女の世紀を旅する
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2005年06月12日(日) 日本の名詩への誘い : 高村光太郎詩集

日本の名詩 : 高村光太郎の詩集




詩は「情意」の文学であり,そこには認識が含まれ,思想も含まれている。高村光太郎の詩はそのような意味での「情意」の表現において際立っており,スケールの大きい情感と生命力と自然を強烈に内包し,その言葉には飾りがなく,直裁的である。そうした彼の詩作を,若干ここに留めておきたい。





● 「山」 (詩集「道程」)


山の重さが私を攻め囲んだ
私は大地にそそり立つ力をこころに握りしめて
山に向かった
山はみじろぎもしない
山は四方から森厳な静寂をこんこんと噴き出した

たまらない恐怖に
私の魂は満ちた
ととつ,とつ,ととつ,とつ,と
底の方から脈打ち始めた私の全意識は
忽ちまっぱだかの山脈に押し返した

「無窮」の力をたたへろ
「無窮」の生命をたたへろ

私は山だ
私は空だ
又 あの狂った種牛だ
又 あの流れる水だ
私の心は山脈のあらゆる隅々をひたして
其処に満ちた
みちはじけた

山はからだをのして波うち
際限のない虚空の中へはるかに
又 ほがらかに
ひびき渡った
秋の日光は一ぱいに輝き
私の耳に天空の勝鬨(かちどき)をきいた

山にあふれた血と肉のよろこび!
底にほほえむ自然の慈愛!
私はすべてを抱いた
涙が流れた






● 「秋の祈り」 (「道程」)


秋は喨喨(りょうりょう)と空に鳴り
空は水色,鳥が飛ぶ
魂いななき
清浄の水こころに流れ
こころ眼をあけ
童子となる

多端紛雑の過去は眼の前に横たわり
血脈をわれに送る
秋の日を浴びてわれは静かにありとある此をみる
地中の営みをみずから祝福し
わが一生の道程を胸せまって思いながめ
奮然としていのる
いのる言葉を知らず
涙いでて
光にうたれ
木の葉の散りしくを見
飛ぶ雲と風に吹かれる庭山の草とを見
かくの如き因果歴歴の律を見て
こころは強い恩愛を感じ
又 止みがたい責(せめ)を思い
堪えがたく
よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまづ)く
いのる言葉を知らず
ただわれは空を仰いでいのる
空は水色
秋は喨喨と空に鳴る






● 「当然事」 (詩集「猛獣篇」)


あたりまえな事だから
あたりまえの事をするのだ。
空を見るとせいせいするから
崖へ出て空を見るのだ。
太陽をみるとうれしくなるから
たらいのようなまっかな日輪を林中に見るのだ。
山へ行くと清潔になるから
山や谷の木魂(こだま)と口をきくのだ。
海へ出ると永遠をまのあたり見るから
船の上で巨大な星座に驚くのだ。
河の流れは悠然としているから
岸辺に立っていつまでも見ているのだ。
雷はとほうもない脅迫だから
雷がなると小さくなるのだ。
嵐が晴れるといい匂いだから
雫(しずく)を浴びて青葉の下を逍遥するのだ。
鳥が鳴くのはおのれ以上のおのれの声のようだから
桜の枝の頬白の高鳴きにききほれるのだ。
死んだ母が恋しいから
母のまぼろしを真昼の街にもよろこぶのだ。
女は花よりもうるわしく温暖だから
どんな女にも心を開いて傾倒するのだ。
人間のからだはさんぜんとして魂を奪うから
裸という裸をむさぼって惑溺するのだ。
人をあやめるのがいやだから
人殺しに手をかさないのだ。

わたくし事はけちくさいから
一生を棒にふって道に向かうのだ。

愛はじみな熱情だから
ただ空気のように身に満てよと思うのだ。
正しさ,美しさに引かれるから
磁石の針にも化身するのだ。
あたりまえな事だから
平気でやる事をやろうとするのだ。






● 「最低にして最高の道」 (詩集「大いなる日に」)


もう止そう。
ちいさな利欲と小さな不平と,
ちいさな愚痴とちいさな怒りと,
そういううるさいけちなものは,
ああ,きれいにもう止そう。
わたくし事のいざこざに
みにくい皺(しわ)を縦によせて
この世を地獄に住むのは止そう。
こそこそと裏から裏へ
うす汚い企みをやるのは止そう。
この世の抜駆けはもう止そう。
そういう事はともかく忘れて
みんなと一緒に大きく生きよう。
見えもかけ値もない裸のこころで
らくらくと,のびのびと,
あの空を仰いでわれらは生きよう。
泣くも笑うもみんなと一緒に
最低にして最高の道をゆこう。






● 「あどけない話」 (詩集「智恵子抄」)


智恵子は東京に空が無いといふ,
ほんとの空がみたいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは,
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くの空を見ながら言ふ。
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとうの空だといふ。
あどけない空の話である。






● 「山麓の二人」 (「智恵子抄」)


二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とおく靡(なび)いて波打ち
芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂える妻は草を敷いて座し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のように慟哭する
――わたしもうじき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙って妻の姿に見入る
意識の境から最後にふりかえって
わたしに縋(すが)る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つとなった。





● 「レモン哀歌」 (「智恵子抄」)


そんなにもあなたはレモンを待っていた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱっとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑う
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎわに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔,山巓(さんてん)でしたような深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう


カルメンチャキ |MAIL

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