「偽善的に生きる」ということ。 - 2003年12月30日(火) 個人WEBサイト文化研究所・主任私記〜「イラク戦争とイラン大地震で気付いた面白いこと」を読んで。 確かに、今回のイラン大地震について取り上げられたテキストというのは、イラク戦争のときに比べたら、はるかに少ない感じがします。 でも、僕の実感としては、「被害者がかわいそう」としかコメントのしようがないのですよね、こういった天災については。現地も混乱していて、日本にもたらされる情報も少ないということもあるのでしょうし。 そういう意味では、僕を含めて、あれだけマスコミ批判をしていながらも、結局僕らの判断基準はマスコミの掌中にとって規定されている、といえるのでしょう。 「中東の人間が何人死のうが実のところは関心はなかった」なんて煽りに素直に乗ってしまうのはどうかとも思うのですが、確かに、「命の重さは全部同じ」で「地球より重い」かどうかと言われると、実感として「そうではない」と僕も思います。 たとえば、100歳近くで老衰で亡くなった高齢者の死に対する周囲の人々の感慨と、小学生の女の子が急病で亡くなった場合に周囲が抱く悼みとは、明らかに質が違いますから。 ところで、僕がこの文章を読んでいちばん思ったのは「偽善」とは何か?ということなのです。 おそらく、この世の「善」にはすべて、「偽善的な要素」が含まれています。 孟子は「惻隠の情」という言葉で「誰も見ていないところで溺れそうな見ず知らずの子供を助けるという人間の本性=性善説」を説きましたが、それだって「自分の目の前で誰かが死ぬのをみたくない」という、自分のための「偽善」であると言えなくもないわけで。 人々が、すべての自分の中の善なるものを「偽善」と認識することに、どのくらいの意味があるのでしょうか? それによって、謙虚な気持ちにはなれるのかもしれませんが、明日の食料に困っていれば、それが偽善であろうがなかろうが、「援助してもらう」という行為に価値を見出すのが当然なはずです。 「何もしない善」より、「実効のある偽善」のほうが、意味がある場合だってあるのではないでしょうか? 僕は、「それは偽善だ」なんて考えて、何事にも思考停止してしまうよりも、「偽善」でも何でも、困っている人を助けようという気持ちや無益な争いを止めようという気持ち、他人が死に対して悲しく思う気持ちを大事にしていくべきだと考えています。 「そんな偽善的なことはしない」といって募金箱の横を通り過ぎていくよりも、「その場だけでの感傷でも、お金を入れてくれる人のほうが、やはり「善」だし、「戦争なんてなくならない」と悟るよりも、「戦争反対」を小さな声でも叫ぶ人のほうが「善」だと思うからです。 僕はもっとみんな、「偽善的に生きる」べきだと思う。 人間に「本性」なんてものがないのなら、「偽悪的」であるより、誰にもわからないくらい、徹底的に偽善的に生きる人が増えてもらいたいのです。 意識的であるなしにかかわらず、偽善的な行動を続けるというのは、実は「善」への最短距離なのではないかなあ、って。 「根はいい人」なんて言うけど、現実的には誰かの「根」の部分まで評価するほど、みんなヒマじゃないしね。 もっとも、自分で「善いこと」をしていると認識してやる行為ほど、怖いものはこの世にないわけなのですが。 世界の歴史に残るような「蛮行」(アウシュヴィッツや十字軍)は、当事者にとっては「善行」であったわけですから。 今回のイラン大地震で、僕はひとつ痛感したことがありました。 それは、「アメリカ」という国の懐の深さ。 アメリカは、今回の大地震に対し、長年敵対しており、国交がないにもかかわらず、即座にイランに人道的援助を申し出ました。 これは、「アメリカの偽善」なのかもしれません。 でも、アメリカという国は、こういう場合に、過去の遺恨にこだわらずに手を差し伸べるという「リーダーとしての矜持」を持っているのだなあ、と思うのです。 あの国は「偉そうにしているだけの責任感と行動力を持っている国」であることだけは、間違いないこと。 その「行動力が」常に正しい方向に発揮されてはいないとしても。 ... 人生のリセットボタン - 2003年12月28日(日) 「このボタンを押せば、人生がリセットされるらしいよ」 「リセットされて、いつに戻るんだい?」 「わかんない、だって、押したら今までの記憶はなくなっちゃうらしいし」 「それ、誰が言ってたの?」 「古い言い伝えみたいだけどね…私は死んだおじいちゃんに聞いたの」 「そう…どうする?一緒に押してみる?」 「うん、だって私たち、もうどうしようもないものね」 「そうだよな、消費者金融に借金はたくさんあるし、俺は体が悪くて働けないし、君はずっと『死にたい』って言ってるしな。今日の有馬記念も惨敗だ。」 「全部、『リセット』したほうがいいんだよ、きっと。また1からやりなおせるんだから」 「じゃあ、いち、にのさん、で一緒に押そう」 「うん」 「せえの、いち、にいの、さん!」 ポチッ (暗転) 「このボタンを押せば、人生がリセットされるらしいよ」 「リセットされて、いつに戻るんだい?」 da capo… ... 「よいお年を」について考える。 - 2003年12月25日(木) もう今年も残り一週間も無くなってしまったから(おまけに、僕の職場は明日が御用納めなので)、「よいお年を」という挨拶を既に何度かし始めている。 