ひびたわ。
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2002年03月28日(木) SIDS〜娘が天に召された日 あとがき


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。


しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





『SIDS〜娘が天に召された日』

昨日をもって、一区切りとさせていただきました。


葬儀を終えて大阪に戻ってきて3号のいない現実を

あらためて突きつけられ、頭の中を巡るのは

その悪夢のような数日間の出来事の繰り返しでした。

ビデオテープを再生するような鮮明さで襲う記憶と

3号がいないという喪失感はなんともしがたいものでした。

一人で抱え込んだままで、元気なふりなんてとても出来ない。


私には、自分のサイトという場がありました。

体の中に渦巻く記憶と感情をおもてに出したいと思いました。

同情して欲しいなんて気はさらさらありませんでしたが

とにかく自分自身に出口を作りたかった。


読んでくださる方が、楽に読める代物ではないのを承知で

私は必死で綴りました。

綴るからには、自分で納得の出来るところまで書こう、

だから事実と感情を、素直にそのままに書きました。

書くという作業は、少なからず冷静さが要求される作業です。

ともすると、暴走しそうな感情の歯止めにもなってくれました。

ただ、過剰に感情をこめると書けなくなると思ったので

淡々と、小学校低学年児の作文みたいな文章で(苦笑)




ただのエゴです。

だから、ある程度の覚悟はしたうえで書きました。

こんな事を、詳細に、書くなといわれるかもしれない。

お涙頂戴じゃないといいつつ、結局同情されたいんじゃないのかと

言われるかもしれない。

何を言われてもかまわないと思いました。

だって何を言われようと、3号が亡くなったその事実、

それ以上の辛さも衝撃も受けようがないのですから。



だけど。

1件もこなかったです。今日現在まで、1件も来てません。

最終的には連日100人を超える方が読んでくださっていたようですが、

BBSも、頂くメールも、本当に温かい言葉ばかりでした。

一緒に泣いてるよといってくださる方々、ご自身の辛い経験を

話してくださった方々、どんなに辛くても読むから、最後まで書いてと

励ましてくださった方々。


嬉しかったです。

自分自身のやり場のなさを、吐き出させてもらったようなものなのに、

こんなにも、励まして、支えてくれようとする人たちがいる。

見知らぬ私や3号のために涙してくれる人たちがいる。

ほんとに嬉しかったです。




今回、いろんなことを教えてもらいました。

その中のひとつに、皆つらい思いを抱えて生きているということがあります。

自身の子供を亡くした、という人だけでも、

今回私に聞かせてくださった方は、10人を下りません。

私などより、もっともっと、つらい思いをされている方も

たくさんいらっしゃいます。

今まで、子供が亡くなるというようなことは、正直どこか他人事でした。

SIDSの知識はあっても、我が子に降りかかるなど、

夢にも思ったことはありませんでした。

そういう体験を聞くにつれ、私は日々綴りながら、少々おこがましいことを考えました。

こうやって、詳細に綴ることで読んでくださった方が、

こういうことは全くの他人事ではないのだと、

過剰に恐れることはないけれど、誰にもありうることなのだと、思って下さったら。


そして、今回幅広い年齢層の方が読んでくださったのですが

特に、高校生、大学生くらいの年齢の方が意外に多く読んでくださったようで、

その、若い方たちが、生きるということ、命ということについて

あらためて考えたという意見を下さったこと、とても嬉しく思っています。


なかなか遺族感情は赤裸々に語られることは多くありません。

それは話す側の辛さももちろんありますが聞き手の辛さもまたあるからだと思います。

私とて、現実に誰かと面と向かって、こんな詳細な話は出来ません。
(せいぜい親がいいところでしょうか)

この、Webというツール、表現の場が与えられたことにも感謝したいと思います。


はじめは、特別な形で残すつもりはなかったのですが

隠すことでも、忘れることでもないので

新しいコンテンツにするなりして残したいと思います。





そして何よりも、閲覧は全くの自由でありながら

この厳しい内容の手記を読んでくださった皆様に心からお礼申し上げます。

全部読んでくださった方、一部なりと読んでくださった方、

メールをくださった方、BBSにお言葉を下さった方、

ご自身のWeb日記等で、この日記への思いを綴ってくださった方、

リンクを張ってくださった方、

押しにくい位置の、デフォルトのままの投票ボタンを押してくださった方、

本当に、本当に、ありがとうございました。

どれほど皆さんに励まされ、支えていただいたか判りません。



よく、心無い言葉をかけられたといった遺族の言葉を聞きますが

私は親類、友人などもそうですが、医療関係者、警察関係者、葬儀社の方など

見知らぬ方にも本当に暖かく接していただきました。

(もちろん少しの例外はありますけど(苦笑))

そしてネットの皆さんにも本当に温かい言葉を頂きました。


私も3号も、幸せだと思います。

恵まれてるなと思います。

虚勢ではなく、そう思えます。

人は一人では生きられませんね。

そして人生に、無意味なことはありませんね。

それが喜ばしいことであれ、今回のように、身を切るばかりの辛いことであれ、

けして無駄ではないと思います。

無駄にはしたくないと思います。




明日から、ひびたわ。は、3号が亡くなる前のような

基本的にばかばかしい(?)日記、雑記に戻る予定です。

もともと、自分自身、日記くらい笑えるようなくだらないのを

力抜いて書きたいなと始めたひびたわ。です。
(以前の日記はもっと愚痴っぽかったので)

その姿勢は今後も変わらずいきたいと思っています。

こんな状態でそんなばかばかしいのが書けるのかといわれそうですが、

まあ何事もやってみませんと。

多少なりと落ち着いてはきたので少しづつ遺品なども整理しなくてはなりません。

だから今度は逆に、日記くらいは笑えたらいいなと思います。

無理せず、時には3号を偲んでしんみりするかもしれませんが、

明日からはエンピツジャンルは日常/生活に戻します。

気が向いたら、今後も覗いてくださると、とても嬉しいです。



本編ばかりかあとがきまで長くてごめんなさい。

本当に、ありがとうございました。

これからも、どうぞ宜しくお願いします。



最後に、世界中の子供達が、健やかに育ってくれますように。


2002年03月27日(水) SIDS〜娘が天に召された日(26)


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





納骨と法要を終え、慌しく帰阪しました。

位牌は、今回は持ち帰りました。

やはり今回も、抱えて帰りました。

(浄土真宗は、位牌は不要という考え方だそうです。
法名などは、過去帳という記録帳のようなものに記しておきます。
しかし家へきてくださっているお坊様も、
数年前に息子さんを亡くされたとき、周囲に未練がましいといわれながらも
2年余り位牌を処分できなかったとおっしゃっていました。
私もせめて1周忌までは手元におきたいと思っています)


「ばぶ、ただいま。ってあんたもついて来てたんやろね。

あっち行ったりこっち行ったり忙しいなあ」

葬儀の後帰阪したときとはまた違う感情で遺影に話し掛けました。




今日で、35日がたちました。

でも、今でもまだ、衣類などは整理できないままでいます。

写真も、皆にも配らなくてはと思いつつ、眺めるだけの繰り返しです。

3号誕生のとき、産院で撮ってくれたビデオも、2号が見つけるたび

見たいというのですが、辛くてとても見る気になれず、隠してあります。


それでも、あえて言います。

私は、大丈夫です。

ちゃんと、笑ってます。子供達とバカをやってふざけたりしてます。

切なさも、悲しさも、消えようはないのですが

だけど私は、大丈夫。


3号が亡くなった直後、私は、泣き狂いながら言いました。

「まだ、まだ1年しか生きてないのに!」

看護婦さんはいいました。

「違うよ、違うよ、お腹の中にいるときからだから、その時から側にいたんだよ・・」

もちろん、その期間をあわせても、2年にも満たない時間です。

それでも、少しでも長く側にいたんだといってくれる気持ちが嬉しかったです。

そう、あの子がお腹に宿ってから、2月21日のあの時間まで。

幸せだったんです、本当に。

あの子がいてくれて、本当によかった。

だから。

あの子を亡くして、本当に辛くて悲しいけれど、

はじめからあの子がいなければ、こんな悲しみは味わわずに済んだけど、

あの子の命が宿ってくれたから、与えられた喜びが数え切れないくらいあって。

だからこそ、ひたすらに悲しみに暮れて生きる、

そうしたいと思う気持ちもどこかにあるのだけど、

あの子は多分、そんな私を望まないから。

私の泣き顔なんて、一度も見ないで逝ったのだから。

あの子がいてくれたことを、亡くなってしまったことも含めて、

マイナスなだけのことにはしたくない・・・・






ばぶちゃん。

お母さんのところに、きてくれてありがとう。

短い時間だったけど、本当にありがとう。

こんなに早く逝ってしまうと思わなくて、何もしてあげられなくて

駄目なお母さんでごめんね。

君がいなくなって、本当に本当に悲しくて、寂しいけど、

でも君が側にきてくれて、本当に本当によかったよ。

お母さんが君に与えてあげられたものはあまりなかったと思うけど

君がお母さんに与えてくれたものは、本当にたくさんあるね。

そしてこれから先、君の姿は見えなくとも、

君が側にいたこと、君がいなくなったこと、そのすべてが、

これから先もお母さんに、いろんなことを与え、教えてくれるんだよ。

お母さんは、ちゃんと笑って元気に生きていきます。

ばぶが生きていたころと変わらないくらい、元気に生きていきます。

時々は泣くかもしれないけど。

ちょっとカラ元気のときもあると思うけど。

でも、お兄ちゃんたちに話し掛けるのと同じように、

ずっと君に話し掛けるよ。

「ばぶー。お茶入れたよ、一緒に飲もうか」

「ばぶー、ちょっとそこまで行って来るよ。お留守番しててね」

そうやって、毎日を、過ごしていくから。

それは切ないけど、でも心のどこかが、ふわんて暖かくなるんだよ。


親より先に死んでしまうのは、最大の親不孝だって言葉があるんだ。

でもね、お母さんはね、ばぶは親孝行な子だと思ってる。

そりゃ、お母さんよりずーっと長生きして欲しかったけど。

でもばぶは親不孝なんかじゃないよ。

いい子だったね。

ほんとにいい子だったね。

ううん、今でもほんとにいい子だよ。

お母さんの側にきてくれた、それだけで、ありがとう。

たくさんの笑顔をくれて、本当にありがとう。

そして、大事なこと、いっぱい教えてくれて、本当にありがとう。

お母さんはたいして何もしてあげられなかったけど。

お母さんの、最高のありがとうを、君に贈ります。


ありがとう。




押すと、3号の写真が開きます。見たくない方もいらっしゃると思うので
この形式にしました。投票ボタンではありません。




***********************************

読んでくださって、本当に、本当にありがとうございます。

本日で、一応の区切りとしたいと思います。

日に日に、読んでくださる方が増え、本当に感謝にたえません。

明日、御礼も含め、総括的なことを書かせていただきます。


2002年03月26日(火) SIDS〜娘が天に召された日(25)


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





毎日毎日、日記にあのときのことを綴り、

毎日毎日、読んでくださる皆さんに多くの励ましを頂きながら

日々は過ぎていきました。


遺影におはようというところから始まり

おやすみというところで一日が終わる。

慣れないお経を毎日あげ、花を飾り、香華を手向け。


遺品となった洋服を整理しようと箪笥の引き出しに手をかけてはやめ。

写真の整理をしようとデジカメのデータを開いてはまたすぐに閉じ。


遺影を見ては、抱っこしたいなあという1号。

救急車のサイレンを聞くたびに、ばぶが乗っていった車だという2号。

皆が、寂しさと悲しさと切なさを抱えながら

それでもちゃんと、笑うことも忘れずに、

日常を過ごしていきました。



1ヶ月が、たちました。

あの日から、1ヶ月。

昨日のことのような、ずっと前のことのような。

本当に、時間の感覚のよく判らない1ヶ月でした。







そして忌明けの日が近づき。


納骨の日がきました。

お手次寺に葬儀の後納めたときは納骨そのものの辛さもありますが

亡くなった直後の衝撃、火葬の衝撃などが大きい中での

流れ的に済んでしまった感がありました。

でも今度は、お墓の中に、自分の手で納めるのです。



真冬に戻ったような寒い日でした。

赤く膨らんだ桜のつぼみも、あまりの冷気に開けなくなっているようでした。

それでも、雨か雪といっていた天気予報はかろうじてそのときは裏切って

かすかに薄日が差していました。

しかし墓地は山の上、寒風吹きすさぶ、というような状況で

お坊様がお墓の前で経をあげてくださいました。

「では、お骨を納めてあげてください」


墓石の後ろに回り、くぼみのついた石を引き抜きました。

10cm×5cmくらいの大きさの穴があきました。

主人と私、ひとつづつお骨の入った袋を紐解き、開けました。

(本当はひとつだけお墓に納めてひとつは京都の本山に納めるのですが
幼い子供ということもあり、ふたつともお墓に納めることにしました)

真っ白な、きれいなお骨が入っていました。

ほとんどは、薄くて、紙のようだったり、

細かくなってしまっていて、どこの骨かもわからないのですが、

いくつかは、ああ、ここかな、と思う部分もありました。

大き目のお骨を一つ一つ取り出しながら、お墓の中に納めました。

取り出せないほど細かいものは、手のひらにだして、

握り締めるようにしながら、お墓の中に納めました。

物凄く切なくて、物凄く愛しかった。

本当に、本当に、たとえお骨でも、かわいいです。

こっそり一つ持って帰りたいくらい、かわいいと思いました。

(ちゃんと全部納めてきましたけど)

1号と2号も、お骨をひとつづつ手にとって、お墓におさめました。

家族4人の手で、お墓に納めてあげることが出来ました。


*******************************

読んでくださって、本当にありがとうございます。

明日が本当の忌明け、35日になります。


続きます。


2002年03月25日(月) SIDS〜娘が天に召された日(24)


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


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家中のいたるところで3号のにおいがするような気がしました。

干していった洗濯物、さらには洗う前だった3号の衣類。

(色物だけ2,3日まとめて洗うので、洗ってないのがまだ

置いてあったんですね。それも帰ってきてから気付きましたが)

その、3号の匂いがまだする衣類を抱きしめて泣きました。

封を切ったばかりの新しい紙おむつ、片付けてなかったおもちゃ、

毎日座っていたベビーラック、ミルクを飲んでいたマグ、

ご飯を食べていたキティちゃんのお茶碗、コップ・・・・・


3号が、生活していたその証が、そのままに残っていました。

当たり前です。

先週この家を留守にする前日まで、3号はここで生きて暮らしていたのですから。

元気に暮らしていたのですから。








その夜は結局、寝室では眠らず、別室で主人も私も休みました。

寝室に入るのが忍びなかったことと

警察から戻ってきた布団を干したり出来なかったので。







翌日になって1号が熱を出しました。

1号はわりと発熱しやすく、また疲れが出たのだろうと様子を見ていましたが、

夜になって40度近くまで熱が上がってきました。

それでもいつもなら、朝まで様子を見るなりするのですが、

一度こんな風に、子供を亡くしてしまったりすると駄目ですね。

今までなら余裕をもてたことが、もてなくなりました。

まだ8時過ぎで、近所の病院の夜間外来がやってる時間だったので

連れて行きました。

結局その夜私は、1号と一緒に眠りました。

一晩中、何度も何度も様子を見てました。

翌日も、7度近くまで下がったのに

やはり心配でもう一晩、1号と一緒に眠りました。


私も主人もあの日以降、夜中に子供達2人の寝息を確かめてから

就寝する癖がついてしまいました。





週明け、1号をもう一度念のため病院へ連れて行ったあと、

福祉センター(という名称ではないんですが)へ行きました。

3号の医療費の請求をずっとためてあったのでその精算と、

児童手当の資格取り消しの申請のためでした。

抹消用の書類を2通ばかり書きました。

「では、これで処理しておきますので」

紙切れ2枚ばかりで、消えてしまうんだなあ・・・


健康保険証の3号の名前にも赤線が引かれました。

こうやって一つ一つ、3号がいた形跡が、この社会から消えていく・・・・




そういう数少ないながらの手続きも終え、完全な日常が戻ってくると

なによりも、家事が気味が悪いほどスムーズに進んでしまうことに

3号がいないことを思い知らされました。

1号や2号は、まだ幼いとはいえ、もうそれほど手がかかるわけではありません。

寝る間を見計らってしていた家事が、自分のペースでスムーズにできてしまう。

食事の支度一つにしても、足元でじゃれ付く3号がいなければ

いとも簡単に終わってしまう。

その、できてしまう、終わってしまうことになんともいえない寂莫感を覚えました。


何度も何度も、3号があの寝室で寝ているような錯覚にとらわれました。

そうして、飾ってある遺影や位牌を見て、現実を確認させられていました。


寂しさとまだ冷めやらぬ衝撃とがないまぜの混乱の中で

私はこの日記を、毎日綴っていきました。

毎日毎日、ビデオが再生されるような記憶を文章にしていきました。

**********************************

読んでくださって本当にありがとうございます。

大変長くなってしまいましたが、ようやく一応の区切りがつけられる

めどが立ってきました。

もうしばらく、お付き合いいただけると嬉しいです。

もうしばらく続きます。


2002年03月24日(日) SIDS〜娘が天に召された日(23)


