夕日のような朝日を抱いて



 薄っぺらなステンレスのシンクの底をあまだれが叩いた。ぬるい音だ。俺は床にぽつりと置かれた灰皿の、三、四本の吸い殻を見ている。
「ここねー水、使い放題なんだよ」
 家賃にコミなの。すごくない? 声は水音の隙間で、膨張して聞こえた。座布団には四隅に、金色の(それを模した明るい黄色の)細い総がついていた。同じものが、向こうの部屋との境目に数枚積み上げてある。誰か頻繁に出入りするのだろうか。
 板張りの床は傷んでささくれていた。板の間、畳、畳、三間続きの計二十四畳。一人暮らしには広すぎる。アパートと言いつつ半ば借家のような、その部屋は家賃三万そこそこで、剥き出しの台所には古くてでかい冷蔵庫がのさばっている。前の持ち主に捨て置かれたくせに、まったく太々しい。
 その冷蔵庫の陰から千石清純が頭を上げた。驟雨を走り抜けてきたように、その髪は濡れている。
『料理はしてないからいいの』
 そう言って台所の洗い場に頭を突っ込んで洗い始めたのを見て、正直何も言う気が起きなかった。料理しないならいいか、とさえ思った。冷蔵庫には缶ビールとツマミしかなく、そしてその量もまた来客の多さを物語っていた。
 らしくないと感じたが、その感じ方を身勝手だと思った。俺は開けたきり放ったらかしていた缶ビールを一口煽った。鉄臭かった。
「中学の時以来だね、うちに来るの」
 こちらを見ないままで千石は部屋を横切っていく。ろくに拭いていない頭から滴がぽたぽたと垂れていた。
「‥‥初めてだ」
「俺んちって意味だろ。ようこそいらっしゃい」
 ただっ広い部屋の向こうから、顔だけ振り向いたようだが、遠すぎてよく見えなかった。
 実際には俺の部屋よりも教室よりもテニスコートよりも狭いこの家は、それでも充分広すぎる。俺とこいつの二人だけを置いておくには、苛立たしくて滑稽だ。
「でもね、跡部くんくらいだよ。土日使って飛行機乗ってここまで来てくれんのさ」
 押し入れに何か探しているらしい千石はやっぱりこちらを見ないまま喋った。声や喋り方、身長も、なにもかもが大して変わっていない。
 大学に入った途端、姿を消した千石清純。地方の国立に合格したのだと人に聞いた時は夏も始まろうとしていた。引っ越していったことに俺が気付くはずもない。家に行ったのは中学の話だ。高校の三年間は、会いに来なければ会わないような、付き合いだった。
 だから俺がこいつをらしいらしくないと判断する根拠はほとんどない。もちろん俺の直感に根拠など必要ないが、俺自身がそれをそう感じている。これも直感だ。俺は、はっきりとこいつに引け目を感じている。
「なんでこんなとこまで来た」
「えー、やりたいことがあって」
「そうか」
「嘘だよ。都内で通えるのに一人暮らししたいって言うのも気が引けて」
「そうか」
 どうでもいい。お前がそう言うならそれでいい、そう思う。こいつに関するすべてのことに目くじらを立てたくない。いちいち驚いたり、戸惑ったりもしたくない。
 高校の三年と、その後の二年と少し、こいつという「問題」に手を触れずにいたことに俺は後ろめたさを感じている。こいつはどうでもいい他人でありながら、俺自身の問題だった。そうあり続けた。解決を先延ばしにすることは俺の流儀ではない。
「今のも嘘、じゃないけど、跡部くん」
 頭を拭きながら千石が歩いてきた。畳の上でぺたぺたと足音が鳴った。そうして板の間が軋み、奴はもうすぐ目の前にいる。さっきの灰皿の横で立ち止まって、しゃがみ込んだ。俺のすぐ足の先だ。
「煙草、吸うのか」
「俺んじゃない。ねえ跡部くん、テニスやめたんだね」
「ああ」
 俺からは何も言わずに離れたくせに氷帝の誰かと繋がっているのは、知ってる。壁に凭れた体を起こそうとしたが、上手く力が入らなかった。千石はすぐ一メートル先にいて、俺の顔を覗き込んでいる。
 その相変わらず馬鹿馬鹿しい色をした髪に、触れたいと思った。濡れてことさら赤く見える。色濃い夕焼けのようだ。この色を見て安心したんだ俺は。そう、言ったら少しはこの気持ちも晴れるだろうか。俺の知らないところで生活しているお前が、俺から遠く隔たった場所を日常にしているお前が、相変わらずその馬鹿馬鹿しい頭で俺は安心したんだよ。
「自分でさ、さっきなんて言ったか覚えてるか」
 改めて聞くと少し低くなった声で千石は訊いた。バーカ、誘導尋問の典型だろうが。
「なんでこんなとこまで来た。千石」
 こんなところへ。こんなところまで。俺からこんなに遠くまで。
 千石は答えずに、ただ鼻を鳴らして、肩に掛けていたタオルをかぶった。しゃがみ込んで膝に顔を埋める姿はまるで、あの夏のコートの上の最後の場面みたいだった。
 俺が見た最後の試合でお前は勝ってた。その後に起こったことがたとえ、何もかも気に入らない無様なものだったとしても、事実は覆らない。俺が見た最後の試合でお前は勝ってた。その後俺が何人に負けて何人を負かしていても、俺が見た最後の試合でお前は勝ってた。



