マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

中島らもさんの訃報 - 2004年07月27日(火)

 らもさんの訃報を聞いた。
 寂しくはあるけれど、悲しくはない。
 まだ52歳の早すぎる死だったし、まだまだ活躍できたはずだけど、「惜しい人を亡くしました…」という気分にはならないのだ。

 僕がらもさんの書いたものをはじめて読んだのは大学生の頃で、たぶん「明るい悩み相談室」か「関西モノのエッセイ」くらいだったと思う。
要するに「バカバカしくて面白いものを書く人がいるのだなあ」というような、シンプルな理由で好きになった。

 らもさんの文章は、「この人は、自分という実験動物を常に観察しているのではないか」と読んでいて感じるくらい、ものすごく明晰に自分の体験を言語化していることもあれば、「なんだこれは?」とまったく意味不明、支離滅裂な内容が書きなぐってあることもあった。でも、そういったものの全てが、「中島らも」だったのだと思う。
 そして、いろんなものに寛容なようで、その反面、いろんなことが許せなかったのだ、きっと。

 その「才能」にも「生き方」にも憧れていた。
レールから脱線したら生きていけないという強迫観念に駆られてレールにしがみついてきた僕からすれば、灘高から大阪芸大に入って学生結婚をし、なぜか印刷屋の営業マンになり、それから広告代理店に勤め、最後に作家として独立したらもさんの生きざまというのは、ものすごく印象的なものだった。らもさんより少しだけ世代が上の椎名誠さんの「生命力で切り開く生き方」ではなくて、「自分でなんとなく選択肢を選んでいったら、いつのまにか作家になっていた」という点では、自分にもマネできるんじゃないか、なんて気持ちにもさせてもらったし。
 本当は、らもさんの生き方こそ「才能」がなければできなかったのだろうし、ああいう麻薬擁護発言とか鬱病などで周りに迷惑をかけても、やっぱりみんな「作家・中島らも」を愛していたのだと思うしね。
 才能がなければ、単なる「廃人」だったのかもしれないし、逆に、「廃人」でなければ、「中島らも」ではなかったのかもしれないけど。

 僕は、らもさんが、自分の劇団「リリパット・アーミー」について語った、こんな言葉が好きだ。
【リリパットを観に来てくれたお客さんが、上演中は思いっきり笑って、それで、幕が下りたらすぐ「なんか内容はバカバカしくて全然覚えてないけど、とにかく大笑いしてスッキリした」って言ってくれるような、そんな劇団にしたい】

もちろん、本人だって、これからやりたいことはたくさんあったはずだと思う。
でも、もう幕は下りてしまった。
たぶん、「詳しいことは忘れちゃったけど、『中島らも』っていう面白いオッサンがいた」ということをときどき思い出すくらいで、らもさんは許してくれるんじゃないだろうか。悲しむより、らもさんが書いたものを読んで、ただ「相変わらずしょうもないオッサンだなあ」って、呆れ返り続けるほうが、喜ぶんじゃないかな。
 「追悼」なんてオビのついたらもさんの本を見たら、笑えなくなりそうだけどさ。

 お墓から幽霊が出てきて「こんなええとこ、おまへんで!」と言うお墓のCMを作った男、中島らも。
 演じ続けたのか、そういうふうに生きざるをえなかったのか、たぶん、本人にもよくわからないのだろうけど…

 幕が下りて、いちばん安心しているのは、らもさん自身なのかもしれない。

 面白かったよ、らもさん。本意じゃないだろうけど、僕は忘れないから。



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「コンプレックス」とか「トラウマ」とか。 - 2004年07月23日(金)

 「コンプレックスはありますか?」
 そんなの、あるに決まっているじゃないか。
 人間なんて、コンプレックスの塊が服を着て歩いているようなものだよ、本質的にはさ。
 僕自身でいえば、もっと背が高かったらなあ…とか、もっとカッコよかったらなあ…とかいう、比較的スタンダードタイプのコンプレックスもあるし、「医者なんてご立派ですねえ」なんて言われても、出身大学とかにだって「もうちょっといい大学(というか、具体的には東大とかだな)に入れていれば、もっと良かったのかもしれないなあ」なんて思うこともある。
 しかし、こういうのは仮に東大医学部に入った人間でも、自分が東大医学部で一番でないことに苦悩するかもしれないし、東大医学部の首席卒業でも、自分の先輩や後輩の優秀な人間に嫉妬するのかもしれない。まあ、こういうのはキリがないこと、ではあるのだ。
 もちろん、こんなところには書けないような、思い出したくないものだってあるけれど。

