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219 ちびくろサンボ

『ちびくろサンボ』という童話を知ってるだろうか?たぶん高校生か大学生以上の年齢の人なら知っていると思う。世界中で愛された童話でありながら、その内容に差別性があるとして廃刊になった童話だ。
その童話が1999年に復刊した。そして現在でもこの童話に関しての論争はやまない。そこでこの童話と、差別性について考えてみたい。
まず、『ちびくろサンボ』とはどんなものか?ということについて触れておく。『ちびくろサンボ』という作品は、イギリス人(スコットランド人)の主婦ヘレン・バナマンさんが自分の子どもに読んで聞かせるために作った童話である。1898年、それを読んだ彼女の友人が強く感銘を受け、出版を勧めたことで世に広まった。作者ヘレンは、ご主人が官僚として赴任していた当時のイギリスの植民地であるインドで大半を過ごした。そのためこのストーリーはインドが舞台になっていると考えられている。
ストーリーは知っているだろうか?おおまかに言うと、黒人の少年サンボを襲おうとしたトラが3匹集まって喧嘩をして、木の周りをぐるぐる回っているうちにバターになってしまうという物語だ。『ちびくろサンボ』はアフリカの黒人として捉えられることが多いが、アフリカにはいないアジアのトラが出てくることから、インドを舞台にしていると思われるものである。
問題になるのは、主人公の名前「サンボ」である。アメリカで批判の的となったこの名前は、アメリカでは差別的な意味がある。アメリカには昔「ミンストレル・ショー」という漫才のようなものがあり、そこで白人が黒人に見せるため顔を黒く塗り、戯画化して演じていたという。そのときのボケ役の名前が「サンボ」なのだそうだ。このことが影響し、『ちびくろサンボ』の「サンボ」もこれと同じ意味合いで差別性があるとして批判され、アメリカでは1960年代に書店から姿を消していくこととなった。
日本では1988年に日本のデパートで黒人をひどく誇張したマネキンがおいてあることをアメリカ紙「ワシントン・ポスト」で批判されたことにより、その影響で『ちびくろサンボ』も廃刊へと追い込まれる。


と、概要はこんな感じだ。


ただ俺が思うのは、『ちびくろサンボ』に差別性はないということ。そして『ちびくろサンボ』から生まれた言葉「くろんぼ」という呼び名にも差別性はないということ。
『ちびくろサンボ』という絵本や「くろんぼ」という愛称に対して日本人が抱いている印象は、とてもかわいらしく、いい印象だと思う。批判的に、差別的な意味合いで使われるものではない。ときに心無い人間がそういった批判的な言葉で利用したことはあるのだろうけど、廃刊にされてしまうようなひどい意味合いのものではないのだ。
もちろん、たとえ使っている側にその意思がなくても、その言葉によって傷つくと主張する人はいるだろうし、差別する側は差別される側の人間の気持ちがわからないという主張もあるだろうと思う。でも、差別を世の中からなくすためには、被差別者が差別されるという意識をなくしていくことも、差別をなくすことと同時に必要なことだと感じる。被害妄想といったら語弊があるだろうが、差別のためのあら捜しになってしまっては意味がないし、一向に差別はなくならない。

この『ちびくろサンボ』があることで、アフリカ人に対して偏見を持つような偏ったイメージしかもてないような時代ではないはずだ。さまざまなメディアを通してアフリカ人の情報も多く取り入れられる今日、『ちびくろサンボ』はひとつの愛すべき絵本作品として捉えれ、受け入れられてもいいものだと思う。


高校生のころ、本を身ながら載っていたちびくろサンボを折り紙で折ったことがある。そのころにはすでにちびくろサンボは差別性があるとされていて、その折り紙の本はそれ以前に発刊されたものだった。折った折り紙を友だちに見せたところ、そのような差別性のあるものを折ってはいけないと批判され、信じられないと言われたことがある。
俺にはその反応が理解できなかった。俺は『ちびくろサンボ』が好きだったし、国単位で差別性があるとされたものを、そのまますんなり自分の中に取り込むのはいやだった。廃刊になり、差別性のある作品とされた時点で、そのことが浸透し避けられるのは恐ろしいことのように思う。その意識は、そのまま本当の差別をしていくことにつながっていくのではないだろうか。
2005年04月28日(木)

