観能雑感
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2003年05月31日(土) 第15回 二人の会

第15回 二人の会 喜多能楽堂 PM1:30〜

喜多流の塩津哲生師と香川靖嗣師の主催。
台風の影響のため雨脚が強い中を出かける。不眠で能を見るのには適さない状態。念のためカフェイン剤服用。
悪天候にもかかわらず、会場5分前に到着したロビーには既にかなりの人数が集まっていた。2階自由席なので自主公演の時と同様に入場順を示す番号札を受け取る。28番。舞台正面ほぼ中央の2列目に着席。
開始前に女声アナウンスが入ったが、「定家」のアクセントが「定価」のそれといっしょで、いくらなんでもそれは変だろうと心中で突っ込む。
気力、体力ともに不足でやや日数を経て記録。

能 「定家」
シテ 塩津 哲生
ワキ 森 常好
ワキツレ 舘田 善博、則久 英志
アイ 高澤 祐介
笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 久田 舜一郎(大) 大鼓 亀井 忠雄(葛)

本曲を観るのは3度目だが、下懸りでは初めて。まだ映像の形としても能を見たことがない頃、『能楽手帳』を読んで最も興味を引いたのがこの曲。好きな曲である。
笛座に付いた仙幸師、どうも顔色が優れないように見える。ヒシギがあまり鳴らず何やら苦しそうだが、その後は通常通り清澄な音。
ワキ、ワキツレの同吟がやや不揃い。晩秋の山の空気を感じさせるこの道行は特に好きなので、やや残念。
幕内からの呼びかけでシテ登場。無紅唐織着流しだが、淡萌黄が入った明るい色調。面は増。コトバやや不明瞭。同世代である先日の山本順之師と比すと物足りない。流儀の傾向として、型重視で謡が弱い感あり。唐織を通して見ても、重心が低いのが解る。
初同が驚く程自然に、全員揃って出てきた。場の空気を乱さずに溶け込んでくるようで、これまで聴いた中で最も見事な謡出し。地頭粟谷菊生師、副地頭能夫師の力量か。クセも聴き応えあり。
このクセ、式子内親王の境遇に定家の執心が部分的に混じっている。これまで何度か詞章を読んでいるのにもかかわらず、今回観るにあたって目を通した際漸く気付いた己の鈍さに愕然とするが、石塔に巻きつく蔦葛のごとく個が分不明になっている様の象徴のようで、こんなところにも作者の意図が隠されているのだろうか。
里女がいつから内親王になるのか見ていたが、立ち上がって目付柱付近で石塔を見込んだ後姿に他を圧する気が漲り、明かに別人になっていた。作り物の前に立ち、姿を焼きつけるようにして中に消える。
演奏は素晴らしいが、時折咳き込みいかにも具合が悪そうな仙幸師。中入後切戸から2番目に出勤の松田師が現れ後ろに座り声をかけ、仙幸師からハンカチらしきものを受取る。仙幸師の耳打を頷きながら聞く松田師。その後また切戸から退出。仙幸師は非常に気分が悪そう。事前に頼んでおいたのか、状況から判断したのか不明だが、今だかつて見た事のない光景にこれからどうなるのかと心が騒いで高沢師の間語に集中できず。己の未熟さを思い知る。後場開始真際に再び松田師登場、後見座に付く。流儀が異なる者同士なのでやはり非常事態なのだろう。
習ノ次第で後シテ登場。紫長絹に緋大口。痩女。詞章に合わせて蔦葛を見やる型が効果的。僧の読誦に感謝しつつ舞を舞う。
しっかりした位の序ノ舞。透明な笛の音の響く中、流麗ではなく、一足一足確かめるような舞。求道者めいて沈鬱な痩女の面が舞いが進むに連れて穏やかな表情に変わって行くように見える。
以前「井筒」を観た時にも気になったのだが、塩津師、舞の直後の謡が苦しげ。実際苦しいのだろうがそう感じさせないのがプロなのではと思う。
解き放たれたのも束の間、再び蔦葛に縛められる内親王。彼女が戻って行く場所はこの石塔しかなく、定家葛と供にあるのは必然なのかもしれない。永遠に繰り返される開放と拘束。
作り物の中を2回通りぬけて絡まる蔦の型を見せたが、視界の狭い女面をかけているのでどうしても足元を探りながらになる。以前観た浅見真州師は段差があることなど一切感じさせないくらい滑らかな動きだった。この型に関してはあれを越える事など不可能だと思える程で、これを基準にしてしまうといささか物足りない。
どこが不出来というのではないが、格闘の跡が見えず、未消化な印象を受けた。やはり一筋縄ではいかない曲なのだ。
シテが幕内に入る前から盛大な拍手が起こってしまう。なぜこの曲調で拍手できるのだろうかと不思議。演能中はぐっすりお休みの方に限って拍手が大きいと思うのは気のせいか。
仙幸師、演奏は見事だったが大事にしてもらいたいものである。

狂言 「寝音曲」(和泉流)
シテ 三宅 右近
アド 三宅 右矩

上から見ると、橋掛りを歩いてくる右矩師の腰が上下しているのが良く分かる。長袴をはいている事を割り引いてもかなり気になる。発声の際首が前後に動くのも目に付く。不自然な笑いを作らないところは買えるので、若いのだし改善していってもらいたい。
主に謡をせがまれ、酒や膝枕を所望して何とか逃れ様とするが主はことごとく願いを聞き入れてしまう。「女性の膝枕じゃないとヤダ」とごねる太郎冠者、主の膝で我慢しつつも己の暗示にかかったのか、胸のあたりを触ってしまうところがとても艶。右近師の持ち味が生きる。以下、話の流れは知ってはいてもついつい笑ってしまうところが随所に。これまで意識した事がなかったが、右近氏、体のキレがとても良い。
所作が多く、話も単純なこの曲、やはり見ていて楽しいのであった。

