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2006年08月30日(水) 危機感

自分の勤めている会社が倒産したら
(または極度に業績が悪化したら)
どうしようかという心配は
多くの人が抱くものではないだろうか。
しかし最近は、会社が傾いて困るのは
そこにしがみつくしかない社員だけだな、
と考えるようにしている。

グローバル競争が激化するこの先、
どの会社も一つ選択を誤れば傾く可能性がある。
だからこそ会社とは関係なく
個人として意識を高く持ち、
いつでも外に出て行けるような能力を
磨いておかなければならない。
しかもその能力も、
人材のグローバル化の中での競争となる。
そのような“危機感”を最近は常に抱いている。

「就社ではなく就職」とは良く言ったものだ。


2006年08月20日(日) ONとOFF

社会人にとって、
仕事(オン)と休日(オフ)の
分け方というのが非常に重要である。
これは間違いない。
問題は、やりがいのある仕事をすることと、
休日に(気の合う友人などと)遊ぶことと、
自分にとってどちらがより幸せなのだろう。
結論から言えばどちらも大事としか言えないのだが。

別にこれらは対立するものではない。
しかしながら、もし仕事を優先するなら、
休日の一部の時間をそのための勉強や
場合によっては休日出勤などに
投資することになる。
仕事の積み重ねは先に続いている。
遊びは基本的にその日にすべてがある。
時間をどこまで未来のために投資して、
どこまでを今のために使うのか。

たぶん僕が恐れているのは、
投資を怠ったために仕事にやりがいがなくなることだ。
なぜなら仮にいくら遊びたいと思っても
人生においては仕事に割く時間が圧倒的に長いから、
それにやりがいがなくなれば、
人生の大部分が楽しくないということになってしまう。


2006年08月12日(土) Generation Gap

しわくちゃの写真には
まぶしかった時間と 寄り添う僕らが
痛いほど鮮やかに 焼き付けられていた
(コブクロ『君という名の翼』)

「しわくちゃの写真」という表現に“過去”を連想するが、
今はもう写真はほとんどデジタル化されているので
そんな写真はこれからの未来にはほとんど存在しないだろう。
それでも今はまだ多くの人にはこの歌詞のニュアンスが伝わる。
しかし、これからの世代は違う。最初から写真はデジタル化されている。
そういう違いを持つ新旧の世代が入り混じる社会では
「最近の若者は…」というお決まりの言葉が旧世代から乱発されるのだろう。
そして新世代は、旧世代が時代の変化を理解できていないと感じる。
こういうのはこれまでも繰り返されて来た歴史だろうが、
今起こっているアナログからデジタルへの急速な変化は
これまで以上の“歪み”を生むのではないだろうか。
しかもそのようなデジタルシフトに加えて今は、
それに続く「Webシフト」までもが始まっている。

これからしばらくは、
色々な物事が見えにくいところで、
しかし劇的に変化していくのだと思う。


2006年08月11日(金) 仕事の価値

自分にとっての仕事の価値というのは
単純にどれだけ稼げるかで決めるものではなく
どれだけやりがりが感じられるか、
というファクターも重要となる。
時間を売ってお金にしていると感じるよりも、
やりがいを感じられた方が良いに決まっている。

ただ一般的な傾向としては
年収が高い方が良いという話になる。
やりがいは主観的であるのに対して、
年収は客観的な数値だからだろう。
(“平均”年収にどれだけの意味があるかはともかく)
そもそも仕事にやりがいを求めてはいない、
という人もたくさんいるだろう。
他にも、やりがいを優先しすぎると、
もし実際にその仕事をしていて
やりがいを感じられなくなったときに
どうしようもなくなる、という問題もある。

僕にとって今の仕事は
半分遊びみたいなもの(ただし真剣な)であり、
やりがいを求めて仕事をしているが、
もしもそれがなくなってしまったら、
そのときはただお金のために時間を売るのだろうか。
そうならないためにも、
ただ目の前の課題をこなすだけではなく、
その意義をより広く深い視点から理解できるように
勉強を続けなければならないだろうと思う。
勉強しなければわからない面白さというのが
世の中にはたくさんあり、
そういうものの方が面白さが深い。
だからこれまでも勉強して来れたとのだと思うし、
今の仕事についてもいるのだと思う。


2006年08月07日(月) Grateful days

写真を見直すと、昔を思い出す。
というより、昔を思い出すために写真を見直すのかもしれない。

さてその昔の中でも、大学生という時間は、
人生において大きな影響を及ぼすものだと思う。
単純に高等教育の延長というだけではなく、
様々な経験ができる時間を得られるということが、
大学に進学する大きな意味だろう。
僕の場合、大学院(2年間)にも進学しているため、
それも含めれば大学生活は6年間になる。
後半の3年間に関しては、二つの場所に大きな影響を受けた。

一つは、地元にある地域団体。
これはかなり、プライベートな面で。
色々な出来事があり、色々な人に出会った。
今でも残っている大切な仲間もいる。
最初はもう辞めようかと思ったりもしていたのに、
今となっては出会えて本当に良かったと思っている。
僕をこの団体へと誘い、
辞めようと考えていたときも
引き止める力になってくれた
友人のおかげだろう。

もう一つは、大学・大学院での研究室。
大学と大学院で違う研究室を選らんだが、
世界の最先端で研究をしている場所と
そうではない場所との決定的な違いを実感した。
大学時代の研究室で、
「ここにいてもダメだ」と感じて、
大学院に進学するときに研究室を変えた。
そしてそれは、正解だったと思う。
でも大学での研究室での時間も無駄ではなくて、
そこにいたからこそ、
大学院での研究室の凄さがわかるという面もある。
最初からそこにいる人間というのは、
どこかでそれが普通だと思ってしまいがちだ。
また、大学での研究室の方が時間的余裕があったから、
前述の地域団体で一年間、本格的に活動できた。
そもそも、もっと時間的に余裕がない環境であれば、
辞めようかどうか迷ったときに辞めていただろうと思う。



これから僕に影響を与える場所は、
まずは新しい職場ということになるのだろう。


2006年08月02日(水) 教育格差

あいにく、世界がフラット化するにつれて、大量生産の仕事はどんどんオートメーション化されるか、アウトソーシングされるようになった。知識があまりない人間には、まともな仕事がまわってこないようになった(中略)いまは予算や有能な職員がとぼしいハイスクールを出ても、先行きは暗い(中略)われわれは若者すべてを、きわめて高い水準まで教育する方策を見つけなければならない。若者のスキルをアップグレードできなければ、スキルの低い者は賃金を下げることによって競争力を維持しなければならなくなる。
(トーマス・フリードマン『フラット化する世界』)

十分な教育を受けられるということは、
非常に恵まれた環境にある。
だが高等教育に進むにつれて、
そのような環境を手に入れるためには、
自らの努力に加えて、
経済的余裕が必要となる。
そして教育の差は、
将来の経済力の差につながる。
この連鎖を解きほぐすことが、
公教育に可能だろうか?


sora |MAIL