一週間に一度しか行かないバイト先だとか、明日は外勤で会わない同僚だとか。 「よいお年を」という言葉が、昔から僕には疑問だった。 正確には「よいお年をお迎えください」なのだろうが、これは、どの期間を指すのだろうか? (1)来年一年間が、「よい年」でありますように。 (2)よい「お年を迎える」つまり、年末に息災でありますように。 (3)年末から年始にかけて (4)その他 なんとなく(1)のイメージがあるのだが、現場で「よいお年を」を使う相手というのは、来年も会う人というのがほとんどだと思う。初対面の人にする挨拶ではない気がする。 そう考えると、年賀状のように「1年の計」として「今年はいい年でありますように」とか「今年もよろしく」とは、ちょっと違う印象がある。 大晦日の22時とかに「よいお年を」なんて、言わないような気もするし。 (それ以前に、その時間に人と別れるという状況がないのかもしれないが) ひょっとしたら、昔は年末に借金とりとかに追われている人が多くて、「無事年を越す」というのが、すごく大変だったのではないか、などとも想像してみるのだが。 僕の実感としては、(3)なんだけど、どうだろうか? しかし、いずれにしても、この挨拶はいかにも日本的であるような気もする。いくらでも、解釈のしようがある。 そして、僕はこの言葉が嫌いではないのだ。 当直明けのボーっとした頭で、「あけましておめでとう」というより、よっぽど説得力がある。 それでは皆様、よいお年を。 (あっ、マニ憂の更新は、たぶん年内にまだ何回かあります。予測ですが。) ... クリスマス・イヴの留守番電話 - 2003年12月24日(水) 今日はクリスマス・イヴ。 僕の人生には、残念ながら劇的なクリスマスの思い出というのはあまりないんだけど、ひとつ心に浮かぶかとがある。 まあ、とてもささいなことだ。 もう10年近く前のクリスマス・イヴのことだ。 僕はその日、後輩の女の子と2人で映画を観に行った。 その子は実家からだったので、映画が終わってから食事だけして別れたのだ。その頃はまだ正式につきあってもいなかったし、この日に映画を観にいったのも、お互いになんとなく、という感じだった(もちろん、お互いに憎からず思ってはいたわけだけど) 映画が終わって、少し高揚感を持ちながら家の留守電を聞いたら(当時は、携帯なんてない時代だったから)、そこには、聞きなれた後輩(女の子)の声が。 「もしもし、今、みんなでパーティやってるんですけど、先輩も来ませんか?…もしかして、○○ちゃん(映画を観に行った女の子)と一緒ですか?」 当時、サークル内では、僕と○○ちゃんは確かに仲が良かったけれど、まさか、みんなからそんなに見られているとは思わなかった。傍目八目、とは言うけれど。 そして、電話をかけてきた女の子は、当時、僕が○○ちゃんと同じくらい好きだった子だった。 「同じくらい」というのは、不実なのかもしれないが、そういうふうにしか、言いようがなくて。 結局、僕は○○ちゃんと付き合うことになったのだが、今でも思う。 もし、2人に誘われる順番が逆だったら、どうだっただろう?なんて。 「いちばん好きな人が、結婚した後に現れることだってある」と言う人もいる。確かに、そうかもしれない。 僕だってファミレスの感じのいいお姉さんやバイト先の病院の看護師さんに対して「この人と先に出会ってたら、好きになっていたかも」なんて妄想することもある(ほんとに「妄想」ですね)。 でも、僕はそういう「順番」も運命なんじゃないかと自分に言い聞かせている。 もちろん、「後からもっといい人が出てきたら、そちらに乗り換える」という主義の人もいるだろうし、それは、個人個人のポリシーの違いでしかないのだろう。 どちらが正しい、とか言える筋合いではないのかもしれない。 ただ、そういうのって、「歩き出すのはいつも左足から」というようなのと同じで、僕にとってはすごく大事で、譲れないことなのだ。 それでも、クリスマスイヴになると、毎年なんとなく、あの一本の留守電のことを思い出してしまうんだよなあ。 ... 「書く愉しみ」の代わりに失ってしまったもの - 2003年12月23日(火) 今、「シティハンター・完全版」をずっと読んでいる。 あらためて読んでみると、いろいろ考えてしまうところがあるのだ。 考えるといっても、例えば「車が走るシーンはこんなふうに描くのだなあ、とか、悲しみを表すときのコマ割りは、こんな感じなのだなあ、とか、そういうことだ。 少なくとも僕がリアルタイムで「シティハンター」を読んでいたときは、ただ「面白いなあ」とか「また『もっこリ』かよ!」とかいう感じで、純粋に楽しんでいたような気がする。 大学のとき、鳥山明の原画展を観たとき、ちょっとびっくりした。 その原画には、「定規で引いた真っ直ぐな線」が、一本も無かったから。 「描く」というのは、大変な作業の積み重ねなのだ。 小説の読み方も変わってきた。 「面白い」と感じる前に、このシーンは、こんなふうに描くのだなあ、などと思うことが多くなった。もちろん、参考にするというよりは、ただただ感心するばかりなのだけれど。 でも、「上手い!」という気持ちが先に立ってしまうのは、あんまり良いことではないよね。 素人なりに「書く愉しみ」を得た代わりに失ってしまったものは、けっこう大きいのかもしれない。 もっと素直にいろんなものを楽しみたい、と最近、心から思っているのです。 ... 「機械の体」と「自衛隊のイラク派遣」 - 2003年12月21日(日) 「銀河鉄道999」というマンガを御記憶だろうか? まあ、御記憶以前に、そんなマンガ知らん!という人は、今回はごめんなさい。 (注意・以下ネタバレですので、銀河鉄道999のストーリーを知らなくて、これから読もう、もしくは読む可能性のある方にはオススメしません) 「銀河鉄道999」は、生身の人間である星野鉄郎少年が、永遠の命を得られるという「機械の体」をタダでくれるという星を目指して、銀河鉄道で長い長い旅をする話なのだ。 そして、この物語では、永遠の命を得てしまったがために、命を軽んじるようになってしまった機械人間たちの堕落した姿が描かれていく。 鉄郎が出した結論は、「人間は、命に限りがあるから、一生懸命に生きようとするし、他人に優しくもなれる。そして、親から子へと生命が受け継がれていくのもまた、『永遠の命』なのだ」というものだった。 当時小学生だった僕にとっては、この結論には、すごく説得力があると同時に、ひどく不可解なものであったことをよく記憶している。 最近の自衛隊のイラク派遣について、こんなことを言う人がいる。 「今回は『平和目的』なのかもしれないが、こうやって『派兵』を行うことが常になれば、必ず将来的に自衛隊の海外進出に繋がるはずだ」 確かに、そうかもしれないな、と僕も思う。 太平洋戦争の時代の日本軍だって、心情としては、「日本を守るために、海外に進出していた」のだろうから。 「専守防衛」とはいっても、例えば「防衛のために、敵のミサイル基地をあらかじめたたいておく」という名目で海外派兵するというようことだって、起こりかねない。 実際、大陸間弾道ミサイルなんて、発射されるのを待ってどうにかしようなんてのは、ナンセンスな気もするし。 では、「将来的に、海外派兵に繋がる可能性があるから、今回の復興支援もダメ!」と言っていいものなのだろうか? 話が脱線しすぎた。 「銀河鉄道999」で鉄郎が出した結論に僕がいまひとつ納得できないのは、「機械の体』をうまく使えるのなら、別に『限りある命』にこだわる必要なんてないんじゃない?」と思ってしまうからだ。 できれば、僕だって死にたくないし。 「永遠の命」と「堕落すること」というのは、はたして100%の因果関係があるのかどうか? 正直、僕にはよくわからない。 結局、「人間は愚かだから、少しでもリスクがあるほうには、向かわないようにしたほうが得策」なのだろうか? 永遠の命があれば、人間は必ず堕落していくし、自衛隊がイラクに支援活動に行けば、将来必ず海外派兵へ繋がっていくのだろうか? そういう「負の方面への連鎖」みたいなものを信じるのが、果たして正しいのか? …でも、「人間なんて、そんなもんだよ」と言われたときに、僕には「違う!」と言い切る自信がないのも事実なのですけど。 ... 「呼び捨て」にできなかった人生 - 2003年12月18日(木) 参考リンク:「幹事クリタのコーカイ日誌2003」の12月18日分「呼び捨て。」 他人との距離のとりかたが苦手な僕には、医者になってよかったなあ、と思うことがひとつあるのです。それは、「同僚の呼び方に困らない」ということ。 だって、みんな「○○先生」って呼べばいいですから。先輩でも後輩でも、教授でも(まあ、公式の場では「○○教授」という呼び方をすることもあります)、一年目の研修医でも。医者の世界というのは、それで失礼にならないのです。 看護師さんは「○○さん」、男の学生は「○○君」で、女の学生は「○○さん」、シンプルな方程式です。ときどき、エレベーターに乗り合わせた学生に敬語を使ってしまったりすることもありますが。 昔から、他人を呼び捨てにするというのが苦手でした。 男同士なら、場合によっては呼び捨てにしたりするのですが、「僕はこの人を呼び捨てにしてもいいくらいの関係なのだろうか?」なんて考え始めると、なかなか勇気が出ないものです。「もし、失礼なヤツだ」なんて思われたらどうしよう、って。逆に、「○○君」なんて呼んだら、ヨソヨソしいやつだなんて、思われるかもしれず、名前を呼ぶときって、けっこう気を遣っていたような記憶があるのです。 当時流行っていた「おたく」なんていうのは、きっと僕みたいに踏み込めないけどヨソヨソしいヤツだと思われたくない人たちが使っていたんでしょうね。 僕自身は、「おたく」という2人称は、カッコ悪いと思っていたので使いませんでしたが。 同級生で女子を呼び捨てにするなんて、アンビリーバブルな世界。僕にとっては、女子は「○○さん」というのがスタンダードでした。 もっとも、女の子に呼びかけるなんて機会そのものがあまりありませんでしたし、逆に女子に対しては、方程式があったので、「親友とは言えないほどの男友達」に対して呼びかけるときのような「迷い」は、ありませんでしたが。 そういう「傾向」みたいなものは、高校時代に全寮制男子校に入っていたので、とりあえず「男は呼び捨てでいいのかな」という結論に達したのですが、女性の呼び方には縁遠くなるばかり。 大学の部活では、「男女とも先輩は『○○先輩』、男の後輩は苗字を呼び捨て、女の後輩は『苗字+さん』と決めていました。今から考えたら、よそよそしい人だな、なんて思われていたかもしれません。 少なくとも、「馴れ馴れしい人だ」と思われるより、「ヨソヨソしい人だ」と思われる方がマシだという意識があったような気がします。 