(了)

跡千in北海道。

2006年05月23日(火)

■負けルール■ 五年後・南くんと(跡千)


「南はさあ」
 べちゃべちゃしたチャーハンを掻き込みながら千石が言う。
「彼女の言うことは分かるの?」
 いいや、と少し考えるふりをしてから答えた。彼女というのは千石の元カノで、別れて半年も経つのになんでだか今更、俺のところへ相談に来た。何か心境の変化があったんだろう、よりを戻したがっている。
「じゃあ、俺のことは分かる?」
 俺はまた少し考えるふりをした。躊躇うのは、答えたくないのは、失望しているからだ。千石はちらりと顔を上げてにたーっと笑った。
「南も俺と同じだって、あの子が聞いたら『裏切った』って思うよ、きっと」
 何も否定をしなかったので、俺の沈黙はそのまま肯定になった。
 千石は無頓着だ。人が言うほど移り気ではなくむしろ執念深い類いだが、浮気に見えているとしたらそれは無頓着だからだ。でもそういう気分は男にはなんとなく分かる。空気のようにああ、と共感できる。少なくとも千石がその点で特別なわけじゃない。
 だけど多分こいつの言う通り、俺がこいつの肩を持ったら彼女は(そして他の女の子も)目を吊り上げてこう言うんだろう『南くんまでそんなこと言うなんて思わなかった』それは俺が悪いのか。
「同じじゃねえだろ。俺は努力してるよ」
「うーんそうだね。つきあってる子を大事にしてる」
「そうだ」
「南の彼女は幸せ者だ」
「それは違う」
 俺はとっくにチャーハンを投げ出していた。千石は律儀にもうすぐ食べ終わろうとしている。
「俺が取り繕うのは自分でそれが嫌だからだよ。好きになるなら全力でならなきゃ、なんか気持ち悪いだろ。だからそうなるように努力してんだ」
「取り繕うなんて言うなよ」
 ワカメスープを啜りながら、いやに真面目な声で言った。いつだってこいつが真面目だということを本当は俺は知っている。
 中学の頃、こいつと毎日いた頃の俺は、無知で鈍感だった。千石清純をどこにでもいる普通の奴だと思っていた。それは正解だが、当時の俺が正解に辿り着いたのは色々なことを看過していたからだ。振り返れば千石は早熟だった。いつの間にか一人で男だった。俺たちの中でまだ誰も、千石のようにそんな風に自分の性(さが)に倦んでいる奴はいなかった。
 誰もがそれを取り繕って暮らしている。自分の空しい部分をうまく埋めようとしている。
「健太郎はいい奴だよ、本当に」
「お前に言われなくても知ってるよ」
 千石は笑ってスプーンを置いた。

