マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

あるドア報の一生(1)〜電話。 - 2002年09月30日(月)

 僕は電話がキライだ。
 長電話大好き、なんて信じられない。
 だって、電話をしている間は、誰かひとりと話すことしかできないのに。
だいたい、誰かひとりとだけ話しているには、僕に残された時間は短すぎるような気がして仕方が無いのだ。
 で、パソコンをやりながらとか、ゲームをやりながら、いちおう、受話器だけを耳にあてていると「私の話、聴いてなかったでしょう?」と怒られたりする。
 それでも、ナンバーディスプレイが無い時代は、100本の無意味もしくは迷惑な電話のなかに、1本か2本は心が踊るようなものがあったが、取る前に誰だかわかるようになって、そういう輝きはすっかり無くなった。
 今では、そういうちょっとした希望の役割は、メールに取って代わられたけれど、送信先が女の子の名前で勇んで開けてみると、ウイルスメールであったり、アダルトの広告だったりする。
 
 僕が用も無い電話がキライなのは、自分の時間をとられるのも、相手の時間を奪うのも嫌だから。
 でも、相手は意外と時間を奪って欲しがっているようなときもあって、それはそれで、さらに面倒だったりするのだ。
 たぶん、僕が電話を嫌いなほど、相手は電話を嫌いじゃなくて、
相手が電話を好きなほど、僕は電話を好きじゃないんだろうなあ。



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「ナースのお仕事」が観たかったアンチ巨人の悲劇。 - 2002年09月24日(火)

いや参った。
巨人が優勝して、今まさに胴上げをしようとしている。
僕はアンチ巨人。
いつもなら、なるべくスポーツニュースを観ないようにするとか、
インターネットのスポーツ関係にかかわらないようにする。
そうすれば、地獄の嵐は吹きぬけていく、はずだ。j

だが…
早く「ナースのお仕事」見せてくれよ。
ビデオに録りたい所だが、まかりまちがってゴキブリ軍団の胴上げシーンなんてのが最初に入っちまったら、一生の不覚…

というわけで、僕は今、ガチンコを観ながら、試合が終わるのを待っているのだ。
もう、早く放送しようよ「ナースのお仕事」
胴上げなんか、録画で「すぽると」で流せばいいやん。
今夜、全国のアンチ巨人は、帰ってビデオを観て愕然とするんだろうなあ…

そういえば、2年前にゴキブリ軍が優勝したのは、高橋尚子が金メダルとったのと同じ日だ。あれから、もう2年。




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K−1を電波少年にしないでくれ…(いや、ウリナリ?) - 2002年09月23日(月)

K−1日本GPを観ていた。
まあ、GP自体の結果には、とくに異論を挟む余地も無い。
武蔵の天下が、こんなに長く続いていることには、もっと新しいやつが出てこないんかなあ、という残念な気持ちはあるわけだけれど。

でも、最初のボブ・サップ対アビディなんてカードは、もうやる前から
アビディ、大怪我しなきゃいいなあ…と思われるカード。
いや、あれだけ体の大きさに違いがあれば、すでに大ハンディキャップ・マッチなのだ。
石井館長がレフェリーをやったのも、アビディを怪我させないようにという配慮だったのだと思う。案の定、試合はすぐ終了。一緒に観ていた人間は、
「アビディ、まだ元気なのに」と言ってたけど、元気なうちに止めるべき試合なんだから、仕方ないわな。

 さらに、ベルナルド「コレに負けたら引退マッチ」は、かなりお粗末な内容に思われた。
 あと1ダウン食らったら、ベルナルドKOという状況から、猛ラッシュでベルナルド奇跡の復活!引退回避。
 いくら日テレだからといって、あれはあまりに…
 ガチンコには、見えないぞ、あの内容。「あしたのジョー」か?
 だいだい、電波少年のルールをK−1に持ち込むなって。
 仮に、あれが実力での逆転勝ちだったとしても、あの相手にあの内容では、今後のベルナルドの前途は限りなく暗い。
 奇跡の逆転勝ちのワリには、場内もやたらと冷めてたし、ゲストの吉田は、冷笑してたぞ。
 試合内容はともかく、引退とかなんとか、他人がとやかくいうことじゃないだろうし、それをネタにしたああいう茶番だけは、もう止めて欲しい。