 ところで、僕はこの「コンプレックス」という言葉と「トラウマ」という言葉が大嫌いだ。なぜかというと、これらの言葉は、単に「自分は特別な人間だ」と思い込みたいだけの人間のエクスキューズにあまりに濫用され続けているから。
 「学歴コンプレックス」とか「背が低いことへのコンプレックス」が現実に存在するのは、言うまでもないことだ。でも、世の中には「背が低いから、人を殺した」とかいうような(これはあまりに極論?)意味不明の「コンプレックス」「トラウマ」がすべての要因、みたいな理論が多すぎる。
 「父親が女をつくって逃げたから、男性不信になった」「親に愛されなかったから非行に走った」これは、理屈としては通っているよ、確かに。
 でも、子供の頃の家庭環境が恵まれていなくても幸せになった人はたくさんいるし、犯罪行為に走らない人のほうが、むしろ多数派なのだ。
 そして、彼らは自分の不幸を「コンプレックス」とか「トラウマ」なんて言葉で理由付けしようとするけれど、そのコンプレックスとやらがわかっているのなら、どうしてそんなに簡単に流されてしまうのだろうか?
 「そんなに簡単に克服できるものではない」というのはわかる。でも、最初から「自分に言い訳をして、ラクしているだけなんじゃないの?」というような「コンプレックス人格」や「トラウマ人格」を持つ人というのは、けっして少なくない。
 彼らは「コンプレックスに操られている」と言いながら、実際は、そのコンプレックスに「依存」しているだけなのだ。
 「お腹が空いたけど、金がなかったからパンを盗んだ」
 こういうのはよくわかる。僕でもそうするだろうな、と思う。
 「人を殺す体験がしてみたかった」
 こういうのに対して、「家庭環境」とかを持ち出して「幼少時のトラウマ」とか言い出す人には、ほとほと呆れ返る。そこまで理由付けしてあげる義理なんてないだろう?そんな衝動を心の中だけにとどめておけない人間に、生きる資格があるのか?
 
 僕は「コンプレックスを持っている人」というのは、むしろ人間らしいと思う。
 ドラマの「白い巨塔」を観ていて、里見先生はフィクションだが、財前五郎には、デフォルメされたリアルを感じる。彼は生々しいコンプレックスの塊だったが、それを自分で克服しようとはしていたのだ。その方法自体の是非はともかくとして。

 「コンプレックス」や「トラウマ」を持っていることは、何一つ恥ずかしいことじゃない。でも、それを言い訳の道具にするのは、ものすごく恥ずかしいことだと思う。
 
 「コンプレックスに負けそうな人間」のほうが、僕は好きだ。
 彼らは人間の「歪み」みたいなものを認識しているし、他人の歪みに対しても寛容なことが多い。
 でも、「コンプレックスと戦うどころか、それに依存してしまう人間」は苦手だ。彼らは「こんなコンプレックスを持っているワタシって、かわいそう!」とか思っているだけで、そんなものは誰でも掃いて捨てるほど持っているものだなんて、考えようとしない。感受性が豊かなフリをしているだけで、想像力は貧困極まりない。
 
 しかし、その一方で、コンプレックスに乏しい人間の「天真爛漫さ」や「おおらかさ」を僕は信じない。そんな善性は、小学生の「どうして恋愛くらいで人殺しが起こったりするの?」という疑問みたいなものだ。
 彼らは楽天的な態度でいるようで、本当に「人間性」が問われる場面では、一文無しの人々の前で「パンがなければ、お菓子を食べればいいのに」と言い放つ。何の「罪の意識」も持たずに。
 そういうのは、場合によっては罵詈雑言よりも深く他人の心を傷つけるものなのだ。

 たぶん、この世の「コンプレックス」や「トラウマ」の多くは「言い訳コンプレックス」「後付けトラウマ」で、この言葉が人口に膾炙するまでは、この世の中に存在しなかったものなのではないか。
 たとえそんなものがあったって、自分から負けてやる義理なんてないだろう?

