マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

最近のテレビ雑感 - 2004年10月28日(木)

<新潟県中越地震関連>

(1)男の子が車から助け出されたとき、なんだか涙が出そうになった。理性では、今この瞬間に命が終わろうとしている人は、沢山いるのにな、なんて判断していたはずなのに、ひとつの命というのは、ときに圧倒的な力を放つものだ。

(2)もしお父さんがテレビを観ていたら、「ひとりが助かった」ことに喜びを感じたのだろうか?それとも、「妻が助からなかった」ことに悲しみを感じただろうか?報道というのは、ときに残酷なものだ。手に届かない「事実」を情報として伝えうるから。もし、「3人の生体反応があった」という情報が無ければ、彼の奇跡の生還をした息子への喜びと命を落としてしまった妻への悲しみの割合は、少し違ったものになったのではないか。

(3)「なんとかして助けてあげて」と思うけれど、あの作業をやっているレスキュー隊の家族の人は、「二次災害に遭いませんように」と、同じ画面を観ながら考えているのだろうなあ。救出続行にも、救出中止にも、きっと「苦悩」があるのだ。

(4)中継のなかで、「救出」されていく心肺停止状態のお母さんの姿を観ながら、ゲストの専門家が「お母さんの御遺体…あっ、すみません…」と「失言」をしていた。「生体反応がなくなった」と伝えられてから30分くらい経過していたので、専門家的には「難しい状況」だと頭の中で判断して、あの言葉になったのだと思う。そして、実際に病院に搬入されたときには亡くなられていたわけだから、彼の言葉は間違ってはいなかった。
 でも、やはり人間にはTPOによって、簡単に口に出してはいけない言葉とか状況があるのだろうし、僕はあの「失言」に対して、自戒しなければならないな、と痛感した。
 専門家というやつは、自分の知識や推論の正しさにこだわるけれど、それが他人にとって受け入れられるものかどうかには無頓着になってしまうことが多いから。

(5)人質になった若者

 お父さんのものすごく不器用な会見を観て、「すみません」と謝っている映像を観たら、僕はこの人を助けてあげたいな、と切実に思えてきた。
 彼は本当に「興味本位のバックパッカー」であり、何の政治的信条も持っていなかったはずなのに、イラクに「見聞を広めに」行ったのだから、その行動そのものは前に人質になった人たちより、はるかに軽率で無責任なはずなのに。
 …たぶん、これは僕には前回の人質たちの行動が「理解できる範疇を超えた善行」で、今回人質になった人の行動が「僕にも理解できる程度の若気の至り」だからなのだと思う。
 自分が理解できることには肯定的になってしまうし、自分の理解の範疇を超えれば、思考停止になってしまうのだよなあ。

(6)日本シリーズ

 あれほど切実に「日本一」を求めていて、球場も凄い盛り上がりだった中日を、ホームの西武ドームでさえ中日ファンに負けていたくらいのファンの熱意だった西武が倒して日本一。逆境に強いというか、空気が読めないというか…
 プレーオフは初年度から、問題点が浮き彫りになってしまった。
 


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100KBの孤独 - 2004年10月23日(土)

WEBサイトに関してつれづれに。

(1)知識

 自分の守備範囲のことだけを語り、他人のアラサガシをして、「お前はこんなことも知らないのか?」って言っている人と、自分が知っていることは黙して語らず、知らないことに関しては「知りませんでした。教えてくれてありがとうございます」と言う人がいる。
 後者は賢者だが、WEB上ではどちらの人の声のほうが大きいのかは、言うまでもない。


(2)「反応」

 反応がない、というのもひとつの「反応」なのだ。
 そもそも、とんでもない方向にサーブを打っておいて、「なんでレシーブしてくれないんだよ」なんて言われても困るよね。


