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182 犬・猫と都会

先日、交通量の多い通りを歩いている1匹の犬を見つけた。バイクで通りかかったんだけど、その犬は小金井街道に出ようとしているところだったんだ。どう考えても危ないんで、バイクをとめて犬をとめにいった。
なんていう種類の犬なのかわからないけど、とてもかわいい犬で人懐っこかった。ちょっと触っているだけではそのまま通りに出てしまうので、ちょっと強引にとめて撫でていたんだ。犬は座り込んで、居心地よさそうにあくび。
困ったものだ。放っておいたら危ないし、動きようがない。道行く人々は不思議そうに見て通り過ぎるのみ。結局15分ほどそうして一緒にいたら、おじちゃんが近寄ってきて、「ジョリーがすまんねぇ」と。飼い主さんだ。よかった〜、と一件落着。
たぶんみんなも見たことがあるだろう。道で車に轢かれて死んでいる犬や猫を。誰だってあるだろう、と言えてしまうほど、珍しい話ではない。
以前、友達の犬が逃げてしまったことがあった。大通りに面した家だったので、かなり安否が気がかりで、友達と一緒に探し回ったことがあった。結局その友達の犬は新聞配達の人が見かけて知らせてくれて無事だったんだけど、そのときの友達の心配ぶりは相当なもので(そりゃそうだ)、半分諦めすらあった。
また、冬にスノボにいったときの帰り、前の車に猫がひかれたことがあった。のた打ち回り、道の真ん中でうずくまったままになってしまったため助けにいったら、俺の腕の中で死んでしまった。どしゃぶりの中でぐったりとした猫の姿がトラウマとなり、未だに猫は苦手。
そんなこんなで車やバイクで道を走っているとき、ちょっと道に何か落ちているだけでドキっとする。なんとかもっと犬や猫が事故死するのを防げないものか・・・。
2004年07月27日(火)

181 愛のあり方を憂う歌

片山恭一著「世界の中心で、愛をさけぶ」が流行っている。そして韓国のテレビドラマ「冬のソナタ」が流行っている。どちらもテーマは「純愛」。今、日本は純愛を求めているようだ。
スピッツの曲の中に「運命の人」という曲がある。この曲の歌詞について、最近友達とのドライブの中で話した事があったから、ふれてみたいと思う。

「愛はコンビニでも買えるけれど もう少し探そうよ」

という歌詞がある。友達は「愛はコンビニでは買えない!」と少々憤慨気味に言っていた。そんな軽い言い方をするな!ということだと思う。
俺のこの歌詞の捉え方は、現代の愛のあり方をスピッツらしく優しく警告していると思う。コンビニに並ぶ雑誌などには軽い愛についての情報が溢れている。出会い系なんかのね。そーゆー意味でもあり、もっと大きく象徴的な意味でコンビニっていうのは「身近な存在」というのがある。手軽で、消費的なイメージ。そういう恋愛と呼んでいいのかもわからなくなりそうな愛のあり方が溢れ返る現在に、「そうかもしれないけど、そんなんでいいの?」と、優しく警告してるように感じるんだ。

ミスチルの曲の中に「名もなき詩」という曲がある。この曲についてもふれてみよう。

「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて 気が付けばそこにある物」

とても深い詞だと思う。「愛を与える」という表現をされると、現代の愛のあり方の危険性を示唆しているかのよう。この詞もやはり「そんなんじゃないでしょ?」と警告を発している。

「成り行きまかせの恋におち
 時には誰かを傷つけたとしても
 その度心傷める時代じゃない」

そんな時代なんだなぁ、って思うよ。
だからこそ今、純愛が求められている。もう疲れてるんだよ。あたりまえに思われてる付き合い方にさ。
2004年07月24日(土)