部活の後輩には公平に接しなくては、という名目もありましたし。 内心では、女の子を「呼び捨て」にできるような関係に、憧れていたんですけどね。 今は、そういう「呼び方」に、あまりこだわらなくても生きていけるようになりましたが、自分の身内に対して、けっこう困ったりもします。昔のように呼び捨てにしようにも相手は立派な大人になってしまいましたし、昔ほどの接点もありません。「お前」呼ばわりするのは失礼かもしれないし、「○○君」ではさすがに他人行儀でしょうし… とにかく、「先生」という言葉は非常に便利です。 オールマイティな響きがあります。 もっとも、自分が「先生」と呼ばれるときは、きっと相手もどう呼んでいいのか困っているんだろうな、なんて思ったりもしますけど。 ... 「寂しいレンタル日記」のメリット、デメリット - 2003年12月17日(水) 趣味のWEBデザイン・2003年12月17日「寂しいレンタル日記」を読んで。 僕が最初に使い始めたレンタル日記は「さるさる日記」だったので(今も使っていますが)、「レンタル日記サイトというのは、こういうものなんだな」という印象でした。 他人に公開するための日記を書くツールというよりは、日記帳代わりのツールという感じだったのです。 自分の生活の記録にプラスして、ちょっとだけ誰かに読まれてるかもしれないドキドキ感、とでも言いましょうか。 たぶん今でも、「レンタル日記」といって最初に名前が挙がる最大手は「さるさる日記」ですし、サイト上に日記を書く人にもいろんな理由があると思うのです。 「さるさる日記」は、そういう意味ではツールとしては低機能な分シンプルで使いやすいんですよね。 一部の「読んで読んで日記」を除けば、徳保さんが言われるように、「独り言を書ける空間」なわけです。だから、「さるさる」には、けっこう「普通の人が家で日記帳に書くような日記」が多い印象があります。テキストサイトにスレてない、とでも言いましょうか。 ところで、僕が「さるさる」を使い続けている理由というのは、「慣れているから」というのがひとつなのですし、あの1000字制限が快感、というのもありますし(さるさるを使い慣れてくると、だいたい一日分が1000字くらいになるんですよ、不思議なことに)。 あと、「コミュニティーを無視できる」というのも、考えようによっては大きなメリットなのです。 「さるさる」には、アクセス解析もついていないし、「マイ日記」もありません。 しかし、それは裏を返せば「どうせわからないんだから、気にしなくていいからラク」でもあるんですよね。急にアクセス数が増えても、どこから人が来ているかわからないし、誰からリンクされたかもわからない。 でも、「わからなくて当たり前」だから、気を遣う必要もないわけです。 リンク先がわかっていれば、なんらかのリアクションを起こさないといけない場合もあるでしょうし。 「エンピツ」は有料版がさらにパワーアップされて、以前に増して使いやすくなりました。僕のようにHTMLを解していない人間にとっては、リンクが張りやすくなったというだけでも、大変な進化なわけで。 ただ、僕は「エンピツ」で書き始めたときにちょっと困惑した慣例がありました(もっとも、それを実際にしてくれた方はごく一部だったのですが)。 それは、「マイ登録ありがとう」という掲示板への書き込みやメール。 「エンピツ」には、エンピツ内での自分のサイトのブックマークというべき「マイ日記」という機能があって、すごく重宝するものです。また、自分のサイトを誰が「マイ日記登録」してくれているかがわかる機能もついていて、そういう便利な機能が「エンピツ」のコミュニティ形成の大きな力になっているのです。 でも、「ブックマークしてくれてありがとう」なんて、いうのは、正直なところ、どう反応していいのかわからないんですよね。 「どういたしまして」とかしか、返事のしようがなくて。 どんなサイトをブックマークするかなんて人それぞれでしょうし、僕は、時間がないときにちょっと読んでみて、「もう少し読んでみたいな」というようなサイトを「とりあえずマイ登録」しておくこともあるものですから。読みかけの本にしおりを挟んでおくようなもので、お礼を言われるようなことではないと思うんですよね。 そんなに深く考えなくても…といつも思います。 「舞台を観に行ったら、いきなり舞台の上から役者に話しかけられた」というような感じ。そんなつもりで観にきたんじゃないのに…なんて。 まあ、「ありがとう」とか言われると、「マイ日記」から外しにくいというのもありますよね(本当は、それが狙いなのかな) 「そんなら、リンク告知しなくてもいいじゃん」とお思いの方もいらっしゃるでしょう。僕もそう思います。しかしながら、一度「告知する」を選んでいて、「告知しない」に変えた場合、いきなり自分のサイトの名前が「Who is My」から消えてしまったら、悪く思われるのではないか、などとも思ってしまうんですよね。風に戸惑う弱気な僕。 ひょっとしたら「どうしてMy登録外しちゃったんですか?」とかいうようなメールが来るんじゃないか、とか… まあ、「エンピツ」のいろいろな機能というのは、携帯電話みたいなもので、「一度使いはじめると、その便利さに手放せなくなる」けれど、「それを持っていることによって、必要以上に拘束されたりして、無い時代が懐かしくなる」ものなのんでしょうね、きっと。 