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2006年03月28日(火) 第137週 2006.3.20-27 昨年夏のスコットランド旅行2

(第四〜五日:スカイ島)
四日目、フォート・ウィリアムから真っ直ぐ西に進路をとって、スカイ島へと渡るフェリーが出るマレイグの港を目指しました。
途中、グレンフィナン(フィナンの谷)という場所で車をとめる事が出来ます。前方に見えるのは、映画「ハリー・ポッターと秘密の部屋」の撮影で使用されたことで有名な、世界最古のコンクリート製鉄道橋であるグレンフィナン橋です。谷間を縫うように走る西ハイランド鉄道が通る地上三十メートルの高架橋で、映画を見たことのある方はすぐに思い出すと思うのですが、空を飛ぶハリーの車と機関車が競走する印象的な場面の撮影に使われていました。

一方、後方にはシエル湖を望むことができ、湖畔に屹立するモニュメントが目に入ります。この場所は、1745年、ジャコバイト最後の反乱を指揮したボニー・プリンス・チャーリー(The Young Pretender)がフランスから戻って最初に本土に上陸した場所であり、モニュメントはジャコバイト軍が蜂起の産声をあげたことを記念するものです。
ジャコバイトは、スコティッシュによるイングランドへの反抗の歴史を象徴する意味を持っており、スコティッシュ(特にハイランダー)にとって現在でも深い意味をもつキーワードの一つのように感じられます(ジャコバイトに関する詳細はウィキペディア、参照)。スコットランドのハイランド地方を回っていると、方々でジャコバイトの歴史の刻印に触れることになります。

さて、現在、グレンフィナン鉄道橋を走っているのは観光用の機関車(保存鉄道)であり、ハリー・ポッターの映画以降、がぜん人気が高まっているようです。我々は、マレイグに到着してからしばらく時間があったので、マレイグのプラット・フォームを機関車が発進していく様子を眺めていました。その名も「ジャコバイト号」という機関車が子供たちを満載にしてもうもうと白い煙をはきながらホームを離れていく様に息子は大喜びでした。

ブリテン島本土(マレイグ港)とスカイ島の間はフェリーで小1時間の距離です。
スカイ島は、面積が1,656平方キロと沖縄本島(1,206平方キロ)よりも一回り大きい島です。島内は、見渡す限りの荒野に一筆書きのように細い車道がくねくねと伸びています。内陸部には一千メートル級の山があり、また不気味な静けさの湖もところどころで見られました。
多くの車道は車一台が通れる程度の細いもので、ところどころに設置されているエスケープ・ポイントで時折やってくる対向車をやり過ごすことになります。つねに対向車に注意する必要があるため、運転するのがとても疲れます。
また、これらの細い車道を我が物顔に通行しているのは、しばしば周辺に放牧されている牛や馬や羊だったりするため、運転の際はこれらへの気配りも欠かせません。英国内の一部国立公園などでも同様に車道で動物に出会うことがあり、それは動物たちとの思いがけない遭遇といった感じの心温まる体験なのですが、スカイ島においては様子がちがいます。ここでは彼らが完全に「主」としての存在感を放っているため、彼らが跋扈する中を車で通過するのは言いようのない緊張感を強いられ、ちょっと怖い感じすらしました。
スコットランド北部(ハイランド地方)の風景は総じて荒涼としたものですが、スカイ島はそれを凝縮したような印象があります。海沿いのドライブで見ることができる荒々しい海岸線の様子もその辺では見ることのできない迫力でした。
一言でいって、スカイ島はかなり濃厚なアナザー・ワールドです。

スカイ島で二泊した宿は、Shorefield House という名のB&Bだったのですが、ここは我々が英国に来てから宿泊した数あるB&Bの中でも指折りの素晴らしい宿でした(ファミリー・ルーム一泊70ポンド)。部屋は清潔で十分に機能的な設備がそろっており、リビング・ルームはビデオ鑑賞やゲームができるように開放されていて、建物に隣接した芝生の庭でこどもたちを遊ばせておくこともできます。また、朝は通り一遍ではないおいしいスコティッシュ・ブレックファストが供され、何よりもホストの夫婦が客と適度な距離感を保ちながらも気持ちの良い対応をしてくれました。
ホストのおじさんによると、近年はなぜか日本人の客が増えているとのことでした。実際に、我々と同宿していた2組の客のうち1組はロンドン在住の日本人家族でした。こんなところにまで来て日本人と出会うとは思わなかった、とは向こうも思ったことでしょう(しかし、今回の旅行中、意外な場所で日本人の観光客と遭遇することが多かった)。

