a Day in Our Life


1999年01月31日(日) 031:青い炎



 「徳井が怒ったん、初めて見たわ」

 唐突に訪れた静寂を破ったのは、どこか呆然とした小杉の呟きだった。
 そんなつもりのないいつもの楽屋トークのつもりが、思いもかけずに地雷を踏んだ事に驚く。何をそんなにピリピリしているのかも分からないままに、けれどどこかぎくしゃくした二人の空気を見て取って、直ぐにフォローをかけてきた。
 「俺、何や悪い事言うた?」
 そうなると、逆に恐縮をしたのは福田の方で、不発弾のような物足りなさで激情の波が過ぎ去ってしまえば、急速に現実を理解した。それでなくとも事情の分からない、小杉に非がある筈もなかった。
 「いえ、こっちこそ気ィ悪い思いさせてもうてすんません。ちょうここんとこアイツと上手い事喋れてなくて」
 率直なところをそのまま言ってみれば、じっと福田を見た小杉は、退院って何やねん、とごくごく自然なところをまずは突いてきた。そうなれば今更、隠す必要性も感じられなくて、一泊ではあったけれど入院をしていたのだと正直に告げた。そぅか、とそれ以上の病状を突っ込んでは来なかった小杉が何を考えているのかは分からない。僅かに首を動かして、閉まっているドアに目線を向けたのは、出て行った徳井に思いを馳せたのか。
 小杉にしてみれば、普段は温厚な徳井の、初めて見る顔だった。表面上、落とした言葉は当たり障りのないものだったけれど、随分と低く、うわ言のようだったその口調が。どこか鬱蒼と、面窶れたその表情が。何より福田から外した視線の先、何もない空虚を見る徳井の眼は、昏く深く、徳井自身の闇を映すようで。思わず小杉は、はっと息を飲んでしまったのだ。
 一瞬でも、激情を表してみせた福田とは違って、徳井のそれは静かにゆらめく、凍えるような怒りだったに違いない。だからこそあの時の徳井はつるりと滑らかな無表情を浮かべていて、その端正な顔から感情という感情が消えた途端、それはぞっとするほどの美しさを放っていた。
 そういうものに、恐らくは圧倒されてしまったのだろうと思う。だから今、目の前で恐縮する福田の抱える闇も、小杉には分かるようで分からない。福田が徳井の何に神経を逆撫でされたのか、徳井が福田の何に対して、そうまで怒りを見せたのか。
 だから、分かる事はただ一つ。
 「何や事情はよう分からへんけど。お前ら見た目は仲ええやんけ、やからそうやって苛立つ前に、ちゃんと相手と向き合えよ。言葉にせな分からん事も、世の中には多いねんぞ」
 それは、小杉なりの経験と哲学でそう、思えるものだったのかも知れない。ブラックマヨネーズは喧嘩漫才のイメージほどは仲が悪くは決してないし、むしろ互いを称え合うような気配すらある。相方の力量を認めたうえで、それを敬う。きちんと伝えるから、絆が強いのだ。
 そう出来ればどんなにかよかっただろう。昨今、ちょうどいい比較対象として天秤的に扱われることも多い自分達2コンビは、差別化の意味合いも濃く、どうあっても互いにはなり得ない。だから彼らを羨ましいと思っても、そんな風に真正面から、向き合う事は自分達には難しかったのだ。
 それでも今、小杉の言葉は身に染みた。少しだけ乱暴に、背中を叩かれた気になった。
 先に出た徳井を追って、自分も行かなければならない。そろそろタクシーが着く頃だった。どの面を下げて徳井を見ればいいのだろう。どんな顔をして、徳井は福田を迎えるのだろう。
 「言葉にするんも勇気や思うぞ、福田」
 ずっと、自分の立ち位置は微妙すぎると思ってきた。養成所を出ていないから、他の芸人達との距離感が掴みにくい。それに元来の性格が付加されて、随分と卑屈気味に立ち回ってもみた。今、コンビとしては同期でも気持ち的には先輩である小杉は、まさに先輩の顔をしてそう言った。それこそが、立ち往生をしていた福田をごくごく自然に後押ししてくれた、小杉の肝煎りなのだった。
 「…そう、やと思います。ホンマに」
 それは小杉なりの優しさに違いなかったと思う。珍しく一切の茶化しもなく、至って常識的なアドバイスを寄越した小杉が、言って満足したのか、僅か笑みを浮かべる。小杉が福田や徳井を、ひいてはチュートリアルをどう思っているのかは知らない。けれど今、確実に自分は愛されているような気がした。可愛がってくれる先輩がいるというのは、上下関係の苦手な福田にとっては特に、ありがたくも嬉しい事だった。
 「そろそろ時間ちゃうんけ?もう行けや」
 最後まで気の回る先輩に背中を押されて、荷物を持ち上げた福田は、黙って礼を一つ。そしてドアを開けて、部屋を出た。







 荒い足取りで廊下を歩く徳井は、自らの奥底から湧き上がる何かに支配されて、周囲が見えなくなっていたらしい。だからゆったりとした足取りで、向こう側からやって来た吉田とぶつかりそうになるまで、その存在に全く気付いていなかった。
 肩と肩がぶつからんばかりの至近距離で、その時の徳井はそれすらが鬱陶しい、と無言のまま顔を上げる。少し睨むような目線になったのかも知れない。顔を上げて相手を見、それが吉田だった事をゆっくりと理解した。
 「…お前、何ちゅう顔しとんねん」
 一方の吉田は気を悪くした様子もなく、むしろ徳井の普段ならぬ様子に興味を惹かれたようだった。言われた意味が分からない、という表情を浮かべた徳井に、子供に言って聞かせるような口調で、
 「鬼の形相になっとんで」
 それ、と徳井自身を指さした。普段、ネタで吉田がそうするように、言われてつるりと自らの頬を撫でた徳井は、それでやっと、毒気を抜かれるように幾ばくかの表情を和らげる。
 「…すまん、」
 謝るべき事だったのかどうかは分からなかったけれど、何となく徳井は、謝ってみた。吉田に対してというよりは、もっと曖昧なものに対する懺悔だったかも知れない。
 珍しく感情の昂ぶるままに、逃げるようにその場を去ってきてしまった。それが何に対する苛立ちだったのか、自分でもよく分からなかった。邪気のない小杉の言葉。どこか茫然とした福田の糾弾。福田の左腕。
 徳井の目の奥が、ゆらりと揺れる。
 「お前ちょう、疲れとるんちゃう?」
 不意に、吉田が言った。働きすぎやねん。ちょっとは俺らにも仕事分けてくれよ、と言った吉田は、茶化す振りをして、柄にもなく本当に心配をしてくれているようにも見えた。
 「まあ、頑張りーや。ほなな」
 特別、何も聞かずに去っていく吉田に現実を教えられる。その背中をしばらく見送った徳井は、のろのろと玄関に向かって歩き出した。



***



kaleidoscope【31】
2007/09/21 Toshimi Matsushita

1999年01月30日(土) 030:なゐふる



そのとき、福田の胸に去来したものは何だったのか。
言葉にできない諸々のものが一気に込み上げてきて頭の芯がカァッと熱を帯びていくのがわかった。それは怒りにも似た。どくどくと血がめぐる音がやけに煩かった。
衝動のままに叫びそうになった福田を押しとどめたのは、川島の腕時計の感触だった。カチカチと確かに時を刻む秒針の音が、速まりかけてた福田の鼓動を宥めるように響く。川島に大丈夫、といわれているようで福田は小さく深呼吸する。
だが、一度火のついた激情はおさまらなかった。
「もう、ええわ」
疲れた、と口に出してしまえば、思いのほか疲れている自分に気がつき、福田はずるずると座り込む。わずかに表情に陰りを残した徳井が、煙草を揉み消し近づいてくる。
「福田?」
「大概にせなアカンのはどっちやねん」
これ以上口にしたらいけないと冷静な自分が止める。どう答えても正解にはなりえないと。だがそれを振り払って出した声は恐ろしいほど乾いていた。
「あぁ、川島のところで世話になっとるよ。せやけど隠してたわけでもないし。第一、俺はお前に何でも話さなあかんのか? なぁ、徳井」
久しぶりに見据えた正面からの徳井の顔。少しだけ面窶れしたようだった。
端整なその顔に浮かぶ繕った無表情が少しだけ怖いと思う自分が滑稽だった。人生の大半を共に過ごしてきてなお見たことのない徳井だったから。
福田は自覚的に腕時計に触れる。大丈夫、大丈夫。――大丈夫。
「ちょっ、落ち着けや」
深い事情がわからずとも、おかしな空気になってきたことに小杉が遮れば、徳井は福田から目をそらす。
「別に……ただ心配やったから。お前、退院したてやし。相方頼らんなんて水臭いわ」
オクターブ低いトーンでつぶやいた徳井に福田のみならず小杉も言葉を失う。そんな二人を一瞥すると徳井はそのまま荷物を引っ掴み、足早に楽屋を出て行く。
福田は呆然とその背中を見送った。

***
**

「そんで徳井もな、福田のブレスいまだに大事にしてんねん」

それとも今だからこそ、だろうか。
交換した当初はもっと軽いノリで冗談でお守りにしようなんて笑っていたのかもしれない。エンゲージリングの交換みたいや、とふざけて口にして福田にしばかれたかもしれない。幼馴染の延長上で無邪気に笑ってじゃれついていたであろう二人が見てもいないのに脳裏に浮かぶ。
だが、徳井に話を聞いたときのことを思い返そうとするが、頭に靄がかかったかのように思い出せない。無理もない。かれこれ十年近く昔の話なのだから。当事者たる徳井に聞いてもいまさら教えなおしてはくれないだろうけれど、聞きたいと思った。

「あいつは俺が気づいてないと思うとるようやけど、肌身はなさず持ってんの知っとんねん」
腕に巻いていないときでも、鞄やポケットに忍ばせているところを何度となく見ているのだ。それだけ、徳井のことを目で追っていたのかと思えば、眩暈もするけれど、不思議と嫌な気分ではなかった。
そんな後藤の気持ちが伝わったのか。川島は神経質に唇をさすると、そこを湿らすようグラスに手を伸ばす。長めの前髪越しに覗く目は、動揺しているようにも、何かを覚悟したようにも見えた。
そのとき何かを思い出したのか、口元がゆるりと笑みをかたどる。その表情がハッとするほど徳井の浮かべるものと重なっていることに川島は気づいているのだろうか。思わず見惚れた後藤に川島はさらに口角を上げる。

「後藤さん」
「なんや」
「俺、あの人のブレス、外しました」
「……は?」
「それで、俺の腕時計あの人の腕に巻いたんです。それって、徳井さんと同じことしてるっちゅうことですかね? 福田さんを縛り付けるってことになるんでしょうか。福田さんのこと、傷つけてしまったんやろうか。ねぇ、後藤さんどう思います?」
教えてくださいよと嘲い、俯いてしまった川島が、泣いているように見えた。
あぁ、ここにも迷っているやつがいる。後藤は頭を抱えたくなる気持ちを抑えて、テーブル越しの川島の頭に手を伸ばし軽くツッコミを入れる。
「あほか。辛気臭い顔、すんな」
「いったいなぁ。なんですか、いきなり」
「あの根っからの一人好きが、川島のところに居るだけでも凄いことだと俺は思うな」
「……うわ、うそくさい標準語、さぶっ」
わざとらしく標準語で格好つけて、それでも本音を伝えれば、呆気にとられたように顔を上げた川島の表情が少しだけ和らいだことに、後藤は安堵する。兄さん実はアホなんちゃいますと毒づいてくる川島をいなして後藤は追加注文をする。今日はとことんまで酔いたい気分だった。



***



kaleidoscope【30】
2007/09/20 Kanata Akakura

1999年01月29日(金) 029:初期微動



 「…あ、」

 その日の収録が無事に終わり、楽屋に戻りながら、福田は誰に言うでもなく一人、呟いた。
 自動書記気味に考えに耽っていたのだろうと思う。だからその時の自分が何を考えて、その事に思い至ったのかは分からなかったけれど、不意に脳裏に浮かんだ事柄に、一瞬困ったような表情を浮かべる。
 どうしようか…逡巡するように考えを巡らせて、結局福田は、ポケットから携帯電話を取り出す。マナーモードにしていたそれを解除して、メモリーから相手を呼び出した。こんな時間に電話をしてよかったかは分からなかったけれど、出なければ留守番電話にメッセージを入れておけばいいと思った。
 どだい、それすらがたぶん、言い訳に過ぎなくて。福田自身、ただ声が聞きたいのだろうとも思った。
 ちょうど思いついた用事にかこつけて、川島の声が聞きたいだけなのだ、と。
 ここ数日あまりに傍にいすぎたせいだったかも知れない。東京に川島を残して、遠く大阪までやって来た瞬間に、何だか頼りない気持ちになってしまった。それを不安感だと決め付けるのも勇気がいったけれど、結局のところ、自分はただ、怖いのだろうと思った。
 何を。怖いと思うのか。徳井と二人きりになる事だったか。
 自分の中で、少しずつ何かが変わっている予感がしていた。変わっていく自分を、徳井はどう思うのだろうか。
 コールを鳴らすと、案外あっさりと通話が繋がる。少し多いくらいの数コールを待って、電波の向こう側の川島は、少し慌てた口調で福田を呼んだ。
 『福田さん?どないしはったんですか』
 声の背後が少しだけ騒がしい。外なのだろうな、と思った。それ以上は考える事もなくて、数時間ぶりの川島の声を聞く。
 「川島。ごめんな、急に電話して…今、大丈夫け?」
 『いえ、大丈夫です。それに、』
 一拍の間を置いた川島は、続きを一瞬、躊躇ったのかも知れなかった。それでも余程大事そうに、言葉を続けた。
 『声が聞けて嬉しいし』
 屈託なくストレートに告げられた言葉に、電話を持つ福田が顔を赤くする。声が聞きたかったのは自分も同じだったのに、川島に先に言われてしまった。
 「…あんな、大した用ちゃうねんけど、」
 自分も素直にそう、言えたらどんなにいいだろうと思うけれど、結局言えずに本題に入ってしまう。それでも受話器から届く川島の声がひどく懐かしく、嬉しくて、ぎゅっと耳に近づけた。そうすると今日、左手首に巻いたばかりの川島の時計が視界に入って、何となく、心が落ち着く自分に驚く。
 「今朝、朝メシに作った煮物の鍋をコンロに置いたままにしてきてもぅたん思い出して。夏場やから常温やとすぐ悪なってまうから、帰ったら中見て、まだいけそうやったら冷蔵庫に入れといてくれるか」
 アカンな思たら捨てといてくれてええから、と続く福田の言葉に、川島は少し笑ってしまう。随分と所帯じみた会話が可笑しくもあり、ひどく幸せだろうとも思った。
 『了解。あと、明日までに何か買うとくもんありますか?』
 「…そやなぁ…、ほんなら合い挽き肉と玉ねぎ買うといて。明日は久々にハンバーグ作ろか思て」
 『いいですね。ほな、後は適当に買うときます』
 「おう。頼むわな、」
 『はい、…じゃあ。福田さん』
 うん、と妙に篭った相槌になった。通話の終わりを予感したせいだったとしたら、随分とセンチメンタルだと思った。どうにも女々しい自分にため息が出そうになる。川島を前にすると、弱くなる自分がいる。たぶん電波の向こうの川島には、そんな事もきっと簡単に看破されて、だから川島が少しの間を置いて、随分と柔らかな声で、
 『また明日』
 そう言った言葉を耳にこびりつけるように。余韻を残して切った電話の下、腕時計の針は、残りあと10数回。





 僅かに1分でも、秒針が一周すれば確実に時は刻まれる。そんなものをぼんやりと見ていたから、背後から近づく気配にまるで気付いていなかった。
 「福田、何ぼうっと突っ立っとんねん」
 よく通る高めの声を掛けられるのは、今日二回目だった。振り向くと思いのほか近くにいた小杉が、僅かに値踏みするような目線になった。
 「妙な組み合わせやなぁ。今の川島やってんろ?」
 何や会話おかしかったけど、お前ら一緒に住んどんの?
 気付かないうちに最初から会話を聞かれていた事に軽い眩暈を覚えつつ、あれだけの会話で核心を突いてくる、小杉の鋭さと判断の早さに二度驚く。果たしてどう答えればいいものか、途方に暮れた福田をよそに、ゆっくりした歩みで福田に近づいた小杉は、足を止めることがない。
 「ちゅーか、廊下で立ち話もおかしいやろ。お前も楽屋戻るんけ?」
 続きは楽屋で、と言う事らしい。もう目と鼻の先だった楽屋のドアを開けて、小杉がさっさと中に入っていくのに続いて、福田も止まっていた足を動かす。ドアノブを手に、部屋に入った瞬間に、しまった、と思った。
 電話をして出遅れた自分より先に、中には先に徳井が戻っていたのだ。この後にももう一つ仕事が残っていたから、もうしばらくしたら移動のタクシーが自分達を迎えに来る筈だった。咥え煙草のままごそごそと鞄の中を弄りながら、帰り支度を始めている徳井は、続けざまに入ってきた小杉と福田には特に気にした様子もない。その徳井に小杉が声を掛ける。
 「お前、知ってたけ?福田、今川島と住んどるらしいやん、」
 扱い的には同期で、ライバルであり絡みも多い付き合いの中の気安さで、小杉はあっさりと地雷を踏んだ。瞬間、じわりと肩を強張らせた徳井の僅かな反応に気付いたか、気付かなかったか。
 渦中の福田は徳井以上に、全身を強張らせる。徳井には何も告げていない。それでなくとも何をどう、伝えればいいのかも分からなかったのだ。
 「…へー。そうなん?俺、聞いてへんかったわぁ」
 顔を上げた徳井は口元に笑みを滲ませて。お前なぁ、仮歯に続いて隠し事多すぎやろ、事後報告も大概にせぇよ、と冗談めかして茶化してくる徳井の顔を、もう、まともに見る事は出来なかった。



***



kaleidoscope【29】
2007/09/19 Toshimi Matsushita

1999年01月28日(木) 028:釦



福田はその細い手首にはめた腕時計を何度も何度も確認するように触れる。
出掛けに川島から借りたそれは、何度確かめても正確に時を刻んでいた。早くまわったらおもろいな、と思った自分に福田は今朝交わした会話を思い出して小さく笑う。

なんてことのない他愛もないお喋りをしながら、川島と並んで駅まで歩く。
以前の生活ではありえなかったシチュエーションに、まだ三日目だというのに急速に馴染んでいく感覚が不思議と心地よかった。

「福田さん、どうしはったんですか?」
軽くなったそこに違和感を覚えて無意識に手首をさすれば、目ざとく見つけた川島が首をかしげる。
「やぁ、なんか、ちょぉ、変な感じやねん」
手をひらひらさせて苦笑した福田の目に、少しだけ寂しげな光が宿る。だからといって今までつけていたブレスを巻くつもりはなかった。
川島の部屋に置いてこようとも一瞬考えたが、それは違う気がして、いま福田の鞄の一番底の部分で眠っている。