 僕は、「コンプレックスが無い人間」よりも「コンプレックスに負けない人間」になりたい。
 ただ、それだけのこと。
 


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最近の本屋さん関連の雑感 - 2004年07月21日(水)

(1)青山ブックセンター(ABC)

 というのは、ずっと九州在住の僕にとっては椎名誠さんの日記とかに出てくるだけの存在なのだけれど、それだけにその閉店というのはなんだか不思議な気分だ。


(2)「ハリー・ポッター」の第五巻

 が出るというので、予約特典とかが花盛り。それにしても、今まで「予約してまで買う本」というのは、僕の知る限りでは宮沢りえと菅野美穂の写真集くらいだったので、「ハリー・ポッター」シリーズの売れっぷりには驚く限りだ。
 先日某ジャスコの本屋で、店員の女の子が「ハリー・ポッターの予約の呼び込み」をやっていて(店頭で「当店では、ご予約をオススメしておりますー!」と大声で叫ぶやつ)、なんだかその声と雰囲気が悲壮感にあふれていたので、僕は本当にいたたまれなくなってしまった。そもそも田舎には「ハリー・ポッター」を予約してまで買おうなんて人は、そんなにたくさんはいないと思うし、あれは「社員教育」なのか「イジメ」なのか?「修行のために駅前の人ごみで突然歌わされる新人演歌歌手」みたいだったよほんとに。
 居心地が悪くなるからやめてほしい…


(3)この人のオススメ!

 柴咲コウの「世界の中心で、愛をさけぶ」のオビで成功したためか、最近の新刊書にはやたらと有名女性芸能人のオススメコメントがついている。
 今日は竹内結子と上戸彩を発見
 …「インストール」って、自分が主演する映画の原作じゃん。
 というか、「本を読みなれた人」よりも「芸能人」の評価のほうが重視されるという風潮は、なんか間違ってないか?


(4)最近の田舎の書店事情

 僕が中学に入った20年前くらいに、車でないと行けない「郊外型書店」というのがたくさんできて、商店街の書店はバタバタとつぶれていったのだけれど、そういう郊外型書店もここ10年くらいの間に少しずつ潰れて、「TSUTAYA」みたいなレンタルショップとの複合店と大規模書店ばっかりになってしまった。同じような品揃えの書店と、どこになにがあるのか探すのに困惑するような書店ばかり。

(5)個人的な本の嗜好

 僕はもともと「ノンフィクション系」「エッセイ」を好むのだけれど、最近はなんだか「物語モード」で、けっこう「本の雑誌」で薦められているような作品をよく読んでいます。人生に物語が乏しくなったことが原因なのかも。でも、「本の内容」よりも「文壇周辺のこと」にばかり目がいって困るなあ。「ツモ爺」とか。



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「安定感」の重要性に気がつかない人々 - 2004年07月16日(金)

 どうも「天才的なひらめき」みたいなものに憧れがちなのだが、実際に社会人として生きていると、本当に大事なものは「安定感」なのではないか、という気がすることが多い。
もちろん、画家や音楽家は、「80点の作品をコンスタントに書く能力」よりも、「40点があっても、120点を出すこともあるような閃き」みたいなものが大事な場合もあるだろう。それはよくわかる。

 でも、多くの場合においては、その「40点の瞬間」というのは、大きな問題なのだ。
例えば、いつも一生懸命仕事をやっているし、有能なのに、何ヶ月かに一度、突然「もう頑張れないので帰ります」と大事なプレゼンの前に突然帰ってしまう人。日頃はどんなに優しくても、酔うと暴力を振るう夫。

 突然キレてしまう人には、どんなに優秀であっても、大事な仕事を任せられないと思うのが人情だろうし、日頃の優しさよりも殴られた痛みのほうを忘れられないのが人間だ。
それならむしろ、あまりきらめく才能はないけれど、確実に仕事をこなす人間に重要な仕事は任せよう、とか「ものすごくカッコよくはないけれど、理不尽に怒ったり暴力をふるったりしない人と結婚しよう」と思う人というのは、けっこう多いのではないだろうか?
「心の波が激しい」というのは、本人が意識している以上に、周囲にとってはデメリットなのだ。
子供を不安にさせるのは、多くの場合「厳しい親」よりも「そのときの気分によって、怒る基準が違う親」だったりするわけだし。

 世の中には完璧な人間なんていないのだけど、「どうして自分はこんなに頑張っているし、有能なのに、評価されないのだろう?」という気持ちがある人は、自分が「安定感のある人間」かどうかを考えてみたほうがいい。
 辛いとき、きついときでも、他人に八つ当たりしたり、仕事を投げ出したりしないかどうか?