能 「猩々乱」 壺出
シテ 香川 靖嗣
ワキ 宝生 欣哉
笛 松田 弘之(森) 小鼓 鵜澤 洋太郎(大) 大鼓 柿原 崇史(高) 太鼓 金春 惣右衛門(金)

祝言曲として半能となった本曲、現行曲中最短なのだそう。「乱」が付けずに上演される機会の方が稀なのではないかという気がする。
松田師の後見に内潟慶三師が付く。今回が披きとは考え難いので重習いであることを考えて後見を頼んだのだろうか。師に後見が付くのを見るのは初めて。柿原師の後見は甥にあたる白坂師であろうと思われる。九州在住なので聴く機会は少ないが、信行師は一度だけ拝見した事がある。今日は弟の保行師の方だと思うのだが定かではない。
ワキは萌黄に金糸で文様が織り込まれた厚板に白大口で、ワキ方としては相当華やかな出立。途中で扇を広げる所作があるのだが、青地に銀で波、月が描かれていて、思わず欲しいと思ってしまった。
後見により柄杓をのせた壺の作り物が正先に出される。幕内から足拍子を鳴らしながらシテ登場。下り端に乗って橋掛りを進んで来る。
松田師の奏する下り端を聴いてみたいというのが本公演に足を運んだ要因のひとつ。演奏自体は素晴らしいのだが、迫力がありすぎて酒好きの童子のような妖精が波間から姿を現すという、長閑な光景を想像し難い。
全身を紅一色で統一したシテ。専用面の猩々はさして視界が広いようにも見えないが、難なく柄杓を取って酒を汲む所作をこなす。
乱というテンポが頻繁に変わる特殊な曲に乗って舞うシテ。流れ足、抜き足等、酩酊して波間を漂う様を表わす特殊なハコビが随所に見られる。ほとんど動き通し。上から見ていると香川師の体の使い方が実に見事なのがよく分かる。
重習いのためか舞台には緊張感が漂い、想像していたのんびりした情景からはやや遠かったのが以外だったが、面白かった。
付祝言にも用いられるキリはいかにもめでたく、楽しい雰囲気のまま終曲。

この1番、私が実際に舞台で観た能のちょうど100番目にあたる。偶然とはいえ、このような祝言曲が区切りとなるのは祝福されているようで嬉しい。


2003年05月24日(土) 第9回 山本順之の會

第9回 山本順之の會 宝生能楽堂 PM2:00〜

八世銕之亟師と山本眞義師追善の意を込めての番組構成。両師は同年に生まれ、同年に没したのだとか。大阪の職分家出身である順之師が銕仙会に所属するようになったのは、すぐ上の兄眞義師が雅雪師に教えを乞うた事が端緒だそう。
前日よく眠れなくて睡眠不足。厭な予感がしつつも会場へ。この予感は後に的中する。
順之師の縁者が出勤するためか、関西からのお客さんも多かったよう。
パンフレットには高桑いづみ氏が寄稿しており、昨年話題となった横浜能楽堂の企画公演「秀吉が見た卒都婆小町」について述べられていた。現在の謡のリズムとは異なる旋律、リズムに同じ詞章を乗せねばならず、シテの順之師の苦労の程がうかがえた。
 いろいろ不調で書くタイミングを逸してしまい、やや日を置いての記述。

仕舞 
野宮 観世 榮夫
最後の車に乗り移るところ、成仏するのではなく、永遠に迷い続ける事を受け入れた潔さのようなものが見えた。

藤戸 山本 勝一
順之師の兄上であろうと思われる。水の中を漂う亡者を思わせる身体。脇座を見込むと誰もいないはずなのに盛網がそこに存在しているかに見えた。
途中あろうことか携帯電話の電源を切っていないことに気付く。パンフレットを読むのに夢中になっていたのだ。マナーモードにさえなっていなかったので、出来るだけ音を立てないようにバッグに手を伸ばし、電源を切る。不覚。

融 山本 章弘
眞義師のご子息であろうと思われる。声は大きいが前者2名に比べるとやはり見劣りすることは否めない。先の二人は衰えてはいても身体に芯のような、確固としたものがあった。

狂言「隠狸」(和泉流)
シテ 三宅 右近
アド 三宅 右矩

太郎冠者は実は狸捕りの名人だと伝え聞いた主人は本人に問うが、当人は知らない振り。客人に狸汁を振舞うと約束してしまったと嘘をつき、太郎冠者を市場へ向かわせる。とにかく捕らえた狸を売ろうと市場で呼ばわっていた太郎冠者は、様子を見に来た主人と出くわす。主人は太郎冠者に酒を振るまい、舞をまわせ、なんとかボロを出すよう仕向ける。和泉流のみに伝わる曲。
 主とのやり取りが済むと、シテはいったん幕内に入り、出てきたときには狸のぬいぐるみを携えていた。こげ茶色の丸い頭部に楕円形の動体と足を縫いつけた極めて簡素な作りだが、首にかけた紐で吊るされたおよそチワワ大のそれは、いかにもvital signゼロに見え、可愛いやら哀れやら。主人に声をかけられ、何とか隠そうとするのが見所。酒を飲む時も、舞を舞うときも、腰に下げた狸を庇いながらするのが面白い。酒を飲ませてから以降はやや冗長という気もした。大げさでなく淡々と演じ、それが良かったと思う。
結局酔いが回った太郎冠者は、狸の存在を忘れ、舞っている最中に主に奪われてしまい、何だこれはという事で終曲。

