沢の螢

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愁思
2002年10月22日(火)

先週、意外な人からメールが来た。
7月までいた、あるサークルの女性。
私が、そこをやめたのは、この人と関係がある。
そのいきさつは、この日記のどこかにも、何度か断片的に触れたので、もう繰り返さない。
私によからぬ感情を抱いていた彼女、それに味方した人、両方があって、そこから私は、抜けたのだから。
前者は、これからは、もう縁のない人と思うことで、ある程度、気持ちをクリアした。
しかし後者については、私が信頼を寄せ、尊敬し、慕っていただけに、三ヶ月近く経った今も、まだ、その傷は癒えていない。
私がいなくなって、すぐにサークルに復帰した彼女は、何事もなかったように、過ごしている。
そんな彼女から、メールなど来る理由はないのである。
内容は、ある講座の案内で、私がその講師のファンであることを知っていて、報せてきたのだった。
でも、本当は、そんな講座のことは口実で、私のその後が、やはり気になっていたのだろう。
自分のことが原因で、私を結果的にサークルから追い出すことになって、彼女にしてみると、あまり寝覚めがよくないのかも知れない。
ほとぼりが冷めた頃を見計らって、様子を窺ってきたのであろう。
でも、こんなシラッとしたメールなど寄越す前に、ひとつ言うべきことがあるはずである。
私が、「お知らせいただいて有り難うございます」という返事を、出すべきなのだろうか。
それで、彼女としては、すっきりするのだろうか。
私が、おおらかな気持ちの持ち主であるなら、そうするだろう。
しかし、彼女からは、これ以外にも、たびたび煮え湯を飲まされている。
そして、彼女の方は、あまり自覚はないらしく、いつも、ケロッとしている。
目的のためには、手段を選ばないと言うのが、団塊の世代の特徴かも知れない。
私の方が年上だからと、いつも意に介さない態度を取ってきたが、今度は、第三者が関わっていて、私にとって、大事な交流が一つ絶たれたのである。
ケロッと水に流されて済むことではない。
逡巡した挙げ句、私は、いいこブリッコすることはやめた。
彼女のメールは無視し、ついでに、送信者禁止の項目に、彼女のアドレスを加えた。
本当に、コミュニケーションを図ろうと思えば、顔を合わせる機会はあるし、手紙も、電話もある。
もともと、メールは、ちゃんとしたことを相手に伝えるのには、大変不完全なのである。
七月のことも、メールにはじまり、メールで終わったことであった。
こんなもの、持たねばよかったと、そのとき思った。
便利ではあるが、顔を見ては言えないようなことも、メールでは、さらっと言ってしまう。
顔見知りの人とは、なるべく肉声で伝え合いたい。
しみじみ、そう思っている。


けじめ
2002年10月20日(日)

ホームページを立ち上げて七月まで、別のサーバーで、公開していた。
私は、実生活の自分と、ネット上の自分とは、区別したかったので、はじめは知っている人には、ホームページの存在を、知らせなかった。
信頼しているたった一人の人だけに、アドレスを知らせ、口外しないという約束を守ってくれた。
私は、銀行の貸金庫と同じに考え、自分の書いたものをしまっておく場所として、ホームページがあればいいと言うほどの気持ちだった。
だから検索エンジンにも登録せず、よそのサイトに宣伝めいた書き込みもせず、リンクもせず、ただ、毎日少しずつコンテンツを増やし、ソフトを使って、模様替えを愉しみ、それで、満足していたのである。
しかし、連句のボードを持って、それに参加してくれたメンバーには、出来上がった作品を載せる関係で、ホームページの存在を教えることになった。
みな、礼儀正しく、口の堅い人たちなので、私の意図を理解して、黙って見てくれて、実生活の場でも、話題にすることはなかった。
連句の付け合いが軌道に乗ってくるにつれ、私は、やはり関心のある人には、ネット連句の臨場感ある付け合いを見てもらいたいと思うようになった。
そこで、七月に、連句部門だけを全体から切り離し、そこだけ独立して見られるように設定したのである。
ドキュメントのアドレスを別にして、直接入れるようにし、そこから、ほかのところには、行けないようにした。
そうすれば、知っている人に、私の日記やエッセイなど、見られることはない。
独立したその部分だけ、私の入っているサークルのホームページに、リンクしてもらおうとした。
ところが、サークルのホームページの担当女性に、拒否されたのである。
「内容が個人的なものだから」というのが、理由だった。
でも、サークルのホームページには、いくつかのサイトがリンクされている。
内容はみな違うが、それらと比べて、私のページが、否定されなければならぬ要素は、何もないように思えた。
サークル会員として、「政治、宗教を持ち込まない」という規約にも違反してないし、いかがわしい記事があるわけで無し、営業的な使い方はしてないし、個人的といえばそれに違いないが、それならほかのリンクサイトも似たようなものだ。
要するに、彼女は、どういうわけか、私のホームページだけ、リンクさせたくなかったのである。
言ってみれば「有害図書」と決めつけられたようなものだが、いっぱしの物書き気分に浸っていた私としては、勲章みたいなもので、このサイトが、それ程存在感があったのかと、誇りたい気分だった。
私は、彼女に、ホームページのアドレスを教えたことはなかったが、どこから聞いたのか、いつの間にか、知っていて、覗いていたことになる。
拒否するようなものを、黙ってみていたのかと思ったら、私は、実に不快な気分になり、それだけで、サイトを閉じてしまいたくなった。
でも、それもおかしいので、たまたま持っていた別のサーバーに、少しずつファイルを移し、しばらく二本立てにしていた。
きょう、すべてのファイルを移し終えたので、古いホームページを休止することにし、挨拶文とともに、表示した。
連句の参加者には、別立てにした連句部門だけ、残してある。
ネット上でのみ知り得た訪問者には、新しいアドレスを案内し、顔見知りの人は、「休止」になっているアドレスしか知らないことになる。
それでいいのだ。
ネットの中では、私は、そこに表示されている名前でのみ、存在する。
それを、かたくなに守っていくつもりである。