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


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3月1日。

私達は帰路につくことにしました。

車には3号が乗っていたチャイルドシートがついたままでした。

そのまま大阪に付けて帰るのはあまりに辛いので

こっちで処分してくれていいとはずしておろしました。

(1号のときから使ってる年代物なので

どのみち3号が使わない年齢になれば処分するつもりでした)



うちは3列シートタイプの車なのですが、

3号が生まれてからずっと1号2号が3列目のシート、

私と3号が2列目のシート、主人が運転席に座っていました。

しかしこの日から、3号が生まれる前までのように

私は助手席に、子供二人は2列目に座ることになりました。

ひとつひとつのことに、3号がいないことを思い知らされます。



私は、遺影と位牌と2つの遺骨のうち片方を風呂敷包みにし、

胸に抱えて車に乗りました。

義父母、義妹たちは名残惜しそうでした。

また来月来るねと、出発しました。


その日もまた、とてもいい天気でした。

こんな事でなければ、絶好のドライブ日和だったでしょう。

だけど、私の心は大阪に近づくにつれ重くなりました。

胸が痛くなりました。

胸の風呂敷包みをぎゅうっと何度も抱きしめました。

部屋の中には、乾いてなかった洗濯物が干したままです。

もちろん、3号の衣類も。

寝室には、警察から戻されてきた布団が、そのまま置いてあります。

3号が最後に眠っていた。

それらのことを思うだけで、どうしようもなく切なくなりました。



家に着くのが怖いような。

だけど早く帰りたいような。




マンションの前に、着きました。

私は中に入ると真っ先にリビングのサイドボードの上を片付けました。

すっかりあいたその場所に、

大事に持ち帰ってきた遺影と位牌と遺骨を並べました。

そして仏具屋で購入してきた、香炉やリンも置きました。

お寺で貸していただいた、阿弥陀様の小さな掛け軸もかけました。

(我が家は今のところまだお仏壇がありませんので・・・)

「ばぶ。ここにおってな」


荷物を運び込みました。

郵便受けには郵便物がたまっていました。

その中の2通に、手が止まりました。

1通は写真館からでした。3号が100日のころに写真をとったので

1歳の誕生記念に撮影を、という案内状でした。

もう1通は、3号を産んだ産婦人科医院からでした。

よく、銀行とかからのお知らせである、ペリペリ剥がすと

見開きになる葉書。(名前知らなくてごめんなさい)

あの形式だったので、開いてみると、

「・・・ちゃん1歳のお誕生日おめでとう」

「どれだけ大きくなったかな」

の文字に、生まれた直後の3号の写真・・・

PCで処理された、キレイな葉書。

うわ、っと涙が溢れるのがわかってすぐに閉じてしまいました。

こんなときでなければ、とても嬉しかったことでしょう。

だけど今は、辛かった。

昨年の今頃、こうして生まれてきたのに。

本当なら今頃、1歳の誕生日を終えて楽しい毎日のはずなのに。


その葉書をしまいこんで、私は片付けを続けました。

**********************************

読んでくださって本当にありがとうございます。

今日の更新、遅くなってごめんなさい。

夜8時半頃自宅に着きました。


今日、忌明けの法要を終え、お墓への納骨も済ませてきました。


冬に逆戻りしたような、寒い週末でしたね。


続きます。


2002年03月23日(土) SIDS〜娘が天に召された日(22)


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


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その夜は、深い眠りに落ちました。

数日まともに寝てなかったわけだから当たり前ですが、

こんなときでも、ちゃんと眠れて、ちゃんと食べられる。

もちろんそうでなくてはならないし、そうしようと思ってしているのだけど

なんだか空しい気もしました。



朝になり、お坊様が見えて、お経を上げてくださいます。

初七日までは毎日これが続きます。

合間にはまた、お悔やみに来て下さる方がいたり。


主人の会社の福井支店にも挨拶に行きました。

昨年2月まで、主人はここにいましたから、

本当に多くの方が、通夜、葬儀に参列してくださいました。

同時に私も、結婚前まで勤めていた職場です。


挨拶に行ったのはいいんですが。

皆さん腫れ物に触るようでした。

遠くから目があって、お互い頭を下げるんですが近寄ってくれない。

というかこちらがかける隙もない。

気持ちはとてもよくわかるのですが、正直困りました。


どうにかこうにか上役さんがちょうどいらしたので立ち話ですが

お礼を言って帰ってきました。



そんなふうに、事務的に慌しい時間が過ぎていきました。


しかしそれも葬儀後2日もたてば、落ち着いてきます。

(成人が亡くなると、もっと手続き的なことは多いでしょうが

いかんせん1歳足らずの赤ちゃんでは、社会的な手続きはそう多くありませんから)


私は、3号亡きあとはじめて一人で外出しました。

近くのショッピングセンターです。

義母はもう会社へ行っていたので食事の支度をするため

食材を買いに行きました。

そのまえに、大阪から来るときぼやけた頭で荷造りをしたせいで

自分の靴下などがほとんど入ってなくて困っていたので

とりあえず1足でも買おうかと、衣料品のフロアへ行きました。


近所のショッピングセンターなのですが、しばらく来ない間に

かなり売り場の位置が変わっていました。

「えっと靴下・・・なんでもいいや、とりあえず」

うろうろ探しているうちに、下着売り場に迷い込みました。

子供用の。

かわいい靴下、肌着、小さなブルマ。

・・・・・・・・・・・・・。


涙がこみ上げてきてしまったので、結局靴下も買わずに

1Fの食料品売り場へ逃げるようにエスカレーターを降りました。


食料品を買い始めても、胸が苦しかったです。

無意識に、大人の献立を考えながら3号の食べるものを考えている自分にとまどいました。

離乳食の進みが速く、最近はかなりのものを食べられるようになっていました。

それでも完全に大人と同じとはいきませんから、

いつも買い物しながらその中から3号が食べられるものを

無意識で考える癖がついていたようでした。

そんなことを自覚したこともありませんでしたが。


挙句の果てにパン売り場のコーナーで3号が好んで食べていた

スティックタイプのパンを、全く何の疑問もなく、

あ、3号に買わなくちゃと籠に入れた後で、

違う、3号はもういないんだと我に返り、また逃げるようにその場を離れました。


浮かぶ涙を必死でこらえて、レジを通過し、駐車場へ走りました。

車に飛び乗って、泣きました。

田舎のショッピングセンターの平日の立体駐車場など

車の数はたかが知れてます。おまけに暗くてよく見えない。

人気のないのをいいことに、わあわあ泣きました。


あの子は、もういないんだ。

あの子は、もうここにいないんだ。

もうあの子のために、何にもしてやれないんだ・・・

かわいい服も着せてやれない。

美味しいものも食べさせてあげられない。

まだなんにもなんにも・・・・・







日常こそが辛いのだと、そこで解りました。

本当は2週間程度、福井に滞在するつもりでしたが

このときに、本当に辛いのは大阪に帰ってからだと思い、

早めに帰阪することに決めました。

今現在、生活の拠点が大阪にある以上、福井にいるのは非日常です。

非日常の中で、あいまいにごまかして日をすごし、

大阪に帰ってもう一度はじめから悲しみをやり直すのは嫌だと思いました。

現実は、早く受け止めたほうがいい・・・

*********************************
読んでくださって本当にありがとうございます。

結局まだ大阪にいまして、PCから更新です。
(旦那の仕事の都合で・・・)

昨日、今年初めての桜を見ることができました。

まだ3分咲き、といったところでしたが

やはり桜はいいですね。咲き誇ってもどこか儚げな風情がいいですね。

今年は例年より早咲きの桜、皆さんも逃さず堪能してくださいね。

つづきます。


2002年03月22日(金) SIDS〜娘が天に召された日(21)


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





4時から、お手次ぎのお寺に納骨に行くことになっていました。

皆にお茶を淹れたり、1号2号と甥っ子二人が家中走り回ったりしていたので、

バタバタしてる間に時間は過ぎていきました。

車3台に分乗して、お寺に向かいました。

私はお骨の入った箱のうち一つを白い布に包んで持っていきました。



20分あまり走って、お手次ぎのお寺に着きました。

といっても私もはじめて来るところです。

山あいの、かなり築年数の経っていそうなお寺です。

お寺の周りには、立派な杉が何本も生えていました。

あちこちに雪も残っていて、今回福井に帰って初めて

本気で寒いと思いました。


お寺の中に入り、控えの間に通されて、お茶を頂きました。

子供達はあいも変わらず元気で

菓子盆のお茶菓子を競争して食べていました。

お行儀のいい話ではありませんが、

子供達の賑やかさに救われていました。



しばらくしてから、本堂のほうへ向かいました。

読経が始まり、また順に焼香をしていきます。


連日の儀式に疲れてきてもいたのでしょう。

ぐずりはじめた2号に気を取られていたこともあり、

まるで他人事のような流れの中で、読経が進みました。



読経が終わると、いったん表に出て、納骨堂へ入りました。

8畳程度の広さでしょうか。

皆で膝を寄せ合い、畳に座りました。

ここでまた、経が上げられます。

読経が終わるとお坊様が、主人に声をかけました。

「喪主の方、お骨をこちらへ入れてください」

南無阿弥陀仏の掛け軸のかかった下のところに、お骨を入れる場所が

あったようですが、最後列に座っていた私からはよく見えませんでした。

そこに、袋ごとでなく、お骨だけを入れるように指示されたようでした。


かしゃん。かしゃん。

私のほうからは手元は全く見えませんでしたが、

その音で、お骨が入れられたのがわかりました。

ああ本当に、お骨になってしまったんだとまたあらためて思いました。

その乾いた音が、とても、とても切なかったです。




自宅に戻りました。

最後まで付き合ってくれた近しい親戚も皆帰っていきました。

私の両親も、帰っていきました。

私と主人は休む間もなく、近所にあいさつ回りに出ました。

お供えのお下がりを持って義母にも手伝ってもらいながら

一軒一軒回っていきます。

全部で、15軒くらい回ったでしょうか?

皆さんがいろいろな励ましの言葉をくださいました。

胸にしみる言葉の数々とともに、正直複雑な思いを抱く言葉もありましたが(苦笑)

励ましてくださるお心は、とてもありがたく思いました。




その夜私は、1号2号と甥っ子二人まとめて4人と一緒にお風呂に入りました。

まあさすがにちょっとした戦争状態で

動物園のサル山もかくやという感じだったのですが

それでも、そんな中でも、3号がいないのが不思議でした。

いつも浴槽のふちにつかまってちょこんと立っていた3号が、

そこにいないのが、不思議でした。

一人でお風呂に入らなくてよかったなあと思いました。


************************************

読んでくださってありがとうございます。


香川で痛ましい事件が起きましたね。

この事件、解剖結果等に関していろいろ思うところはあるのですが・・

とりあえず今は、亡くなられたお子さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


明日、明後日(の予定なんですが)福井に帰省します。

3号の忌明け法要のためです。数日前倒しになりますが。

また、ひとつの区切りですね。

更新のほうはこのあと書くことが出来たら、

携帯を使って更新しますし、出来なければ携帯からの短い番外更新で(苦笑)

そういいながらどちらも出来なかったらごめんなさい。


皆様よい週末を。



2002年03月21日(木) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





家に戻ると座る間もなく、精進落しになります。

私は母に手伝ってもらいながら着物だけ脱ぎ、洋装の喪服に着替えました。

そのまま近所の鮮魚店へ向かいました。
(福井の鮮魚店というのは、全国的にも珍しいと思うのですが
通常の鮮魚販売をしながら、建物の2階などにお座敷を持っていて
そこで宴席などが行えるようになっていることが多いです。
料理も当然出すわけで、仕出屋さんを兼ねていることもあります。
今回のような場合や、法事、又は忘新年会など各種に利用されます)

もうみんな席に着いていました。

私と主人と義父が並んで、義父が代表して皆さんに挨拶を述べました。

私達3人は、一人ずつに、この3日間のお礼を言いながら

お酌をして回りました。


なんだか、3号が亡くなったのが信じられないような時間でした。

ただ親戚縁者で食事してるような。






30分・・・もっと過ぎたでしょうか。

義母と、義弟が入ってきました。

私は義母の側に駆け寄りました。

「お義母さん、ありがとの。。ごめんの、悪かったの、辛いことさせて」

「ゆーきさん・・・」

義母は涙ぐんでいました。

義母は昨年、自分の母親の骨を拾い、

そして今年、自分の孫の骨を拾ったわけです。

私は、義母を抱きしめるように義母の背をさすりながら

ごめんの、悪かったの、ありがとうの、と繰り返しました。

何度も繰り返しました。



義母がちょっと落ち着いたので席に促し、

義弟にも何度もお礼を言って、二人の話を聞きました。

小さな、真っ白な、お骨のこと。

そうだね、もうばぶは、お骨になってしまったんだね・・・





精進落しの席がおひらきになり、自宅に急いで戻りました。

自宅では、義祖母が留守番をしてくれていました。

仏間に入ると、白い祭壇には、遺影と位牌とともに、

お骨の入った紫の袋がそれぞれ窓付きの紙箱に入って、

3つ、並べてありました。


「おかえり・・ばぶ・・ちっちゃくなっちゃったねえ・・・」

そっと、その箱を手にとってなでました。

こんな風になってしまっても、やっぱりかわいいと思いました。

我が子って、骨になってもかわいいなあと、思いました。



ごく近しい親戚を残して、半数近くが帰っていきました。

私の妹も、子供がそろそろ限界だろうということで帰っていきました。


***********************************

読んでくださってありがとうございます。

今日で、あの日から1ヶ月がたちました。

すごく不思議な気分です。

昨日のことのような気もするし、ずっと前のことのような気もする。

いまだに、寝室で寝ているような勘違いをしたり(苦笑)


昨日1号に、ばぶが生きてたら、明後日(22日)で1歳1ヶ月やね、といいましたら、

死んでしまっても1歳1ヶ月やといわれました。

そうですね。そのとおりですね。


毎日読んでくださってる方も、

初めて来てくださった方も、

時々覗いてるよという方も、皆さん本当にありがとうございます。


つづきます。



2002年03月20日(水) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


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両脇を、父と母に抱えられながら、外へ向かいました。

父も、母も、号泣していました。

父がこんな風に泣くのを見たのは、初めてだった気がします。

引きずられるように表に出て、マイクロバスに向かいました。


到着した、別の喪家の人たちがすれ違いざまに視線を投げてくるのが

わかりましたが、そのときの私には、どうでもいいことでした。


バスに乗り、ひとしきり泣くと、多少落ち着いてきました。

1号と2号は、義父が見てくれていました。


2時間もすると、お骨は焼きあがってしまいます。

私は、自分が拾うのかと思っていたのですが

喪主や私は、このあとの精進落しの席で、接待をしなくてはならないので

皆と一緒に帰らなくてはならないとの事で

義母と義弟に、骨上げを頼んでありました。

(この辺の流れは地域差があるかと思います)



