-殻-

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2001年07月21日(土) 人工知能の純粋

さて今日は、映画「A.I.」について熱く語ろうの巻。
彼女に書いたメールからの抜粋です。

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A.I.とはご存じの通り、Artificial Inteligence、つまり「人工知能」の略であります。ストーリーとしては割とありがちな構成だったな、というのが率直な感想です。
というか、ロボットものの王道なストーリーだったと思うんですけど。

この中では「ピノキオ」が象徴的に使われていますが、Davidはまさにピノキオそのものなんですねえ。それを、最先端のSF技術でリアリティ(もちろん空想に基づいたファンタジックなリアリティですが)を加えたのがこの映画かと。

言っちゃ悪いかも知れませんが、ある意味使い古されて陳腐な感じすらするこのテーマ。ロボットが感情を持ったらどうなるのか?これは随分と語られてきたことです。
そしてそれをスピルバーグが撮るとこうなる。映像が売りの映画であると俺は思います。

しかし、しかしです。

陳腐でありながらなお重大なこのテーマ。
このテーマを今、この時代に敢えて持ってきたスピルバーグの狙いはなんでしょ?
キューブリックの原案をただ単に映像化するということだったのかな?

俺としてはね、これをちょっと違ったところから考えたのね。
「ロボットが愛情を持つ」ことがテーマなんじゃなくて、「人間の愛情って何?」っていうことなんじゃないか?ってね。

まず、最初Davidは病気の子供のかわりで、ほんとにただのロボットだった。ここではまず、「人間」と「ロボット」の対比がされているわけで、導入部としてはごく自然。そしてそれが変わるのは、「愛情」を「刷り込まれ」てからだよね。ここで、Davidの母親に対する愛情は「プログラムされて」いる。でも、人間の感情っていうのもある意味「プログラム」なのでは?もちろん原始的に持っている感情もあって、経験で育つ感情もあって、そのバランスが人格を作るわけだけど、じゃあ「感情」ってなんなの?感情っていうのは人間だけが持つもの?それは一体なんでできてるんだろうね。

「魂」っていう言葉がある。
「肉体」っていうものがある。

人間とロボットをわけるものって、この「魂」と「肉体」の二元性だと思う。人間の物理的存在の基盤っていうのは、生体組織という名の「物質」で、ロボットではそれが人工的なマテリアル。でも、もし全く同じモノが作れるくらいに技術が発達してしまったら、物理的な部分での差異はなくなっちゃうよね。じゃあ、「人間」には「タマシイ」があって、ロボットにはない。と言い切っていいのかな?

いや、つまりね、ロボットにタマシイがあるかないかじゃなく、「人間にタマシイはあるか?」っていうことなのね。意識と肉体は本当に分離した概念なのか?ってこと。

「意識」っていうのは「肉体」っていう物理的基盤に寄って支えられた「構造」だと思う。この「構造」っていうのがなかなか難しいところなんだけど。そう、例えば、今俺の目の前にはコップがあります。コップの縁は円いよね。でも、「まる」っていう「物体」がそこにあるわけじゃないよね。そこにあるのは「コップ」っていう名前で呼ばれている(定義されている)ガラス(っていう名前で呼ばれている・・・以下略)でできた塊。それの縁を、俺たちは「円い」って認識してるに過ぎないよね。

高校か中学で哲学をやったと思う。その中で「イデア」っていう概念があったのを覚えてる?本当の円は実在しない。円っていう概念は概念の中でのみ真実であって、決して実在しないんだよ。でも、みんな円の定義は知ってる。だからコップの縁を見て「あ、円い」って感じる。確かにそこに、「円」がある。

これって意識のあり方と似てる。
脳とか神経とかそこに流れる電気とか、いう人に言わせたら俺たちの意識ってモノはそういう電気的な「現象」に帰結されちゃうんだけど、大事なのはそれが統合されて「全体」として作り出す「構造」なんじゃないかな。それを「意識」って呼んでるんだと俺は思ってる。だから、この意識ってやつが俗に言う「魂」と同じものなら、人間ってものは「肉体」と「魂」に分けちゃいけないものなんだよね。それは同じモノの裏と表。互いが互いを補完して初めて意味を持つ。構造を持たない物質はないし、物理基盤無くして構造は認識できない。

なにが言いたいかって、つまり「何が違うの?」ってことね。
この映画の世界においては、存在としての人間とロボットの差異はない、と仮定して考えていい。

さて話は戻って。

俺が感じたのは、病気が治って帰ってきた息子が「人間味がない」ってこと。印象が薄い。Davidとどっちが人間的かって聞かれたら、迷わずDavidだよね。

母親に捨てられそうになって泣いてすがったり、自分のアイデンティティが崩壊しそうになって錯乱したり、自分が「オリジナルではない」ことに絶望して死さえ選ぶ。そしてやっと見つけたBlue Fairyに向かって、何千年も祈り続ける。永遠の可能性よりも束の間の母親のぬくもりを選び、死への恐怖を感じさせないように優しく接する。そして、そのぬくもりの中で眠りにつく。それをDavidは選んだ。これは「彼の意思」であって、経験によって成長した彼の感情がそうさせた。

「プログラムされているが故にあまりにも人間的である」っていう、この強烈な皮肉。

それがこの映画の大きなテーマなんじゃないかと。
巷で言われているような、「ロボットが愛情を持ったらこうなるっていうことを描いた映画」じゃなく、これは「人間があまりにも人間的でなくなったことへの痛烈な批判」なんじゃないのかな。人間の欲望が行き着くところまで行き着いたその結果生まれた、人工的な純粋。「これが愛情じゃないのなら、何を以て愛情を定義するのか?」
をスピルバーグは問うているような気がします。

愛情ってなんですか?

あなたを大切に思うことが愛情ではないのですか?
何をおいても守りたいと思うことが愛情ではないのですか?
いつまでもそばにいたいと願い続けることが愛情ではないのですか?

なら、Davidの感情は何なのですか。
人間って何なんですか?

そして、「あなたは人間ですか?」と。


純粋に愛することは、かくも難しい。
俺は、彼に誇れるほど人間ですか?





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