Experiences in UK
DiaryINDEXpastwill


2005年01月31日(月) 第77週 2005.1.24-31 ロンドンの多様性、ロンドンは<他者>に寛容な街か?

(ロンドンの多様性)
1月21日付のガーディアン紙が、興味深い別冊特集を組んでいました。”London: the world in one city”というタイトルで、ロンドン域内の人種・宗教などの分布状況に関する調査結果をまとめた内容でした。
記者が独自に調べた結果が地図上に示されていて、それらに関する記事が掲載されています。同記事で紹介されていた興味深いファクトとしては、以下がありました。
・最新の国勢調査(2001年)によると、ロンドン住民の三割がイングランド以外の地で生まれている。二世や三世を含めるとロンドンにおける非イングランド比率はさらに高いだろう。
・同じく国勢調査によると、白人英国人はイングランド全体では87%を占めるが、ロンドンに限ると60%に過ぎない。
・同じく国勢調査の宗教調査結果上位ベスト・スリーは、「キリスト教」(58.2%)「無宗教」(15.8%)「無回答」(8.7%)だった(04年10月11日を参照)。
・ロンドン住民の1.5%がスコットランド生まれ、1.0%がウェールズ生まれ、0.5%が北アイルランド生まれである。
・ロンドンでは300以上の言語が話されていて、一万人以上の人々から成る異民族コミュニティが少なくとも50はある。

地図上には、ロンドン市内に存在する大小100にのぼる外国人コミュニティが示されています。これをみてすぐ気づく点としては、やはり旧植民地国や英連邦加盟国の人々のコミュニティの数が圧倒的に多いという点です。例えば、インドが最多で13地域、ジャマイカは7地域、ソマリアは6地域となっています。先進国では、「フランス、米国」という括りの地域が一箇所(サウス・ケンジントン)あげられており、日本は二箇所(トッテリッジ、ハンガー・ヒル/アクトン)でした。
私の住んでいる街パットニーは基本的に純粋なブリティッシュの街となっていますが、少し離れた場所に「南アフリカ、オーストラリア、ジンバブエ」という括りのコミュニティがあるそうです。まったく知りませんでした。

(ロンドンは<他者>に寛容な街か?)
さて、この特集記事は、ロンドンの多様性を具体的なデータで裏付ける画期的なものといえます。今回の結果を敷衍した論説記事の内容も興味深いものでした。

まず、ロンドンに多様な民族が存在する背景として、イングランド人のアイデンティティの空洞化が指摘されています。
記者は、「イングランド人は、大英帝国の崩壊で自己を見失い、アメリカ人でも完全なヨーロッパ人でもなく、ましてやウエルシュでもアイリッシュでもスコティッシュでもないということで、ナショナル・アイデンティティがかなり希薄なものとなっている」と指摘し、食べ物について顕著なように、イングランド人が独自の文化を持たないがゆえに、各民族に基づいた多様な文化が成立している(世界各国の料理に関するレストランと食材店が充実している)のがロンドンである、と述べています。

また、昨年クリスマスのクィーンズ・メッセージのように、ロンドンに多くの民族が共存している事態を指して英国人(イングランド人)の寛容性(tolerance)を指摘する見方があるが、「そうじゃないだろう」としています。「無関心(indifference)と呼ぶほうがより適切だ」というのが、記者の意見でした。ただし、「敵対するよりもましだけど」とも付け加えています。

このように、アイデンティティが空洞化したイングランド人の街ロンドンだからこそ、多様な民族の人々がそれぞれのアイデンティティを保持しつつ、<他者>に無関心なまま、深刻な摩擦を起こすことなく共存できるのであり、それがロンドンの「最大の売り」だと記者は言います。「ニューヨークに来る人はアメリカ人になるためにやって来るけど、ロンドンに来る人はイングランド人になるために来るのではない。人々は、自分自身になるためにロンドンにやってくるのだ」というコメントが印象的でした。

(ロンドンの日本人居住区域)
上記で少し触れましたが、日本人居住区域に関しても若干のコメントがありました。
日本人は、先進国の割にはロンドン中心部のリッチな地域ではなく周辺地域にコミュニティがあります(北部のトッテリッジと西部のハンガー・ヒル/アクトン)。これらの地域には、日本人学校や日本人向けの店が多いからという妥当な分析に加えて、記事では近辺に広大な緑地があるからということが指摘されています。広大な緑地とは、ゴルフ場のことです。外国に暮らす日本人にとってゴルフ場が近くにあるということは、他の国の人々にとって教会やレストランが身近にあることと同様、きわめて重要な意味を持っているようだ、というのが落ちでした。一理あるとは思います(私はゴルフはしませんが)。