主人がバスに乗り込み、バスは出発しました。


私はしばらく、隣に座った母と話をしていました。

しかし、運転席の隣に一人で座ってた主人が泣いているのが見えて

座席を立って主人のそばへ行きました。

通夜、葬儀と主人は、努めて冷静に振舞っていました。

その緊張の糸が切れたのでしょう。

「辛いなあ・・」

声をかけて、主人の背中をすりました。

主人は、右手の親指を、左手で握り締めていました。

それは、さっき、点火スイッチを押した指でした。

「あの、スイッチを押した感覚が・・・消えない・・・・。

おれが、おれが・・・終わらせた・・・」

むせぶように泣く主人にいいました。

「違うよ・・違うよ、終わらせたんじゃないよ・・・

あなたが、あの子を送ってあげたんだよ・・」

ずっと、主人の背をさすっていました。



バスは斎場に戻りました。

私達はバスを降り、忘れ物等がないか確認して、

自宅に戻ることにしました。

斎場から駐車場の車まで歩きながら私は空を見上げていました。

本当に、いいお天気でした。

きれいな、青い空でした。

白い雲が、ふわり浮かんで、子供が絵に描くような、きれいな空でした。

「どうした?」

主人が声をかけてきました。

「ううん・・今ごろばぶ、空昇っていってるんかねえ・・」

「そやなあ・・・」

あの子がお空に昇るのが、こんな春のような日で、よかった。

今までよりは、青空を見るのがほんのちょっと切なくなるかもしれないけど。

でもやっぱり、いいお天気でよかった・・・。




私があんまりぼんやり空を眺めてるので

車の中から見ていた両親が心配したようです。

気が狂っちゃったんじゃないかと。(苦笑)

大丈夫だよと声をかけ、私達も自宅のほうへ戻りました。

*********************************

読んでくださって本当にありがとうございます。

読んでくださるだけでも十分にありがたいのに、

ブックマークしてきてくださっている方、Myエンピツに入れてくださってる方、

メールをくださる方、掲示板にお言葉を下さる方、投票ボタンを押してくださる方、

文中リンクを張ってくださった方々。

皆さんに、励ましてもらってます。甘えさせてもらってます。ありがとうございます。

明日で、あの日から、1ヶ月です。

まだしばらく、続きます。








2002年03月19日(火) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


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告別室、という部屋へ誘導されました。

南無阿弥陀仏とかかれた小さな掛け軸の前に設置された棚に

遺影と位牌を置きました。

その前に、棺も置かれました。


お坊様が最後の読経をなさいました。

(と思うのですが、泣いてて記憶が定かじゃありません。)

係員の方が「最後の、お別れをしてください」と、

棺の蓋を開けました。


ほんとに、ほんとに、これで最後なんだ。

頬を撫でさすり、頬に口付けました。

かわいいなあ、かわいいなあ。

3号が亡くなってから送り出すまでの間

私が一番数多く口にした言葉は「かわいい」だったと思います。

かわいくてかわいくて、かわいくて・・・・

愛しい愛しい愛しい、私の娘。

この段階になっても、3号の頬はつやつやして

ぷくぷくと柔らかかったです。

生きている、ようでした。

起き上がってくれないかと思いました。

どんなにびっくりしてもかまわないから、むくりと起き上がってくれないかと。

どうしてどうして、手放さなくてはならないんだろう。

「いい子でな、元気でな、バイバイな・・・」

皆が順に棺にお別れをするのでいったん離れたものの、

また棺にすがりつき、泣き狂っていました。

もうこのままでもいい、そばにおいておきたい。

動かなくてもいい、眠ったままでもいいから。

「なんで、なんで、こんなかわいいのを、燃やしてしまわなあかんの!」











時間は、来ました。



係員の方が棺の蓋を占め、告別室の扉を開け、奥へと誘導します。


奥の部屋には、炉が、何機か並んでいます。


貨物用のエレベーターのような、その扉が開けられます。



棺が、入れられました。


扉が、閉まりました。


私は、泣きじゃくりながら3号の名前を叫び続けていました。


息をつぐ間も惜しいまでに、3号の名前を叫び続けました。


身を切られる辛さというのはこういうのをいうんだと思いました。


いいえ、わが身を切り刻んだほうが、楽だと思いました。


嫌。

嫌。

嫌。


どうして、どうして、どうして!




父と母が、やはり泣きながら私を支えてくれていました。

私は、これ以上見たくない、という思いと、

私が見届けずして誰が見届けるんだ、私の子だろうという思いと、

その他のもうわけのわからない感情が自分の中で渦を巻いていました。

ただやはり、最後の最後の一番最後まで

私が一番近くにいてやりたいという気持ちが、最終的には強かったように思います。

倒れちゃいけない。

気を失っちゃいけない。

絶対に、最後まで見届けてやらなくちゃ・・・・


「喪主の方、スイッチを押してください」

正しい言葉は覚えてませんが、そのようなことを言われ

主人が扉の前のスイッチへ向かいました。

母が私に、「Hさん(主人のことです)スイッチ押すんやて。

かわいそうやからあんたも側いってあげね・・」

母もまた、気が狂わんばかりに泣きながら、私を促しました。


よろよろと、主人のそばに行きました。

主人の親指が、点火スイッチのボタンに触れたまま押せずにいました。

主人の背中にすがりつきました。

私は、一瞬無意識に眼を閉じたのでしょうか。

次に見た瞬間、点火を証明するランプが、点灯していました。


「きゃああああああーっ」


全身を突き抜けるような衝撃でした。


絶叫して、私は、その場に座り込みました。

3号の名前を叫びながら、泣きました。

皆が、泣き叫んでいたようでした。

1号が、ぼろぼろぼろぼろ泣いていました。

抱きしめました。


扉の前に移動された遺影と位牌。香炉からは香の煙が立ち上っていました。

床にへたり込んだまま、数珠を握り締めて

震えながら手をあわせたことを、なんとなく、覚えています。





**********************************

読んでくださって、本当にありがとうございます。

今日の分は、読んでくださった方々にも、いつもに増して厳しい内容だったかと思います。

こんな記憶を、押し付けてごめんなさい。

こんな事細かに書くなといわれるかもしれません。

でもこんな詳細な記憶を閉じ込めておくのも辛いので。

甘えてますね、ごめんなさい。

でも、本当に、本当に、聞いてくださってありがとうございます・・・

つづきます。


2002年03月18日(月) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


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今日は、祭壇に一番近い場所に座りました。

今日は、4つの椅子に主人と私と1号2号で座りました。

いつも、葬儀のときのお経というのは通夜に比べて長く、

実際長く感じるものなのですが、

やはり気持ちが違うのでしょう、あっという間でした。

私の隣に2号が座っていたのでじっとしていられない彼に

気をとられていたということもあったかもしれません。



導師様が少し下がった場所に着座され、読経を続けられる中、

司会者の人の指示に従い、近親者から順に焼香をしていきます。

私たちは当然、一番最初です。

自分たちが終えた後、次々焼香に出てこられる弔問客に頭を下げながら、

式の終わりの時間が近づいてくるのに恐怖していました。


全ての方が焼香を終えられ、導師様が退場されます。

司会者の方が、弔電を読み始めました。

(ネットでお付き合いさせて頂いてる方からも何人か弔電頂きまして、

本当にありがとうございました)

何十通もの弔電。お名前を順に読み上げていきます。

終わらないで。終わらないで。

まだ、終わらないで・・





時の流れというのは、本当に無情です。

だからこそ救われ、癒しとなることも事実なのですが。

「一般の弔問客の方は、出口のところでお待ちください。

最後までお見送りをお願い致します。

ご親族の方、どうぞ最後のお別れをしてあげてください」

祭壇から棺が下ろされ、蓋が開けられました。



数時間ぶりの、そのいとおしい表情を見るだけで

涙が溢れて止まりません。

祭壇に飾られていた花々も下ろされてきて、棺に入れるよう指示されました。

花を、入れていきました。

たくさんたくさん、入れました。

涙が止まらなくて、3号の名前を、呼び続けました。

かわいいなあ、かわいいなあ・・・かわいい・・・・

大阪の家から持ってきていたテディベアやぬいぐるみも入れました。

まだ、新しい小さな靴も。

「靴、入れとくからな、あっち行って、練習して、歩くんやよ。

まだこっちでは靴はいて上手に歩かれんかったけど、あっちで練習して

上手に、よいよいって歩くんやよ・・・」

まだ、2、3度しか履いてなかった靴。

家の中ではかなり歩くようになっていたけれど、

外で靴を履かせて地面に下ろすと、違和感があるのでしょう、

その場に固まって嫌がっていました。

両脇を支えて歩かせてやると、こわごわ足を出していました。

1号と2号が、3号の両手をもって、私が脇を支えて、

歩かせたこともありました。

私は、わあわあ泣きながら、3号を撫で続け、

覆い被さるようにして棺にすがりついていました。













火葬場へ、向かわなくてはいけません。

私は位牌を握り締め、遺影を持ってくれていた実父に

抱えられるようにして外へ出ました。


外は、陽の光が降り注ぎ、春のようでした。

会館の前で、主人は喪主挨拶をしました。

私と、主人と、実父は3号の棺を乗せた専用車に乗り込みました。

クラクションを鳴らして、車はゆっくりと出発しました。




火葬場へ向かう前に、自宅のほうへ向かいます。

「ほら、ばぶ・・・おうち見えるか?バイバイやなぁ・・・

ちゃんと覚えておくんやよ・・・」

自宅の前でもクラクションを鳴らして、今度こそ火葬場へ向かいました。


火葬場は、昨年主人の母方の祖母が亡くなった時と同じ場所です。

そのときはマイクロバスに乗ってついていったわけですが

結構遠いと思いました。

でも今回は、読経と同じく、あっという間についてしまった気がします。

時間というのは無情なまでに変わらないものですが、

感覚というのは残酷なまでに感情に左右されます。

時折、自分たちの後ろの棺を眺めながら、話し掛けながらの道のりは

辛く悲しいものでした。



見覚えのある建物の前に、車は止まりました。

まだ、昨年建てられたばかりの、新しい火葬場です。

私たちの車の後ろをついてきていたマイクロバスから

親類縁者が降りてきました。


私たちは係員の方に促され、棺とともに建物の中に入りました。




*********************************

読んでくださって本当にありがとうございます。

桜の便りが、ちらほら聞こえてきていますね。

今年は3号とお花見しようと思っていたのがこんなことになり

残念なのですけど、まあ空からピンクの綿菓子のように咲く桜を

見てくれたらいいかなと思っています。

私はせめて桜の香りのする紅茶をお供えしたいと思います。

桜の花びらの浮かぶ紅茶を。


春も、そろそろ本番ですね。


つづきます。


2002年03月17日(日) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


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皆、順番に引きあげていきました。

1号2号も、義母たちと一緒に帰っていきました。

私と主人と義父は、明日の焼香順、弔電の読み上げ順などの

打ち合わせをしなくてはならず、その間控え室の3号を見守り、

斎場の蝋燭番をしていてくれた私の両親と妹も最後に帰っていきました。


その夜は、私はもう、泣きませんでした。

枕もとには、3号が眠っている。

蝋燭を見に斎場へ行けば、遺影の3号がにっこり笑っている。

控え室に戻っては眠る3号に話し掛け、

またしばらくうつらうつらし、携帯のアラームを4、50分おきにかけて

斎場に行っては蝋燭と線香の様子を見ながら遺影と話をして。

あまりに安らかな寝顔と、あまりににこやかな遺影に、

私は3号が死んだという意識がどこかへ行ってしまっていたのかもしれません。

いつもと同じように、ただいつもと違う場所で、寝ているだけ。

どっちの部屋に行っても3号がいる。

理解に苦しまれるかもしれませんが、ある種幸せな感覚すら味わいながら

私はその夜を過ごしました。



このまま夜が、明けなければいいと、思いました。


朝が来たら。


この世から、本当に、3号の体は消えてしまう・・・・













時間は、いつもと変わらず、流れていきます。

その流れを早くすることも、遅くすることも、出来はしません。

窓から明るい光があふれます。

いい天気です。

朝は、来ました。




義母と義妹と入れ替わりで自宅にいったん戻る予定だったのですが、

どうにも遅れている様子で、今日は着物を着なければならない私が

間に合わなくなりそうだったので、私と主人だけ先に自宅に戻ることに。

まだ控え室で眠る3号と斎場の遺影に、また後で来るからねと

何度も何度も声をかけて、会館を出ました。

外は本当にいい天気で、放射冷却で車のガラスが凍り付いていました。

「いい天気で、よかったね」

自分で言っておきながら何がいいのかわかりませんが・・

でも、せめて、お天気だけでもよくてよかったと思いたかったのだと思います。



私たちが家に着くのと入れ替わりに、義母と義妹が出て行きました。

私は喪服と小物を引きずり出し、着物を着るのに格闘をはじめました。

(昨日は洋装だったのです)

まっさらの、喪服。まっさらの黒帯。黒の帯揚げも帯締めも草履も、何もかも、新品。

長らく一人で着付けなどしてなかったのですっかりやり方を忘れていて、

なかなか帯が結べなくていらいらしながら、

いらいらと同時に切なさを噛み締めていました。

我が子の為に着る喪服なんて、こんな悲しいものはない・・・・



どうにか支度を終えて、今日は1号2号も一緒に、斎場へ向かいました。

斎場に着くと、親戚縁者はもうほとんどそろっていました。

実母が声をかけてきました。

「今日の新聞でてたの・・あんなん出さんとけばよかったんでないの」

地方在住の方はお分かりかと思うのですが、地方紙というのは

お悔やみ欄に県内の死亡者をほぼ全て載せるようなところがあります。

福井の場合は、通夜や葬儀の会場、時間、喪主などすべてが載っています。

今回、住民票が福井にあるわけでもないので初めから載らないように

と話をしていたのですが、結局載ってしまったようでした。

「うん・・らしいね。なんかごたごたして載っちゃったらしくて」

朝、自宅に戻ったときに、誰かが載ってるといっていたんですが、

私は辛いのであえて見てきていませんでした。

(後日、恐る恐る見てみましたが・・年齢欄に零歳と書かれているのを見ると

なんともいえない気持ちになりました。)

事実を客観的に見せ付けられるのは

その事実の渦中にいるときはなかなか受け入れがたいものなのだと感じました。




読んでくださって本当にありがとうございます。

毎日多くの方が読んでくださり、メールや掲示板でお言葉をくださり

本当に感謝しています。

まだまだ、寝る前に涙してしまったり、

遺品となった洋服や、写真などの整理も、見るに忍びなくて出来ずにいるのですが、

それでも日中は、子供たちと笑い、元気にしています。

季節の変わり目、皆さんもご自愛くださいませ。

続きます。



2002年03月16日(土) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





喪服に着替えて、1号と2号は義妹に任せたまま、

慌しく会場へ戻りました。

それぞれ着替えに戻っていた、私の両親はじめ親戚の方たちが

もうかなり集まってきていました。

みんな遺影を見て、また、涙していました。



バタバタと、細かい確認などをしている間に時間は過ぎていきます。

弔問客が次々と来てくださいました。

久しぶりに会う人たち。

入り口のそばで、主人、私、義父、義母と、並んで頭を下げました。


本当に、たくさんの方が来てくださいました。

遠方から駆けつけてくださった方々も何人もいて、

本当にありがたく思いました。


お坊様が、入場されて、読経が始まりました。

何度も聞いたことのある経が、読まれていきます。

そして、通夜の席では必ず読まれる御文章、『白骨の章』。

(もう一度断っておきますが、うちは浄土真宗本願寺派です。
福井、しかも私の住んでいたあたりは、まさに真宗王国でして、
どうしても浄土真宗の通夜、葬儀に出ることが多く、耳にする機会が多いのです)

「・・・されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり、

すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに閉じ・・・」

ほかの時に聞いても、胸に迫るこのくだりがよりいっそう胸を締め付けました。

21日、元気に遊んでいたあの子。

たった2時間の間に、息絶えていた、あの子。

ベッドから抱き上げたときの顔が鮮明に蘇る。

ハンカチをかみ締めて、泣いていました。

嗚咽をこらえることが、出来ませんでした。




お坊様が退場されました。

喪主挨拶になりました。

「本日は御忙しい中御会葬いただきましてありがとうございます。

長女・・・は、1歳の誕生日を目前に控え、乳幼児突然死症候群でこの世を去りました。」

ここまで言ったところで、会場のあちこちからため息が漏れました。

主人は最後まで、きちんと挨拶を述べました。

通夜のこの日、主人は涙を見せませんでした。

どうして?と後で聞きましたら、

遺影の写真見てると、頑張れって言われてる気がしたからと言っていました。

主人にとってもあの遺影は、やはり元気の素です。



焼香を済ませた弔問客が帰っていかれます。

また、迎えるときと同じように、お見送りをしました。

しかし、今度は涙が止まらず、泣きながら頭を下げ続けていました。

弔問客の方も、何人もの方が涙を見せてくださっていました。

かける言葉がないけれどといいながら、

何人もの方が声をかけていってくださいました。

私の友人たちも、泣きながら、私の背を撫でていってくれました。



弔問客が皆帰られて、親戚縁者だけが残りました。

別室で通夜ぶるまいの巻き寿司などを皆がつまんでいました。



その夜は、私と主人と、義父が、泊り込むことになっていました。

斎場は畳でなく、椅子を並べて座っていたので、

控え室のほうに、布団などが用意されていました。

そして本当はよくないのかもしれませんが・・・

祭壇に設置された棺を、私たちが寝る控え室に動かしてくださいました。

(こちらから申し出たわけではありません。
こんなことが出来るとも思いませんでしたし。
葬儀社の方が、見かねて下さったのでしょうね。
少しでもそばに居たいでしょうと便宜をはかってくださいました。
本当に感謝しています)