218 坂本龍馬暗殺の謎

先日テレビで俺の興味を猛烈に引くものがやっていた。「なりあがり」?だったかな?とか言う番組で、芸人が教授やら学者やらにある仮説をたててプレゼンテーションをし、おもしろいと思われるものには研究費として一人につき1万円もらえるというものだ。そこでTAKE2の東が出した仮説が
「坂本龍馬は親友に暗殺された」
というものだった。
なるほど。これはおもしろい。詳細を調べてみればありえないことがわかっちゃうのかもしれないけど、調べてみる価値はあると思える。
仮説はこうだ。現在の警察の犯人探しの前提に「まずは第一発見者をあやしめ」というものがある。これと照らしあせてみると、第一犯人である親友の中岡慎太郎があやしいという。しかし知ってる人も多いと思うけど、中岡慎太郎は深手をおって2日後には死んでしまう。
では何があったのか。通説では誰がやったかはわからなくても、少なくとも外部の人間であるということは間違いない。となると近江屋の2階の1番奥にいた龍馬と中岡を殺すには店に入ってから距離がある。当時狙われる身にあった龍馬と中岡は、当然周りに神経をとがらせ、身を守るために緊張感を高めていた。そんな二人が不意打ちを受けるが如く、突入してきた敵に気づかないわけはないという。ましてや龍馬は剣の達人。そう易々と斬られる人物ではない。となると、一撃で致命傷を与えられる人間は、正面に座っていた気心の知れた中岡でしかありえないのではないか?というのだ。
龍馬の暗殺現場には、新撰組がやったと見せかけるためか、下駄と鞘が残されている。これは逆に不自然だと言う。暗殺など殺しにかけてはプロの集団が、そんな不手際をするはずがない。確かにそうだ。
動機もしっかりしている。このころの龍馬は、大政奉還を成し遂げた張本人であり、武力を使うことなく幕府から権力をなくした。一方中岡は、薩摩・長州とともに武力で幕府を倒そうとしていた。大政奉還が成功してしまい、中岡ら武力派は拳を下ろす場がなくなってしまった。龍馬は目の上のたんこぶだったのだ。
と、ここまでが仮説。さて、これは実際検証してみるとどうなのだろう。ある程度はあるがある程度しかない知識をもって考えてみよう。
まず、この現場で殺されたのは彼ら二人だけではない。藤吉という元相撲取りのお仕えが1階で殺されている。本来なら、取り次いだ藤吉が龍馬を呼ぼうとしたところを後ろから斬られたと捉えられるわけだけど、仮説の場合を考えると、邪魔が入ってこないようにあらかじめ下の階にいって殺してから、また上に戻ってきたと考えられる。できないことじゃない。
次の問題は、近江屋の主人・新助とその家族が1階にいたということ。彼らは殺されずにすんだが、ことが終わるまで1階でおとなしくしていて、騒ぎがすんだら土佐藩邸にことを知らせにいった。おそらく顔も見てるであろう彼らはどうなるのか。強引だけど考えられるとしたら、彼らも共犯者。もしくは金を与えて口封じをしたか。顔を見たであろう新助の証言がどのようなものであったかわからないけど、人物を特定できない時点で新助を怪しんでもおかしくはない。
ただ、残念ながらこれらの問題が解決できたとしても、最後に大きな問題が残る。それは中岡慎太郎が2日後に死ぬほどの重症を、龍馬がおわせられるだろうか?また、おわせられたとして、おわせるだるか?ということだ。それは致命傷をうけて死んでしまう龍馬の体力的にということもあるけど、それ以前に親友にそんなことをしないだろうという願望をこめた予測だ。中岡慎太郎は体中に数十箇所の傷を受けている。瀕死の龍馬にそこまでの余力は残っていないだろうと思う。そして龍馬にとっては憎むべき相手ではない友に対して、そんなことはできないだろうと思う。
たぶんこの仮説は歴史的資料をもとに却下されてしまうと思う。これまでに数ある歴史家たちが挑戦してきた難題なわけで、こんな仮説もあって、それはありえないという結論がでたんだと思う。でも、こういう仮説をたてて考えてみることは面白いと思う。
坂本龍馬は32歳の誕生日に殺された。誰が殺したのかはわかっていない。このヒーローならではの最後があるからこそ、龍馬は本物のヒーローなんだと思う。だから、誰が殺したのか知りたい反面、謎であり続けてほしいとも思う。
2005年04月24日(日)

217 記憶の中の風景

母親が昔からずっとテニスをしていて、通っているテニスクラブに俺も物心ついたころからずっと連れて行かれて、そこで育った。そこがついこの間車で通ったらなくなってた。駐車場もあわせてとても大きいスーパーになっていたんだ。そのテニスクラブ自体はなくなっていなくて、ちょっと距離の離れた2箇所でやっていた。そのうちの1箇所で、俺にとって思い出のいっぱいつまった場所がなくなってしまったのだ。これはショックだった。
その場所はテニスコート以外にも大きなクラブハウスがあり、砂利の駐車場があり、砂場があり、子どもにとっては格好の遊び場だった。テニスをする親は子どもをつれてきて、さまざまな年頃の子どもが集まった。自分が小さいころには年上の子に面倒をみてもらい、自分が年上になると年下の子の面倒をみた。そこはとても特殊な場所で、学校ではなかなか遊ぶ機会のない年の違う子どもたちと出会い、友だちになることができた。そして大人たちとも友だちになることができた。おにいさん、おねえさん、おじさん、おばさん、おじいちゃん、おばあちゃん。年齢、性別を超えてさまざまな出会いがあり、そんな環境で俺は育った。とても素晴らしい場所で、子どもが育つ環境としては絶好だったと思う。自分の親ではない大人に、親のように怒られたことも何度もあったし、血のつながらない子どもたちがみんな兄弟のようだった。こんな場所なかなかないよ。
そのテニスクラブの中では鬼ごっこをし、かくれんぼをし、スケボーをし、バスケをした。なんでもした。そこにはたくさんの抜け道があり、おんぼろの壊れた車があり、さまざまな遊び道具があった。
何年もたってひさしぶりにその場所にいくことがあると、途端にものすごい勢いで記憶がフラッシュバックする。その場所さえあれば、いつでも俺は子どもに戻れる気がした。
形あるものはいつかはなくなる。自分の通っていた幼稚園もいまはない。人によっては小学校がなくなってしまったりということもあるだろう。これはしょうがないことで、時の流れには逆らえないわけだけど、やっぱりかなしいなぁ。