能 「朝長」懺法
シテ 山本 順之
ツレ 浅見 慈一
トモ 馬野 正基
ワキ 殿田 謙吉
ワキツレ 則久 英志、御厨 誠吾
アド 三宅 右近
笛 藤田 六郎兵衛(藤) 小鼓 大倉 源次郎(大) 大鼓 安福 健雄(高) 太鼓 金春 國和(金)

元雅作と考えられている。修羅能だが、前シテと後シテは別人格であり、カケリは挿入されない。動きは少なく語り中心。
「懺法」とは禅宗に伝わる太鼓、鉦を用いた観音法要の事。詞章にも懺法の文字が見え、最近の研究によると創作当初からこの演出を考慮に入れていたらしい。時代が下るに従って洗練され、現行になった模様。太鼓方にとっては重習いであり、國和師は本日が披き。太鼓後見2名が番組に記載されている事からも、いかに重要視されているかが具間見える。

橋掛りを歩んで来る囃子方を見て、「源次郎師、そう言えば久し振りだよなぁ」と思いつつ、見ているのは腰に当てた右手である。裃着用。
名ノリ笛に導かれてワキ登場。その佇まいと足取りからかつての主のための巡礼という雰囲気が漂う。
次第でシテ以下登場。藤田師の笛、以前に比べると華やかさに欠ける気もするが、ともすれば旋律的な美しさに流れ勝ちであったその音色は無駄なものを削ぎ落としたようで、私にはこの方が好ましく響く。大鼓が打ち出した瞬間に位が決定づけられたように感じられ、初めての感覚に驚く。三人の同吟が長く続くが、ほどほどの緊張感を保っていた。慈一師の後姿に若干締りがなく思えたが、着付けの所為もあったかも。山本師は大変小柄なので、女性の姿は可憐そのものであるが、その謡は滋味があり、芳醇。語リは下居姿のまま長時間続くが漫然とせず、相当苦しいだろうと思われるのだがそん事は微塵も感じさせなかった。このように端然とした下居姿を見るのは久々のような気がする。朝長の最後の場面は過剰な思い入れなく、客観性を持って淡々と語られるが、だからこそ朝長の哀れさが引き立つのだと思う。引き込まれる力強さを持った語りであった。面使いが巧みで、僅かに上向くと詞章の通り、彼方に荼毘の煙が立ち昇るようであった。
ワキに朝長の供養を依頼し、シテ以下中入。アイとの問答、語りの間に太鼓後見である三島元太郎師によって、新たな太鼓が運び込まれる。なぜ別の楽器が必要なのか、この時点では不明。
ワキ、ワキツレによる待ち謡の後、いよいよ懺法の開始。國和師を惣右衛門師が見守る。これまで意識した事はなかったが、さすが親子だけあって、こうやって比べてみると両者の顔立ちはやはり似ている。
打ち出された太鼓の音は、常とは全く異なった低く、太い音。調べ緒をだいぶ緩めてあるのだろうか。これでなぜ新しい楽器が必要なのかが判明。掛け声も通常の軽やかなものとは異なり、押し殺したような独特なもの。長い間を取って一音一音打たれる。その音に耳を傾けながら、立ち止まりつつ橋掛りを歩む後シテ。かつて経験したことのない密度の濃い時間が流れて行く。太鼓の音は、私には耳に馴染んだ法華の太鼓にどこか似ているように感じられた。「清経」の音取は劇の流れを分断する事が不満であったが、同じく分断するにしても、こちらはわざわざ行うだけの意味と効果があるように思われる。観る者も、そしておそらく演者も、到達点に向けて意識を集中して行くような、そんな時間だった。
後シテの面は今若か。緋の厚板に萌黄の法被だが、あまり良い色合わせだとは思えず、装束の組み合わせは同輩の浅見真州師に一歩を譲るか。
本舞台に入り、鬘桶に腰掛けてから主に地謡によってこの世の生の儚さ、父や兄の最後、自身の最後の様子が語られるのだが、ここにきて不眠がたたり、半覚醒状態となる。退屈なわけでは全くないのだが。無念。二人の弔いに感謝し、後生の心配はいらないからと語る朝長、ならば何故甲冑姿のままなのかと問う僧に、魂は成仏しても魄は修羅道に留まったままなのだと答える。朝長の優しさと武士の身の業の深さとに、戦の空しさが漂う。中ノリ地で負傷の場面が語られるが、膝頭を射抜かれたという事は半月板を損傷したのだろうか。耳にするだに激しく痛そうである。
地頭の銕之丞師以下、銕仙会の中堅、若手で構成された地謡。最近これらの構成での舞台が増えたが、いい事である。「地謡の銕仙会」と呼ばれた頃に比すと物足りないという意見もあるが、昔を振り返っているだけではどうにもならない。目標は高く、今出来る事を精一杯やることが肝要であろう。
番組に懺法小書演出のため、終曲後太鼓のみお調べがある。拍手はその後に賜りたい旨明記されていたのだが、シテの幕入り寸前に盛大な拍手が起こってしまい、以下、各役退出ごとに同様の結果。さらに太鼓のお調べが済んでいないのに席を立ち、慌てて座り直す人までいる始末。良い舞台であったのに締めくくりがこの有様で残念であった。拍手したり席を立った人は高齢者が多く、細かい字まで読む気になれなかったのかも知れないが、心中複雑。能に安易な拍手は不必要だと改めて思う。

