観能雑感
INDEXpastwill


2005年04月23日(土) 『SWAN LAKE』

『SWAN LAKE』 Bunkamuraオーチャードホール PM1:00〜

 非常に話題になった舞台。昨年は観られず、今回は満を持してプレオーダーでチケット確保。昨年の9月終わりくらいだったように記憶している。生オケの演奏の方がいいのでこの日を選んだ。
 2階上手寄りに着席。オーケストラピットも見えるので、開演前の練習風景を見、耳を傾けてしまう。ティンパニーを特に注視していまうのはもはや習性。チューニングが難しく、狂いやすいがそこもまた面白い。音を止める時に指をラバーの上に乗せるのを見るのもまた楽しく・・・。ああ、叩きたい。
 会場は満席。人気の程が伺える。

演出・振付  マシュー・ボーン
装置・衣装デザイン  レズ・ブラザーストン
照明デザイン  リック・フィッシャー
音楽監督・指揮  ブレッド・モリス

ザ・スワン/ザ・ストレンジャー  ホセ・ティラード
王子  ニール・ウエストモーランド
女王 ニコラ・トラナ
執事  アラン・モーズリー
ガールフレンド  ソフィア・ハードリー
幼年の王子  ギャブ・パーサンド

管弦楽  東京フィルハーモニー管弦楽団

 古典の『白鳥の湖』を独自に解釈した作品。原作では背景に微かに伺える程度の王子の抑圧を前面に押し出し、白鳥を男性が踊る。10年前の発表当初は相当な反発があった模様。
 バレエとしては恐らく異例の観客動員数であり、ロング・ランを誇っているが、スワンや王子のキャストが当日にならないと解らないというのもそれに寄与していると思われる。

 全体として、舞台よりはついつい音楽に聴き入ってしまった。チャイコフスキーの音楽が素晴らしいのは言わずもがなだが、「ピアノとヴァイオリンをやり直したい病」に罹患しているのも原因のひとつであると思われる。が、期待していたよりは踊りの質が高くなかったことが主な理由。ホセ・ティラードは跳躍は美しいが、回転がいまひとつ。若干軸がぶれるような気がした。何より、この作品が個々の踊りよりは、物語としての完成度を第一とし、踊りそのものも、その構成要素のひとつとみなしているように思われた。よって、個人の飛びぬけたテクニックは無用なのであろう。NCBに通じる意識を感じた。

 プロローグで、王子が幼少のころから母である女王に省みられなかったことが描かれ、時が経ってもその関係は変わらない。王子は王室の生活にどこか馴染めない様子。女王はやっと王子が心を開くことができた相手であるガールフレンドを受け入れず、一方自分は若い士官候補生達を常に身近に置いている。ガールフレンドは王子個人よりも、王室の人間に近づきたいという野心が第一のようで、王子の思いとはどこか食い違っている。立ち居振る舞いに品がなく、無作法で、女王の価値観とは全く合致しない。王室でバレエを観に行く場面があり、舞台では古典バレエのパロディが演じられ、これを観たガールフレンドが大笑いするのが互いの価値観の違いを顕著に表していた。
 ガールフレンドを追って怪しげなクラブに行く王子。ケンカに巻き込まれ、放り出される。そこでガールフレンドが執事から金を受け取っているのを目撃してしまい、打ちひしがれ、ひとり公園のベンチに座っていると、そこにスワンが現れる。彼は挑発的で力強く、生命力に満ちており、しばし王子は己の命を絶とうしたことを忘れる。古典作品では有名な踊りが連続する箇所だが、やはり一貫して物語の流れを壊さない作りになっていた。
 後日、宮殿で舞踏会が開かれ各国の王女達が臨席するなか、スワンにそっくりな男が連れを伴い突然現れる。王女達だけでなく、女王をも魅了した彼は、しかし王子にはよそよそしく、冷たく拒絶する。絶望した王子は女王を撃とうとするが、執事が阻止。王子を庇おうとしたガールフレンドがその弾丸を受け、絶命。
 この場面、古典では最大の見せ場である黒鳥の32回転がある。どのように処理するのか興味があった。ストレンジャーとスワン達の力強い群舞だった。
 その後、王子は精神を病み入院。ベッドに横たわっているとクッションの間からスワン達が湧いて来るように現れてきて、そもそもスワンそのものが王子の妄想の産物であることを強く意識させる。舞台に置かれているベッドに軽々と飛び乗るシーンがあり、その跳躍力にびっくり。仲間割れの様相を呈しつつ、スワンは王子とともにあることを選ぶ。女王が部屋に入ってきたときには、既に王子は息絶えていた。舞台後方には硬く抱擁しあうスワンと王子が現れ、終曲。

