■くちばしにカモミール■ 赤也入部の年



 笑い声は外にも響いていた。暖かい日と肌寒い日を繰り返した4月の空は、着古したシャツのインディゴのように柔らかく青かった。すべて開け放たれた窓から太陽が近い。しかし風はまだ温度を保てずに、仁王はすうすうする襟足をてのひらで庇いながら歩き、更衣室のドアを開けた。

 ベンチには見なれた黒のキャップが、たくさんの白い花を盛られて逆さに置いてあった。

「仁王!」

 笑い声の40%を担当する丸井が、もう愉しくてたまらないという顔で仁王を輪に促す。ロッカーに凭れた、浮かない表情の真田が気になりつつも、いつもの調子で仁王はそれに応じる。

「仁王お前、『真ん中バースデー』って知ってる?」
「おう、知っとーよ」
「知ってんだ!!」

 最高だぜてめーら!と言って丸井はまた笑いはじめたが、てめーらのうち自分以外が誰なのかわからなかった。

 真ん中バースデーは果たしてそんなにウケるだろうか。仁王の中ではわりとポピュラーな文化に属していたので、なにが丸井のツボを刺激したのか謎であった。ぽかんとしていると、一番手前で着替えをしていた柳生がこちらを向いた。

「丸井くんのお誕生日が4月20日なんです。その日が、幸村くんと柳くんの真ん中バースデーなんだって」
「真田が!!」

 丸井が堪え切れずそう言うと、柳生も抑えていた30%の笑い声を爆発させた。次の瞬間には仁王も40%くらいの笑い声を追加していたので、男子テニス部更衣室の笑い声の総和は140%になった。真田の方から低い唸り声がした。最後まで笑っていた幸村精市は、ヘアバンドで前髪を押さえてベンチから立ち上がった。

「じゃあ真田、後は任せた」

 言って笑いながら仁王に向かって掌を上げた。仁王も手を上げその掌の中へ落とす。高く乾いた音がした。幸村の掌に触れると、いつも火傷する様な感じを覚えた。それは仁王をどこかしら緊張させた。

「仁王、体育?」
「そう」
「いいな。おれ今年6限体育ないんだ」
「今日ずいぶん早いのー」
「体入の一年、ちょっと揉んでくる」

 怖ー、と言うとハハハと笑いながら出て行った。笑っていたが絶対に本気だ。多分部がはじまる頃には体験入部の希望者は半分になってる。

 真田を嘲ることに飽きた丸井は、とっくに着替え終わっているくせに柳生と話し込んでいる。柳生は着替えが遅いので、いつまでももたもたポロシャツの裾を仕舞っている。仁王は気を利かせて、ジャッカルがもう打っていたと、柳生に教えてやる。

 〇.一秒後、丸井が飛んで出て行った。柳生はまだもたもた着替えながら、こちらを冷ややかに刺した。

「市場の原理」
「弱者淘汰です」
「真田」

 笑われ疲れてげんなりとロッカーを整頓していた真田は、仁王の呼びかけにすぐ応じた。



 常ー勝ー立海大! レッツゴーレッツゴー立海!
 一発決めてやれー(オー!!)



「真田、花一匁強いか」
「強いと言うか、どうなったら勝ちなのか分からん」

 答えに覇気がない。真田は煎じても真面目しか出てこないような男で、基本は打たれ強いのだが女子どもに弱い。そして己が十三歳なので、日々是四面楚歌、敵に囲まれて暮らしている。はやく元服させてやりたい。

 そのせいか、真田はおかしなのとばかりつるんでいる。一番仲がいいらしい柳は地蔵の化身か弥勒菩薩の生まれ変わりのようだし、もう一人よく一緒にいる幸村もどう見ても人間ではない。柳は、きっと真田が笠を被してくれた恩返しにやってきたのだ。幸村は、真田に撃たれて手傷を負った熊か猪の生霊だ。

「そら、好きな子とったら勝ちじゃろ」
「違うだろうな‥‥」
「俺は柳生がほしい」

 真田が驚いた風な視線を向ける。そして仁王の口許を見て更に驚き、しかつめらしく顔を作った。

「何を食ってる」
「はな」

 さっきベンチからくすねてきた白い花は、甘いリンゴの香りがした。

「でもなー本人、いま絶賛三角関係中なんよなー」
「っ‥‥さんか‥‥」
「柳生も丸井も、ジャッカルくんがええんじゃてー。おれはみ子じゃー」
「なんだ、ダブルスの話か」
「何の話じゃと思った?」
「た」
「たるんどる」

 そっと手を離すと花の生首は、歩く速さに遅れながら真田の真っ直ぐな髪をかすめた。

 窓の下で、あれほど騒がしかったコートが静まり返っていた。ガットがボールを打ちのめす、高く乾いた音が、それだけが4月の空を突きぬけ、揺るがし、響かせた。あそこに幸村がいる。

 一瞬、真田の心が身体を離れるのがわかった。そしてまたすぐ元の器へ戻ると、気拙そうな縋るような眼で仁王を見る。

 もうすぐ山の神に魂をとられる。囚われたら最後命の尽きるまで、ぐるぐると暗い山野を歩き続けるのだ。出口もなく時の流れもない、永遠のけものみちだ。

「仁王、さっきの話だが、あれは蓮二が」
「俺も知っとったよ。うちにも姉ちゃん居るじゃろ」
「む、そうか」

 ほっとした表情の真田は、言われて見れば中学生に見えなくもない可愛らしい顔をしていた。今年から合同授業が一緒になったから、あの黒い帽子なしの真田の顔をよく見かけるようになるだろう。真田はクラスの女子からどういう扱いを受けているのであろうか。

「ほんで、真田は柳と幸村、どっちが好きなんじゃ」

 その日を境に季節は春から、夏のはじまりへと移ろうだろう。二つの日付がもう一度交わる秋の日は、柳生の誕生日だ。まだ誰も気付いていないといい。俺が最初に見つける。

 真田はあどけない視線を向けていたが、仁王が一歩抜けて部室棟を出る頃には、ようやく質問を理解して烈火のごとく怒り出した。よもや追いつかれまい。コートへ辿り着けばきっと幸村が笑いながら新一年を凍てつかせている。山の神あらためサービスの鬼・幸村精市は、笑いながら敵を打ち砕く。

 そして幸村精市は、花びらに煮え湯を注いでカモミールティーを煎れる。



(終幕)




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柳生も知ってたよ真ん中バースデー。柳と仁王は姉所蔵の「こどものおもちゃ」を読んでいるに二千点。
市場の原理→ニーズに応えてサービスが最適化される(誤り)
弱者淘汰→比呂士がとろくさい
はみ子→あまりっ子。なかまはずれ。

2007年04月13日(金)

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