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2007年06月08日(金) 最近心に残った新聞記事・・・「認知症 老いを受け入れる社会に」

 しばらく前、訳あって数日ばかり入院し、ちょっとした手術を二度行なった。一度目は手術に先立っての患部の撮影のため、二度目は実際の手術のため。
 局部麻酔なので意識はある。一度目は傷口からの出血防止のため、術後4時間安静ということで、ベッドから起き上がれなかった。二度目は術後6時間ベッドから起き上がれない。ベッドには「尿瓶」が用意され、用を足したくなったらどうぞ、と言われていたのだが、使わなかった。やはり、「尿瓶」なんぞで用を足すということに、抵抗があるのだ。いつもはガブガブ麦茶を飲んでいたくせに、トイレに自力で行けるまでの間、水モノは口にしなかった。それどころか、出された食事すらも食べずにいた。(自力でトイレに行けるようになってから口にした。)
 二度目の6時間の際はさすがに尿瓶を利用した。しかし、これも、「これ以上我慢できない」ギリギリまで待ってから渋々尿瓶を手に取った。本来、尿瓶を局部にあてがうと同時に小水がほとばしってもいいはずなのに、出るべきものが出ない。というか、「出してもいい」と自分で自分に言い聞かせているのにもかかわらず、「こんなところで用を足すわけにはいかない」と無意識のうちに、排泄本能にブレーキがかかっている。結局、尿瓶をあてがってから、実際に用を足すまで、「溜まりに溜まっていて、一刻も早く排泄したい」にも関わらず、5分以上もかかった。

 「尿瓶」ですらこれだけの無意識の抵抗を感じるのだから、これがもし、「おむつ」を強制されたら、そして、手足をベッドに縛り付けられでもしたら、きっと人格崩壊を起こすに違いない。

 きっとハルさんは、「おむつ」に「お漏らし」している自分自身を許せなくて、「こんな情けない姿を晒す私なんて、もはや私じゃない」と、強烈な自己否定を起こした結果、人格崩壊を起こしたのだろう。「自らの人格を自殺に追い込んだ」と表現した方がもっと分かり易いだろうか? 

 もともとの記事にはこの所長さんの顔写真が載っていた。見るからにやさしそうな顔をしていた。今となっては古新聞の中にまぎれて分からない。写真、切り抜いておけばよかった。
 いつか来る老後。こんな人にめぐり合って介護してもらえたらさぞかし幸せだろうな。

以下、記事の引用↓

■[介護]「認知症 老いを受け入れる社会に」村瀬孝生(第2宅老所よりあい所長)朝日新聞5月26日「異見新言」

「脳内活性リハビリをご存じだろうか。老人福祉の仕事を始めて20年になるが、この言葉が声高に叫ばれるようになったのは最近のことである。

 認知症予防に効果があるといわれている。内容といえば単純な作業で、かけ算や引き算などの計算にいそしむのだ。高度な専門性を要するものでのないので、介護現場では気軽に取り組むこともできる。しかし、計算式を解くことで認知症が予防されるとは思わない。すでに認知症をかかえているといわれる高齢者でさえも、計算のできる人はたくさんいる。

 宅老所で暮らす96歳のトメさんもその一人だ。トメさんは自宅で留守番をしているさなかに土間へ落ち、病院へと運ばれた。腰椎の圧迫骨折の疑いで安静が求められた。

 排泄をオムツにできないトメさんは、痛みをこらえてトイレに行こうとした。その行為が危険であると病院は判断し、安全を守るために両手足を縛った。

 年相応の物忘れを抱えていたトメさんの様子は激変した。親族の顔がわからなくなる。昼夜の逆転が始まる。食事を受け付けない。典型的な認知症高齢者となったのだ。急激な環境変化、拘束による身体の抑制と社会からの隔離が脳に大きなダメージを与えた結果といえるだろう。

*予防重視の限界*

 つまり、認知症の多くはこういった社会環境が生み出している。高齢者の脳を活性化して認知症を予防する前に、認知症を生み出す社会環境をなくすことがよりたいせつなはずである。

 国は06年に介護保険の見直しをした。予防重視型システムへの転換を図ったのだ。当然、介護現場もそれに従う。健康ブームにわく世の中は国の方針に共感を示すかもしれない。誰しも寝たきりや認知症にはなりたくないのだから、予防することを否定する理由はない。予防、予防の大合唱だ。

 しかし、国のうたう予防はトメさんの抱えた問題を解決するためのものとはほど遠い。なぜなら、それは脳と身体機能の向上を図ることにしか視点が置かれていないからだ。

 そもそも老いとは、生体組織の絶えざる衰退と機能不全のプロセスであるといわれている。訓練やセラピーで一時的に機能が向上しても、そのプロセスからは逃れられない。さらにその先にある死は生物であるが故の宿命である。われわれの社会は、そのことが前提になっていないのではないか。

*若さの強迫観念*

 ハルさんは96歳でこの世を去った。10年間にわたり宅老所に通い、在宅生活を続けてきた。いわゆる加齢による生理的な『ぼけ』を抱えながら。そのハルさんの心臓が緩やかに止まりそうになった。職員は救急車を呼ぶ。駆けつけた救急隊員から、蘇生術を施さなかったことを指摘された。

 ハルさんの腰は直角に曲がり変形している。骨は卵の殻のようにもろい。もし、ハルさんに蘇生術をしたならば骨はばらばらに砕けただろう。

 私たちは葛藤する。ハルさんの死は克服すべきものだったのか。それとも受け入れ、寿ぐものだったのか。

 私たちの社会は『克服すべきこと』と『受け入れるべきこと』を見分ける常識を失ってしまったように思う。結果、老いを予防することはできないという周知の事実とは裏腹に、社会はその摂理にあらがう方向で進んでいるように思えてならない。

 アメリカのテレビ番組に紹介された老人たちを見て驚いた。101歳の女性が10メートル下のプールに飛び込む。79歳の女性がチアガール姿で登場し、その脚線美を披露する。

 高齢者であるという固定観念にとらわれずハツラツとすることは素晴らしいと思う半面、どこか無理がある。若々しく元気であらねばならぬという強迫観念が見え隠れしていると思うのは私だけだろうか。私自身は年相応によぼよぼ爺さんになりたいと思う。また『ボケてもいいよ』と言ってくれる社会であることを望んでいる。

 目を閉じて想像してみる。老いて介護が必要になったときのことを。横には同年代の男性。ともに若い職員から質問される九九を一生懸命になって解いている。隣のおじいさんはみな正解なのに、自分はさっぱり分からない。

 恥ずかしさと情けなさを味わったのち、開き直る。『そう長くもない余生をこんなことをして過すのか。こんなことをしないと、この社会に存在できないのか』と。これは笑えない話である。」


以上引用↑




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