 王子の孤独と、『役割』を演じきれない辛さに焦点があてられ、その病理の深さを追求しているが、現代人には多かれ少なかれ当てはまるものであり、それほど画期的試みとも思われず。しかし、大勢に支持される所以はここにあるのだろう。度重なるアンコールとその熱狂も、自分にはどこか他人事だった。オケはなかなかいい演奏を聴かせてくれて、ヴァイオリン・ソロは拍手したくなったほど。団員の一部は床を踏み鳴らして喝采していた。
 作品としての完成度の高さは認めるが、そう何度も繰り返して観たいとは思えず。数多く存在するリピーターに、自分はなれない。


2005年04月15日(金) 第4回緑桜会 こころみの会 ―能の囃子を楽しもう―

第4回緑桜会 こころみの会 ―能の囃子を楽しもう― PM4:00〜 梅若能楽学院会館

 囃子好きとしては興味深い番組構成。気になってはいたものの、27日の国立定例公演に行くつもりだったのでこちらは諦めていたが、チケット入手に失敗したためこちらを手配。勿論両方とも行くのが理想的ではあるが、労働者の身ではそうもいかない。
 3:30開場のはずが、約10分前に到着すると、すでに入場できるようになっていた。全席自由のためか、大分前から並んでいた方がいたようである。見所は大分埋まっていて、正面席のボックスになっている部分の手前に置かれた補助席に着席。階のほぼ正面。定席より目線が高くなり、未だかつて味わったことのない良好な視界。しかし、床が傾斜しているのと椅子が固く、安定も悪い事等、いいことばかりではなかった。空調の真下で大分冷えてしまったし。それでも、自分としては良席であった。満員で盛況。

 まず、会主である山村庸子師の挨拶があった。自分が観客だったら観たい会、長い間能を観ている人にも、初めて観る人にも楽しんでもらえる会を企画したくて始めたとのこと。ご本人が玄人になるきっかけは、小鼓の稽古だったとか。

能の囃子
大倉 源次郎、亀井 広忠、助川 治、松田 弘之

 源次郎師が司会で、各楽器を紹介していく。まずは大鼓と小鼓。微かな関西アクセントでゆったりと話す源次郎師はオヤジテイスト満載。一方広忠師は気真面目な人柄が滲み出る。大鼓が大別するとドンとチョンの2種類の音しかないのに対し、小鼓は4種類の音が出て「繊細なんです」とのこと。調緒を閉めたり緩めたりして音を出してくれたので、その変化の仕方が判った。大鼓が組み立てるのに15分かかる一方、小鼓は約1分。手早くばらして再び組み立てる源次郎師、胴を見せて「向こう側が見えます」と言った後、「だからってどうってことないんですが」と付け加えたのが個人的には受けた。最後に二人が背中合わせに座って「波頭」(だったか?)の部分を実演。掛け声を聞いていれば相手の出方が解る、ということの証明。
 続いて松田師と助川師が登場。笛の解説は一番時間が短かったような気がする。源次郎の「難聴になったりしますか?」という問いかけに力強く「します!」と応えた松田師。私のような超ダメダメが吹いていても耳が痛くなるのだから、当然だろう。ヒシギと、能管はノドが入っているため音律が一定ではないことを示すために指を一本ずつ上げて吹いてみせた。
 太鼓は押さえる音の「ツクツク」と響かせる音の「テケテケ」(だったか?)の2種類の音で構成。助川師曰く、「我を通せる」そうである。二人で「祈り」を実演。
 最後にシテ方も登場し、全員で出囃子の「下り端」、「大ベシ」、「早笛」を実演。充実していた。

一調
『放下僧』小唄  角当 直隆  大鼓 亀井 広忠
『船弁慶』  小田切 康陽  太鼓 助川 治
『夜討曽我』  山崎 正道 小鼓 大倉 源次郎

 一調が玄人の間では重く扱われる理由を計らずも実感。謡に魅力がないと聴いていて面白くない。囃子方との力量の差が顕著で、双方の力が拮抗するには至らず。

一謡一管
『班女』クセ  梅若 六郎  笛 松田 弘之

 こちらは双方見事に拮抗。六郎師の作り出す世界に対して、対抗するのではなく、あくまでも引き立たせるようにあしらう松田師の笛。班女の空虚な心の内と冷たい秋の風を感じた。