面とペルソナ
2002年10月18日(金)

昨日、文学講座のあとの、喫茶店で。
いつも、講座がはねたあとは、数人で先生を囲んで、近くの喫茶店にはいる。
受講生は、中高年がほとんど。その中で、比較的若い40代の男の人が、いつも世話役を買って出て、お茶代の集金やら、席取りやらをやってくれる。
昨日は、常連のほか、別の講座で先生の追っかけをやっている女性グループも来て、12,3人になった。
私も、最近になって、ちょくちょく参加して、先生のアフター講座の話や、同席の人たちとの会話を楽しみにしている。
先生は、自分のお茶代は、自分で払う。そんなところも、気に入っている。
昨日は、たまたま、私の向かい合わせに、はじめて顔を見る女性が座った。私と同年代くらいに見えた。
はじめは、雑談をしていたが、そのうち、彼女が、隣の席にいた先生に、どうしても訊いてほしいといった感じで、話しはじめた。
「私の父は、戦時中、日本に強制連行されたんです」という。
それから、在日朝鮮人として、どう過ごしてきたかという話を、静かな声で語った。
彼女は、日本で生まれ育ち、韓国籍を持ち、夫は北の人だという。
彼女の娘は、朝鮮系の新聞社に勤めている。
今回の、拉致問題について、彼女は、日本人とは、少し違った感覚でとらえているようだった。
親の世代が、強制連行も含め、日本でより日本人として暮らすのに、どれほどの苦労をしたかを、いくつかの例を挙げて話してくれた。
生きるために、言葉も習慣も、日本人以上に日本的なものを身につけた母親が、死ぬ少し前に、ぼけの症状が出始めると、日本語をすっかり忘れ、すべて朝鮮語に切り替わったのだという。
「生きるためには、すべてを受け入れなければならなかったんです。だから、あの人たちも、そうだったと思います」と彼女は言った。
そして、拉致があり得るはずはないと言うことを信じ、新聞に書いていた娘が、今、大変な苦悩の中にいることを、語ってくれた。
「私たちのコミュニティでも、今、何を信じていいか分からないと言う、混乱が起こってるんです」という。
彼女は、18歳の時に、朝鮮語を習い始め、ふたつのことばを自由に使って、翻訳や、通訳もしている。
「考えるときは、どちらの言葉ですか」と聞くと「それは、やっぱり生まれたときから、それで育ったから日本語なんですよ」という返事だった。
「母国語じゃなくて、母語なんですね」と、誰かがいい、彼女も頷いた。
駅までの道を、一緒に歩きながら、どこから見ても、私と同世代の日本女性にしか見えない、明るい雰囲気の彼女が、育つ過程でのある時期まで、仮面の生活をしていたことを、しみじみ思ったのであった。

