どうだ無様だろう。俺はお前に嫉妬していたのだ。



ア シ ン メ ト リ ー





■夏の葬送■

 目を開けると真田が覗き込んでいた。柳は瞬いた。目を閉じていたのはほんの一瞬のことだったのだと、唐突に思い出した。まるで長い時間眠っていたようだった。
「‥‥すまないな。大丈夫だ」
「中へ入っていろ」
 そう言って手渡されたのはよく冷えた麦茶だった。真田は手の甲で汗を拭った。白い半袖に、喪章が玩具のように安っぽかった。
 境内は蒸し暑かった。夏に殺されると思った。汗ばかりが乾かず、涙は一滴も出なかった。
 柳のいる木陰に背を向けた真田が、そのまま行ってしまうのかと思ったが、こう言った。
「俺はあいつを愛していた」
 それはちがう、すぐに言い返そうとしたが声は出なかった。
「俺はあいつを愛していた」
 真田は繰り返した。

  +

「馬鹿だねぇ」
 幸村は笑った。普段より子どもっぽい声と顔で、そうしてひとつ静かな呼吸を置いた。
「馬鹿だ、お前は」
 六月の病室でシーツは青く冷たかった。消毒の匂いがした。柳は洟を啜り上げた。ほら、ティッシュ、と幸村は数枚引き抜いたそれを柳の顔に押し付けた。
「よく聞け? 俺もお前ももう泣いたって可愛い齢でも見た目でもない。真田と同じでね。だから俺の葬式でもお前は泣かなくたっていいんだよ」
「可愛くなくて悪かった」
「暑かったんだろ? だったら尚のこと泣いたりしちゃだめだ。蓮二、人間の体から水分が何%失われると脱水症になるんだ?」
「からかうな」
 柳は頭を撫でてくる手を押し遣って立ち上がった。窓を開けると風がやけに冷たかった。昨日見た夢の八月と比べている。それともあれは九月だろうか。夢の中で自分達の全てを焼き尽くしただろう夏の、それでも果てない残り火に焼かれて殺されるかと思った。
「真田が好きなのはお前だよ」
 幸村は言った。ちがうそうじゃない、柳は強く念じた。夢の中のように声は出なかった。そういうことじゃない。真田が好きなのは、そう、多分自分だ。幸村じゃない。
 だけど俺が死んだら精市、お前は誰よりも泣くんだ。
「真田が好きなのは、蓮二。お前だよ」
 そう言って笑う幸村はひどく幸福そうだった。地獄ではないその夏の日の境内で、自分の死を悼んできっと彼は泣く。傍らで真田が掛ける言葉を探しては、見つからずにただ下を向く。世界中の雨雲を集めてひとり呑み込んだかのように幸村は休みなく泣き続ける。
 その、どこまでも透明な大粒の涙をぽろぽろと零す、大きな瞳に柳は嫉妬した。


(1.涙)



■泥棒の庭■

 丸井が花をくれたよ。と、幸村は嬉しそうに言うのだ。窓際の足元で日陰に入った土はひんやり湿っている。しかし大輪は見事なものだった。
「しかし蓮二、見舞いには」
「わかっている。丸井には俺が言っておく」
「幸村は‥‥」
「精市は知ってる。あいつは、切り花嫌いなんだ」
 真田は驚いて振り向いた。医師を呼び出すアナウンスが、騒がしい廊下にくぐもって反響した。
 幸村精市は十四歳で、今は小児科病棟にいる。
「向日葵か。もう手に入るんだな」
 外来は今日の受付を終えていた。誰も居ない外待ち合いで柳はベンチに腰掛けた。促されて真田も腰を下ろす。合皮張りのベンチは固くよそよそしかった。
「食べ物は致し方ないが、花まで年中なんでも見られるようになったら味気ないな」
「済まない」
「弦一郎。謝るのは勝手だが、何が済まないのか一応断わってくれ」
「‥‥済まない。次から心得る」
 柳は微笑んだ。それで、その言葉が冗談だったのだと真田は理解した。
 それから柳の手が乱暴に真田のネクタイを掴む。真田は息を詰め眉を顰める。そして静かに息を吐く。接吻だ。これは柳の。眇に眺める形のいい唇は、真田に一瞬我を忘れさせる。
 しかし本当に口づける前に取り戻してしまう。キスはしないと言われた。精市が帰るまでお前とはキスをしないと、柳は言った。真田はただその時、柳の唇から柳の声で紡がれるキスと言う単語を滑らかだと思った。
 月のように明るい音だと思った。砂漠の砂のように均質で継ぎ目なくそれは流れた。
 幸村と唇を合わせたのはその日から数日の後だった。
『柳に言うなよ』
 真田は妙に納得した。そういうことかと思った。あれは、柳の言ったことは、きっと罰だったのだ。自分が幸村と唇を交わらせるから、だから柳はその裏切りの報いに、口づけを禁じたのだ。
「俺はあいつのことを何も知らない」
 思わず漏らした一言に、柳は考え込むような仕種であごを引いた。
「だが蓮二、お前のことも俺は何も知らない」
 友人であった時は確かによく知っていた。幸村のことも、知っていると思っていた。気付いたのは知らないことを不安と感じた時からだ。自分がいかに無神経であったか知った。たった唇を重ねるだけで、あの頃が月の裏ほど遠い。
「お前は精市が欲しいと言ったら、魔女の庭からでも花を盗ってくるんだろう」
 柳は冗談の声音で言ったが、その例え話はいつも、真田にはさっぱりわからないのだ。


(2.花)