舞囃子
『融』酌之舞  山村 庸子
笛 松田 弘之(森) 小鼓 大倉 源次郎(大) 大鼓 亀井 広忠(葛) 太鼓 助川 治(観)

 ワキの待謡いからトメまで。これだけでも聴きに来た価値があると言い切れる充実度。囃子方全員、音に魂がこもっていた。あらゆる音楽に、この「魂」の部分は重要なのだとこの頃特にそう思う。

乱囃子
『高砂』  亀井 広忠
笛 山村 庸子 小鼓 梅若 六郎 大鼓 山中 迓晶 太鼓 山崎 正道
地謡 大倉 源次郎、 助川 治、松田 弘之

 笑いの要素を一切排除した、真剣勝負の乱囃子だった。配役は会主の挨拶の際に発表されて、六郎師の名前が出ると場内から拍手が出た。六郎師の小鼓の腕前は有名だが、他の囃子の方々も大健闘で、大鼓が良い音を出し続けていたのには感心。笛も苦しそうだったけれど、最後までしっかり吹き切った。見事。音程が松田師のそれと一緒で、同系統の師に師事なさっていたと思われる。広忠師、足拍子は舞台が傾くのではないのかと思われるほどしっかりと踏み、気合を前面に露呈した奮闘ぶり。なんとなく、大鼓の演奏ぶりと重なるなぁとふと思った。

 時にはこういう趣向も悪くない。楽しい時間だった。


2005年04月14日(木) 『フィガロの結婚』

『フィガロの結婚』  新国立劇場 PM6:30〜

 今回は『フィガロ』と『コジ・ファン・トゥッテ』の上演。両方とも行きたかったがそうもいかず、『フィガロ』を選択。耳に馴染んだオペラだが、実際に舞台で観るのは初めて。もっと、私が劇場で観たオペラの数などごく僅かなのだが。4階席、前から2列目、上手寄りに着席。下の方はほとんど見えないので良くわからなかったが、空席はところどころあった模様。オーケストラ・ピットも隠れてしまうので、開演前に身を乗り出して見る。

指揮 平井 秀明
演出 アンドレアス・ホモキ
美術 フランク・フィリップ・シュレスマン
衣装 メヒトヒルト・ザイペル
照明 フランク・エヴァン
アルマヴィーバ伯爵 ヴォフフガング・ブレンデル
伯爵夫人 エミリー・マギー
フィガロ  マウリツィオ・ムラーロ
スザンナ 松原 有奈
ケルビーノ ミシェル・ブリート
マルチェッリーナ 竹本 節子
バルトロ 妻屋 秀和
バジリオ 大野 光彦
ドン・クルツィオ 中原 雅彦
アントーニオ 晴 雅彦
バルバリーナ 中村 恵里
二人の娘 三浦 志保、小林 昌代
合唱 新国立劇場合唱団
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団