控え室の一段高い台の上に、棺は置かれていました。

顔のところの扉だけ開けて(扉は開いてますが、中に

アクリル板みたいなのがあって3号に触れることは出来ません)

顔だけはきちんと見られるようにしておきますから

絶対に棺の蓋は開けないでくださいねと念を押されていました。



少し照明の暗い控え室で見ると顔色がよくわからないこともあって、

本当に、いつもの寝顔でした。

眠っているのが、棺の中なのが不思議なくらいでした。



私の妹が、一時間あまりも棺のそばに立ち尽くして泣いていました。

彼女には娘がいます。(私にとっては姪っ子です)

3号より半年ばかり早く生まれた子です。

妹も、私も、二人が大きくなって一緒に遊ぶのを楽しみにしていました。

同い年の同性の従姉妹。

さぞかしいい遊び相手になったことでしょう。

妹は、自分の娘そっくりのその寝顔を見ながらいつまでも泣いていました。





読んでくださってありがとうございます。

本当に長くなってしまってて申し訳ないです。

続きます。


2002年03月15日(金) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





新品のジャンパースカートは少し大きくて、

これがぴったりになるのを見たかった、と思いました。

スカートから出ている小さな足。

握っている小さな手。

まだこんなに、こんなに、小さいのに。



葬儀社の方が、死化粧を施しました。

小さな唇に、紅をさしました。

本当なら、七五三のときにでも、初めての化粧をしてあげたかった。

最初で最後のお化粧。

「・・・かわいいねえ。かわいくしてもらって、よかったねえ・・」



葬儀社の方が皆のお線香を集めました。

小さな棺が、3号の隣に運び込まれました。

「お父さん、お母さん、最後ですから、抱っこして入れてあげてください・・」

私と主人は、顔を見合わせました。

主人が頭のほうを、私が足のほうを

横からそっと抱きかかえる形で抱き上げました。

そうっと、棺の中に寝かせました。



イヤ。

嫌。

どうして。どうして。どうして。

どうしてこんなかわいい子を、こんな箱の中に入れなきゃならないの!

どうして棺に納めるのが、この世で最後の抱っこなの!

涙が吹き上げるようにこぼれました。


白い菊の花を、小さな顔の周りに埋めていきます。

棺の中に横たわった3号から、離れることが出来ずに

ずっとその頬を撫でていました。

かわいいね、かわいいね、そういいながら撫でていました。

葬儀屋さんが、明日また持たせてあげたいものを入れますけど、

とりあえずひとつだけでもと言って、昨日義弟夫婦から貰った

スナッフィーの小さなぬいぐるみを、顔のそばに並べて入れてくれました。


棺の蓋をしめるのが嫌でした。

箱の中に閉じ込めてしまうようで。

「まだ明日、お別れできますから」

葬儀社の方はそういって、申し訳なさそうに、棺に蓋をしました。




棺を、葬祭場へ運びます。

私は位牌を持つように言われ、棺より先に家の外へ出ました。

男の人たち5人ばかりの手で棺が運び出されました。

専用車に、棺が乗せられました。(載せるとは書きたくないですね)

私と主人も、3号と同じ車に乗り込みました。

車は葬祭場へ、出発しました。




葬祭場へは、5分ばかりで着きました。

会場の入り口の前に、立てられた案内板に

3号の名前が書かれているのがとても切なかったです。

私と主人は3号の名前をとても気に入っていました。

名づけのとき、周りは違う名前も薦めたりしましたが、

私たちはこの名前がとても気に入っていました。

こんな形でこの名前が書かれているのを見ることになるなんて。


私はまた、位牌を持って一足先に会場へ入りました。

会場の設営は、ほぼ終わっていました。

バックライトで照らされた明るい遺影。

にっこりと笑うその写真に、すごくほっとしました。

祭壇は、とても可愛らしく作られていました。

前のほうは白い菊で埋められて、

遺影の周りは、ピンクに黄色に薄紫と、色とりどりの愛らしい花々で

埋め尽くされていました。

その遺影と花々の前に、棺が運び込まれました。

幼い3号にあわせ、せめて明るい祭壇に。

義父の友人でもある葬儀社の担当者の方は、

本当にあちこちに心を尽くして、精一杯の事をしてくださいました。


私と主人は、焼香を済ませ、一緒についてきてくれていた

すでに喪服に着替えている親戚の方に留守番をお願いして、

着替えるために家に戻ることにしました。

「じゃあね、ばぶ。また後で来るからね。待っててね」

遺影と棺に向かって声をかけて、会場を出ました。



読んでくださってありがとうございます。

続きます。


2002年03月14日(木) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


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ふっと意識が飛んだりして、時々うつらうつらしながら夜が明けました。

夜中2度ほど義母がきて、しばらく話してたりしましたが。


朝から、昨日来られてなかった親戚の方が弔問にみえたり

お坊様がお経を上げに来て位牌を持ってきてくださったり、

バタバタしていました。

私は、ただ、3号のそばに座っていました。

時折泣きながらずっと3号のそばにいる私に、

主人の祖母や義父が、ゆーきさんがしっかりしなあかんと

声をかけてきます。

「わかってるから。一通り全部終わったらしゃんとするから。

悪いけどそれまでは気がすむまで泣いてやりたいし。

終わるまでは、3号のことだけ考えていたいから。」

その後義父は火葬がすむまで、義祖母が私にしっかりせなと言うたび

止めてくれていました。


1号2号は昨日やってきた甥っ子たち(彼らにとっては従兄弟ですね)と

遊ぶのに夢中で、男の子4人、大騒ぎしていました。

正直、火葬のあとまで1号2号のことは皆に任せていました。

皆が面倒を見てくれていたので、甘えさせてもらいました。

今は、今だけは、3号のことだけ考えていてやりたい。

何もしてあげられなかった3号に、

今してやれるのは、そばにいることだけ。


葬儀社の方から電話がありました。

昨日、遺影用にプリンタで印刷した写真を渡していたのですが、

どうもぼやけるから普通の写真はないかとのこと。

(これはプリンタ出力のだから云々というより、単に私のデジカメの

画素数が低い写真を、無理に引き伸ばしたからだと思いますが)

福井の家にも、デジカメでとってプリントして送ったものしかないし、

実家に問い合わせたりしてすったもんだしたのですが、

一応出来上がったものを見せてもらったら確かにシャープな線ではないものの、

逆にそれがやわらかい雰囲気で、とてもいい写真に仕上がっていたので

結局それをそのまま使うことにしました。

にっこり微笑む3号。

この笑顔を見ると、つられて笑ってしまいます。

今現在も、私の元気の素です。



時間は、過ぎていきます。

午後2時から、湯灌、納棺の手筈になっていました。

すごく嫌でした。

棺に入れてしまうのは、すごく嫌でした。

それでも時間は刻々と過ぎ、葬儀社の人がやって来ました。



葬儀社の方は、2人で来て、2人とも白衣を着ていました。

仏間と、続き間になっている和室いっぱいに、

来てくれていた親戚の人たち、皆が座りました。

葬儀社の人は、皆に、茶色いお線香を一本ずつ火をつけて配りました。

部屋中に香の煙がたちこめていきました。

私は、今までごく近しい身内(というか家族)を今まで亡くしたことがなく、

3年前に叔母を、昨年主人の母方の祖母を亡くしたときも、

湯灌や納棺には立ち会っていなかったのでこれが初めての経験となりました。

3号の眠る布団の上に、すっぽりと白い布をかけました。

(顔は相変わらず隠していません)

その白い布の下から手を入れてかけていた布団を引き抜きました。

それから、警察で引き取ったときからずっとくるんであった布と

タオルシーツも抜き取りました。

3号は、医大で解剖後、真新しい肌着(新生児用だったんで手足は出てましたが)を

着せられていました。新しい紙おむつもしていました。

それは私が先に確認していたので、葬儀社の人たちは

肌着から出ている手足だけを綺麗にしておこうといっていました。

白い布の下から手を入れて外からは見えないように、

薬品で濡らした(水ではなかったと思います)布で3号をきれいにしていきます。

私は、大阪から持ってきていた服を着せてもらえるように頼みました。

ピンクのパーカーTシャツ。デニムのジャンパースカート。

葬儀社の方は器用に、白布の下から手を入れて外から見えないように、

3号に衣服を着せていきます。

すっかり服を着せ終えて、はじめて白布を取りました。





読んでくださってありがとうございます。

続きます。


2002年03月13日(水) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





読経を終えたお坊様と明日の通夜、明後日の葬儀の時間などの

確認を済ませました。

そしてお坊様は、法名をくださいました。

(そのときは位牌をお寺においてきてしまったそうで

明日の朝持ってくるからと、とりあえず紙に書いてくださいました)

『釋妙尊』と書かれたそれを、なんだかとても不思議な気持ちで眺めていました。



ずっと3号に触れていました。

まだ2月の福井。

さすがに冷えてくるので部屋はファンヒーターを点けていました。

(まあ私は感覚が麻痺してまして、寒いも暑いも感じませんでしたが)

でも、3号は、体の上にドライアイスをのせてることもあって、

頬は触れるたびに冷たくなるように感じました。

それでも、顔色はつややかで、頬はやわらかかったです。

気持ちよさそうな、寝顔にしか見えない表情を見ながら話し掛けていました。

「ばぶ、ねんねしてるの・・・ずーっとねんねなの・・・起っきしないの・・・

なんでおっきせんのかなあ・・・もう起きようか?ばぶ、ねんね好きやったもんなあ・・

もうずーっとねんねしてるんか・・・・」



電話が、鳴っていました。

「ゆーきさん、○○さんて方から電話」

義父が呼びに来ました。

「え?あ、はい」

義父の言った名前はネットで親しくさせていただいてる方の一人でした。

驚きました。

掲示板で知って、かけてきてくださったとのこと。

以前、3号が生まれたとき福井から出した手紙の住所から

番号を調べてまで、かけてきてくださった。

ネットではお付き合いが長いとはいえ電話で話すのは初めて。

そのはじめてがこういうときに電話してきてくださるというのは

すごく勇気のいることでしょう。

そのお気持ちを、とても嬉しく思いました。



夜9時を過ぎ、両親と妹は自宅へ引き上げました。

それからさらに1時間以上たって、主人の弟一家が静岡から駆けつけてくれました。

「ゆーきさん・・・・」

義弟の奥さん(今後Kさんとします)が泣きながら入ってきました。

3号のそばに座っている私の隣に来て、

わあわあ泣きながら私の背中を抱きしめてくれました。

私も泣きながら、遠路駆けつけてくれたお礼を言いました。

「ゆーきさん、つらいの、つらいの、つらかったの・・・」

Kさんはひとしきり泣き、私はぽつぽつといきさつを話しました。

しばらくたつとKさんは、包みを取り出しました。

「これ、明日・・・ちゃん、誕生日やから・・。飾ってあげて・・」

リボンのかかった包みから取り出してくれたのは

ミッフィーとスナッフィー(ミッフィーの友達の犬です)のぬいぐるみ、

赤ちゃん用のビスケット。

「うわ・・ありがとう・・・。よかったねえ、ばぶ、もらったよ、ほら・・」

枕もとに、並べてあげました。

義弟も入ってきました。泣きながら、焼香してくれました。

甥っ子たちは戸惑いながら見ていました。

甥っ子も、上の子は1号よりひとつ上です。(下の子は2号の一つ下)

お正月に帰省したとき3号を見てとても喜んでくれていました。

ぼくも妹欲しい、そういってとてもかわいがってくれました。

すごく、ショックそうでした。



夜が、更けました。

私と主人は、3号を間にはさむ形で眠ることにしました。

昨夜一睡もしなかった主人はさすがに疲れが出たのでしょう、

布団に入るとすぐ、深い眠りに落ちたようでした。

わたしは、蝋燭をお線香が消えないようにと思っていたこともあり、

それ以前にやはり気が立っていたのでしょう、

体こそ横にしても、眠れず、また眠らなくてもいいやという気持ちもあり

3号を撫でては話し掛けていました。

静かです。

お線香の煙がゆるりとたちのぼり、蝋燭の火がゆれています。

何時だろう。

部屋に時計がなかったので、時刻を見るため

手元においていた携帯電話を開きました。

そして、ふいと思い立って携帯電話から自分のサイトのBBSを開いてみました。

(携帯対応のBBSなので、アドレスは前から入れてありました)

書き込みが、たくさんありました。

私がメールを打って告知を依頼した方は代理人として

とても適切な書き込みをしてくださっていました。

そしてそれに続いて皆さんが、驚きと、悲しみと、お悔やみの言葉を

懸命に書き込んでくださっていました。

一つ一つ読みながら、泣いていました。

「ほら・・ばぶ。みてごらん・・日本のいろんなところで

ばぶのこと、思ってくれてる人たちがいるんだよ・・・ありがたいね・・」

何度も、読み返していました。

言葉が、染みとおるようでした。

ディスプレイの、文字の羅列に過ぎないのに、

ちゃんと、ちゃんと、その向こう側にいてくれる人たちの気持ちが

痛いほど伝わってきて、3号を抱きしめながら泣いていました。









読んでくださって本当にありがとうございます。

続きます。




2002年03月12日(火) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


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高速を降りて10分ばかりで主人の実家です。

昨年春まで、私も子供たちも、ここに住んでいました。

家の前で、義妹が待っていてくれました。

「お姉ちゃんお帰り・・・大変やったね・・・」

「うん、ただいま・・ありがと、会社休んでくれたんやってね。」

「ううん・・」

義妹は3号を見て、うめくような声を上げ、涙を浮かべていました。


家に入ると、少し先に着いた義母が布団を敷いてくれました。

さっき大阪の家で寝かせていたベビー布団を

そのまま持ってきていたので、それを仏間に敷き、3号を寝かせました。

「ばぶ。ほら、帰ってきたよ、福井のおうち」



しばらくすると葬儀社の方が見えました。

3号の枕上に経机を据え、ろうそく、線香、香炉と次々に

用意をしていかれました。


通夜を翌日、告別式を翌々日に行うことに決めていました。

解剖から戻ってくる時間がはっきりしなかったせいもありますが

一日でも長くそばにいたいと思いました。

とりあえず今夜は、ずーっと3号のそばにいられる。

お腹の中に居たときも、生まれてからも

第3子で、あまり手のかからない子だった3号を

優先してあげられることは正直多くなかったです。

まだまだ手のかかるやんちゃな2号。

3号誕生まもなく大阪に移ったこともあり、

新生活の中で皆が戸惑う中、体こそあまり丈夫ではなかったものの、

普段は元気でよく寝てよく食べる3号に

手をかけてあげられた時間は、それほど多いものではありませんでした。

4月になったら2号も幼稚園に入園する。

そうしたら、お母さんと二人で、いっぱいお外にも行って遊ぼうね、

そんな風に思って、春を待っていました。

叶うことなく、逝ってしまいましたが。


だからせめて。

葬儀が終わるそのときまで。

ずーっと一緒にいるからね。そばにいるからね。一番近くにいるからね・・・



ご近所の方が玄関前に張られた黒白の幕を見て

慌てて次々とお悔やみに来てくださいました。

3号が生まれたときに挨拶に回り、お盆の帰省のときにも

何人かの方は顔をあわせていました。

亡くなった人の顔には、白い布をかけるものだと思っていたのですが、

3号が赤ちゃんだからでしょうか。

葬儀社の方も、布はかけませんでした。

おかげで、ただ布団に寝ているような3号を私は見つめていました。

やわらかい頬を、撫で続けていました。

誰もが、寝てるようにしか見えない、といって涙を流してくださいました。


しばらくして、お坊様が見えました。

枕経を上げに来てくださいました。

お仏壇に向かって、お坊様がお経を上げ始めました。

すると、しばらく止まっていた涙が、また溢れてきました。


どうして、どうして、自分の子供のために上げられてるお経を

聞かなきゃならないんだろう・・・・!

