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2002年06月30日(日) 上を向いて歩こう

昨日は徹夜だった……でもおかげで時間に余裕をもって勉強できたので良かった。ほどほどにしないと体もたないけどね。ていうか結局は少し昼寝してしまったし。
それにしても勉強していて思うのだけど、今は教科書が存在しているし与えられた問題を解くだけだ。それでも難しい場合もあったりするのだけど、将来研究するときには教科書なしで自分で問題を設定しなければならない。これができるのか、というより、これをできるようにするためにはどのような勉強の仕方を心がけるべきだろうか、ということを少し考えながら勉強していた。とりあえず試験のためだけに勉強するならわりと簡単だ、試験の点数をとるだけなら。でもそれは虚しい、そんなことのために勉強しているわけじゃない。
別に勉強に限らず、いったいこれから先どれだけ自分のやりたいことをやれるのか、どれだけはやれないのか。今やりたいことをやりながらも、将来にもやりたいことをやれることを目指しながら今を歩いている。ときには駆け足で。


『答えを求めることは、計算と同じで、高等なレベルの仕事ではないんだ。いつも言っているけれどね、人間の能力とは、現象を把握すること、そして、それをモデル化することだ。現象と現象の関係を結ぶことだよ。それはつまり、問題を組み立てる、何が問題なのかを明らかにすること』(森博嗣『有限と微小のパン』)


2002年06月26日(水) 願い

僕が願うこと、あなたが望むこと、それらを叶えようとすること。
求めること、求められること、生きること。
出会うこと、別れること、やり直すこと。

あなたが誰を望んでいるのかはわからない。でも少なくとも僕は願う。たとえあなたが僕を見ていなくても。そしてもしあなたが僕を見ていてくれるのなら、そのとき僕は幸せになることができるかもしれない。愛している、とういうこと。


2002年06月24日(月) TOEIC試験結果

先月末に受けたTOEIC試験の結果が返ってきました。予想より良くてスコアが700台の半ばでした。それで「通常会話は完全に理解できる」とか寸評に書いてあるんだけど、実際には全然そんなことない、残念ながら。まあ所詮その程度でしかないですね、試験の結果なんて。リスニングもまだまだだし、TOEIC試験では計ることのできないスピーキング能力も高めていきたいなあ、と。でも最近スピーキングの練習はダレ気味……マズイです。


2002年06月23日(日) 人は物理のみに生きるにあらず

一応書いておきますが、俺は物理学信奉者というわけじゃないです。一つの学問としての価値を大いに認めてはいますが。でも何事も物理で説明できるわけじゃない。物理は「どのようにして(HOW)」は説明できても「なぜ(WHY)」を説明することはできないですし。ただ、「なぜ」を知るためにはまず「どのようにして」を知る必要があるのではないか、とは思います。物理学(「どのようにして」)を土台にしながら、「なぜ」に挑む「思想」の形があってもいいのではないかな、とは思います。それをやってくれる人があまりいないですが…。まあ、少しは自分でそれを実践してはいますけど、その方法論をとった「大思想家」みたいな人の著作があれば
読んでみたいです。ただ、その著者はできるだけ現代かそれに近い人でなければなりません。たとえば古典物理学しかなかったような時代の人がいくらこの方法論(物理)で著作を記していたとしても、あまり有効ではないので。歴史的な参考資料にはなるけれど。



どうも試験と直接関係のない分野のほうが今は興味がある…。ううん、しかしとりあえずは気分を切り換えて試験を乗り切ってからそちらの分野の勉強をすることにしたほうがいいのだろうなあ。


2002年06月21日(金) オーケストラ初鑑賞

今日、某大学のオーケストラ部のコンサートを聴きに行ってきました。
演奏するのは学生だけど、指揮はプロの人が客演していた。
同じ年代の学生だけど演奏のレベルが高い。といっても、プロのオーケストラの演奏を生で聞いたことはないので比較はできないのだけど、ともかく「良い」と感じた。おそらく皆がみな楽器に打ち込んでいるのだ。何かに集中できるというのは素晴らしいことではないだろうか、と思う。俺も自分のフィールドでもっとがんばらないとなあ、と思った。


2002年06月20日(木) シュレーディンガーの猫はラプラスの悪魔の夢を見るか?

