100パーセント近い存在を占めるようになり、親は、次第に子どもの人生の脇役になってしまう。
それはごく自然のことで、子どもは、成長するまでの、20年ほどの間に、少しづつ親との別れを、積み重ねていくのである。
そして、別れた数ほどの、新しい出会いを得て、大人になっていくのであろう。
親にとっても、子どもが育っていくということは、見方を変えれば、自分から離れていくことであり、日々、子別れの道を歩んでいくようなものである。
鳥や野生動物の生態を、テレビなどで見ていると、誰が教えたのでもなく、この儀式が、自然に行われていて、感動すら覚える。
動物の親子の、慈しみ合う姿と、子別れの厳しさ。
役目を果たして、やがて生を終える生き物の姿は、荘厳で美しい。

ただ、人間は、少し厄介である。
親子は選べないから、覚悟を決めて、付き合うしかないが、他人である男と女が、出会って別れるのは、そう簡単な図式通りには行かない。
好きになってはいけない人に惚れてしまったり、選んだつもりはないのに、なぜか、縁が出来て離れるに離れられない、ということも起きる。
この人なら、ずっと好きでいられると思っても、何かの理由で、気持ちが冷めてしまったりする。
また自分が、幾ら心を尽くしたからといって、相手が同じように感じているとは限らない。
相思相愛は、目出度いことだが、現実は、そうはいかない場合が多いのではないだろうか。

かなり前になるので、細部は正確ではないが、こんな文章を読んだことがあった。
失恋で自殺した女子大生の話である。
彼女は、同じ大学に通う、ある青年を恋し、相思相愛となってしばらくの間過ぎた。
やがて 将来を誓い合うようにもなっていた。
ところが、そこにもうひとり、女性が現れた。同じ大学の人である。
運命の女神のいたずらというのか、彼は、その女性に一目惚れしてしまい、前の彼女から、次第に心を移していった。
同じ大学内だから、避けようとしても、自然に顔を合わせたり、彼が、新しい彼女と仲良く歩いている姿が、目にはいる。
もちろん、新しいカップルは、わざと見せびらかしたわけではないだろうが、恋をしているときの男女というのは、人のことには、気が回らないものである。
自分たちが、彼女の心を、どれだけ傷つけているかということにまで、配慮が及ばなかったのかも知れない。
彼女は、彼の気持ちが戻らないことを悟ると、恋の痛手を克服しようと、努力したらしい。
勉強に専念し、新しい道を歩もうと決心した。
しかし、秋のある日、学内で、彼と彼女が一緒にいる姿を見たとき、自分が、まだそこから吹っ切れていないことを知る。
「寂しいねえ」という言葉を日記に残して、自殺してしまった。
それから、1年後の秋、死んだ彼女の恋人だった彼が、彼女の両親の元を訪れる。
娘が愛した青年、そしてそれ故に死を選んだ娘、親たちは、きっと、彼に向かって、言いたいこと、訊きたいことが沢山あったに違いない。
しかし、彼らの間にどんな会話があったかということは、そこには書いていない。
両親は、彼を、ある山の麓に連れて行く。
そこは、鷹匠が、鷹の訓練をするので知られたところである。
両親は、彼に、鷹の飛ぶところを見せたかったのである。
大空を、見事に舞う鷹の姿を彼に見せると、何も言わずに、彼を、帰したのであった。
将来ある若い青年に、後ろを振り返らずに、行きなさいというメッセージだったのか。
娘の心を、よく理解した親たちの、娘への鎮魂の表れだったのか。
これを書いたのは大原富枝、今は廃刊になってしまった、ある文芸雑誌のエッセイであった。

人の心は、移ろいやすく、時として、むごいものである。
出逢って、愛し合うことは、それ程難しいことではない。
別れる方がずっと難しい。
気持ちが離れ、別れを決断したとき、相手をどれだけ思いやることが出来るか。
リルケの詩を百篇以てしても、心の傷は癒えないかも知れない。
秋は、別れを思い出させる、残酷な季節である。


「冬のソナタ」
2003年09月05日(金)