「そうですねぇ……ほな、これ使てください」
しばらく考え込んでいた川島は、ひらめいたように微笑み自分の腕にはめていた腕時計をはずすと、福田の手首にそっと巻きつける。
いくら福田の手首が華奢だからといって、女性に比べれば骨太だったから、ずるずるになることもなく少し緩いくらいに嵌るそれ。今まで巻いていたブレスレットよりも少し重くて、なんだかそれが心地よかった。
「借ってええの?」
「はい。多分これが一番福田さんのサイズにあいそうやから」
上等の笑みのオプションに福田は遠慮も忘れて、時計を凝視する。
「それにね、この針が20回まわった頃にはまた会えるって思えば寂しくないでしょ?」
「あほか」
なんて恥ずかしいことを言うのだろうと川島の顔を見れば、ポーカーフェイスを保とうとしているくせに言ったそばから紅潮していく頬。
自分相手に一生懸命背伸びしてくれている川島に、不意に胸の奥がぽっとあたたかくなるような愛しさが込み上げてきて、福田の目許もほころんだ。


***
**

徳井は二日酔いだけでない重い頭を抱えて、新幹線の車内にいた。
煙の立ち込める喫煙車両の中、徳井も倣って煙草に火をつける。思いっきり吸い込んで肺いっぱいにニコチンが満たされていく感覚に身を委ねれば、少しだけ頭がすっきりしてくる気がした。
これからある仕事のこと、今朝の後藤の様子、舞台のこと、ネタ作り。考えることはたくさんあった。考えなければいけないことだとわかっていた。それでも抜けきらない倦怠感に、面倒臭さが勝って、思考することを放棄する。なるべく頭を空っぽにしようと努力すればするほど浮かび上がってくるのは結局福田のことだった。
ヘビースモーカーである徳井と違って福田は禁煙車両だから様子は見れない。だが、どんな風に過ごしているかは容易に想像がついた。
きっと愛用のアイマスクをして仮眠をとっているか、愛読書である立ち飲み屋の紹介本かバイク雑誌を読んでいるか、もしかしたらPSPでもやっているかもしれない。PSPという単語からゲーム好きな後輩のことまで連想してしまい、徳井の喉を苦いものが通る。
徳井の脳裏には、はっきりと見たわけではないのに、昨夜の後藤が話していた情景がくっきりと浮かび上がっていた。川島が福田を壊れ物を扱うかのように抱えるさま。
本来だったら、その役は川島ではなく、徳井のはずだったのに。どこでどう、ボタンを掛け違えてしまったのだろう。沸き起こる苛立ちと焦燥感に駆られて、癖のようにブレスに触れようとして、テーブルの上に置きっ放しできてしまったことに気がつき息を呑む。あのブレスレットは徳井にとって頼りなくても拠りどころだというのに。あぁ、本当についていない。煙を吐き出した後、浮かんだ笑みは自嘲気味に歪んだ。


「おはよう、徳井くん」
「はよぉ」
テレビ局の廊下を早足で歩く徳井の背中からぶつけられる声。振り向かずともわかる相方の声。
早足で駆けたくなる衝動を抑えて、振り向けば案の定福田の姿。
「同じ新幹線やったんかなぁ」
「そうみたいやなぁ」
「何や、めちゃくちゃ眠そうやないか、お前」
「まぁ、まぁ、寝たかな」
なんやぁ、ほんまに寝たんか?と心配そうに見上げてくる福田の顔を見たのが久しぶりな気がして徳井はさりげなく目をそらす。そして逸らした先の、福田の手首を見て徳井は言葉を失う。

いつからか福田と真正面から向き合うことができなくなった。
顔だったり、後姿だったり、こっそりと窺うようにして福田の姿を確認して。そんな時、福田の手首に交換した自分のブレスレットが巻かれていることにいつも安堵していたというのに。物に執着しない福田の、そのブレスレットだけは特別だというように常に身につけているということが、どれだけ徳井の心を安定させてくれていたことか。
だが、今、福田の細い手首には違うものが巻かれていた。初めて見る腕時計。サイズのあっていないことが気になるのか、しきりにそこに視線をやっては、時々口元をむずむずさせている福田のどこか楽しそうな顔。
「とくい?」
「福田こそ、寝れとんの? 顔てっかてかで体がりんがりんやないか」
ようやく切り替えした言葉に福田は小さく顔をこわばらせる。しまったと思ったときには福田の表情は苦笑めいたものに変わっていた。
「いっつものことやないかぁ」
「さよけ。ならええわ」
なんとなく重くなる空気。こんなもの望んでいないのに。徳井が再び口を開こうとしたとき、前方から見慣れた友人がやってくる。小杉だ。
徳井と同じように気づいた福田が挨拶すれば小杉の顔に人の良さそうな笑みが浮かぶ。
「よぉ、同伴出勤やないか。相変わらずやのう。あぁ、せや、吉田が徳井くるの待っとったんよ」
救われたような気持ちで無駄口をたたきながら三人は楽屋に向かった。



***



kaleidoscope【28】
2007/09/14 Kanata Akakura

1999年01月27日(水) 027:内交渉



 指定した店に着き、奥の部屋に入ると、川島はもう先に来ていて後藤に気が付き、軽く手を上げた。

 「もう着いとったんか。遅なってすまん」
 「俺も今来たとこですよ。思ったよりはよ終わったんで」
 「悪かったな、急に呼び出して」
 「いえ、後藤さんの誘いは嬉しかったですよ」
 事務的な会話を交わすうち、店員がお通しを持ってやって来る。とりあえずビール、と注文を入れて、川島の向かいの席に着いた。ジーンズのポケットから煙草と携帯を取り出す。一本に火を点けたところですぐに店員がビールを運んできた。
 「ま、とりあえず」
 指に煙草を挟みながらジョッキを持ち上げる。川島も同じ動作でちょっと合図して、ぐいと一口を煽れば、まだまだ暑い晩夏の外気に火照った体へ、冷たい喉ごしが爽快だった。渇きを潤して、ごと、とジョッキを置けば、一瞬の空白が過ぎた。
 何から話したものか、と考えたのはお互いだったに違いない。勘のいい川島が後藤の意図に気付かない筈はなかったし、後藤は後藤で、川島の思惑を窺っていた。
 咥えた煙草から、ふう、と息を吐き出す。紫煙の向かう先へつい目を細めれば、そんな後藤の様子をじっと見ていた川島のほうから口を開いた。
 「後藤さん、疲れた顔してはりますね」
 オンの気を張った状態から、オフのリラックスした状態へ。素の姿を晒した後藤の表情は、素であるがゆえに、年相応に疲れて見えた。目の下のクマが色濃い。肌もいつもより少し荒れていて、寝ていないのではないかと思った。
 「昨日、徳井さんだいぶ飲んだはったみたいですけど、大丈夫やったんですか」
 ずばりと斬り込んでみる。駆け引きは苦手だし、後藤相手に策を弄しても無駄な気がした。
 面倒見が良くて後輩受けもいい、兄貴肌の後藤の事は、川島も内心で尊敬をしていた。色んな意味で芸人らしい後藤の生き方は、真似は出来ないまでも商売敵として、注目に値する。コンビとしてのフットボールアワーも、川島としては、いつか越えるべき壁だと思っていた。
 そんな後藤はだから、後藤らしい神経の細やかさで、徳井を気遣っているのだろう。一応、養成所では半年後輩になるけれど、芸歴としては上。ライバルであり気心の知れた友人でもある。互いの才能は認めつつ、球威と嫉妬がない筈がない。そんな二人の関係は、川島が思う以上にややこしいのかも知れなかった。
 それはある一面で執着とも言える。徳井に対して特別な何かを後藤は持っているのではないか。そしてそれは、自分と少しでも違ったか。
 「おぉ、あんなデカい男家まで連れて帰るん大変やったわ」
 笑って誤魔化した後藤は、質問の答えを微妙に摩り替えた。そっちはどやってん、と直ぐに切り返してくる。
 「福田もだいぶキとったけど。しかもおまえ、方向おかしなかったか?福田のホテルあの辺ちゃうやろ」
 何かを問いかけるようにじっと目を見られる。それに対してどう答えようかと、川島が迷ったところで、不意にテーブルの上の携帯電話が震えだした。
 「あ、電話や。ちょうすみません、」
 小窓から発信者の名前を見て取った川島が、さっと表情を変えて、慌てて立ち上がる。小走りで店の外に出て行く様子があまりない姿で、後藤は何となくその背中を見送ってしまった。よっぽど大事な電話だったか、それともよほど大事な人の。
 後藤自身は素晴らしく勘が働くタイプだとは思っていない。そんなに聡い人間だとは思わないし、たまにびっくりするほど鈍い自分も知っている。けれど今回、何となくざわざわする感覚は確信に近かった。だから今の電話も、根拠もなしに相手が誰だか、分かる気がする。そしてそれが恐らく、間違ってはいないだろうとも。
 しばらくして、行きと同じく早足で戻ってきた川島は、またすみません、と言いながら席に着いた。通話を終えた携帯電話を大事そうにテーブルに置く仕草に、少しばかりの余韻を感じた。
 「で、何の話でしたっけ」
 「今の、福田やろ」
 改めてのタイミングで口から出た言葉がものの見事に被った。ぽかん、とそのままの状態で口を開けた川島が、後藤を見る。
 「なん、」
 「おまえ、福田が好きなん?」
 唐突だろうが考えなしだろうが、どうでもよかった。確信を持っている間に聞いておかなければ、もう二度と話題にする事もない、と思った。責めるでも揶揄うでもない、ただ淡々と問うただけの、その質問を手のひらに乗せて、川島は一瞬、黙り込む。
 「ずいぶん不躾なんですね」
 「まどろっこしいのは好きちゃうねん。面倒やろ」
 「後藤さんらしいっちゃーらしいけど」
 言った川島はふふ、と笑う。そうすると年相応で、数えるほどでも年下なぶん幼く感じる。女受けするそのはにかんだ笑い顔は、誰を想ったものだったか。
 「好きですよ」
 宣言をするように、言った川島は随分と涼やかな目をしていた。まるでここにはいない福田を見るように、目を細めて唇だけで笑う。その微笑みが言葉以上に、正解を語った。
 「やから昨日も、俺んちに帰る途中やったんです」
 ついでに先ほどの質問にも答えてみせた川島は、少しだけ昔話をした。後藤にだから躊躇なく話せたのかも知れない、突然の腹痛騒ぎから、一気に加速した今の展開まで。田村以外の誰にも言っていなかった秘め事を第三者に話したことで、何となく肩から力が抜ける。誰かを好きだと想う気持ちを人に話して聞かせた事はなかった。口に出せばそれだけ、また大切な想いが降って落ちる。
 一息ついたところで改めて、目の前の後藤を見た。
 「それを言うなら、後藤さんはどうなんですか」
 徳井さんの事どう思ってるんですか。問いかけてみれば、後藤の全てが止まる。動きも、表情も、思考でさえ。
 徳井をどう思うのか。その答えはまだ、後藤の中であまりに不確かだったのだ。
 「どうやろな……分からん」
 …ホンマやで、と言い募った後藤は、言葉通りに持て余しているらしかった。川島のようには消化出来ていない。この気持ちも、何もかも。
 「俺、徳井さんの事はホンマ認めてるんです」と、川島は言った。
 スゴイ才能や思うし、男前やし、実際モテはるんやろうし、人柄もええんでしょう。けどね、と続いた。それでもあの人は人間として、何かが欠けてるとは思いませんか。相方ひとり大事に出来んような男が、一体他の何を守れるいうんですか?
 「やから俺は、徳井さんが出来んなら。俺が福田さんを守りたい思うんです」
 救いたい、とも聞こえた。川島の言う事は、全く間違っていなかったけれど、それでいて妙に切なかった。胸を抉られる感覚がした。果たして何を切ないと思ったのか、残酷にもそれがそのまま、後藤の考えと合致していたからか。それとも、徳井という男の抱える矛盾そのものを不憫に思ったか。
 川島が福田を救えたら、徳井も救われるかも知れない。彼らの悪循環も、解放されるのかも知れない。
 果たしてそれが正解なのかは、後藤には分からなかったけれど。そして彼らがそれを望むかも。
 「川島、福田のブレスレット。いつも付けとるやつ、知ってるよな?」
 「えぇ、」
 急に話の矛先が変わった事で、川島が多少、虚を突かれた顔をする。川島は知っていただろうか。今更、福田が話題に上げるとも思えなかった。
 「あれな、元々は徳井のやねん。コンビ組んだ時に冗談で交換したんやて」
 「え…」
 川島の顔色が変わる。一瞬にして様々なイメージが頭を駆け巡った。癖のようにいつも、気がつけば触れていた姿を思い出す。痕がつくほど握り締めていたそのブレスレット。外して欲しいと言った、震えるような福田の表情まで。
 後藤はもちろん、川島と福田のそんなやりとりまでは、知る由もなかったのだけれど。ぐらりと揺れた川島の表情をじっと見、福田にとっても尚、それがいまだ効力を失っていない事を知る。
 徳井にとってそうであるように、福田にとってもそれはもはや、手枷でしかなかっただろうか。

 今の福田からそれを取り外してやれるのは、恐らく川島しかいないのだと思った。



***



kaleidoscope【27】
2007/09/13 Toshimi Matsushita

1999年01月26日(火) 026:朝涼



抱き合って眠った翌朝というのは、こんなに照れるものだっただろうか。
起き抜けのぼんやりとした頭で福田は考える。遠い昔、同棲していた彼女との朝はもっとあっさりとしていた気がするし、もっと淡々としていた。そのせいで彼女と喧嘩別れしたことさえあったというのに。それとも相手が他ならぬ川島だからだろうか。うっかりアラームよりも川島より早く目を覚ました福田は、川島の腕の中でつらつらとそんなことを思う。意志の強さを表すきりりとした眉も、意外と長い睫毛も、福田の欲しい言葉をくれる大きな口も、今は無防備な表情で。川島を起こさないよう、そっと腕の中から抜け出そうとして、失敗した。福田が川島の背中からそろそろと腕を外した途端、川島の双眼がゆっくりと開かれる。
「ふくださん」
「すまん、起こした?」
「いえ、おはようございます」
「ん。おはよ」
くあっと大欠伸をかまして、ゆるゆるとした笑みを口元に浮かべる川島に福田も小さく笑う。
「川島、寝癖ついてんで?」
もふっとした寝癖に手をやれば、川島は少しだけ情けない表情を浮かべる。それが妙に可笑しくて笑いの止まらなくなった福田をあやすよう、川島も福田の髪をすく。その感触が気持ちよくて目を細める福田に川島も穏やかに笑った。

ふわふわとした心持で起き上がれば、起床予定時刻よりも30分も早い。
てきぱきと身支度を始めた福田にならい、川島もこまごまと動き出す。
「福田さん、今日は大阪でしたよね」
「せやねん」
自分でも気が付かないくらいの影を滲ませた福田に気付いて、川島はことさら明るい声を出して福田の頭をぽんぽんと叩く。
「俺と離れるの寂しいですか? 俺はめっちゃ寂しいです」
「あほか」
赤く染まっていく頬を押さえながら憎まれ口を叩くくせに、福田は川島のしたいようにさせてくれる。そんな些細なことさえ川島の心を充たすのだと福田は気付いているのだろうか。
「土産、なんか買うてくるわ」
そっぽ向いたままポツリとつぶやいた福田を川島はそっと抱きしめた。

***

ロケバスの中、後藤はポケットから携帯を取り出すとメール画面を呼びし、用件のみのシンプルなメールを送信する。
勘のよい川島はきっと後藤の誘いに込められた意味に気付くだろう。そしてスケジュールが合う限り断ることもないはずだ。
まだ結構早い時間だったし、すぐに返事が来るとは期待していなかったから、無造作に鞄に放り込む。その拍子に入り口に引っかかったストラップがブレスレットを連想させた。

後藤の接近にも気付かないほど深い眠りについている徳井の左手に、全神経を集中して手を伸ばす。ブレスレットは、呆気ないほど簡単に外れた。
後藤の目には手枷のようにも映っていたそれは、手にしてみれば実際ただのブレスレットでしかない。
真夜中というのは人をセンチメンタルにさせるものなのだろうか、それでもそのときは、外れたことで何かが変わればいいと祈るような気持ちだったのを覚えている。

物思いに沈みかけた後藤を現実に引き戻すように携帯が震えだす。
まさかと思いつつ携帯を開けば、川島からの返信メールだった。後藤が送ったものと同様、素っ気無い用件だけのメール。
だがそれで充分だった。

「ごとう、こわいかおしてんで」
隣に座っていた岩尾の声で顔を上げれば窓に映る自分が目に入る。
隠し切れない疲れを滲ませて、眉間に皺を寄せた、年齢よりも老け込んだ姿。
「悪かったな、地顔じゃ」
「せやったらええねんけど。煙草吸えば?」
「否定せぇや、あほ」
独特ののんびりした口調にイライラすることもあるけれど、今はなんだかほっとした。



***



kaleidoscope【26】
2007/09/11 Kanata Akakura

1999年01月25日(月) 025:夢現



 真夜中、うつらうつらと眠りに落ちかけた後藤は、ごくごく小さな呟きに目を覚ました。

 番組でリフォームされたのだという、天蓋付きの妙にエロチックなベッドはひどく寝付きが悪かった。暗がりで目を凝らせば、狭い隙間に毛布に包まる徳井の姿が見える。半ば強引に泊まったというのに、これではどちらが家主か分からない、と後藤は改めて苦笑する。目を覚ましたきっかけは何だったか、空耳だったかも知れない、と後藤が改めて目を瞑ろうとした時。
 「…く、」
 やはりその呟きは、間違いなく眠る徳井から発せられたものだった。
クローゼットに向かって背を向けているせいで徳井の表情までは分からなかったけれど、随分と辛そうな、徳井の声。
 「ふく…」
 何の夢を見ているのか、それだけでもう、分かる気がした。
 珍しい徳井の深酒の理由も。新居に引っ越して以降、寝覚めが悪いのだ、と言っていた徳井の言葉を思い出した。深すぎる眠りは目覚めた時の現実感を奪い、見ていた夢すら思い出せない。
 今、福田の名前を呼んだ徳井は、果たしてどんな夢を見ているのか。何を思って、苦しんでいるのか。搾り出すような切実な声は、ひどく哀れを誘った。後藤は思わず身体を起こして、その様子を窺ってしまう。
 寝言に話しかけてはいけないと言う。会話を交わす事で、より深いところまで潜ってしまうのだ。
 「徳井、」
 この声は徳井に届くだろうか。もし届いたなら、それはどう聞こえるのだろうか。名を呼ぶそれは、後藤の声をしていたか、福田の声をしていたか。
 ベッドを起きだし、近づいて、上から徳井を覗き込む。眉間に皺を寄せて、薄っすら汗ばんだ徳井の顔には苦悶の表情。それらを振り払うように、首を振る動作で寝返りを打った拍子に、毛布から腕がはみ出した。
 その、左腕には見慣れたブレスレット。最近は久し振りに見たような気がした。随分とくたびれたそれは、10年以上も愛用しているのだから当然だった。それはそのまま、彼らの関係に重なって。惰性のようにそこにある存在は、徳井にとってもう、苦しいだけのものだっただろうか。
 大らかで優しい、温厚な徳井という人格は、おおむね人間に対して過敏ではありえない。懐が深い、とも言えたけれど、後藤はそれとは少し違うのではないかと思った。他人に対して沸点が高いという事は、それだけ諦めているとも言える。どこか世の中を斜めに見て、所詮こんなもんだ、と割り切っているようにも見える。
 けれど今、目の前で苦しんで苦しんで、藻掻く徳井の姿は、後藤の見てきた徳井像とは違うもので。
 諦めてしまえばきっと楽になれるのに。割り切って、捨ててしまえばさっぱりするのに。