さて、スカイ島には大変有名なレストラン、スリー・チムニーズ(The Three Chimneys)があります。英国ではありえないような美味な食事を出してくれる高級レストランとの評判は我々も事前に聞き知っていました。値は張るのですが、折角なので冷やかしにいくことを楽しみにしていました。
スリー・チムニーズは、スカイ島の中でも北部の奥まった場所にあります。我々が泊まったB&Bからはさほど遠くないのですが、途中の道は荒野の一本道を延々と進むという感じで、とても高級レストランが出現するようには思えません。
我々は、ランチにトライすべく、午前中少し早めの時間に宿を出ました。

結論から先に言うと、実は我々はスリー・チムニーズの高級ランチにはありつくことが出来ず、苦い思い出だけが残る結末となってしまいました。顛末は次のとおりです。
荒野の一本道を進んでいる途中、息子(四歳)がかなりせっぱ詰まった様子で「うん○」と言い出したため、アクセルを踏み込み気味にして、件のお店を目指しました。道中、他に目ぼしい建造物はほとんど皆無です。レストランに到着したのはランチには少し早い時間帯だったのですが、スリー・チムニーズはB&Bも併設しているのでトイレくらい貸してくれるだろうと考え、小雨が降る中を妻と息子がとりあえず店内に駆け込みました。
しかし、かれらは間もなくあたふたと車に戻ってきました。妻の報告はこうでした。「ランチ予約とトイレ拝借をお願い仕りたい」と丁重に申し出たところ、スカイ島の中でも辺鄙な場所というロケーションにまったく適合していないおしゃれな黒服を着込んでツンケンした感じのウェートレスが出てきて、「ランチは翌日まで予約でいっぱい。トイレは貸せない。2マイル先の公衆便所を使え」とつれない返事を返された。「アージェント」と言ったにもかかわらず。
どんなうまい飯を食わすか知りませんが(本当にものすごく高い)、我々にとっては感じ悪い店でした。ちなみに、息子はこの先のトイレで用を足すことができて事なきを得ました。

(第六〜七日:ネス湖、インヴァネス、)
六日目、スカイ島から出る際は島と本土を結ぶ橋(カイル・オブ・ロハルシュ橋)を利用して、陸路でかの有名なネス湖を目指しました。途中にあるアイリン・ドナー城やネス湖畔のアーカート城は風情のある古城でした。
ネス湖周辺は、当然のことながらネッシー一色という様子で賑わっていました。そんな賑わいとは対照的に、深い緑の山々に囲まれてヘビ状に細長い形状をしたネス湖が黒々とした湖水をたたえて静まりかえっているのが印象的でした(地質の関係でネス湖の水の色は黒く濁っている)。

ネス湖は海に近づくと短いネス川に変わり、そのネス川が海に流れ込む場所にハイランド地方の中心都市であるインヴァネスがあります。空にカモメの飛び交う海辺の町インヴァネスは、適度に賑わっていてショッピングがし易く、街並みもきれいで、好印象が残った街でした。
我々は、インヴァネスを基点にしてさらに北上して、ハイランド地方の奥地を回ってきました。北海油田の石油関連施設を右手に見やりつつ海辺の道を北上し、途中にあるダンビロン城などに立ち寄り、目指したのはグレート・ブリテン島の最北端であるダネット・ヘッドです。奇岩の眺めが圧倒的なダンカンスビー岬のとなりにあるダネット・ヘッドは、海と断崖を一望できる絶景の場所でした。
ブリテン島の最西端であるランズエンドを訪れた時と同様、お約束のように息子は「おしっこ」と言い出して、最北端の地でも立小便をして引き返してきました。

インヴァネスで連泊した宿は、中心部から車で十分程度の場所にあるB&Bでした。お婆さんが一人で切り盛りしている小さな宿で、我々ともう一組の宿泊客がいました。もう一組の客とは二日間朝食のたびに同席することになったのですが、彼らはイングランド南部のケント県在住の老夫婦でした。
年齢が60才台後半くらいと思しき男性の方は、英国ジェントルマンの威厳を体現したような貫禄十分の方でした。慈愛に満ちた容貌のなかにもこちらに緊張を強いるような厳しい雰囲気を持った方で、正直言って彼らとの毎朝の会話は非常に気疲れがしました。
妻が「子供連れの車の旅で車内がぐちゃぐちゃだ」とこぼすと、「それは子供たちがエンジョイしている証拠だよ」と優しい言葉をかけてくれるかと思うと、何気なく私が「こいつら(当家の子供たち)やんちゃで困ったものです」と言ったのに対して、「子供は親の鏡だ」とぼそっと返されてドキッとするといった按配でした。後者はいかにも英国風の皮肉が効いた返しのコメントと言えましょう。