 広島カープは、阪神にまさかの逆転負け。
 9回まで4点差でリードしていたのを知っていたから、もう唖然として、泣きそうな気持ちになってしまった。
 山本監督のコメント「使ったワシが悪いんや」いちいち責める気力も無い。なんだか、虚しくて、とても悔しかった。
 でも、この日本には、片岡の要らんホームランで夢を与えられたり、今夜ぐっすり眠れたりする人がたくさんいるのだ。
 そう考えると、なんだか考えるのもアホらしい。所詮4位と5位。
 新ドラフトとFAで、野球界の戦力バランスはガタガタだ。
 「巨人が強くないと、野球界が盛り上がらない」
 確かに、そうかもしれん。でも、巨人だけが強いという状況で、野球界は盛り上がっているのか?
 
 今日は、岡部さんのクリスエスが快勝したことだけが、いいニュースだったな、うん。でも、本番人気になりそうだなあ。
 あと、いきなりあんな後方からの競馬で2着に持ってくる武豊は、やっぱりすごいや。
 来週は、ビリーヴとアドマイヤコジーン。 


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雑文祭に必要なモノ。 - 2002年09月21日(土)

 有料版の振込みを済ませた途端に忙しくて書けなくなるなんて、皮肉なものだ。
 今日「こっそり月見雑文祭」に参加したんだけど、他の人の作品を読んでいると、正直なところかなり気が滅入る。みんな巧いなあ。
 僕は文章を書くことが大好きなので(仕事用除く)「雑文祭」というのには、前々から興味があって、何回か参加もさせてもらっているのだ。
 今回の「月見雑文祭」は、いろんな有名サイトの人たちも参加されていることもあって、やや気後れしてしまうところもあるのだけれど。

 こういった雑文祭について、前にちょっと気になったことがある。
それは、某所で行われた匿名・投票制のテキスト企画でのことなのだが、
ある投稿作について「それは、心理学的に、どーたらこーたら、なのです。
もっと勉強してくださいね」というようなコメントがついていたこと。
 
 僕は人が書いたのを読むのも大好きなのだけれど、一読者としては「作者に要求される」ということほど嫌なことはない。どうして説教されなければいけないのか。
 あまりに一般常識ならともかく、管理人の職場の人間関係への理解とか、専門的な心理学の知識とかを「要求」されることは苦手だ。
 ただ、これは、すべての専門用語をスポイルしているわけじゃない。
たとえば、医者日記で、すべての医療器具や病名に長々と注釈とかついていたら、そんなのあんまり読みたくないだろうし。
(ひょっとしたら、「なんとなく、クリスタル」みたいに評価されたりするのかな、徹底的にやれば意外と面白いかも)
 しかし、専門家向けのサイトならともかく、専門的な知識を「こんなことを知らない方が悪い」というような態度のテキストサイトは、やっぱりあんまり読みたくないし、また行こうとは思わない。

 雑文祭は楽しい。
書くという自分の趣味を同好の人々と分かち合うってことは、すごく楽しいことだと思う。
 でも、その一方で、あまりに自分の価値観を押し付ける人ばかりでは、売れない小説家が時代を呪いながら作る同人誌みたいじゃないか?
 出店がみんなタコヤキや金魚すくいの「祭り」なんて誰が行くんだ?
 キャリアが長い方が偉い、こんなことも知らないのか、とか言い始めたら、キリがないよなあ、そんなの。
 僕は、書き手にも読み手にも「一般常識」以上のものは要求しないのが、「祭り」に対する正しい態度だと思っています。

 いや、同人誌なの!と言われれば、返す言葉はないんだけどさ。






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「声美人」っていいよなあ。 - 2002年09月16日(月)