次元は違うが、ネットも、いわばひとつの仮面の世界、仮面に徹していればそれなりの愉しさもある。
しかし、完全に仮面を通すことは、難しい。
どこかに、現実というものが、混じってきて、それは否定できない。
バーチャルな世界での顔と、実人生の顔とが、彩なすごとく、織り交じって、時に、愉しさだけでない面も、味わうことになる。
私は、ボードを持っているが、そこに入ってくる人は、ネット上の礼儀を守っている限り、受け入れることにしている。
今まではないが、もし仮に、実生活で気に染まぬ人が参加してきたとしても、拒否は出来ないと思う。
きちんと応対し、返事も書く。
知っている人も、知らない人も、ネットでは、すべて公平に対応し、そこに、分け隔てはしない。
それは、ネットを管理する以上、当然であろう。
でも、これは、私の場合で、ネット管理者の対応は、さまざまである。
この人には、入って欲しくないという場合、それなりの方法を考えるのだろう。
ボードのアドレスを、公開しない。あるいは、タイトルを変える。一番無難な方法で、他の人も傷つけない。
しかし、いったん公開したアドレスは、お気に入りなどに入っているから、ボードそのもののサーバーでも、変えない限り、以前見た人は、また見る可能性がある。
入る方から言えば、ボード管理者の反応の仕方で、自分が歓迎されているかどうかは、分かるものである。
投稿記事に返事しない。あるいは、よそよそしいレスポンスの口調で、あ,拒否されてるなと感じ、そんなところには2度と入らない。
でも、本当は、人を選ぶのなら、そんなあからさまなことはせず、限られた人たちだけで、パスワードでも設定して、やればいいのだ。
しかし、そんなことまでして、ネットを運営する意味が、あるのだろうか。
公開しておいて、ネット上で礼儀正しく入ってくる人に、それと分るような差別をするのは、第三者が見ても、気持ちのいいものではない。

私がよきどき見る、知っている人のボードで、そんなものがあった。
タイトルを変え、カモフラージュしているが、メンバーを選ぶための手段であることは、すぐ分かった。
本当は、大勢の人に参加して欲しいはずのボードに、メンバーを限らねばならぬわけは、想像が付いた。
気の毒にと思った。


時雨忌
2002年10月16日(水)

今日は俳諧芭蕉忌正式俳諧で深川へ。
同期の桜のM氏が執筆をやるので、「付け」の1員に加えさせていただいた。
参加者の中に、私の連句ボードに、ここ数ヶ月参加してくれている人と、はじめて顔を合わせた。
若くてすてきな女性、ネット上でしか、知らなかったので、嬉しかった。
座は、久しぶりに一緒になった人の捌きで、メンバーもよく、さまざまの話題が飛び交って、とても愉しかった。
終わってから、そのまま初台の新国立劇場に直行、連れ合いと一緒にオペラ「ルチア」を見た。
今シーズン最初の観劇である。
ルチア役は、イタリアの若手、姿良し、声良しで、悲劇のヒロインらしいルチアを演じて、なかなかのものだった。
「狂乱の場」のアリアは、すばらしかった。

今日は昼間は少し汗ばむほど、オペラの帰りは、気温が下がって、上着を着てちょうどだった。
庭師が今日から来ている。
庭がきれいになると、年の終わりを意識するが、今年は、早めに来てくれて助かる。
夏の間に茂った木が、さっぱりするはずである。

9月から、新しい連句の座に行き始めた。
結社の例会も、なるべく出ようと思う。
以前行っていて、最近遠ざかっていたところにも、先月から出ている。
来月から、もう一つ、参加する座を増やした。
いずれも、「是非いらっしゃい」と、迎えてくれるところばかりである。
しばらくネットの連句中心になっていたが、やはり、連句は、顔が見え、肉声の聞こえる座を、大事にしたい。
バーチャルな世界に、うつつを抜かし、それを、ある面で、現実よりも本物と思ったこともあった。
が、そこには、目を眩ませる、まやかしのものが、潜んでいることも、次第に感じるようになった。
あらためて、ひとの心の有りようを、考えているところである。


碁敵
2002年10月14日(月)

昨日に続きよい天気。
こんな日に、一人でシコシコ、パソコンに向かっているなんて、ゾッとしないのだが、連れ合いのいない休日は、またよきかなである。
尤も、連れ合いがリタイアしてからは、毎日が日曜日で、今日が連休の1日だということも、忘れていた。
新聞を取りに行って、いつも最後にあるテレビ欄がないので、気が付いたという次第。

溢れ蚊や碁敵の来る勝手口
有明を見てより旅のはじめかな

おとといの発句の会で、出句したもの。
碁敵は、6人、有明は2二人が採ってくれた。

碁敵は、別に碁をしなくてもいい。
私自身は、碁も将棋も、不調法である。

碁敵は憎さも憎し懐かしく

この句を教えてくれた人がいて、いい句だなと気に入った。
その人の句か、他の人の句か、訊くのを忘れたが、それから、私は、よい友達のことを碁敵ということにした。
よい、というのは、単純ではない。
たまには、辛口の批評もするが、本当のことをいってくれて、しかも、私の涙を暖かく包んでくれる人を、碁敵と呼びたい。