 だから徳井は恐らく、福田を諦めていないのだ。

 気が遠くなるほど長い間、目に見えない僅かな何かが積もりに積もっていったのだと思う。そんな彼らの時間や歴史は彼らにしか分かり得ないけれど、第三者的に見るからこそ、分かることもある。
 互いの事を知りすぎて、思い遣るあまりに身動きが取れなくなってしまった彼らを、哀れだと思った。それは体が震えるほどの嫉妬でもあった。それほどまでに互いを求めている事に。それほどまでに、想われている事に。
 「でもそれはやっぱり、健全ではありえへんよ」
 そっと手首に触れてみる。くたびれた皮のブレスが徳井の体温で温もっているのが、ひどく切ないと思った。徳井にとっての精神安定であり、拠りどころでもあるらしいそれは、けれど逆に、徳井の手枷にも見えた。
 「おまえ、生き難い人生やなぁ…」
 そして後藤にしてやれる事は、ごく少なかったのだ。
 毎日を生きるほど積み重なる時間が、彼らをより縛ろうとする。じわじわと絞め上げられるように、それでも誰より長い時間を共にする。快楽にも苦痛にも似た倦怠感が今、彼らを蝕もうとしていた。
 そんな関係は、まるきり地獄ではなかったか。
 ちらりと後藤の脳裏に、浮かぶ映像がある。昨晩、珍しい組み合わせで川島の背に負ぶわれた福田の、少し病んだ顔。居留守を使うくらいに一人が好きだと豪語する福田が、なぜ昨日に限って川島の世話になっているのかも何となく、分かる気がした。蝕まれているのは、たぶん徳井だけではない。
 いらぬお節介だとは分かっていた。福田はともかく徳井はきっと、そんな事を望まないのだろうとも。
 けれど後藤はその時、決めてしまっていたのだった。今日いくつか入っている仕事は時間が限られていて、夜まで押す事はない筈だった。奴の予定は知らなかったけれど、遅いのなら終わるまで待つまでだ、と。たぶん後藤には、予感めいたものがあったのだと思う。あの時に見たその表情が、自分とひどく似ていた事に。
 「…頑張れ、徳井」
 夢の中で戦う徳井にそう、声を掛ける。もちろん返事はなかったけれど、不意にその表情が、幾分か和らいだ気がした。







 眠ったんだか考え事をしていたんだか、分からないくらいの浅い微睡みの中、携帯のアラームが鳴り出した。

 七時にセットしたそれは画面表示を見なくても、徳井を起こせと告げていた。のろのろとベッドから起き上がり、鳴り続けるアラームを止める。そのままの体勢で一度徳井を見やれば、それぐらいの物音では全く起きないらしい、徳井はいまだ深い眠りの中にいた。
 「徳井、七時やぞ」
 声を掛けたくらいでは起きないだろう事は分かっていた。だからベッドから下りて、傍らに近づく。少し強めに肩を揺すれば、やっと身じろぎが返った。
 「徳井。ほら、はよ起き」
 ゆすゆすと揺さぶる動きで、のろのろと眠りの淵から這い上がってくるらしい、徳井の瞼がスローモーションで開いていく。焦点の定まらない視線が空を見つめ、ゆっくりな時間を掛けて、後藤に返ってくる。
 「おはよう」
 「……はよ、」
 口の中で呟かれた言葉はひどく不明瞭で、夢うつつの徳井のぼんやりとした声。今が夢か現実か、そんなことすら徳井の意識下にはなかったに違いない。眠りは深すぎて、きっと夢を見た事すら覚えていない。だから、知っているのは後藤だけだった。
 「おい、今この状況で二度寝なんか出来る思うなよ。さっさと顔洗って来いや。目ぇ覚めるで」
強引に毛布を剥がして引っ張れば、ようやく体を起こした徳井がふらつきながら洗面所に向かっていく。その姿に苦笑いを浮かべながら、後藤も身支度を整える。徳井が戻ってきたタイミングで、鞄を持ち上げた。
 「…あれ?」
 「一旦家帰るわ。世話んなったな」
 現場が近いからと言って強引に泊まったのに、起き抜けでまだ多少ぼんやりとした徳井は、その矛盾を見逃した。微妙な相槌を打って、そうこうしている間にももう後藤は玄関に向かう。
 「ほなまた」
 「おぅ、」
 バタン、とドアが閉まる直前に、見えた後藤の背中が、残像のように徳井の意識に残る。妙な違和感を残して、首を傾げながらリビングに戻れば、テーブルの上にぽつんと置かれたものに目が行った。
 「あれ、俺いつの間に外したんやろ…」
 拾い上げたブレスレットは、ひんやりと徳井の肌を冷やした。



***



kaleidoscope【25】
2007/09/11 Toshimi Matsushita

1999年01月24日(日) 024:夢幻



フクダミツノリという人は、つくづく矛盾に満ちた生き物だとおもう。
プライドは高いくせに自己評価は極端なほど低いし、真面目で安定志向なのかと思いきや、刹那的で破滅型。楽天家と思わせてネガティブだし、寂しがりやなのに一人が好きだ。
普通に見えてその実複雑極まりない福田という人間のすべてを知ることは難しい。
福田の隣でずっと歩いてきた徳井のようには出来ないかもしれない。それでもいいと思った。
川島は徳井のように福田を愛したいわけではないのだから。見えない糸で雁字搦めにして、その場から動けなくなるようなやり方を愛情と呼びたくなかった。
それでも。蕩けそうな笑顔がだんだん歪んでいくのに耐え切れず、川島はそっと福田を抱きしめる。
「ごめん、ごめんな」
「ええよ。いまはいっぱい甘えてください。ほんで、ゆっくりでええから俺のこと好きになって」
腕の中の福田がどうしようもなく愛しくて、今度は川島のほうからその薄い唇に触れる。何度も何度も啄むように口惚ければ、福田の腕が川島の背中に回される。
どこか頼りないその動きにすら心を揺さぶられているなんて、きっと福田は知らない。
回した腕のブレスの金具が川島の背中に当たった。ぎくりと動きを止めた川島の腕の中から福田は抜け出す。
「福田さん?」
「外して貰てもええか?」
ほんの少し、思いつめたような眼差しとぶつかる。ブレスレットを外すだけにしてはやけに緊張しているようだった。
頼む、と繰り返す福田に異を唱えるつもりなど、この状況の川島の選択肢の中にはない。かちりと微かな音をたてて外れるブレスレット。
ここ数年、福田が自発的にはずすことのなかったそれがなくなったことで実感以上に軽くなった左手首。薄くなった痕がなんだか嬉しくて、少しだけ寂しかった。
「ふくださん」
「ありがとな。今日はずっとこうしとって、ええ?」
改めて川島の背中に腕を回せば、川島は黙って抱きしめ返してくれる。
自分のものではない、徳井のものでもない。誰のものでもない川島の体温が今の福田のすべてだった。

あぁ、このまま朝が来なければいいのに。

***
**

今度こそ、徳井は本当に眠ったようだった。
自分は床に毛布を敷いて眠るからベッドを使えと言い張った徳井に後藤が勝てるはずもなく、ほとんど使った形跡のないそこに身を横たえる。
寝付けず何度も寝返りを打つ後藤とは対照的に、疲れとアルコールのせいか徳井はすぐに眠りに落ちていった。
徳井の規則正しい寝息と、キッチンの冷蔵庫の稼動する音。冴えていく一方の頭。寝返りを打った拍子に見えた徳井の寝顔は、起きているときよりも幾分幼くて、初めて徳井と出会ったときを思い出した。

今でこそ人との交流が苦ではない程度の社交性を身につけた後藤だったが、養成所へ入った当時は人の後ろで隠れていたいタイプだった。
誰にも負けへん、という負けん気で飛び込んだ世界で、早くも周りの才能に圧倒されていたあの頃。
半年違いの先輩たちとの差でさえひどく大きく感じ自信をなくしていた。
それは後藤と同期で入った人間も同様だったようで、入って早々退学していった生徒も多かった。
そんな中、後藤は綺麗な顔をしているくせにほそぼそとシュールなネタばかり見せていた徳井に親近感を覚えていた。
それは徳井も同様だったようですぐに仲良くなった。
きっと、良いライバルになれるのだと思っていたのに、卒業後、徳井はこの世界から姿を消した。そのときの喪失感を後藤は今でも覚えている。
そして何事もなかったかのようにこの世界に復帰した徳井の隣には、昔からのツレだという福田の姿があった。
端から見ていてもわかるくらいぴたりとはまっていて、あぁ、良いコンビだな、と思ったのに。

「ほんまにお前は、福田をどうしたいんやろうな」
(そして俺は徳井をどうしたいんやろう)

後藤のつぶやきは誰にも聞かれないまま消えていった。



***



kaleidoscope【24】
2007/09/09 Kanata Akakura

1999年01月23日(土) 023:告白



 「…うん。ありがとう」

 口付ける動きで一度瞼を閉じた福田が、ゆっくりと目を開いて川島を見上げる。幸い、情けない顔は見られずに済んだけれど、声の震えは気付かれたかも知れなかった。それすらも赦して僅か笑みを浮かべた福田が、いっそ神々しく見えた自分は、随分と嵌りすぎている、と思った。
 いつからこんなに好きになったのだろう、と思う。
 今、文字通りこの目には福田しか見えないのではないのかと思うくらいに。それでもいい、と思えるくらいに。他の何者も目に入らずに、ただいとおしいその人を見つめる。福田の目に映る随分と滑稽な姿の自分は、たぶんこの想いを持て余している。どうしたらいいのか分からない。だっていつかの井上は、こんな風に向き合う機会を与えてはくれなかったから。
 「福田さん」
 名前を呼んだ。
 ともすれば聞き逃してしまわれそうなほど小さい声をきちんと聞いて、目線だけで反応をくれるのが嬉しい。いまだ掴まれたままの手首が、静かに続きを待つ。
 「ただの親切やなんて思わんといて下さい。俺はそないええ人やないよ」
 素直に感謝をされても困るのだ。だってあれこれ世話を焼きたがるのは川島の勝手で、勝手に心配で、勝手に安堵して。手を伸ばせばそこにいる存在が、その体温があまりにリアルで、だから。
 「俺が、側にいたいんです」
 それはエゴだと知っていた。それに対して福田がどう感じているかは分からなかった。聞くのは怖いし、手放すのはもっと怖い。一度この手に入れてしまったらもう、離したくはなかった。それがどんな我侭か、理解ってはいたけれど。
 「…好きなんです」
 あなたの事が、とても好き。
 誤魔化しようがなく震えた声が、揺れながら眼下の福田の耳に届いた、筈だった。好きだからどうしたい訳ではなかった。応えて欲しいと願っている訳でも。けれど今、聞いて欲しかった。知って欲しかった。
 加速していく気持ちを止める術を知らなかったから、例えそれで福田が、川島を軽蔑しても。
 ごめん、と言いたいのはむしろ、川島のほうだった。
 「川島」
 黙って聞いていた福田が、そっと手首を開放する。離れていく体温を名残惜しいと感じる前に、するりと上がってきた指が、川島の頬を撫でる。
 「そんな泣きそうな顔せんとって」
 え、と思う間にスローモーションで顔が近づく。それでいてあっと言う間に触れた唇が、柔らかい感触を残して、すぐに離れた。
 キスをしたのだ、と気付いたのは、福田の顔がゆっくりと微笑みを滲ませてからだった。
 「ありがとうな」
 「福田さん、」
 見開いた目の中に、とろけるような福田の笑い顔が映る。それはひどく柔らかく、凪ぐように穏やかな。幸福を体現したら、こんな顔になるのではないかと思う。川島にとって今、福田が幸福そのものだった。それがあまりに鮮やかで、触れたら消えてしまいそうな気にさえなってしまう。しばらく呆然と固まっていたら、笑い顔の福田が更にわらった。


 福田にしてみれば、川島の厚意は感謝こそすれ、迷惑だなどと思える筈がない。
 与えられるばかりの親切に戸惑ってはみたものの、好いて貰えるのは嬉しかった。目に見える気遣いも、優しい言葉も、どれもが今までの福田には持ちえないものだったから、そしてそれらを福田はずっと、欲していたに違いないから。
 徳井が与える愛情や優しさとは違う。
 それは徳井らしい大らかさで、惜し気もなく与えられるものだったけれど、少しばかりややこしく、捩れて歪んで、だから純粋ではあり得なかった。
 いつからか、自分達は大事な事ほど相手に言えなくなっていたのだと思う。
 愛してるとか、大切だとか。使い古された言葉が徳井に届くとも思えなかったから、言わなくなるうちに、互いの気持ちも見えなくなっていた。それはどれほどの矛盾だっただろうか。共に過ごした時間は途方もなく長すぎて、愛情を引いたらそこにはもう、執着しか残らなかった。相方として徳井を手に入れた瞬間に、何かとても大事なものを、自分達は失ってしまったのかも知れない。
 お互いの事はもう全て分かるから、その事が逆に、自分達を雁字搦めにしてしまった。袋小路の前で途方に暮れて、どうしたらいいのか分からないまま、互いの手をずっと握って、離せないでいたのだ。
 好きすぎて、辛かったのだ、たぶん。
 そうやって徳井を思い続けるのは辛いから、もう、開放されたいような気がした。徳井はそれを許さないかも知れないけれど、随分と福田は疲れてしまった。

 だから…もう、この手を離してもええかな?徳井くん。

 そうして今、福田が触れている手の先には、泣きそうに歪んだ川島の顔。好きだと言ってくれた気持ちが、言葉が嬉しくて。縋ってしまいたくなる。そんな風に触れられるのは、川島は、心外かも知れなかったけれど。
 今は黙って抱き留めていて欲しい。その腕の中で、ひどく安堵する自分を知ったから。その体温を、感じていたいから。

 「ごめん、」
 だからやっぱり福田は謝ってしまう。一番狡くて醜いのは、きっと自分に違いなかった。



***



kaleidoscope【23】
2007/09/09 Toshimi Matsushita

1999年01月22日(金) 022:狭間



福田をどうしたいか、なんて、教えて貰いたいくらいなのに。
幼馴染で、親友で、ただ笑いあっていただけの頃にはもう戻れない。相方という、これ以上ないくらい確かな形に収まってからは特に。
福田への想いが、ただ好きだとか一緒にいたいとか、そういう単純で純粋な感情でないことは確かだった。
本当に自分は福田をどうしたいのだろう。とっくに出ている答えから目を逸らして徳井は自問する。

そしてどんなに逃げても現実というのはどこまで行っても追ってくるものらしい。
目を開けても後藤はいなくならなかったし、時計の針は少しも進んでいない。徳井は左手のブレスレットを押さえてゆっくり数を数える。
ここはステージの、板の上だ。そう自分に暗示をかけて、いち、に、さん、と数えてから出した声は陽気な酔っ払いの声。振り返った自分は果たして笑えていたのだろうか。
「なんや、修学旅行の真似か?」
「真似でもええから、教えてくれ」
失敗した、と思った。振り向かなければよかったとも。
冗談にしてしまおうとした徳井を、だが後藤は許さなかった。徳井を見据える瞳は不思議なくらい凪いでいた。

暫くのあいだ、徳井が答えるのを待っていたが、いつまでも返ってこないことで諦めたように溜め息をつく。
そして徳井に背を向けると、鞄を探り始める。
「明日の現場、この部屋から行った方が近いねん。悪いけど泊まらせてもらうわ」
徳井が黙ったままなのを肯定と受け取り、後藤はさっさとアラームのセットを始める。
「徳井、明日何時に起きんねん」
「七時」
「ほな起こしたるわ。さっきの答えは宿題にしたるから」
「……ありがとう」
何に対するありがとうなのか。聞きたいことはまだたくさんあったけど、後藤は聞かずに小さく頷いた。


***
**


部屋について福田をおろした途端、スースーする背中。そこにあった重みと温もりが消えたことを川島は内心寂しく思う。
「川島、ありがとうな。疲れたやろ」
ふわりと微笑った福田の、綺麗な手が川島の背中を擦る。男らしく骨ばっている反面、華奢な指が、背中を揉み解すように動く。
「福田さん?」
「お礼にマッサージしたるわ」
ほれ、ベッドに寝っ転がって、と押す勢いに負けて、川島が横になれば福田の楽しそうな顔。
まさかの展開に困惑したような川島を制して、福田はゆっくり揉み解していく。あんま上手ないんやけど、ごめんなんてことを言いながらもどこか手馴れた動き。
「学生時代、ようしたったんよ。運動部をなめたらあかんで」
「……っ、高校時代は帰宅部やったんと違うんですか?」
誰に、とは聞かなくても分かった。あの人で間違いがないだろう。敢えてそのことには触れず又聞きの知識で問えば、福田はよう知ってるなぁと苦笑する。
ぐぐっと力を込めて背中を押せば、川島の背骨がぽきりと音をたてる。
「中学時代テニス部やってん。顧問のセンセがうまかったんや。ほんで、教えて貰うて」
「きもちええ……」
「ほんまに?ありがとぉなぁ」
福田の嬉しそうに弾んだ声に川島の頬も緩んだ。
「ありがとうございました。気持ちよかったです。ほな、交代しましょうか」
「えー、いや、おれはええよ」
「まま、ええからええから」
自分のほうへ引っ張ったことで体勢の崩れた福田を笑いながらホールドすれば、福田と目があい、鼓動が音をたてる。
まるで、組み敷いているかのような体勢だと気付いた川島は、慌てて離れようとした。
だがそれは適わなかった。福田の手が川島の手首をしっかり掴んだからだ。
振り払えば払えるくらいの力で福田は川島の手を掴む。どこか遠慮がちな、迷いのある掴み方。

「迷惑ばかりかけて、ごめんな」

今、福田の瞳に映っているのは川島だけだった。
ほとんど衝動的に、吸い寄せられるように瞼に口惚ければ、僅かに身じろぐ薄い体。
「迷惑なんかやないねん。ごめんなんて言わんといてください」
福田のため、なんて言いながら結局自分本位な行動をとってしまったことに、唯一自慢の美声が情けないほど震えていることに、川島は哂った。