ところで、インヴァネス(Inverness)とは少し変わった地名ですが、ものの本(紅山雪夫著「イギリスの古都と街道」←英国のガイド的読み物の白眉)によると、「インヴァ」とはゲール語で河口を意味するらしく、インヴァネスでネス川の河口という意味になるようです。そして、同書によると、「アクセントは必ず川の名前の上に置く」(つまり「ネ」の上)とのことです。
興味があったので、B&Bの主人の婆さんに発音を尋ねてみたところ、「インヴァ」のvの音はやたら強調していたのですが、アクセントはそのvの上に置いて発音していました。私としては、「書いてあることと違う・・・」という感じだったのですが、翌朝にケントのおじいさんの発音に聞き耳を立てたところ、やはり後ろの「ネス」にアクセントを置いて発音していました。正調イギリス英語では、ガイドブックどおりの発音になるということでしょうか。


2006年03月27日(月) 第137週 2006.3.20-27 昨年夏のスコットランド旅行1

Spring has come. まさにそんな雰囲気のロンドンです。先週半ばまでコートの襟を合わせずには出歩けないような寒い日々が続いていましたが、先週木曜くらいから日に日に暖かくなり、今週からはコートも必ずしも必要ないくらいの気温になりました。日曜にサマー・タイムに切り替わって日が延びたこともあって、まさに「春が来た」という気分です。

本日(27日)のニュースによると、先日紹介したボルグ氏ウィンブルドン・トロフィーの競売が、本人の意思により取りやめになったそうです。よかった。

さて、もはや半年以上前の話になりましたが、記録ということで、昨年夏休みの旅行について書き残しておきます。
昨年8月20日から9泊10日のスコットランド旅行に出かけました。ロンドンの自宅から自家用車でまわり、総走行距離が約2,300マイル(約3,700キロ)というなかなか壮大な旅になりました。スコットランドには南西から侵入し、時計回りに一周するというルートをとりました。夏のフェスティバル開催中のエディンバラは避けて、主としてスコットランド北西部のハイランド地方に滞在しました。

(第一日:チェスター)
初日は、イングランド北西部の街チェスターに寄り道をしました。チェスターは、ローマ時代以来の城壁に囲まれた街で、中世以前の雰囲気を色濃く残した歴史情緒あふれる街でした。

ローマ人が英国内に残した三つの主要街道は、ロンドンを起点として三方向に伸びていて、それぞれ終点の地にはローマ軍団の本営地が置かれていました。主要街道の一つであるウォトリング街道は、ロンドンから北西の方角に延びてチェスターに至る道であり、チェスターという街の名前の語源は、ローマ第二十軍団の本営として築かれた「城塞」とのことです。
現在、ローマ人の城塞は残っていませんが、彼らが築いたものが原型となった城壁がほぼ完全に街を取り囲む形で残っており、城壁の上を散歩しながら街を一周することができます。

ところで、ローマ帝国によるブリタニア(英国)征服とはいつのことなのか。第一幕は、紀元前55〜54年のカエサル(シーザー)によるブリタニア侵攻だったようですが、カエサルはブリタニア征服を果たさずに帰ってしまいました。
本格的なローマン・ブリテンの時代が始まるのは、紀元43年のクラウディウス皇帝によるブリタニア征服後であり、それから紀元410年のローマ軍撤退までの約400年間、ローマ人によるブリテン島の支配が続いたとされています。

過日、ずっと積読にしていた「海のかなたのローマ帝国―古代ローマとブリテン島」(南川高志著、岩波書店)に目を通したのですが、ローマン・ブリテン時代(あるいはローマ化という概念)の英国における評価は、時代とともに大きな振幅を描いてきたそうです。
同書によると、元来は英国内でほとんど無視されていたローマン・ブリテン時代に対する評価が高まり始めた契機は、大英帝国による植民地支配の進展だったそうです。ローマ帝国のブリテン島支配に関し、野蛮な原住民に対して洗練された文化をもたらしたものとして肯定的に捉え返すことで、大英帝国によるインドなどの支配も肯定されるという文脈からの再評価があったとのことです(その後、考古学の世界では、ローマン・ブリテンは過大評価されているという見解の揺り戻しがあったらしい)。
歴史の評価も時代の価値観によって大きく変わるということの典型例なのかもしれません。

この日の宿舎は、当地に来て初めての試みとして、モーターウェイ(高速道路)のサーヴィス・エリアに設けられたホテルに泊まりました(Welcome Break Charnock Richard Motor Way Services Area)。可もなく不可もなく、値段相応の宿でした(ファミリー・ルーム60ポンド)。

(第二日:湖水地方)
二日目は、イングランド北西部にある有名な観光地の湖水地方に立ち寄りました。
英国の文化遺産・自然遺産の保全に絶大な貢献をしているナショナル・トラスト発祥の歴史に深く関わっている湖水地方は、風光明媚な景観が残されている場所として人気の観光地になっています。ピーター・ラビットの生みの親ベアトリクス・ポター氏が、自らのふるさとである湖水地方の景観を守るため、絵本ピーター・ラビットによる印税ほか全財産をつぎ込んで一帯の土地を購入したことが、ナショナル・トラスト運動の礎となったそうです。
このため、標高900メートル程度のいくつかの山々が連なり、それらに囲まれて大・小の氷河湖が点在する美しい風景と豊かな自然環境が、今もそのまま残されています。平板なイングランドの景色の中にあっては、湖水地方は変化に富んでいるという点で人々をひきつけるものがあるのでしょう。