若い頃、碁敵の名にふさわしい男の友達がいた。
病気で、休学したり、何年も浪人したりで、同学年でありながら、私より4つも年上だった。
男兄弟の末っ子で、ややマザコン的な彼と、4人きょうだいの長女である私は、バカにうまがあって、いろんな話をした。
一緒に入っていた合唱のこと、仲間のこと、家族の話、社会や、本のこと・・・。
便せん20枚という長文の手紙を、ちょいちょい書き送ったこともある。
「また大作か」と、笑いながら、返事をくれた。
私には、好きな人があり、彼にも、意中の人がいた。
それぞれの恋の話を、さらけ出して、お互い異性ということなど、全く感じない間柄だった。
在学中に彼は、また長期入院をして、卒業が1年遅れた。
一足先に社会人となった私の会社に、時々訪ねてきて、退社時間を待ってくれた。
「あなたの彼氏なの」と、間違えられたこともある。
周りから見ると、ちょっと理解しがたい、不思議な関係だったかも知れない。
しかし、癌に冒されていた彼は、33才という若さで、妻と幼い2人の子を残して、他界してしまった。
彼が、結婚する前、私が送った何十通もの手紙を、返そうかと、いってきたことがあった。
ラブレターではないものの、お互いの心の内をさらけ出してやりとりしたものを、妻になる人に、見せたくなかったのかも知れない。
異性間の友情には、やはり限界があるのかなと、私は悟った。
「一度送ったものは、あなたのものだから、もし邪魔だったら、捨ててもいいわよ」と、わたしは言った。
「じゃ、とっておくよ」と彼は言い、それきりそのことは、話題にならなかった。
彼が亡くなってから、その連れ合いに、それとなく訊いたことがある。
「遺品の中には、見当たらないようです」という返事だった。
死期を悟った彼が、最後の入院の前に、処分したのかも知れない。
彼が亡くなったのは、ちょうど今頃の晩秋の時だった。
富士山の見える静かな墓所に、眠っている。

そして今、私には、碁敵と呼べる人はいない。


深川連句
2002年10月13日(日)

歳時記では晩秋、でも季感としては、今が秋たけなわである。
昨日は、連句の、発句の会に行った。
このところ、わたしは、自分の感情を第一にすることにしたので、気に染まぬ集まりは、出ないことにしている。
明らかに、嫌いな人が来ると分かっている会には、はじめから欠席である。
連句の集まりは、沢山あり、選ばずに顔を出していれば、座に事欠かない。
でも、わたしは、行って愉しいことが第一条件なので、吟味するのである。
大きな結社は、あまりひとりひとりは気にならないから、例会には、なるべく出席する。
偶然、嫌いな人と同じ座になってしまったときは、不運とあきらめ、今日は勉強と苦行の日だと、自分の心に言い聞かせて、笑い声ひとつ立てず、神妙に、座の付け合いに取り組む。
そんなときは、「今日は大人しいですね」なんて、いわれる。
ごくたまに、気の合う人ばかりの座に恵まれたときは、愉しくて、はしゃぎすぎるので、口数の割に、句はちっとも出ないということになる。
どっちもどっちである。

先日、ある会に行ったとき、少し遅れていったので、幹事が、遅れ組のために、ひとつ座を作ってくれた。
捌き良し、一緒になった男性もまあまあ、そのうち四人になり、さあ始めましょうという段になって、わたしの大嫌いな女性が、ほかの席から移ってきた。
ああ、今日は苦行の日だと、覚悟した。
何故、その人が嫌いかというと、知識、頭の良さは定評があり、出来る人であることは、さておいて、とにかく、人を傷つけるようなことを、ケロッと言うからである。
わたしも、ずいぶんはっきりものを云う方だが、こと、人の人格に関することは、言ったことがない。
彼女に、心の中をえぐられるようなことを、何度か言われて、わたしは、すっかりキライになってしまった。
彼女自身は、自分が悪いことを言ったという自覚は、ないらしく、どこでもその調子である。
無神経というのか、鈍感というのか、理解しがたい。
どういうわけか、そんな人に限って、エライ人や、男性からちやほやされるので、始末が悪い。
私だけでなく、彼女を「天敵」と断言した女性を知っている。
先日の座では、捌きがいるのに、彼女があれこれ口を挟むので、いらいらしたが、そんなときの方が、何故か、句が沢山ひらめいたりして、結果的には、一人前以上の付け句を出すことが出来た。
それで、気をよくして、いつもは、彼女の出る二次会は、失礼しているが、そのときは、気の合う仲間が誘ってくれたこともあって、飲み屋に付き合い、お酒の勢いで、少々気炎を上げて帰ってきた。