***



kaleidoscope【22】
2007/09/07 Kanata Akakura

1999年01月21日(木) 021:交互作用



 正直、酔ってはいたけれど、意識は覚醒していた。
 珍しく深酒をしてかなりの量を飲んだのに、それでも日常から抜け出せない自分が恨めしい。酒に溺れて現実から逃避したかったのにそれすら出来ない、と考えた徳井は、それではまるで福田のようだ、と自嘲気味に笑った。
 「目ぇ覚めたか」
 リビングに戻るとまだ帰ってはいなかった後藤が、所在なさげにキッチンに立っていた。グラスに注いだ水を渡されて、ぐい、と煽れば冷たい感覚が心地よく喉元を通って落ちた。
 さっき、妙な絡み方をしたせいか、後藤は徳井と完全には目を合わせないままで、それに対して侘びの一つも入れようかとも思ったけれど、今更だろうと思い直して止めた。後藤の表情がやや翳っているのが少しだけ気になったけれど、それももう、どうでもいいと投げてしまった。
 かたん、とグラスを戻せば、まるきり沈黙が落ちた。
 意識はあると言っても飲みすぎたせいで、随分と体は重かった。のろのろと足を引き摺るように散漫な動作で定位置に腰を下ろせば、そのままの動作でごろりと寝転んでしまった。
 「お前、そんなんしたらそのまま寝てまうぞ」
 後藤の声が遠く聞こえたけれど、それには答えずに目を閉じてしまう。後藤の言う通り、このまま眠ってしまえればどんなにいいだろう、と思う。目が覚めたら何も変わらない日常で、そして自分は身支度を整えてまた、仕事に向かうのだ。
 「なぁおい、徳井」
 煩い、と目を開ければ随分と近くに後藤の顔があった。寝転ぶ徳井を覗き込む形で、じっと見据えるような後藤の視線が絡む。
 「…後藤。今日は色々ありがとう。もう、ええわ」
 言外にもう帰れ、とそんな意思を滲ませた徳井は、また今度何か奢るわ、と後藤に背中を向けた。その背中に向かって後藤は最後に一つ、小さな石を投げてみる。
 「お前、川島と何かあったんか」
 「…」
 窓に向かって体を寄せて、厳かな甲冑に向き合う形で徳井は、後藤の言葉を聞く。酔ってはいたけど完全には意識は失ってはいなかったから、それでなくとも昨日の今日で、後藤にその話をした覚えはなかった。それ以前にその事の何をどう、他人に話して聞かせればいいのか、徳井には分からない。
 ふわふわした足取りで後藤に引き摺られながら、ふと、後藤の足が止まったのをぼんやりと覚えている。ゴトウさん、と発せられた夜の街に似合いの低いテノールも。
 「川島、だいぶお前のこと睨んどったで」
 棘のある目線は想像に易かった。病室の前で自分に向けられた苛立たしい目線。鋭い眼差しが物言わず徳井を責めたのだ。それに対して自分はどうしたか、ただのろのろと逃げただけではなかったか。
 返答はないけれど、徳井の背中がじわりと強張っていくのを後藤は黙って見ていた。試すような事がしたい訳じゃない、ましてや掻き回そうとしている訳でもない。けれど水面に静かに広がっていく波紋に導かれるように、ただその胸のざわめきに飲み込まれる形で、後藤はもう一つ、爆弾を投下した。
 「お前は気付いとらんかったかも知れへんけど、さっき飲み屋帰りにばったり川島と会うてな。それが、」
 珍しいことに福田を抱えとったで、あいつ。
 背中に抱えた福田を大事そうに持ち帰った川島の姿を思い出す。その時、こちらも背に抱えた徳井の、分からないくらいの僅かな身じろぎも。
 「…お前は福田をどうしたいねん」
 ぽつん、と後藤は言葉を投げかける。もうずっと、一度でいいから聞いてみたかった。
  
 あぁ、だからどうして現実は、逃げても逃げても追ってくるのだろう。徳井は耐え切れずに目を閉じた。







 そこそこ近場で飲んでたとはいえ、ほぼ同年代の男を負ぶって徒歩で帰るのは、少々無理があったかも知れない、と川島は思った。
 完全に眠り込んでいる福田はそれでなくとも重かったから、起こさないように気を遣いながら、何度も背負い直す羽目になる。飲み屋での長い話を終えて、切り上げたところで田村はタクシーを呼ぼうとしてくれたのだけれど、そんなに遠い距離でもないから、とつい断ってしまった。あえて深追いをしなかった田村はもう一軒飲みに行くと言うのでその場で別れて、ゆっくりと歩き出す。
 その途中、会いたくもない顔に遭遇してしまった事は、考えない事にした。幸い福田は全く気付いていない筈だし、あちらはあちらで渦中の徳井の意識の有無も定かではなかった。苦笑めいた、それでいて何かを見透かすような後藤の表情が少し気になったけれど、それも今は、考えない事にする。それよりも今、川島にとって大事なのは、背中の福田をいかに起こさずに無事に家まで連れて帰るかという事だった。
 物思いに耽りながら歩いていたら、またずるり、と福田の体が倒れ込んでくる。一旦立ち止まってそっと背負い直せば、うぅん、と不明瞭な呟きが聞こえて、背中の福田が身じろぎをした。
 「……かわしま?」
 状況が理解出来ないらしい福田のぼんやりとした問いかけが、背中から降ってくる。ゆっくりと記憶を辿っているであろう福田の思考に合わせる様に、殊更ゆっくりと歩きながら、川島は言った。
 「起きました?もう少しで家着きますから」
 「…俺、眠ってもうたんか」
 ともすればまたゆるゆると靄ががってしまいそうな思考を叱咤して、福田は考える。随分と心配性な川島が、病み上がりなのに飲んだ挙げ句、眠り込んでしまったらしい自分を怒るのではないかと予測したけれど、斜めからそっと見た川島は穏やかな顔をしていた。しばらく見入ってしまった福田は、ふと、唐突に状況を把握する。
 「あっ、悪い。もう歩くから下ろしてくれてええよ、」
 ずっと負ぶってくれとったんけ?重かったやろ、と下りようとする福田を、けれど川島はやんわりと制する。
 「ホンマにもうちょっとやから、このままでええよ」
 「…川島、」
 にこり、と笑った川島は、もう一度軽く体勢を直して、それから黙って歩き始めた。そうされてしまえば無下に暴れるのも何だか面倒で、背中の福田もおとなしくなる。力を抜いて、体を預けた。
 川島の歩く歩幅に合わせて、僅かに体が揺れる。ゆるゆると吹いてくる夜風に、背中の体温が妙に夢心地だった。髪からは洗いざらしのシャンプーの香り。昨日自分も使った同じ匂いだ、と気付いたら、何だか嬉しいとも切ないとも思えた。
 鼻の頭がツンとする。嬉しくても切なくても泣きたくなるものなのだ、と福田は初めて身をもって知る。だからって今ここで泣くのは嫌だったから、黙って福田は目を閉じた。



***



kaleidoscope【21】
2007/09/07 Toshimi Matsushita

1999年01月20日(水) 020:水中花



川島はこれまでの経緯をポツリポツリと話し出した。
もともとの川島は饒舌なほうではないからそんな話し方は不自然ではなかったけれど、ところどころで考えこむよう口を噤む川島からは戸惑いや混乱を感じられた。
田村は辛抱強く相槌を入れながら川島を見つめる。
出会った頃に比べだいぶ垢抜けた相方の人間らしい姿。
ときおり、福田を見つめ髪をすく川島の表情が柔らかかったから、田村の口元にも笑みが浮かぶ。

思えば、いつの頃からか感情表現のへたくそな川島が、福田には突っかかってみたり挑発行為に走ってみたりとらしくない行為を見せていた。
そんな川島を最初の頃は田村が宥めたりもしていた。確かに頼りない先輩ではあるけれど、ええひとなのになぁと首をかしげていたくらいで。
それが愛情の裏返しだと気付いたのは割と最近だった。
とある番組で共演したときチュートリアルの楽屋に挨拶に行けば、携帯を弄っている徳井と台本を読んでいる福田がいて、他愛もない会話を交わしていた。
よくある光景だったのに、なんだか少し、空気がおかしく見えたのは疲れているからだろうと田村は思ったのだが、川島は違った。表情を歪めると福田に例によって絡みはじめる。
アレ?っと思ったのは川島が絡んだことで、おかしかった空気に動きが出たからで。今思えば、川島なりのフォローだったんだと気付く。
それから気をつけて見れば、川島の福田への気持ちはわかりやすかった。

長い時間をかけて話し終えたら、重荷を下ろしたような気持ちになる。ただ話を聞いて欲しかったのだと川島は今更ながらに気付いた。
「かぁしまは、福田さんをどうしたいん」
「どうしたいんやろ。わからへん」
大切にしたい、救いたいという気持ちが先走っていて、改めて何をどうしたいのかと具体的に聞かれても川島は答えられなかった。
そんな我ながら頼りない心持に田村は気づいているのだろうか。
「強いて言えば笑ってほしいんやけどな」
正直に述べれば、田村が穏やかに笑う。
「ええな、それ。笑顔が一番やもんな」
「お前がいうと説得力あるわ」
「そうやろ。やからな、アキちゃんのやりたいようにやればええよ」
少なくとも俺は味方するよ。
そう言って目がなくなるほど笑った田村の慈悲深い眼差しに、川島は意味なく泣きそうになった。


***
**


マンションに着くと、後藤は徳井を引きずってベッドまで連れて行く。
床に転がしておいてもよかったのだが、そんなことをして体調でも崩されたら堪らないと妙なところで責任感を発揮してしまったのが運の尽き。
起こさないよう下ろそうとして、徳井の腕が離れないことに気が付く。
「とくい? 起きたんか?」と声をかければ、はっきりしない返答。酔っ払いの遠慮のない力に背中から抱きしめられ、後藤は振り払うことが出来ない。
そんな体格差からくる力の差が悔しい。
「こら、はなせや」
お姉ちゃんやないねんぞ、と怒鳴っても無駄で、依怙地になったのかぎゅうぎゅうと腕の力を強めてくる。
「とくいっ」
「今日だけやから……」
「あほか!」
俺を身代わりにしようとすんな!と身を捩れば、徳井の目とあう。少しだけ赤かったが酔いは醒めている。
静かな深い闇を湛えた目が、後藤の姿を捕らえていた。
逸らしたくなる気持ちを懸命に抑える。今逸らしたら、何かが変わる。直感的にそう感じた後藤は一歩も引かず、徳井の視線を受け入れる。
先に目を逸らしたのは徳井だった。
「起きたんやったら顔くらい洗えや」
のろのろと頷いて洗面所へと向かった徳井の後姿を見送って、そっと溜息をついた。



***



kaleidoscope【20】
2007/09/06 Kanata Akakura

1999年01月19日(火) 019:相方



 「これはどういう事なん」

 個室に通じる襖を開けて、現状を見た途端、川島はそう問うて田村を見た。
 ロケで遅くなるかと思っていた福田は、案外早くにその仕事を終えたらしい。田村から連絡が入った時点で時計はまだまだ今日のうちだったし、いつ帰ってくるか分からない福田を待って、川島は晩飯をどうしようか、とそんな事を考えていたのだ。
 「いや、ココ予約しとったんやけどツレにドタキャンされてもうてやぁ、ほんで福田さんの事思い出して、快気祝いを兼ねて誘てんけど」
 何だか言い訳じみている、と自分で思いながら田村が川島の顔色を伺えば、川島は戸惑っているとも呆れているとも取れた。少なくとも怒ってはいないようだと内心で安心をして、それからもう少し突っ込んだフォローに走る。
 「福田さんも急に誘たから驚かはったと思うんやけど、一応病み上がりやからー言うてちょっとしか飲んではらへんかってんで」
 それが、川島が来る、言うた途端に眠なりはって。
 「え、」
 田村の言葉に一瞬、川島は大きく瞬きをする。
 「何でやろ?急にやねん。さいわい個室やったしちょう横になったらどうですか、来たら起こしますよー言うたはええけど、ホンマにぐっすり寝てしまいはって」
 で、今に至んねん、と田村は言って、視線をテーブルに戻した。
 話が落ち着いた所で、やっと川島はその場に突っ立ったままの自分に気が付いて、田村の向かい側、つまり福田の隣に腰を下ろす。位置を直す振りをして福田を見れば、田村の言う通り、ぐっすり眠っているらしい福田の寝顔。一昨日から、この顔ばかり見ていると思った川島は、ふと予感めいたものを感じた。
 まさか本当に、この眠りは自分が引き金になったのではないだろうか。
 少し前、何かの話のついでに(又聞きだったかも知れない)最近あまり眠れないのだと福田は言っていた。思えば色々と、思い煩う事もあったのかも知れない。それが体調を崩した原因でもあったと思えるけれど、結果その事がきっかけで、川島は側にいて、福田の寝顔を二日とも見ている。
 安心を、されているのかも知れない。
 それが本当ならば、喜びでもあった。川島、の単語が引き金で福田に眠りを誘ったのなら、それほど福田の中でもう、川島が根付いているという事だった。まるで起きる様子もない福田を見、川島は素直に喜んでもいいものか、複雑な気持ちを抱える。
 「何かあったん?」
 福田さんと、という言葉はさすがに飲み込んだ。机を挟んで、差し向かいで川島を見た田村は、珍しく大真面目な顔をしていた。
 「…その前に俺も飲んでええか」
 飲まずにはやっていけない話だと思った。これからたぶん、自分が田村に話そうとしている事は。言うつもりはなかったと言えばなかったし、あったと言えばあったような気もする。田村は今、聞いてくれそうな気がした。
 「ビールでええか?頼むで」
 呼び出しのベルを押しかけた田村を制して、手前のジョッキに触れる。
 「いや、とりあえずこれでええわ」 
 「それ福田さんの飲み残しやで。もぅぬるぬるなってるんちゃうん」
 「ええねん、」
 ぐい、と一気に空けたビールは、田村の言うように随分温く、気も抜けてしまっていたけれど、どのみち今は味わっている気分でもなかったから同じだった。ごと、とジョッキを置いて、田村を見た。
 「お前は、何か気付いとるん」
 質問に質問を返す形でまずは田村の様子を見る。こんなにじっと相手の顔を見るのは、漫才でもあまりないと川島は思った。視線が居づらいという事もなく、川島の視線をぐっと受け止めた田村は、小さな目を揺らして川島を見据える。
 「かわしま、福田さんのこと好きやろ」
 そうやろ?と田村の目線が聞いてくる。駆け引きもまるでない、田村らしいいきなりの先制パンチに川島は僅か苦笑する。
 「…知ってたんか」
 川島は少しだけ、意外だった。この想いは川島の中でも持て余していたものだったし、田村とそういう話をした覚えもない。それでなくとも人より少し、感情のひだのずれている相方に、よりによって気付かれていたとは思っていなかった。
 けれど少し笑ってみせた田村は、
 「分かるよ、おまえの事は」
 さらりとそう言ってのけたので、川島は一瞬、言葉を失くしてしまう。壮絶な少年期を送ったせいか、もともとの気質もあるのかも知れない、人が良い割に本人の感情表現は案外薄い田村は、自分の事以上に、他人の感情の動きに疎いと思っていたのだ。
 実際、それ自体は間違ってはいない、田村の性質だと思っている。ある種、何かが欠落している田村は、だからこその大器を備えている。けれど今回、いつになく鋭い田村はだから、こと「相方の事」だから分かると言うのだ。
 どんだけ一緒におる思ってんねん、と言った田村を、川島は少し、眩しく見てしまう。自分達を少しだけ見くびっていたかも知れなかった。相手を思いやればそれだけで、見え難いものだって見る事が出来るのかも知れない。
 それが愛情なのだ、とも。
 「な、かぁしま?」
 舌っ足らずな田村が独特の言い回しで自分を呼ぶのを、川島は嫌いではなかった。むしろ血と肉の通うような、リアルな温かさがあった。だからその温もりに背中を押されるように、
 「福田さんな。今、俺んとこおんねん」

 長い話を、出来そうだと思った。



***



kaleidoscope【19】
2007/09/06 Toshimi Matsushita

1999年01月18日(月) 018:星月夜



星の光が月の光のように光る夜だった。
普段なら人工的なネオンの明かりに紛れて見えない星が、個々の存在を主張するかのようにひかり、後藤の足元を照らす。

珍しく酔いつぶれるところまでいった徳井を背に、後藤はタクシーを拾おうと大通りに向かって歩き出す。
泥酔状態の徳井と比べ、ほろ酔いにもいかない後藤はだいぶ冷静だった。
背中から伝わってくる熱はアルコールのせいでいつもよりも高く、後藤の鼓動は小さく高鳴る。
体格の違いのせいで、さすがに徳井を負ぶさることは出来なかったが、ずるずると引きずるように歩いているわりには足取りも確かだった。
そんな後藤の長く伸びた影の先、向こう側から歩いてくる人影は自分と同じように酔っ払いを担いでゆっくりと歩いてきた。
ぶつからないよう端に寄れば、人影はどこか刺々しい視線を投げかけてくる。正確にいえば後藤の背中に向けて投げかけられる視線。
「……後藤さん?」
「川島かぁ。なんや、この辺で飲んでたんか」
「いえ、や、そうですけど」
困惑したように微妙な訂正を入れると、ずり落ちてきた酔っ払いを背負い直す。おかげで隠れていた酔っ払いの顔が見えた。その人物の正体に因縁めいたものを感じて思わず苦笑する。
川島が背負っているのは間違うことなく福田で、気持ち良さそうに寝こけていた。酔っ払うと記憶をなくすことの多い福田だから、今の状況を知ったら驚くだろう。
後藤からしてみても、正直、会いたくなかった。少なくとも今、この状況では。徳井にまともな意識がないことだけが救いで。
「また珍しい組み合わせやなぁ」
「たまたまですよ。立ち飲み屋で酔いつぶれてはったんで回収してきました」
「そうなんや。大変やな、お互いに」
いえ、と短く答えると川島は頭を軽く下げて去っていく。
その方向は、福田の仮住まいのホテルとは少しずれているような気がした。

***
**

時間は少しさかのぼる。
ロケを終えた福田のところに、珍しく田村から食事の誘いが入った。まっすぐ帰っていいものか悩んでいた福田にとって、田村には悪いが渡りに船だったのだ。
前から予約入れてたんですけど、友人にドタキャンされて、と頭をかく田村が呼び出したのは、個室の焼き鳥屋だった。
病み上がりだから、と乾杯のビールを一杯だけ頼んで向き合えば、田村はまず福田の体調を心配し、それから他愛もない話で盛り上がる。そんな些細なことが福田を笑顔にさせた。

飲むのをセーブしている福田に対し、田村は適度にアルコールをとっているせいかだんだん陽気に上機嫌になっていく。
「ふくださぁん」
「なんや」
「かぁしま、いいやつなんですよ。ぶきようなだけで」
「うん、知ってるよ」
だいぶ甘えさせてもらっていることを、田村は知っているのだろうか。川島から何か聞いているのだろうか。知らず体を強張らせた福田から田村は目を逸らさない。
田村の小さいけどつぶらな瞳は嘘のつけない草食動物のように悲しい目をしていた。
だがそれも一瞬のこと。すぐに陽気な表情を取り戻すと、田村はかばんから携帯を取り出す。
「ふくださん、賭けしませんかぁ」
「賭けぇ?」
「そうです。賭け」
「なんのや」
「今からかぁしまに電話します。で、くるかどうか賭けましょう」
そうしましょうそうしましょうと、田村は福田の質問にも答えず返事も待たずに通話ボタンを押す。
「おぉ、かぁしま。今な、ふくださんと飯食べてるんやけど、来ぉへん?」
うん、うん、と楽しそうにうなづく田村に福田もつられて笑ってしまう。
そして不意に襲いくる睡魔。久しぶりのビールが今頃になってまわってきたのだろうか。欠伸をかみ殺す。
「わかった。ほな待ってるわ」
すぐ来るそうです、と田村は満足そうに笑うと、ふと心配顔になる。
「ふくださん、なんか眠そうですね。来るまで寝てても大丈夫ですよ」
来たら起こしますよ、という田村の好意に甘えて福田は軽く横になった。うとうとと夢現の状態を楽しむ。
眠りに落ちる瞬間、川島の声が聞こえて、(あぁ、ほんまに来たんや)と思ったところで意識が途切れた。