180 迷子の天才

小さい頃、俺はしょっちゅう迷子になっていたらしい。どうも小さい頃の思い出というのは断片的で、妹と比べると極端に覚えていない。母親に聞く限りではあるけど、もはや天才!とオーバーにいいたくなってしまうくらい迷子坊やだったようだ。
一つだけ自分の記憶に残っているのが、動物園での迷子。母親と妹、祖母と俺の4人でいったんだけど、俺一人だけ女性陣と見たいものが違ったのか、見るペースがあわなかったのか、そこらへんの記憶は定かじゃないんだけど、とにかくまるで協調性のない俺は単独行動にでた。待ち合わせは「ゾウの前」。
単独行動をしたものの、その当時の俺は極端にせっかちな性格で、すぐに見終わってしまった。片や向こうはのんびり3人組。時間があわずに一人探し始めたところ、迷子開始!
散々探し回った挙句、結局一人で出口についてしまった。何を血迷ったのか、俺はそのまま出口を出てしまった。その動物園の出口は回転式になっていて、出られはするけど、入れない。さぁ困った。
出口を出ても3人はいるはずもなく、かといって出口からは入れない。入り口がどこにあるかもわからず、高さ5メートルはあろうかと思われるフェンスをよじのぼった。一番てっぺんまで登ったところで係員にとめられ、あえなく園内放送。。。
お恥ずかしい話、これは小学校3〜4年くらいだったと思う。これ以降には迷子になったことはないと思う。最後の迷子だ。

母親の話では、とにかく外出すると至るところで迷子になるらしい。
ほんのちょっと、一瞬でも俺から目を離すと、すぐにどこかへふらふらと行ってしまい、目の届かないところへ消える、と。しばらくしてちょっと異常だろ!?と思えるほどバカみたいに大声で泣き叫ぶ子供がいると思ったら、それは必ず俺だとか。怖いもの知らずがごとくどこへでも好奇心のみで行くくせに、迷子になったことを知ると途端に怖くなるんだろうな。迷子になったときの記憶はあまりないんだけど、そのときに覚えた恐怖みたいなものは心に残っている。

一度、小さなスーパーマーケットで迷子になったことがあるらしく、館内放送で母親が呼ばれたとか。そこは25メートルプールより少し大きいくらいの、ほんとごく普通の、むしろ小さめのスーパー。さすがの母親にもそれにはびっくりしたとのこと。あたりまえだよ。恐るべし・・・。
2004年07月15日(木)

179 加害者のその後

ちょっと前にテレビで、殺人を犯した青年の更正をドキュメントでやっていた。アメリカの少年院で、加害者の人間を更正していく過程を描いていたんだけど、青年の顔がしっかりうつっていて、やっていることもリアルで、ちょっと驚きだった。
加害者は更正していく上で、被害者の視点にたち、また被害者の遺族の視点にたつことが更正への道とされる。痛みを知り、痛みを感じ続けることが償いであるというのは当然のことだと思う。

その番組をみていて、被害者の立場を徐々に理解していく青年の姿をみていたら、みていた俺は加害者の青年の視点に少しだけなれた気がする。
思えば日本では、加害者の心理ってやつを事件当初に専門家が分析することで、心の中に潜む闇を照らし出して問題点を指摘するけど、本当の加害者の視点を見ることはなかなかできない。
同情したりするわけじゃない。彼らなりの苦しみを理解したところで、罪が軽くなるわけでもない。でも、そうした加害者のことをもっとよく理解するっていうことは、今後青年犯罪を理解するうえで大切なんじゃないかって思う。専門家がじゃなくて、世間がね。
事件がおきるとき、このあいだの佐世保の小学6年生の事件にしてもそうだけど、まるで周りの大人が異変に気づけなかったっていうのは、平和ボケっていったら変だけど、そういうことにあまりにも鈍感だからっていうのもあるんじゃないかな?どんどん低年齢化していってる犯罪だから、理解が追いついていけないのかもしれないけど、加害者の視点っていうやつを目をそむけずにもっとよく知ることによって、子供の異変に少しでも気づけるようになるんじゃないか、と。それは周りの大人の役目であり、義務であると思う。

メディアに顔を出すことが必要とはいわないけど、人権とのバランスがあるからなんともいえないことだけど、もう少しオープンにするべきところはできたらなぁって思う。慎重にならなきゃいけない問題だから、そんな簡単じゃないだろうけどさ。
2004年07月03日(土)

VOICE / マッキー

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