昨日は、「天敵」の来る可能性が充分あったが、作った文集を、配らねばならず、この会は、私の苦手なことを修行できる場なので、出かけたわけである。
また、「天敵」と顔を合わせたら、無視することにした。
幸い、「天敵」は来ず、二次会も含め、楽しい会だった。

歩道に木の葉が落ち始め、日が暮れると、そぞろに寒さを感じる。
今日、連れ合いは、蓼科に行った。
山荘を閉めるためである。
八月終わりに行って以来のこと。
夏の間にもう一度行って、森の気配を愉しみ、片づけるつもりで、いろいろ残したままになっていた。
二人の日程が合わず、台風が来たりで、結局いけなかった。
「君と一緒だとかえって面倒だから」ということになり、道路のすいた午後になって、連れ合いは出発した。
冷蔵庫の掃除をし、家の周りを点検し、管理事務所に水抜きを頼んで、今年の山荘は眠りに入る。
「デジカメで、晩秋の景色を撮ってくるから」と、カメラを持っていった。
しかし、前回は、撮った写真が全部失敗して、使い物にならなかったのである。
私は、東京に残り、とりあえず、ホームページの写真を、昨年の秋のものに換えて、アップロードした。


プライド
2002年10月07日(月)

学校を出て5年ほど、会社勤めをした。
結婚し、子供が生まれることになって、退職した。
当時の社会状況では、それがごく普通だったし、結婚すると「いつまで勤めるのか」と、周りが訊いてきて、同性である女性たちまで、急に既婚者を「オバサン」などと呼んだりする雰囲気があった。
今なら、セクハラになるところである。
よほどの意志と、能力がなければ、仕事を続けてはいけない時代だった。
そんな時代に、社会に出て、結婚、出産を経て、定年まで働き続けた女性たちは、やはりエライと思う。
私の最近親しくなった友達で、そういう人がいる。
ずっと教職にあり、管理職の最高まで上り詰め、勤めを全うした。
退職後は教育委員会に勤め、そこをやめても、仕事はつぎつぎと入ってくるらしく、今は、簡易裁判所と女子大の講師、後輩の指導や教科書の策定などに関わっている。
その合間を縫って、旅行や芝居、人付き合いと、忙しい。まさにスーパーウーマンである。
知り合ったのは、連句を通してである。
私が連句の世界に入ったのは8年前、それから4年遅れて彼女が入ってきた。
連句関係の催しにも積極的に参加し、物怖じしないところから、この人は、ただ者じゃないと感じた。
そのうち、彼女が教育界でのキャリアウーマンであることがすぐ知れたが、彼女は、そうしたことをあからさまに出すことはせず、連句界では、あくまで新人として、先輩たちを立てるという態度を通した。
私に対しても、彼女は、自分が後輩であるという姿勢を保って接している。
一緒に芝居を見に行ったりして、次第に親しくなったが、それにつれ、やはりこの人は、昔の職業意識から、抜けてないんだなあと感じることも出てきた。
昨年のこと、私が属している連句のグループに誘ったことがあった。
それは結社と関係なく、有志で和やかに集まっているグループである。
そういうグループは、結社の中に、いくつもあって、私は、そのグループが、自分の体質に合っていたので、昨年初めから参加していたのだった。
彼女が入りたいというので、私は、グループのリーダー格の人に相談した。
当然、受け入れられると思ったので、彼女ともすでに、一緒に行く打ち合わせまで、すませていた。
ところが、結果はノーであった。
リーダー格の人は、彼女が、グループの活動拠点から遠いところに住んでいるからと、理由を挙げたが、私は、本当のわけを察した。
彼女の輝かしい経歴が、その人の価値観と合わなかったのである。
彼は、彼女とは対照的に、社会の主流とは離れたところで、苦労し、権威によらない自らの能力だけで、生きてきた人であった。
豊富な知識も、詩的才能も、ほとんど独学で身につけたようであり、思想的にも、左寄りで、若い頃は、労働運動の現場にいたという話も聞いたことがある。
今は、そうした一線からは離れているが、権力や政治の中枢に対する激しい抵抗心は、時にチラと顔を出すときがある。
そんな人が、彼女のような、日の当たるところばかり歩いている人を、すんなり受け入れる筈がないのは、考えてみれば当然であった。
私は、趣味の世界のことだから、そういうことは、関係ないと思っていたのだが、彼の方は、反発が先に来たらしい。
私は、彼女が傷付かぬよう、「今は会員を増やさないようにしているらしい」ということにして、納得してもらおうとした。
ところが、それまで、人に拒否された経験のほとんどなかった彼女にとって、大変ショックだったらしい。