***



kaleidoscope【18】
2007/09/05 Kanata Akakura

1999年01月17日(日) 017:エアーポケット



 福田の夢を見た。

 まだ屈託のなかった子供の頃は、遊びの延長でよく夢に出てきた気がする。けれど芸人を志して、相方、パートナーとしての関係に移行してからは、夢に福田が出る事はなくなっていた。だから、まるで子供の頃にタイムスリップしたかのように、夢の中の福田も幼い顔をしていた。
 思えば夢に見ていた幼い福田は笑ってばかりで。本当は子供の喜怒哀楽で、様々な表情をしていたのかも知れないけれど、結局頭に覚えているのは唯一つ、笑い顔だったのかも知れない。
 だから、今になって夢に出てきた福田の顔が、だんだんと歪んでいくのを、夢の中の徳井はなす術もなく見つめるだけだった。
 何とかしたい、とは思った。笑って欲しい、とも。けれど何度も呼びかけた徳井の声は福田には届かず、その事が余計に福田を傷つけたようだった。必死に自分を呼んでくれる声が、涙声に変わる。あっ、と思った時にはもう、福田は泣いていた。
 がば、と跳ね起きた。
 カーテンを閉め忘れた窓から、街中にばらばらと散った灯かりがやんわりと差してくる。真っ暗ではない適度な夜の闇の中で、徳井の荒い呼吸だけが息づく。大きく息を吐いて、何や…と気が付いた。
 「泣いとったんは俺か、」
 頬に滑る涙の筋を、ゆっくりと指で拭った。







 「何やねんなお前、しょーもない顔しくさってからに」

 飲みに行こう、と誘ったのは後藤の方だったから、黙って付いてきた徳井がどんな顔をしていたって、文句を言われる筋合いはない。嫌なら誘わなければよかったのだ。徳井の様子がいつもと違う事くらい後藤にはたぶんお見通しで、恐らくはだから、後藤は今日というタイミングで徳井を誘ったに違いない。
 また今日も同じ部屋に帰って寝るのは少し気が滅入る作業だったから、後藤の誘いは正直、ありがたかった。この口は悪いけれど気の良い友人は、人情の機微にも長けていたから、時にこんな小憎らしい心遣いをくれるのだ。
 「また修羅場でも抱えとんのか」
 お前もほんま、いつか刺されるで!と決め付けて笑った後藤は、たぶんそうではない事を知っていた。女関係の派手な徳井が、反面実にこざっぱりとそれらを遣り繰りしている事を知っていた。殆どが一度きりの関係だったり、若しくは後腐れのないタイプを好んで選んだり。何股もかけて、それらがバッティングしたとしても尚、片付いてみれば案外、修羅場らしい修羅場は数えるほどしか迎えた事がない。
 だからそれは要するに、徳井の本音と建前なのだろうと、後藤は思う。
 何かをひた隠すように女に溺れる徳井は、それだけの想いで何かを抱えている。それは頑なに奥底に追いやられていたから、どれほどの感情なのかは、さすがの後藤にも量りかねたけれど。
 「まぁ、たまには思い切り飲んだらええやん。潰れても優しい俺が介抱したるから、鍵貸しといて」
 心ここにあらずで、どこかぼんやりとした徳井は本当に珍しかったから、どんな事情であれ、出来る限りの力になってやれればと後藤は思う。だから当たり障りのない事を言ったつもりなのだけれど、それが今日に限って地雷を踏んだ事を、もちろん後藤本人は知る由もない。
 鍵、のキーワードが引っかかって、徳井はびくりと体を揺らした。
 あれからぐるぐると考えている。引越しの予定が延び延びになったまま、いまだ東京ではホテル暮らしの福田が、今このタイミングで何かしらの鍵を身近に持つ確率はあまりに薄かった。常泊しているホテルはカードキーだったし、キーホルダーの一つもついていない単体の鍵を持つ可能性は、殆ど一つ。最近、何かのきっかけで手に入れたという事になる。
 考えられる展開は更に一つだけで、そこまで考えた徳井は、その先を放棄したままだった。それがほぼ確実な事実だったとして、だから自分はどう思ったか。喜怒哀楽、どれもがしっくり来ないようでいて、その全てをいっぺんに体感しているような気にもなる。
 要するに、複雑なのだった。
 果たして自分がどうしたいのか、さっぱり分からない。ただひたすらに胸がざわつく。落ち着かないこの気持ちを持て余して、目の前のアルコールに手が伸びる。けれど慣れないビールが喉を通る感覚がまた気色悪さを誘って、結局徳井が落ち着く先は、左腕に巻いた、
 「お前それ、癖やねんなぁ」
 無意識に触れたブレスレットを目敏く見て取って、後藤が肩を揺すって笑った。
 長年愛用するそれを付け続けるのは、その出所を邪推されそうで不快で、それでなくとも徳井としては、長年付き合ってる彼女がいると思われるのも不本意だったから、ある程度を計算して、公の場に出るときは付けたり外したりしていた。けれどそれは常に尻ポケットだったり、愛用のバッグにだったり、いつも手に届くどこかで徳井を待っているのだった。そういえば今日はいつの間に付けたっけ、とぼんやり考えた徳井は、それが無意識の行動だった事に少しだけ自分で驚いた。
 徳井のそういう曖昧な行動を、付き合いもそこそこ長くなる後藤はある程度は理解していた。いつか聞いたことがある、それは遠い昔に冗談で福田と交換したのだと、まだ若かった徳井は笑ってそう言った。
 随分前の話なので、後藤の中でもその記憶は曖昧になりつつある。今になって聞き直すようなきっかけもなかったし、そもそもその必要がなかった。
 けれど、と後藤は思う。
 徳井がそのブレスレットに触れる時、それらは殆どが無意識に於いて、時に縋るように、時に慈しむように。まるで精神安定剤のような役割で、それはそこにある。嵌りやすいけれどおよそ執着はしない、淡白にも見える徳井が、唯一捨てずに持ち続けている特別な。
 そこまで考えた後藤は、いや、唯一ではないな、と思い当たった。
 もう一つ、捨てられずにいるものがある。捨てるという発想がそもそもないのかも知れない。それはいつも当たり前のように徳井の傍らにあったから、空気のように、だから失えば生きてはいけなくて。

 徳井にとっての福田は、たぶんそういうものなのだろうと、ちくりと刺さった痛みをそのままに、後藤は思った。



***



kaleidoscope【17】
2007/09/04 Toshimi Matsushita

1999年01月16日(土) 016:薄氷



徳井はこの状況に微かに苛付きを感じていた。

なにやら手違いがあったらしく、楽屋で待つように言われて数十分。
大御所の機嫌ひとつで現場の空気が支配されるこの世界において、いくらM-1王者だイケメンだと持ち上げられようと、チュートリアルの存在は数多くいる若手芸人の一組でしかない。
このまま行けば間違いなくずれ込むであろうスケジュールを調整するため、マネージャーが飛び出していったのを横目に、徳井は本日三本目の煙草に火をつけた。

今、この楽屋に存在する音は、カチカチと時計の針が時を刻む音だけ。
今日に限って楽屋が静かなのは福田が黙っているせいだった。福田とは挨拶を交わして以来口をきいていない。
そんなに珍しいことではなかったが、いつもならたいてい沈黙に負けて福田から話しかけてくるのに、それがない。
まだ具合があまりよくないのだろうか、と伺うように盗み見れば、無理している様子もなく、むしろ顔色はいいくらいで。
福田はなにやら物思いに沈んでいるようだった。掌で銀色の鍵を転がしては溜息をつく。
落ち込んでいるというよりは戸惑っているような、何か信じられないことがあったときのような顔。
まさか。脳裏に横切った後輩を打ち消すことも出来ず、徳井はろくに吸っていない煙草をもみ消して立ち上がる。

「ふくだ」
徳井のほうから声をかけるのは久しぶりだった。ぎこちない笑みを浮かべ顔をあげた福田の、戸惑った目とぶつかる。
そんな福田の反応にさえ、徳井の心の奥底は震える。
福田はいつから徳井に対してこんな目をするようになったのだろう。どこか怯えと媚を含んだ眼差し。すぐに消えるけど、徳井以外には見せたことのない色。
何を。何を言おうとしたのだろう。伝えるべき言葉を忘れ、かわりに誤魔化すように手に取った財布。
「喉渇いたから飲み物買うてくるわ。なんか欲しいもんある?」
「あー、冷たいお茶頼んでもええ?」
「わかった。もし本番始まりそうになったら教えてな」
「うん。いってらっしゃい」
どこまでも表面的な日常会話に嫌気がさして、徳井は逃げるようにして楽屋を出た。
擦れ違ったときちらりと見えた銀色が、鍵だと気付いたのは硬貨を自販機に投入したときだった。
――あの鍵は何の鍵?
もやもやとしたものが胸の中に広がっていくのを無理やり打ち消して、徳井は溜息をついた。

***
**

小さな掌におさまる鍵は、ポケットに入れておいたら失くしそうだった。
それでも、この鍵は川島が福田のために作ってくれた居場所の象徴のような気がして。鞄ではなくもっと近いところに置いておきたかった。
だからといってキーホルダーを付ける気にはならなかったのだけど。
今は川島の厚意に甘えてしまっているが、いずれ返さなければいけないものなのだから、自分の匂いがつくような行為はしたくなかった。


予期せぬ空き時間。徳井と二人きりの楽屋。静寂に耐え切れず、福田は無意識にポケットから鍵を取り出す。
何の変哲もない、マンションの鍵。大きいわけでも小さいわけでも、ましてや変な色に塗られているわけでもないそれの感触を覚えるよう掌で転がす。
最初はひんやりしていたが弄っている内に福田から体温がうつって温まった。

徳井は何が言いたかったのだろう。自分は何がしたいのだろう。
川島から預かった鍵をまるで見せ付けるかのように手元で転がして。体温で温まった鍵に鈍く映る自分の表情は見えず。
徳井が物言いたげに福田の手元を見つめていたのを、福田は気付いていた。声をかけられたとき、自分は何を聞いて欲しかったのか。
目が合った瞬間、わからないくらいの間が空いて、徳井は何かを諦めたような表情を浮かべた。そのことに安堵と落胆の想いを味わう。
もしも聞かれていたら何を答えればいいのか。福田にはわからなかった。



***



kaleidoscope【16】
2007/09/03 Kanata Akakura

1999年01月15日(金) 015:懸想ず



 何年か振りの朝食というものを取り、健康的に寛いでいるうちに、出掛ける時間が迫る。

 「福田さん今日、仕事込んでましたよね。夜は遅なりますか?俺は今日は打ち合わせだけなんで、そない遅ならんと思うんですけど」
 「どうやろ…分からへん。もしかしたら12時回る事もあるんかも」
 最後の仕事がロケだったから、時間が読めなかった。それを聞いた川島がふぅん、と思案顔になる。思いついてさっと立ち上がる。棚に置かれた小物入れを探って、目当てのものを取り出した。
 「これ、合鍵です。持っとって下さい」
 「…」
 もう一本スペアあったん思い出して。と笑う川島に、福田は一瞬、押し黙る。素直に受け取っていいものかどうか、判断に困ったのだ。現時点で、随分川島に世話をかけている自覚はある。合鍵まで貰ってしまったら、もっと甘えてしまう事になりはしないか。
 変なところで生真面目な福田の表情を見て取って、川島はゆっくりと表情を和らげる。福田の手を取った。
 「持っとって欲しいんです」
 それはむしろ、川島の熱望であり、単なる我侭でもあった。エゴとも言えたかも知れない。福田に合鍵を持たせて、まるで既成事実を作る。福田がここに戻って来ることを約束したかった。
 「…ありがとう。ほんなら、預かっとく」
 貰う、とは決して言わなかった。それでも川島は福田の手のひらに合鍵をぎゅっと握らせ、にこりと笑う。
 「待ってますから、遅なっても気にせんと帰って来て下さいね」







 福田が出て行ったドアが閉まると、部屋の中は急に静かになった。目を向ければテーブルには朝食の後そのままに、福田の使った食器がまだ残っていて、そんな些細なものがくすぐったいような、不思議な気持ちを沸き起こす。それらをシンクに運んで、手早く洗いながら、ぼんやりと福田を思った。
 マンションを出て、そろそろ駅に近づいている頃だろうか。切符を買って、電車に乗る。この時間の車内は混んでいるから座れないかも知れない。猫背気味の背中を丸めて、手すりに捕まりながら、窓からの景色を眺める姿を想像した。
 その華奢な背中が、更に、昨晩見た彼の姿をゆっくりと呼び戻す。

 夜中に魘された彼は、徳井くん、と何度も呼んだ。
 眉間に皺を寄せて、苦しそうに何度も、何度も呟く。それはひどく切なく、苦しげで、聞いている川島の胸が、文字通り押し潰されそうになるほど。切羽詰るその声に、焦がれる思いが湧き上がる。藻掻く彼を掬い上げてやりたくて、少し乱暴に肩を揺さぶれば、ゆるゆると悪夢の淵から戻ってきた彼の目から、追いかけるように涙が溢れた。
 呆然と川島を見た福田には、川島の姿が見えていただろうか。
 それでも、川島は精一杯手を伸ばした。小刻みに上下する背中をゆっくりと擦る。少しずつ落ち着いてくる呼吸に合わせて、ゆっくりと、何度も。
 「大丈夫ですよ」
 俺は、ここにいますから、と言った。福田を安心させる為ではない、間違いのない本心だった。
 ここにいる俺に気が付いて欲しい。あなたが好きだから、あなたを救いたいから。
 湧き上がる思いは溢れて止まらず、きっと、今まで言えずに溜めていた感情が一気に噴き出したのだと思った。
 今、確かに手の中にある福田を、更にぎゅっと抱き締める。すっぽりと収まる薄い体は、悪夢に魘されたせいか、しっとりと汗ばんでいた。その熱に浮かされる自分を自覚する。眩暈がしそうだった。ゆっくりと体の力を抜いていく福田の手が、やがて背中に回ってくる。縋るように体を寄せてくる福田を、心の底から愛しいと思った。

 「…アカンわ、ホンマに」
 色々、駄目だと思った。歯止めが利かなくなっている事も、それがだだ漏れている事も。 
 福田を追い詰めたくはない、と思う。
 自分のしている事が、福田にとって重荷でなければいいと思う。例えエゴだと知れても、福田のいいようにしてやりたい。見返りを全く求めないと言えば嘘になるけれど、この気持ちすらが福田にとってプレッシャーなら、秘めたままでもいい、と思う。
 その人がいとおしくて、大切で。こんなに澄みやかな気持ちは初めてだった。

 「重症や」
 反面で、こんなにも狂おしいほど何かを欲しい、と思ったのも川島は、初めての事だった。



***



kaleidoscope【15】
2007/09/03 Toshimi Matsushita

1999年01月14日(木) 014:泡沫



暗闇に慣れた目は、カーテンの隙間から漏れいる月の光に照らされた福田の寝顔の穏やかさまでしっかり捉えていた。
安心したように川島のTシャツの裾を握り締めて、胎児のようにまるまって眠る腕の中にある存在が信じられなくて、確かめるように何度も背中を撫でた。
華奢な福田の浮かび上がった背骨がやけにリアルで、川島に嘘ではないことを知らしめていた。
「ふくださん」
声にならない呼びかけは空に溶けた。


福田はセピア色のフィルムを覗く夢を見ていた。
それはまだ芸人を志す予感すらなかった少年時代の夏休み、当たり前のようにお互いの家に入り浸っていた頃のフィルム。
母親が切ってくれたスイカ片手に山と積まれた宿題に追われたり、近所の河原で花火をしたり、徳井の家出に巻き込まれ遠くの町まで足が痛くなるまで歩いたり。
近所の兄ちゃんに怖い話を聞かされた夜には、どちらからともなくくっついて眠ったりもした。
今思い出してもあほなことばかりしていたけれど、楽しかった。
スライドショーのように徳井との思い出が流れて福田を包んでいく。
どこを切っても徳井の笑顔が溢れ出す。
それが途中でぶつりと切れ、世界は暗転する。互いの姿は見えるのに、声が聞こえなくなったのだ。
何かを訴えようとする徳井に負けじと福田が呼びかけても、返事が来ない。胸が押しつぶされそうに痛くて気付けば泣いていた。
徳井が離れていくにつれだんだん侵食してくる闇に恐怖を覚えて、闇雲に手を振り回せば「何か」に当たった。
それはひどく暖かな温もりに満ちていて、福田は必死にしがみつく。
「ふくださん」
揺さぶられる感覚に恐る恐る目を開ければ、心配顔の川島の姿が涙でぶれて見えた。
これは夢なのだろうか。それとも現実?
わからずに呆然とする福田を、川島の大きな手が背中を擦る。
「大丈夫ですよ。俺は、ここにいますから」
きゅっと目を細めてやわらかく笑う川島に福田は黙って頷く。
背中に回された腕から伝わる温もりに引き込まれるよう目を閉じた。それ以降、朝まで怖い夢は見なかった。

緑茶の香りとにこやかな川島の声で福田は目を覚ます。
「福田さん、おはようございます」
「……おはよう」
朝起きて、おはようの挨拶をする相手がいる。
ただそれだけのことなのに、なんだか幸せを感じている自分がいることに福田は驚く。
その相手が川島だから嬉しいのか、それとも独りじゃないことが嬉しいのか、深く考えるのはやめた。考えても答えは出ないことは、しばらくは考えたくなかった。
よく見れば、福田を起こした川島はすでに着替えをおえて出かける準備万端で、福田は目をぱちぱちさせる。
目を擦って二度見するというある意味でベタな行動にも川島は目を細めてゆるりとした笑みを浮かべる。斜に構えない真っ直ぐで穏やかな眼差し。
「川島、半日オフやって言うてへんかった?」
寝てればよかったのに、と口に出さずに問いかければ川島が苦笑する。
「なんや、落ち着かなくて。遠足前の子供みたいなもんですわ。福田さん、朝食なんですけど、お茶漬けでええ?」
「や、朝飯は、」
いらない、と続けようとした福田を制して、川島が神妙な顔で首を振る。
「ちゃんと食わなあきませんよ。それにせっかくこうして二人で居るんやし、一緒に食べましょ」
言い出したら聞かない川島に、結局折れてしまう。それでもそんな自分が不思議と愉快で、福田の頬は自然と緩んだ。



