Comes Tomorrow
ナウシカ



 自分と世間のギャップ

こういうblogをやってると、いろいろと心配してくれたりする人もいます。

『こんなこと書いて大丈夫なの?
こんなに家族のこと晒して大丈夫なの?』
『人から同情を買いたいの?慰めてもらいたいの?
励ましてもらいたいの?誰かに頼りたいの?そう見えるよ』

こないだ中学時代の友達といろいろ話していました。
親子関係で問題を抱えているという点では、私と似た境遇の子です。

その子がポツリと言ったんですよね〜
『世間的に見たら、私なんか不幸に見えるかもしれない。
普通じゃないかもしれない。
だけど、自分としてはそんなに不幸だなんて思ってないんだよね。
それなりに幸福なんだよね。
でも人に(体験を)話すと、(不幸だと)そう思われちゃうんだよね〜
違うのになぁ〜』

居酒屋で 『最近どう?』 から始まった話の中には、普段は人に話せないような家族の話とか、幼い頃から現在もずっと続いている家族の問題とか、『うちとこはこうだよ』 とか話していたんですが、ほんとお互い 『そうそうそう!』 と共感できる話がたくさんあって、内容的にはヘビーな話なんだけど和やかに笑顔で語り合うことができました。

『こういう話を笑いながら話せるのは、M(友達)だけだよ。
他の人に話しても、まずわかってもらえないもんね〜
それに深刻な感じになっちゃうしね〜』

文字にしてしまうとドロドロ深刻な話であっても、過ぎてしまった過去、今ある現実として、様々な問題を受け入れている私としては、もうそのことで悩んだり苦しんだり求めたりという急性期的な症状は治まっていて、そのこと自体で悩んで悩みぬいて苦しんでいるという状況ではありません。
スッキリ解消ということでもないけど、人に話したり、blogに書いたりできるようになったということは、もう回復をしてきている証拠というか。

本当に悩みの渦中にいた頃は、逆に人にも話せなくて、愚痴も言えなくて、ただ一人で抱えていることが多かったです。
人に話したところでどうなるもんでもないしという気持ちもあって。

抱えて抑圧された記憶は、時を経ていつか無くなるものではなく、どこかで区切りをつけて出していかないと、いつまでもリアルに蘇ってきて苦しむ結果になるんですよね。
思い出すことは辛くても、今さらやり直しがきかなくても、それでも自分の人生を振り返り確認しながら生きていく。
そういうことは大切だと考えています。
ここまで回復することができて、初めて間違ってなかったと思えることです。

だから、人の同情を買いたいわけでもないし、自分がこういった体験を書くことで人から嫌われてしまっても、そんなことは私の中では全然問題にもなりません。
私が私として生きていくために、生きている実感を得るために、そしてこれからも様々な困難に立ち向かっていくために、自分という人間に向かい合って生きていきます。

私の半生は、悲しいけど不幸ではありません。
それに辛くても幸福です。
夢も希望もあります。

何があってもへっちゃらさ!
生きている間は生きてるんだから。
こう思えてるうちは、まだ幸福なんでしょうね。
うん、明日から、また頑張れる!


2007年10月24日(水)



 倫理学覚え書

『倫理学─価値創造の人間学─』 石神豊 著より


発見ということ

<求めよ、されば発見が>

「発見」 を英語ではdiscoverというが、これは 「覆い」 を 「取り除く」 という意味をもっている。

真理というものも、そうして発見されるものである。
ギリシア語で真理を 「アレーテイア」 という。
アレーテイアとは 「忘却」 の 「否定」 であり、忘れていたものを思い出すということである。

一つの問題をねばり強く考えていくと、あるとき突然、答えが与えられるときがある。
そしてその答えは意外にも身近なところにあったということを知るのである。
発見とは突然やってくるものといえるが、それはすでにそこにあったものが見いだされたのである。
それまではその周りをぐるぐる回っていたわけである。
このように、発見とは求めつづけることによって可能となり、要はその求めぬく真剣さと努力にかかっているといってよい。


<すべてが新しいということ>

ところで、自分が何か新しいことを見いだしたといっても、それはもうとっくに誰かがすでに発見したものであり、なにも新しいものなどは存在しないと思うかもしれない。
しかし、そう思う必要はまったくない。

いったい 「新しい」 とはどういうことだろうか。
「新しい」 とは 「初めて」 ということであり、(それを見いだした人にとって初めてだ) ということである。
ここから、一人一人が自分自身で発見していくことが大切だということになってくる。
なぜなら自分自身が初めて見いだしたものは、すべてが 「新しい」 もの、つねにニュートンのリンゴなのである。
別の誰かがすでに見いだしていたとしても、それはその人にとってのことであり、私自身とは別なのである。
本当の価値とは自分自身が創造するものである。
あるいは、(万人の) 真理といっても、それを私の真理としなければならない。
これはどこまでも各人のことがらなのである。