 今日のお昼、車のラジオで「COCO−MIX」を聴いていた。
いつも水曜日はバイト帰りなどで聴く機会があるのだけれど、久々に月曜日の放送で、しのじゅん(篠田潤子さん、ですな)の声を聴いた。
なんだか、とてもかわいらしい声だ。こんなにかわいい声だったっけ。
癒し系というか、しのじゅんの声、けっこう好きで、水曜日にバイトに出るときは、いつも聴いていたっけ。今は、水曜日は、なかみーになってしまって、しのじゅんの声を忘れてしまっていた。
 いいなあ、しのじゅんの声、癒されます。
 声といえば、同様の先生たちとこの間カラオケに行ったとき、ひとりの女医さんの声がすごく綺麗で「声だけなら惚れるなあ」と思ったものだった。
 でも、一般的に顔・声・性格の3拍子は、なかなか上手くはそろわない。
 いや、その先生がどうとかいうわけじゃなくってさ、結婚されてるし。
 しかし、顔は目をつぶればいいし、性格は接触しなければいい。その2つに比べると、声というのはかなり否応ナシに耳に入ってくるものだから、ガードするのは困難なものだ。目をつぶるという行為に比べて、耳を塞ぐっていうのは、傍目でみてもすごく異常な行動だし、手間もかかる。
 声美人って、けっこういいよなあ、と思った午後。
 木村佳乃さんや伊東美咲さんの声を最初に聴いたとき、う〜ん、と思った経験、他の人はないんだろうか?
 いや、あれはあれで、慣れれば立派な個性なんだろうけど。




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エンピツの新ジャンル・日記読み日記。 - 2002年09月14日(土)

 この間、「エンピツ」のホームページを見て、非常に驚いた。
 何に驚いたかといったら、なんとジャンルが増えているのだ。なかでも、心惹かれたのが「日記読み日記」。
 WEB日記を書くときに「いかにしてアクセスを増やすか?」というのは、誰もが一度は考えることだと思うのだが、まず一番大事なことは「みんなが知っている話題を書く」ということだ。
 恋愛日記が人気があるのは、恋愛というのは、多くの人間にとって共通体験であるし、興味を引かれる対象であるからだ。これが「隣の佐藤さん(40)の日常生活」なんてのだと、文章の稚拙に関係なく、読みたい人は少なくなる。興味を持つ母集団が多ければ多いほど、一般的にアクセスは多くなる傾向がある。
 いわゆる「アダルト日記」に人気があるのも、まあ、アダルトは大部分の人類にとって共通項的な興味の対象であるからなのだ。
 つまり、訪問者にとって、まず大事なのは「何が書いてあるか?」であって「どう書いているか?」ではない。
 そういう意味では、エンピツのランキングに興味がある人は、自分で日記を書いている人が多いだろうから、「日記読み日記」には、潜在的なニーズがあるといえると思う。自分の日記が紹介されるかも…というちょっとした期待もあるわけで。
 読み手としても、これだけ日記がたくさんあると「どの日記を読んだらいいか?」というのは、なかなか難しいのだ。で、いくつか拾い読みしてみて、「お前の会社のK君のことなんか、どうでもいいよ…」とかぼやきつつ、日記読みを投げてしまう。一読しただけで、興味をもてる日記の割合なんて、実際そんなにたくさんは、ないものなのだ。
 
 日記読みにとっては、これだけ数が増えると、どれを読むのかって、悩ましい。結局、アクセスの多いところから…ということになってしまい、埋もれてしまう面白い日記が(たぶん)多発していることだろう。
 今こそ「本の雑誌」ならぬ「日記読み日記」にとってのチャンスだと思うんだけどなあ。少なくとも、「エンピツ」で日記を書いている人たちにとっては、ものすごく需要がありそうなジャンルなのに。
 今のところ「日記読み日記」に、それらしいものがほとんどないことに、ちょっと驚きつつ。せっかく新しいジャンルを作っても、これじゃ意味ナシ。
 というか、「ジャンル分けしにくいから、『日常・生活』」っていうのはわかるんだけど、「ジャンル分けしにくいから『日記読み日記』」というのは、さすがに不自然な気がするのですが。


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こうやって、人と人とは離れていく。 - 2002年09月13日(金)

