ふうこの英国留学日記-その後

2003年04月29日(火) 子供を産む夢


子供を産む夢を見た。
妊娠しているわけでもないし、こんな夢を見たのは生まれて初めてでなんだか
怖かった。

その光景に父親の姿はなく産後の私のそばにいてくれたのは
私の母1人。しかも、産んだのはいいが、呼吸をしておらず、もうダメだと思った
ところ、突然赤ん坊はオギャ-と言い出し、息をし始める、彼の手は私の腕を強掴み
私は彼が生きていることを実感する。私は彼が酸欠で障害をもつことを心配して、母と医者に、手当てと検査をしてください。と頼む。そこで夢は終わった。

とても悲しく、暗いイメージの夢だった。でも痛いくらいに私を掴む、私の息子の感触だけがその中でとてもリアルだった、そして希望を伝えていた。
(夢の中でははっきり男の赤ん坊だった。うちは女系家族だと思っていたので
自分の子供が男であることに私は夢の中で驚いていた)
ともかく、この子は生きてるんだわ。と私は思った。
この子を生きさせてあげなければと。

なんで、今こんな夢を見たのか、いつかわかる日が来るかもしれない。




2003年04月27日(日) 私のDiscourse

日本語でも英語でも、考えていることを他人にちゃんと論理的に話したり、書いたりできるようになるには訓練がいると思う。そのことに対してちゃんと意識して努力することは、私にとっては意味のある大事なこと。

私は今、Discourse analysisをやっているのだけれど、人間の思考や発言に大きな影響をもつDiscourse(話言葉や書き言葉の体系)を形成する要素として、フーコーによって説明された権力や社会秩序といった社会的背景と、実際の個人の活動とがあり、私が誰か親しい人と話すとき、そこには私たちの間だけのDiscourseが存在して、それによって関係がさらに作られていくんだなあと実例のように感じてて面白い。

私は言葉に依存しすぎだと、以前に近しい人から批判されて、考えたことがある。言葉なしに理解したり、信じられたり、感じられることって
もちろんあるし、それは素晴らしいことだけど、私はやっぱり言葉を聞いたり、読んだりすることで、確認したくなってしまう。言葉できちんと伝達することを努力せずに、相手の無理解を責めることは端に怠惰な態度でしかないように思うし、自分も言葉できちんと相手に伝えたいと思う。

外部から与えられて私の中で生き続ける言葉たち。
私は言葉によって傷つき、言葉によって励まされる。
言葉は愛情に似ている。



2003年04月23日(水) Death in Venice- ベニスに死す


大学の特別上映でビスコンティの「ベニスに死す」を見た。
マーラーのテーマが感傷を誘う美しい映画。しかし、後半は私にはグロテスクに感じた。

どうせ死ぬならベニスのような美しい場所で死にたいかも。
しかし、この映画を見てあらためて「美」というものの強さを思い知らされた。
頭のいい人、肉体的に強い人、美しい人。。。この中で一番生きていく上で
有利なのはどれでしょう? という質問に、どれでもどれだけとびぬけているかが
問題なので、なんともいえないなと思っていたけれど、この映画を見るとやはり美は強し!と思った。

14歳くらいの少年・少女というのは人生で一番美しいのかもしれない。
性的に成熟しておらず中性的かつ、子供の面影をたたえながらも顔つきは大人のもつ知性を伺わせる。大人でも子供でもなく、男でも女でもない彼の顔はまさに天使か悪魔か。

私も13歳の時に撮った自分の写真をみて、自分の歴史の中ではこの頃が一番可愛かったかもと思った。150cmで40kgぐらいしかなかったやせぽっちの私は手も足も細く、お尻もちっちゃかった。15歳になるころには肉がつきはじめ、あっというまに体重も増えてしまったけど。

言ってもせんないが、この映画を観て、どうして自分はもっと美形にうまれなかったんだろう・・・と思った。
私の父も母も二重でけっこうくっきりとした顔立ちなのに、私は一重で地味な顔だし。まあ、この顔でも私を愛してくれた友人達、過去の恋人達のおかげで、(家族は私がどんな顔でも愛してくれたと思うので)今の私がいるのだから、いいのだけれど。
しかし、この映画に出てくる美少年のように美しかったら人生は変わるだろう。
彼はこの映画で世界的に有名になったにかかわらず、音楽学校での勉強をつづけたいとあまたの出演以来をことわり、一切の芸能活動をしていない。
無垢なる美しさはショウビズにその美しさをさらしてお金をかせぐ必要などないのね。