 *

「でもまあ、どのみち彼女とはもう付き合えないよ。俺いま恋人がいるんだよね」
 二人分の食器を手に千石が立ち上がる。拾ってきたようにレトロな卓袱台には、他には何一つ乗せられていない。手渡された布巾で水拭きしても、曇った表面は拭えなかった。本当にこんなものどこから持ってきたのだろう。
 駅から二分のワンルームは古くて狭い。もっといいところにも住めるだろうに変に構わないところが、どうしようもなく千石だ。
「それとなく伝えとく」
「悪いね」
「ここにも来たりするのか? その彼女」
「えーなんで」
 バツの悪そうな苦笑いを、俺はどこかで予測していたように思う。それでもしらばっくれて当たり障りのないようなやりとりを続けた。
「別に。ぼろくて嫌だとか言われないのかと思って」
「嫌だとは言わないけど」
「料理とか、しなかったじゃん。その子の影響?」
「あー、うーん。違うよ、やっぱ一人暮らしだし、自炊しなきゃって」
「いい傾向だろ。お前、与えないと食わない奴だったもん」
「そりゃ、変わりますよ」
 かちゃかちゃと、俺に背を向けたまま千石は皿を洗っている。その姿に首を傾げたくなる気持ちがないと言えば嘘になる。さっきだって、南ハラ減らない?と聞いてきた時は疑わずどこかへ出るものだと思っていた。「なんか食いに行こうよ」それこそこいつの十八番だ。
 火力の弱い電気コンロで千石が作ってくれたチャーハンは、洒落にならないくらい不格好で、そしてまずかった。
『言っていいか?』
『んー?』
『ふりかけごはんのままの方がましだったと思う』
 千石はもくもくとそれを食べた。
 べちゃべちゃした炒り卵とスープの入ったフライパンにふりかけごはんをぶち込んで炒めるという独創的な作り方のチャーハンは千石家伝統の料理なのだという。中学の頃とか何度か、こいつんちで飯をご馳走になった。その時感じた違和感はこれだったのかと俺はようやく理解した。
 千石の母さんの料理は美味かった。でも、別に不味くたってよかったのだ。それはどうでもいいことだったのだ。
「なんせね俺、幸せでいないといけないんだ」
 少ない皿を丁寧に洗いながら、千石は言う。綺麗になってしまった卓袱台の前で俺は手持ち無沙汰に聞く。お前は昔から、俺相手に、まるで聡い人間に話すように話したよ。かつてはよく脈絡の分からなかった千石の言葉が今はあまりに生々しい。
「幸せでなくなったらその子は、すぐに俺の前からいなくなっちゃうよ」
 もしかしたら惚気られているのかもしれなかった。どんなに自分が愛されてるか、どんなに大切にされているかを、千石は表現したかったのかもしれない。そうだといいと思った。思うのは願望であって実際とは食い違う。
 それでも願望なら願望で信じ徹せばいい、それができない自分がひどく残酷である気がした。俺は俺の望むよりまだ幼かった。
「だから幸せにしてないと」
「別れろよそんなの」
「え?」
「あっ」
 いや、悪い。なんでもない。片手で口を覆ったら一気に汗が吹き出した。顔が火を吹くように熱くなった。本当にこんなこと言うつもりじゃなかったんだ、となんとか伝えたいと思ったが、そんなことこいつは大した問題にしていないんだろう。恥ずかしさで目を合わせられない俺の真横ににやにやしながら(見なくても分かる)しゃがみ込んで千石は俺の頭を掴んだ。
「健太郎くんは本当に俺のこと好きよねえ〜?」
 もちろんだ。だから俺の気持ちはお前には一生わからない。ぐりぐりと頭を撫で回す千石の手はまだ遠慮なく濡れていて冷たかった。台所の水は流しっぱなしで、千石は素足で、カーペットはすすけて変色している。その恋人とやらを今度俺に紹介しろ、殴ってやるから。



(了)

2006年05月19日(金)

情のガム、のキャラメル■ 実録・千石くん家 と跡部くん




     1


 ママ、ママ、ママ、とおうむのように繰り返してるのは小学四年生くらいの女の子だ。こういう人形あったなあ、トムとジェリーかなんかに出てくる気味の悪いミルク飲み人形だ。外国のこどもってなんであんな恐怖的な趣味なんだろう。
 ママ、と呼ばれているのは俺の目の前に立ってるおばさんだ。俺の隣りに腰掛けている女の子がおばさんに触れるには、そのまだ短い腕が俺の膝の上を横切らなければならない。女の子はそれを遠慮している。ママ、ママ、と同じ強さで繰り返すその子は見た目よりもだいぶ幼く、言ってしまえばまるで頭の足りないように見える。ママ、ママ、おばさんは知らんふりだ。ついさっきまで、女の子が俺の横に座るまで二人はごく当たり前に親子の(それも女同士特有の)会話をしていた。女の子はちゃんと年相応の受け答えもできるし、おばさんは別に娘をこのまま電車の中に置き去りにしてしまおうなんて企んでるわけじゃない。
 ママ、ママ、ママ、ママ、ママ。俺は死にたくなってしまった。跡部くんが一緒だったら良かったのに、と思って、やっぱり俺はそれに耐えられないだろうと思った。本当は自分が死にたいなんか思ってないことも知ってる。