最近、あんまり連絡が来なくなったなあ、という、ちょっと離れたところに住んでいる友達がいるとする。

さて、君ならどうする?
(1)電話してみる
(2)メールしてみる
(3)ほっとく

 僕は、原則的には(3)になってしまう。しかも、相手が女性だったりしたら、いろいろ考えちゃうじゃないか。もしかしたら恋人ができて、僕とは縁を切りたがっているのかなあ(ちなみに、不倫相手とかじゃなくて、純粋な友達だからね)とか、仕事が忙しくて、かまっている暇ないんだろうなあ、とか。
 だいたい、電話はキライなのだ。それは、その友達もそうだったはず。
 僕は、「友達と長電話でストレス解消」なんて、信じられないし。
 電話が長くなると、ダビスタとかやってたりするわけだ。
 そのくせ、一度かかってくると、切るタイミングがつかめなくて、いつも往生している。
 メールも、返事が来なければ「返事できない状況」にあるんじゃないかなあ、と考えてしまう。まあ、そういうのにも「あえて返事しない」というのと「返事しようと思っているうちに、時間が経ってしまった」というのと2種類あるのだが、鑑別がつかない場合が多い。
 いきなり「もうメールしないほうがいいか?」と聞くのもぶしつけだし。

 こういうのはたぶん、何も考えずに「ひっさしぶり〜!げんき〜」とか電話できるやつの勝ちなんだろうけどね。でも、そういう人とは、たぶん僕はトモダチにはなれないのだ。
 考えれば考えるほど、同じところをクルクルとまわり、ただでさえ少ない友達は、さらに減っていく。そんな秋。


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「日本には正義がなさすぎる」のだろうか? - 2002年09月12日(木)

昨日の夜、テレビを観ていたら、筑紫哲也が「正義がなさすぎる日本」という発言をしていた。
 僕は無宗教なのだが、たとえば「殺してはいけない」「盗んではいけない」というような教えは、カルト宗教ではない、メジャーな宗教では、必ず含まれているものだ。
 宗教の違いが戦争を生む、という考え方もあるだろうけれど、本当に敬虔な信者であれば、仏教徒でもキリスト教徒でも、イスラム教徒でも、不要な争いなどしないはずなのに。
 もし世界に宗教がなかったら、「同族を殺すのは悪」「盗むのは悪」ということは、大多数の人類の共通認識となっていなかったかもしれない。そう考えると、宗教が自制心として人類に果たしてきた役割は大きいのだろう。
 「無宗教」というのは、「何でもあり教」の信者であるといえなくもないし、正義の基準のマイルストーンとしての宗教は、これからもなくなる事はないのだと思う。
 宗教というのは、人類が経験の蓄積によって得てきた正義の基準のひとつ、といえるのではないだろうか。
 少なくとも「無宗教である」なんて、自慢するようなことじゃない。


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音のない世界。 - 2002年09月10日(火)

今日、研究室で仕事をしていたら、自分のパソコン起動音が妙に気になってきた。ギー、カタカタ。他の人たちも気になるだろうなあ、と思いつつ、耳をそばだてていたら、静かなはずの研究室にも、けっこういろんな音がしているものだということに気がついた。
 クーラーの音、工事の音、椅子がきしむ音、顕微鏡の対物レンズをまわす音、廊下の足音。
 どんな田舎に行ったって、虫の声や草のざわめきは聴こえてくる。

 どこに行っても、真の静寂なんてものは存在しないのかもしれない。
 音のまったく聴こえない世界は、どんなに不安なんだろうか。

 




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アメリカン・ダーティー - 2002年09月09日(月)

 夏休みが終わって、アメリカから帰ってきた先輩が嘆いていた。
「アメリカの南部の方の白人しかいないようなところに行ったんだけど、一緒に行った白人とばっかりしゃべってて、俺たちなんか、まったく話しかけてももらえなかったよ、無視だよ、無視。もう犬以下、って扱いだもんなあ」と。
 アメリカという国にとって、日本は同盟国なのかもしれないが、アメリカ人にとって、日本人は同盟者ではないんだろうな、きっと。
 しかし、最近のアメリカのやり方をみていると、大型トラックに乗っているという理由だけで気が大きくなり、大きな音でクラクションを鳴らしまくって軽自動車を脅かしているガラの悪い運転手を想像してしまう。
 自分の乗っているトラックがでかくてぶつかっても怪我しないからって、運転手が偉いわけじゃないだろう?