2005年01月24日(月) 第76週 2005.1.17-24 労働党の大看板、ブレアとブラウン

ロンドンも寒さが厳しくなってきました。北部では週末に雪がちらついたようです。

(労働党の大看板)
先日、パットニー・ブリッジの袂を車で通過した時、ビルの屋上に見慣れない巨大な看板が出現していることに気づきました。ピンク色の長方形の看板には、人目を引くデザインの文字で「LOWEST unemployment for 29 years」と大書されていました。隅っこには、赤いバラの花とともに小さくLaborと書かれています。
これは、先日公表されたばかりの労働党の広報ポスターであり、「失業率が29年ぶりの低水準」と経済好調の実績をアピールしたものでした。同党は、11日に同様の四種類の広報ポスターを公表しました。いずれも現在の英国経済の好調ぶりを全面的にアピールするもので、それぞれ昔のビートルズのアルバム・ジャケットのような懐かしい感じの字体・背景の中にメッセージが溶かし込まれたデザインになっています(実際のポスターは、ココを参照)。

上記の失業率に関するものの他には、「過去200年間で最長の持続的経済成長」「住宅金利が40年ぶりの低水準」「インフレが60年代以来の低水準」というメッセージが刷り込まれたポスターがあります。具体的な数字を用いて、誰にでも分かる形で経済の好調振りを切り取り、伝えようとして作られたものであることが一目瞭然です。
今回の露骨なまでに経済好調を誇示したポスター作成の背景には、今年五月頃の実施が予想されている総選挙に向けたアピールという事情もあります。

(経済は争点とならないが・・・)
政党がポスターで掲げるスローガン(広報文句)に対して大真面目に反論するのはアホらしいというか、あまり建設的ではありませんが、メディアでは露骨な自画自賛振りを揶揄する記事がちらほら見られました。例えば、エコノミスト誌はBoasters(ほら吹き)という題名の小さなコラムで、各スローガンを個別撃破しています。
ただ、90年代後半以降の英国経済が、稀有の安定成長を持続してきたことは紛れもない事実です。それがすべて97年以降の労働党政権の政策運営によるものかどうかは議論の分かれるところですが、経済問題が春の総選挙で争点になる可能性は低いとみられています。

(労働党・大看板の亀裂)
というわけで、実際により注目を集めたのは、ポスターの中身よりも、その発表の光景でした。四枚のポスターを背景に、ゴードン・ブラウン蔵相とアラン・ミルバーン無任所大臣(ランカスター領大臣)、ジョン・プレスコット副首相が並んで写真撮影に臨んだことがメディアで大きく取り上げられていました。
一見すると、労働党の有力閣僚が党の実績を誇示する微笑ましい写真のように思えますが、実は現在の労働党は大きく二つの勢力に分裂しており、一部には深刻な対立の構図があると伝えられていることから、様々な憶測を呼びました。二つの勢力とは、ブレア首相を中心とする一派とブラウン蔵相を中心とする一派で、上記の三閣僚のうちミルバーン氏というのは、ブレア首相の懐刀でありかつ首相後継候補としてブラウン蔵相にとって強力なライバルと目されている人物です。
労働党の「大看板」であるブレアとブラウンの間には深い亀裂が走っているというのが定説となっているため、ブラウンとミルバーンが仲良く一枚の写真に収まっている様子は、選挙を前にした労働党の結束振りを示すポーズであるなどとささやかれていました。

(ブレアとブラウン)
ブレアとブラウンという戦後の英国政治における際立った大物政治家どうしのライバル関係は、実に興味深いものがあります。両者は同じ年(83年)に初当選した後、いずれも労働党・改革派の若手エースとして台頭しました(生年は、ブレアが53年、ブラウンが51年)。言動や見かけが派手でスタンドプレー好みのブレアに対し、地味で堅実なブラウンという好対照のキャラクターの二人は、過去20年間の労働党躍進と97年以降は英国の建て直しにおいて重要な牽引役を果たしてきました。
当初は、政治経験で一日の長があったブラウンがブレアに政治の手ほどきをする間柄にあったようです。94年のスミス労働党党首急死の際、両者の話し合いのうえでリーダーシップという点で勝るブレアが党首の座を引き継ぎ、97年に首相に就任したときから、両者の関係に微妙な緊張が生じてきたとされます。