一ヶ月後には前期試験開始。
そろそろ本格的に復習開始しなければなあ。
でも他のことでもわりと忙しいんだけど。
まあ忙しいというのはある意味で楽なことでもある。何をするのかをすでに決めた後の状態なのだから。本当に大変なのは、何をするのかを決める段階である場合が多い。試験終了後の夏休みまでは、ただ走り続けるだけだ。息切れしないようにしながら。



ニュートン力学の世界では、この世のあらゆる事象を微分方程式で記述してそれに初期値を与えれば未来永劫までを完全に知ることができるはずだったが、量子力学における不確定性原理がそれを打ち破り、物理は確率的にしか語る言葉を持たなくなってしまった。これはある意味で物理の退化ともいえる。そして我々が見聞きするこの世界は確率の集合、まさしく偶然という奇跡の重なり合いにより構成されているというおよそ常識的ともいえる結論に至る。しかしただ偶然であると思うのと、偶然的な法則(量子力学)というフィルターを通した上でとでは、世界の見え方が違うのではないだろうか。少なくとも僅かには変わる。少なくとも僕は変わった。
思想家と呼ばれる人々の中には、「世界」というものを知ろうとする人々もいる(いた)が、その中の多くは物理を積極的に学ぼうとはしない(しなかった)。物理を知らずしてどのように世界を知ろうとしたのだろうか。もちろん物理を知りさえすれば「世界」を理解できるなどというわけではないが、それなしに理解できるというのだろうか。(まだ完成していないが)この世を統べる法則(物理)を欠落させても理解できるほどに「世界」とは容易な相手なのだろうか。それを、時々、(とりわけ物理に関心が低い)思想家と呼ばれる人々に問いたくなる。問うたからといっても、どちらが正しいという結論になるわけでもないが。


2002年06月18日(火) 君の居場所

久しぶりに君に会う。
君は輝いていたね。僕には少し眩しいくらいに。
君のことが前より好きになったよ。
今日は会いに行って良かった。
もう少し僕に「力」があれば、君の助けになってあげられるのだけど。
でも、君は僕の助けなんかなくても立派に一人でがんばっている。
いつか僕も君に追いつくことができれば…。また今度、会いに行くよ。

『彼は、時おり、ぼくが探しているもの、長い生涯を投入すべき対象を、もう見つけてしまったという印象を与えた。』(池澤夏樹『スティル・ライフ』)


2002年06月17日(月) メモリーズ

二ヶ月以上前に撮った写真をようやく現像して見た。
いくつかの写真は、ずいぶん遠い昔の風景であるように思えた。
そこに写る人々が…今は遠い。
幾人かは、このまま遠くなり断絶するかもしれない。
幾人かは、もう一度近づこうとするかもしれない。
とりあえず明日、そのうちの一人に会いに行く。



ところで最近、眠い。
疲れているのだろうか。
まあよくいえば充実している、悪くいえば余裕がない日々。
明日会いに行くときは疲れた顔をしないようにしたいとなあ。


2002年06月13日(木) 無題

あなたが苦しんでいるのに、僕は何もできない。
そもそも、僕はあなたの苦しみの本当のところを知ることもできない。
僕はそれが悔しい。何故僕はこんなところにいるままなのか。
僕は、僕であり、僕でしかないが、今は違う僕であればと空想する。

(こんなところにこんなことを書いても何も解決しないけれど)


2002年06月12日(水) 笑えば

『私は、自分の中からひとりでに出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。』(ヘッセ(高橋健二[訳])『デミアン』)


自分のしたいことを妨げようとする人は存在する。
「いくらがんばってもできっこないよ」「世の中は君が思っているほど甘くない」と言ってくる人がいる。
あまり、気にしないように心がける。言わせておけばいいのだ。「世の中は甘くない」という言葉に甘えて努力しなかった人間が何を言っても聞くに値しない。そいつが悔しがるくらいに楽しい笑い声を聞かせてやればいいのだ。そういうふうに笑えるように生きればいいのだ。
傲慢だろうか。でも、いいのだ。これくらいの傲慢さがせめて若いときにはあってもいいと思うのだ。今はまだ、そう思うのだ。

……ありがとう。

(もちろん、「世の中は甘くない」というのは傾聴に値する忠告である場合もあるけれど)


2002年06月07日(金) Mathematical Methods for Dream

『「どんな仕事に就いても、どんな人間とつき合っても、やっぱり、自分に都合の良い目標を近場で適当に見つけて、それに集中して、それに逃避して、それが自分の夢なんだって、思い込もうとするんです。人間ってそういう生き方しかできないんですよね。」』
(森博嗣『夢・出会い・魔性』)