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正義の戦争?テロリズムの正当性? - 2002年09月08日(日)

もうすぐ、また9月11日がやってくる。
この一年で何が変わったのか考えていたんだけれど、結局、何一つ変わってはいないし、みんな危険であることに慣れてしまっただけ。
 メディアでは、「欧州でのアンケート結果では、同時多発テロには、アメリカにも責任の一端がある」との回答が過半数を超えていたという。
 今、小林よしのり氏の「新・ゴーマニズム宣言11・テロリアンナイト」を読んでいるのだけれど、力がないものの反抗の手段としては、テロリズムしかない、というような考え方も出ているようだ。
 しかし、僕はテロリズムを「方法」だと割り切れないのは、テロリズムは「覚悟していない人間」を死に追いやる方法だということだ。
 戦争なんてしたくないが、自分の働いているビルに飛行機が突っ込んでくるとか、広場で爆弾が爆発するとか、朝、学校に行っていたらピカドンを落とされるなんていうのは、容易に想像ができる死に方ではないか。
 そういう、日常的な戦死は、避けたいものだ。

 アメリカのやっていることは正しいことではないかもしれないけれど、坊は、長淵剛のように「正義の戦争なんてありゃしねえ〜」とか知ったようなことを歌いたくはない。
 もし、自分の身内がやられたら、たぶん何の関係がなくても空爆でもしてくれないと、やってられん!と思うような気がする。
 でも、最近のこういう論調は、「イジメには、イジメられる側にも責任がある」というような腐った考えに支配されているような感もあるのだ。
 だいたい、アメリカの中東政策のまずさを批判することとテロを正当化することを結びつけてどうするのだ。
 目的の正しさは、必ずしも手段を正当化しないだろうに。

 最近、果たしてどっちが正しいのか、わからなくなっている。
僕がアメリカ人なら当然空爆支持だろうし、タリバンなら、テロをやってたかもしれないな、と思う。


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支離滅裂な村上春樹論「海辺の過負荷」。 - 2002年09月07日(土)

僕は、村上龍より村上春樹のほうが好きだ。
村上春樹といえば、先日、友人の女性とこんなことを話したのだが、彼女は「なんか意味がよくわかんない」と言っていた。さて、通じる人はいるのだろうか?

 僕は、高校生の頃から村上春樹作品に接してきて、その中に自分のためのもの、自分の心の琴線に触れるものを感じてきたんだけど、最近、なんだか違和感を覚えるんだ。村上作品の中では、登場人物は「村上春樹的感性を肯定するもの」と「否定するもの」の二群にきっちり分けられるんだけど、現実は、「村上春樹的な他人の感性なんて、興味がない、どうでもいいと考えている人たち」が大多数なんだよなあ。いつまでたっても、どこまでいっても、交わることのない2本の線。
 それは、ある意味、否定されるのより辛いことなのかもしれない。もちろん、作品中には、そういう記述はないし、そんなことまで書いていては、どんなに枚数があっても足りなくなってしまうんだろうけど。


 


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病院の駐車場で感じた軽い自己嫌悪。 - 2002年09月06日(金)

あ〜あ〜 あああああ〜あ〜 あ〜あ〜 あああああ〜

「北の国から・完結編」の最中だし、ネット人口少ないだろうなあ。

今日、帰りに病院の駐車場で、入り口のところを塞ぐように停まっているワゴン車がいた。「けっ!迷惑駐車か、まったく、最近の奴らときたら…」などと車の前に佇んでいる中年男性も含めて心の中で罵倒していたら、その中年男は、右腕にギブスをはめていたのだ。そして、ワゴン車の中からは、子供の声。
「お父さ〜ん、絶対またくるからね〜。頑張ってね!絶対だよ!という小学生くらいの子供の半分泣き出しそうな叫び。
子供たちは「がんばってね〜」と言って、手を振り続けながら去っていった。僕は、なんだかとても恥ずかしくなってしまったのだ。
迷惑駐車というか、去るに去れない状況で停まっていたんだよなあ。

ああ、僕はきっと、こういうふうに物事の一面だけをみて、何かに怒ったり、バカにしたりしてるんだろうなあ。やや自己嫌悪。



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タニノギムレットとカスケード。 - 2002年09月05日(木)