怒った彼女は、グループのリーダーとグループを非難するようなことを言った。
私は、不愉快になり、しばらく電話もメールも断って、彼女から距離を置くことにした。
彼女が、文字通りのタダの人だったら、これほど怒らなかったはずである。
自分は、どこにでも受け入れられるはずだという、思い込みがあったのである。
日頃、私に、必要以上に低姿勢で接してくれているのも、そうした思い込みの逆の感覚だったのだと、はじめて分かった。
ひと月ぐらいしてから、彼女の方から、電話があった。
自分が、長いこと培ってきたものは、あくまでその中でのことであり、どこにでも通用するものでないことを悟ったと、素直に認めていた。
私も、そのことは、それ以上追求せず、忘れることにした。
その後、何事もなく、1年過ぎた。
しかし、今日、また似たようなことがあった。
私の連句ボードで、今、付け合いをはじめたところである。
8,9人で、付け合いをしているが、彼女のところで、ちょっと停滞することがあり、彼女の忙しさを知っている私が、適当に処理して、先に進めてしまった。
長い付け合いであり、あくまでも遊びであり、あまり停滞しても次ぎが続かなくなり、他の人が困るので、進行係として、うまくまとめたつもりだったが、彼女は、自分が無視されたと思ったらしい。
怒って電話をかけてきた。
それを訊きながら、やはり昨年のことを思い出した。
連句というのは、ひとりひとりがあまり自己主張すると、うまくいかない世界である。
私も、自己主張の強い方で、共同作品としての連句とは、性格的に合わないと感じることもあって、時々、ジレンマに陥るが、この頃自分でボードを主催するようになって、人のことがよく分かってきた。
複数の人たちが、愉しめるように気を遣い、バランスを取り、ネット上では、ちょっとした言葉の使い方でトラブルを生むこともあるので、表現には、細心の注意を払っている。
彼女のことも、半ば、気を遣いすぎたための、行き違いであった。
彼女が付け句を出したが、前句に問題があって、作者の了解のもとに直した。
当然、付け句が合わなくなる。
そこで、いったん彼女の句をご破算にしてやり直してもよかったのだが、せっかくだから、彼女にもう一度出してもらおうとした。
しかし、彼女は、仕事で出かけており、夕方になっても応答がないので、私が、彼女の付け句のうち、これならと思うものを選んで、代わりに処理した。
それが、気に障ったのである。「付けてほしいというから付けを出したのに、勝手に変えるとは何事か」というわけである。
本当は、ネット上のことを、実生活でやりとりする必要はないのである。
このようにさせていただきましたが、ご了解下さいと、ボードで断っている。
ネット上でのメッセージで、充分なのである。
しかし、知らない人ではないので、気を遣って、留守番電話にその旨入れておいたのが、かえっていけなかったのであった。
ボードも見ないうちに、怒って、電話をよこしたのであった。
忍耐強く応対しながら、だんだん腹が立ってきた。
いったい何様だと思っているのか。
もちろん、留守中に、勝手に処理されてしまった怒りは分かる。
しかし、そこだけがすべてではないのである。
自分が時間のあるときに、ゆっくり付ければいい。
むしろ、「うまくやっていただいて有り難う」と言ってくれてもいいことである。
それが、プライドを傷つけられたと言わんばかりの怒り方である。
「私は忙しいんだから、すぐには答えられない」というなら、留守中のことは、進行係にお任せしますでいいではないか。
どこかに、自分はエライという感覚が働いている。
私は、気を遣いすぎた自分を反省し、無理して参加しなくても結構です、と言う態度で行くことにした。
こちらも、営利事業ではない。
全くの趣味でやっている。
連句の愉しさを、何とか、ネットで出来ないものかと、試行錯誤しながら呼びかけて、参加してくれる人には感謝しながらやっている。
生活時間も、忙しさもさまざま、その中でみなが愉しめるようにと、私なりに気を遣っている。
競争ではないから、急ぐ必要はないが、ボードが半日も止まっていると、流れが途絶えるので、そのかねあいが難しい。
意見交換は自由にと言うことになっているので、さかのぼって修正することもある。そんな中では、融通無碍でないと、うまくいかない。
ちょっと気にくわないことがあっても、まあまあと言うくらいの、おおらかさを持ってほしい。
そんなことを感じながら、私も、他人のボードだったら、似たような反応をするのかなと、ふと思った。


臓器の寿命
2002年10月04日(金)