湖水地方観光の中心はウィンダミアという湖畔の小さな町ですが、個人的な感想としては、観光客の数が町のキャパを大きく超えているなあと思いました。とにかく人と車が多くてあふれ返っていました。
当地の「売り」である美しい自然環境を保護するために開発を意図的に抑えている分、観光サービスに関する需要と供給の体制がアンバランスになっていると考えられます。この問題に関しては、きちんと開発をした方が自然保護という観点からも結果的には良い方向に働くのだという考え方もありえるわけで、日本ではそんな風に整理されがちのような気がします。
悩ましいジレンマのようですが、悩まずに頑として「開発抑制」の方針を守り続けるのが英国の全体的な国民性のように思います(例外はあるでしょうが)。更に言うと、精神論だけではなくて、それを実践するための方策(ナショナル・トラスト運動が一例)を考え出すところまで含めて、英国の国民性なのでしょう。

夕方に高速道路でスコットランドに入り、この日の宿舎はグラスゴー中心市街にあるPremier Travel Innでした。今回の旅行で学習したことのひとつに、子供連れで旅行する場合、英国の巨大ホテル・チェーンPremier Travel Innは極めて有益だということがあります。
事前にこどもの年齢と人数を伝えておくと、それにあったベッドメイキングをしてくれ、ファミリー・ルームは十分な広さがあってかつ清潔感もあり、実に快適でした。価格はファミリー・ルームで一室50ポンド前後(朝食は別)とリーズナブルです。多くの場合、ホテルにレストランが併設されていて、疲れて出歩くのが億劫な時はホテル内で夕食を済ませることも出来ます。さらに、当日の正午頃までならキャンセル料が発生しないというのも嬉しい点です。
家族連れで観光に便利な場所でお得な宿を探す場合は、Premier Travel Innであれば常に一定水準のサービスが保証されると考えても間違いないと思います。

(第三日:A82を北上)
午前中にグラスゴーの町を散策した後、英国最大の湖であるロッホ・ローモンド(ロッホとは、ゲール語で湖の意味)に向かいました。東側湖畔で水遊びをしてから、西側の湖畔沿いを走る国道A82を北上しました。

このA82のドライブは、雄大でありながらも厳しい印象のスコットランドの自然を満喫できる極上のものでした。絶景が続きますが、なかでもクライマックスとなるのは、氷河に削られて出来たU字谷グレン・コウ(グレンの谷)です。
壮絶かつ雄大な地形の眺めとともに、グレン・コウはスコットランド史上もっとも悲惨な歴史的事件が発生した場所としても知られています。詳しい経緯は省きますが、17世紀の終わりに、ある一族が近親の一族の奸計により一夜にして皆殺しにされるという惨劇がこの地の静かな村で起こりました(40人以上が惨殺)。事件の背景には、名誉革命(1688年)→ジャコバイトの反乱と続く歴史の流れがありました。イングランド発で形成された歴史のねじれ現象の余波がスコットランド北部に及び、増幅・変形されたひずみから生まれた一連のストーリーのさきがけともいえる事件です。

ともかく、A82のドライブは車でスコットランド観光される方にはオススメです。

この日の宿は、フォート・ウィリアムのB&B(Glenlochy Guest House)でした。宿のロケーションや部屋の設備などはそこそこで、宿泊料も比較的高めのB&Bだったのですが(ファミリー・ルーム90ポンド)、我々の満足度は今回の旅行中で最悪の宿でした。良いB&Bであるための必要条件というのは、やはりホストのホスピタリティだと思うのですが、その点でこのB&Bの場合は疑問ありという印象でした。
実は予感めいたものがありました。ホストの人柄とか姿勢は、ブッキングの際のメールのやり取りで透けて感じられるものです。この宿の場合、極めて事務的な文章しか帰ってこなかったので、ファシリティの割に期待できないかもという予感があったため、本当は別の宿にしたかったのですが、生憎どこも条件が合わなかったためにやむなく決めたという経緯がありました。
経験上、メールのやり取りから得られる印象は概ね外れません。難しいのは、客に対してやけに媚びる感じのくだけ方をするメールの場合は、ちょっと問題のある宿であることが多くて要注意という点です。淡々としながらも暖かみのあるメールを迅速に返してくる宿は値段以上に素晴らしいホスピタリティを感じさせてくれる傾向が強いというのが、私のこれまでの経験則です。