両者のライバル関係ストーリーも、今では周辺の次世代有力政治家を巻き込んだ大きなものになっています。その代表的人物の一人が、上記のアラン・ミルバーンであり、また昨夏に欧州委員会の通商担当委員に抜擢されたピーター・マンデルソンです。マンデルソンはブレア首相の側近中の側近と考えられ(初期ブレア政権で広報戦略担当=スピン・ドクターとして活躍)、かつ英国政界の曲者として数々の逸話を残している個性的な政治家です。ブラウン蔵相とは、犬猿の仲というのが一般的な見方となっています。
いずれにしろ、今春に予想されている選挙を境にして、両巨頭のライバル関係に何らかの変化が生じる可能性が高く、一野次馬としては、首相の後継問題を含めて次の展開が大いに興味を引くところです。


2005年01月18日(火) 第73-75週(その2) 2004.12.27-2005.1.17 コーンウォール旅行2

(ティンタジェル)
以前、「英国のお城ベストテン」というテレビ番組(04年2月16日、参照)で三位に輝いていたお城ティンタジェル城は、コーンウォール半島北側の岸壁沿いにあります。今回の旅行で是非とも訪れたかった場所の一つだったのですが、今回は残念ながら城までたどり着くことができませんでした。
理由その一は、訪れたのが一月一日だったために城が閉まっていたことであり、その二は、悪天候だったことであり(雨と風がきつかった)、その三は、駐車場から城までの道のりが険しくて長い崖の道だったことです(幼児連れではちょっと尻込みする)。城の影だけ遠望することができましたが、凄いところに建っているお城です(現在は廃墟ですが)。
ティンタジェル城は、学術的には13世紀頃に作られたとされているようですが、まだよく分かっていない部分も多く、アーサー王がここで生誕したという伝説がまことしやかに伝えられています。アーサー王は、5〜6世紀に大陸から侵攻してきたアングル人、サクソン人と勇敢に戦ったとされる古代イングランドの英雄ですが、実在の人物かどうかは不明ということで、アーサー王自体が伝説の人物なのです。

ところで、城に一番接近できる自動車道の行き止まりに一軒のB&Bがありました。B&Bにしては3〜4階建てのえらく立派な建物だなあと思い、外壁をよく見ると”Tintagel Castle Hotel”という文字のはげた痕跡がくっきりと残っていました。推測するに、かつては城を売り物にした立派なホテルだったのでしょうが、経営難で閉鎖の憂き目にあい、現在はその建物がB&Bとして活用されているのだろうと思われます。そのB&Bが現在は流行っているのかどうか不明ですが(営業はしていたように見受けられました)、幽霊ホテルのような不気味な佇まいでした。

というわけで、城まで行けなかったのは残念だったのですが、ティンタジェルという村自体が、幹線道路から外れた断崖沿いにある異次元空間のような村でした。文字通りひなびた田舎村で、この村の郵便局は歴史的建造物らしく、局舎がナショナル・トラストにより管理されています。
また、ケルト海に面したこの村では、この日のような悪天候も珍しいことではないようです。ツーリスト・インフォメーションにいたおじいさんに「A happy new year!」と声をかけて、せっかく来たのに悪天候で残念だったと言うと、一言「Typical」という言葉が返ってきました。
是非とも再訪してみたいという強い思いを残して、この印象深い田舎村を後にしました。

(エクスムーア国立公園)
ティンタジェルから北上してデヴォン県に入ると、半島北側の根元あたりにもう一つの国立公園であるエクスムーア国立公園があります。ダートムーア同様、なだらかな丘陵地帯に果てしなく原野が続いている国立公園です。

今回の旅の最後の宿は、エクスムーア国立公園内にあるファーム・ハウスでした。ファーム・ハウスというのは、文字通り農場が経営している宿のことです。豊かな自然環境や動物たちとのふれあい、新鮮な食材を用いた食事が共通する特徴のようです。
我々が泊まったファーム・ハウス(Twitchen Farm)はオーナーの女性がシェフとして修行を積んだ経験のある方で、美味しい食事を売りの一つにしていました(大人一食£17.5と立派な値段です)。実際、一泊目の夕食にでたシェパーズ・パイ(挽肉とマッシュポテトの混ぜあわせをパイで包んで焼いたもの)は、その辺のパブなどで食べるものと比較にならないほど美味しいものでした。