タニノギムレット、屈腱炎、引退か?
 この一報を聞いて、残念に思う一方、やっぱりなあ…と思った人も多いのでは。
 春シーズンのタニノギムレットは、重賞だけでも、シンザン記念、アーリントンC、スプリングS、皐月賞、NHKマイルカップ、そして日本ダービーと6つのレースに出走、4勝、3着2回(皐月賞、NHKマイルカップ)という、すばらしい成績を残した。
 なかでも、皐月賞〜NHKマイル〜ダービーの3歳G1三連戦は、以前にマイネルタンゴもやってはいたのだが、勝ち負けの馬としては、革命的、いや、無謀な挑戦だと僕は思った。
 松田国英調教師は「この馬は、ハードなレースをこなしてこそ強くなる」と豪語していたけれど、NHKマイルに本当に出走してきたときは、母父クリスタルグリッターズだし、マイル戦でのあの切れ味をみると陣営もマイラーだと思ってるんだろうな、ここが勝負だ!と思っていたら、大不利を受けて、まさかの3着。
 そして、ダービーに出てきたときは、「自棄になってるんじゃないんかなあ、カスケードじゃあるまいし」という声が、ささやかれていた。
 要するに、マンガじゃあるまいし、そんなローテーションで勝てるわけないよ、ということだ。
ちなみに、カスケードとは「みどりのマキバオー」に出てくる黒鹿毛の「帝王」と呼ばれる馬で、皐月賞、マイルC、ダービーの3連勝を達成したマキバオー宿命のライバルだ。
 ところがところが、実際のレースでは、あまりハイペースにならずに瞬発力勝負という展開の利にも恵まれて、ギムレットはダービー馬に輝いたのだ。まさに驚異のダービー馬。
 まあ、僕にとっては、来ると確信していたレースで連を外し、来ないと思っていたレースで勝つという、恨めしい馬でもあったわけだが。
 ハードなローテーションは、今回の故障の要因であったことは否定できまい。でも、ダービーを勝ったあとの故障は、カスケードと軌を一つにしている。カスケードは、奇病マリー病という設定で、凱旋門賞で初の敗北を喫するのだが。そんなところまで、真似しなくてもいいのになあ。
 しかし、ここでダービー馬として引退できることは、この馬とブライアンズタイム系の将来にとっては、悪いことばかりじゃないだろう。第2の馬生での活躍を祈りたい。
 ただひとつ、カスケードと違うところがあるとすれば、マキバオーのようなライバルに恵まれなかったこと。それは、この馬にとって幸運だったのか、不運だったのか。
 ギムレット、おつかれさまでした。短かったけど、充実した競争生活だったと思います。


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「お水の鉄人」を観て考えたこと。 - 2002年09月04日(水)

 昨日、「ガチンコ」を観てたら「お水の鉄人」という企画をやっていた。
銀座と歌舞伎町を代表する二人の水商売の女性(月収250万と350万らしい)が、お互いのプライドをかけて接客勝負をするという企画なのだが、たぶん、多くの女性にとっては「そんなお水なんかに、3時間で5万円も使うオトコなんて、信じられな〜い」であろう。
 いやいや、勘違いされては困るのだけれど、世の過半数の男性にとっても、「あの子のために、3時間で5万は…ちょっと」というのが、率直な感想だと思うのだ。誕生日のプレゼントが総額1000万とか、1日10人の同伴伝説!とか言われると、そんなワン・オブ・ゼムになってもねえ、と。
 まあ、水商売の女性というのは、「普通の印象」では、次も指名してくれないわけだから、ものすごく嫌われるリスクを負っても、ものすごく好かれるかもしれない可能性に賭けたほうがいいわけだ。