4月から続いていた韓国ドラマ「冬のソナタ」が昨日終わった。
ぼろぼろに泣いてしまった。
木曜日の夜10時、3回ぐらい見落とした日があるが、いつもこの時間を楽しみにしていた。
メロドラマのお手本のような作品で、作りは非常に古典的である。
結ばれそうで結ばれないカップル、その合間に登場する恋敵や、家族、友人。
紆余曲折を経て、最後は交通事故の後遺症で失明した恋人のもとを、ヒロインが訪れ、3年ぶりの巡り会いで終わる。
「君の名は」と、アメリカ映画「巡り会い」、「心の旅路」などを合わせて割ったら、こういうドラマになりそうであるが、決して、作品の出来は、悪くない。
古今東西変わらぬ人間の心のありようを、いろいろな枷を作って、ドラマにしていた。
久しぶりに、たっぷりと泣かせてもらった。
NHKの過激な宣伝はいただけないが、こういうドラマはもっと作って欲しい。
斬った、張った、ばかりじゃ、あまりにも殺伐すぎる。
日本のテレビの、恋愛ものは若者中心、それも、やたらと新しがって、奇をてらったようなものばかりで、最近、テレビドラマを見る気をなくしていた。
大人に涙を流させるような、丁寧な作りが欲しい。
恋愛ものではないが、昭和40年頃に放映された「いのちある日を」というドラマは良かった。
高橋玄洋作品。
太平洋戦争を挟んだ、秩父の旧家の物語である。半年続いた。
主演の木村功は既に亡い。
日曜日の「東芝日曜劇場」は、単発の1時間もの。
時々記憶に残るようないい作品があったが、いつからか、別番組に変わってしまった。
昭和50年代は、やはり向田邦子。
「あ、うん」「阿修羅のごとく」はじめ、すぐれたドラマを残して、52歳で死んだ。
まだまだこれからという時だった。
エッセイや小説も、わたしは好きで、ほとんどの作品を持っている。
今読んでも、新しい。

今朝早く連れ合いは、一泊泊まりのゴルフに出かけた。
本当は、昨日から二人で蓼科に行っているはずだった。
そこから、連れ合いだけゴルフに行くという計画が、私の「骨折り」で、状況が変わってしまった。
「大丈夫かい」と気にしながら、出かけていった。
昨日のうちに、独りで留守をする私のために、冷蔵庫に食料を詰めていた。
ちょうど2週間、ギブスをしたままではあるが、かなり快復しているような気がする。
「何とかなるから、気を付けて行って」と、送り出した。
車が遠ざかる音を聞きながら、早めの朝食を摂った。


アカシアの雨
2003年09月04日(木)

「Nからのメール、転送するよ」と、2階の書斎から連れ合いが内線を掛けてきた。
開いてみると、連れ合いの高校時代の親友、Nが、私の骨折のことを知って、見舞いのメールを寄越したのだった。
仲秋の名月の機会に、どこかで集まろうという話がNからあり、ちょっと行けそうもないと、連れ合いが返事したのである。
「月はどこで眺めても同じ月、きっと名句が浮かぶでしょう」と結んであった。
私が連句を始めたのは、この人と関係がある。
単身赴任で彦根にいたとき、Nはある連句入門書を読んで、興味を持ったらしい。
20年くらい前になる。
前から文芸に関心のある二人ばかりの友人を誘って、その入門書だけを頼りに、連句を試み始めた。
連れあいも誘われたらしかったが、全く関心のなかった連れ合いは、加わらなかった。
Nは、彦根にいた3年ほどの間に、同好者とせっせと文音を試み、何巻かの作品を作ったようである。
その辺のことは、私は全く知らずにいた。
年賀状に、いつも俳句が書かれているので、俳句をやっていることは、知っていたが、連句というものに、私自身が興味も知識もなかったこともあり、話が出ても、聞き落としていたのかも知れない。
Nと連句について、正確に知ったのは、10年前になる。
私の息子が結婚し、しばらくしてNから電話が掛かってきた。
「息子さんがいなくなると、やっぱり寂しいでしょう」というので、「これを機に、私も俳句を始めようかしら」と言った。
すると「私がやってるのは、連句ですよ」と言い、数日後に、「芭蕉七部集」をはじめ、連句関係の参考書がドカッと、送られてきた。
「Nさんから、こんなものが来たわ」と連れ合いに言うと、「俺はやる気ないよ。代わりに君がやったらどうだい」と言われ、あまり気が進まないながら、この道に入ることになったのである。
Nは、私が本気で連句を始めるとは、最初思わなかったようであった。
半ばひやかしのつもりで、本を送ってきたのだった。
それが、二年三年経ち、次第に連句に入り込んでいく私に、ちょっと戸惑ったようであった。
「基本がわかるようになったら、一緒に巻きましょう」と言っていたのに、Nのほうは私と反比例して、連句から遠ざかっていった。
そのうちに、私がインターネットを始め、ボード連句に誘っても、「私は連句はやめました」と言って、何度声を掛けても、参加しようとしなかった。
「向こうが勧めたくせに、ヘンな人」と私が言うと、連れ合いは、「アイツは、女に先を越されるのがキライなんだよ」といい、「無理に誘わない方がいいよ」と付け加えた。
へえ、そんなこともあるのかと思い、それ以後、連句の話題を出すのはやめた。
Nを含む夫婦五組で、年に一,二回集まったり、小旅行をしたりするが、グループの中心になって、計画したり、お膳立てするのは、N夫妻である。
少し偏屈で、意固地なところもあるが、本当はやさしく温かいNの人柄を、みな愛している。
連れ合いとN、それにKは、高校時代からの終生の友である。
一番早く結婚したのが、私の連れ合いだった。
新婚早々のアパートに、二人が押しかけてきたことがあった。
酒を飲まないKが、遠慮して早く帰ろうとするのに、Nは、したたか酔って、歌を歌った。
それが西田佐知子の「アカシアの雨が止むとき」だった。
「夜が明ける、日が昇る、朝の光の中で、冷たくなった私のむくろを抱いて、泣いてくれるでしょうか、なんてせつないねえ」と、彼は涙をこぼした。
それを、Kがいたわるようにして、帰っていった。
男の友情はいいなあと感じたものである。
「アイツの結婚は難しいね」と、連れ合いは言っていたが、五年後に彼は、美人でしっかりした、五つ年下の女性と結婚した。
もう「アカシアの雨」を歌うことはないだろうと思った。
それから、何十年も経つ。
三人の孫に恵まれ、孫のいない私たちに遠慮しつつも、孫の話題が愉しいようである。