ちなみに、書いている側が思うほど、読み手は「レンタル日記はサイトの1コンテンツ」という意識はないのではないでしょうか?とりあえず日記を読んで、気が向いたらメインサイトのほうも、なんて感じの人が多くて。 そして、「どうしてサイトの方には人が来てくれないんだろう?」とか書き手のほうは思っているにもかかわらず、訪問者にとっての、その「1クリックの壁」は、書き手の予想以上に大きなものなんだろうなあ。 それにしても、いくらなんでも「さるさる日記」のあの新しい広告の入れ方はひどいよなあ…騙してクリックさせようとしているみたいで。 でも、「さるさる」の有料版にするくらいだったら、他所に行こうかな、とも思うし。 「有料版にしたら広告が無くなります」と言われるよりは、「有料版にしたら、アクセス解析が詳細版になります(僕は簡易版でも十分ですが)」とか「草稿が保存できます」なんていうほうが、「金払おうかな」って気になりませんか? 「有料ならマイナス要因がなくなる」よりは、「有料なら機能が増えて、使いやすくなる」ほうが、圧倒的に魅力がありますよ。 ... 「緊張する自分」との付き合い方 - 2003年12月15日(月) 僕はこう見えて(見えないですね)緊張するタイプなのです。 大学時代弓道というスポーツをやっていて、唯一自分の役に立ったと思われるのは、「自分は邪念が強くて、緊張しやすい人間だ」という事実確認ができたことくらいなのです。 けっこう練習していたのにもかかわらず、もともと才能がない上に「せっかく練習してきたのだから、結果を出さなくては」と自分で自分にプレッシャーをかけて緊張してガチガチになってしまい、さらに結果を出せなくしてしまってたんですよね。弓道というのは、メンタルな要素が非常に高い競技で、狙いが1mmずれたら、矢は全然違う方向へ跳んでいくものですから。 それでも、自分より練習してない人がどんどん結果を出していくのが悔しくて。 「緊張しないためには、どうすればいいのか」そんなことをずっと考えていました。 でも、「緊張しないようにしよう」とずっと考えているのって、子供が「無心になろう」と思って「無心…無心…」と唱え続けているようなもので、結局、邪念でしかないんですよね。 僕は結局、楽しい大学時代を犠牲にして、ひとつの結論に達しました。 「自分は緊張する人間なのだから、それは仕方がない。なら、緊張して普段の半分の力しか出せないのなら、本番に半分でも足りるように、あらかじめ他人の2倍の準備をしておこう」って。 実際に2倍の準備なんてできなかったのですが、そう考えることよって、だいぶ気分はラクになりました。「緊張するのは仕方がない」と思えるようになると、意外と緊張しても大丈夫なものです。失敗しても「練習が足りなかったから」と一元的に考えることができますし。 結局、僕の弓道人生は実りなきものに終わったのですが、そういう考え方ができるようになったのは、ひとつの収穫だと思うのです。 そういえば、引退して何年かあとに、OB会で弓を引く機会があったのですが、それはもう、ひどいものでした。怖くてまともに引けないのです。 そんな自分に苦笑しながら、僕は少しだけ嬉しくもあったんですよね。 他人に誇れるような結果は出せなかったけど、あのときの僕には、それなりの「努力の成果」があったんだな、って。 ... それは、本当に「悲惨な人生」なのか? - 2003年12月13日(土) 浜崎あゆみの番組を観ていたら、「フランダースの犬」の隠れた名場面というのが流れていた。 アロアがイギリスに行くことになって、ネロ2人で地図を見ているシーン。 「イギリスは遠いね…」と言いながら、地図のフランダース地方とイギリスの距離を親指と人差し指で測ろうとするネロ。 「僕の指じゃ、届かないや…」 ちょっとガッカリした様子の2人だが、ネロはその隣りにある縮尺の大きい(もっと広い範囲が描かれた)地図を見つけてアロアに言う。 「あっ、この地図なら届くよ!」 「そうね、うふふ…」 そんなことをしたって、現実のイギリスとフランダースの距離が縮まるわけでもないのに、微笑みあう2人。 この場面を観ながら考えた。 僕にとっての記憶の中の「フランダースの犬」は、ネロとパトラッシュが食べ物もなく、凍えながら教会にたどり着き、最期に教会でルーベンスの絵を見て天に召されるという、救いようのない話だった。 でも、いくらなんでも、「フランダースの犬」の第一話から最終回まで、全部が全部悲しい話じゃないはずだ。 僕が覚えているのは最終回がほとんどだけど、「フランダースの犬」の中には、楽しいシーンや心温まるエピソードもあったに違いない。 「ネロとパトラッシュの悲惨な最期」のイメージにとらわれすぎて、彼らの人生(&犬生)の楽しい部分を忘れてしまっているんだよなあ、きっと。 人間にとって「死に方」というのは確かに大事だろうし、残念な死に方をしてしまうと、その記憶だけが残りがちなものだけれど、今の日本で普通に生きていれば、多かれ少なかれ「幸せな場面」だってあったはずだ。 僕は、「悲惨な死に方」だけじゃなくて、「楽しく生きている姿」を少しでもこの世界に残しておきたいし、他の人のそういう姿を覚えていたいと思う。そんな気がする。 実際は、悲しい出来事のインパクトに押しつぶされてばかりなのだけど。 ... どうしてこんなに「ヤワラちゃん」が苦手なんだろう? - 2003年12月12日(金) 昨日は一日中(ほんとうに24時まで!)仕事だったのだが、ひとつだけ幸運だと思ったことがある。 おかげで、ヤワラちゃんこと、谷(旧姓・田村)亮子選手の結婚式の映像を観なくて済んだことだ。イヤ助かった。 正直、苦手なんだよなあ、ヤワラちゃん。 彼女は、見た目はそんなに可愛い感じではないけれど、努力家で、精神的にも強い人だと思う。それに、みんなの期待に応えるために、日夜研鑽に励んでいるのだ。 それで、なんでこんなに僕はヤワラちゃんが苦手なんだろう?と考えてみたのだけれど、その最大の原因は、彼女の「確信性」にあるのだと思う。 子供の頃から、ずっと他人の期待を背負い続けてきたからなのかもしれないが、彼女の「他人の期待を受ける態度」というのは、まさに「完璧」なのだ。 テレビのインタビューで、「応援してくれる人たちのために、頑張ります」と誰かが答えているシーンを観ると、僕はそこに、大なり小なり「演技」を感じる。 「テレビだから、観てる人にウケるようなことを言っておこう」とか「まあ、騒いでくれるのもオリンピックのときだけなんだろうけどさ」とか「これで『ジャンクSPORTS』にでも呼んでもらえないかな」とか。 だいだいどんなスポーツ選手の受け答えにも、なにがしかの邪念という要素が含まれているものだ。 でも、ヤワラちゃんは違う。 彼女は、「日本国民が自分のことを応援している」ということを「確信している」ように見える。その「応援してくれる人のために」という言葉に、僕は邪念を感じることができないのだ。 だからこそ、ものすごく怖い。 そんな人間って、ありえないような気がするから。 普通「でも、妬んでる人もいるだろうな」とか「柔道に興味ない人だっているだろうけど」というような、口に出せない気持ちって、なんとなく滲み出てくるものじゃないですか? 今回の結婚でも、ヤワラちゃんは終始大喜びだった。 画面の向こうで僕たちが、「こんなプレッシャーをかけられちゃ、谷選手はかわいそうだよなあ…」なんて、密かに同情していたことにも、全く気がつく様子はなかった。 そして、パリでの結婚式(観てないけど)。 普通に考えれば、ヤワラちゃんは、「勘違いしている人」だ。 でも、その一方で、僕はこんなことも考える。 「天才にも挫折はあって、みんな挫折を乗り越えていく」とか言うけれど、ごく一握りの本当の天才というのは、結局、挫折に直面することもなく、平然と壁をぶち壊して進んでいくのではないか?」と。 「誰にでも挫折がある」なんていうのは、凡人の慰めにしか過ぎないのではないか、と。 僕がヤワラちゃんを苦手なのは、たぶん、彼女が「確信を持って生きている人」だからなのだろう。 彼女の行動が全部「演技」で、「ヤワラちゃんやってるのも、結構大変なのよね〜」とか言いながら、家でゴロ寝しながら、ヴァージニアスリムとかスパスパやっててくれたら、むしろ僕としては好きになれそうな気がするんだけど。 ... 「季節限定・カスタードプディング味」より美味しかったアイス - 2003年12月10日(水) ハーゲンダッツの「季節限定・カスタードプディング味」が、今日の昼のラジオ(「昼サイドアベニュー」って番組で、パーソナリティの中田さんが本当に美味しそうに喋るものですから)で話題になっていて、僕は、思わずそれを購入して食べてみたのだ。 卵が通常の3倍量!のクリーミーなカスタードアイス+ほろ苦くて甘いカラメルというアイスクリームなのだが、確かに美味しい! でも、正直言って、ラジオで言っていたほどは感動できなかったんだよなあ… まあ、もともと僕があまり甘い物を積極的に食べない、という事情もあるのだけれど。 でも、アイスクリームの価値というのは、僕にとってこの20年でだいぶ下落してしまった。 子供の頃は、ハーゲンダッツみたいなバニラアイスなんて口に入ることは風邪をひいたときくらいで(というのは多少大げさだが)、当時は、そういったアイスは「レディボーデン」の独占状態だったような気がする。しかも、今みたいに一人一人別カップとかじゃなくて、大きなカップのやつをみんなで取り分けて食べてたっけ。 あの頃の「レディーボーデン」は、本当に美味しかった。 カップの中身が無くなるのが、ほんとうに寂しかったものなあ。 通常の家での「アイス」は、いわゆる「チュチュー」だったし。 あれって、先っぽがついてるやつのほうが、ちょっと量が多いな、とか考えていたっけ。 今では好きなだけ高級アイスが食べられるわけですが、たぶん、あの頃の「レディボーデン」にかなうアイスは、これからもないような気がする。 ... 「人生の選択」なんて、どっちを選んでも同じこと。 - 2003年12月09日(火) いつも読んでいるサイトの人が、大学院を辞めたという話を読んだ。 僕も最近、いろんなことを考える。 もう31(もうすぐ32)にもなって、研究生とかで無給で働いている(もちろん、名目は「勉強させていただいている」なのだが)という状況は、果たしてどうなのかなあ、とか。 そんなに興味が持てるわけでもなく、全然うまくいかない研究などをやっていると、ときどき、こんな生活に意味はあるのか、とか悩んでしまう。 ここで中途半端に基礎系をかじったところで、僕の人生に何のプラスになるだろうか?なんて。 「物事を違った角度から見ることができる」とかいうのは、確かに事実なのだ。