 もちろん、あまりに平板な感情表現というのは、面白くない。
 でも、「感情の起伏が激しい」というのは、とくに責任のある状況では、けっしてメリットにはならないのだ。

 「能力」を追い求めるわりには「安定感」を軽視していて、自分で考えているほど周囲から評価してもらえない人というのは、けっして少なくはない。本当は「能力」と同じくらい大事な要素なのにね。


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「試練は、それに耐えられる人間に与えられる」 - 2004年07月13日(火)

「もしそういう存在がいるとするならば、きっと神様は『それに耐えられる人間』を選んで試練を与えているんだよ」

 そう彼女は言った。

 でも、僕にはそれが信じられなかった。
 なぜなら、僕はその「神が与えたもうた試練」という大波に耐えきれずに流されてしまった人を知りすぎてしまったから。

 「耐えられる人にのみ、試練は与えられる」
 それはたぶん、大波に耐えて踏ん張っている人間の姿しか、僕たちには見えないから、そう思いこんでいるだけなのだ。
 波間には、「耐えられない試練を与えられた人々」の亡骸が、誰にも見つけられることもなく、ずっとずっと漂っている。
 そして彼らは、「試練」について語ることはできない。

 「耐えられた人にしか、試練について語る機会は与えられない」
 それが現実でも、僕たちは今日も、「耐えられる人間に試練が与えられているはず」と自分を励まして大きな波に向かっていく。
 「耐えられる」なんて保証はどこにもないし、今度はどんな大波が来るかなんて誰にもわからない。

 それでも結局、押し流されて海の藻屑となるまで、立ち向かい続けるしかないのだ。
 


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七夕の日のお願い。 - 2004年07月07日(水)

 そもそも、七夕というのは「バレンタインデー」とともに、年を取るにつれてどうでも良くなってくるイベントだ。
 織姫とか彦星とかが会えないと大変みたいだが、彼らには来年の保証もあるし、だいたい、よく飽きずにつきあっているものだ。「サマーバレンタイン」なんて宣伝してみても、こんなに暑いとビアガーデンにくらいしか足も向かない。

 まあ、そんな戯言はさておき、病院とか学校というところには、たいがい七夕飾りがあり、願い事が書かれた短冊が吊るされている。
 ぼんやりと眺めていたら、その短冊の願い事というのは、ほんとうにさまざまな種類があることに気がつく。
 「彼氏ができますように」「新しい車が買えますように」という個人的なものから、「みんなが来年試験に受かりますように」という集団型、「世界が平和になりますように」というようなグローバル型。病院では、「病気が良くなりますように」という願いが必然的に多いわけなのだが。

 そういう短冊を眺めながら、僕だったら何を書くだろうな?と考えた。
 七夕の「お願い」というのは、ある種異質なものだ。
 クリスマスプレゼントほど「具体的なもの」である必要性もないし、初詣ほど「個人的なもの」でなくてもいい。そして、何に向かって願っているのかよくわからない。さらに、他人の目にふれる可能性が高い。
 希望と願望と期待と見栄が交錯する七夕飾り。

 今の僕には、七夕さまにお願いするような切実な願いというのがない。欲しいものが買えるくらいのお金はあるし、そもそも、家とか高級車なんて買えないレベルに高いものには、あまり興味もわかないし。
 「モノ」に対する切実な興味は、もうあまりないのだ。
 あんまり偉くなりたいとも思わないし、彼女だっている。まあ、もっといい彼女が欲しくない?と言われると、少し悩むかもしれないが。
 「ドラマチックな恋愛」よりも、安心できる関係のほうが僕は好きだ。
 仕事も完璧にうまくいっているわけではないんだけど、「にっちもさっちもいかない」というレベルではない。
 もちろん、僕が寝ている間に小人さんが論文書いててくれないかなあ、とかは思うけど。

 そんなことを考えていたら、小学校の頃の担任の先生が、始業式の日に僕たちに話してくれたことを思い出した。
 「俺が好きなのは、お前たちの『あれが欲しい!』という眼なんだ。『欲しいモノ』は何でもいいから」って。
 当時の僕は、そんなあさましいというか、貧乏くさい欲望丸出しの眼が好きなんて、趣味悪いオッサンだなあ、この先生…と感じたのだが、今考えると、その先生の気持ちはよくわかるような気がする。対象が何であろうと「欲しい」というエネルギーは生命力の発現みたいなものだから。

 たぶん、今の僕には、そういうギラギラしたものが抜けてしまっているんだろうなあ、と苦笑い。
 もちろん、「治したい持病」が今のところは虫歯くらいしかないのは、喜ばしい限りだが。

 あえて言えば、「切実な『何かが欲しい!』という想い」が、僕の今欲しいものなのかもしれない。
 七夕さまには、呆れられるかな。



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