観能雑感
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2005年08月21日(日) 追加公演 第11回 友枝昭世の会

追加公演 第11回 友枝昭世の会

 5月に行われた公演は元より諦めていたので、追加公演ありとの朗報はありがたかった。電話もあっさり繋がって、中正面正面席寄りのチケットを入手。当日の見所は勿論満席。

能 『安宅』
シテ 友枝 昭世
子方 友枝 雄太郎
同山 長島 茂、狩野 了一、友枝 雄人、内田 成信、粟谷 浩之、佐々木 多門、谷 大作
ワキ 宝生 閑
アイ 三宅 右近、三宅 右矩
笛 一噌 隆之(噌) 小鼓 北村 治(大) 大鼓 柿原 崇志(高)
地頭 粟谷 菊生

 閑師の名ノリはその佇まいとともに重厚で、強い使命感を秘めた武士であることをまずしっかりと印象付ける。アドアイの右矩師、コトバは決して悪くないものの、運ぶときに腰がぶれるのが相変わらずで、勿体無い。
 シテは黒の絓水衣、同山はそれぞれ瓶覗と黄橡と二色の縷水衣を着ていたのは新鮮だった。道行は力強かったが、季節感や、落ちて行く者たちのうらぶれた様子を想起させるにはいたらず。弁慶を中心に相談事を始めるとき、呼びかけに従って同山達がいっせいに身を乗り出す所作は、緊張感があってよかった。主の前に跪く弁慶からは、深い敬意と慈しみの心を感じたが、一方で、数々の窮地を乗り越えて行くにはあまりにも優しすぎるのではとの危惧を抱かせるような、繊細さも漂っていた。
 関に到着してから富樫の疑念に対しての示威行為として祈祷を行う弁慶一行だが、その直後、全く動じることなく詮議を続ける富樫が良かった。勧進帳を読み上げる場面、あからさまに覗き込んだりはしないものの、注意深く見守る様子も同様に良かった。義経が見咎められ、一行に緊張が走り、色めきたった同山を制する弁慶には、有無を言わさぬ強さがあった。富樫へ向かっていく一同を弁慶が制する場面、同じ水衣の色同士に二手に分かれて富樫に詰め寄り、それぞれを弁慶が背後に制するという初めて観る型があり、緊張感の演出という点では優れていると思った。義経の笠を叩くのも、形式的ではなくかなり強く叩いていた。
 危ういところで難を逃れたものの、自らの境遇の変転振りを嘆かずにはいられない義経、子方は鬘桶に腰掛ける姿も堂々としていて謡も元気よく一生懸命、それで十分だけれど、もう少し寂寥感が出たらなおいいと思った。
 最後の見せ場である男舞、小書は付いていなかったが、舞のテンポがぐっと静まったり、飛び上がったり、橋掛りを使ったりと、延年之舞を彷彿とさせる型が挿入されていた。(後日、やはり延年であったことが判明)。舞としてはまさに完璧な身体制御だが、不思議とこちらの心に響いてこなかった。富樫へ一礼する様子はあくまで緊張感を孕んで、振り切るように去っていった。
 舞台の出来としては精緻と言う以外ないが、残念ながら心はあまり心は動かなかった。手に汗握る緊張感や、この旅に待ち受けている更なる困難を予兆しつつも、どうか無事であるようにとの祈りを込めている筈の舞に、そういう想いが感じられなかった。このような演劇的要素の強い曲では、昭世師の資質は完全には生かしきれないのかもしれない。内容は全く異なるものの、同じく男舞のある『高野物狂』の方が、私にとっては遥かに印象的であった。

 しおる時に翳した手、僅かに照らした面、ごく短い謡の一節に宿る、観る者の心の内深くに訴えてくる力の表出。私が能舞台に求めているのは、そんな一瞬である。
 
 終曲間際に時計のアラーム音が響く。せめてさっさと止めろと思う。開演前ではあったが、かかってきた電話にその場ででてしまう方がいたりと、携帯電話関連のマナーは確実に若い世代の方がいい。


2005年08月09日(火) 能楽観世座サマースクール2005

能楽観世座サマースクール2005 宝生能楽堂 PM6:30〜

 初めて足を運ぶ観世座の公演。前日にシンポジウムが開催されたが平日の昼間では行くのは無理。中沢新一氏の話には興味がある。
 いろいろ尾を引いているが、日々なんとか暮らしている。最愛の存在がいる世界といない世界、全く同じではありえない。生き続けるということは、こういう事態に否応なく遭遇することなのだろう。
 中正面前列、目付柱のほぼ正面の席に着席。見所はほぼ満席。

解説 松岡 心平

 『芭蕉』という曲について、その背景を簡単に説明。小書の平調返についても触れられた。

能 『芭蕉』平調返 蕉鹿語
シテ 野村 四郎
ワキ 殿田 謙吉
アイ 野村 萬
笛 一噌 隆之(噌) 小鼓 鵜澤 速雄(大) 大鼓 国川 純(高)
地頭 梅若 六郎

 前シテは利休茶と山吹茶の段織唐織に深井。シテの次第が繰り返された。面は無垢な少女、思慮深げな妙齢の女性、諦観を湛えた年嵩の女性とその時々で異なった表情を見せた。特にどうということもなく中入。送り笛の最後が完全に息が足りなくなって音が出ず。間語り、萬師の語りは聴こうと思わなくても自然に耳に入ってくる。これが可能な人は、実際のところ限られている。
 後シテは草柳の地に金の扇絵が縫いこまれた長絹に裏柳の大口。淡い緑の濃淡で、芭蕉の葉が月光を受けて白っぽく輝く様子を想像させる配色。扇の地も煤けたような銀で、洗練された色合せ。 
 殿田師は優れたワキ方であるが、掛ヶ合の際、この曲には若干武骨であると感じた。もう少ししっとりした情趣がでればよかったと思う。
 平調返の小書が付くと、序ノ舞の序の部分が平調で始まり、常より長く奏されるとの説明があった。そのまま進んで最後常の黄鐘になると、そのように聴こえたが、実際のところどうなのかは不明。舞が始まると若干半覚醒状態になってしまった。笛が魅力に乏しいので、今ひとつこの小書は生きなかったように感じた。淡々と終曲。
 これといって大きな破れがあるわけではなく、むしろ精緻と言っても良いのだろうが、残念ながらこの曲が持っている奥深い世界を感じ取れずに終ってしまった。『芭蕉』を観るのは三度目だが、自分にとってはもっとも印象に残らない一番。地謡は梅若と宗家派の混合だが、統一感があり、耳には心地よい響き。しかし、訴えてくるものがない。シテも同様で、静かに佇む姿は美しいが、それ以上のものがなかった。良い能とは何なのかを、改めて考えた。

 前列の方が頻繁に頭を動かし続けるので鬱陶しかった。シテを常に完全な形で捉えていたいのなら、中正面には座らぬことだ。
 以前宝生会別会で、謡本を複数開き、ページをめくる音やメモを取る耳障りな音を立て続け、こちらの観賞を妨げた人物がまた隣だった。愕然。今回は袖本だったので音は煩くなかったが、こういう偶然はあるのだなぁとげんなり。世間は狭い。

 


こぎつね丸