 うちの両親は超愛しあって結婚した。‥‥これからそういう話をするから跡部くんにしか興味のない子は直接彼のとこに行ってね。


 うちの両親は超愛しあって結婚した。家中の反対を押し切って、勘当も辞さない覚悟で父親は母親を奥さんにしたらしい。何しろ二人とも学生だったし、父親は長男で実家は地元の名士、おまけに母親のおなかには既に赤ん坊がいた。山奥のど田舎のことだ、産むなら結婚は許さないとかすごいことも言われたとか。まあ俺がその辺の経緯を知っているという点から、その山奥のお屋敷がどういう人たちの集まりなのか察してほしい。
 その母親は四十二歳、波乱の結婚やら出産やらを経て数年前から大学で助手の仕事にありついている。理工学の研究室がどういうところなのか俺にはさっぱりだが、アルバイト同然でも楽しく好きなことをやっているのは良いことだ。
 父親は彼女にまったく頭が上がらない。見るからに融通の利かない堅物で、青学の手塚と立海の真田を足して二で割って五、六歳老けさせた感じの、しかしながら年の割に若々しく切れそうな雰囲気を持っている。こういう人の下で働くと忙しい自分に充実感を覚えてしまいそうで嫌。
 そして彼らが十九、二十歳の若かりし頃、駆け落ち同然のボロアパートの落ち葉に埋もれた空き箱みたいな六畳間で愛情をたっぷり注いで育てた赤ん坊が俺。なわけはなく、計算が合いませんので、これはマコトのことを指している。俺のお姉ちゃんという人だ。
「真実の『真』に『言う』で真言」
「随分かっちりしてるな」
「俺が『清純』と書いてキヨスミだよ。そういうセンスなの」
 真言は今年で二十四になった。この人の一日は朝の食卓ではじまり、夜の団欒で終わる。イメージと違うかもしれないけどうちは可能な限り家族全員でごはんを食べる家です。で、お姉ちゃんは朝みんなで食事をした後、自分の部屋に帰っていき、それから何をして過ごしているのかは家族の誰にもわからない。俺の記憶にある限りお姉ちゃんは、家の中を一歩も出ていない。
 小学校に上がる前に今のマンションに越してきた時、俺は、お姉ちゃんが新しいおうちに一緒には来てくれないんじゃないかという激しい不安に襲われたことを覚えている。
「だからその前から、なんかしら籠りがちな人だったんだよね」
 自分たち家族よりも家、空間そのものの方を依り代としているように思えたのだろう。あのアグレッシブでタフな両親をしてどうしてひきこもりの子どもが育つのかと不思議に思ったが、「そんなのお前もじゃねえか」と跡部くんが言って、俺はすごく納得したのだった。
「お前とお姉さんは似てんのか」
「顔? うーん似てないかな。全然」
「それは何よりだ」
「そうだね。結構美人だよ」
 俺は澄まして付け足した。跡部くんにルックスの話をされてへこむほど自信家じゃない。
 俺に似てないお姉ちゃんは父親にも母親にもよく似ている。とんがって涼しい感じの目鼻立ちだ。俺が似ていると言えば父方の祖父と叔父(うちの親に『一緒になるなら産むな』と言い放った人だ)なので、そのことに子ども心に変な申し訳なさのようなものを勝手に抱いた時期もあった。今思えば父系の顔に生まれて親孝行だったわけだ。
「そうかい。じゃあ、行くか」
 跡部くんはさっくり立ち上がった。肘掛けのついた丸っこいダイニングチェアがずずっと音を立てて下がった。俺は胃を真下から突かれたような衝撃で声が裏返った。
「えっ、なに、なにが」
「何じゃねえよ、ご挨拶だ。今居るんだろ」
「いやいやいや、いいですよ、気にしないで」
 お姉ちゃんの部屋はさっき俺たちが通り過ぎた、短い廊下の脇にある。広くないこの家で唯一、リビングを通らず外出できる部屋だ。‥‥それはつまり真言が、本当は誰にも知られず様々なところへ出かけている可能性を示しているのだ‥‥跡部くんは冷たく透き徹った目で俺を見た。
「別に、美人だと聞いたから行くわけじゃねえぜ」
「いやでもあの、あのね跡部くん」
「もしかして、客が来るのを嫌がるのか?」
「わかんないよ! あっあのね‥‥」
 跡部くんは、怪訝な、と言うべき顔をしていた。けれどもその視線は本当に澄んでいて、湧き出る山水のように冷たかった。感情的な比喩でなく温度としての冷たさだ。事実、声はむしろ温かかった。
 あのねと制止しながら俺は彼を止める理由のないことに気付いた。ただ、今までは誰もわざわざ会おうとしなかっただけだ。避けるでもなく、ふーんそうなんだと、うちに来た数少ない友達は誰もそれを軽く流した。そして真言が俺に友達について何か言ったことが一度もないというだけだ。会いたいとも、会いたくないとも。
「千石」
 まだ新しい、紙の上の乾ききらないインクのような、跡部くんの俺を呼ぶ声だった。跡部くんが初めてうちに来た日。俺たちがテニスを離れて色々な話をした中学二年の夏の終わり。俺の世界といえば学校の友達、面白くて仕方がなかったテニスと、急にキラキラしだした女の子たち、そして生まれた時から変わらない家族で全部だった。