年をとると顔に人格が出るというので、私はその面でがんばろう。。。



2003年04月20日(日) I am fascineted by silence. -静寂の魅力

ポルトガルから無事に帰ってきました。
最初の3日は嵐で、天気も悪くて部屋でごろごろTVを見たり、晴れ間をぬって近所を散歩したりしかできなかったけれど、残りの4日は友達のパートナーの実家に遊びに行ったり、バーに行ったり、ロカ岬に行ったり、いろいろ行動的に過ごしてあっという間の一週間でした。

友人とは2年ぶりに会ったので、最初の夜は私も、そしてたぶん彼女もちょっと気を使っていたけれど、あとは本当にリラックスして楽しく過ごすことができて、心の通う友達といろいろと話せること、思いを分かち合えることの喜びをひしひしと感じた。

一週間あればたっぷりいろいろと話せると思っていたけれど、過ぎてみるととても短く感じる。でも、彼女とそのパートナーと話すことでいろいろなことに対して、理解が深まったり、確信したり、無心になってみたりすることができて、とても良い休暇になった。。。

丘にぽつんと建つ一軒やである彼らの家は本当に静かで、夜も朝も耳をすませば鳥のさえずりが聞こえた。私はそこで、静かな環境の魅力を改めて感じた。
なぜ、私がこんなにも慌しく、忙しいのに、駆り立てられるように一ヶ月で二度も旅行に行ったのか?

もちろん、彼女や、アルベルトに現地で会いたかったせいもある。ポルトガルやイタリアといった太陽の光溢れる場所に行きたかったせいもある。。。
そういう理由のために、私は旅にでたと思っていたが、イタリアでもポルトガルでも、私が意識していなかった理由、旅先での誰にも邪魔されない静かな夜というものを私がいかに必要としていたか、求めていたか?ということに気付かされた。

昨日の夜、ポルトガルから帰ってきて、私は自分が大学の寮でいかに、騒音に苦しんでいたかということに気がついた。私の部屋は不幸にもダイニングルームの隣で、インド人のフラットメイト達が友達も呼んで、頻繁に深夜まで映画を見たり、飲んで語りあったりしている。私のベッドはそのダイニングルームのちょうど壁をはさんだ側にあり、大音量で見る映画の音、話し声などで眠りを妨げられることが何度もあったのだ。

私はそれを同じ寮の違う棟に住む日本人の友達に話したら、それは我慢しないですぐにでも彼らに強く言うべきだと言われた。私は前に一度言って、その後少し静かにはなったのだが、やはり時にはうるさくイライラさせられることがある。

今日、勇気を振り絞って、インド人のフラットメイトの男性二人に私が騒音に苦しんでいることを言ってみた。かなり我慢ならないので、他の人(彼らの仲間の女の子)と部屋を交換したいと思っていることも。彼らの反応は、うるさいと思ったら、その場で言ってくれないとダメだよ。後から言われても、仕方ないし。というものだった。
それに、基本的に、彼らがうるさいから私がこの寮を出て行きたいというのは良くないし、勉強の妨げになるようだったら、僕らにパーティーや、映画を止めてくれ
って言うべきだよ。
というものだった。彼らの言い分はもっともで、私がウジウジ悩んでいるのがいけないのだと思う。でも180cm級の声の大きいインド人の男が4-5人集まっているところに、入っていって、うるさいから静かにしてくれって言うのは私にはとても難しい。
それに、インド人たちは話し声が大きいので、彼らが普通に話しているだけでも、私にはうるさく感じることも多々ある。それを彼らにわかってもらうことも難しいし、私が言ったところで、彼らが変わるとも思えないのだ。
私が騒音を訴えたあと、彼らの態度はとてもよそよそしくなり、二人とも挨拶もせずにダイニングルームを出て行ってしまった。私は1人部屋に戻ってこれで良かったのだと思おうとしたが、彼らの冷たい態度に弱気になって、1人で机に座って泣いてしまった。外国で1人で生きているのだから、強くならなくては生きていけない。
これくらいでくよくよしてはいけない。彼らの騒々しさが生まれつきなら、神経質だと言われようが、私が音にうるさいのも生まれ持った傾向なのだ。
私には私の生活傾向を主張する権利があると思う。

私は時々、深夜1人で散歩をする。うるさい自室を離れて、真夜中の大学のキャンパスにある原っぱに1人立ってみる。通り過ぎる車の音以外ほとんど何も聞こえない。私はほっとする。心からやすらぐ。1人、静寂に包まれていることに。