(宗教的な話を少ししますと、我が家は浄土真宗本願寺派です。
となると、浄土真宗の考え方からいくと
お経というものは故人のために唱えるわけではないようですね。
どうも追善供養という考え方をしないようです。
自家の宗教とはいえ、はっきりいってほとんど知りませんでした。
しかしこういった宗教的な考え方も、ここ数日いろいろ調べた結果で
ああ、そういう考え方もあるのかと思えるようになりましたが、
そのときにそんな理性的な考え方が出来るほど私は人間できてません)


自分の子供が息絶えて横たわり、そのための読経を聴く。

自分の生涯で、こんな場面に出くわすなんて、

24時間前には、想像だにしていなかったのに。

数珠を握り締めたまま、涙が止まりませんでした。




読んでくださって本当にありがとうございます。

連日BBSやメールで励ましの言葉を頂いて、本当に感謝しています。

こうしてあのときのことを綴りながら

私は少しずつ、少しずつ元気になってきています。

ありがとうございます。

続きます。


2002年03月11日(月) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


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マンションに帰ると、待っていた家族たちは

3号を見て涙を流しました。

赤ちゃん用の布団を引いて、3号を寝かせました。

(3号はこの布団ではほとんど寝たことがなかったのですけど・・)

布団に寝かせると、なおさら、ただ眠ってるだけのようでした。



私は慌しく帰省の準備の続きをしました。

この時点で、10日から2週間程度福井にいるつもりだったので

家中のコンセントを抜いたりしてました。

(結局はもっと早く帰ってきたんですけどね)

3号が帰ってきたことで、私は動けるようになっていました。



皆それぞれ支度をして、車に乗り込みました。

私は、父の運転する車に母と一緒に乗りました。

主人の車では後ろで私が3号を抱いて乗っていると、

主人が精神的に動揺するのではと思われたからです。

主人の車には、子供たちと、私の妹が乗りました。

義父母は義父の車に乗りました。


私の膝の上の3号が、かわいくてたまりませんでした。

かわいいねえ、かわいいねえといいながら頬を撫でていました。

重いとも、全く思いませんでした。

(車に乗り込む前、しばらく立って抱いていたときはかなりの重く感じました。

こんなに重くなるのかと驚きました)

両親と3号の話をしながら福井へ向かいました。

3号が生きていたのなら、どれほどか楽しい時間だったでしょう。

2度とかなわぬ、夢ですが。


本当は、遺体を搬送するにあたって
(と言う書き方はしたくないんですがあえて客観的に申し上げます)
葬儀社に依頼して専用車を手配するようにと警察側から事前に言われていました。
しかし大阪−福井間で10〜20万円あまりの搬送費用がかかること、
そして何よりも3号を抱いていてあげたかったので
どうしても専用車を使わなくてはならないのか聞きましたら、
死亡診断書(死体検案書)を持っていれば
一般車両で搬送してもよいと言われ、3号を抱いて帰ることが出来ました。
刑事さんも気持ちはよく判るから、そういうことならいいですよと
おっしゃってくださいました。(ただ解剖等している場合傷が開いて出血したりする
可能性もあり、出来れば専用車を使って欲しいという姿勢のようでした。)
もしも詳しい方がいらして、疑問に思われることもあるかと思いましたので
一応事情を記しておきます。




途中、母がしばらく3号を抱いていてくれました。

母も、とても辛そうでした。

我が子を亡くした私も、辛いですけど

孫を亡くしたこと、そして我が子が(私のことです)苦しんでいること、

その二つの事実で母も、父も、とても辛そうでした。

申し訳ないくらい、辛そうでした。



母が3号を抱いていてくれた間に携帯でメールを打ちました。

ネットで親しくさせていただいてる方の一人。

打ち込んだものの、送信しようかどうか、かなり迷いました。

何もいわずに、いたほうがいいんだろうか。

でも、毎日サイトを覗いてくださってる方は

黙って消えても、きっと心配してくださるだろう・・・

ただただ心配だけさせるのも・・・

だからってこんなこと聞かされても・・・

でも昨日(21日)の日記で今日が3号の誕生日だってことも書いて

親しくしてくださってる方は、絶対見に来てくださってるだろうし・・

葛藤しながら、でも結局、メールを送信しました。


「突然ゴメンね。実は嘘のような話なんだけど3号がゆうべ亡くなりました。

SIDSでした。こんなこと聞かされる方も辛いだろうから申し訳ないんですが。

暫く福井に帰ります。辛いことをお願いしていいですか。

うちの掲示板でそのむね伝えてください。

知らせるべきでないのかも知れませんが無言で姿を消すのもためらわれますので。

ゴメンね、宜しくお願いします。ゆーき。」
(一部編集割愛してますが、ほぼ全文そのままです。)

受け取られた方のショックを考えると送るべきか悩みました。

親しくさせていただいてる分だけ、ショックはきっと大きいでしょう。

そしてこうして掲示板での告知を依頼したことで

掲示板を見た方々のショックを考えると、これでいいのか悩みました。

でも、私が逆の立場だったら、知らせて欲しいから。

辛いそのときに、知らせて欲しいから。

甘えかもしれませんが、そう思って、送らせていただきました。

その方は、驚きの中で精一杯のレスを返してくださって、

後のことは任せてとおっしゃってくださいました。

ほっとしました。とてもほっとしました。



また、3号を抱かせてもらいました。

悲しい、つらいというより、かわいい、かわいい、かわいい、

そればっかりでした・・・・

車は、福井ICで、高速道路を降りました。








読んでくださって本当にありがとうございます。

続きます。


2002年03月10日(日) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





義父と、主人と、私、3人で警察署に向かいました。

駐車場に車を入れ、入り口へ向かいました。

入り口までには20段足らずの階段がありました。

目の前に、親子連れがいました。

3号より、1ヶ月か2ヶ月ばかり大きいのかな?という感じの女の子。

(3号が大きめでしたので、見た目はほぼ同じですが・・)

母親に手を引かれて、おぼつかない足取りで

一段一段、階段を上っていきます。

もう少ししたら、3号もあんなふうに・・・・

私と主人は、顔を見合わせました。

涙が出てくるのを、こらえるのが精一杯でした。



言われていた通り、刑事課へ向かいました。

刑事さんが出てきて、3号はまだ戻ってきてないので

もう少し待ってくれと言われました。

廊下に置かれた長椅子に、3人ぼんやり座って待ちました。


しばらくすると、もう一度刑事さんが出てこられました。

書類を(遺体と物品を引き取りますとか言う書類だったと思います)

書くように言われ、主人が書いていました。

そして、大学からの死体検案書を渡されました。

(こまかいことですが、この、死体検案書って言う名称がすごく嫌でした。

死亡診断書は判るのですが・・娘の遺体を、死体と呼ばれるのが

たとえ言葉としては正しくとも、ものすごく嫌でした)

死亡推定時刻は、午後8時半頃、となっていました。


・・・30分、早く見に行っていれば。

お風呂を沸かす前に、様子を見に行っていたら。

そんな思いが、顔に出ていたのでしょう。


「奥さん、お嬢さんは病死ですから。これ見れば、僕たちでもちゃんと

病死だってわかるんです。絶対に奥さんのせいじゃありませんから。

たとえ、布団に入って寝てなくても、お部屋で遊んでたとしても、

ソファの上に転がってTV見てたとしても、その頃の時間にはお嬢さんは

亡くなったんですよ。(この言葉は、実際は正しくないと思います。
SIDSは基本的に、寝ているときに起きるようですから・・・
ただ、刑事さんとしては、それほど私には責任がないんだということを言って、
精一杯の慰めを下さったのでしょう。実際のところどうなのか、
その時間起きていても、お風呂に入って寝かしつけたあと、朝になったら・・・
という可能性があったのかどうかも、私にはわかりません)

残念ですけど、お嬢さんの寿命やったんです。

奥さん、自分を責めたらあきませんよ。息子さんたちもいらっしゃるようやし、

辛いでしょうけど、しっかりしてくださいね」

「旦那さんもお辛いでしょうけど、奥さんを支えていってあげてくださいね」

「昨日から、何べんもお話聞かせてもらったりして、ほんとにすいませんでした。

こっちもこういう仕事なんですが、ほんと申し訳ないです」

刑事さんは、たくさん、精一杯の言葉をかけてくださいました。

この刑事さんのかけてくださった言葉で、私はかなり、救われました。

一所懸命、何度も何度も、奥さんのせいじゃない、といい続けてくださった

見知らぬ刑事さんに、感謝しました。

私のせいであろうがなかろうが、3号が亡くなった事実には変わりないし、

責任を感じずになどはいられませんが、

それでも、そのお気持ちに、感謝しました。



外へ出て、指定された場所に車を横付けにしました。

はじめに、昨日預けた布団、3号が入院時きていた衣類を返してもらいました。

そして。

刑事さんがバスタオルや布で体を丁寧にくるまれた3号を抱いてきてくれました。

私は3号を受け取りました。

「おかえり・・・・」

お帰り、お帰り、えらかったね・・

がんばったね、えらかったね・・・

いつもどおりの、寝顔でした。

冷たいだけで、全くいつもどおりの。

気持ちよさそうに、眠っている、顔でした。


刑事さんや、近くにいらした警察官のかた、皆さん敬礼して見送ってくださいました。



車の中、ずーっと抱きしめてほお擦りしてました。

私の涙で、3号の頬がぬれてしまいます。

冷たいのですが、3号の頬は、生きてるときとまるで変わらず

ぽちゃぽちゃと柔らかでした。

「かわいいなあ、かわいいなあ、お帰り・・・がんばったね・・・」

そっと頭をなぜて初めて解剖時の傷があるのに気づきました。

「・・・痛かった?ごめんなあ、えらかったねえ、がんばったねえ・・いい子やねえ・・」

でもその傷は髪の毛を剃ることも全くなくとても丁寧に処置されていました。

なるべく外見を変えないようにしてくださったのだろうと

ありがたく思いました。



とても不思議なのですが。

3号の遺体が帰ってきたら、きっとものすごく辛いと思ったんです。

でもね、嬉しかったんです。

ああ、やっと帰ってきたね、って。

そしてそれはきっと、3号の表情のせいだと思います。

全くいつもどおりの寝顔。苦しさのかけらもない。

それはそれは、気持ちよさそうに眠ってるとしか思えない顔。

半日ぶりにあった3号は、

ベットで見つけたときより、病院で亡骸を見たときより

いつもどおりの顔をしてました。

その顔を見て、3号は苦しまなかったんだと思うことが出来ました。

死んだというより、ずっと眠ってるんだと。

ずっとずっと、眠ってるんだと。

その3号自身の安らかな表情のおかげで、私はこの段階から少し持ち直しました。

親孝行な、娘だと、思っています。




読んでくださって本当にありがとうございます。

続きます。


2002年03月09日(土) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





帰省の準備を続けました。

自分のもの、1号2号のもの・・

恐ろしく手際の悪い準備でした。

頭の中身が全くまとまらなくて、

いったい自分が何をしているのかさっぱりわからなくて、

家の中をうろうろしながら荷物を詰めてました。


3号の衣服が入っている箪笥を開けました。

出産祝いなどでいただいて、まだサイズが大きくて手の通してないものも

たくさん入っています。

その中から、春になったら着せようと思っていた

新品のデニムのジャンパースカートを取り出しました。

それからよく着ていたピンクのパーカーも。

ほかにも何枚か、鞄に入れました。

ぬいぐるみも入れました。

友人が出産祝いに、3号の名前入りで作ってくれたテディベアも。

4,5日前に買って、まだ3度ほどしか履いてない、小さなピンクの靴も。

持たせて、あげたい。



目を覚まし、食事を済ませた1号と、郵便局や銀行へ行きました。

必要なお金の準備、留守にするため月末月初の

いろいろな引き落としのための準備など。

こんなときでも、やるべきことはやらなくてはならないから。

1号が、態度で、言葉で、私を気遣ってくれているのが判りました。

5歳の息子は息子なりに、必死だったとおもいます。

でも、ぼそりといいました。

「何でまだ0歳なのに、死んじゃったんかなあ・・」

(この言葉は、その後も何度か、1号の口にのぼりました)



帰宅したあと、携帯電話がおかしいのに気づきました。

画面は動くのですが、音関係が全くしない。

着信音もバイブ機能も全滅。

結局主人が1号を連れて携帯ショップに持っていってくれました。

私は皆と家にいました。

電話を、待っていました。

主人からの電話ではありません。

刑事さんからの、電話です。

解剖が終わったら連絡する、必ず午前中には電話するからといわれていたので、

今か今かと待っていました。


プルルルルルル。

電話が鳴りました。

「あ、○○警察署の○○ですが・・あ、奥さんですか?」

「あ、はい」

「えーと、ご主人は?」

「すいません、今ちょっと出てまして・・」

「そうですか。えーとですね、今終わりまして今から署の方に向かいますんで

奥さんたちも迎えにきてもらえますか」

「は、はい。判りました」

「それでですねえ、奥さん。先に結論申し上げますね」


結論。



「お嬢さんは、病死です。乳幼児突然死症候群です。

だからね奥さん。窒息とか、布団かぶってたとか、全く関係ないです。

お嬢さんは、病気だったんです。いいですね。自分を責めたらあきませんよ。」

「ぁ・・・」

「詳しいことは、また、後ほど。それではお願いしますね」

「わ、判りました、ありがとうございました・・・」

電話を聞きながら、涙がこぼれました。


義父母、両親、妹、皆が私が電話を切るのを待っていました。

私は泣きながら受話器を置きました。

「何?何って言うたの?」

「・・・窒息じゃないんやって」

「じゃあ何?!」

「病気やって。乳幼児突然死症候群やって!」

うわあ、とも、ああともつかない声で皆うめきました。

悲鳴とも、ため息とも取れるような声で。

そして皆が泣きました。

何でそんなものにうちの子がなるんだという思いと

息が出来ずに苦しんだよりはよかったのかもしれないという思いの

混じったような声と涙でした。



SIDSは、眠ったまま、そのまま、逝ってしまうと聞きます。

もしも、息が出来ないともがき苦しんだのでなく、

眠ったまま苦しまずに逝ってくれたのなら。

それだけでも、それだけでも、救いになると思いました。

(ごめんなさい、ここの記述はかなり書くのをためらいました。
それは、もし窒息死でお子様を亡くされている方が読まれた場合、
大変つらい思いをされてしまうと思ったからです。
病死であろうが、窒息等の事故死であろうが
亡くなった事実に変わりはないですし、
その子を惜しむ気持ちも辛さも、同じです。
病気なら親に責任がなく、事故死なら責任があるということでもありません。
だってそうですよね、誰も我が子を死なせたくなんかないのですから。
私自身、本当にSIDSだったのか。単に窒息と判断するだけの必要十分条件が
そろわなかったから、SIDSと診断されただけじゃないのかと
今でも思ってしまったりします。
(そんな風に考えるべきでないのは承知ですし、亡くなった事実も変わりませんが・・)
ただこのとき、このあと、きっと苦しまずに逝ったんだと思うことで
私自身が気持ちを保つことが出来たのも事実ですので
あえて避けずに書かせていただきました。
ご意見ございましたら、ありがたく拝聴させていただきます)


主人に電話を入れました。

「解剖終わったから、迎えに来てって」

「判った。それで?」

「うん、やっぱりSIDSやって」

「・・・そうか」



主人と1号が帰ってきました。

「携帯、どうなった?」

「それがなあ・・・店の中で店員さんとも何度も確認して、

これは駄目だな、交換だってことで話しついたんだけど、

メモリの転送できなさそうだから、お前手書きでアドレスメモるって言ったろ。

で、そのまま一度持ち帰ることにして。

そしたら携帯屋出たときにお前から電話あっただろ。終わったって。

そのあと何気なくお前の携帯もう一度触ったら。。。いきなり直ってるんだけど。」

「は?」

「いや。直ってるんだって。」

「・・・・ばぶちゃんが遊んでるのかな」

あの子、携帯大好きだったから。

(実は後日談がありまして、葬儀のあと2日くらいしてまた壊れたんですよ。

今度は音だけじゃなく、一切の操作が出来ない、充電も出来ないになりまして。

ところが。大阪帰って来たらいきなりけろっと直りまして。今現在も何ともないです。

・・・やっぱり3号遊んでたんでしょうか(苦笑))






読んでくださって本当にありがとうございます。

一緒に泣いてるよとおっしゃってくださる方がたくさんいて

本当にありがたいかぎりです。

皆さんのご好意に励まされ、甘えさせていただいてます。ありがとう。

ごめんなさい、まだ当面続きます。


2002年03月08日(金) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





体を横にして、瞳を閉じても、眠れるわけはありませんでした。

頭がどくどくどくどくしてました。

ずーっと、わーん、って耳鳴りがしてました。

脳裏に浮かぶのは、ベッドから抱き上げたときの、3号。

私の腕の中で、ぐったりしていた3号。

ついさっきそこで人工呼吸してたときの3号。

苦しかった?