でも、30前後の3年間という「体が動く時期」をそのために費やすことが効率的なのかどうか、僕にはよくわからない。 おまけに、研究だって順調とは言いがたい。 何か、壁のようなものに当たってしまった場合、理想的なのは「壁をぶち破る」ことなのだろう。ただ、それが全ての人に可能なのかどうか。 今のところ、僕はここに留まって、研究生としての生活を続けるつもりなのだが、それが正しいかどうかなんて、僕にはわからない。 続ければ勝ち組、辞めれば負け組、なんてこともない。 所詮、続けるのも辞めるのも、「選択肢のひとつ」でしかないのだ。 この間も同じようなことを書いたけれど、僕たちが「選択ミス」だと思っていること(それはつまり、職業とか、配偶者とか)の大部分は、「選択肢そのものを間違えた」わけではなくて、選択肢を選んだ後の実行の仕方を間違えているだけなのだ。 たぶん、そこに気がつかないと、いくら他の選択肢を選んでみたところで、結果は同じことにしかならない。 もちろん、向き不向きなんていうのがあるから、自分の性に合わないものに対して努力するというのは難しい面もあるけど。 まあ、偉そうなことばかり言いながら、僕は今も自分の「選択」をちょっと後悔している。まあ、自分のプライドが邪魔をして、今のところ辞めることはないだろう。それなら、辞めない、という選択肢で答えを出さなくてはならない。 こういう、「ねばならない」っていう発想は、自分でも良くないなあ、と思うんだけどさ。 「死ぬ気になれば、なんでもできる」というけれど、「なんでもやるくらいなら、死んでもいいや」という人間だってるだろうし。 それでも、あのサイトの人が「辞めてよかった」という答えを出せることを心から願ってやみません。 ... 「2003・K-1GP決勝」の憂鬱 - 2003年12月07日(日) (1)今回は、誰が勝つかわからない、という意味では、けっこう面白かった。 (2)正直、もし武蔵が優勝したらどうしようかと思った。 (3)そんなことになったら来年は、チャンピオン・武蔵がみんなにKOされまくるというのは、それはそれでシュールだと思って。 (4)それ以前に、武蔵優勝なんて、鉄拳の「こんなK−1はイヤだ!」のネタかと思った。 (5)いつもは武蔵の「消極的なファイト」に非難轟々の放送席が、今日はなぜか武蔵擁護キャンペーン実施。「勝つためにアウトボクシングに徹しているんです」当たり前だ。負けるためのわけないじゃん。 (6)ひょっとして、今日の解説は後録りで入れ替えているのでは… (7)でも、今日の武蔵はけっこう強かった。ただし、相手もボロボロだった(セフォーは風邪でコンディション不良、アーツは…あの試合、武蔵の勝ちという判定は、ちょっとどうかなあ) (8)ボンヤスキーは強いけど、今日は人生のラッキーを半分くらいは使った感じ。グラハム→アビディ→武蔵と倒して優勝なんて、このあいだのオリンピックのスケートで、走ってたら上位がみんな転んで優勝してしまった人みたい。 (9)もはや、マイク・タイソンを待っているのは、石井館長だけなのではないか? (10)サップvsタイソンかあ…サップは、まずは曙に勝ってからサインしたほうが良かったのでは。 (11)ボンヤスキーって、スト�兇離丱襯蹈阿澆燭い澄�ヒョー〜 (12)イグナショフは、人気になるとダメなタイプだね。 (13)しかし、1着ボンヤスキー、2着武蔵の馬単を当てた人って、どのくらいいるんだろうか?2着が超人気薄だったからねえ。 (14)ボタは、もう出なくていいと思う。 ... 「釣りに行こう」 - 2003年12月05日(金) 最近仕事で煮詰まったとき、「釣りに行こう」(THE BOOM and Akiko Yano)を聴いている。 いきなりこの曲の名前を挙げられて、みんなが「ああ、あの曲」というようなメジャーな曲ではないと思う。でも、僕はこの曲が大好きなのだ。 幼馴染のふたりの日常にあった「釣り」(ネット的な「釣り」じゃなくて、 Fishingだからね、念のため)の情景を牧歌的に歌っている曲のはずなのに、なぜか僕はこの曲を聴くと、ほんわかとした温かい気持ちが湧いてくるのと同時に、涙が出そうになるのだ。 矢野顕子、宮沢和史というふたりのシンガーの力もさることながら、この曲の詩は、とても心に響く。 ♪目が覚めたら君は うそばかりついた その度だまされたふりしてた こういう関係って、すごくいいなあ、と僕は思う。 「人間は嘘なんかついちゃいけない」という人間の正義や「騙されないように、常に隙をみせないようにしなければいけない」という現代の常識とは、異なる世界。 「うそばかりついてしまう」男の子と「だまされたふりをしてあげる」女の子。 そういう「包容力」とか「やわらかい信頼関係」みたいなものが、もっともっとこの世界に溢れていれば、きっと、もう少し生きやすくなるんだろうな。 ... 人間関係を破綻させないための「勝負どころ」 - 2003年12月03日(水) 今日は朝から嫌なことが続いていたのだが、僕はずっと、「ここが勝負だ」と自分に言い聞かせていた。やっと12月3日が終わる。 人間関係におけるトラブルというのは、ひとつの「失敗」から起こる、とみんな思っているはずだ。 それは、浮気をしたとか、友達との約束の時間に大幅に遅刻したとか。 でも、僕は最近思う。 