しばしば学問は真理の探究であるといわれるが、この真理もまた本来、各人のものにならなければならないものである。
「普遍的真理」 「客観的真理」 というような言葉に幻惑される必要はない。
自分 (主観) を離れて存在するものこそが客観的真理だとする考えがあるが、そうした真理はしばしば権威化する。
そして私を支配するものと化す。
権威となった真理は私のものではなく、おそらくそれは真理ということもできないものである。

「普遍的」、「客観的」 という言葉は、(誰にでも獲得できる) という意味にとらえるのがよいのではないだろうか。
つまり、この言葉は、私たちの誰もが (努力によって) 得ることができるということを示しているのである。

したがって、学問が生活を離れ、個々の人を離れたものとなってしまうような場合、そうした学問は、少なくとも私たちの学問ではないということになる。
とりわけ倫理学という、もっとも身近なこの生の世界 (生活世界) における問題を考えようとする学問にとって、この私を離れて真理や価値が存在するということはありえないのである。


自分で考えるということ

<考えるからこそ人間>

『論語』 に 「学びて思わざれば則ち罔し」 とあるように、いくら他人の話を聞いたり、書物を読んでも、自分自身で考えないならば本当の道理はわからない、という孔子の指摘があてはまる。
カントもまた 「哲学ではなく、哲学することを学べ」 と述べている。
既成の──つまり、他の人によってつくられた──体系をいくら学んでも真に学ぶことにはならない。
自身で 「哲学する」 ことこそが真に学ぶことである。
カントはまた、「自分自身の知性を用いる勇気をもて!」 と呼びかけてもいる。


<思考と人間の成長>

なぜ人間は考えるのだろうか。
考えることは疑うことであり、問うことでもある。
この人間の営みは、人間の成長の問題と深く関わっているように思われる。
人間が成長するということは、たんに体が大きくなる、あるいは年齢を重ねるということだけではない。
成長とは、むしろ自己が発展し、生きる世界を拡大していくことであろう。


<問いを学ぶのが学問>

疑うことがなにか悪いことと思うのは誤解であり、人に問うことが恥ずかしいと思うことは不要である。
「聞かぬは一生の恥じ」 ともいうように、問うこと、疑うことを避けてしまい、それによって自己の成長をとどめてしまうならば、これはマイナスだといわざるをえない。
疑うことはまったく自然なことである。
疑うとは、疑いをなくすために疑うのである。
あるいは、本当に信じられるものを求めるがゆえに疑うのである。

ただし、疑う、問うということには、ある種の技術が必要である。
この技術を知ることで、疑いから疑いへと懐疑の淵に陥ることを避け、あるいは思考の堂々めぐりを避けることができる。
この技術こそ学問 (あるいはとくに論理学) である。
「学問」 とは 「問いを学ぶこと」 あるいは 「問いかたを学ぶこと」 といいかえることができよう。
学問はけっして知識やその体系だけをさすのではない。
むしろ学問の本来の役割とは、私たち自身がことがらの真実に迫っていくために、そのきっかけや手段を正しく与えることにあるといってよい。


思索から自覚へ

<ソフィストのトリック>

なにかを探求するということについて、プラトンの対話篇 『メノン』 のなかで、ソクラテスは世の中につぎのような意見があるといっている。

「人間は自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。
というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。
なぜなら知っている以上、その人には探求の必要はないわけだから。
また、知らないものも探求するということもありえないだろう。
なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」 (『プラトン全集』)

よく考えてみれば、私たちがなにかを知りたいのは、むしろそれを完全に知っているのでもまったく知らないのでもなく、それをはっきりとは知らないからではないだろうか。
いいかえれば、私たちは知と無知の間にあるからこそ、本当のことを知りたいのではないだろうか。
そこに探求への意欲がわいてくるのである。

上の主張にかくされたトリックは、知と無知とをはじめから分けてしまっていることにある。
いわゆる 「知か無知」 かという二元論的議論だといってよい。
はじめに、人間は知か無知かのどちらかだとしておいて、人間はどちらかであるから、結局どちらにしても探求などありえないという論法である。
こうした議論は、ソフィスト的な議論である。
ソフィストは前提を自分に都合よくたてておいて、議論をその枠のなかでしか行わない。
それでは、本当の探求などできるはずもないのである。


社会と歴史に学ぶ

<社会と歴史に目を向けよう>

倫理学においては、自分で考えるといっても、けっして自己中心的に考えるということではない。
あるいは自分を考えるといっても、孤立した自分を対象とするということではない。
むしろそこには、つねに他の人や事物があり、そうした全体の中で思索するということである。
そして、自分自身を考えるといっても、それは同時にこの社会や歴史をになった私を考えるということである。
これが倫理的思索であり、倫理的探求である。