女友達その2
2003年09月03日(水)

昨夜、もう寝ようかと思う時間に電話。
「まだ起きてた?」という声は、響きの良い艶めいたアルト。
シャンソン歌手の彼女である。
「その後足の具合はどう?」と訊いている。
「まだギブスしてるのよ。もう痛みはほとんどないんだけど」というと、安心して、先日の話の続きを始めた。
彼女とは、15年ほど前、シナリオの研修所で知り合って以来の仲である。
私は病気を抱えていたし、たばこの煙が充満するような環境では生きていけないので、早々とこの道を捨てたが、彼女のほうは研鑽を積んで、一時は、著名シナリオライターの下書きをするまでになっていた。
それからは、あまり会う機会もなかったが、時々、どちらからともなく、電話で、互いの近況などを語り合う。
いつだったか、「もうシナリオを止めるわ」と電話があり、あまり深いわけは語らなかったが、シナリオから足を洗い、その後は持ち前の声を生かして、シャンソンの道に進んだ。
いまでは、時々ライブハウスに出るくらいである。
「私はあくまで趣味よ」と言っているが、タダで歌っているのでないからには、プロであろう。
そちらの世界も、愉しいばかりではないようで、自分の先生のステージがあると、切符を何枚も引き受けなければならないし、レッスンは欠かせないので、そのレッスン代や、衣装代で、少しばかりのギャラなど、消えてしまうという。
「だから道楽なの」と彼女は言っている。
連句に誘ってみたこともあるが、「何だかジジむさいんでしょ」と乗ってこなかったので、2度と誘わない。
彼女の華やかさ、色っぽさ、感性の良さ、それを持ってすれば、連句会の男どもはみな、心を奪われてしまって、私が引き立て役になってしまうことは、目に見えているので、今となっては、無理に誘わなくて良かったと思う。
「ジジババばかりの世界だから、あなたには向かないわね」と、連句の話は、なるべくしない。
そして、昨夜の電話は、「私、もう限界だから、あの先生と縁を切ったわ」といういきさつであった。
あの先生とは、この5年ほどレッスンを受けている男の先生のこと。
彼女が、一番弟子だと思っていたのに、最近、彼女より若い女性が入ってきて、先生はそちらにすっかり傾倒して、お株を奪われてしまったという話を、先週電話で聞いたばかりであった。
おまけに、その女性も、先輩後輩の気遣いもなく、それが当然という顔をしているという。
「そんな先生、もう見切りを付けたら」と、私は無責任に言ったのであった。
それから1週間の間に、彼女はいろいろ考えた挙げ句、先生に、直接、言いたいことをいいにいった。
「私だって、プライドがあるから、彼女のことなんて一言もいわなかったわよ。ただ、最近、弟子の扱いが、不公平じゃないですかと、言ってやったの」
「その先生、なんて言った?」と訊くと、「そんなつまらないこと気にしないで、精進したらいいじゃないですか。この世界、実力がものを言うんだから、ですって」
「じゃ、実力は、彼女のほうが上だと先生は思ってるの」
「さあ、でも、若いし、これからの人だから、育てたいと思ってることは確かね。ほかのことは目に入らないって感じ」
「でも、先生は、あなたの力は認めてるんでしょ。あなたが引くことはないじゃない」と言うと
「そうね。でも、そんな遣り取りをしてるうちに、ああ、この先生は、理屈抜きに、彼女が大事なんだなって、わかった。だから、私やめますって、席を蹴っちゃったの」
自分にとって、プラスになるやり方じゃないことはわかってるし、これからのレッスンも、ステージの機会も、減ることは承知してるけど、と彼女は付け加えた。
わかる、わかる、私もそんな事が、今までの人生に何度かある。
ソントクじゃないんだよね。
五分の魂だもんね。
「でも、それでさっぱりしちゃった」
「彼女のほうは?と訊くと
「あなたのいう通り、あの世代はダメね。自分のせいだとは思ってないし、その後もシラッと、レッスンに来てるらしいわ」
ところが、彼女が許せないのは、そのあとのことだった。
件の女は、目の上のタンコブがいなくなったとばかり、今まで彼女が勤めていたいろいろな仕事を、一手に引き受けて、先生の片腕になりかけているらしい。
そして、いなくなった彼女のワル口を、あちこちで言い始めているという。
彼女がいなくなったことを惜しんで、知らせてくれる人があったらしい。
「やめた人間に、追い打ちを掛けることはないじゃないの」と憤慨している。
「でもね。悔しいけど、当初はやめた方が負けよ。残ってる方は、なんと言っても、繋がりがあるから、それなりに地場を固めていけるけど、いなくなった方は、実体がないものね」と私は言い、「そのうち、わかる人にはわかるから、しばらく静観してたら」と電話を切った。
人の心は、測り知れない。
自分の思っている誠意が、どこにでも通用するわけではない。
彼女も、ピュアな人なのだ。
「あなたと私、よく似てるわね」と彼女は言ったが、それ故に、些細なことでも、拘りを持ってしまうのだろう。
そして、不正義な人、ワルを武器にしている人にとって、私たちのタイプは、やはりけむったい存在なのである。
今日は、暑い一日になりそうだ。