個人的な印象としては、コナン・ドイル「バスカビル家の犬」やアガサ・クリスティ「スタイルズ荘の怪事件」などミステリー小説の舞台ともなった英国らしい暗いイメージのダートムーア国立公園と比べて、より起伏に富み、海も望めるエクスムーア国立公園の方が、明るく美しい公園だと感じました。
エクスムーア国立公園は、周辺にも魅力的な場所があります。公園の東の端っこには、蒸気機関車を走らせる保存鉄道(West Somerset Railway)があり、長男へのサービスとして、往復一時間程度の汽車の旅を楽しみました。また、その近くにある小さな街ダンスター(Dunster)は、城を中心とした上品で美しい街でした。ナショナル・トラストに管理されたダンスター城は、今回時間の都合で訪れることができませんでしたが、機会があればまた来たいと思いました。

イングランドとウェールズには11の国立公園があります。エクスムーア国立公園は、我々にとって六番目に訪れた国立公園ということになります。

(コーンウォール旅行雑感)
旅行中の宿ではテレビを見る機会が多くなりますが、12月28日から1月3日までの旅行期間中は、津波のニュースばかり見ていました。BBCは津波発生の直後から、ほぼ一日津波関連のニュースを流し続けていました。
当初のBBCのニュースタイトルはAsian quakeでしたが、途中からAsian tsunamiに変わっていました。私の記憶では、どこかのメディアでは当初、High tidal wave(高潮)とかいう表現を使用していましたが、事ほど左様に多くの英国人の津波に関する知識は限りなくゼロに近いものだったようです。それだけに、ニュースで流れる映像と日ごとに膨れあがる被害規模の大きさに対して、人々は恐怖と驚愕の念を募らせていたようでした。BBCニュースはテーマを刻々と変えながら(被災地の現状→英国人被災者とその家族の状況→被害の実態→津波の仕組み→緊急援助の態勢)、津波関連のニュースを伝え続けていました。
そのようなメディアでの重点的な報道に応えるかのように、草の根レベルでの募金活動等がもの凄い勢いで起こっていたのも印象的でした。エクスムーア国立公園内のコンビニ(日本の田舎にあるパパママ・ストアのようなもの)に立ち寄ったところ、カウンターに「本日○時から○○において、Tsunami appeal集会があります」という手書きのパンフレットが置いてありました。

ところで、英国内で料理のおいしい地方はどこか?という難題に対する多くの方の共通見解として、「コーンウォール地方はちょっと違う(なかなかおいしい)」というのがあります。我々としても、この見解に一票投じたいと思いました。他の地方とさほど大きな違いがあるわけではありませんが、フィッシュ・アンド・チップスひとつとっても美味しいと感じられました。
この地方の特産物のひとつに、コーニッシュ・パスティという軽食があります。ロンドンなどでも売られており、ロンドンで食べた時は全く美味しいと思わなかったのですが、ランズエンド近くの街ペンザンスで食べたパスティはとても美味しかったです。ロンドンで売られているパスティとは全く違う代物でした。
もうひとつ、英国定番のお菓子スコーンに必須のクロテッド・クリームの原産地がコーンウォール地方です。ダートムーア国立公園内のティールームでスコーンを食べたのですが、そこで出てきたクロテッド・クリームは非常に濃厚で、味は同系統ながら、やはり都会のスーパーで売られているものとはかなり違う代物でした。私は好きでしたが、妻は少し気持ち悪くなっていたようでした。


2005年01月17日(月) 第73-75週 2004.12.27-2005.1.17 コーンウォール旅行1

年末年始は、コーンウォール半島への一週間の旅行に出かけていました。コーンウォール半島は、英国の南西に突き出た半島で、デヴォン県とその南隣のコーンウォール県から成ります。

(ダートムーア国立公園)
半島の真ん中あたりにダートムーア(Dartmoor)と呼ばれる国立公園が広がっています。ムーア(moor)とは、辞書を引くと「原野」とか「荒野」となっているとおり、ほとんど樹木のない原野が延々と広がっている場所で、ダートムーアは火山活動の結果できた土地のようです。標高は600メートルほどで、何もない原野の丘陵地帯が連続してうねっている風景の中、羊やポニーがところどころで草を食べています。
広い原野の中には、ハイキングの拠点となる町がいくつかあって、それらの場所を起点としたハイキング・コースが網の目のように整備されています。整備といっても、単に歩く道があるだけなのですが、英国人は、それらの全く何もないウォーキング・コースを、老若男女を問わず完璧な装備をして延々と歩くというレジャーを楽しむ国民です。
今回、我々もそれなりの装備をして、6か月の娘は背中の背負子に背負って、二時間程度のハイキングを楽しみました。12月のムーアは、正直言ってかなり寒いのですが、念の入った防寒対策を施した服装で黙々と歩く多くの英国人とすれ違いました。