『どうした』
 電車の音から逃れるように俺は携帯に耳を押し付けた。轟音はホームを去って、機械的だけどやけに綺麗な、跡部くんの声が掌の中から聞こえている。明る過ぎた車内に比べて午後六時の曇り空は暗闇のようだった。
 ‥‥女の子は軽々と立ち上がるとおばさんの隣に並んだ。天井のスピーカから停車駅のアナウンスが流れ、窓の景色は減速した。「ずっと呼んでたんだよ」「そう?」扉が開くと女の子は他の乗客に紛れて母親とホームへ降りていった。俺はまた電車にくるみ込まれて動き出す。
 いくつかの駅を飛ばしていく急行電車の次の目的地は遠い。空いたシートには女子高生が、どこかから現れてぽとりと落ちるように座ると、秘密めいた色あざやかなおしゃべりを続けている。彼女たちの声はキラキラしながら上滑って、俺は相変わらず跡部くんがここに居ないことを考えていた。そして次の駅で思わず席を立った。駅名も確かめずにそこで電車を降りた。
『‥‥返事をしろ千石。でないと非常事態と見なして通報する』
「え、メンゴ、無問題です。いやぁごめんね急に」
『電話なんていつも急に鳴るもんだろ』
「うわあかっこいい。惚れちゃってもいい?」
『何の用だバーカ』
 言っても彼が混乱するだけだろう言葉を俺は頭の中で早口に伝えた。もし、もしあの女の子とおばさんの間に俺だけじゃなく君がいたら、「呼ばれてますよ」とか君は言ったかもしれない。「とんとんってしてみろ」って、腕が目の前を横切ることを女の子に許したかもしれない。君がいたら、俺がそれを言うことだってあったかもしれないんだ。
 それは俺をこんな気持ちから救っただろう。けど、それに俺は耐えられない。君が正しいことをすることに、君のお陰で俺が正しいことをすることに、今こんな気持ちでいる俺は耐えられない。
「うんとさ、あのね、今度うちに来ない?」
 ようやくそう告げると新しい電車が向かいのホームに訪れた。それが完全に停まるのを待つように跡部くんは黙っていた。そして答えた。
『ああ、いいぜ』
 本当は死にたいなんか思ってない。思ったのは、ぶち壊したいということだけだ。繰り返す女の子を引っ叩きたい。黙っている母親を蹴り飛ばしたい。座ってる奴立ってる奴全員ぶん殴りたい。窓も割りたい。蛍光灯も落としたい。そんなことしても【中三男子・突然の凶行】みたいな記事になって若さ故とゆーことになるのだろうなと、いう冷静な思いがすべての衝動をすり替えた。「死にたい」が選ばれちゃったのは、自分で死ぬというのが恐らく俺の中でもっとも実現可能性の低いアクシデントだから。うっかりやっちゃう心配がないからだ。
 跡部くんが初めてうちに来た日。あれから何回か彼は遊びに来て、季節も一回りを少し過ぎたのだけど、まだ一度も家族の誰にも会わせていない。
 君は偶然だと思ってるだろうか。俺は偶然をどうして後ろめたく思うんだろう。
「跡部くんが俺んちに遊びに来るなんて、みんなが知ったらどう思うのかな」
 俺はふと、思い付いただけのことを口にしてみた。
『あーん? てめえまだそんなこと言ってんのかよ』
 跡部くんは呆れるでも怒るでもない声で普通に言った。彼は俺のこと普通に友達だと思ってる。


(続く)

2006年05月14日(日)

 致命的に体の相性が悪かった。体というかセックスの、それが致命的に合わなかった。俺たちにはそれがどうしようもなかった。俺たちはそれをどうすることもできなかった。


最悪



「どうでもいい」

 低い声が呟いた。俺はまた自分の心が、水に落とした粉薬みたいにばらばらに解けて溶けてなくなっていくのを感じた。まだ感じる。けれどそれはあの時のような耐え難い感覚ではなく、感情から離れたただの事実だ。