身近な目標は、必要だ。ゴールが遠すぎるとき、まずは手っ取り早いところから手をつけていく。数学の問題を解くのに似ている。問題を見ただけで直観できる天才以外は、少しずつわかるところから手をつけていく。いくつかの特殊な仮定を施し、特殊な場合の解を得る。それからだんだんと仮定を外していき、最終的に一般解を得る。
だが、ときには仮定が邪魔な問題もある。「真理」に到達するためには仮定を最初からなくしたほうがいい問題がある。同様に、直接ゴールを目指したほうがいい場合がある。つまり、「勝負」を仕掛けるべき瞬間がある。今はまださしあたって「勝負」のときはない。だから近場の適当な目標に打ち込む。思い込めば楽だし気持ちが良い、たとえそのことを自覚していても。ただし、そうしながらも遠いゴールのことを常に忘れないようにする。近場の目標のベクトルの向かう先は遠いゴールなのだ。ゴールを、夢を諦めたとき、人間は本当の意味で「老いる」のだと思う。

『「なりたいものになれない人はいない。なれないのは、真剣に望んでいないだけのことだ。自分で諦めてしまっているからなんだよ。人間、真剣に望めば、実現しないことはない」』
(森博嗣『封印再度』)


2002年06月05日(水) 若人

ここには何もない。
と感じることがある。
でも実際には、どこにも何もないのだ。
どこか違う場所に行くだけで本質的な何かが変わるわけじゃない。
変わるということは、そういうことではないから。
そんな簡単なことではない。
だが同時に。
ここには何でもある
とも思う。
手を伸ばせば、すぐ届くことに気づく。
つまりそれが、「若い」ということだ。

「若さ」という燃料をどのように「消費」していくかが大事なのだと思う。若さがなくなってから後悔しても遅いのだ。安定を求めるのは年老いてからでいい。でも、どうも周りの同年代の知人を見ていると、すでに安定した場所に留まろうとしている人が多い。野心も夢もない。最初から諦めている。あるいはそもそも何も考えていない。それは生きかたの違いだからいいのだが、そのくせ「お前は良いよなあ」「どうせいくらがんばってもお前には勝てないからなあ」とか言うのはやめてもらいたい。実際に努力している量が違うのだから。人間は機会は平等に与えられるべきだが、結果までが平等であるはずがない、むしろ平等では不公平だ。努力した者としなかった者の結果が同じであるはずがない。ただし、努力したからといって必ずしも報われるわけではないが。それが努力しない人が多くなる原因の一つかもしれない。
(それと、いくら努力努力とはいっても、やはり「才能」というものの差は歴然と存在してはいるけれど。実際、いくら努力しても勝てない相手はいるし(相手が全く努力しない場合は別だが)、逆に自分が誰かにとってそういう存在にもなりえる)



2002年06月04日(火) 君と話そう

大学の講義室の席は固定ではないが、だいたい誰がどの辺の席に座るかというのは実際には決まっている。みんな座り慣れた場所に座るから。

さて、いつも俺の近くに座っている君。
君とは席は近いけどあまり話したことはないね。
でも少し、君に興味を持ったよ。
だから、少し君と話してみようと思う。
いつも同じメンバーとだけ話すのは安定しているけど、それだけだと「飽きて」しまうしね。せっかく君が近くにいるのだから、君と話してみるのも悪くはあるまい。
君にとってそれが迷惑でなければ。


2002年06月01日(土) ある自由な日々に生きる

『人間は自由であるように呪われている』(サルトル)


周りには自由が果てしなく広がっている。
今、たとえ不自由だと感じていても、それは不自由な自分に、すなわち変わる必要のない安定した自分に心のどこかで「安心」しているだけである場合がわりと多い。
どこにでも行けるということは、どこにも行けないということと同義だ。
何も求めるものがなければ、ただ流されていくだけだ。
自分で何かをしようとしなければ、誰も何も与えてくれない。
もちろん自分で何かを勝ち取ることもできない。
その先に待っているものは、平凡な死、名前のない死だ。
別に名前なんてなくってもいいといえば、そうかもしれない。
でも、たぶん、それは悲しいことだと思う。
名前なんてただの記号にすぎないけれど、記号さえも与えられない人間は寂しくはないだろうか。


『「ねえ、私が死んで百年もたてば、誰も私の存在なんか覚えていないわね」
「だろうね」と僕は言った』(村上春樹『風の歌を聴け』)


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