中正面後列脇正面寄りという席で、舞台を遮るものがなく、見通しが良かった。騒音を立てる人や前傾姿勢で観る人等が周囲におらず、久々に落ち付いた観能。しなやかな指先に唾をつけ、調子駒(だったか?)を湿らせる源次郎師も素晴らしいアングルでばっちり拝めた。「パーツ愛」の神様は、今日も私に微笑みかけてくれたようである。


2003年05月21日(水) 私的本棚 ―能楽関係書籍一覧―

私的本棚 ―能楽関係書籍一覧―

いつかやらねばと思っていたがつい延び延びに…。蟄居状態の今だからこそ出来る事もあろうかと発起。順序は曖昧ながらもほぼ購入順。雑誌等は別途記載。随時追加予定。


1. 『能楽手帳』 権藤芳一 駸々堂 1979年11月15日 初版 1993年4月25日 12刷 1300円
今から9年前、「能とは何ぞや?」と思ったときにまず購入したのがこの本。曲のあらすじだけでなく、みどころ、代表的な扮装、季節、各流儀の小書等が見開きで掲載されている。巻末に用語解説付き。掲載130曲の中に金剛流のみの「雪」が含まれているのは京都在住の筆者ならでは。最初に手に取った本がこれで良かったと思う。

2. 『能のデザイン』 増田庄造 平凡社カラー新書 1976年12月8日 初版 1993年7月26日第6刷 850円
コンパクトながらカラー写真が豊富。タイトル通り装束、面に焦点が当てられている。欄外に代表的な出立のイラストがあり便利。

3. 『林望が能を読む』 林望 集英社文庫 1996年 第1刷 680円
書誌学者であり自身も謡の稽古をしていた筆者による曲の印象を述べたものと言ったらよいだろうか。日本古典文学の専門家ならではの豊富な知識による裏付けがあり面白いが、自説すべてに賛成できるわけではない。扱っている曲はかなり広範。

4. 『花伝書(風姿花伝)』 川瀬一馬注 講談社文庫 1972年3月15日 第1刷 1992年12月4日 第29刷 380円
購入したのは随分前だが部分的に目を通すのみで、完読したのは比較的最近。父観阿弥の理論に世阿弥の解釈を加えた伝書的性格のもの。能楽に興味を持つ者なら一度は読んでおくのが理想的。

5. 『お能の見方』 白洲正子 吉越立雄 新潮社 とんぼの本 1993年7月20日 発行 1994年3月5日 4刷 1400円
コンパクトながらカラー写真が豊富。幼少期から能に慣れ親しんだ筆者ならではの、肩肘張らない文章がいい。当時は個々の能楽師の事などまったく知らなかったが、最も印象に残っていた写真が観世寿夫師であることを後に知り、感慨深いものがあった。

6. 『能は生きている』 林望 集英社文庫 1997年12月20日 第1刷 620円
『林望が能を読む』より収録作品が少なく、曲のなかの一点に焦点を当てて自説を述べる。全てに賛同できるわけではないが、示唆に富む。

7. 『ようこそ能の世界へ 観世銕之亟能がたり』 暮しの手帖社 2000年7月25日 2400円
「暮しの手帖」の連載分に加筆しての単行本化。銕之亟師本人は完成を見る事無く他界したらしい。装丁が美しい。舞台での様子だけでなく、装束、面の写真も多い。平易な語り口で能に対する著者の想いが綴られている。兄である寿夫師の事を語った部分は、短いながらも印象的。

8. 『世阿弥の能』 堂本正樹 新潮選書 1997年7月25日 発行 1000円
劇作家としての世阿弥を読み解く1冊。創作当時の世阿弥の境遇と作風に関係を見出そうという試みであるが、牽強付会に過ぎると感じられる面も多い。あたかもフロイトのごとく全てを性的に解釈しようとするのは無理がある。

9. 『観世寿夫 世阿弥を読む』 観世寿夫著 荻原達子編 平凡社 2001年10月17日 初版第1刷 1300円
既に発売されている全集から世阿弥に関する文章を抜粋。書店で偶然見かけて購入したのだが、その筆力に圧倒されて休み時間も利用して読みふけった。ちょうど能に対して新たに興味が湧いてきたところであり、この本によりさらに助長された。多忙な筆者がこれだけの文筆作品を残していた事に驚嘆。能に興味がある人だけでなく、若い能楽師にも読んでもらいたいと思う1冊。現在、これだけ熱く冷徹に能を思う能楽師がどれほどいるのだろうか。

10. 『女性芸能の源流―傀儡子・曲舞・白拍子』 脇田 晴子 角川選書 2001年10月31日 1200円
能に取り入れられた先行芸能についての一冊。能を観る上で新たな視点を与えられた。掲載されている能の写真はほとんど著者自ら演じたものだそうだが、つい算盤勘定したくなる私は下世話な貧乏人である。

11. 『華の碑文 世阿弥元清』 杉本苑子 中公文庫 1977年8月10日 初版 1998年6月15日 17版 743円
弟の目を通して見た世阿弥の一生。時流に翻弄されながらも能を追求し続ける姿が優美かつ力強い筆致で描かれる。美化されがち(と思っているのは私だけか?)な稚児趣味が持つ性的虐待という側面を容赦なく描写している点に注目。特に印象に残っている場面は将軍義教に冷遇されている世阿弥がかの人から厚遇されている音阿弥に向かって語るところ。人としては実子が可愛いが、後継者としては不満。おまえ(音阿弥)は人間としては嫌いだが後継者としては適任…というような内容だったと思う。芸とその継承に対する冷徹なまでの強い意思が淡々と表現されており、戦慄を覚えた。