 舞台の床は台形上になっていて、それにあわせて壁が作られ、奥に行くにしたがって狭まっている。白い壁に取り囲まれた部屋には同じく白っぽいダンボールのようなものが置かれ、調度はほとんどない。引越ししたてなのか、それともこれから出て行くのか、落ち着かない雰囲気。登場人物たちの衣装は極めてシンプルで全てモノトーン。セットは曲が進むにしたがって解体していく。
 フィガロは当初音楽に後れ勝ちで、スザンナは声量乏しく、さらに声にも歌にも表情というものがなく、そそれがレチタティーボになるとさらに顕著になる。これでは堪らないと思ったが、時間が経つに従って徐々に解消、第4幕の『恋人よ早くここへ来て』は、愛する人へのひたむきな愛情と優しさがこもっていた。
 アルマヴィーバ伯爵は、残念ながら一本調子な歌い方で、訴えかけてくるものがない。それゆえか、オーケストラの静かに語りかけてくるような音が引き立った。二人の男性主要キャストがいまひとつなのに対し、断然光を放っていたのが伯爵夫人役のエミリー・マギー。第3幕(?)の、失われた愛と我が身の境遇を嘆くアリア(タイトル不明)は秀逸。情感豊かに、しかし決して過剰ではなく、丁寧な歌唱に好感度大。終幕後のブラヴァは彼女にこそ捧げたかった。
 第3幕にある婚礼のシーンはカット。音楽のみ流れて隣室で婚礼が行われている態を取っているのだろうが、ストーリの流れの大きな転換地点であるので、あった方が良いと思われる。でないと、続く庭園の場面への移行が不自然になる。実際、舞台の流れを理解していても、頭で考えないと理解しずらかった。ただでさえ、この後は人物が入れ替わり、ややこしい展開になる。解りやすさのみを徒らに尊ぶ昨今の風潮には大いに抵抗を示したいが、製作者側の独りよがりは別次元の問題。バルバリーナがスザンナの手紙を留めたピンを落としてしまったと歌う『落としてしまった、どうしよう』の前に、伯爵が彼女を陵辱するシーンがあり、それからこのアリアへと続く。「失くしてしまった」がダブルミーニングになるという趣向だが、あざと過ぎの感あり。
 第4幕では登場人物はほとんど下着姿。外見上の差異を極力少なくし、階級を取り払い、人間の本質を暴くということなのだろうか。となると、人物の入れ替わりは何故実現したのか。表面上を取り繕っただけで容易に騙される人間の愚かさの中に真実が見える、というのがこの場面の主題ではないのか。自分本位の登場人物達の中で、唯一俯瞰する視点を持つ伯爵夫人が歌う許しの歌と、続く全員の合唱が、舞台上の展開とすっきり合致せず、せっかくの美しい音楽が損なわれてしまったように感じた。

 まだ音楽が完全に終っていない内に拍手が起こってしまい、興ざめ。無粋極まりない。すぐ後ろの人はずっと鼻をすすり続けていて迷惑。私はあくまでも音楽を聴きに来ているのだ。

 メインキャストに魅力が乏しく、脇が健闘してもとりあえずこんなところかという出来。再度、エミリー・マギーを讃えたい。オケは健闘したと思う。


 2幕目の終わりあたりでセットが急に傾いたが、あれは演出ではなく、アクシデントに見えた。


2005年04月10日(日) 宝生流 月並能 

宝生流 月並能  宝生能楽堂 PM1:00〜

 稀曲が出るので出かける。もっとも、宝生の月並は観ない会の方が少ないくらいなのだが。
 急激に温かくなって、桜はあっという間に咲き、風の強い日が続いたこともあって、見る間に散ってしまった。今やすっかり葉桜である。しつこくないところが桜の良さだと思う。
 見所は7割程度の入り。中正面後列脇正面寄りに着席。

 気力減退でごく簡単な記述に止める。花粉の影響か、とにかくだるい。

能 『嵐山』
シテ 波吉 雅之
前ツレ 和久 荘太郎
後ツレ 辰巳 大二郎、辰巳 孝弥
ワキ 野口 敦弘
ワキツレ 野口 能弘、野口 琢弘
アイ 三宅 右矩
笛 一噌 庸二(噌) 小鼓 住駒 匡彦(幸) 大鼓 大倉 三忠(大) 太鼓 桜井 均(春)
地頭 三川 泉

 桜の季節にぴったりの曲。正先に出した一畳台には桜木が二本立っている。実際の季節の運行に合った曲を観るのも、楽しいものである。前シテ、ツレの同吟は今ひとつ噛合わない。荘太郎師はカマエが大分腰高だと思う。シテは杉箒を下に下ろし、ツレは肩に担いでいるが、斜め横から見ると見事に平行に並んでいて、造形的な調和を感じる。ツレの縷水衣の緑が桜葉のそれを連想させる。
 アイは末社の神。ハコビ、カマエが不安定で腰がぶれる。面をかけているためか、声もくぐもり勝ち。鍛錬を期待したい。
 下り端で後ツレの木守、勝手明神が登場。天女ノ舞を相舞。謂わば露払いの役目の二人に続いて蔵王権現登場。赤頭、面は大飛出。三神は一体であることを示す直接的な所作があって、面白い。一畳台の上での飛返りがあり、豪快。満開の桜を脳裏に描きつつ楽しめば良い曲ながら、どこか咲き残した感もあり。地謡は手堅かった。