苦しかった?


全身に、震えが走るような感覚で、

とても目をとじて横になってなんていられませんでした。

視界を閉じると、記憶とイマジネーションが暴走をはじめます。

心臓が、ばくばくいいはじめます。


私は起き上がると主人が仕事をしている近くに膝を抱えて座りました。

でも、駄目でした。


目を開けていても、脳内の暴走は止まりませんでした。

感情の、制御が利かなくなってきました。

自分を抱きしめて、こらえようとしたけど駄目でした。

涙が、あふれてきました。

あの子がいない。いないんだ。私が気づいてやらなかったから。

あの子が、あの子を、あの子を・・・

私が、私が、私が・・・・


体中が、なんともいえないような感覚に襲われていました。

全身を、かきむしりたくなるような、切り刻みたくなるような。

血液が、沸騰するような。

寒いんだか、熱いんだか、わけがわからないけど、全身鳥肌が立ちました。

体中の臓器を、引きずり出してしまいたくなるような感触。

床に突っ伏して、泣きました。

主人が背をさすって、声をかけてくれていたけど

どんどん自分がおかしくなっていくのがわかりました。

自分の意思も、感情も、体も、何一つ思い通りにならない。

壊れる、と思いました。

頭の血管が、音を立ててちぎれそうな気がして。



気が狂うって、こういうことなのかと思いました。

壊れる、壊れる、壊れる。。。。っ

感情の波が、津波のように押し寄せてきます。

精神が、限界点に向けて、暴走していくような、歯止めの聞かない感覚。

床に頭と顔を摩り付けて、わあわあ泣きました。

涙も、鼻水も、唾液さえも勝手に流れ、床を、私の手を汚していました。


今までだって、胸が張り裂けそうとか、

死んでしまいたいだとか、それなりに思ったことはあるけれど

こんなのは、初めてでした。

主人が、落ち着けって言ってるのはわかったけど

落ち着くってことがなんなのか、どうすればいいのかわかりませんでした。


大声で狂ったように泣いている私の声を聞きつけて

さっき別室に引き込んだ義父母が起きてきました。

「ゆーきさん、ゆーきさん!」

「ゆーきさん、しっかりしな。子供二人まだいるんやで、

ゆーきさんがしっかりせんとあかんやろ?!」

主人と、義父母がかわるがわる声をかけてきました。

気が狂ったように泣き喚く私に、大声で声をかけてくれていました。

落ち着け、しっかりしろ、落ち着け、と。

皆に揺すぶられ、何度も揺すぶられ、

その現実の体の揺れで、感情の波が、少し退いた気がしました。



顔を、あげることが出来ました。

絶叫を、とめることが出来ました。

結局そのまま義母に引きずられるようにして、

さっきまで義父母がいた部屋へつれていかれました。

代わりに義父が、主人とリビングに残りました。

少しでも、寝なくちゃ駄目だと言われ、

義母と布団を並べて横になりました。

その頃には、少し落ち着いてきました。

義母とふたり、わざと関係ない話をしてました。


眠ることは、出来ませんでしたが。

またさっきのような感覚に襲われかかるので

必死で気持ちを分散させる努力をしてました。

壊れちゃいけない・・・




こんなときでも、朝は来るのですね。

眠れないまま、夜は、明けました。



義父母たちにお味噌汁を作りました。

二人は朝食を取りました。

私は何か食べると吐きそうだったので、食べませんでした。

主人は昨夜病院から帰ったあと無理やり詰め込んだ夕飯の残りを

また無理やり胃に片付けていました。

子供たちは、昨夜遅かったので、まだぐっすりと寝ていました。



8時過ぎて、私の両親と妹がやって来ました。

玄関のドアを開くなり、母と妹は泣き出しました。

父は、顔をゆがめて涙をこらえていました。

悲しみというものは、空気の中に充満するのですね。

ドアをあけた瞬間に、なんともいえないものを感じたと

あとで父が語っていました。


うちの両親が、義父母に向かって、手をついて謝っていました。

別に、私の両親が謝るようなことではないのですが。



ひとしきり、父母や妹と話し、泣き、

3号が帰ってくる前に帰省の準備をすることにしました。

着物の入っている箪笥から喪服を引っ張り出しました。

黒い帯、黒い草履・・・

結婚するときに作ってもらったものですが、

まさかはじめて手を通すのが自分の娘の葬儀だなんて

夢にも思いませんでした。







読んでくださって本当にありがとうございます。

続きます。


2002年03月07日(木) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





部屋に入りました。

2号は全く目を覚まさなかったのでいつもどおり子供部屋の

2段ベッドの下段に寝かせました。

1号も、そのままベッドに促し、眠れるだろうかと様子を見ていましたが、

時間が時間なこともあり、すぐに眠りについてくれました。



時刻は1時を過ぎていました。

主人も、私も、なんだか夢の中のようにいるような気分だといいました。

リビングで二人ちょっとぼんやりしていました。

寝室を覗きに行けば、いつもどおり3号が眠っているような気がしました。

3号の亡骸が、ここにないからでしょう。

二人とも、一応の落ち着きを、取り戻していました。



「写真・・・・」

私はふと思い立ちました。

「写真、いるんだよね・・・」

「あ?あ、ああ・・そうか、そうだな」

PCを立ち上げました。

デジカメの、画像を開きました。

ディスプレイに、3号の笑顔が、映し出されました。


「・・・かわいい、ねえ」

ディスプレイを、指で撫でました。

何度も何度も撫でました。

「かわいいなあ・・」

「かわいいねえ・・」

何枚も、何枚も開きました。

涙でディスプレイが、霞みました。

もっともっと、いっぱいいっぱい撮っておけばよかった。

ビデオももっと、撮っておけばよかった。

第3子ともなってしまうと、写真の数はどうしても少ないです。

明日は、いや、もう今日だけど、誕生日にはまた写真撮ろうって思ってたのに。

こんな夜中に悪いかなと思ったけどプリンターを起動して何枚か印刷しました。

かわいい。かわいい。かわいいね・・・・



主人の携帯が鳴りました。

11時過ぎに福井を出た義父母が、到着したようでした。

主人は駐車場まで、二人を迎えに行きました。

私はマンションの入り口で、待っていました。


3人が、戻ってきました。

「お義父さん、お義母さん、すいませんでした・・・」

「ゆーきさん・・・大丈夫か」義父が気遣ってくれました。

「どうしたのー・・ほんとに・・・」

義母が泣きそうな顔でいいました。

「来る途中でいろいろ考えてたんやよ。1号や2号が3号ちゃんの上に

乗ってしまったりしたんやろかとか、ゆーきさんがH(主人のことです)と

喧嘩でもして、カーッとなってなんかしてしもたんやろかとか・・・」

「・・・それはないですけど・・・」

(こうして書くと義母のセリフ、かなりのものですが・・・
この人に全く悪気はないのは私が一番知ってますんで・・・
悪気がなければいいわけではないですけど。いい人なんですよ。フォローしますが。
でもこのときはこの言葉に傷つく気力もないほど憔悴してました)



部屋に入って、細かい経過説明をしました。

そして、葬儀の話などになりました。

義父母たちは、こちらで済ませるのかと思っていたようでしたが

私と主人は、地元の福井ですることしか考えていませんでした。

3号にとっては実質2ヶ月もいなかったような故郷ですが

悼んでくれる人たちのいる場所で、せめて一通りのことをしてやりたいと思いました。

こちらには越してきて一年足らず。知り合いもまだほとんどいません。


義父母は私たちの意志を尊重してくれて、とりあえず明日の解剖が終わってから

詳細を決めることにしました。


主人は、とりあえず明日から当面休むことになるので

支障のないようにだけしておかないとと言って、仕事をするといいました。

私はそこでいきなり、日中のことを思い出しました。

「あ・・PC使うのちょっと待って・・キャンセル・・しておかないと・・・」

日中、私はあるものをネットで発注していました。

それは、お雛祭り用の、お菓子でした。

横浜文明堂さんの、桃カステラ。桃の形のカステラに

ピンク色のチョコですっぽりコーティングした、可愛らしいもの。

昨年のお節句は3号は生まれてまだ間がなかったので何も出来ませんでした。

気持ち的には今年が初節句、あんまり可愛らしいカステラだったので

自宅用と、私の実家、主人の実家と3/2に宅配してくれるように

お昼に注文を出したところでした。

「もう・・ねえ・・・」

キャンセルのメールを、ひどく切ない気分で、打ちました。

(横浜文明堂さん、今回お名前を出すことを了承してくださってありがとうございました)



時刻は3時半を回りました。

義父母に寝んでくれるよう、頼みました。

私も、寝なくちゃ駄目だと言われましたが布団に入って眠る気にはとてもなれず、

ソファで横になるからといいました。

義父母は、それじゃちょっと休むからと別室へ行きました。

主人は、仕事をはじめました。

こんなときに、何で俺、こんなことしてなきゃならないのかな。

そういいながら、PCに向かって、仕事をしてました。

私は、そばのソファに、横になり、瞳を閉じました。





読んで下さって、本当にありがとうございます。
長くなっててごめんなさい、続きます。


2002年03月06日(水) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





マンションに着きました。

オートロックのマンションなのでマンションの入り口で、鍵を開けました。

そして入り口から一番近い、我が家の鍵を、開けました。


「どうぞ」

先に入って、刑事さんたちを招き入れました。

「お嬢さんが寝てた部屋、見せてもらえます?」

「あ・・こっちです」

奥の、寝室へ案内しました。

ほかの部屋はすべて電気が消えていましたが(主人が消して来たのでしょう)

寝室だけは、明かりが点いたままでした。


刑事さんたちは、何度も何度も、そのときの状況を尋ねました。

寝かせたときのこと、寝かせた角度、どのくらい布団をかけたのか。

見つけたときの状況。

大きめの枕を、3号に見立てて、何度も実演させられました。

現場検証というやつなのでしょう。

家で突然人が亡くなった場合などに、こういうことが行われるというのは

知ってはいましたから、驚きはありませんでしたが

なんだか、ひどく空虚な気分でした。


何枚も何枚も写真をとり、

ベッドと一緒に私も写ってくれといわれて、

4枚くらい、角度を変えては写真をとられました。

おかあさん、座ってていいよといわれて、

部屋の入り口でぼんやりと座り込みました。


私、疑われてるのかな。

3号を、殺したって思われてるのかな。

どうでもいいけど。

どう思われたって別にいいけど。

あの子、苦しかっただろうな。

故意じゃなくても、やっぱり私が殺したようなもんだ。

他人にどう思われるかなんか今はどうでもいい。

あの子が死んでしまった事実は、何も変わらない・・・・



一応断っておきますが、刑事さんがそういう態度を見せたとか

特にそういうことではありません。

向こうは、忠実に仕事をされていただけですし、

それなりの気遣いも、見せてくださっていました。

ただ、すべての可能性を考えるのも、警察の仕事でしょうから。



刑事さんたちは、布団やベッドのサイズなどを、測っていました。

途中で、主人が帰ってきました。

「・・子供たちは?」

「看護婦さんたちがみてくれてるから」

「私は・・いいよ、大丈夫だよ。病院戻っててやって」

「いいから。みててくれるって言ったから。お前座ってろよ」

主人がダイニングの椅子を、廊下まで引きずり出してくれました。

でも、座っている気にもなれず、家の中をうろうろしてました。



プルルルルル。

電話が鳴りました。主人が取ると、私の実家からでした。

私に代わると、父でした。

「いったいどうなったんや?」

「見に行ったら布団かぶってしもてたんよ。息できんかったんかもしれん」

「途中で見にいかんかったんか?」

「いつも2時間くらい楽に寝るんやもん・・何も思わんかったんや・・

私が悪いんや・・・」

「ほんなことはないけど・・・やっぱりあいだに見にいかな・・・」

動揺してる父の声。

「おかあさん、いる?」

「ああ、代わるわ」

電話の向こうで、代わっても私何言うてやったらいいかわからんと

泣き声の母の声が聞こえました。

それでも、母が出てきました。

「・・おかあさん」

「あんた・・あんた、大丈夫か?・・・ちゃんもかわいいけど

あんたがどうかなってしまわんか心配で・・・」

「うん・・大丈夫、やけど・・・今警察の人来て、現場検証してるで・・」

「そんなこと、するんか」

「うん・・まあこういうときはするもんやとは思うけど・・・」

「とにかく、お母さんらも、明け方こっち出て、そっちに行くから。

向こうの(主人の)お義父さんらも、すぐに行くって言ってたよ」

「そう・・・わかった。気ぃつけて来ての。」

「こっちのことはいいで。あんたのほうが大丈夫じゃないやろ・・」



寝室で刑事さんが私を呼んだので、電話を切りました。

「すいませんけどこの布団とか、全部預からしてもらいますんで」

「・・はあ。」

そんなことまでするのか。

「それと奥さん、今電話されてました?」

「ええ・・さっき主人が実家に連絡入れたので向こうからかかってきたんですけど」

「あ、そうですか、そんなら結構です」

そうだよね。私容疑者でもありうるんだよね。

電話で口裏合わせて証拠隠滅?何を?