2006年03月21日(火) 第136週 2006.3.13-20 シックス・ネーションズはフランス優勝、コモンウェルス・ゲームズ

この土日は様々なスポーツ・イベントが重なった週末でした。スポーツ・イベントにまつわる諸々には、社会・文化面からの「お国柄」の違いが如実に表れて興味深いものです。

(シックス・ネーションズはフランス優勝)
まずはラグビーですが、土曜日に今年のシックス・ネーションズ大会の最終戦が行われました。
もっとも優勝に近い位置にいたフランス(試合前の時点で3勝1敗、得失点差+57)とウェールズの一戦が三時キックオフでウェールズの本拠地カーディフで行われ、接線の末に最後の最後でフランスが小気味いいトライで逆転勝利をもぎ取り、2年ぶり15度目の大会優勝をほぼ決定付けました。
試合の前半を近所のパブでTV観戦したのですが、客の大半がビール片手に「フランス負けろ」という念力を発しつつ観戦している雰囲気がひしひしと伝わってきました。イングランド優勝の可能性が消えているなか、彼らにはウェールズを応援するというよりもフランスの優勝を阻みたいという心理が働いていたようです。

フランス戦が終わった五時からは、もう一方の優勝候補であったアイルランド(試合前の時点で3勝1敗、得失点差+30)とイングランドとの試合が、イングランドの本拠地トゥイッケナムで行われました。
優勝の目がほぼなくなった両チームのゲームだったにもかかわらず、一進一退の大接戦となる好ゲームが展開されました。後半残り13分で同点に追いついたイングランドが、同5分にPGで得点をあげて均衡を破り勝負あったかと思われたのですが、残り2分でアイルランドの逆転トライが決まり、結局はアイルランドの勝利でノーサイドとなりました。これにより、アイルランドは優勝こそ逃したもののトリプル・クラウン(グレート・ブリテン島の三チームに勝利すること)の栄誉を獲得しました。

フランスが優勝するシックス・ネーションズは、イングランドにいると何となく盛り上がりませんが、フランスとしてはホスト国を務める2007年のW杯に向けて弾みがついたことでしょう。

(WBCは日本優勝)
日本人としては、週末のスポーツで最大の関心事は「野球」でした。WBC(World Baseball Classic)準決勝戦(韓国戦)のプレー・ボールは、当地時間の日曜日午前三時ごろでした。
英国ではWBCは報道すらほとんどされておらず、TVでの中継など期待すべくもありません。日曜早朝、たまたま起きていたこともあり、日本のインターネット・サイトにアクセスして試合経過をウォッチしていました。
結果はご承知のとおり韓国に対して雪辱を果たすことになり、ようやく日本人として溜飲を下げることが出来ました。当地時間の火曜早朝に行われた決勝戦(キューバ戦)も快勝したようで、色々あったWBCですが、結果としては日本人にとって誠に素晴らしい大会になったといえましょう。

BBCウェブ・サイトを見ると、さすがに決勝戦の結果については報道されていました。ただし、“sport”→“other sport”→“baseball”とリンクをたどらないと当該記事までたどり着けませんが。選手の中ではイチローのコメントが多めに引用されていて、日本のメディアでは紹介されていない内容のものも含まれています。

(コモンウェルス・ゲームズ)
さて、日曜早朝、ネットでWBCの実況を横目で見つつ、テレビではコモンウェルス・ゲームズを見ていました。最近のBBCは、昼夜を問わず大半の時間をコモンウェルス・ゲームズの中継に割いています。
といっても、こちらは日本人にまったく知られていないのではないかと思うのですが、コモンウェルス・ゲームズとは、コモンウェルス=英連邦諸国の間で行われる四年に一度の大きなスポーツ・イベントで、今年は豪州メルボルンにて開催されています。参加国にとってはオリンピックに次ぐ重要なスポーツの祭典ということになります。開会の辞は、英連邦の頂点に君臨するエリザベス女王によって行われたそうです。

英連邦については以前に紹介したことがありましたが(2005年11月14日、参照)、コモンウェルス・ゲームズのウェブ・サイトFAQsを覗くと、改めて英連邦やコモンウェルス・ゲームズに関する興味深い実体を知ることが出来ます。
例えば、以下のQ&Aです。

What is the Commonwealth?
(コモンウェルスって何?)
The Commonwealth is a unique family of developed and developing nations, a voluntary association of independent sovereign states spread over every continent and ocean. From Africa to Asia, from Pacific shores to the Caribbean, the Commonwealth's 1.7 billion people make up 30% of the world's population and are of many faiths, races, languages and cultures.
(様々な国で構成される緩やかな連合。世界人口の30%に相当する17億人が属しており、広範な地域の中に様々な宗教、人種、言語、文化の人々が含まれている。)