12. 『能楽ハンドブック 改訂版』 戸井田道三監修 小林保治編 三省堂 1993年6月10日 初版第1刷 1500円
能についてほとんど全てを網羅していると言っていい一冊。全体的な把握はこれ一冊で事足りる。現行曲全てのあらすじが記載されている点が特に秀逸。便利。

13. 『宝生流謡の辞典』 宝生宗家閲 佐藤芳彦著 わんや書店 1967年6月10日 初版 1999年8月1日 14版 1200円
何故か所有。謡についての参考資料として購入したのだが、完読したのは購入時より大分経ってから。コンパクトに良くまとまっていると思う。

14. 『日本文学コレクション 謡曲選』 松田 存 他編 翰林書房 1997年6月1日 第1刷 2000円
詞章を読みたいと思い購入。26曲収録。持ち運びできる大きさなので便利。

15. 『心より心に伝ふる花』 観世寿夫 白水Uブックス 1991年7月20日 第1刷 1996年9月10日 第3刷 980円
 ほとんど『観世寿夫 世阿弥を読む』に収録されている文章だが、若干例外あり。巻末の夫人によるあとがきは著者が他界して間もない内に書かれたためか、闘病の様子が臨場感を持って迫って来る。病院のベットで自ら松風を勤めている写真を見て、一筋涙を流したというくだりは胸を突いた。

16. 『お能 老木の花』 白洲正子 講談社文芸文庫 第1刷 2001年8月2日 第12刷 1050円
著者のデビュー作である「お能」の他、二世梅若実に取材した「梅若実聞書」、友枝喜久夫についての「老木の花」と盛りだくさん。能における型が大切だという主張は多いに頷ける。演者が曲に対していかに深遠なる理解があっても、見所側に何の感興も起こす事ができなければ無意味なのだ。

17. 『能・歌舞伎役者たち』 塚本 康彦 朝日選書 1994年8月25日 第1刷 1100円
著者は文学部教授。歌舞伎役者4名、能楽師3名についての私的評論と言えようか。帯に観世寿夫の名前があり、これに惹かれて購入したのだが、歌舞伎役者に対する考察が存外面白かった。私は特に歌舞伎を賞玩する者ではないが、玉三郎、団十郎に対する指摘は鋭く、なる程と思わせた。能楽師は他に初代金剛巌、橋岡久馬を取り上げている。

18. 『能楽展望 堀上謙評論・随想集』 堀上謙 たちばな出版 2002年1月18日 初版第1刷 3200円 
長年能楽界を見つめてきた著者の文章をまとめて出版したもの。購入した時、ちょうどイズミモトヤの宗家問題等がワイドショーで騒がれ出した頃で、この件におけるリアルタイムの文章もあり、印象に残っている。勿論、それ以外に様々な問題提起がなされており、興味深い。

19. 『新潮日本古典集成 謡曲集 上中下』 伊藤正義 校注 1998年10月25日 発行 2000年12月20日 5刷 各 3000円、3200円、3900円
やはりまとまった形で詞章を読みたいと思い、思い切って購入。同類他社のものと比較検討した上で、これに決定。注が丁寧で本分とは別に各曲解題がある。詞章にあわせた舞台上の動きが併記してある。底本は光悦本。

20. 『ZEAMI 中世の芸術と文化 01 特集 世阿弥とその時代』 松岡心平 編集 森話社 2002年1月28日 初版第1刷 2400円
論文、対談、誌と盛りだくさんな内容。年2回発行だそうだが、02号は出たのだろうか。未だに完読してはいないのだが、内容は濃い。

21. 『新日本古典文学大系 謡曲百番』 岩波書店 西野春雄 校注1998年3月27日 第1刷発行 4700円
新潮社の謡曲集にない曲が若干入っていたので購入。ほとんどは重なる。一冊にまとまっている分解説は少なめだが不足という事はない。本が大きく重いので読み難いのが難点か。定本は車屋本。

22. 『勁き花 八世銕之亟遺稿集』 社団法人銕仙会 編集・発行 2002年6月30日
八世銕之亟師の三回忌追善能の際、観客に配布された。A5版で同人界における小説本を彷彿とさせるシンプルな装丁でいかにも手作りというのがいい。機関誌「鉄仙」等に書かれた文章の集積なので、編集作業は大変だったろうと思うが、このようにまとまった形で師の文章が読めるものは他になく、貴重。1000円で販売されているようである。

23. 『能を彩る扇の世界』 檜書店 1994年8月20日 初版発行 2002年5月15日 第6刷 2200円
能で使用される代表的な扇の解説、流儀ごとの特色、製造方法までを網羅。カラー写真が豊富。

24. 『近代能楽緒家列傳』 穂高光晴 能楽出版社 1998年7月20日 発行 6500円
古書店で入手したので定価よりは安く、5700円くらいだったか。気にはなっていたのだが、かなり高額なので躊躇したが思い切って購入。幸流小鼓方と大学教授という二足の草鞋を履き続け、昨年秋に他界した筆者が見た能楽界人間図鑑。職能、流儀ごとに掲載されており、冒頭の流儀史概観がよくまとまっていて役に立つ。あくまでも個人な対人評価なので全面的に信用しようとは思わないが、貴重な書であることは事実。笑えるエピソードあり、どろどろとした争いありで能楽界もいろいろあるのだなぁと慨嘆。評論家に対する意見はかなり辛辣。人物評の最後に付け加えられた「小鼓は私が教えた」という一文が微笑ましい。