 でも、「どうして、あんなのに遊ばれてるとわかってるのに、外車とか買ってやるのかねえ、そんなの奥さんとかに買ってあげればいいのに」と周囲の女性の発言について考えていたが、なんとなく、その理由がわかったような気がする。ひとつは、もちろん「みんながいい女だと思っている女性」をモノにするという自己顕示欲。
 でも、いちばん重要なことは「遊びだから、プレゼントなんかガンガンできちゃうんじゃないか?」ということだ。
 たとえば、僕のような30歳男性が、一般女性(彼女ではない、職場のちょっといい感じの人、くらい)28歳に、車をあげようとしたとする。そこには、なんらかの「意味」が出現してくるわけだ。
 結果として「そこまでしてくれて、ありがとう!」といって、ふたりは結ばれるか、「あなたにそんなことしてもらう筋合いはありません!」と危険なストーカー予備軍として取り扱われるかのいずれかだ。
 しかし、家庭があったり、恋人がいたりしたら、その2つのどちらかにしか進まない関係というのは、不毛の至りなわけで。
 そう考えると、限局的な擬似恋愛ができる対象というのは、金があるやつにとっては、非常に重宝な存在。そういう、家庭破壊か破局かどちらかというような素人との恋愛よりも、はるかにリスクは少ない(と、一般的には思われている)。
 「そんなにお金をかけても、真の愛情は生まれないのに」「どうせ、お金だけ貢がされて、捨てられちゃうのに」その通り!でも、愛がないからこそ安心、という関係が、世の中には厳然として存在するのだと思う。
 
 僕は、彼女たちと話してる暇があったら、ネットやってたほうが楽しいですが、そういうのはたぶん、品位や人格というより、性向の問題。


 


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秋元康が輝かせた歌手と秋元康に踏まれた企業。 - 2002年09月03日(火)

周囲からミーハーだと後ろ指をさされつつも、最近、中島美嘉のアルバムがヘビーローテーション中。彼女のデビュー曲「STARS」を聴いていて思うのは、シンデレラ・ガールの最初の曲として、これほどふさわしい曲は、たぶんそんなにないだろう、ということだ。
 その他の歌手で、デビュー曲ですべてを提示するという意味では、My littele loverの「Man&Woman」くらいかな。
 楽曲自体の質ももちろんだが「雑多な中から選ばれた才能見出された」というシチュエーションに、これほど嵌った曲はそうそうないだろうな、と思う。
 もし全く同じ曲でも、3〜4枚目のシングルだったら、これほどのインパクトはなかったはず。
 秋元康という作詞家は、こういう「旬」をとらえるのが本当に巧いなあ。人間的にはあまり好きにはなれんが、その才能は認めざるをえない。

 しかし、彼のその才能、どうしてドリームキャストには発揮されなかったのだろう?


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長野県知事選の結果についての茫洋とした不安。 - 2002年09月02日(月)

長野県知事選では、田中康夫前知事が、ダブルスコアの大差で圧勝した。
「長野県民は、田中県政を支持した」というのが大方の評価のようだが、はたしてそうなのか、僕はけっこう疑問に思ってしまう。
 だいたい、今回の選挙については、候補者はみんな「脱ダム宣言」に賛同しているし、政策的な相違はほとんどなかったと言っていい。要は「田中康夫前知事の政治方式をどう評価するか」ということになってしまったのだ。ひらたく言えば、「田中康夫氏は、人格的に知事に適任かどうか?」ということですな。
 結果は、田中氏の圧勝だったから、「長野県民は、田中氏を知事として適格と判断した」という結論になるのだけれど、考えないといけないのは、今回の選挙は「長野県議会の超保守派の利益誘導型古参議員vs旧い体質にイジメラレル田中知事」という伝えられ方をされてきたということだ。旧態依然とした守旧派たちと比較されては、それは圧勝もむべなるかな、僕だって、どちらか選べといわれたら、田中氏に投票するような気がする。
 田中真紀子元議員への国民の支持があまりに強いのにも、かなり驚いていたのだが、これも、多くの人にとっては「悪いことばっかりしている、エリートの外務官僚にいびりまくられるかわいそうな人」という「エリート官僚vs田中真紀子」というわかりやすい対決の図式にされてしまい、みんな、それなら真紀子さんを支持する、と思ってしまったのではないか。
 