先日、健康診断を受けに行った。
「どこか気になりところありますか」と訊かれ、そういえば胃の検査を、ずいぶん長いこと、やっていないのを思い出し、そのことを言った。
私の市では、毎年希望者にバリウムによる間接撮影をしてくれるが、それを受けていながら、癌で死んだひとを知っているので、どうせなら、胃カメラで直接見てほしいと言った。
そして、今朝「待望の」胃カメラを受けに行った。
この検査は、確か20年も前に受けたきりだと思う。
のどに麻酔をかけて、じっとしているのが、ひどくつらかった記憶がある。
その後10年ほど経って、バリウムの直接撮影をし、「爆状胃」などと言われ、「この次は胃カメラですよ」と言われたまま、ほってあったのである。
私の連れ合いは、臓器検査は毎年マメに受ける方で、その結果何事もなく済んでいるので、いつも私に「自分の体に対して怠慢だ」という。
身近に、癌の患者がごろごろしていて、そんな電話がかかってきたり、見舞に行ったりが最近続き、とりわけ神経質になっている。
私の方は、この2,3年の間に友人を3人癌でなくしているが、それは、その人の寿命だと思っているので、自分の身に引き替えて考えることはしない。
人間の体は、最もいい状態に保たれたとすると、120年ぐらいは保つと、きいたことがある。
でも、現実には、栄養や、生まれつきの肉体的欠陥や、外的ストレスのために、せいぜい長くて90年ぐらいがいいところであろう。
私の両親は、共に90歳前後、日本が貧しく、戦争のあった時代に育っていながら、長生きしている。
とりわけ母は、大家族の長男である父と結婚し、4人の子を育て、子どものデキが悪くて、人一倍苦労し、ストレスだらけの人生を送った筈なに、まだまだしっかりして、私や妹たちをあごで使っている。
人の寿命には、かなり個人差があり、生命力というのは、肉体的な条件とは、違うところにあるような気がしてならない。
私は、母に比べると、命に対してやや投げやりなところがあるから、生命力は、強い方ではないかも知れない。
寝る前に、「この薬を飲めば、眠っている間に安らかに死ねますよ」と言われたら、案外、受け入れるのではないだろうか。

胃カメラの結果は、胃の中に少し炎症(微爛)があって、刺激物は、食べないようにと言うことであった。
胃は、神経の影響が大きいという。
こんなに幸せな毎日を送っているのに、神経性の胃炎などにかかるとは、どういうわけかいなと、不思議に思いながら、麻酔で痺れたのどの不快感を味わいながら、自転車で帰って来たのであった。


野分
2002年10月01日(火)