25. 『観世三代記 秘すれば花 −歴史の襞に隠れた一族−』 秋山ともみ 彩図社 平成13年7月30日 第一刷 952円
とある旧家から発見された家系図から着想を得た小説。三代記と銘打たれてはいるが、観阿弥に関する記述が半分以上。世阿弥は妙に影が薄く、元雅の方が目立っている。観阿弥の出自から座を持つまでの経緯は伝奇的で面白い。元重は観世座とは利害が対立する存在として扱われており、登場場面はほとんどないが悪役的。文庫で700ページを越える大作だが、求心力に欠け、休み休み読了。驚きの結末が待っている。

26. 『能を彩る文様の世界』 野村四郎・北村哲郎 檜書店 1997年2月20日 初版 2001年3月10日 2刷 2300円
能装束に用いられる代表的な文様をそれらが使用される曲、装束の種類と供に紹介。能を離れて文様そのものの成立ちについて解説した文章もあり、写真も多く楽しい一冊。

27. 『能と狂言』 創刊号 能楽学会 株式会社ぺりかん社 2003年4月15日発行 2000円
発売以降、購入をためらっているうちに見かけなくなり入手を諦めていたがその年の秋に偶然発見。能楽協会の発足と供に刊行。学会にはいわゆる研究者だけでなく能楽師、他の分野の専門家も名を連ねており、掲載された文章は論文以外にもいろいろある。まだ拾い読みの段階だが持っていて損はない。

28. 能楽博士があなたの質問にこたえる『能・狂言なんでも質問箱』 山崎 有一郎・葛西 聖司 檜書店 2003年9月8日 第1刷 1800円
横浜能楽堂の企画した講演を文章化したもの。さらさらと読めるが山崎氏の豊富な知識と人脈ならではの内容で面白い。氏が中正面で観るのを好まれるのは同じ中正面愛好家(?)としてちょっと嬉しかった。

『対訳でたのしむ』シリーズ 檜書店 各500円
観世流詞章全文が掲載。袖本よりも安価で、曲の解説、扮装の説明等情報も多い。既刊の全てを持っているわけではなく、必要に応じて購入。

『新・能楽ジャーナル』 たちばな出版 隔月間 480円
復刊第2号から購読。編集長は堀上謙氏。批評が中心。筆者の独自性が現れた批評で、新たな視点を与えられる事も多く、面白い。編集人たちが行う評談は能楽界の気になる事を取り上げ毎回興味深い。

『能楽タイムズ』 能楽書林 月刊紙 400円
昨年初めより購読。長年に渡って刊行。能楽界のニュース、評論、対談、公演案内等を掲載。能楽専門誌における老舗的存在。

『DEN』 DEN編集室 隔月刊誌 743円 1999年7月1日 創刊 編集人 児玉 信他
批評は一切載せないという編集方針。対談、インタヴュー、演能情報等を掲載。面白そうだったら買うことにしていたが、ここ最近は毎号購入しているような気がする。しかし上記2誌を定期購読しているのに対して、こちらは見かけたら購入という受身の姿勢。何がなんでも読みたいとは思わない。対談は互いを賞揚しあってやや気色悪いと感じることも。


番外
『萬斎でござる』 野村萬斎 朝日新聞社 1999年2月5日 第1刷 1999年12月10日 第3刷
1700円
購入時はまだ著者に対して興味があった。実際に能楽堂に足を運ぶようになる前の事である。幼少時から執筆当時における現在までを自ら振り返った自伝とも言える内容。和泉流の宗家が非公認である事を知ったのは、思えばこの本だった。現在、著者に対する興味はゼロどころかマイナスである。