How many Commonwealth countries can take part in the Games?
(何カ国がコモンウェルス・ゲームズに参加できるのか?)
Although there are 53 Commonwealth countries, there are 71 Commonwealth Games Associations that can enter a team in the Commonwealth Games. This is because some Commonwealth countries have more than one CGA. An example of this is the United Kingdom, which is a single Commonwealth country, but which has seven CGAs, as Scotland, England, Northern Ireland, Wales, Isle of Man, Jersey, and Guernsey, all compete in the Games as separate nations.
(コモンウェルスは53か国で構成されているが、コモンウェルス・ゲームズに参加できるのは71チーム。なぜか?例えば、英国から参加できるのは、スコットランド・イングランド・北アイルランド・ウェールズ・マン島・ジャージー島・ガンジー島の7チームという具合に、国家の数と競技に参加するチームの数は一致しない)

What sports are in the Commonwealth Games?
(コモンウェルス・ゲームズにはどんな競技種目があるのか?)
The Commonwealth Games sports programme consists of a minimum of ten sports, five of which are obligatory - athletics, aquatics - race swimming, lawn bowls, rugby 7s (Men), and netball (women).
The host country selects other sports from an approved list of individual sports which are archery, badminton, billiards and snooker, boxing, canoeing, cycling, diving (as part of aquatics), fencing, gymnastics, judo, rowing, shooting, squash, synchronised swimming (as part of aquatics), table tennis, tennis, ten pin bowling, triathlon, weightlifting, wrestling and sailing. Additional team sports can be added subject to the approval of the CGF through the General Assembly.
(最低10種目で競技が行われ、うち5種目は必須。必須5種目とは、陸上競技・水上競技(競泳)・ローンボーリング・7人制ラグビー・ネットボール。その他は所定のリストから主催国が選択して決める)

まず、最初のQ&Aですが、コモンウェルスの解説文の中に「英国」への言及が一切ないことに気づきます。一般に日本では、コモンウェルスは英連邦と翻訳され、英連邦の前身が大英帝国であることも歴史的事実ですが、現在ではもしかしたら英連邦という訳は適切ではないのかもしれません。

二番目のQ&Aも興味深い内容を含んでいます。英国がスコットランド以下独立性の極めて高い4つの地域に分かれるというのは、ラグビー等でもお馴染みですが、さらに連なるマン島やジャージー島とは何か?
これらは、英国王室の属領(Crown dependency)であり、女王に対して君主としての忠誠を誓っているものの、連合王国(United Kingdom)には含まれない島々です。ウィキペディアによると、「内政に関してイギリス議会の支配を受けず、独自の議会と政府を持ち、海外領土や植民地と異なり高度の自治権を有している。 欧州連合にも加盟していない。したがって、イギリスの法律や税制、欧州連合の共通政策は適用されない。ただし、外交及び防衛に関してはイギリス政府に委任している」となっています。通貨についても独自通貨の発行が許されているそうです。

三番目のQ&Aですが、必須5種目の一つであるネットボールとは初耳です。ただ、いわれてみればBBCの中継で見たことがあります。バスケットボールに似た競技でした。

コモンウェルス・ゲームズの第一回大会は、1930年にカナダのオンタリオ州・ハミルトンで開催され、前々回(1998年)はマレーシアのクアラルンプール、前回(2002年)はイングランドのマンチェスターで行われたそうです。そして、次回2010年の大会は、インドのデリーでの開催が予定されています。


2006年03月13日(月) 第135週 2006.3.6-13 ボルグのウィンブルドン・トロフィーが競売に、引退後のボルグ

(ボルグのウィンブルドン・トロフィーが競売に)
3月はじめ頃、古いテニス・ファンにはちょっと衝撃的なニュースが流れました。ビヨン・ボルグが、ウィンブルドン大会(全英オープン)での優勝トロフィー五個とウィンブルドン決勝戦で使用した二本のラケットをロンドンで競売に出すことにした、というものです。

説明不要かもしれませんが、ボルグといえば、記録と記憶の両方に残る伝説のテニス・プレーヤーです。ウィンブルドン五連覇(1976-80)、全仏オープン六勝をはじめ、シングルス57回優勝(ATP公式プロフィールより)という成績を残した後、83年に26歳の若さで正式に引退しました(実態としては81年全米オープン決勝での敗退以降、引退同然)。
強烈なトップ・スピンをきかせた圧倒的なストローク・プレー、長髪をバンダナで束ねた独特のスタイル、ゲーム中に感情を一切見せないストイックなプレーぶり(通称“ice Borg”)などから、カリスマ的な人気を得ていたプレーヤーでした。
五連覇を達成した80年のウィンブルドン決勝戦は、あらゆる面で対照的なプレーヤーであった若きジョン・マッケンローとの4時間近くに及ぶ文字通りの死闘となり、歴史に残る名勝負としていまだに語り継がれています(何を隠そう私はこのゲームのビデオを持っています)。翌年の決勝戦が同じカードの対戦となり、昇り調子のマッケンローが接線の末に勝利をもぎ取り、この敗戦を機にボルグが引退を決意したというように「物語」がきっちり完結しているところもスーパースターならではといえましょう(なお、ボルグに関する紹介記事は、ウィンブルドンの公式ホームページ内のココが充実しています)。