倫理的世界とは、関係の世界であり、「物」 「人」 「自分」 がそれぞれバラバラな世界ではない。
無関係なものはなに一つないのである。
私たちはこの関係世界のなかに生きており、つねに他の人や事物とともに存在していることを知るべきであろう。
その意味からも、広く学ぶということが必要であり、いかなるものからも学ぶという姿勢が求められるのである。

複雑化している現代社会ではあるが、しかしその主体はあくまで人間である。
社会とは人間みずからが生みだしたものであるということを忘れてはならない。
現代、ともすると社会を、人間の生きかたの問題と切り離して論じようとする論調が見受けれる。
そうした論調は、現在の社会問題の原因を私たちの生きかたの外に求めることとなり、ただ嘆いたり、解決をあきらめたりする傾向を生みだすことになるように思われる。
いわゆる批評家、知識人と称される人にそうした傾向が強い。


2007年10月09日(火)



 ”自分が変われば、相手も変わる”は本当か?

こういう言葉はよく耳にします。
自分次第なのよ、あなたが変われば、相手も変わるよ。
または、あなたが変われば、環境も大きく変わるよと。

確かに否めない点もありますが、それは全ての事柄においてでしょうか?
必ずそうなるという方程式でもあるのでしょうか?

社会のニュースで、そのことを見てみるとどうなるでしょう?
実母である畠山鈴香容疑者に殺された娘の畠山彩香ちゃん。
鈴香容疑者は明確な殺意は否認していますが、娘に手をかけ、その結果亡くなったのは事実です。

仮の話として、この彩香ちゃんが生きているとして、その子にこう言ってみるとどうなるでしょう?
『お母さんもね、これまで生きていく中できっと辛いことがあったんだよ。
様々なストレスがあったんじゃないかな?
あなたも、お母さんにきつく当たられて辛かったと思うけど、そこは理解してあげてね。
あなたが変われば、きっとお母さんも変わるよ』

また、こんなニュースもありましたね。
時津風親方の弟子である17歳の力士が稽古中に亡くなった事件。
親方や兄弟子から”かわいがり”と称して暴行を受け、亡くなったとされる事件ですが、この17歳の力士も生きているとしましょう。
そして、こう言ってみて下さい。
『親方も兄弟子も、あなたのことを思ってのことなんだよ。
確かに行き過ぎはあったかもしれない。
だけど、あなたが変われば、親方も兄弟子も、環境もきっと良い方向で変わるよ』

まぁ〜ここでは極端な例として、もう既に亡くなっている人たちの例を挙げましたが
『自分が変われば、相手も変わる』
『自分が変われば、環境も変わる』
こういうこと、いろんな事象に当てはめてみて下さい。

自分に正直に、人には慈悲を施し、誠実に一社会人として生きて、それで環境は劇的に変わるのか?
戦争も犯罪もない社会になる?
平和な世の中になる?
真ん中をすっ飛ばして
『あなたが変われば、世界から戦争はなくなるよ』という論理で頑張ってみて下さい。
『自分が変われば、相手が変わり、環境も変わる』というなら簡単なことでしょう。
人に言う前に眼前に示してみて下さい。

ここで私が言いたいのは、何も平和を諦めろとか、どれだけ努力しても無駄だということを言いたいのではなくて、何事も個人の責任というか、努力次第でどうにかなるという短絡的で安直な論理について言っています。

いじめを受けている人に
『いじめられているあなたが変われば、状況は変わるよ』と言うことは
『いじめれているあなたに原因があるから変わりなさい』と言っているようなもので
それは、あまりに酷なことではないか?ということなんです。

『これは、あなたの運命なんです、諦めなさい。
相手を変えたいと思ったら、あなたが変わりなさい』
何とも突き放したような冷酷な言葉ではないですか。

国の強制隔離政策で、国家からも社会からも、ある意味家族からも虐げられ、排除されてきたハンセン病の患者さんたち(今はハンセン病回復者と呼ぶ)。
この人たちにも言ってみて下さいよ。
『あなた方が変われば、相手も変わる、環境も変わるよ』と。

http://shimingakkai.com/syomei.html
自分が変われば、相手も変わる、環境も変わると思っている人、目を見開いて、世の中の現実を見据え、そしてそこに飛び込み、何かを成して下さい。
現実に人の中に飛び込んで、実際に自分の目と耳とで確かめてみて下さい。
そして、言葉だけではない行動を自ら起こして下さい。
人に言うのは簡単です。
人に言う前に、まずは自分が変わりましょう。


2007年10月03日(水)
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