Voice.6 呼び起こされ記憶
2005年04月20日(水)

216 上京物語

先日、知り合いのミュージシャンのライブにいってきた。俺より3つ?年上の先輩で、前からちょこちょことライブをみさせてもらっていた。ギターとブルースハープでとても情熱的なステージを魅せてくれる。もしもできることならみなさんにお見せしたい、そして聴いてもらいたミュージシャンだ。
その先輩が今回はバラードを中心とした構成でライブをするということで、楽しみに見に行った。今回の目玉は、「大阪で生まれた女やさかい〜♪」っていう曲、知ってるでしょ?あれをカバーしてた。(タイトルは忘れてしまった。。。)サビの部分は知ってたんだけど、通して聴いたことはなかった。今回先輩が演奏したのは、間奏を短くカットしたバージョンで、それでも20分ほどある。本当は30分ぐらいあるらしい。簡単に内容を言うと、大阪で生まれた女が上京して、東京でがんばり、そしてその後・・・っていうストーリーなんだ。実はその先輩がまさにそれで、大阪から上京してきて、東京でがんばってる。そんなことも踏まえてその曲の歌詞を追っていたら、なんかとても地方出身がうらやましくなった。
「上京する」という想いは、地方の人じゃないと抱けない。その先輩が言うには、その想いや考えがないというのは、ちょっと想像しにくいという。もちろんそのとおりだと思う。それが当たり前だから。
その歌は、主人公が大阪生まれなわけなんだけど、大阪生まれの人じゃなくても、多くの地方出身者が自分に身を置き換えて堪能できるんだと思う。そう思うと、それをリアルに自分のものとして受け取れないのが、東京もんだけなんだよね。地方の人からすると、東京生まれであることがうらやましいって思う人もいるのかもしれないけど、俺はやっぱり地方出身ってうらやましく感じる。
俺は東京生まれ、東京育ち。日本の中でどこか目指すべき場所というものはないし、もしもあるとしたら、それは電車で30分もあれば行けてしまうところなんだと思う。小さいころから東京で生きて暮らしていることが当たり前で、東京に対して思い描くイメージであったり憧れというものはまるでない。もしも自分が地方生まれだったとしたら、これはとても想像しにくいことなんだけど、自分なりの東京に対するイメージがあって、東京で暮らす人々に対するイメージがあって、東京にあこがれていると思う。東京にはおそらくそういったパワーがあって、俺のような東京人からは近すぎて気づけないものでもあるんじゃないかって思う。
また、地方の人がうらやましいのが、自分の街、県であったり、そういうものをとても誇っていると思う。もちろん人によりけりだけど、地元愛が強いように感じる。これもまた一概には言えないことだけど、東京で生まれ育った人が東京を愛するのと、地方で生まれ育った人がその地方を愛するのには、何かしら大きな違いがあるように思う。それは愛する度合いというのもあるだろうけど、もっと根本的な何かが。
どちらがいいと言うのはわからないけど、地方の人が東京という大都会にあこがれるように、東京の人間が地方出身にあこがれるというのもわかってもらえたらと思う。できることなら両方味わいたい。それは難しいけどね。
2005年04月15日(金)

215 変

変な人になりたい。
変な家に住みたい。
変な街に住みたい。
変な車に乗りたい。
変な友だちが欲しい。
変な人生を送りたい。

これは変かな?それとも当たり前かな?
変人はいやだよ。「変な人」と「変人」はもちろん違う。変な人と言っても、いい意味で変な人ね。
俺が住む家は変じゃない。(絶対)
俺が住む街は変じゃない。(平凡)
俺は変な人じゃない。(おそらく)
でも俺には変な友だちが多い。たぶん多かれ少なかれみんないると思う。変な友だち。でもそんな友だちから見たら、俺も変なやつなのかな。
でも、自分では変なやつじゃないから、まだダメだ。でも自分で意識してすることじゃないし、自分で自覚することでもないんだろうな。

「変」ってなんだろうって考えても、定義もなければ基準もないからなんとも言えない。自分の中で変だって思うことが変なんだよね。

「変」ってことは「面白い」ってことなんだと思う。
変→面白い

でも
面白い→変
ではないよね。

でもとりあえず「変」は「面白い」だ。だからいい。
2005年04月02日(土)

VOICE / マッキー

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