***



kaleidoscope【14】
2007/09/01 Kanata Akakura

1999年01月13日(水) 013:静夜



 「福田さんはこっちの部屋を使って下さい」

 2DKの男一人にしては広い間取りは、こざっぱりと振り分けられていた。寝室も兼ねているという和室を通過して、荷物置き場のようになっている部屋に通される。細々物が置かれてはいるものの、狭さは感じない。それでもある程度は移しますから、と今にも片付けを始めそうな川島に、押しかけたのは自分なのだから、そこまでして貰っても困る、と福田は言った。
 そうですか、と気を悪くするどころかむしろ気落ちした感の川島は、部屋をぐるりと見回して、ある事に気が付く。迷惑なんか思ってないし、誘ったのも俺やからそれはええんですけど、ただね…と続いた。
 「客布団がないんです」
 大真面目な口調のせいで、いつになく良い声になった。一瞬ぽかんとした福田は、込み上げてくる笑いを堪える羽目になった。だってそんな真剣な顔をして、何を言うのかと思えば。
 「ぶっ」
 結局、堪えきれずに笑い出した福田を見て、川島は困惑顔になる。少し照れながら、無造作に頭を掻いた。
 「気ィ使いすぎやねん。夏なんやしそこら辺でごろ寝するからええって」
 「そんなん、ダメですよ!」
 福田の言葉に、間髪入れずに川島の反論が返る。福田さん病み上がりやのに、それやったら何のために来てもうたのか分からんやないですか!と気遣う川島の優しさが、いつになくくすぐったい。
 「あっち行ったりこっち行ったりで悪いですけど、福田さんは俺のベッドで寝て下さい」
 「それこそ、アカンやろ!」
 「何が」
 「何で家主のお前追い出してまで、俺が寝なアカンねん」
 「それは…、」
 心配だし、ぶり返しても困るし。それらは言い訳に過ぎなくて、結局のところ自分は今、福田に尽くしたいのだろうと川島は思った。自分の事は二の次でいいのだ。出来る事は何でもしてやりたい。福田が望むのなら、どんな事でも。
 けれど、それでは福田の気が治まらないらしい。
 「ほな、どうするんですか」
 俺だって折れませんよ、と川島は言う。思いのほか頑固なその気性は、知っているつもりだったけれど、想像以上だと福田は思う。
 「…一緒に寝ますか?」
 「エッ」
 窺うように示されたその提案は、それまでの勢いはどこへやら、随分と控えめなものだったので。一瞬聞き逃した福田は反射的に短く問い返す。それは驚きでしかなかったのだけれど、川島は苦情と取ったらしい。だって、しゃーないでしょ、と言い訳がましい口調になった。
 「どっちも譲られへんのなら、仕方ないです。諦めて一緒に寝て下さい」







 「福田さん、どっち側がいいですか?」

 殆ど没交渉のまま結局、そういう事になる。
 福田にしてみても他にいい提案がなかったのだから、仕方のない展開だった。小さめの鞄一つが福田の荷物の全てだったから、風呂を借りた後には川島がちゃんと着替えを用意してくれた。福田が規定外だというだけで、川島も相当にスリムな体型をしていたから、借りたTシャツは大きすぎる事はなかったけれど、いつも以上に体が泳ぐ事に苦笑する。ジャージーパンツは特に顕著で、紐をぎゅっと絞って結ばなければならなかった。
 「や、どっちでもええけど」
 そんな所まで律儀な川島に苦笑しつつ、男二人がベッドの前に立ち尽くす様は滑稽だと思った。
 「ほな俺、奥に行きますけど。落ちんといて下さいね」
 まるで子供扱いだ、と福田が思う前に、先にベッドに寝転がった川島に続いて、その隣に潜り込む。スリムな川島とガリガリな福田とはいえ、やはりシングルベッドに男二人は狭かった。エアコンを控えめに入れて、夏だったけれど肌が密着してもさほど不快感はない。それよりも人肌の温もりを心地良いと感じる。随分と長い間忘れていた、そんな感覚を思い出した。
 「福田さん、遠慮せんとスペース使て下さいよ」
 そう言う川島の方がよほど遠慮をしているようにも見えた。仰向けになるとそれだけ狭いから、横向きになって、もぞもぞとポジションを探すうちに、至近距離で川島と目が合った。気まずいのか照れるのか、反応に困った福田の腕から背中に、ゆっくりと川島の手が回る。
 「…嫌やったら言うて下さい。この方が窮屈やないと思うんで」
 抱き締めるというよりは、包み込むような。まさに川島の両腕に包み込まれるような感覚だ、と福田は思った。不思議と嫌悪感は全くなくて、むしろひどく安心をした。ほっとする人肌の温かさ。川島の。
 「寒ないですか?」
 それとも暑くないですか?と川島が問うてくる。耳元に聞こえた声は、囁くように降って落ちる。柔らかな低音が、痺れるような、心地いい甘さを引き連れてくる。
 とろり、と眠くなる。
 「……ありがとうな、」
 全てに感謝をした。川島の優しさも、気遣いも、気持ちも全部、全部。
 「おやすみなさい」

 最後に囁かれた小さな声が、落ちかけていた眠りをするりと絡め取る。 
 川島の腕に包まれて、その日福田は、穏やかな眠りについた。



***



kaleidoscope【13】
2007/09/01 Toshimi Matsushita

1999年01月12日(火) 012:絡繰



福田を現場まで送り届けると、川島はその足で劇場に向かう。
今日の仕事は劇場だけだったから、移動がない分楽だった。予定よりはやく楽屋につけば、案の定田村はまだ来ていない。
おかげで川島は邪魔されることなく思考に浸ることが出来た。

先ほど分かれたばかりの福田の温もりがまだ残っているような気がする。
見た目以上に細い手首をつかんだ途端、福田は泣き出しそうな目をしていた。
何かを失くした子供の目。
自分より三歳も年上の男性をつかまえて使う表現ではないが、そうとしか言えない。
そんな顔が見たくなくて咄嗟に出た言葉は、茶化すわけでもなく本心だった。
唐突過ぎる誘いを、福田はどう捉えたのだろう。
いつになく頼りない歩みは、まるで福田がこのまま消えてしまうのではないかという不安を呼び起こした。だからかもしれない。
傍にいたいという気持ちがこれ以上ないストレートな言葉に変換される。
自分の口から出た言葉が自分で信じられなかった。慌ててつけた尤もらしい理由付けにも、福田は唖然とした表情を浮かべていた。

そのとき、川島を現実に引き戻すように、高い声が降ってきた。
挨拶もそこそこに、福田のことを聞いてくる相方に川島は苦笑する。
「福田さんは?」
「仕事行かはったよ」
「そっか。よかったぁ」
ほっと、安心したように吐き出された息。人の良さを表すかのような優しい笑み。
普段はうざいくらいからまわりなのに、ときにこうして男気を見せる田村に川島の表情が緩む。
「かぁしまぁ、本番まで寝とけ」
「寝れへんわ、こんなところで。毛布もなんもないやんけ」
「じゃーんっ。そういうと思うて用意してありまーす」
ぶーたれた川島に背を向けた田村は、最近声優が一新されたネコ型ロボットの効果音と共に大判のタオルを取り出す。
団栗のようなつぶらな瞳が楽しげに光る。
「気がきくやん」
「お疲れのアキちゃんにご褒美でーす。もっと褒めてや」
「よしよし、茶ーりーブラウン。あとでスヌーピー買うたるわ」
「やから茶やないって。スヌーピーよりパンがええなぁ」
「ほら茶色やんけ」
田村と軽口叩きあいながら、ふと思う。
チュートリアルも以前はこんな風に戯れたりじゃれたりしていたのだろうかと。

仕事を終えて真っ先に川島がしたことは、携帯のチェックだった。
友人からのメールに混じって福田からのものがないか探したが、ないことにホッとするのと残念な気持ちが同時にやってくる。
自分からかけたら、急かしているように思われないか。
福田に気を使わせてしまうのではないか。そう思うと自分からコールするのも躊躇われた。かわりにメール作成画面を呼び出す。
ふ、く、だ、と打ったところで繋がる回線。まさにその人だったことに、川島ははやる気持ちを抑えて通話ボタンを押した。
「俺、まだお前に甘えてもええ…?」
受話器の向こう側、頼りない縋るような声に、川島はいてもたってもいられず立ち上がる。間違いなくこれは福田からのSOS。
「……今すぐ、迎えに行きます」


薄い体を縮こませて所在なさげにロビーに座っている福田を見つけた川島はぎょっとして駆け寄る。心なしか顔色が悪い
「福田さん、痛いんですか?」
声をかければ、福田は慌てたように首を振る。
確認するように額に触れれば特に熱がある様子もなく、福田の表情も痛みを耐えているように見えなかったから手を離そうとすれば、その手を福田がつかむ。
「ふ、福田さん?」
「握ってもええ?」
遠慮がちな手をとって握りなおせば、ほんの少しだけあった強張りが溶けていくように福田の顔に笑みが浮かぶ。
「あんな、今日、ずっとこうしたかってん」
あまりにすらりと言われて川島は耳を疑う。
ともすれば、何かのドッキリではないかとカメラを探したくなる気持ちを抑えて、小さく深呼吸する。
「かわしま、ありがとな」
柔らかな安心しきった笑顔をむけられて、川島の胸は高鳴った。

***
**

川島の部屋は予想よりも片付いていた。
「あ、麒麟ゾーンや」
番組の企画で川島の部屋を訪れたという後藤が笑いながら話していた現物を目の当たりにして笑えば、川島は拗ねたように口を尖らせる。
そうすると年齢相応に見えて、なんだか可愛らしい。
きょろきょろと部屋を見渡す福田に座るよう促して川島は台所に立つ。
「もう夕飯とられました?」
「まだやけど」
「ほななんか作りますわ」
「俺も手伝う」
昨日からずっと川島に甘えっぱなしだったし、何か返せればと思った福田が手伝いを申しでれば、川島は目をきゅっと細める。
エプロンを借りて川島の隣に立てば、狭い台所はいっぱいになった。
福田ほどではないが、どうやら川島も料理は好きらしく危なげのない手つきで包丁を操る。
肩をぶつけ合っては笑い、腕が触れては笑う。それがなんともいえず照れくさかった。



***



kaleidoscope【12】
2007/08/31 Kanata Akakura

1999年01月11日(月) 011:揺籃


 楽屋のドアを開けると、先に来ていたらしい徳井と目が合った。

 「…おはよう、徳井くん。昨日はすまんかったな」
 その謝罪は病院騒ぎになった事とも、打ち合わせに穴を開けた事とも取れた。曖昧なまま投げかけたそれを、徳井も曖昧に、黙って受け取る。
 「そんなん、体の事やししゃぁないやろ。もうええんけ?」
 それでなくとも貧弱な福田の身体が、更に痩せたように見えるのは徳井の錯覚だっただろうか。疲れたような目が、血の気の薄い頬が、そう思わせるのだろうか。それよりも徳井自身がそう、思いたかっただけだろうか。
 目の前の福田を見る。僅かに感じるこの違和感は何だろう、と思った。
 「薬も飲んだし一晩安静にしとったから、もう大丈夫」
 何をもって大丈夫なのか、と深く考える事は止めた。福田自身、何が良いのか悪いのかよく分からない。恐らくそれは、身体以上に心が混乱しているからだった。
 「川島が色々世話してくれたんやってな」
 「あ、うん、そうやねん。たまたまやってんけど、乗りかかった船や言うて昨日も結局、一晩付いとってくれて」
 その混乱の元凶の名前を出されてドキリとする。浮ついた気分のまま、今さっきもここまで送ってくれたのだ、とありのままを告げた福田は、一瞬徳井の目が揺らいだのを見逃した。夜の海のように静かに揺れた徳井の黒目は、漆黒の闇のように昏く、深く。光が届かないのだ。闇夜の下で目を凝らしても相手の顔が分からないから、今も、目の前の福田の影形しか見えない。
 「…そーか、今度会うたら礼言わなアカンな」
 まぁ何にせよ良くなってよかったわ、と徳井はもう、話を切り上げる。病み上がりやねんから、今日も無理はすんなよ、と通り一遍の優しい言葉を掛けながら、もう福田を見ていなかった。
 そんなのももう、何だか慣れっこになってしまっていて。
 福田は無意識に微笑う。それは自嘲にも似ていた。たぶん今、徳井が一番自分を見るのは漫才をしている時じゃないかと思った。非現実と現実が裏返る感覚。何でもない動作で相手と対峙する事が出来ない。自然な動作を不自然に感じ始めたのは、果たしていつからだったか。
 それは恐らく、幼馴染からパートナーに変わった瞬間に、自分達は、何かを失ってしまったのだ。
 相手が自分を見ないと分かっている時にだけ、その顔を見る事が出来る。もう福田に背を向けた徳井の横顔を、福田は見つめた。険悪ではない、関係は至って友好。けれど核心に触れない、腫れ物に触り合うような自分達の関係は、健全とは言い難かった。
 どうしてこうなってしまったのか。そしてもう、戻る事はないのだろうか。
 それは、はっとする喪失感だった。絶望にも似た何かが福田を襲う。足元からぞわぞわと這い上がる何かが、福田を震えさせた。堪らず小刻みに揺れる手が、お守り代わりのブレスレットに触れた瞬間、反射的に指は離れた。
 代わりに俺の手を握って下さい、と言った川島の横顔を思い出す。
 照れたのかほの赤く染まった頬の色。冗談を言っているのではないと分かった。本気でそう言ってくれた、川島の手のひらの温もり。
 今、この瞬間に。川島に手を握って欲しい、と福田は強く感じて、そう思った自分にひどく驚いた。







 その日の仕事を終えて、ホテルに戻った。病み上がりの身体を心配したけれど、思ったより調子が良くて内心で安心をする。食欲はまだあまりないけれど、腹痛は消えたし、気分も悪くはなかった。
 一日振りの部屋に入ると、毎日きちんと掃除をされた室内に、いくつかの福田の荷物だけが余所者のように置かれている。直線距離でベッドに近づくとそのままばたりと倒れ込む。清潔なシーツの感触が気持ちよくて目を閉じる。しばらくして開けた視界には、変わらないホテルの天井があった。
 うちに来ませんか、と言った川島の言葉を思い出した。
 正確には今日一日、何度も再生したそれを、また引っ張り出して来たのだった。言われた瞬間は悪い冗談だと思ったし、およそ現実感のない話だと思ったけれど、時間が経つにつれ、冗談ではなく何度もその言葉を再生する自分がいた。
 福田自身、どうしたいのか分からないでいた。
 川島の言葉は嬉しかった。急に優しくなった川島は、けれど自然な変化で、まるで今までもいつでもそうする準備は出来たかのように振舞ったから、福田もつい、その優しさに甘えてしまった。そんな自分を不思議に思うけれど、反面で嬉しかった自分も自覚している。
 優しくされるのは嬉しい。その言葉が、態度が、嘘ではないと分かれば、尚更。
 きっと自分は他人のぬくもりに飢えているのだ。本当は欲しいのに、否定されるのが怖くて欲しいとは言えなかった。だから、本当は。優しくされたい。甘えたい、縋りたい。
 この揺れは何だろう、と福田は思う。苦しい時に側にいてくれたから?それとも、自分は本当に川島を。
 ぶるり、と身震いをする。エアコンのよく効いた室内は、けれど一人の体温だけでは少し寒かった。ひどく情緒不安定な自分を自覚しながら、無性に寂しいと思った。
 パンツのポケットから携帯電話を取り出した。そういえば朝、楽屋前で別れてからまだ、礼の一つも言えてない。川島のスケジュールは知らなかったから、メールの方が無難だっただろうけれど、福田の指は、通話ボタンに向かった。
 『福田さん?今どこですか?仕事終わったんですか?』
 数回のコールで直ぐに繋がった電波の向こう、福田が何か言う前に、川島が早口でそう問うて来る。体調どうでした?無理してませんか?と質問攻めにする川島は、昨日の続きのまま優しい声をしていた。
 「…川島」
 それらの質問の答えを前に、福田の息が詰まる。ありがとう、と言うより先に、請うような想いがあった。
 「俺、まだお前に甘えてもええ…?」
 一人のホテルは嫌だ、と思った。朝、徳井の顔を見た時以上に、もっと体内に溜まる何かが、ここにはあった。それをストレスと呼ぶことも出来た。色々もう、限界だった。
 『……今すぐ迎えに行きます』
 チェックアウトしといて下さい、と早口でそう言った川島は、もっと性急に電話を切った。



***



kaleidoscope【11】
2007/08/31 Toshimi Matsushita

1999年01月10日(日) 010:融解温度



手を握って欲しい、だなんて。
不安そうで弱弱しい響きは、どこか睦言にも似ていて、川島はひそやかに笑う。そんな深い意味があるはずないのに、意識してしまう自分が滑稽で可笑しい。
それでも福田の左手を包み込むようにすれば、ひんやりとした感触。その冷たさが、初めて福田を意識した日のものと重なる。
――この手を離したくない。
湧き上がった衝動を押し殺してやんわり力を込めれば、福田は緩やかな笑みを浮かべる。
安心したように目を閉じた福田から、穏やかな寝息が聞こえてくるまでそんなに時間はかからなかった。

誰に憚ることなくこんなに間近で福田を見つめる機会なんてそうそうありえないから、川島は焼き付けるように見つめる。
福田は男前と賞される相方とは別ベクトルで顔を弄られることが多い。
てかりだったり、あまり並びのよくない歯だったり(仮歯を入れたというのにまだまだバランスが悪い)。
確かに一般的な評価からすれば整っているとはいえないかもしれない。だが川島は、そんな福田の一つ一つが愛しかった。
左頬にきれいに並んだ二つのホクロ。密かに触れてみたいと思っていたそこに手を伸ばす。
壊れ物を扱うように触れれば、福田が僅かに身じろぐ。
そのとき、福田の手首に巻かれたブレスレットが目に入った。
シンプルなデザインのそれは、ちゃらちゃらしたものが好きだと公言する福田の趣味から微妙に外れているようで、それでいて不思議なほど馴染んでいた。
ブレスレットで擦れたのか、赤い線状の痕が痛々しい。
福田は無意識なのか、ブレスレットごと手首を擦っていることが多い。先ほども徳井を庇うような発言をしたとき、ぎゅっと握り締めたいた。
思い出したくないことまで思い出して川島は顔をしかめる。
そのとき脳裏に、福田と同じような仕草をしていた人物が一瞬だけよぎる。あれ、と思うまもなくそのイメージは消えた。

***
**

朝、福田が目覚めたときには既に退院の手続きやらなにやら細かいところまで川島が済ましてくれていて、当然のように現場まで送り届けてくれた。
いくら乗りかかった船だからといって、申し訳ない気持ちになる。それと同時に、なんだかくすぐったいような嬉しさも感じていた。

テレビ局の廊下を二人並んで歩く。
自分より高い位置にある川島の目の下には薄っすらとクマが浮かんでいて、あぁ、寝てないんだと申し訳なくなる。。
「かわしま」
「なんですか?」
「ごめんな」
「俺がやりたくてしてることやから、気にせんといてください」
珍しく慌てたように手を振る川島が可笑しくて、なんだか涙が出そうになる。何でこんなに弱っているのだろう。
福田はいつものとおりブレスレットに触れて心を落ち着かせようとした。だがそれより早く川島の手が伸びてきてやんわりと右手をつかむ。
「あきませんよ。手首、あっかあかいやないですか」
「……せやな」
「どうせつかむんやったら、俺の手握ってください」
言いながら照れてしまったのか、川島の顔がかすかに紅潮する。くさいこと言うな、とつっこもうにも、その照れが伝染してしまったのか福田の頬も熱い。
三十前後の男二人がと思わないでもないが、掴まれた手もそのままに福田はどうして良いかわからず目を泳がせる。
「福田さん」
こほんと小さな咳払いをして、前に視線を固定させたまま川島が改めた声を出す
「提案なんですけど、体調が本調子に戻るまで、うちに来ませんか?」
「え?」
「一人暮らしやと、なんかあったとき動きにくいやないですか。それに福田さんのホテルとうちって結構近いんですよ。電車で20分くらいやし」
突然すぎる提案についていけない福田に川島は表情を緩める。
「あ、もう楽屋着きますね。今すぐにとは言わないんで、考えておいてください」
ぱっと離された手、無理やり張り上げた明るい声。深々とお辞儀して去っていく川島から、目が離せなかった。