2003年05月17日(土) 夜霧よ今夜もありがとう

夜霧よ今夜もありがとう

注:本文とタイトルは無関係であり、本文と能楽との関連性は極めて稀薄である。以下、筆者の嗜好の吐露。

放送大学の特別講座として「世阿弥と現代演劇」(タイトルうろ覚え)なる番組が放送された。2002年に開催された世阿弥シンポジウムから、主に海外の演劇関係者の発表、インタヴューを中心に構成されていた。興味深い話満載であったが、ここで重要なのはその事ではない。
番組の終了真際、参加者である大倉源次郎師による囃子についての解説と実演が流れた。時間にして僅か数分だが、個人的にはprecious momentだったのである。
果たしてどのような解説なのか、そして掛け声ではない源次郎師の声とはどんなものなのか。TV番組として放送される機会などそうあるはずもない。すかさずビデオをセットした。
黒いジャケットに白のスタンドカラーのシャツというスタイルの源次郎師、左手にマイクを持って、若干ハスキーな、落ちついた声で言いよどむ事もなく、掛け声の意味、機能等について手際良く解説する。恐らく解説付きの演能会等で慣れているものと思われる。話は大変面白かったがここで重要なのはその事でもない。
唐突だが私は美しい手が大好きである。人は自分にないものに惹かれる傾向があるという。自分の手は指が短く太いため、美しさとは対極にあり、余計にそう思うのかもしれない。そんな訳で、常日頃手に対する観察は怠らない。意識しなくてもつい見てしまうのだ。至近距離で見たことはもちろんないが、源次郎師の手は前々から惹かれていた。TV放送された能の映像を見ていたとき、「ん?」と思ったのが最初である。囃子方がアップになっときに、期待は確信へと変わったのであった。それ以来能楽堂でも源次郎師が登場すると手を注視してしまうようになった(手のみ見ていて能を観ていないわけではない。念の為)。
しかし今回はかつてないほどのアップ、さらに右手に拍子を取るための扇の骨だけのような木片(寡聞にして名称を知らない)を握っているのだ。握っているという事はつまり指を曲げているという事であり、指の長さを真に実感するのはただ伸ばしている時ではなく、曲げている時なのである。
木片を挟んで第二関節(あやふやな記憶だが、指の関節は付け根から数えるはず)で曲げられた指は、曲げているのかと疑いたくなるくらいすんなりと伸び、第三関節までの距離が長い。指が長いという事はすなわち関節と関節との間隔が長いのだという事を、眼前に突き付けられた。
美しい手と一口に言っても好みは千差万別であるが、私にも幾つか基準がある。まず肉厚であってはいけない。指は細く長く、骨格を感じさせつつも決して骨太ではあってはならない。関節ごとのふくらみは、あまりなく、直線的な方がいい。指先は四角く平らであるより、鋭角的であるものを良しとする。ツメは短く小さいのはダメで、長さは十分にあるのが良い(ツメを伸ばしているという事ではなく、もともとの大きさについてである)。手、本体だけでなく、手首も重要である。幅はあっても構わないが、厚みはあってはならない。どういう事かというと、手のひらを横にしたとき(親指が上にくる状態)、薄くなければならない。
以上の観点から、源次郎師の手は私としては申し分ないのである。拍子を取る右手を注視しつつ、心中は━━━(゚∀゚)━( ゚∀)━(  ゚)━(  )━(  )━(゚  )━(∀゚ )━(゚∀゚)━━━!!!!! であった。今の所、源次郎師は私の「美しい手ランキング」2位である。1位は映画「カストラート」の主演俳優、ステファノ・ディオジニにである。彼が1位である決め手は、「気持ち悪いのと紙一重」と言えるくらい長い指である。
よって、内田百けん(変換不可。門の中に月)の短編「山高帽子」で、友人の芥川龍之介をモデルにしたと言われている野口について「恐ろしく指の長い両手を〜」という記述を読んだだけでも内心嬉しさでいっぱいなのだ。
ちなみにパーツモデルの手のような、見られるという目的以外に存在しない、過保護な手は趣味ではない。手の美しさは用の美であると思っている。
以前源次郎師のHPに掲載されていた、鼓に調べ緒をかけている時(だったような気がする。うろ覚え)の、美しい手を堪能できる悩殺画像(あくまでも個人の嗜好である)を保存しておかなかった事を密かに悔やんでいたのだが、「パーツ愛」の神様(いるのか?)は、思いがけないところで私に贈り物をして下さったようである。
もし源次郎師に遭遇したならば(まずあり得ないが)、ぜひ手の型を取らせていただきたいものである。握手は遠慮させていただく。芸術品には直接手を触れてはならないのだ。
何て事を妄想する私は、これでも真面目な能楽ファンである。ええ、ホントに。ウソではない。決して…。


2003年05月09日(金) 銕仙会定期公演 

銕仙会定期公演 宝生能楽堂 PM6:00〜

今回は記録を残すか否か迷い、大分時間が経ってからの記述。席は脇正面寄り中正面後列。

能 「仏原」
シテ 大槻 文蔵
ワキ 森 常好
ワキツレ 舘田 善博、梅村 昌功
アイ 野村 万之丞
笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 幸 清次郎(清) 大鼓 國川 純(高)

作者未詳。世阿弥、元雅、禅竹のいずれかではと考えられている。シテは成仏を願うのではなく、自ら仏縁を得た仏御前なので、宗教性をより感じさせる。
後見によって若草色の布に覆われた藁葺き屋根の作り物が運び込まれる。本曲に小書があるかどう不明だが、通常では用いないはず。
ワキの着きゼリフに続き、幕内からのシテの呼びかけ。緊張感を伴った妖しげな雰囲気が曲趣を印象付け効果的。TV放送を見て、大槻師の声は特徴的であると感じていたが、存外言語明瞭であった。通常唐織着流し姿のはずだが、無地淡朽葉の摺箔、尼僧姿で登場。先程の作り物に続き、独自の演出を用いているが、意味があるかは疑問。夕暮れ時、若い里女が声をかけて来るところが異様なのであり、いわくありげな尼僧が登場したのでは、その効果が半減するのではないか。現在より遥かに尼僧が身近な存在であってもである。また、尼僧姿では女性の正体が仏御前である事をあからさまに宣言しているようで、仮の姿と実体との間に落差がなく、面白くない。通常通りの形で観たかった。
クセは浅見真州師率いる地謡が銕仙会らしくリズミカルで華やかに盛り上げ聴き応えあり。シテの居グセも隙なくきまる。中入はせず作り物の中に消える。
万之丞師をアイで観るのは初めて。狂言座から立ち上がった時の袴の裾の乱れが大きく、気になる。語りそのものが平板で時間稼ぎの感あり。
すぐ前の席が空席だったため、舞台が良く見え、今日は運がいいと思っていたのは開始から数分間のみ。隣の席の女性の挙動に悩まされる。左右に大きく身体を動かし、何故これほどまでに?と思うくらい頻繁に座り直す。衣類の素材の為か、その都度ガザガザと耳障りな音を立て続ける。能楽堂に限らず、客席と名のつく所に座って経験した、最もはた迷惑な隣人。間語りが終わるまではなんとか我慢していたが、後場が始まってもいっこうに治まらず、こいつは堪らんと意を決して話しかけた。必要最小限の音量で、丁寧に。少なくとも自分ではそう思っている。
「すみません。あまり体を動かさないで頂けますか?」
彼女の返答は以下のとおり。
「前の人が動くから見えないの。この人、すっごく動くでしょう?」
とても納得できる論調と語調ではなかったが、何分演能中なので、表情筋が緊張するのを自覚しつつ舞台に向き直ったが、それ以降の舞台上の様子は目に入っても心には届いてこなくなった。後述するような思考に捕われてしまった為である。
彼女の言う「前の人」については、話しかける前に観察済みである。前列の人の挙動が影響しているであろう事は当然予想出来たからだ。その結果、「すっごく」動いてなどいなかった。男性で比較的背が高いので、その分見え難いのは分かる。全く微動だにしないとは言えないが、前屈みになっているわけでもなく、これをすごく動いていると評するならば、見所のかなりの人が相当動いている事になるのではないか。彼女の行動を是とするならば、見所全体はすごい事になっているはずである。彼女の論調は、「自分さえ良ければ他者がどれほど迷惑しようと一向に構わない」と宣言しているのと同様であり、そのあまりにも自己中心的な正当化に唖然とした。彼女のすぐ後ろの席に人がいたかどうかは定かでないが、もしいたのならば彼女が主張している迷惑の何十倍ものそれをかける事になる。そして隣の私もこちらの体に触れそうなくらいに体を倒してきて、尚且つ耳障りな音を立て続ける行為に迷惑しているのである。自分自身、前の人の観賞マナーが悪くて、今日は良く見えなくて厭だなぁと思うことはよくある。しかしだからといって、その迷惑を倍増させて他者に伝播しようとは思わない。客席は知らぬもの同士の集まりであり、そこに秩序を成り立たせるならば、互いにマナーを守るしかない。彼女の右側の席は空いていたので、見え難かったのならば、そちら側に体を倒していれば、他者に迷惑をかけず少しは視界を改善できたのではなかろうか。
さらにこちらは敬語で話しかけているのにもかかわらず、このぞんざいな応答はどうであろう。年の頃も然程違わない相手であった。不快感倍増である。
後場は感想を書ける程に集中できなかったが、敢えて記すなら、序ノ舞でも軽めだった事だろうか。仙幸師の笛、療養から復帰した後は冴えていて、この日も清澄かつ陰翳に富んだ響きであった。囃子方が橋掛りにかかるまで拍手は起こらず。
大槻師を実際に観るのは初めてで、大変期待していた舞台だったのだが、このような事情で全く楽しめなかった。無念である。クセの「げにや思うこと、叶わねばこそ憂き世なれ」のとおりである。