I am fascinated by silence. "Soft Shell Man"というカナダ映画の中で、主人公のカメラマンが聾唖のジャーナリストの女性に出会い、何度も彼女に紙にそのメッセージを書いてみせるというシーンがあった。

そう、私も静寂に魅了されている。

私にとって、精神の平安を得るためには静かな環境がとても大切だということ。
それに気付かされた春でした。



2003年04月12日(土) ポルトガル


明日から19日までポルトガルに行ってきます。リスボン近郊に住む、10年来の友達の家に泊めてもらいます。彼女と会うのは約2年ぶりなのでとても嬉しい。

でも3日にイタリアから帰ってきてこの一週間の早かったこと!!イタリア熱に浮かされてうっとりしてる間に一週間が経ってしまって、正味勉強できたのはこの3日間くらい。。。

今抱えてるレポートの締め切りは5月初旬なのですが、早く終わらせて修士論文の準備に取り掛かりたい。。。明日、いや今は午前4時なので今日の昼に出発だというのに、まだレポートを書いている私は、荷造りは大丈夫なのか?

もう、目がしょぼしょぼしてきたのでちょっと寝ます。

ではアディオス!



2003年04月03日(木) Bellissimo Italia! ドラマティック・イタリ-

今朝ジェノヴァを出発してイタリアから帰ってきました。
行く前は勉強も進まなくてノイローゼのようになっていて、イタリアに行ってる場合じゃないよ。それに初めてのイタリア1人旅だし、寝不足でぼけっとしてるし、もしかしたら、なんかひどい目にあって無事に帰ってこれないんじゃないか?くらいにネガティブな予測一杯の旅行だったのだけれど。。。。

世にも素晴らしい旅行だった。今回の旅はたった5日間だったけれど、初めて姉と一緒にベニスに行ったとき、またはそれ以上に私の精神に影響を与えると思う。
海・太陽・空・食べもの・そして旅で出会った人々。案内してくれたアルベルト。
何もかもが本当に印象深かった。

イタリアの空気は私に活力を与える。イタリアにいると人生が美しいことを思い知らされる。そして、そこには深い翳りがあることも。イタリアの空気は生きることの限りない喜びと、失われたもの、失われつつあるものの悲哀をいつも湛えている。

私が帰るという昨日の夕方、私とアルベルトは初めて2人だけでバーで飲んだ。私はアルベルトに言った。
「イタリアで見るあなたはとても生き生きしていてるね」
「そりゃそうだよ。ここは僕の生きてきた場所だもの。僕はこの街が大好きだしね。」
「いいね。そういうふうに思えるって」
「ふうこは自分の(生まれ育った)場所を離れることができると思う? 僕にはできない。僕はイタリアを愛しすぎてる。ここから長い間離れてずっと暮らすことは想像できないよ」
私はすぐには答えられなかった。私はイギリスにいても彼のように、ああイタリアに早く帰りたい−と思うほど、日本の生活を恋しがることはないように思った。
でも、私は私なりに日本を愛している。日本文化は私のバックボーンになっている。でも、私には彼がエスプレッソ一杯でもイタリアでなくては絶対ダメと思えるような、執着を日本に対して持っていない気がした。それに気付くと少し悲しくなった。私が執着を持つとしたら、それは日本には私の家族や友人といった一番大事な人たちが住んでいるということだけかもしれないと思った。いや、個人的なつながりはもちろん、私は日本人の性質が持つ何かをとても愛し、必要とし求めている。それは例えば、繊細や優しさや、穏やかさや、生真面目さ、美意識といった目には見えない、形にはなかなかならないもの。

イタリアの美は目に見えやすい。。。でも、日本の美は自然であり、人々の感性であり、穏やかな気候であり、形にはしにくくとも、長い間日本という国の中で培われてきたもの。私は、アルベルトがエスプレッソを愛するように、それらの日本の美質を愛し、いつも求め続けている。そしてそれを、自分の中に発見したいと思っていることに気がついた。