(3)「反応」2

 ヒドイときには、レシーブどころか真後ろから石つぶてが飛んできたりもするわけさ。そんなの投げてねえよ!っていうような。


(4)悪口

 悪口を言われるのと無視されるのと、どちらが辛いかと考えると、自分のサイト運営のスタンスが見えてくるような気がする。僕は悪口言われるより無視されたほうがいい。


(5)悪口2

 しかし、人気サイトというのは、良かれ悪しかれ、読むと「何か言いたくなる」ことが多い。


(6)プライベート・モード

 僕は、自分だけしか見られない日記帳には、もっと過激なことを書くはずだと思っていた。でも、誰も見ない日記帳に過激なことを書く意義を見出すのはなかなか難しく、むしろ内容的には平和な備忘録になっている。「毒舌」と言いながら、大概その人なりにボリュームをコントロールしているのだ。


(7)宣伝

 ほんと、宣伝ばっかりされるとイヤなんだけど、宣伝しなければ、どんなに面白いサイトでも人は来ないからなあ。


(8)新規参入

 どんどん、新規参入サイトには難しい時代になってきていると思う。プロ野球と一緒で、既存のオーナーたちに認められないと、多くの人に観てもらうのは困難だし。


(9)嘘つき

 メディアは確かに嘘つきだ。でも、その嘘つきの証拠ですら、メディア経由で入手していることが多いという矛盾。


(10)黄金時代

 たぶん、ピンクのクマがメールを運んできたり、「顔のわからないメール交換」なんていうのが当たり前に行われていた時代が「遊びとしてのインターネット」の黄金時代だったのだと思う。いまやクマに運ばせたら過労死するし、メール交換なんて3通目くらいには「写メール送って!」という時代だからな。


(11)オレオレ

 自分のことだけを延々と語りたいのであれば、自分宛にメールを送ればいいのにね。


(12)クレームメールの見分け方

 件名が無礼なメールは、大概中身も無礼。



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F1日本GPの雑感 - 2004年10月11日(月)

F1日本GP。今年は久々にまともに観た。

(1)琢磨残念ですねえ!とさんざん言ってたけど、4位というのは、かなり立派な成績だと思う。オリンピックでも4位の選手ってヘタに大負けするよりかわいそう。そもそも、4位という成績で「健闘」と言われこそすれ、「残念!」って評価されるレベルのドライバーじゃないだろうに。

(2)しかし、ホームコースでもバトンに勝てないというのは、印象的にバトン>琢磨は否めないなあ。今回は作戦の違いがあったにせよ。

(3)一瞬、「張子の虎走法(by片山右京)」かと思った。

(4)職場の同僚が鈴鹿に行ったのだが、今年の台風で交通網ボロボロという噂。無事着けたのかな?(たぶん、16万人のひとりだと思う)。

(5)あれで16万人ということは、同じくらいの入場人員がある競馬というのは、あなどれないなあ。

(6)鈴鹿の日本GPで、僕がいちばん記憶に残っているのは、あのスタート直後のプロストとセナのクラッシュ。F1であれほど「空気読めよ…」と思ったことは、他には中嶋悟の引退レースで「日本人初の表彰台」に上った鈴木亜久里に対してだけだ。

(7)F1好きの同僚の女の子が応援していたのは、皇帝シューマッハだった。いや、カッコいいけどさシューマッハ。

(8)シューマッハがレース終了後にブリヂストンの責任者の人に抱きついて、「今日はブリヂストンのために勝ちたかった」と言っていた。皇帝の魅力は「速くて強い」だけじゃないんだなあ。やっぱり、こういうところがないと人はついてこないよねえ。

(9)そういえば、昔は「F1グランプリ特集」とかを愛読していて、ドライバーの移籍情報とかにもやたらと詳しかったのだけど、最近はすっかりわからなくなっちまった。

(10)F1ネタで今でも覚えているのは「ジャングルの王者ターちゃん」で「ターちゃんの眼がいい」というのを証明するのに、マクラーレンのマシンに貼ってある「ジャンプ」の小さなロゴを見つける、というやつ。大笑いしたけど、よくあれで載ったものだ。

(11)まあ、「BASTARD!!」の真っ白なコマに「うわーっ!」「うぎゃーっ!!」とかいうセリフだけが書いてあったやつよりは、はるかにマシか。

(12)パニスけっこう好きだったのになあ。

(13)皇帝シューマッハがはじめてグランプリで走ったのはジョーダンで、次のレースからはベネトンにトレードされた。このときは、どうしてモレノを差し置いてこの人がベネトンに?と思ったけれど、やっぱり慧眼の士からみればわかるということか。