ボルグのカリスマ性を最も象徴的に表わしているのは、世界中のテニス・プレーヤーにとっての聖地であるウィンブルドンにおいて五年間にわたって絶対王者として君臨し続け、その座を譲る際にも二年にわたる劇的な物語を表現してみせた点だろうと思われます。
つまり、数々の栄光の中でも、ウィンブルドンこそがボルグの輝きの源泉であり、もっとも大切な舞台だったということに異論の余地はないでしょう。

そんなボルグが、ウィンブルドンでの優勝トロフィーとマッケンローとの死闘で勝利を収めた際に使用していたドネーのウッド・ラケット(といえば当時はボルグの代名詞でした)を含めた二本のラケット(サイン入り)を売りに出すというのですから、事情を知る者にはショッキングなニュースです。
報道によると、トロフィーは五個で30万ポンド(約6千万円)、ラケットが一本あたり1万5千ポンド(約300万円)程度で売りに出されるだろうということです。ただし、ウィンブルドンの優勝トロフィーが競売にかけられるのは初めてのことらしく、専門家にも落札価格は読み難いそうです。

(競売に出すに至った理由)
なぜボルグはこれら自らの栄光の証を競売に出すに至ったのか?もっとも気になるこの点については、情報が錯綜しています。
当初、ボルグ自身のコメントとして、「経済的に困難な状況にあるから」というようなことが報道されていました。これもまた寂しいニュースですが、伝えられていた引退後のボルグの人生を考えると、説得力のある理由とも考えられます(後述)。
しかし、その後、「このような報道は心外である」というボルグ本人のコメントが伝えられました(6日付デイリー・テレグラフ紙記事)。同紙によると、競売に出す理由として、「ウィンブルドン五連覇を思い出すものなら私はいくらでも持っているのだから、これらの品を大切にしてくれる人がいるのであれば譲ったほうがいいと思った」というようなことをボルグ本人が語ったそうです。さらに「競売で得た資金はチャリティーに寄付しようと思う」とも言っているそうです。

このように、ボルグが優勝トロフィー他を競売に出すに至った真相は現時点で藪の中です。確かなのは、今年のウィンブルドン・トーナメントが始まる直前の6月21日に競売が実施される予定ということです。

(引退後のボルグ)
英国の至宝とも言えるウィンブルドンのテニス・トーナメント(2004年7月5日、参照)の歴史の中でも別格のヒーローであったボルグのスキャンダルは、当地ではとりわけショッキングなニュースとして取り上げられていた感があります。
おそらく、とくに保守的な傾向の強い英国人は、ボルグのようなタイプのテニス・プレーヤーがそもそも好きなのだろうと推測されます。であるからこそ、英国人にとってはなおさら哀しいニュースに映ることでしょう(なお、現在のATPランキング一位でウィンブルドン三連覇中のロジャー・フェデラーは、様々な意味でボルグ二世といった感があり、彼も大いに英国民に受け入れられているように思えます)。

ただし、引退後のボルグのスキャンダルはこれに始まったことではない、というのも事実です。今回、それらをおさらいするようなメディア記事が散見されました。
20歳台で忽然とシーンから姿を消し、その後は様々なスキャンダルを報じられてきたボルグは、バーン・アウト症候群の典型例としてもしばしば引き合いに出されます。現役当時の紳士然としたイメージから程遠い一連の悲惨なスキャンダルを列挙すると、二度の離婚、数々の事業失敗が残した多額の負債、コカイン吸引疑惑、自殺未遂騒動などです。
報道によると、現在は故国スウェーデンに居住し、テニス・コーチなどをしながら若手育成に務めているそうです。
今回の競売の背景として、依然として借金返済などの金策に汲々としているのではという憶測が働いているようですが、ボルグ自身は「現在は事業も軌道に乗っている」とそのような勘繰りを一蹴しています。

(「プレイ・ザ・ボルグ」)
ボルグについて縷縷述べましたが、私がテニスに関心を持ち始めたのは1980年だったことから、実はボルグの黄金時代(70年代後半)を実際に知っているわけではありません。
ただ、私がテニスをするうえで最も大きな影響を受けたレッスン書は、ビヨン・ボルグ著「プレイ・ザ・ボルグ」(講談社)でした。これは、素晴らしいレッスン書です(パート2もあるがこちらはかなり劣る)。すでに絶版になって久しいのですが、ネット古書店等で時々入手可能なようです。
ただし、私のプレー・レベルにレッスン書の素晴らしさが反映されていないのは、もちろんプレーヤーの運動神経の問題であり、本書の信頼性を損なうものではありません。悪しからず。