実は、人間関係の破綻は、「何かトラブルが起こったこと」よりも、「そのトラブルへの対応」という二次的な原因に起因することが多い。 例えば、「浮気をしたのがバレたのに、逆ギレして暴力をふるった」とか「ギャンブルに負けて、家族に八つ当たりした」とか。 もし「逆ギレ」や「八つ当たり」がなければ、人間関係は決定的なダメージを受けないのに。 もちろん、浮気やギャンブルをしなければ、そういった二次的なトラブルそのものが存在しないことになるのだが、実際は、「仕事での思わぬ見落とし」とか「事故」なんていうのは、不可避なことも多いのだ。 僕は、嫌なことがあったときに、いつも思う。 「本当の勝負は、これからだ」と。 村上春樹の小説に「浮気で家を空ける理由に友達を使うな、浮気したんだから妻を失うのは仕方がないが、大切な友人まで失うことはない」という言葉が出てくる。 そう、実は人間関係の破綻を決定的にしてしまうのは、ひとつのトラブルではなくて、そのトラブルで自暴自棄になることなのだ。 自分では「あの状況では仕方がない」と思っても、大部分の他人は、そう思ってはくれないものだから。 「女性にとって憎めない男」っていうのは、「浮気をしない男」というより、「浮気がバレたときに、うまく立ち回れる男」なのではないかなあ、などと感じることがあるんだよなあ。 もちろん、僕は、うまく立ち回れない男なので、日頃から自制を心がけております。うまくいかないけどね。 ... 「恥ずかしい受賞者」と「不可解な辞退者」 - 2003年12月02日(火) 「流行語大賞」が発表されたのだが、僕には解せないことがある。 今年の流行語大賞に選ばれたのは、「マニフェスト」「なんでだろう〜」「毒まんじゅう」の3つだったわけだが、もっと他に流行った言葉はあるだろう?とかいう気はする。まあ、これは毎年そんな感じなので、別に目くじら立てるようなものでもないだろう。 なぜ?と思ったのは、「毒まんじゅう」で流行語大賞を受賞(?)した野中広務・元自民党幹事長が、嬉しそうに会場に現れて、自分が出す本の宣伝までしていった、ということだ(実は本の宣伝に来たのかもしれないが) だいたい「毒まんじゅう喰らった」というのは、野中さんが政敵に対して放った攻撃の一節なわけだから、要するに「他人の悪口」なのだ。 もしあなたが、自分の知り合いを「バカ」と罵るのに気の利いたレトリックを駆使して、その言い回しが「流行語大賞」とかになったら、どう思うだろうか?やっぱり嬉しい? もちろん、他人の悪口というのが名言名句の宝庫だということは、歴史的にも証明されている。だから、「毒まんじゅう」が流行語大賞を受賞することについては、僕は異論は無い(名言だからというわけではなくて、悪口だから、という理由ではスポイルしない、ということです)。 でも、他人の悪口で賞を取ったからといって、喜々として会場に現れて、授賞式に参加したりするのはどうかと思うのです。だって上質の皮肉とかウイットじゃなくて、単なる「罵詈雑言」の部類だよ「毒まんじゅう」って。 僕だったら、自分がそんなこと言ったなんて、絶対誰にも自慢げに吹聴したくないけどなあ。 芸人であるテツ&トモや、「マニフェスト」の提唱者は、「それが社会に受け入れられることを目的としていた」のだから、素直に喜んで当然だと思うんだけど。 あと、SMAPの「世界で一つだけの花」がレコード大賞辞退、というのもなんだかよくわからない。 辞退理由として、【SMAPは受賞辞退について、所属のジャニーズ事務所とビクターの連名で「この曲は歌詞の中にあるように“No.1”を目指すよりは“Only one”を大切にしたいと言う気持ちを胸に唄ってまいりました。輝かしい賞をいただくことより、私共の歌ってきたメッセージを貫きたく御辞退させていただきたい」とコメントした】ということだが、さて、No.1とonly oneは、両立しないものなのだろうか? この歌に込められているメッセージの普遍性は僕にも理解できるのだけれど、別にレコード大賞を受賞したからといって、この歌の価値が損なわれるものでもないだろう。売れた数と世間のこの歌への認知度からいって、出れば大賞間違いなしだと思うのだが。 この歌が、「自分らしく生きれば、別に向上心がなくてもいいじゃない」みたいな解釈のされかたをしてしまうのは、ちょっと勿体無い気がする。 よく思い出しでもらいたいのだが、この歌の大ヒットの要因となった、ドラマ「僕の生きる道」で、癌に侵された中村先生は、子供たちと「合唱コンクールでの好成績」を目指したではないか。「参加さえできればいい」なんていう感じではなかった。 彼らが、歌というフィールドで勝負しているかぎり、「賞なんか要りません」とかいうのはヘンな気がする。それなら、「いい曲さえ出せれば、売れなくてもいいんです」だって成り立つはずだし、突き詰めれば、CD出す必要すらないわけだ。 まあ、これは半分言いがかりで、みんな楽しみにしてるだろうから、出てあげればいいのになあ、と思うだけなのですが。 「賞のため」じゃなくて、結果として貰える賞なら、貰ってもバチは当たらないんじゃない? あと、「世界に一つだけの花」は、みんな頑張って咲こうとしてるんだからね、念のため。 この歌を言い訳にしようとすると、「世界で一つだけの雑草」になっちまう可能性大。 ...
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