港を歩いているとアルベルトが一層のボートを指差した。
「あのアズ−リ色のボート、あれとまったく同じようなボートを父が持ってたんだ」
「素敵! お父さんは釣りでもする人だったの?」
「いや、ただ家族で楽しむためのボートだった。小さなキッチンとトイレとベッドもついててね。よく妹と甲板で寝転がったよ。」
「私は小さな頃、船で旅する話を絵本を読んで、夢に見てたなあ。あなたは本当に幸せな子供時代を送ったのね」
「子供時代はね。。。僕の10代は本当に辛い時期だったけど」
アルベルトのお父さんが今はいない。。。ということにはうすうす感じていたけど、離婚したのか、別居したのか、亡くなっているのかはまったく聞いたことがなかった。
私たちは雨が降り出した人気のない港のカフェの軒先で雨宿りがてら、離れて座って港を見ていた。アルベルトは渋い顔をしていた。アルベルトがお父さんの話をしてくれたのは初めてだった。

「僕の父は文房具屋を経営してたんだ・・・」
彼が10代の半ば、そのお父さんは事故にあって、その後遺症から
肝臓と脳をやられてしまって、10年近く間ずっと寝たきりになってしまっていたという。病院通いと自宅での介護、豊かな生活から店を失い、家も失い、もちろんボートも失った。お母さんの稼ぎでどうにか生活していくことはできたが、彼らは
小さな家に引越しをし、生活のすべて変わらざるを得なかった。
そして、数年前にお父さんは亡くなった。

「本当に大変だった。僕は自分の勉強に専念することはできなかった。バーとかカフェとかアルバイトもいっぱいしたよ。父のことから逃げ出すように、僕はアルバイトしてお金を貯めては山登りの装備を買い揃え、山に行った。父が死んで、僕が大学を卒業したとき、僕はもう25歳になっていた」

私はなんと言っていいのかわからなかった。
「でも、今はあなたも、お母さんも妹も元気にそれぞれやってるんだし、あなたの家族はがんばって一番大変なときを乗り越えたんじゃないのかな。それはすごいことだよ」
「うん。母も妹も今は元気だし、僕だって。でもね、母と今回、イタリアに戻ってから話し合ったんだ。僕たち家族はいまだに父の病気とその死で喪われたものから回復していないねって。」

イタリアでは天気がいきなり変化し、雨に降られることさえ美しい。
最後の夜、再度降り始めた突然のの激しい雨に私が軒下に留まって鞄から傘を出して広げて歩き始めると、襟を立ててさっさと先に歩いていたアルベルトが、私を振り返り
「ふうこはイタリアのAqua(水)を楽しまないんだね」と言った。
「Aqua? ミネラルウォーターのこと?」と言ったら
「僕が言ってるのはこの雨のことだよ。。。見てみなよ。あの雲、なんて言ったらいいのかな。。。」
そこにはあっという間に私たちの頭上に追いついた、こんもりともりあがった濃い灰色の雲があった。まるで、ジョルジョーネのテンペストの絵さながら。。。のドラマテックな雲だった。
「ドラマティック?」と私は言葉に詰まった彼の代わりに続けた。
「そう、ドラマティックなんだ。イタリアだと、何もかもがね。あんな雲イギリスでは見れないよ。」

そう、この街ではすべてがドラマチックに映る。足元の石畳さえ意味を持つ。

うすいグレーの石畳は雨に濡れ、濃い灰色になり黒く光沢を帯びる。私は早足で歩き続けるアルベルトの背中を前方に時々確認しながら、でこぼこの地面に足をすべらせないよう石畳を見つめながら歩く。疲れと足の痛みを感じながらも、足の下に感じるこの旧市街の不ぞろいな、かつ堅牢な石畳は私に歩くことの基本的な喜びを与えてくれる。このしっかりとした足応え、盛り上がってくるような抵抗感、一歩一歩しっかりしてかからないと前には進ませないような頑固さをもって人に挑んでくるこのイタリアの旧市街独特の石畳の坂道は、私に生きていること、自分が自分の足で歩いていることを実感させる。

私はこの石畳を歩いている夢をみた。目が覚めたときにはがっかりしたほど、現実に自分がジェノヴァに戻ってあるいているような感じの夢だった。
湿った港の風、スニーカーを通して足裏に感じる凹凸、あの時のイタリアの空気を思い出すと、目を閉じるだけで自分の周りにイタリアの情景が立ち上がってきて
私をつつむような気がする。私はたった3日歩いただけのあの濡れた石畳をとても懐かしく思う。

私はジェノバのブリニョッレ駅から空港に向かう途中のバスの中、流れる景色を見ながら涙を止めることができなかった。私が、アルベルトが、イタリアが、日本が喪ってきたもののことを思った。そして、いまだにあり続けるものたち、これから生まれるであろうものたちのことを。イタリアだけが私をこんなにも感化することができると思う。


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