狂言 『瓜盗人』
シテ 三宅 右近
アド 前田 晃一

 瓜泥棒に手を焼いている畑主は、自らが案山子となって見張っていると、いつものように訪れた盗人は、それと気付かず案山子を罪人に見立て、地獄に追い落とすふりをして一人楽しむが、正体を現した畑主に追われる。舞台では初見の曲。
 脇座あたりに出した案山子の作り物、鬘桶に水衣を着せ、嘘吹(だと思われた)の面を乗せる。盗人は生活のためとは言いつつ、盗みそのものが楽しくなっているようで、人の業の深さをふと思う。畑主が自ら案山子に化けるが、見事に人の気配を消していて、感心。そうとは知らず戯れる盗人は、滑稽でありつつも、己の罪を案山子に肩代わりさせたいようにも見え、複雑な思い。実は重い主題が隠されている曲なのかもしれない。

能 『胡蝶』
シテ 小林 与志郎
ワキ 安田 登
アイ 高澤 祐介
笛 藤田 朝太郎(噌) 小鼓 住駒 幸英(幸) 大鼓 大倉 正之助(大) 太鼓 大江 照夫(春)
地頭 三川 淳雄

 中堅以上が勤めるのは稀な曲。能一番として玄人会に出る機会は少ない。
 正先に梅木の作り物。一気に季節が逆転する。
 幕内からの呼びかけ、可憐な胡蝶の精としては逞し過ぎる気がした。これ以降、半覚醒状態になり勝ちになってしまったが、下居姿は引き締まり、小面をかけているのも手伝って、可憐さが漂っていた。
 後シテ、緋大口、紫地花菱亀甲文様に胡蝶が配された長絹。蝶を取り付けた天冠はこの曲のみに使用するもの。舞には残念ながらあまり惹きつけられなかった。太鼓入り中ノ舞に、破ノ舞も加わる。結縁することで念願かなって梅花に戯れること叶った蝶は、静かに消えて行き、終曲。
 このように可憐で儚い存在を表現するのは、実は相当難しいのではなかろうか。
能 『大蛇』
シテ 佐野 萌
子方 前田 尚孝(代演 佐野 幹)
ツレ 野月 聡
ワキ 森 常好
ワキツレ 殿田 謙吉、森 常太郎、則久 英志、梅村 昌功
アイ 三宅 近成
笛 一噌 幸弘(噌) 小鼓 坂田 正博(大) 大鼓 柿原 弘和(高) 太鼓 徳田 宗久(観)
地頭 近藤 乾之助

 素盞嗚尊の八岐大蛇退治が主題。宝生、金剛、喜多流のみ現行曲。観世小次郎信光作。ワキ方の習い事。
 大小前に藁家の作り物が置かれる。透冠(?)のワキが素盞嗚尊。従者を従えて出雲にやって来るが、粗末な藁谷から何やら嘆く声が聞こえて来る。作り物の中から声だけが響いてくるのは怪しげで効果的。引き回しが外されると脚摩乳、手摩乳の夫婦に子方勤める櫛稲田姫が座っている。八岐大蛇に姫を捧げねばならない運命を嘆く脚摩乳に、素盞嗚尊は大蛇退治を約束し、その代わりに姫を所望する。
 中入してアイの末社の神登場。やはりカマエに問題ありで、言葉がくぐもり、耳に入ってこない。続いて正先に酒槽、脇座に一畳台が置かれ、輿に乗った態で櫛稲田姫登場。厚板、法被、半切姿のワキが続く。古事記では素盞嗚尊は櫛稲田姫を櫛に変え、自らのミズラに挿すが、本曲中では姫は酒の表面に姿を映す態で登場する。早笛で八岐大蛇登場。法被、半切、白頭に龍戴。面は竜神か。早笛、いつもよりも眺めに奏された。大小前でぐるぐる廻るような特徴的な型あり。大蛇は力尽き、尊が勝利して終曲。
 地は丁寧だが、あまりにも音量が不足していて、囃子が入るとほとんど言葉が聞き取れない。前列で観ていれば少しは状況が違ったのかもしれないが。後場は太鼓が加わり、それがバランスを欠いた音量で(無駄に力んでいるとしか思えなかった)、その傾向を加速させた。ただでさえ馴染みの薄い曲だけに、この状況は厳しかった。曲自体は、このような稀曲に有り勝ちな、そう何度も観たいと思わせるものではなかった。しかし、一見の価値あり。

 相変わらず携帯の着信音が鳴り響いた。ついうっかりが致命的になることを認識すべきである。

 今年の花粉症、例年になく咳が多いのが辛い。飛散が終るのは何時になるのか。


こぎつね丸