狂言 昆布柿(和泉流)
シテ 野村 万之丞
アド 野村 与十郎
小アド 野村 萬

先程のアイに続き、万之丞師大活躍である。淡路と丹波のお百姓が年貢を納めに行き、所望された和歌の出来が良く、雑役、雑税を免れ、酒を振舞われる。名を尋ねられたが両者とも奇妙奇天烈な名前で、奏者を通さず直接申し上げる事となり、拍子にかかって言ったところから、奏者をも巻き込んで楽しく舞踊る事に。
先の出来事がまだ尾を引いていて、全く集中できなかった。件の女性が席を立ったので、気分を害したのだろうかなどと、いらぬ考えもよぎり、なんだかこちらの方が悪いみたいだなぁと、思考の迷路化状態。万之丞師と比べると、やはり与十郎師は所作が丁寧で、声にも抑揚があり、実演者としては数段上の印象。片足で飛び跳ねる所作があるのだが、高齢で長袴を着た萬師より万之丞師の方がぎこちなかったのは、体型と鍛え方の差によるものだろうか。囃子は一番目の囃子方に太鼓の三島元太郎師が加わった。三島家は小柄な血筋らしい。

能 「鵜飼」真如之月
シテ 観世 銕之丞
ワキ 村瀬 純
ワキツレ 村瀬 提
アイ 野村 与十郎
笛 一噌 幸弘(噌) 鵜澤 洋太郎(大) 小鼓 亀井 広忠(葛) 太鼓 三島 元太郎(金)

三卑賎のうちの一曲だが、後シテは地獄の鬼であり、前シテの成仏を確約するので悲惨さは少ない。舞台が甲斐の国、石和で、私にとってはご当地能である。ワキの旅僧は日蓮を模しており、私の生まれた町は日蓮宗の総本山である身延山に比較的近い場所に位置する。その為か家の宗派も日蓮宗である。私自身は特定の信仰は持たないが。石和川で鵜飼が盛んだったとは、現在ではちょっと想像がつかない。
アイの里人とワキ僧とのやり取りが、他に例がないほど険悪で面白い。
前シテ、禁じられた鵜飼を見つかり、簀巻きにして川に放り込まれる様を語る際、表面張力ギリギリで水が溢れ出すごとく、抑えた感情が吐露して迫力十分。橋掛りで鵜飼の様を見せる際、クモラせてから徐々にテラス所作で黒く沈んだ面が照明を受け照らし出され、詞章通り月の出を効果的に表現していた。
後シテは早笛に乗って颯爽と登場。鬼とは言っても地獄の番人という役所でどこか爽やか。若い囃子方の元気の良い演奏が気持ち良く響く。この小書が付くと、後場ロンギの前にイロエが入るという事だろうか。パンフレットには言及されていなかったので、正確な事は不明だが、観ていてそう思った。銕之丞師、謡、所作ともに丁寧で良い出来。こちらも囃子方が橋掛りにかかるまで拍手が起こらなかった。
件の女性はニ番目開始直前に戻ってきた。前の人は微動だにしていない時でも、相変らずガサガサと音を立てて動いていた。
開始間もなく、前列の女性が口元をハンカチで押さえて退席。暫くして戻って来た時、通路に面した私の隣の席が空いていたため、そこに着席。演能中、人の前を横切る事を避けたのだろうと、大して気にも留めなかったのだが終演後、「突然隣に座ったりしてごめんなさいね」と声をかけて下さった。暗澹たる気持ちが少し晴れた。いろいろな人がいるものである。


こぎつね丸