台風が近づいている。
東京を直撃するかどうかは、定かでないが、念のため、テレビをつけて、時々情報を見ながら、パソコンの前にいる。

7月に、私はそれまで属していた、あるサークルを辞めた。
自分の意志と言うより、私の存在をこころよく思わない人の、詐術によって、辞めるべく仕組まれたといった方がいいかも知れない。
サークルの中では、私は、言うべきことは、その場できちんと言うという態度で、通してきた。
しかし、リーダー格の人は、もともと、女性からはっきり物を言われることの嫌いな人である。
サークルは、別に会長がいたが、事実上仕切っているのは、総合的な企画力を持ち、人集めの才に長けたその人だった。
会員は16人ほど、みな彼の識見、能力、詩的才能を認めて、基本的には、彼のやり方に納得している人たちだった。
特に女性は、内心はともかく、彼に従い、決して表面上逆らわず、頼まれれば、協力し、平和にやってきているように見えた。
そんなところへ、どうして私のような、人間が入ったのか、わからない。
彼の誘いで、時々ゲストとして、顔を出しているうち、「入りませんか」と言われ、私は、その会の雰囲気が好きだったので、喜んでメンバーに加えてもらった。
思ったことを、はっきりと言うところが、ちょっと面白いと、思われたのかも知れない。
メールの交換などを通じて、お互いのこともわかるようになり、ずいぶんいろいろなことを、教えてもらった。
博識で、感性豊かな彼から、学んだことは大きい。
しかし、そういう人には、関心を寄せる人も周りに沢山いる。
私が入るより前からいたある女性も、彼には、好意と興味を持っていて、彼の方も、自分よりずっと年下の彼女をかわいがり、会の中でも、彼女の存在は、特別のようだった。
彼女は、会計を受け持ち、会のホームページを作ることで、存在感を発揮した。
会の運営は、彼と彼女、会長と、もうひとりの若い男性との4人で、事実上、行われていた。
誰も異を唱える人もなく、車の4輪は、うまく回っていたのである。
そんなところへ、あまり大人しくない私が、入ったのである。
会の行事や、計画をめぐって、彼のワンマンぶりに、私が異を唱えることが時にあったりして、彼は、だんだん、私を、目の上の瘤と感じるようになったらしい。
また彼女の方も、それまで、一身に関心を集めていた彼が、私と共同作品などを作っていることに、面白くない気持ちがあったようだ。
今年の3月頃に、私のアイデアを、彼女が、シラッと自分のものにすり替えてしまうということがあった。
それは、会とは関係ないことではあったが、私は、そのことで、彼女を信用できない人だと思うようになった。
そのアイデアは、別の圧力で頓挫したが、彼女は、それを、私のせいだと思ったようである。
彼から来たメールで、彼のもとには、彼女からの一方的な情報が伝わっていたことを知った。
その計画は、成功すれば、彼女の手柄話になるが、うまくいかない場合は、私に責任をなすりつけられる可能性があったので、私は、早い段階で、身を引いていたのである。
しかし、情報が、いろいろある場合、人間は、自分に近い人のいうことを、まず信じるものだ。
彼が、まず彼女のいうことを信じ、私のいうことを、二義的に考えたのは、当然だったかも知れない。
それだけ、二人の間の情報交換が、上回っていたということになる。
それを、説明しようとすれば、彼女を非難することになり、それは、自分の人間を下げることになる。
それは、したくなかった。
つまり、私はええカッコしいで通したのである。
彼は、私の言うことが、曖昧で、よく分からないと言いながら、それ以上、訊いてこなかった。
それは、そのことで、一段落したと思っていた。
ただ私は、それ以後、彼女とは、一線を画すことにしたので、顔を合わせても、必要以上の会話はしないという態度を決めていた。
四月頃から、彼女が、会の例会を、ちょくちょく休むようになった。
連れ合いの仕事が変わって、忙しいということだったが、七月になって、私は、気になり、「どうしたんでしょうね」と、彼にメールで訊いてみた。
その返事が、何か、奥歯に物の挟まったようなものだったので、私は、何かあるなと分かった。
しかし、そういうことを明らかにしないのが彼のやり方であり、それは、彼なりの配慮であっただろう。
私もそれ以上、訊かず、表に出ないことは、ないものと思うことにした。
私のような人間は、いない方がいいのかなと思ったりしたが、彼の言う「悪い平和」を守って、行くことにした。
そのすぐ後に、私が、ホームページを、会のページにリンクしてほしいというのを、彼女は断ってきた。
納得のいかない理由だった。
そして、それに関して、二,三回彼とメールをやりとりしているうちに、「原因は、あなたと彼女の間に、以前からあるトラブルです。それを会に持ち込むのは不愉快だ、辞めてほしい」と、言われたのである。
私は、会にトラブルを持ち込んだという自覚はなく、それがどういうことか、はっきり説明してほしかったが、彼から答えのないまま、私の方から、辞めた。
他の会員には、何の関係もないことである。
それから二ヶ月経つ。
彼女からは、何も言ってこないし、もちろん、彼からも音沙汰はない。
私がなぜ急に辞めたのか、知らないメンバーから、電話がかかってきたが、いきさつを話すわけに行かなかった。
ただ、会長に当たる人には、きっかけになったことだけ話した。
しばらくは、私は、休んでいると言うことにされていたらしい。
会の内紛のような印象を、他の会員に与えたくないという、彼の老獪さの故であろう。
私は、そんなことを取り繕う必要はないので、誰かに訊かれると「辞めました」と、明言している。
大人しい女性たちは、私が辞めたことを知らされても、彼に気を遣ってか、何も言ってこない。
ただひとり、若い男性が、心配してくれて、会報などを送ってくれる。
その優しさに感謝しながら、今まで二年近く身を置いていたところから、一方的に、切られてしまったことに、悔しさと、憤りを感じている。
彼女の方は、最近会に復帰したという。
私がいなくなって、居心地が良くなったからであろう。
彼の方からも「そろそろ出てきませんか」などと、誘いがあったのかも知れない。
「よい戦争より、悪い平和の方が大事」というのが、彼の口癖であった。
「あなたは下手なのよ。自分が悪いとされるような方向に、自分から持っていってしまうのよ」と、私をよく知る人からいわれた。
「正しいことを云えばいいってもんじゃないのよ。それで、傷付く人もいるんだから」とも、云われた。
どちらも、人間社会で生きていくための、一面の真理であろう。
ただ、私が大きく傷付いたことは、確かなのだから、少しは、それを思いやってほしい。
私がいなくなって清々したと言わんばかりに、新しい人を会員にしたり、愉しそうな会合の様子を、ホームページで見せびらかすのは、ちょっとひかえてほしい。
ついこの間まで、参加していたプログラムに、私は、加わっていないのだから。



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