 好きだった時もあったなぁ。変わらない体臭の中に埋もれるように息をして、俺はぼんやりと跡部の肩越しの世界を眺めた。

「そうなの?」
「ああ」
「よかった」

 なわけあるかクズ野郎。冷血。消去法で重なっている胸の辺りから跡部の、ゆっくりで力強い心臓の拍動が響いていた。彼の血がとても温かいこと、つまり彼がとても人間的なやつであることを、俺は嫌という程わかっている。だから罵らずにいられないのだ。君は冷たい。冷淡ではない、どこまでも冷酷だ。

 一年ぶりに君のマンションへやってきた俺は開口一番「不二くんとやりました」と言った。嘘でもはったりでもなく間違いなく俺は少し前、不二周助とやった。理由は彼が君の大事な恋人だから、彼が君を愛してるから、君が彼と定期的に性的な関係を結んでいるからだ。そういうことを必要なら説明するつもりでいた俺に、君はただ驚きが去った後で「入れよ」と言っただけだった。

 俺がドアの内側に入った瞬間から、跡部は恋人のことも俺のことも許してしまった。許すというのとは違うのだろうか。跡部は今もほんの少し俺のことが好きだった。きっと一生、彼は間違いを認めないし訂正しない。

 君は正しいよ。君が俺を愛したことは正しいよ。俺は何度も何度も自分の中の跡部にそう言ってやる。俺の中の跡部はつまらなそうな湿気た目をして俺を見る。現実の彼は今、黒いポロシャツの温かい腕で俺を抱きしめている。

「不二くんには会った?」

 返事は「いや」だ。だって彼は居なくなってしまった。学校にも家にもあれきり戻っていない、彼と最後に会って話したのは多分この千石くんだ。

「いや。会ってねえ」
「ふーん。メールとか、電話もかかって来ないの?」
「携帯は生きてる。けど繋がらねえ」
「じゃあさあ、」

 俺は跡部のポロシャツの下から胸に手を突っ込む。

「GPS機能なんか使ってさ、見つけられるんじゃない? 跡部くんならそのくらいできるよね」
「そのうちな」

 たすけてかみさま! 中指の先が跡部くんの小さい乳首に触った。色も形も全部覚えてる。俺は跡部がこんな時(例、恋人が突然消息を絶った時)どうするか知ってる。金に物を言わせて力尽くで探し出して相手の都合お構いなくヘリコプターとかで迎えに行ってその瞳で見つめて、一言「帰るぞ」とか言う。俺と付き合ってた時はいなくなった翌日にでもそうしてたよね。そうしてたはず。

 そうしない理由は明白、俺と不二が別の人間だからだ。跡部は俺を愛したみたいに誰かを愛さないし、誰かを愛したみたいに今の不二を愛さない。中指の腹でそっと擦ると跡部の乳首は固く尖った。

「どうでもいいの?」
「ああ。どうでもいい」

 まるで不二くんのことをそう言っているみたいだ。お互いに、その話をしているみたいだけど、違うことも知っていた。俺は跡部の乳首を触り続けたけど何も起きなかった。ふと思い付いて思いきり抓ってみたら、「ってえ!」という叫びと共に頭を叩かれた。跡部の強靱な肩と背中が弓なりに深く曲がった。

 あはは、と俺は笑った。こうやっている分には俺たちは上手くもいっていた。体を触りあって、裸になって、キスをして、髪の匂いを嗅いだりするのはごく自然に落ち度もなくやれていた。なのにどこからか区切りがあって、その先は少しも前へ進めなかった。

「だったらいいかな。ねえ、俺のことちょっと抱いてよ」
「二度とご免だ」

 跡部は笑って言った。いたわりが湿度オーバーでびしょびしょだ。俺は雑巾を求めている。

「大体『ちょっと』ってのは何だ」
「言葉のあやだけど‥‥試しにって感じかな」
「あーん? 今更なにを試せって?」
「変わったかもしれないだろ、君も俺も」
「何も変わらねえよ」

 それはあまりに穏やかな、彼らしくもない断定だった。そうだ。俺たちは変わらなかった、変わると信じていた健気さとうらはらに、俺たちは互いに一向に変わろうとしなかった。変わればいいのにと願いながら、その努力を怠った。君はどうしてもその努力を受け入れられず、俺はどうしてもその努力をしたくなかった。