2006年03月06日(月) 第134週 2006.2.27-3.6  MPCメンバーの交替問題、外国人登用の可能性も

今年のシックス・ネーションズは混戦模様になっています。3月6日時点、2勝1敗で4チーム(イングランド・スコットランド・アイルランド・フランス)が並んでおり、特に強豪のイングランドとフランスを撃破したスコットランドの七年ぶり優勝への期待が高まっています。確かに、残る対戦相手(アイルランドとイタリア)から考えて優勝に一番近い位置にいるのは間違いないでしょう。ただし、アイルランドも優勝候補であり、またフランスを苦しめた今年のイタリアも侮りがたいようです。

(MPCメンバーの交替問題)
先日来、フィナンシャルタイムズ紙で英国の中央銀行であるイングランド銀行の金融政策委員会(Monetary Policy Committee、MPC)のメンバー交替を巡る一連の記事が目を引きました。MPCとは、イングランド銀行の金融政策を決定する委員会で(日本銀行の金融政策決定会合、米FRBの連邦公開市場委員会=FOMCに相当)、毎月一回の頻度で開催され、政策金利の上げ・下げなどがメンバーの多数決により決められます。
メンバーは9名で構成されていて、内訳としては、イングランド銀行総裁、副総裁2名、イングランド銀行内で任命される2名の理事(以上5名が「内部委員」)、その他に財務大臣から任命される「外部委員」が4名います。この外部委員のうち2名が今年5月末に任期切れを迎えるということで、その後任選びがちょっとした議論を引き起こしています(ただし、任期が切れる2名のうち1名は任期延長の可能性もある)。

「外部委員」というのは、中央銀行から独立した視点で金融政策について意見を述べることを期待されている人たちです。一般的に中央銀行の内部で形成される金融政策はタカ派的(利下げに対して消極的であり、利上げに対して積極的)になる傾向があるため、MPCメンバーに外部委員が入ることで、MPC全体としてより公正で適切な意見形成がなされると考えられています。
実際に、過去のイングランド銀行において、上記の傾向(内部委員:タカ派的、外部委員:ハト派的)は顕著に顕れています。

さて、一連の記事の発端は、MPC外部委員のOBが連名で投稿した一通の公開書簡でした(2月25-26日付FT紙)。書簡のメッセージは、「現在、財務省内で選考が進められている外部委員の後任として、経済の専門家ではない人物を推す声があるようだが、それは極めて危険」という意見具申でした。専門家集団である内部委員の面々と対等に議論をするためには、外部委員も経済・金融に関する専門的な知識装備をした人物であることが必要条件だということです。とりわけ、現在のイングランド銀行総裁であるマービン・キング氏は、アカデミズムの世界で十分な実績を残した学者出身の人物であるため、経済全般に関する知見が豊富で、かつ非常に強いリーダーシップを発揮する人物であるため、それに伍していくためには十分な専門知識を持った人物であることが必須であるとのことです。
公開書簡に対して、財務省の事務次官が反論投稿をし(27日付同紙)、さらに同日、FT紙記者による長めの論説記事が掲載されました。
本件の背景として、財務省による外部委員の選考過程に透明性が欠けているということもあるようです。

(外国人登用の可能性も)
さて、27日付FT紙によると、外部委員の要件として英国人である必要はないらしく、財務省は国内の人材に限らず「多くの国から選び出した国際的に著名なエコノミストたちも候補」として選考を進めているそうです。実際に過去、英国籍ではない外部委員が任命されたことがありました(オランダ人やアメリカ人)。今回、米国の大物エコノミストであるロバート・バローやジョン・テーラーの名前も、候補者として取り沙汰されているようです。

英国では、国家公務員の中にも外国籍の人物がけっこういます。日本では考えにくいことですが、公的機関の重職でもまったく国籍にこだわらないというこの国の方針は一貫しています。とくに米・英の人材交流は頻繁な印象があり、両国間のspecial relationshipの実体は、こんなところにも垣間見ることができるのかもしれません。
背景には、定められた職務に対して必要なスキルを備えていることが最大の要件という合理主義があるのでしょうが、日本との対比で言うと、コミュニケーション(言語)能力に関するハードルが低いという点も大きいでしょう。英国の母国語が英語であることにより、英国内だけから人材を求める場合と比較して、質と量の両面で可能性が何倍にも広がっているということです。
日本と同じ島国でありながら、しばしば海賊国家と言われるように外向きの島国根性を持つ英国と内向きの島国根性をもつ日本との違いは、こんなところからも生じているのかもしれません。


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