拠って立つ場所
2003年09月02日(火)

外国に住んでいるとき、自分のidentity(identidade)がどこにあるかということは、常につきまとう問題だった。
日本語ではどういう言葉がふさわしいのだろう。
自己の存在証明、身元、立場、いろいろあると思うが、この概念は、小さな島国で、個性よりも、周囲の人たちとの和を何より大事にしてきた国民性とは、ちょっと相容れないような気がする。
自分の拠って立つところ、という風に言えばいいだろうか。
老父母と暮らした3年間の中で、当初、私の考えから欠落していたのが、人間は年をとり、自分のことが出来ないような状態になっても、identityが大事だと言うことだった。
「親の介護」と一口に言うが、親ひとりの面倒を見ると言うことは、その親の背負ってきた歴史も、人間関係も、丸ごと引き受けると言うことである。
衣食足りて、済むという簡単なことではない。
どんなに立派な設備の整ったところで、一見手厚いケアを受けていても、その人のidentityを尊重するという基本がなければ、老人は、幸せではないのである。
たとえば、母が家にいたとき、盆暮れに欠かさず、届け物をする先があった。
それがどこそこの何という品物と、決まっていて、そのために、遠くのデパートに行かねばならず、正直、面倒であった。
「もう家に引っ越してきたんだから、ここから送れるものに出来ないの」と私は言った。
父も母も、我慢強い人たちである。
娘夫婦によけいな手数を掛けてはいけないと思ったようだった。
「別に、ほかのものでもいいのよ」と母はいい、「でも、家からあれが届くと思って、楽しみにしてくれている人もいるんだけどね」と、遠慮がちに付け加えた。
私はハッとした。
ただ何でも送ればいいというものではないのだ、そこには、長いこと培ってきた母達の人付き合いがあるのだと気づいた。
娘夫婦の世話になっているという意識は、十分すぎる位ある親たちであった。
でも、親たちにも、生きている間拠って立つところはちゃんとあるのである。
老人のわがままではなく、それが大事なのである。
一緒に住んでみて、わかることだった。
今、親たちは、ケアハウスにいるが、「元気にしてる?」と母から電話があったときは、来て欲しいという意味である。
でも、私に対してはあくまで、母親であることを堅持する。
それが、母のidentityである。
今朝、しばらく行ってないので、電話した。
「ちょっと足を捻挫したので、行けないでいたけど、治ったら行くからね」というと「足は大事だから、無理しちゃダメよ。よく冷やして、あまり動かさないようにしないと・・・」と、母は言った。
そして「こっちは、何かあれば、誰にでも頼めるから、何にも心配要らないのよ」と付け加えた。
実は、10日ばかり前、親戚関係で、相談事があるからと、電話が掛かってきて、そのままになっていた。
行こうと思っていたところに、足の骨折だった。
本当は、早く来て欲しいのである。
でも、母親の顔をすることで、母は少し頑張れるのである。