 しかし、少なくとも民主主義を標榜している組織の首長には「調整力」というのは、不可欠なのではないだろうか?妥協する、という言葉はイメージが悪いけれども、なんでも思うままにしようとする学級委員なんて、みんなから嫌われるだけだろう。自分の意志や言葉が伝わるように努力をすることや異なる意見も包容しつつ舵をとっていくことも必要だ。真紀子さんが外務大臣を辞めさせられたのは、イジメラレタわけじゃなく、その役職に見合った能力がなかったから、だと思う。

 オウムのなどのカルト宗教の洗脳方法のひとつとして、「徹底的に2者択一を迫る」というのがある。「もうすぐ、審判の日がやってきます。あなたは、うちに入信して永遠の天国を生きますか?それとも、入信しないで地獄の業火に焼かれて苦しみますか?」と選択を迫るやりかただ。
 そりゃ、僕だって「天国に行きま〜す」と答えてしまうだろう。が、ちょっと待っていただきたい。
 現実には入信しないからといって、地獄の業火に焼かれるとは限らないし「入信もしないし、地獄の業火にも焼かれない」という選択肢もあるのだ。だが、それは明示されない。
 もっと至近な例を挙げれば「私と仕事とどっちを選ぶの?」という問いに対し、僕らは「仕事」か「あなた」かのどちらかを選ばなくてはいけないと感じるだろう。でも、現実的には完全にどちらか一方を取るなんてことは不可能だし、どっちもそれなりにうまくやっていくことだって、可能な場合がほとんどなのだ。

 今回の選挙は、不幸なことに投票するとしたら「守旧的な利権地方政治家」か「民主主義を標榜する似非ムッソリーニ」のどちらか一方に投票しなければならなかった。
 でも、今後は「選択肢は、けっして、その2者択一なんじゃない」ということを頭に入れておいたほうが良いように思う。将来的には、田中知事でも今の県議会議員でもない、先進的で、調整能力にもすぐれた政治担当者、という選択肢もありうるし、そうであるべきだと思う。
 
 僕たちが「過去の歴史」として学んできたことは、その時代時代にとっては、リアルタイムに起こっていたことだ。「ドイツ人はバカだったから、ヒトラーを選んだ」というのは、今から俯瞰して考えることであって、その時代を生きた人にとっては、なんらかの必然性があったことなのだ、きっと。
 最初は、単なる演説の面白いオッサンだと当時のドイツ人も思っていたのではないか、と。
田中知事=ファシスト、ではないとは思うけれど、劇場型政治というのは、どうも危険な気がしてならない。もし、田中知事が有名人でなく、テレビで好意的にとりあげられていなかったら、果たして、こんなに圧倒的な支持を得られたかどうか?そして、こういう風潮が、ほんとうのファシストを生む土壌になりはしないのかどうか?
 


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「ウォーターボーイズ」を愉しめた僕と、不満な僕。 - 2002年09月01日(日)

 テレビで「ウォーターボーイズ」を観た。
 もともと評判が良かった映画でもあったし、楽しめる映画であった。
 まあ、一ヶ月の合宿後ってことで、ガリ勉役のやつが最初からけっこう筋肉ついてたりしたのだが、
裏切られることの少ない、痒いところに手が届く(ほら、水着が脱げたときに、女の子が投げてくれた、ちょうどあんな感じだ)映画って感じ。
観終わった後、爽やかな気分にもなれた。
 でも、この映画、きっと自分が高校生のときに観たら、なんとなく腹立っただろうな、という気がする。ケッ!何がシンクロだよ、って。
 高校野球も、中学の最初の頃は、自分でトーナメント表をつくるほど好きだったが、自分が近い年齢になったらパッタリ興味がなくなった。
 この暑いのに、ご苦労さんだねえ、って。
また、自分の子供が出場しているような年になったら、興味が出てくるのかもしれないけれど。
 記憶っていうのは、都合よく書き換えられるもんで、学生時代は別に何にも熱中してなくてただただ鬱屈していても、
大人になってみれば「学生時代って、俺もそうだったよなあ」という気がしてくるのだ。
 30歳男にとっては、面白かったけどね「ウォーターボーイズ」
でも、心の中の17歳の時の僕は、「そんなにうまくいくわけないじゃん!」とずっと呟いていた。

もうひとつ。プールにばら撒かれた魚たちは、ちょっと可哀そうな気がしたんだけどなあ。


...




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