(14)アレジ、マクニッシュ、モデナ、パニス、サロ、バリチェロ(は、まだ早いか?)、「将来のチャンピオン候補というのは、リアルタイムではたくさんいたのだ。そのなかで、シューマッハの「違い」というのは、いったい何だったのだろうか?技術なのかもしれないし、ひょっとしたら、前述したような「スタッフへの気配り」というのもあるのかもしれない。

(15)たぶん今年いちばんたいへんだったのは、サーキットを整備した人とか運営サイドの人たちだったと思う。本当におつかれさまでした。



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「他人の身になって考えてみる」ということ - 2004年10月03日(日)

 たぶん、「タイタニック」という映画に対して僕の心が揺さぶられるのは、「自分があの船に乗っていて、暗くて冷たい海に投げ出されたらどんな気持ちだろうか?」と想像してしまうからなのだろう。
 そういう「もし自分がその立場だったら」と仮定する気持ちがなければ、「昔はそんなこともあったんだねえ」で終わってしまう。
 もちろん、そういう「仮定」をよりリアルなものにするために、「映像」や「音楽」の力が、映画では駆使されるわけだけれども。

「もし自分が臓器移植が必要な病気になったら」
「もし子供が欲しいのに、自分かパートナーの不可逆的な要因で、それが不可能だとわかったら?」
「もし自分の子供に障害があったら?」

 これらの「仮定」は、けっして「他人事」ではないと僕は感じる。でも、そういう状況を想像してみればみるほど、「現実にそうなったら、たぶん仮定通りにはいかないだろうな」という気もするのだ。
 「武士道とは死ぬことと見つけたり」という死生観を植えつけられてきた侍たちだって、みんながそんなにうまく切腹できたわけではない。
 おそらく、「死ぬかもしれない現実」とか「子供ができない現実」とか「自分の子供が障害を持って生まれてきたという現実」の前では、「他人の臓器なんてもらって生きたいとは思わない」とか「できないなら、子供なんていらない」とか「どんな障害を持って生まれてきても、自分の子供に向き合って、一緒に生きていく」なんて立派な「覚悟」は、アッサリと押し流されていくものではないだろうか。
 それはまるで、「結婚する前のカップルの、理想の結婚生活像」みたいなものでしかなくて。

 だからといって、そういう「仮定」を自分の中で行ってみることが「100%無意味」ではないのも事実だ。
 おそらく、そういう「もし自分に同じことが起こったら」という意識が、他人への「優しさ」の源泉なのだから。
 そして、「自分には起こり難いこと」に関しては、あまり人々は感情移入できないし、優しくもなれない。
 例えば「イラクにボランティアで行って、人質になってしまう」というような事象に対して。

 とはいえ、こういう「自分のことと仮定する」というトレーニングは、けっして人間を幸せにばかりはしない。破綻を仮定すれば結婚や事業なんてできないし、「もし障害を持って子供が生まれてきたら、愛せないかもしれない」なんて考えていたら、子供を作ることだってできないだろう。
 大部分の人は、現実に押し流されながらも、まあなんとかそういう「特別な状況」に陥らずに生きている。

 「その人の気持ちになってみる」という行為は、たぶん、その「感情移入している本人」にとっては、何の救いにもならない。いくら想像して頭の中で「そのときはどうする?」とシミュレートしてみたところで現実の重さにはかなわないし、実際は「何も考えずに実行してみる」ほうが良い結果を生み出すことだって多いのだから。悩んで買っても、そのへんにあるのを無造作に手にとっても、宝くじが当たる可能性は理論的には同じだ。
 でも、そういう「他人の身になってみる」という行為こそが、人間の人間らしいところでもあるし、それは自分を幸せにはできないが、周りの人は確実に少しだけ幸せにできるのだと、信じたい気もする。
 
 そんなことを言いつつ、僕には収入のうちの幾ばくかを困っている人たちのために寄付するくらいの「優しさ」もありはしないのだ。
 結局、自分は自分であり、他人にはなれないし、今の自分は今の自分であって、未来の自分にはなれない。

 それでも「なれないからこそ、やらなくてはならないこと」というのが、世界のどこかに存在している、僕はそう思っている。



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