 だから最後まで、俺と跡部は最後まで一度も、うまく交わることができなかった。俺たちはその時、幸せでなかった。幸福と不幸のそのどちらでもなかった。君は幸福になりたいと考えて、俺は不幸になりたいと考えていたにもかかわらず。

 俺は跪いて跡部のベルトを外した。そうしながら顔の前にある跡部の衣服越しの性器に唇を添わせた。跡部は俺の髪を掴んでそれを制止した。俺はそのままウエストのボタンを外しジッパーを歯で引き降ろした。

「止めろ。終いにゃ蹴るぞ」
「蹴って。顎砕いて、顔面血塗れにしろよ」
「は、バカが」
「めちゃくちゃにしろよ。なあ、おれのことぐっちゃぐちゃにしろって」
「てめえは」

 どうして、そう。跡部が黙った。俺はすべての動きを止めた。その通りだ。俺たちは何も変わらない。

 俺がドアの内側に入った瞬間から、跡部の全身全霊はただ俺一人のためのものになった。もちろん彼が望んでそうした。「どうでもいい」と彼はただ俺のためだけに言った。彼は全力を傾けて、その言葉を俺に言い聞かせた。

 どうでもいい。俺がどうであってもいい。世界がどうあってもいい。何かがどうあるとか、君の前でそんなことは無力だ。

 だけど俺の中の跡部はどろんとした湿気た目で恨みがましく俺を見る。君は何一つ間違えなかった、君は悪くないよ、俺はそいつに言う。そうやって俺は君に、取り返しのつかない過ちを悔やみながら一生苦しんで生きてほしかった。憎みあってそれでも離れられずに、一生一緒にいてほしかった。

「会いたいなあ、不二くんに」

 たすけて不二くん。俺は誰でもよかったはずの、跡部の恋人の名前に縋ってみる。いなくなった不二くん。羽が生えてどこかへ飛んでいってしまった不二くん。

「帰ってきたら俺にも教えて」
「教えると思うか?」
「きっと教えると思う。きっと帰ってくる、近いうちに」

 いなくなった猫のことを話すように俺はそっと呼吸した。体温の高い跡部の腹筋にこめかみと頬をくっつけていると、同じようにそっと上下するのが感じられた。跡部の手がさっきと違うやり方で俺の髪を掴んだ。

「大丈夫。俺はいつでも君の味方だよ」

 跡部の中を血が流れていく振動が、からっぽの俺の中で大きな音になって響いている。二度と君に抱かれたり抱いたりしようとしない。俺たちはそれをうまくできなかった、できないという事実をその自分達をどうすることもできなかった。致命的に体の相性が悪かった。いきたいところへいけなかった。

 でもこの肌は一生忘れない。この体のことは一生涯わすれない。




(了)

十八歳(十四歳)における一生。

2006年05月10日(水)

羽が生えた日





 可哀相なことしたなあと不二は思った。可哀相なのは自分じゃないのかという気はしたが、見るからに可哀相な顔色をしているのは千石の方だった。二つ繋げた机の上に仰向けに寝転んだ千石は、悪い夢を追い払うようにまぶたに拳を乗せていた。前髪が伸びたな、と思いながら不二は彼を見ていた。

 羽が生えたんだよね、と言ったら案の定「見せて見せて」と言うのでシャツを脱いだ。どうせ何か冗談だと思っているんだろう、吠え面かけ、という意地悪な気持ちが少しあったことは認めよう。上半身裸になった自分に、唾を飲み込む音さえ聞こえそうで、可笑しくて堪らなかったのも事実だ。きみがずっと抱かれる方してたって知ってるよ。なのにそうして男みたいな顔して、含みを持って触れようとしながら等閑に背中を覗き込むのを馬鹿にせずにいられなかった。

 そして千石はその場に倒れた。粉飾なく確かに、まず近くにあった机に片手を着くとそれでは支え切れなかった体がぐるりと半分ねじれて、尻餅を付いたあと後頭部を床にしたたか打ち付けるまで千石の落下は止まらなかった。

「大丈夫?」

 仰向いて、裏返した拳の下からこちらを覗くように見、千石は弱々しく笑った。

「あは、ごめんねえ」
「どんなだったの」

 きもちわるかった? 思い出させるのは気の毒だと思ったが興味は抑えられなかった。千石はうーんと唸って何か考えた。不二を傷つけないように言葉を選ぶ間だ。あーこれはきもちわるい決定だな、と不二は思った。