***



kaleidoscope【10】
2007/08/30 Kanata Akakura

1999年01月09日(土) 009:臨界点



 その温もりと重さは、福田が確かに生きていると感じさせた。

 目が覚めた時、一瞬、死んだのかと思った。暗がりの中に覚醒して、まるで自分が唯一人のような気がして。遅れてきた触覚が側にいる人間の重みを伝えて、視線を向けた時にそれが果たして誰だったか、福田は咄嗟に判断し兼ねた。
 黒い髪、がっちりとした肩幅が狭いベッドに窮屈な体勢で収まっていた。小さな福田の呟きでも直ぐに目を覚ました川島は、初め、切れ長の二重をとろりと動かした後、文字通りに飛び起きた。
 川島だ、と頭では分かっていたのに、その時の福田は何を思ったか。
 落ち着いて会話を交わしながら、心はぼんやりとその場に佇む。薬のせいか、頭に靄がかかったようにその動きが鈍かった。おぼろげな記憶の中で、川島が自分を助けてくれたのだと思い出した。あの時、縋るように凭れた川島の肩の質感や、背中を撫でてくれた手のひらの感覚。心底心配してくれていた、けれど優しかった声。

 徳井がこの場にいる筈がないのに。

 だってわざわざ知らせなかったのだ。心配をかけまいとして、先に不実を働いたのは自分なのだ。迷惑をかけたくなくて、自分一人で処理をしようとして、結果このざまだった。それでいて徳井に来て欲しい、だなんて、浅ましい自分に眩暈がしそうだった。
 もはや癖のような動作で、布団の下、そっと左手首を撫でれば僅かな痛み。川島の目を盗んでちらりと目をやれば、線のような赤い痕になっていた。痛みに我を忘れて、擦れるほどに握り締めていたらしい。どうして自分は、そんなにも身勝手で傲慢な。
 「川島、ずっと付いていてくれたん」
 視界に認めた時計の針は、随分深い時間を指していたから。襲い来る痛みに耐えながらも、川島や田村に迷惑がかかる事だけは拒否した筈だったから、仕事を終えて、わざわざ様子を見に来てくれたのだろうと知れた。それが何だかいつもの川島らしくなくて、それでいてごくごく自然にその優しさを受け止める自分がいる。
 「今さら帰れなんて言わんとって下さいね。大事を取って入院って形を取ったけど、明日にはもう退院出来るそうですから、乗りかかった船やし、今日はこのまま付いてますよ」
 側にいるから大丈夫、と言われた気がした。
 この優しさは何だろう、と思う。川島が優しい。ストレートな気持ちが痛いくらいだった。
 気が付いた頃には自分達はそんな風に、素直に行動する事が出来なくなっていたのかも知れない。福田は思う。
 自分だけではない、それは徳井も恐らくそうだった。本音を秘めて、波風が立たないように、何より平穏を求めた。そうしている限りは自分達は永遠なのだと、本気で信じていたのかも知れない。
 お互いから逃げて、誤魔化して、虚構ばかりを積み重ねて、それでも離れる事は出来なかったから。
 でも、それももう、疲れてしまった、のかも知れない。
 「ずっと居りますから、安心してもう少し寝とって下さい」
 川島の微笑い顔。いつもなら突っかかってきたり、からかわれたり、だから川島の笑い顔を間近で見るのは初めてに近かった。ああ、コイツはこんな風に笑うんだ、と思う。濃い眉に目鼻立ちのくっきりとした、柔らかな笑い顔はほんの少しだけ徳井に似ていた。
 「ありがとう、…川島」
 お願いがあるんやけど、と言った。こんなに心細くて、気持ちが心許なくて、こんなにもぐらぐらするのは、自分が病人だからだ、と思う。だから姑息にも川島に縋っているのだ、と言い訳をする。
 「何ですか」
 今、福田が頼めば人だって殺しそうな勢いの川島は、そっと顔を近づける。福田の願いを取り零す事無く聞いて、叶えてやる為に。
 「手を握っとって」
 音もなく布団から、左手を差し出した。溶けるように笑いを深めた川島は、お安い御用です、とその手を包み込む。骨太な手のひらに包み込まれた瞬間、するりと川島の体温が流れ込んで来る。冷えた体にはその熱さが心地良かった。
 「さ、もう寝て下さい」
 空いたほうの手で、さらりと額を撫でられる。張り付いた前髪を掬ってくれる。静かな川島の声に導かれて、福田は再び目を閉じた。
 閉じた瞼の裏、祈るように、思った。
 なぁ、徳井くん。もう、ええかなぁ…。


 目を閉じると断たれた視界の先、繋いだ手の感覚ばかりに支配された。
 川島の大きな手のひらと、その血液のあたたかさ。それだけが今、福田の全てだった。



***



kaleidoscope【9】
2007/08/29 Toshimi Matsushita

1999年01月08日(金) 008:決意表明



二十年来の幼馴染で、福田の相方。誰よりも福田のすべてを知っているであろう目の前の男。自分と大差ない身長のはずなのに、大きく見えるというのは彼の自信の表れか。
徳井の笑みに込められた想いを、川島は薄っすらと感じ取り、その上で否定する。認めてしまったら戦えない。そう気付いてしまったのだ。
だからこそ、いっそう鋭い眼差しで徳井を見据える。
「預かる?  アホなこと抜かすんやめてもらえますか、いつかあなたに返さなアカンみたいやないですか」
ノンブレスで言い切った川島に、徳井は静かな眼差しを向ける。その眼差しに浮かんでいるのは、仕事中のスイッチの入ったときよりも深い、闇。絶望にも似た光が川島を貫く。
「福田は、俺のものやないよ」
「よく言いますよ。所有権主張してるくせに」
「そんなことないわ。まぁ、俺は福田のものやけどな」
真意を悟らせないよう振舞う徳井に、するりと絡めとられていくような感覚に、川島は眉をしかめる。徳井がこれでは福田が進むことも戻ることも出来ないだろう。
袋小路に嵌ってしまった二人を哀れむ余裕なんて、今の川島にはなかった。
「なぁ、川島?」
いっそ優しげに問いかけられて川島は背筋を伸ばす。
「福田さんが徳井さんのものやないって言うんやったら、俺があの人を貰います」
きっぱり言い切った川島に、徳井は無意識なのか左手のブレスレットをさすって微笑する。
それ以上、二人の間で会話を交わされることはなかった。

病室に入れば、まだ薬が効いているのか、先ほどよりは穏やかな顔をして福田は眠っていた。
しかし血の気の失せた福田からは生気が感じられず、川島は恐る恐る口元に手をかざす。弱弱しいが確かな呼気を感じて、そっと胸をなでおろす。
それから近くのパイプ椅子を持ってくると、どかりと腰を据える。
徳井は腕を組んだまま無言でその様子を見ていた。
福田の髪をなでる川島の慈しむような眼差し。壊れ物に触るようにおずぞずと伸ばした指先。
遠い昔に封印したそんな表情を見ていられず、そっと病室を後にした。


***
**


消毒やら何やらで独特の匂いのする部屋、福田は胸の上に圧し掛かる重みと温もりで目が覚めた。
ぎりぎりまで絞られた照明のせいで、暗闇に慣れていない目が視界を取り戻すまでに時間がかかった。
何が起こったのか判断がつかず、わずかに動く首をひねって周囲を確認すれば見覚えのある影。
「……かわしま?」
圧し掛かっている物の正体に困惑しながら名前を呼べば、川島はもぞもぞと動き出す。それからハッとしたように飛び起きると、川島は福田に向き合う。
「すみません、起こしてしまって」
気まずそうに頭をかく川島に福田は首を振る。そのとき視界の端に映った時計が結構な時間を指していることに気が付く。
「ずっと付いててくれたんか? すまん」
「いえ。それより具合は、どうですか?」
「ん。だいぶ楽になったわ。ありがとな」
ほっと安心したように川島が表情を緩めるのを福田はぼんやりと見つめる。なんだか川島の様子がいつもと違う。何が、とはいえなかったが、微かな違和感。
「福田さん?」
「川島、一人?」
「え? ええ」
「そぉか」
一瞬だけ落ち込んだ自分を福田は嘲う。
何を、期待していたのだろう。徳井が来るはずないのに。
「福田さん、あまり無理しないでくださいね」
川島から向けられる、真摯な眼差しが少しだけ痛かった。


***



kaleidoscope【8】
2007/08/28 Kanata Akakura

1999年01月07日(木) 007:宣戦布告



 「うわー、怒っとるわ」

 電話を切った田村が狼狽した表情を揺らすのを見て、徳井は顔を上げた。
 「川島、福田の面倒見てくれとるん?」
 「はい。でも、思ったより福田さんの具合が悪いみたいやから、薬より病院に連れて行くって。マネージャーさんに連絡取ってくれ言うてますんで、宜しくお願いします」
 「分かった、色々悪いな」
 言った言葉もそこそこに、徳井はすぐに携帯電話を取り出す。いつものお調子顔を消して、笑いもなく、それだけ福田が心配なのだと田村は思った。そんなに心配なら直接見てあげればよかっただろうに、どうしてこんな回りくどい事をするのかは、田村には分からない。
 「…おぉ、そう、病院には川島が。直接川島と連絡取って貰える?打ち合わせは俺一人で行くから」
 川島の携帯番号は分からなかったから、今の時点で福田がどの病院に行くのか、徳井には分からなかった。だからマネージャーに後で病院名を連絡くれるよう念を押して、けれど顔を出すかどうかは、今の時点で決めていなかった。
 本番中から明らかに具合が悪くなっていく福田を、徳井は気が付いていた。初めは気のせいかと思って、それから注意深く様子を窺えば、福田は気付かれたくないのか、何でもない振りをする。それでなくとも本番中ならどうする事も出来なかったから、収録が終わるのを待って、人の良さそうな田村を捕まえて薬を買いに出たのだった。
 自分以外なら誰でもよかったのだけれど、田村を選んだのには訳がある。
 収録中、一度だけ川島と目が合った。正確には福田を見る川島と、福田を介して一瞬だけ視線が交わったのだ。川島はたぶん、気が付いた。福田の様子が普段とは違う事に、だから楽屋に福田一人を残しても、川島がきっと、気が付いて介抱してくれる。
 それはひどく他人任せな行動だったけれど、福田が自分に気付かれたがらない以上、自分に出来るのは福田の気持ちを汲んで、知らない振りをしてやる事だと思ったのだ。
 「徳井さん」
 川島の事を考えていたら、田村に声を掛けられた。考えに耽ってしまっていたために、手持ち無沙汰に佇んだ田村が、困ったような顔になっている。
 「徳井さん俺、そろそろ次の現場行かなあかんので、」
 「あ、あぁ…ありがとうな、助かったわ。川島にも礼言うといて」
 「ハイ、分かりました…あ、徳井さん」
 今にも駆け出しそうな足をふと止めて、田村が振り返る。言おうか言うまいか迷って、やっぱり言おう、そんな顔。
 「あの、川島が怒っとる言うたけど、悪い奴やないんです。ホンマに福田さんの事心配したんやと思うんで、勝手な事もしましたけど、気ぃ悪くせんとって下さい」
 福田さん、はよ元気になるとええですね!と大声を残して、一気に走り出した田村の背中を見送りながら、徳井はゆるゆると息を吐き出す。それはひどく重く、濃く、徳井の腹の底から吐き出されたものだった。やがて、自分も打ち合わせに向かわなければ、と徳井は重い足を踏み出した。









 打ち合わせを問題なく終わらせて、徳井の足は結局、病院に向かっていた。
 行けば福田は気を遣うだろうけれど、行かなくても打ち合わせに穴を開けた事で、やっぱり福田は謝りたがる。どのみち同じことなら、様子が見たい自分の気持ちを通そうと考えたのだ。
 マネージャーに告げられた病院に着き、指定された病室を探す。薬が効いて眠っているという、福田からは特に連絡は入っていなかった。最後に携帯をチェックして、電源を落としながらふと、顔を上げると、反対側からやってくる川島の姿が見えた。
 「徳井さん」
 徳井が何か言う前に、ほぼ同時に気付いたらしい、川島の声の方が早かった。不機嫌を隠そうともしない、怒りにも似た何かが真っ直ぐに徳井に向かってくる。
 「川島、色々悪かったな」
 「俺は別に何もしてませんよ。それに、」
 悪いんやったら福田さんにでしょ、と川島は冷たく言い放つ。棘のある声色は、普段の柔和そうな笑い顔と似ても似つかない。
 「あと、うちのを巻き込むんも止めて下さいよ。人がええからってつけこむんは卑怯やないですか。気付いとったんなら自分で病院連れて来たったらよかったんや。福田さんあんなに苦しんで、可哀想やないですか」
 もっと早くから行動に移してやれていれば、もっと苦しまずに済んだかも知れない。けれど痛みが薄い間は、福田は病院に行きたがらなかっただろうから、川島のそれは結果論に過ぎなかったけれど。そういう事を指摘したいのではなくて、要は、徳井の誠意の問題で。
 「相方を、生かすも殺すもあなた次第ですか」
 田村を引き込んだのだって川島は、気に入らなかった。自分本位に周りばかりを動かして、それはあまりに傲慢ではなかったか。
 そんなやり方は認められない、と川島は思う。互いに距離を置いて、干渉をしないと見せかけて、互いに誰よりも相手を束縛する。そんな雁字搦めな関係から、川島は、救ってやりたいと思った。
 「福田さんを、あなたに任せられません」
 誰かをどうにかしたい、と思ったのは初めてだった。優しくしたい。守りたい。愛したい。
 そんな川島をじっと見た徳井は、不意に笑ったように見えた。
 「ほんなら、お前が福田を預かってくれるんけ?」

 
 徳井のそれは、諦めにも似た。滲むような笑みを浮かべた徳井は、言って川島を見た。



***



kaleidoscope【7】
2007/08/28 Toshimi Matsushita

1999年01月06日(水) 006:相反



不意に、握り締めていた携帯が震える。
相手を確かめずに出れば誰よりも先にスタジオをあとにしたはずの田村だった。珍しく切羽詰った田村の声。
「そこにまだ福田さん、居る?」
「おるけど、なんや」
「ほな、もうちょいそこで待って貰うてええか。もうすぐ薬局に着くから薬買うたらすぐそっち行くから」
「それより病院へ連れていくわ」
思いもかけないことを言われて驚きつつも、そういえばこういう気遣いは自分より田村のほうが出来ることを思い出し納得する。
きっと、福田の不調に気づいて後先考えずに飛び出したのだろう。それでも苛ついていた川島は、その気分のまま尖った声を出す。蒼白な顔のまま福田が川島をみていることに気づかず、川島は宣言する。
「マネージャーに連絡頼む。福田さんのマネージャーの番号も聞いて。病院ついたらまた電話する」
一方的にまくし立てると、通話ボタンを切ってしまう。
「ちょぉ、かわしま。大丈夫やって、こうして休んどけば」
「大丈夫やないでしょ。そんなまっしろな顔してて」
もういいです、黙ってください。
無意識に福田の頭を撫でれば、びくりと肩を揺らし、それから諦めたように大人しくなる。そんな福田を自分にに寄りかからせて川島はタクシーを一台呼んだ。

結局「仕事に穴をあけさせるわけにはいかない」という福田の懇願に負けて、診察が終わったら川島にも連絡を入れるという約束と引き換えに、福田を診療所で下ろすとそのまま次の現場に向かった。
ぎりぎりで控え室入りした川島に、田村が心配そうに駆け寄ってくる。
「福田さんは?」
「病院つれてった。福田さんのマネージャーにも連絡いれたから。さっきはありがとうな」
「それはええねんけど、川島、お前も大丈夫なん?」
心配顔を崩さず、田村は声を潜める。
「凄いかおしてんで。お前も病人みたいや」
「俺はええねん」
なおも食い下がる田村に被せるように、収録が始まるからとADが呼びにきてその場はそのまま有耶無耶になった。

幸いといっていいのかこの日の仕事は雛壇での賑やかしが主だったから、ともすれば上の空になりそうな収録を川島は努めて冷静に乗り切った。
収録を終えて真っ先に携帯をチェックすれば、連絡の入った形跡はない。
「川島、病院行くん?」
「ん。今日はこれで終わりやからな。まだ連絡ないってことは病院おるんやろうし。けど、田村もよう気づいたなぁ、福田さんが具合悪いって」
収録中、ずっとひっかかっていたことを投げかければ、目に見えて動揺しはじめる相方に目線だけで先を促す。
だが歯切れ悪く気まずそうな表情を浮かべ口篭る田村に、川島は意識してドスをきかせて低い声を出す。
「はっきりせぇ、玄米」
「や、あんな、あんとき徳井さんと一緒やってん」
しどろもどろになりながら田村は言葉を続ける。
「福田さんは、徳井さんに気づかれないよう振舞っとったんやろ。やから徳井さんが気付いたって気がついたら余計気にするからって。薬買うたら俺に持っていって欲しいって」
「なんや、それ」
自分でも退くぐらい不機嫌そのものの声音になったことにも気がつかず、川島は顔をしかめる。
なんて欺瞞に満ちた行動なんだろう。――徳井も、福田も。そんなの、思いやりでもなんでもないのに。
「あ、やから川島、福田さんには内緒にしてや」
「わかった」

そう、徳井がそういう行動取り続けるのだったら自分は自分のやり方を貫くだけだ。



***



kaleidoscope【6】
2007/08/27 Kanata Akakura

1999年01月05日(火) 005:接触



 徳井より先にその事に気が付いたのは、たまたまの偶然だったのかも知れない。

 その日、スタジオでの仕事を終え、次の仕事までは少し時間があったため帰り支度もゆっくりと、楽屋で寛いでいた時だった。他のコンビや芸人達は殆どがもう楽屋を出てしまい、大人数では狭く感じられたその部屋も、今は随分と広く見える。ふと、視線を動かした先に、川島は違和感を覚えた。
 「…福田さん?」
 部屋の一番隅のほう。あまりに地味な場所にいたために、彼がまだ楽屋に留まっていたことすら、川島は気が付いていなかった。椅子に座り込んで、前屈み気味なのは、両手で腹部を押さえているからだった。
 「福田さん?」
 呟き気味だった先ほどとは違い、今度は本人に届くくらいの声で。聞こえているのかいないのか、呼びかけてみても福田が顔を上げる気配はない。そして川島はあぁ、と思う。そういえば今日の福田は調子が悪そうだった、と今になって思い当たった。気のせいかと思っていたし、何より福田自身がいつもと変わらずに振舞っていたので。それでも、今思えばいつも以上にテカった顔に浮かんでいたのは脂汗だったし、何より不自然なほど笑顔を浮かべていた事が、福田が無理をしていた証拠だった。
 「福田さん、」
 そっと近づいて、肩をゆすってみる。もしかしたら軽く意識を失っていたのかも知れない、少しの時差を置いてゆるゆると頭を持ち上げた福田は、今度こそ分かりやすく顔色が悪かった。焦点の定まらない視線をさ迷わせて、やっと川島の前で止まる。
 「かわしま…?」
 「大丈夫ですか、気分でも悪い?」
 まるでいつかの逆バージョンだ、と意識しながら、川島は福田の額に手を伸ばす。しっとりと汗ばんだ額はやや熱もっていて、その時点では風邪かと判断しかけた川島だったが、ぎりぎり届くくらいの小さな声で福田が、腹が痛い、と言ったので、これはもう、素人判断をせずに、病院に連れて行くべきだと考え直した。
 「福田さん、もう少し喋れます?病院行ったほうがええ思うんですけど、この後の予定は?」
 仕事があるのかないのか、あるのならどの程度引っ張れるものなのか。川島はそれを聞きたかったのだけれど、聞こえてはいるのだろうが、口を利く事もおぼつかないらしい福田の言う事は要領を得ない。部屋の中をぐるりと見回しても今、ここにいるのは自分達二人だけで、どうする事も出来なかった。
 福田の相方である徳井の携帯番号は知らなかったから、とりあえず自分のマネージャーに相談をしようと携帯電話を取り出しながら、無意識に本音が漏れた。
 「こんなんなっとるのに、徳井さんは何も気付かへんかったんか」
 言いながら、怒りにも似た苛立ちを感じていた。相方で、二十年来の幼馴染だというのなら、もう少し何か、気が付いてもよかったのではないか。それはほんの些細な変化だったかも知れないけれど、気付いてやるのが徳井の役目ではなかったか。
 「…ちがう、」
 吐き捨てるような川島の怒りを受けて、弱弱しく、けれどはっきりと福田の声がそれは違う、と言った。
 「とくいくんは、わるないねん」
 「…何でですか」
 この期に及んで何で庇うんですか、と川島は呆れる。時折、差し込むような激痛に耐える表情を浮かべながら、左手首にいつも巻かれたブレスレットを福田はぎゅっと強く握り締めるから、赤く痕がついてしまっていた。何を食べて生きているのか、細い身体を折り畳んで、何か唯一つ大切なものに縋るような、それでも徳井に対して健気な福田に、川島は苛立ちを隠せない。病人だという事も忘れて、食いつくように答えを求めてしまった。
 「俺が、気付かれへんように振舞っとったから…気付かれんで当たり前やねん」
 だからむしろ、気付いた川島の方がおかしいのだと福田は主張する。その答えを既に川島は持っていたけれど、今ここで言うつもりはなかった。