■群青の筆跡■

 幸村新部長がまず真っ先にしたことは、出欠監理の当番表を作ることだった。
 この部では伝統的に出欠を点呼しない。部室に放置された出席簿に各自勝手に書き込んでいく。遅刻をごまかすのも日数を水増しするのも本人の自由だ。だから監理の役割と言えば、空欄に欠席の斜線を引くことと出欠トータルを数えることだけだ。
 そのささやかな雑務をレギュラー全員に割り振って、部長の仕事はもはや「特記事項」の欄に特になし、と走り書きすることのみである。
 それでも幸村の帰宅は、週に二度は八時を回った。
「───である、と思う。以上!」
 真田は手首を振り、続いて肩を回した。幸村は頬杖のまま固く目を閉じ、二、三度瞬いた。
「長かったなー今日は! 喋りすぎて喉が枯れそう」
「だったら手を動かせ。自分で書け」
「俺の字じゃ誰も読めないよ」
 真田は二冊のノートを重ねて棚へ戻した。一冊は普段の練習内容や備品・雑用に関するもの、もう一冊は試合練習に関するもので、誰でも自由に見て記入できる。部長はその全てに目を通しコメントをつける義務がある。
 それを己の義務であるとしたのは幸村自身だ。しかし幸村が自分の手でそこに某かを書き込んだことは未だない。
「どうしてお前を副部長にしたかわかるか真田」
「面倒ごとを押し付けやすいからか」
「ちがう。字が綺麗だからだ」
 得意げに言い放った幸村は、膝に抱えていたもう一冊のノートにちょこちょことペンを滑らせている。真田が何気なくそれを覗き込むと、彼は勢いよく顔を上げ講議した。
「お前の仕事は終わり。さっさと支度しろ」
「前にも言ったが、原稿があるならそれを見ながらの方が、俺が書くにしても速いぞ。お前も喉を枯らさずに済むだろう」
「だめだ。そこに書く以外のことも書いてあるんだ、見せられない」
「それにしたってテニスに関することなのだろう?」
「そうだけど。恥ずかしいじゃないか」
 幸村はノートを閉じた。本当の照れ隠しであるかのようにそれで顔の下半分を覆ったまま、上目遣いに真田を見た。真田はもう何も言えなかった。
 そのノートは幸村の私物だ。持ち帰って検討したり誰かに(主として我らが参謀に)意見を求める内容がメモされている。先ほど読み上げたコメントもそこに下書きされている。データでテニスをするわけではないが、幸村はある意味ノート魔だった。そのノートを覗き見る権限は、今のところ真田にはない。
「真田」
 コートのボタンすべて掛け終えた真田の背中に、幸村が小さく呟いた。振り向くと幸村は俯いて、鞄の中にそのノートをゆっくり、ゆっくり仕舞っていた。
「嘘だからな。さっきの」
 窓の外はすっかり夕日の残りを落として青い。


(3.ノート)



■隙間の空■

「長くなったな」
 言われて振り向いた時には、幸村が何を見ていたのかもうわからなくなっていた。長いが濃密さに欠ける伏した睫毛の下から、幸村の視線は、初めの闇のように密かに伸びていた。
 別に困らせようとしてやっているわけではないのだ。幸村精市は知り合った頃からこういう、身勝手で邪気のない言い方をした。彼は大体いつも率直だった。それは時にこちらが耐えられなくなるほどだ。なのに、同時にひどく大雑把で投げやりでもある。そうだ、彼には全体的に密度が不足している。
 ともかく柳は、差し当たって唯一の心当たりである、自分の前髪の先を指でなぞってみた。
「嘘だろう、充分だよ! 極端だなお前は!」
「比較して長くはなっている」
「それでも前年比で三割くらい短い」
「ひとの前髪決算みたいに言うな」
「ふっ」
 幸村は破顔した顎を深く引いて俯いた。
 前なら、と思うことを柳は止められない。精市は上を向いて笑った。淫猥さの欠片もない白い喉を反らして、開いた口から温かな息を吐いて笑った。俯いて額の影で笑う幸村を柳はつくりもののようだと思った。本当はただ、起き上がっているのがもう辛いのだ。柳はそれを認められないだけだ。
「外だよ。日が長くなった。まだあんなに明るい」
 空の底の方では僅かに朱色が息をしはじめた。だが上空の青は柔らかに光っていて、星はかすんでまだ見えない。
「なのにお前は帰ってしまおうとするから」
「精市、」
「あ、やめろよ。俺は子どもじゃないぞ。面会時間もちゃんと知ってる」
 軽くいなされた後で自分の声の重さに失望する。子どもなのは自分だ。幸村はよくわかっている。しかし胸苦しいのはこの男がやけに物わかりよく、気遣いに優れた大人になってしまったことかもしれない。病室を訪れる誰より、幸村はいつでも元気だった。
「蓮二。落ち込んだり悲しかったりすると『ブルーだ』って言うだろ」
 急にあどけない子どもの目に戻って幸村は柳の顔を覗き込んだ。もっと前髪が伸びていればよかったと柳は思った。
「お前もかなしい色だと思う?」
 答えられず黙っていると、子どもの幸村はまるで興味を失ってしまって、再び窓の外を見上げた。俺はうつくしい色だと思う。優しい色だと思う。‥‥幸村はきっとそう言うし、自分だってそう思う。だがそれらは深い悲しみを否定する言葉にはなり得ない。
 だから柳は答えない。お前の好きなあの明るく澄んだ色が、か弱く物憂いとは俺は言わない。


(4.かなしい)






御題提供:リリーズ10
ユリエイコでやってたリリーズのお題に挑戦してみました。まずは前半戦。
配布元のサイトさんはもう閉鎖されてる模様です。

2006年04月19日(水)

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