(エデン・プロジェクト)
コーンウォール県の真ん中あたりに、「エデン・プロジェクト」なる名前の巨大な植物園があります。これは、途方もない規模の発想で作られた植物園で、まさに「プロジェクト」という名にふさわしい代物です。
サイン・ボードに従って、主要道路からかなり外れた場所まで車を進めると、突如として白い球状の巨大な温室が5〜6個連なった風景が目に飛び込んできます。SF映画の中の火星基地を思わせるこれらの温室群は、世界各地の自然環境を再現しているというもので、つまりここを訪れると世界中の主要な植物をすべて見ることができるということになっています。このような植物園は、世界中でココだけのようです。
学術的な価値や志の高い植物園なのでしょうが、世界中の植物を見ることができるということ以上でも以下でもなく、とくに植物に対して関心が高くない人にとっては(私がそうなのですが・・・)、かなり僻地であることもあり、わざわざ訪れる意味があるかどうかはやや疑問、というのが正直な感想でした。したがって、新たな観光の目玉として鳴り物入りで数年前に完成したらしいこの植物園の観光ビジネスとしての将来性には懐疑的にならざるを得なかったのですが、驚くべきことに、我々が訪れた際、入場に30分以上も待たされる長い行列ができていたのも事実です。やはりガーデニング大国の国民は、みんな植物を愛しているのでしょうか。

(ランズ・エンド)
コーンウォール半島の突端はランズ・エンド(Land’s End)という地名になっており、文字通りグレート・ブリテン島の最西端にある地の果ての場所です。英国内でも有名な観光地のひとつで、岬の突端には、ランズ・エンド・ホテルという有名ホテルとちょっとしたアトラクション施設があります。
我々は、岬の突端から内陸側に歩いて30分程度の場所にあるB&B(Mayon Farmhouse)に宿を取りました。数百年の歴史を持つという古い石造りの建物で、二階に5部屋ほどがある小さなB&Bでした。ホストは30歳代の若い夫婦で(奥さんがシャロン・ストーンに似たえらい美人でした・・・)、数年前にこの建物を購入し、宿の経営を始めたそうです。ホスト夫婦には二人の女の子供がいて、うちの長男とキャア、キャア言って仲良く遊んでおりました。

このB&Bでは、ちょっとしたトラブルに見舞われました。宿に到着した日の夕方、夕食を食べに車で出かけようとしたところ、キーを回してもエンジンがウンともスンともいわなくなっていました。ちょっと前まで快調に走っていたのに、地の果てにてうちのポンコツ車もいよいよ果てたのか、という実に厄介な事になりました。
さし当たり、その日の夕食をどうするかという問題に直面していたのですが、宿の周囲は街灯のない真っ暗闇で、歩いていける距離の場所にレストランは到底みつからず、当日の夕食は結局あり合わせのお菓子程度で済まさざるを得ませんでした。
翌朝、B&Bのホスト夫婦に事情を説明したところ、幸運にもたまたま近くにあったガレージ(自動車修理工場)を紹介してもらうことができました。朝一でガレージに車を預けた後、徒歩でランズ・エンドの岬を回り、ランズ・エンド・ホテルで昼食をとってから宿に戻り、祈るような気持ちで再びガレージに行くと、とりあえずエンジンがかかる状態にしてもらうことができていました。旅を続行することができると分かって一安心しました。ただし、スターターが作動しないため、エンジンをかけるたびにボンネットを開けなければならないという面倒なことになりましたが。
ところで、そのガレージの名前はFirst and Last Garageと言います。この近辺の商店やパブなどのほとんどが「ファースト・アンド・ラスト〜」という同じ名前になっていました。つまり、半島の先っぽから来ると最初のガレージでありパブであり、逆に内陸側から来ると最後のガレージでありパブであり、ということを意味しています。面白いネーミングです。

ランズ・エンド近辺で必見だと思ったのは、入り江の岸壁沿いにある野外劇場ミナック・シアターです。ある一人の女性がコツコツと石を集めてきて、数十年の歳月をかけて手作りで完成させたというその劇場は、そのような特殊な由来以上に、ロケーションが素晴らしい劇場でした。凄い場所に劇場を作ったものだと、訪れた誰もが感心することでしょう。


DiaryINDEXpastwill

tmkr |MAIL