気ままな日記
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子供の学校で授業参観があった。 小学校生活最後ということで、子供たち手作りのサンドイッチをグループごとに分かれて食べるという会食形式だった。 6年生というこの年頃になると、友達の前には母親ってもんは、登場して欲しくないらしく、そこへもってきてよそのお母さんも加わるもんだから、何をどう話していいかわからず、すごーくぎこちない雰囲気で会は始まった。 つけあわせのキュウリをボリボリかじったり、お母さん同士で、 「なかなかおいしいじゃないの!」 「ほんと!ちゃんとサンドイッチの味がするわね。」と、勝手なことを言ったりして場をつないだが、グループ全体の会話は途切れがち。 「わたしも実はこの小学校の卒業生なんですよ。」とわたしが言うと、 「おお〜!」と、一瞬座が盛り上がったけれど、深くつっこまれるとうっとうしいので、多くは語らなかったら、またみんな静まり返ってしまい、 「じゃあ、そろそろ・・・。」という担任の先生の言葉に、一同ホッとした雰囲気になった。 こういう時、その場をしきるタイプのお母さんがひとりいてくれると、助かるんだけど・・・。 会食の閉めは、子供から母親への手紙贈呈。 あまりにも照れ臭かったのか、子供は席を立っていなくなろうとしたが、そうもいかないので、そっぽを向いたまま、じっと座っていた。 手紙の中に 「ぼくは授業参観にあまり来てほしくなかったけど、その来てくれた気持ちがうれしかったです。」と書いてあった。 わはは!そうだったのか。 でもこういう文章が書けるようになっていたのね。 読んで爆笑、あとでしみじみとした手紙だった。 担任の先生が、 「是非お母さんの方からも返事を書いてあげてください。」と言うと、 「そんなのいらねーよ。」と横でボソッとつぶやいていたけど、親ばかなわたしは、帰ってからやっぱり返事を書いてしまったのだった。
群ようこ著「飢え」、「贅沢貧乏のマリア」を読んでいる。 それぞれ林芙美子、森茉莉の生涯を自らのエピソードを交えながらエッセイ風にまとめたものだ。 林芙美子も森茉莉も、組織や世間、常識といったものと相容れることはなくても、媚びたりはせず、一生涯自分らしさを追及して生きた人なんだという気がした。 それにしても、はたから見たらかなり問題のある家族たちの事を、じめじめとせず、あっけらかんと描写していく、群ようこさんのあの客観的なものの見方にはいつも脱帽する。 おかれた状況、自分の感情、他人のことなど、ああいうふうに客観的に距離をおいてユーモラスに描いていけるというのは本当にうらやましいと思う。
そういえばこの間の日記に書いたばかりだった。 他人が自分の幸、不幸感の鍵を握っているような気がするって。 自分以外の誰にもそんな力なんてないはず。 合鍵を渡すのはやめようって、もう一度自分に言い聞かせよう。 置かれた状況を客観的に眺め、そして楽しめるように。
集団の中に潜むゆがみや、矛盾、葛藤は、その中で1番弱いものへのしかかる。 そしてそのギセイの上に、全体の安定やバランスは保たれる。 これって、職場でも家庭でも学校でも同じ。
子供の工作の下絵を手伝うひと時、あったかい電気のひざ掛け、お昼休みやネットでのおしゃべり、テレビを見る時間、今まであたりまえのように持っていた時間やものが、実はとってもありがたいものだったことに気がつく時がある。
決して互いに向き合おうとはしない。 その場から立ち去りさえすれば、目の前から姿をくらましさえすればいいと・・・。 そうすれば、怒りや苛立ちはおさまるだろうと・・・。 そうではない。 寂しさがいっそう増すだけ・・・。
理由はなんでもいいから思いっきり涙を流したい時がある。 そうして、自分の感情に向き合う力がわたしにはあることを感じたい。 かりそめの安心感はいらない。 それを得るために、自分の気持ちにフタをするのは、おしまい。 もう後戻りはしたくないから。
今週は身辺でも、職場でもいろいろあって、すでにクタクタ! おんなじ職場の中なのに、”権限”を隠れ蓑に、仕事を押し付けあう人々・・・。 ”権威”をかさに相手を振り回す人、振り回される人、ひとりひとりが孤立して、自分を守るのに精一杯。 ひずみや負担は弱いところへ押し寄せる。 体制は変わらない。 転勤まであと一ヶ月だけど、わたしには100年にも思える。
転勤で解決しないのが”家族”。 血のつながりというしがらみからくる逃れられない感情、矛盾、何が正しくて何が正しくないのか・・・、言葉での説明が不可能になる。 とにかく、な、なんでそうなるの!!(昔そういうコントがあったが)ってことばかり。 そんなわけで、かなりグチグチした日記になった。
子供の鼻づまりがひどくなったので、医者も今日は休みだし、とりあえずドラッグストアで子供用鼻炎の薬と、「鼻スーのどスー」という、わかりやすい飲み物を買ってきた。 今日は寒い1日だったけれど、こんなちょっとしたことで少し気持ちがあったまった。
職場の研修で手話講座に行った。 聴覚に障害のある講師の方が、「ある日突然耳が聞こえるようになったら、それが一体何の音なのか、これから全部覚えていかなくてはならないので、とても困るだろう。」と、ウイットに富んだ話をされていた。 ”あたりまえのこと”が実はあたりまえではないこと、ひとつのことにも新しい見方がいくらでもあることを、今日の話で聞かせてもらった。 それにしても久しぶりに暗記物の勉強をしたので、さび付いていた頭が、ドッと疲れた。
追記: 聴覚障害者の方たちの、表情の豊かさが印象に残った。 怒りを伝えたい時は怒った表情をし、楽しい時は本当に楽しそうに笑い、決 しておなかが煮えくり返っているのに笑ってごまかしたりしないように思えた。 自分の言いたいことを表情、口の動き、手の仕草、あらゆる手段を使って相手に伝えようとする・・・。 一般には耳が聞こえることが”健常”ってことになってはいるけれど、健全なコミュニケーションということに関しては、彼らに教わることはたくさんあるという気がした。
「食べてくれない」 「見てくれない」 くれない、くれない・・・と、弱さを武器にされると、私の頭の中は、星飛馬の父、星いってつ、昔のテレビドラマの寺内貫太郎状態になり、お膳をひっくり返す、ものを蹴飛ばす、ガラスを叩き割る、そういうイメージで一杯になる。
属性― わたしをわたしたらしめているもの。 女であること、母であること、娘であること、サラリーウーマンであること・・・。 不安に駆られやすいことも、言葉をつい飲み込んでしまうことも、見かけだおしの落ち着きも、考え方に棘があることも、ユーモアでくるもうとすることも、空想癖も、すべてがわたしをわたしらしくするもの、わたしの個性だとしたら、それら全部を抱えて、わたしはどこへ行きたいというのだろう。
環境対策の一環として、お昼休みの12時20分になったら、事務所の電気を全部消すことが徹底されるようになった。 晴れの日はいいけれど、曇りや雨の日は部屋の中真っ暗。 お弁当を食べる間の20分間は、電気をつけておいてくれるようだが、食後、本や新聞を読みたいとか、そういうくつろぎの時間も大切にして欲しい〜って思うのは、今の時代、ぜいたくなのかしら? のみならず、今日気づいたのだが、ロビーの打ち合わせ机の上と、女子トイレの蛍光灯が、一本ずつ抜き取られていた。 たしかに「こまめに消灯しましょう。」という呼びかけだけでは、なかなか徹底できないとは思うのだが、経費節減もここまでいくと、なんかせこいんじゃないの〜って感じ!
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