・・しかたないと判っていてもなんだかとても自虐的な気分になってしまいました。



皆で病院に戻って、その後、さっき頼まれてた母子手帳を持ってくるのを

忘れたのに気づき、また取りに戻ったりしました。

病院の点滴室のベッドを借りて、1号と2号が眠っていました。

すやすやと、眠っていました。



また、刑事さんに呼ばれました。

別室で、事情聴取。

供述調書とやらを刑事さんが書いていきます。

さっき何度も聞かれたことを、改めて確認しつつ。

同じこと何度も聞いてすいませんねといいながら

刑事さんはペンを走らせていました。

主人と私の結婚した年まで聞かれて、主人はそんなことまで必要なんですかと

ちょっといらいらしているようでした。

今日1日の3号の行動。朝起きてから、救急車を呼ぶまでの記憶を

ずっとさらっていきました。


かなり長い時間でした。途中でそのときはじめて、時計を見ました。

いつのまにか0時半を回っていました。

刑事さんが、さっきまでのやり取りのメモを見ながら黙々と書類を書き、

時折、質問しては、また沈黙が訪れ、ペンの音だけが、室内に響き。

私は、ぼんやりとそれを眺め、不意に涙がこみ上げては、また、ぼんやりし。

終わりごろになって、もう一人の刑事さんが入ってきました。

書き上げられていく供述調書に間違いはないか確認してくれと言って、

その刑事さんが読み上げをはじめました。

最後まで聞き、間違いありません、といって、書類に拇印を押しました。



そのあと、刑事さんが、おっしゃいました。

「死因がはっきりせんので、調べさせてもらいたいんです」

「・・・?窒息じゃ、ないんですか?」

「いや・・乳幼児突然死症候群と言うのをご存知ですかね。その疑いが・・」

ここではじめて、SIDSを、意識しました。

「外見だけでは、わからないんで。」

「・・解剖、ですね」

「そうです。ちゃんと調べてあげんと、お嬢さんも成仏できませんから・・」

主人は、ちょっと戸惑う顔を見せました。

私は、間違いなく言われるだろうと思っていたこと、

外見上はほとんど変わらないように丁寧に処置してくれると

以前どこかで聞いていたこと、

私自身は、解剖は今回の件に限らず必要な処置だという意識が強かったので

(処置、という言葉には語弊がある気がしますが、適切な言葉が浮かびません)

感情的に3号に傷をつけたくないという気持ちはもちろんありましたが、

解剖に同意しました。

私がうなずくと、主人もうなずきました。

朝になってから、大学病院で解剖になること。

そのあと、警察署のほうで引き取らせてもらえること。

ちゃんと僕は、病院のほうにも行きますし、きちんと責任もってお渡ししますから。

丁寧に、何度も何度も、説明してくださいました。


もう帰っていいですと言われ、1号と2号が寝ている点滴室へ戻りました。

看護婦さんや先生が、ずっとついてくださっていました。

「警察のほう、終わった?」

「はい、終わりました・・・ありがとうございました、帰ります・・」

1号を主人が抱え、2号を私が抱えました。

刑事さんが車で送るとおっしゃってくださいましたが

抱っこして乗り降りするより歩いたほうが早いからとお断りしました。

当直の先生や看護婦さん、刑事さんが病院の入り口まで送ってくださいました。

「どうもありがとうございました、お世話になりました」

子供たちを抱えたまま、主人と私、お礼をいいました。



小児科の先生は、そのままついてきてくださいました。

私の手から2号を抱き上げ、送っていくとおっしゃいました。

申し訳なくてお断りしたのですが、いいからと送ってくださいました。

1号は目を覚まして、自分で歩くと言ったので

主人の手が空きましたから、主人に2号を抱いてくれるようにいいましたが、

先生は渡さず、奥さんを見てあげてといってくださいました。

私は1号と手をつないで歩きました。

「雨、降ってる」

1号がいいました。

細かい雨が、落ちてきていました。

「そやね。降ってるね・・・・」


マンションの入り口につきました。

「先生すいません、ありがとうございました」

2号を受け取りました。

「お力に、なれませんで」先生が、丁寧に、頭を下げてくださいました。

「いいえ。お手数かけました。ありがとうございました」

2号を抱いたまま、頭を下げました。

雨は、ぽつぽつと降っていました。






毎日、多くの方が読んでくださっているようで、本当にありがとうございます。
当初自分で思っていたより、かなり長くなりそうですが
やはり想いを表に出すというのは、大事な作業なんだなと思いながら綴っています。

ごめんなさい、まだしばらく続きます。。


2002年03月05日(火) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





主人が、電話をかけてくる、といって出て行きました。

私は、1号と2号を抱きしめていました。

すると、見知った小児科の先生が、やって来ました。

「おかあさん。。おかあさん。。つらいなぁ、つらいなぁ」

女医さんでもあり、こちらに越してきてからずっと診ていただいてる先生がいらして、

また私は泣き崩れました。

先生は、私の背中を必死でさすってくれました。

「会えますか。。。」

あの子に、会いたかった。

早く、会いたかった。

「待ってな、今まだ処置してるから。すぐにあわせてあげるから、もう少し待ってな」

先生は、そばにいた看護婦さんに、見てくるように指示してくれました。

待ってる時間がもどかしかった。

先生は、その気持を察してくれていたのでしょう、

何度も何度も、もう少しだから、今写真とったりしてるから(レントゲンですね)

もう少し待ってね、と繰り返し、何度も看護婦さんに尋ねてくれていました。


看護婦さんが、3号を抱いてきました。

バスタオルに、くるまれていました。

眠っている、ようでした。

「抱かせてください。。。」

看護婦さんは、ちょっとためらい、先生のほうを見ました。

先生は、いいよといってくれて、私の腕の中に3号が帰ってきました。

ぎゅっと抱きしめて、ほお擦りしました。

冷たく、なっていました。

体も、こわばってきていました。

愛しい、愛しい、我が子。


「小児科のほうへいこうね」

促されて、廊下を歩いていきました。

今まで何度も入った、小児科の診察室。

1週間前にも、1歳前の健診で来たばかり。

あの時3号は、大暴れして、体重も身長もはかるのに一苦労だった。

あんなに泣いて暴れたのに。

今は動かない。


ベッドに寝かせるようにいわれました。

本当は、離したくなかったけど、いわれるままに寝かせました。

バスタオルをはずすと、下に病院の病衣(寝巻きみたいなやつです)を着てました。

小さな、小さな体。小さな病衣。

主人と1号、2号も入ってきました。

いつもどおりの、寝顔の3号。

顔色が、いつもより白いだけで、唇が少し青いだけで

いつもどおり、眠っているようにしか見えない。

ただ冷たくなった頬が、手が、足が、

彼女の命が、消えたことを証明している。



泣きました。

主人も、子供たちも泣いていました。

横たわる3号に、覆い被さるように、主人が泣いていました。

私は床に崩れ落ち、床を転げ回るようにして泣きました。

体中の神経が、血管が、切れてしまいそうな感覚が全身を襲っていました。

彼女の名前を叫んで泣きました。

ごめんね、ごめんねと泣きました。

お母さんが、悪い。

お母さんが、殺してしまった。

お母さんが、君の未来を、奪ってしまった。

まだ1歳にもならなかったのに。

これから先、どれほどかの未来があったはずなのに。

お母さんが、みんなみんな奪ってしまった。

ごめんね、ごめんね、ごめんね・・・・・・・・!



私は、看護婦さんと先生に両脇を抱えられ、別室に連れて行かれました。

点滴などをする、ベッドがいくつも並んだ部屋。

「おかあさん、ここにいて・・落ち着いてって言っても無理だろうけど、

お母さんが倒れてしまうから・・・」

ベッドに突っ伏したまま泣きました。

看護婦さんが一人、ずっとついて、抱きしめて、背中をさすってくれていました。

「なんでっ・・・いつもどおり、だったのにっ・・・・」

「そうやね、そうやね、いつもどおりやったんよね・・・」

「私がっ・・・私が悪いっ・・もっとちゃんとっ・・・」

「違う。それは絶対違うよ、お母さんが悪いんと違うよっ」

泣きながら、狂ったようにつぶやく私に覆い被さるように抱きしめて

背をさすりながら、看護婦さんも辛そうに、泣いてくださっていた。

「全部出して。我慢したらあかんよ。ここで全部出して。

お母さんは絶対悪くないよ。。。」

全身に力が入らない。涙が噴き出してくる。

違う、私が悪い。。。きっと、息が出来なかったんだ。

布団にすっぽりもぐってたもの。

いつも大丈夫だったからって、今日が大丈夫だって保証なんかないのに。

息が出来ないまま、窒息して死んでしまったんだろう。

泣き声にも、もしかして気づかなかっただけじゃないのか。

苦しんで、苦しんで、死んでしまったんだろうか。

あんな小さいのに。まだあんなに小さいのに。

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんね、ごめんね・・・・・


この時点で私は、窒息死だと思っていました。

SIDSなんて、頭によぎりもしませんでした。

窒息死は苦しいと聞きます。

苦しませて、死なせたのかと思うと、かわいそうでならなかった。

申し訳なくて、たまらなかった。





そのあと、話を聴きたいと、警察の方がみえました。

2人ばかりに話を聞かれたと思うのですが、

そのとき、どちらかの方が、はっきりとした言い回しは覚えていないのですが

窒息じゃないと思う、というようなことをちらりとをおっしゃいました。

ただ、そのときはまだまともに私の耳に入っておらず、

後で思い返すと、そういえばそんなこと言ってたような・・という記憶です。

ただ、問われるままに質問に答えていました。




一通り答え終わると警察の方は出て行きました。

やたら事務的な会話をしたせいで、一応気の狂いそうな感覚からは脱出していたものの、

なんだか、夢の中にいるようでした。


警察の方のいた間、そばを離れていた看護婦さんがもう一度来られました。

夜勤の交代の時間か何かだったようで(周囲の会話からするともっと前に

交代だったのでしょうが、泣いてる私についててくださったようです)

これで失礼しますけど。。と挨拶してくださいました。看護婦さんもまだ泣いていました。

私は、ありがとうございました、と頭を下げました。


しばらくすると、刑事さんが戻ってきて、家のほうに行きたいといいました。

寝ていた現場を見せて欲しいとのことでした。

私は、刑事さん二人と、病院を後にしました。


歩いて、2〜3分のマンションへとふらふらと歩きました。

途中、奥さん大丈夫ですかと何度か声をかけられつつ、

大丈夫です、といいながら、歩いていました。

足の裏の感覚がおかしくなってて、雲の上を歩いているようでした。

見慣れているはずの景色が全然見知らぬ場所のようでした。








読んでくださった方ありがとうございます。
ごめんなさい、明日に続きます。


2002年03月04日(月) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

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茫然として、待合ロビーにへたり込んでいると

消防署員の方(でしょう、多分)が、住所氏名など、いくつか質問に来ました。

病院の受付の人が、保険証をもってますかと聞きに来て、

保険証を渡しました。

椅子に座る気力もないまま、床に座り込んでいました。



5分か10分ばかりたったでしょうか。

主人が、1号と2号の手をひいて正面玄関から入ってきました。

「どうなったんや?」

主人に一通りの説明をしました。

いや、したはずなのですが。。。あまりよく覚えていません。

ただ、ごめんなさいと何度も謝りました。

そして緊張が一瞬切れて、涙が出てきたことは覚えています。


主人は1号と2号に、廊下の突き当りの小児科の前で

置いてある本を読んでおいでと促しました。

二人は、普段から来慣れている病院でもあるため、

迷わず歩いていきました。


この時間の記憶が、かなり断片的です。

主人の言葉が、いくつか頭に残っています。

椅子に座る力のない私を、無理にでも椅子に座れと言い、

3号もがんばっているんだから、お前も辛くても座っていろと言い、

泣くな、泣くんなら助かってから喜んで泣けばいいと言い。

俺はあいつの笑顔しか浮かばないから、きっと助かるからと言い。


私も笑顔を思い浮かべようと必死になりました。

だけど浮かぶのはさっきベッドから抱き上げたときの顔。

人工呼吸を施していたときの顔。

私の腕の中でぐったりしていた・・・・・



生きててさえいてくれればいい。

呼吸が止まっていて、脳に酸素が回らなかったなら、

障害が残るかもしれない。

でもそれでもいい。

なんでもいい。

あの子が生きてさえいてくれれば。

私の命なんかいくらでもあげるから。

助けて、助けて、お願い。


必死で必死で祈る脳裏の裏側で

駄目かもしれないという思いが同じくらい強く、湧き上がる。

救急車の中で、あの子の手、冷たくなっていった。

いくら人工呼吸をしても、反応がなかった。


1号が、やはり落ち着かないのか、こちらの様子を向こうからうかがっていました。

「おいで。こっち、おいで。祈ってあげて。助かるようにって、祈ってあげて」

よってきた1号を抱きしめて、自分自身に言い聞かせるように

彼に語りかけました。



看護婦さんが、あわただしく救急処置室から出入りしています。

主人が呼び止めて、様子を聞きました。

「厳しい、状態です」



私は、座ってもいられなくなりました。

一人ふらふらと、処置室のドアの近くに立ちました。

出入りした看護婦さんが、閉め忘れたドア。

入り口に下がっているカーテンが少し開いてしまっていて

中の様子が少し、見えました。

ぱくんぱくんぱくんぱくん。。

黒いゴムの丸いポンプのようなもので、空気を送り込んでるのが、見えました。

だめなのかも、しれない・・・・・

こんなに時間がたっても、まだ息を吹き返さないんだ・・・・


1号と2号は、ロビーの椅子に主人と座っていました。

主人の会社の方が、来てくださっていて、子供たちに声をかけてくださっていました。

電話を受けたときのただならぬ気配に、後始末をしたあと来て下さったようでした。

(もっともこれは後で聞いたこと。社章で会社の方なのはわかっていたので

状況がわかってきてくださったのだろうとは思っていたものの、

挨拶をする気力すら、そのときの私にはなかった)







結局、最初に伝えてくださったのは、どなただったのか。

看護婦さんだったと、思います。

今先生が来ますから。おかあさん、座っていてください。

なるべく早く、お子さんに会えるようにしますから。

このようなことをおっしゃったように思います。

はっきりとした事実はおっしゃらず、でも私たちにはそれがどういうことか

痛いほどに、判りました。

そのあと、当直の先生だったのでしょう、処置をしてくださった先生から

はっきりした説明がありました。

「残念ですが・・・1時間以上がんばったんですが・・

肺や心臓にも直接管入れて、空気を送り込むようにしたんですが・・

小児科の先生も駆けつけてくださったんですが・・

お力になれず、申し訳ありませんでした」


驚きよりも、やっぱり、やっぱり駄目だったのか・・・・という思いに

私は襲われていました。

主人は多分違ったでしょう。

わたしは、さっき、あまりにも反応のない3号を、この目で見てしまっていたから。

この手で、感じてしまっていたから。

「わかりました。。。ありがとうございました」

主人と私、二人とも、そういって頭を下げるのが精一杯でした。


主人と、抱き合って、泣きました。

ごめんなさい、ごめんなさいと言いながら、泣きました。

お前のせいじゃない、お前のせいじゃないと言いながら、主人も泣きました。

二人して、絶叫するように泣きました。


1号が、不安げに、私を見ていました。

「ごめんな、・・・ちゃん、死んでしもたんよ。ごめんな、許してな」

1号が、わっと涙をこぼしました。彼を抱きしめて泣きました。

「ごめんな、ごめんな、許してな」

うん、うんと、一所懸命うなずいてくれていました。

2号のことは正直よく覚えていません。

それでもこのただならぬ状況に、静かにしていた気がします・・・







読んでくださってありがとうございます。
ごめんなさい、明日に続きます。


2002年03月03日(日) SIDS〜娘が天に召された日��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

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廊下を、寝室へと向かいました。

「ばぶ、起こすの?」

(ばぶというのは3号のあだ名です。名前ももちろん呼んでましたが、
ばぶだのばぶこだのばぶちゃんだのと呼ぶことも多く、これも本人は
自分のことだとちゃんとわかっていました。)

1号が私のあとからついてきて、聞きました。

「もう起こさないとねー、お風呂遅くなるし」

寝室に入りながら、部屋のライトのスイッチを押し、明かりをつけました。


ぎくりと、しました。

姿が、見えなかったから。

いいえ、後になって思えば、動きが、なかったから。

声をかけながら歩いてくれば、

必ず彼女は聞こえて、泣くなり起き上がるなりしてるはず。

布団の中にもぐりこんでることは、今までも何度もありました。

寝返りも身動きも出来るようになってから自分で這ってもぐりこむことは

何度も何度もありました。

でも、もぐりこんでいても、目が覚めれば自分ではいでて起きてきた。

寝返りも出来ないような、月齢の低い赤ちゃんではない。

上手く出れなければぎゃあぎゃあわめく。

今日は、泣き声なんか、しなかった。



ばっ、と布団をめくりました。

3号は、うつぶせていました。

寝返りできるようになってからは、どうしてもうつぶせが好きらしく、

仰向けに寝せても、いつもうつぶせになってしまっていました。

でも。

ぴくりともしない。

抱き上げました。




体は熱かった。

40度を超える熱があるかのように。

なのに。

顔色は、白く、唇が、青ざめていた。

瞳は、閉じたまま。


「・・・ちゃん?!どうしたのっ!・・・ちゃんっ!!」

左手で抱きかかえたまま、彼女の頬を軽くたたきます。

反応が、ない。

胸に、耳を当てます。

口元に、頬を寄せます。

手首に、首筋に指をあて、脈を診ます。

反応が、ない。




全身の血が、体中から抜けていくような、

いいえ逆に、沸騰するような、

わけのわからない感覚が襲ってきましたが、

とにかく、リビングに走り、左腕にぐったりした彼女を抱えたまま

電話のプッシュボタンを押しました。

「119」

そう押したいのに、手が震え、気がはやって、

「1199」

と押してしまう。ディスプレイには1199と4文字並んでしまう。

生まれてはじめて、この番号を押しましたが、

こんなに押せないものだとは思いませんでした。


はやく、はやく、はやく。

落ち着け、落ち着かなきゃ、私がパニックになってどうする!