 だって、俺は、あなたの事が好きだから。

 それはじわじわと侵食するように自覚しつつある、川島の意識の問題で。最近は、福田の姿を確かめる作業が増えていたから、本当に些細な変化にも気付いてしまうのだ。
 そして、今の川島には何となく分かる。徳井が気付かなかったのにも訳がある。福田の振る舞いにも因るけれど、それ以上に、徳井が意識して、福田と距離を取っている事。必要以上に見ないように、触れないように。ひどく不自然な彼らの関係は、川島の理解には及ばなかったけれど。
 けれどそれならば、と川島は思う。


 そんな軽薄な関係なら、あなたを奪ってもいいですか。



***



kaleidoscope【5】
2007/08/27 Toshimi Matsushita

1999年01月04日(月) 004:遠因



きっと、あの匂いが悪かったに違いない。


ネタ合わせをしようと久しぶりに訪れた徳井の部屋は相変わらず盛大に散らかっていた。
いちいち小言を言う気にもなれなくて、福田は足元の服やCDの山を蹴っ飛ばさないよう歩く。だがその甲斐なく、ひとつの山を崩してしまう。
その山から飛び出してきた見覚えのあるブレスレットが、昔の事を思い出させた。

あの日、忘れ物をとりに楽屋に戻ったら川島が机に突っ伏していた。
あぁ、疲れてるんやなと起こさないように足音を殺して背後をとおり、目当てのものを手に取る。
舞台にいるあいだ外していたシルバーのブレスレットは、安っぽい蛍光灯の光を受けて鈍く光った。
それは、徳井とコンビを組んだ日に彼から強奪したものだった。
長い間、徳井が身につけていたそれを、コンビ結成記念に欲しいと半ば冗談交じりで伝えたらくれたのだ。
(その代わり、福田がつけていたブレスレットを徳井は身につけるようになったからお相子だった)
その日以来、それは福田にとってお守り代わりだったから、あと数時間もすればまた戻ってくる場所にわざわざ取りに戻ってきたのだ。
そのまま行こうとしてブレスレットの下に敷かれていたのが、徳井のニット帽だと気づく。
(アイツもドジやなぁ)
ブレスレットを嵌めニット帽を鞄に仕舞って、さぁ今度こそ帰ろうと川島の後ろを通れば、嗅ぎ覚えのある煙草の匂いがした。
煙草を吸わない福田はあまり銘柄には詳しくなかったが、これは何の匂いなのかはすぐに分かった。徳井の愛用するものと同じ銘柄だったからだ。
匂いに誘われるようにそろりと近づいてみれば、眠っているにしては生気が感じられず、さすがに心配になって声をかけた。顔を上げた彼は迷子の子供のような目をしていた。
そして柄にもない行為をとったあの日以来、川島は妙に突っかかってくるようになった気がする。
福田の知る限りで川島はプライドが高そうだったから、大して親しい仲でもないのに弱っているところを見られてしまったことを気にしているのかもしれない。
面倒くさいな、とちらりとでも思った自分は薄情なんだろうか。

「、くだ、ふくだ?」
知らず知らず物思いに沈んでしまった福田を呼び戻す声に釣られて顔を上げれば、心配そうにみつめてくる徳井がいた。
20年以上一緒にいてこれから先も一緒にいるであろう相手なのに、不意打ちで目があうと少しだけ緊張が走る。

「あぁ、ごめん」
「どうしてん、ボーっとして。先、休憩いれるか?」
「ん。ビールのみたい」
「こら、あかんやろ」
「冗談やって。なぁ徳井くん、なんや、あっまあまい匂いがすんねんけど」
「お前が来るまでクッキー焼いとったからな」
言われてみれば、その甘ったるい匂いは部屋だけではなく徳井自身から漂ってきている。いつもの煙草の匂いを上書きするような独特の甘い香り。
「ストレスがたまると焼きたくなる」とテレビや雑誌で話しては驚かれ笑われるそれが、ネタでないことを福田だけは知っていた。そのクッキーの味が悔しいくらい美味しいことも。

いつからか、ネタに関しては徳井が主導権を握り、福田はそれについていくというスタイルになっていった。
もともと徳井の才能が埋もれるのがもったいなくてお笑いの道に誘ったというのもあったし、自分の限界が見えていたからそのことに関しては周囲が言うほど福田は気にしていなかった。
そこにあったのは、徳井が気持ちよくボケることが出来るよう、自分が動ければいいとある意味では割り切った気持ちだけ。
だから、徳井が重圧を感じストレスを溜め込んでも、福田にできることは少なかった。
隣でただ笑っていることくらいしか出来ない自分が不甲斐なくて、情けなくなる。それなのに徳井は福田が大切だと笑う。
素直になれない自分とちがって、徳井は表情を隠そうとするくせに感情を隠すのがへたくそだったから、そう口にする徳井の言葉が嘘ではないこともわかっていた。

「福田くん用に甘さ抑え目やから安心しぃや」

何も言えずに黙ってしまった福田の表情をどうとったのか、徳井はおちょけたように笑う。
徳井はいつでも優しい。対福田に関しては特に。
エロキャラ、変態キャラを前面に押し出しているせいで誤解されやすいが、徳井ほど優しく温厚な人間を福田は知らない。

福田はそっと腕のブレスレットをさすった。



***



kaleidoscope【4】
2007/08/24 Kanata Akakura

1999年01月03日(日) 003:セカンド・ラヴ


 どうして今になって、そんな昔の事を思い出したのだろう。

 あの時、屈託なく笑いかけられた福田の顔を思い出した。
 後にも先にもそうやって、直接的に触れて来られたのはあの一回だけで、人懐っこい人なのだと考えた川島の福田像は、見事に裏切られた事になる。覗き込むように川島を見た目は、まるで川島自身を見透かされたようで。あっさりと浮かべた笑い顔は、とても好きだった人にダブって、眩しくもあたたかくも見えた。
 今思えば、あの時の福田は、川島の悲しみに同情していただけなのだ。それすらがおそらく、無意識に。
 本来、必要以上に人と交わろうとしないイメージの福田が、何故その時だけ川島に接近してきたのかなんて、川島には分かりようがないけれど。
 それを運命だと情熱的に受け止める事も出来る。
 だって、井上に似た笑い方をした福田を、その時初めて意識したのだと思う。あれ、この人はこんな風に笑うんだと気が付いて、しばらく目が離せなかった。その福田が、ぽつりと呟いた、言葉。

 「寂しなるな。」

 言って、本当に寂しそうな顔をした。
 そう、寂しいだけだった。そう思おうと努力した。遠く離れていく井上を思い続けるのは、辛い事だと思った。それでなくとも慣れない初恋を、思い切る事が自分の為だと思った。そうする事で、きっとずっと自分は、井上を一生大事に出来る。
 だから、辛さを隠す世間話のつもりで聞いてみた答えがひどく屈託がなかった事に、少しだけ苛ついた自分には、一瞬気が付くのが遅れた。
 チュートリアルが東京に行くかどうかなんて、正直言ってその時の川島には全く興味がなかったのだけれど、井上も行く東京に、いつか目の前のこの人(達)も行くのだろうか、と思ったのだ。だから素直に問うたその答えとして、福田は川島が思うより随分と爛漫に笑って見せたのだ。

 「どうやろ?徳井くん次第やな」

 徳井くん、と呼んだその声色が、ひどく柔らかかった事にも気が付いた。それは、川島のささくれ立った神経を十二分に刺激するほど。自分達お笑いコンビは、コンビと言うからには相手があるもので。だから相方と呼ばれるもう一人を立てる事も多い。川島にだって田村という相方がいて、言動にはなかなか出ないけれど、大事に思っている。けれど、上手く言えないのだけれど、福田のそれは、もう少し何かが違う気がしたのだ。

 今なら分かる、川島の考える範疇を越えて、福田が徳井をとても大切にしている事。それは徳井にしても同じ事だった。
 神経過敏になっていたあの時の川島は、おそらく福田の声色ひとつでそれを敏感に感じ取ったのだ。そして、とにかく寂しくて仕方がなかったあの時の自分は、井上の事だけでなく、福田のそんな様子にすら、寂しいと感じてしまったのではなかったか。


 自分と言う人間は、矛盾を抱えて生きていて。だから手に入らないものばかりを求めてしまう。
 だから、まさか二度目に恋をした福田が、自分のものになるだなんて、思ってもみなかったのだ。



***



kaleidoscope【3】
2007/08/23 Toshimi Matsushita

1999年01月02日(土) 002:欠片


今でも思う。
もしもあの日、井上が声をかけてくれなかったら、今の自分はいなかったと。

川島が所属する劇場の楽屋は、広々とした空間に芸人を詰め込む形をとっていたから、部室もかくやという有様だった。
芸暦や人気の上の人たちが、間食しながらだらだら喋っているのを横目に、下っ端である自分たちは隅のほうで大人しくしていた。
いや、ちがう。茶色い星の住人であるところの相方は社交性を発揮して、いろいろなグループに首を突っ込んでは暢気な笑い声を上げていたから、人見知り選手権ダントツ1位であるところの川島一人が大人しく部屋の隅で小さくなっていたのだ。
ネタ作りをしようにも集中力が切れていたし、本番まで時間もあまりない。
携帯ゲームはあいにく充電切れだったし、そうなるとやれることなんてファミ通を読むくらいしかない。
どうせなら煙草吸いたいなぁ吸えへんけどと無意識に唇を触れば、背後からのんびりとした先輩の声。
最近めきめきと頭角を現しているコンビの片割れだったはず、と振り返ればまさしくそのひと井上だった。
「そのファミ通、今週の?」
「え、あぁ、はい」
返事が遅れた上、慌て過ぎて噛んだ川島を気にすることなく、井上は「読ませて貰うてええ?」と笑う。
黙って手渡せば、ぱらぱらとめくり「うわっ、新作出るんや」と顔をくしゃくしゃにさせる。
「川島くんもゲームすきなん?」
キラキラとした目を向けられて反射的にうなずけば、井上の顔が輝く。
「ほな、ゲーセン行こうや。対戦しよっ」
芸能界=上下関係縦社会、と叩き込まれている川島としては断る権利なんてなかったが、突然すぎる展開についていけず反応が遅れた。
「嫌か?」
「いえ。おねがいします」
「よっしゃぁ!」
満面の笑みでガッツポーズを取る先輩が、なんだか眩しく見えた。

ゲーセンで対戦した日以来、井上は川島をよく遊びに誘うようになった。
ゲームという共通の趣味を通じて一緒にいるうちに、井上は川島の気づかないうちに身につけていた鎧を脱がせてくれた。
それまで楽屋で声を上げて笑う姿をほとんど見せたことのなかった川島が、しばしば井上とのとぼけたやりとりで噴出すようになってからは、他の芸人たちも声をかけやすくなったのか川島と会話を交わすようになっていった。
気づけば、井上の存在抜きでも川島は人とスムーズに接する術を取り戻していた。
それでも井上は特別だった。
いつからか川島は、井上のことを尊敬以上の気持ちでみている自分に気づいていたのだ。
脳裏を占める井上の割合がどんどん侵食していくのが嬉しいような苦しいような複雑な気持ち。
伝えようとは思わなかった。伝えてもどうにもならないことだったし、それでも傍にいられるのなら幸せだった。

「かわしまぁ、ほんまに明るくなったなぁ」
「茶村は最近茶色くなったなぁ」
「なってへんわ! そして茶村やない、田村や!」
「あぁ、最近やなかったな。すまんすまん。元々茶ぁやってんな」
「やから違うって」
能天気な相方の喜びの声にイジり返せば田村は膨れる。
「せや、井上さんがお前のことさがしとったで?」
「はぁ?そういうことははよ言えや」
慌てて楽屋を飛び出して、井上のいそうな場所を見て回る。
すっかり井上の行動パターンをつかんでいた川島はそんなにかからず見つけることができた。
喫煙室のほうから聞こえてきた井上の声。
すぐに声をかけるのに躊躇ったのは、聞こえてきたのが常にない真面目なトーンだったからだ。
会話の前後は見えなかった。だけど妙に胸騒ぎがした。
「分かった。準についていくわ」
「ありがとな」
「けど寂しなるなぁ。明たちともお別れかぁ」
急に出された自分の名前よりも別れの二文字に頭が真っ白になる。
ふらふらと導かれるように声のほうへ歩みを進めれば、河本が先に気づいて顔を上げる。
「あ、かわしま。って、どうした、お前顔色悪いやんけ」
「お別れって、どういう意味ですか?」
「あ、きこえた? 俺たち、東京へ行くことに決めてん」
「……っ」
行かないでください、なんて口が裂けても言えなかった。だから唇を噛む。
「あきら?」
「……がんばってください」
振り絞るようにして伝えた言葉が震えていなくて、少しだけ安心した。
その後の会話は覚えていない。

気づいたときには、川島は一人楽屋にいた。
立ち上がる気力もなく机に突っ伏していると近づいてくる気配。
忘れ物でもしたのだろうか。猫のように足音を立てず川島の後ろを通り過ぎ、そして戻ってくる。
「よかったぁ。あったあった。徳井くんもドジやなぁって……かわしま?」
のろのろと顔を上げれば不思議そうな表情を浮かべた福田がいた。
「具合わるいんか、顔色悪いで?」
「そんなことないですけど」
力なく答えれば、福田のひんやりした手が川島の額に触れる。
「熱はないなぁ。貧血か?」
「いえ、」
「若いからいうてあんまり無理したらあかんよ」
歯並びはあまりよくないし額も頬もテカテカしていたけど、なぜか初めて井上と会話を交わしたときに見た笑顔とダブって見えて、川島はゆっくり瞬きをする。
「チュートリアルさんは、東京行かはらないんですか?」
「ん?どうやろぉなぁ。わからへん。徳井くんしだいやなっ」
急な質問に眉をひそめながらも福田はあっけらかんと答える。
「そぉか。井上さんたちが東京行くこと知ったんやな。懐いてたもんな、川島くん」
寂しなるな。ぽつりと付け加えられた言葉に、川島はそっとうなずいた。
そう、寂しいだけ。寂しいだけだと心の中で繰り返す。



***



kaleidoscope【2】
2007/08/22 Kanata Akakura

1999年01月01日(金) 001:嫉妬


しっ‐と【×嫉×妬】

1.自分よりすぐれている人をうらやみねたむこと。
2.自分の愛する者の愛情が、他の人に向けられるのを恨み憎むこと。やきもち。悋気(りんき)。


*****


 とかく恋とはむつかしい。
 愛してやまない大好きなものが、どうしようもなく憎らしく思えたりもする。それでなくとも年々、愛情表現が下手になって行くのに、好きなものを好きとすら、言えなくなってくる。

 昔はもう少し、素直にそう、思うように言えたのに、と川島は思う。
 それより一時期の自分は、世の中の全てを憎んでいたところもあって、好きより嫌いの割合のほうが多かったかも知れないけれど。人を憎むばかりだった自分にも、けれど好きな人が出来た。初恋は叶わないものだってよく言うけれど、それは確かにそうなのかも知れないと思う。叶わないからこそ美しくて、今も大事に取ってある。時々思い出してもまだときめきを覚える、とても大事な、宝物にも似た。
 その、大切な恋が終わった頃に、新たな恋をした。
 当時はまだ、恋と呼べるものではなかったかも知れないけれど、今思えば自分は確実に意識していたのだろうし、胸にぽっかり空いた穴にすっぽりと収まったその人は、ひどく軽かった。
 存在の耐えられない軽さ、と言う。するりと川島の体内に入り込んできたその人は、その軽さのせいで、意識もさせずに、気が付けば完全に住み着いていた。時どき気まぐれに内側から暴れてみせる。いたずらに胸のあたりを押されると、川島の心臓がどきりと高鳴る。それが恋だと気が付くのは少しだけむつかしい作業で、だってその人はとても、自分のものになるなんて思わなかったから。
 だってその人には、誰よりも大切な人がいたのだ、たぶん。

 「♪恋も二〜度目なら〜少しは〜上手に〜愛のメッセージ〜伝えたい〜♪」

 思わず、ここが楽屋だったことも忘れて、自慢の低音をきかせて、鼻歌交じりに歌ってしまう川島だった。
 そんな川島のただならぬ様子に、相方である田村がパンを食す手を止めて、心配そうにこちらを窺っている事にも気付かない。気が付かない様子なので、さらにじろじろと川島を見つめてみても、依然ぼんやりと空を見つめた川島は、盛大なため息を吐いた。
 「あかん、幸せが逃げてまう」
 慌てて川島の口元に両手を差し出せば、そんな田村に気が付いて、怪訝そうな顔を寄越す川島と目が合った。
 「何しとんねん」
 「何って、川島の幸せを受け止めたってるんやんけ」
 お前今、おっきなため息吐いたやろ!やからや!と意味もなく威張る田村に、自覚のない川島はそうだったかな、と小首を傾げる。怒りもしない、そんな反応だって川島らしくなくて、あぁこれは重症や、と田村は内心で泣きそうになった。
 「…悩んどるん?」
 「別に、何も」
 「悩んどるなら俺に相談せえよ」
 「もしホンマに悩んどったとしても、お前にだけはせぇへん」
 素でひどい川島の回答に、傷付いた様子もない田村は、本格的に心配を始めていた。川島のそれは、恋の悩みに違いない。俺が何とかしたらなあかん。

 そして、川島の想い人も、田村にはもう、分かっていた。



***



kaleidoscope【1】
2007/08/22 Toshimi Matsushita

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