「なんかね、歯が生えてるとこみたいだった」

 それはそれは。不二は想像して気分が悪くなり、千石は思い出してやっぱり気分が悪くなった。ごめんね、という気持ちを込めて頭を撫でると、千石の震えが骨を通して伝わった。骨伝導。振動は腕から肩を這い上がり羽の先端を震わせた。

 不二はそのまま千石の頭を撫で続けた。ぶつけたところとは関係なく、手の届いたところを届く範囲で、繰り返し撫でた。やがて千石は落ち着きを取り戻した声で尋ねた。

「跡部くんにはこのこと話した?」

 不二はふるふると首を横に振った。こう訊かれることはわかっていたし、千石も答えは知っていて訊いたに違いなかった。こんな時、真っ先に訪ねるべきは跡部のところだと二人ともわかっていた。跡部は今、不二の恋人で、そして昔から心配性のやきもちやきだった。

「お前やっぱり天使だったんだな、って言うよきっと」
「言うねきっと。かれ頭があれだから」
「きみに夢中だからだよ」

 それじゃあきみにも夢中だったことあるんだ。皮肉を、口には出さなかった。果たしてそれが皮肉になるのかも判断しかねた。あの無調法に脇腹に潜り込んでくる手、貼りつくように冷たい手を、今のところ所有している自分を千石が憐れんでいないとも限らない。あのみじめな恍惚。あの絶望的な幸福。跡部景吾の皮膚の下の筋肉。

 ポロシャツに袖を通すと羽の付け根に裾が掛かった。外して、と言いかけて耐えられなくなった。それほどまでに僕は跡部のことが好きなのだろうか? この自分と無関係な男を憎んだりするほどに? 不二の躊躇に気がついたように千石がこちらを見た。見るためではなく、見たことを知らせるためのやり方でそうした。

「手を貸してよ」

 聞いたこともない堂々とした口調だった。物怖じしない普段の態度やコートでの自信に満ちた口振りともそれは違った。幼い王子のように千石は、自らにある正当性を無自覚に不二に見せた。ゆっくりと体を起こし不二に向かった。可哀相な男はもう居なかった。

「手を貸して、不二くん」
「なに急に。僕にできること?」
「復讐したい。跡部くんのこと裏切ってよ」

 机の上から両脚を投げ出した千石は、紛れもなく彼自身の国の王子なのだ、と思った。

 傍へ近付いた。肩に手を置いた。千石が胸の辺りに頭を預けてきた。これは慰めで、まだ許可はしていない。許可、と不二は頭の中で繰り返した。自分が許すか許さないかだけでそれは決まってしまう。

「あのひと、俺のこと動物みたいに捨てたんだよ。もう要らないって」
「酷いね」
「あんなに尽くしたのに。俺の、体とか好き放題したくせに。俺ほんとに、」

 あいしてたのに。

「許せないよ。絶対復讐してやるんだ。ねえ、俺に力を貸して」

 千石の手が背中に回された。まだシャツから突き出したままのか細い羽に触れた。触られたという感触は、繋がった背中の一部分でしか感じることができなかった。

「俺のために跡部くんを裏切って」

 千石の声が胸のぽっかり空いた空洞の部分に吸い込まれていった。そこには本来なにがあるはずだったのか、そのあるべきものが恐らく羽になって体の外へ飛び出してしまった。だから不二の中には空洞がある。羽が羽でなかった頃の記憶はもう残っていない。

 羽を伝う千石の指はやがてその付け根に触れた。羽が邪魔して自分では触れることのできない場所、初めて人に触れられる場所、そこは熱を持って膿んでいた。柔らかく弛んだ肉に指先が沈む。痛みはなく、指が冷たかった。そこが腐って羽がぽろりと抜け落ちてしまえばいいのにと思った。羽になるほど要らないものだったのなら、そうして完全に離れてしまえばいいのに。千石がシャツ越しの乳首に歯を立てた。

「うん、いいよ」

 これが許可。そして肩代わりさせた責任の半分を取り戻すこと。

「きみがされてたのと同じか確かめてあげるよ」

 千石の舌がシャツを濡らした。そうして柔らかくほぐされた体から羽が逃げて行けばいい。幾許かの肉が欲しいならくれてやる。どこへでも、お前の行くべきところへ行け。

 その自分から生まれた新しい生き物は、あの湿った冷たい手を知らない。望まないものを吐き出さされる泥の海のような不安を知らない。安寧を知らない。醜く卑しい姿をした、新しい僕だ。




(了)

ちなみに実は三年後設定(十八歳)

2006年05月09日(火)

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