3度ばかり、押しなおして、やっと119にかけることが出来ました。

「はい、消防ですか、救急ですか」

「救急です」

わめきたくなるような気持ちを、必死でこらえて、

住所、名前と問われるままに答えていきます。

「どうされました」

「赤ちゃんが、布団かぶってて、息してないんですっ」

このようなことを叫ぶように言ったと思うのですが・・・

正直、はっきり記憶していません。

この電話をたたききるように切って、

次は主人に連絡しなくては、と、

短縮メモリの主人の携帯を探します。

うちの電話は短縮ナンバーをプッシュするのでなく

携帯でも一時期あった(今でもあるのでしょうか)

ジョグダイヤルのようなタイプの短縮電話帳です。

ディスプレイに主人の名前が出るまでダイアルを指で滑らすのですが

こちらも気が急いて通り越したりしてしまう。

時間にすれば、10数秒のことだったと思うのですが、とても長く感じました。

「はい?」

「アナタッ、・・・が、息してないのっ!」

「は!?」

「だからっ、・・・が息してないんやって!すぐ帰ってきてっ!

今救急車、呼んだからっ!」

絶叫しました。

主人の、わかったという声を聞き終わるまでに、電話を叩き切りました。


目の前にあった鞄から、財布と保険証を抜き出しました。

それと、マンションの鍵をつけてある携帯電話。

3号はぐったりとしています。呼んでも呼んでも、反応はありません。

ふ、と我にかえり3号を床に寝かせ、人工呼吸を試みました。

3号の小さな口を覆うように私の唇を重ね、

ふうーっ、と息を吹き込みました。

「くー」

小さな声が、3号の口から漏れました。

一瞬、呼吸が戻ったのかと思いました。

泣き声を、あげてくれたのかと。

でも、違いました。

吹き込んだ空気が、そのまま出てくるとき、

声帯かどこかを震わせるのでしょうか?

私には知識がないのでわかりませんが、

何度か息を吹き込むたびに、そのか細い泣き声のような「音」はするものの

それが、彼女が意識的に発する声でないことは、

ほかになんら反応のない彼女を見れば、辛くとも明らかでした。

3号の体はまだ、とても熱かった。

人差し指と、中指で、心臓マッサージもしてみました。

人工呼吸とマッサージを繰り返す私。

息を吹き込むたび、彼女の小さな胸が、空気で膨らむ。

なのに、呼気は、戻らない。


1号は、ただならぬ気配を感じていたようでじっと私と3号を見つめていたようです。

(1号の顔を見る余裕がなかったので、確認はしてません)

ただ、幼い2号は遊んでいるように見えたのでしょう、

ふざけて私にスライディングしてきました。

「お願い!やめて!・・・ちゃん、死にそうなんやって!!!」

そう口にしたことで、現実をさらに直視してしまいました。

3号の瞼を開いてみました。

瞳の焦点が、合っていない・・・


マッサージを繰り返し彼女の名前を呼びながら1号と2号に言い聞かせました。

「おかあさん、今から救急車で、・・・ちゃん連れて病院行くから。

すぐにお父さんが帰ってくるから、それまで二人で待ってて。

お願いだから、待っててね」

留守番の大嫌いな1号です。普段コンビニまで3分足らずで行って来ると言っても、

いい返事はなかなかしてくれません。

「わかった、待ってる。ちゃんと待ってる」

ただならぬ事態を、判ってくれているのでしょう。

言い終わらぬうちに、救急車のサイレンが聞こえてきました。

電話してから救急車がくるまで、多分実際は3分となかったと思います。

「ごめん、じゃ、お母さん行くから!」

そういって、3号を抱えて玄関から走り出ました。

「わかった、鍵閉めて、待ってる!」

後ろで1号が叫ぶのが聞こえました。5歳の長男に、感謝しました。



マンションの前に、救急車が着いたところでした。

彼女を抱えたまま、飛び乗り救急車のベットに寝かせました。

救急隊員の方が、人工呼吸を試みました。

「くー」

やはり泣き声のような声がもれて、救急隊の方も、泣いたと思ったようです。

でもそれが泣き声でないことは、私はわかっていました。

私は彼女の名前を呼びながら、必死で彼女の手を握っていました。

反対の手で、彼女の体をさすっていました。

まだ、彼女の体はぽかぽかと熱かったですが

握っている彼女の手が、少しずつ、少しずつ、冷たくなるのを感じました。


病院は、家の近所の病院でした。

1分足らずで着いたと思います。

(救急車を呼ぶより、走ってかつぎ込んだほうが多分、早かったのでしょうが、

そのときはそういう風に頭が回りませんでした)

救急処置室のベッドに寝かせられる3号。

スタッフの方の一人が私を見て

「あ、おかあさん、辛いから・・・こっち出て待っててください」

病院の待合室へ促されました。




誰もいない、夜の病院の待合ロビー。

私は、床に、へたり込みました。








ごめんなさい、明日に続きます。

読んでくださった方、ありがとうございます。


2002年03月02日(土) SIDS〜娘が天に召された日。��


〜初めていらしてくださった方へ〜

去る、2/21の夜、3号こと長女が翌日に1歳の誕生日を控えてSIDSでこの世を去りました。

これからしばらく、運命のその日と、その後について綴らせていただきます。

こういうことを詳細に綴るのは、反対の方もいらっしゃるでしょう。

しかし私は、私自身のために、綴らせていただきます。

事実の記憶を封印するでなく、表に出すことで

自分自身が立ち直る、術の一つにしたいと思います。

けしてお涙頂戴のつもりではなく、エゴに近いかもしれませんが。

語ることで、がんばろうとしてるんだと、

温かく見守っていただけるととてもありがたいです。

しかしかなり厳しい記憶ですし、日が浅いので生々しいです。

読むのは辛いという方はどうぞ、ご遠慮くださいませ。

というわけでしばらくの間、エンピツのジャンルは「苦悩・心」にさせていただきます。

3月1日の分からお読みいただけると、嬉しいです。

なお、この日記を読んでくださった方、特に小さな赤ちゃんをお持ちの方に

この日記を読んだことで、SIDSに関して、

過度に不安を抱かれるのは本意ではありません。

現在日本では2000人に一人の発症率、この数字が多いとも少ないとも申せませんが、

この日記をきっかけに、SIDSについて正しい知識と理解を深める

きっかけとしていただければ幸いに存じます。


SIDS家族の会http://www.sids.gr.jp/





3号は、お腹にいるときからなかなか人騒がせでした。

切迫早産の診断が下り、2週間ばかりの入院を余儀なくされたかと思えば、

いざとなったら予定日が近づいても出てこない。

結局予定日二日前に、3840gもある、大きな赤ちゃんとして生まれました。

やっと生まれたと思えば、生後2週間で、家中が全滅したインフルエンザに感染。

NICUに入院。退院したら今度は、一月待たずに、福井から大阪へ引越し。

生まれると同時に、かなりハードなことだったと思います。


それでも、その後は、特別大きな病気もせず、すくすくと育ちました。

ただ、常に体温がかなり高めだったのが、今となっては気にかかります。

お医者様にも何度か相談しましたが、気にしなくてよいといわれたこともあり、

これも個性のひとつと受け止めていました。

もちろん、それと死因に関係があるかなんて判るはずもありませんが。


まあそういう細かいことはともかく、とてもとても元気でした。

どのくらい元気だったかは、過去の日記を読んでくださっていた方は

よくご存知だと思います。

首の据わりも、はいはいも、お座りも、すべて標準より早かった。

2/1には、歩くようになって、大喜びしました。

毎日、いたずらして、お兄ちゃんたちと騒いで、とても元気でした。


その日、2/21は、前夜寝付いたのがかなり遅かったこともあり

朝、なかなか起きませんでした。

いつもはたいてい、主人が仕事に行く前に一度目を覚まし、

朝ごはんを食べてまた寝る、というパターンが多かったのですが

まあ、相当眠かったのでしょう。10時半頃、起きました。

とはいえこれも、別にないことではなく、今までにも何度もあったパターンでした。


よく寝た3号は、実に機嫌よく、起きるなりからバナナや食パンをむしゃむしゃ食べ、

2号(次男)と遊び、また午後からしばらくお昼寝をし、帰ってきた1号(長男)と遊び・・・

朝がずれたので、妙な時間になったものの、

夕方4時ごろご飯とお味噌汁をこれまた2号顔負けなくらい、しっかり食べ、

ついでに赤ちゃん用のおせんべいまでバリバリ食べて遊んでいました。


私は私で、明日の3号の誕生日、どんなケーキを焼こうかなあ、

献立は何にするかなあ?グラタンだと3号も食べられるか?とか

翌日の、記念すべき1歳のお誕生日のプランで、頭をひねっていました。

それは私ばかりでなく、1号も同じで、彼は1週間以上も前から、

かわいい妹の誕生日を、幼稚園で先生や友達に吹聴していたくらいです。

その日も、3号のために一人もくもくと、雑誌の付録のお雛様を作ってやり、

それを3号に壊されても、文句を言いながらもまた作り直してやっていました。


そんな、いつもどおりの、いえ、明日の予定をかんがえて、

いつもより楽しかった、その日でした。


夕方、6時45分頃だったでしょうか。

3号が、眠くなってぐずりだしました。

この子は、眠いときとお腹がすいたときくらいしかぐずらない

実に親孝行な娘で、そのときもかなり眠そうな様子だったので、

寝かせることにしました。

「あーはいはい、眠いの。んじゃ寝てこようねえー」

3号は、真っ暗な部屋でしか寝ません。

しかもなぜだか、そばに人がいないほうが、寝ます。

そばにいると気配が気になるのか、寝付くのに、倍以上時間がかかります。

指しゃぶりの癖があったこともあり、(これも1歳過ぎたらそろそろやめさせないとなあ、と

思っていたところでした・・・)少し泣いて、指を吸って、寝付く、というのが

通常のパターンでした。


3号はいつも、私たちのダブルベットに寝ていました。

ベビーベットが嫌いらしく、どうしてもベビーベッドでは寝ない。

おまけに余り寝相もよくなく、おかげで私と主人は、

どちらかがベッドで彼女と添い寝、どちらかが別室で寝るというありさまでした。

川の字で寝たらつぶしそうだったので。


それはともかく、その日も、いつもどおりダブルベットに寝かせ

「はいはい、しばらくねんねしなさいね」

と私は部屋を後にしました。

キッチンで、夕飯の支度の続きをはじめました。

しかし5分くらいすると彼女が起きてきました。

眠れなかったり、起きたりすれば、はいはいも、歩くことも出来る彼女、

自分でベットから降りて、私のところへ来ます。

眠りかかったところで、こちらで騒いでいた1号や2号の声に気をとられ、

寝そこなったのでしょう。これもまた、よくあること。

「何、寝なかったの?」

まあ、それならそれでいいかとしばらく様子を見ていましたが

やはり眠いようで、泣いて怒っています。

「しょうがない。も一回寝てみる?ちゃれーんじ」

もう一度、寝室に連れて行きました。

まあこれを2,3度繰り返すと、たいてい寝てしまうので

そのときももう一度ベットに寝かせ、布団をかけました。

最近、しっかりと布団がかかってるのと、安心するのかよく寝ることもあり、

そのときもきっちりかけました。

そして、一枚布の薄いベッドカバーを、視界をさえぎる形で

かけてやりました。

それも、いつものことで、暗くなると落ち着くようだったからです。

もちろん、こんなことは、完全に身動き、寝返りが出来てからのこと。

邪魔なら自分で跳ね除けられる、そうならないうちは出来ません。

ここ一月ばかりどういうわけか、そういう形で寝るのが、気に入っていました。

「はい。これでしばらく寝なさいね。」

私は寝室を後にしました。

キッチンで聞いているとはじめは泣いていましたが、

しばらくするといつもどおり泣き声が止まり、

ああ、今度こそ眠ったなと私は食事の支度を再開しました。


そして、1号2号たちと夕食をとり、

3号が寝てるうちにと、アイロンがけをしたりしていました。

食事の進まない2号を叱咤激励しつつPCのメールをチェックしたり。

一度寝ると、いつも2〜3時間近くは眠る彼女。

ただし途中で部屋に行ったりして起こしてしまうと

とても不機嫌になってしまうので

その時も、ああよく寝てるんだなと何の疑問も抱かず、

途中で見に行くこともしませんでした。


やたらに食事に時間のかかる2号がようやく食事を終え、

お風呂を沸かし始めたのが8時半。

9時には沸くな、2時間寝れば、3号の機嫌もいいだろう。

でもちょっとお腹すいてるかな。

起こして、お腹すいてそうだったら、お風呂の前に軽く何か食べさせようか?

うーん、今日はちょっとずれたからなあ。。。

お風呂の後の着替えやタオルを用意しながら、考えていました。


「ピー」

お風呂のお湯がたまった音。

時間も9時。

「よっし、お風呂はいるよ。トイレ行きなさいよ」

1号2号に声をかけ、

「おーい、もう起きなさいよ〜。おっきだよ〜お風呂はいろうねえー」

3号に声をかけながら、廊下を寝室へと、向かいました。




ごめんなさい。続きは明日へ。

読んでくださった方、ありがとうございます。


2002年03月01日(金) 皆さん本当にありがとうございます。

ご無沙汰しておりました、ゆーきです。

BBSを覗いてくださっていた方はすでにご存知でしょうが、
3号こと、長女が去る2月21日夜、誕生日を翌日に控え、
亡くなりました。

今日、大阪へ戻ってきました。

本当は、BBSでも知らせるべきではないかとも思いました。
こんなことを聞かされる側の皆さんの衝撃が想像できないほど
愚かだったわけではありません。
しかし、ここにきてくださる方々は、ネットを通じて、
私と親しくしてくださってる方々が多く、
黙って姿を消すのもためらわれ、
事実をありのままお知らせしても許していただけるかと思い、
代理人さんに、皆さんにお知らせしていただけるよう、お願いした次第です。

私に代わって、つらい書き込みを、
でもとても的確に言葉を選んでしてくださった代理人さん、
本当にありがとうございました。

こんなときこそと、調べて電話をかけてきてくださった方、
顔すら満足に知らない私や、3号のために、弔電を打ってくださった方々、
どれほどか書きづらかったでしょうに、メールを送ってくださった方々、
掲示板にお悔やみの言葉を下さったたくさんの方々、
形に表さずとも、心を痛めてくださった方々、
皆さん、本当に、本当にありがとうございました。

私は、大丈夫です。

そりゃ、元気ですよ、とはいえませんが、大丈夫です。


あのね。

笑われるかもしれませんが。

ものすごく、かわいいんですよ、3号の遺影。
もうね、見てるこっちが思わずつられて微笑んでしまうくらい
いい顔で微笑ってるんです。

おかあさん、がんばれ〜っていわれてる気になるんです。

親ばかですね(苦笑)

まあ、親ばかってホントだと、思います。

自分の子供って、お骨になって、小さな箱に入ってしまっても、
ほお擦りしてやりたいくらい、かわいいものですね。


かわいくて、かわいくて、かわいいだけの、3号でした。

いたずらしてしかっても、ニヤッと笑われてしまって、
結局こちらもしかれないくらい、かわいいかわいい3号でした。

眠いときと、お腹がすいたとき以外は、
いつもいつもニコニコしていた3号でした。

3号を見てると、こっちもいつも、思わず笑っていました。

だからあの子もきっと、私の笑ってる顔を抱えて逝ったと思います。

だから私は、笑います。

あの子が悲しまないように。



これからしばらくは、3号の亡くなった日と、それからのことを綴るつもりです。

ごめんなさい、かなり詳細に、綴るつもりです。

こういう事を語るのは反対の人もいるかもしれません。

そういうのは、つらくて読めないという人は、

これから数日は、パスしてください。

読んでくださいとはいいません。

私自身のために、綴ります。

先に言っておきますが、けして、お涙頂戴のつもりではありません。

事実の記憶を、封印しておくことは

私自身の今後に、プラスでないと思うからです。

エゴかもしれませんが、私自身のために、綴らせてもらいます。





まだまだ涙も、いっぱい流すでしょう。

でも同じだけ、そしていつかはそれ以上に、笑っていきたいと思います。

あの子がいた1年間を否定しないために。

1年間、あの子が私たちにくれた幸せは、確かにここにあるのですから。


遺影の写真に励まされ、

あの子の記憶に励まされ、

家族をはじめとする周囲に励まされ、

ネットを通じて皆さんに励まされ。


つくづく思います。

人は一人で生きているのではないのだと。

皆さん本当に、ありがとうございます・・・・


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