待合室
2003年09月01日(月)

病院、医院の待合室は、社会の縮図みたいな処がある。
私は、今世紀に入ってから、市の健康診断で行く以外には、ほとんど医者に掛かったことがないのだが、今回、「骨折り」で止む終えず、整形外科に行くことになった。
先週月曜日、ギブスを嵌められ、今日また行った。
もう痛みもほとんどないので、ギブスが外れるつもりで行ったら、「骨が5ミリずれてます」と言われ、またしっかりとギブスをした姿で、帰ってきた。
先週は待ち時間1時間、今日は、特別込んでいて、1時間40分待たされた。
待合室の会話や、人の動きを観察していると、なかなか面白いことがある。

私の近くにいた母と息子の会話。
息子は膝を痛めたらしく、股のあたりまで付帯で巻いた姿、母親は、小柄だがしっかりタイプ。
息子は、長い事待たされてイライラしている。
息子「ねえ、こんなに長く待つのイヤだよ」
母「だってしょうがないわよ。月曜日はいつも込むんだから」
息子「順番通りにやってるのかなあ。あの人あとから来たのに、先に呼ばれたよ」
母「リハビリの人は早いのよ。それに、診察券だけ先に出してあったかも知れないでしょ」
息子「じゃ、そうすれば良かったのに」
母「だって、いつも込んでるわけじゃないし、2度も来るのはイヤだもん」
そのうち、やっと順番が来て、母子は診察室に呼ばれる。
続いて、レントゲン、診察室と一連の流れのあとで
母「ほら、先生が、家でもリハビリしなくちゃダメだっていったじゃない。」
息子「リハビリなんてイヤだよ。続かないよ。近くの医者でやってもらうよ」
母「お医者にかかれば、その都度お金を払わなくちゃならないけど、うちでやればタダじゃない。やり方を教えてもらったんだから出来るわよ。」
息子「だって、うち狭いもん。すぐにあちこちぶつかって、痛いんだよ。近所の医者に代わりたいって、頼んでよ」
母「そう言うわけに行かないわよ。またレントゲン摂られて、初診料払わなくちゃならないもの」
息子がしきりにゴネて、母親がなだめたりすかしたりの会話は、思わず聞き惚れてしまうくらい、面白かったのだが、うまく再現出来ないので、止める。
この親子、母親は60代後半くらい、息子は40前後かと思われた。
マザコンというのは、こういう男のことかなあと思いながら、駄々っ子をあやすがごとき、母親の巧みな誘導に感心してしまった。
「あの母親は長生きするよ」と、連れ合いが言った。
やがて、会計を済ませた親子。
体の大きな息子を車椅子に乗せ、小柄な母親が、それを押して、帰って行った。

私の隣に腰掛けていた老婦人が話しかける。
「私、俳句の先生してるのよ。オタクどの辺に住んでるの」
私が地名を言うと、
「あら、じゃ、うちのほうのコミセンに来れるでしょ。6人ぐらいで愉しくやってるのよ。来ない。第3土曜日の午後からよ」
ちょうど、連句の会合と重なっている。
「あいにく・・・」と断った。
「アラそう、俳句なんかやりそうな顔に見えたのに、残念ね」
俳句顔って、あるのだろうか。
美人じゃないという事だけは、わかる。
俳句の話が消えたと思ったら、3年前に入院したいきさつやら、外国旅行の話、「今はね、何か目的を持たなくちゃいけないから俳句と、絵に絞ってるの」等々、話の聞き手を勤めさせてもらった。
「アラ、ご主人どこにいるの。奥さんほっといてダメじゃない」と、ほかの患者の邪魔にならないよう、隅っこで小さくなっている私の連れあいを、側に呼んでくれた。
80歳だという。
「来てみたら、リハビリがひとつ増えて、薬もよけいに飲まなくちゃいけないなんて、ガッカリだわ」といいながら、帰っていった。



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