■ミツバチみたいにハッピーに■ @選抜



 戦場にカナリアを連れていく。もし有害なガスが蔓延していたら、ほんの少しの量でカナリアは死ぬ。華奢な金網のかごの中で何羽ものカナリアが死に、人の命が護られた。

「それで」

 跡部はできるだけ低い声で、できるだけ抑揚なく応えた。

「あーうん」

 千石はまたポケットからフリスクのケースを取り出してカシャカシャ振った。それからケースの蓋をスライドさせて、掌の上で逆さにした。ひと粒かふた粒か、わからないがとにかく規定の量そうして取り出すと、少しうつむいて口の中へそっと放り込んだ。後は慣れた手早さで蓋を戻して元通りポケットの中に仕舞い込んだ。

 自由練習でロードワークに出る途中で捕まった。一応こいつも走っていることになっていたのだが。

「あのね、この話をしたらみんな『可哀想〜』って言うのね」
「そうか」
「いや俺もさすがに、それを口先だけだと思うほどなんていうか」
「そうだな」
「別に嘘つく必要はないわけだよね。だから、うん、可哀想だと思ってると思うんだ。俺も思うし。跡部くんもそうだよね?」

 そう言って千石はまたポケットを探りフリスクのケースを引っぱり出す。頻繁に食うのだからポケットに戻さなければいいのではないかと思う。千石が取り出す規定の量とは、千石が自分で「このくらいだね」と決めた量だ。しかし、その量は、多すぎるとか少なすぎるとか驚かれることは決してないであろう。なんとなく跡部は千石に、フリスクのケースをそのまま天を仰いで阿呆のように大きく開けられた口の上で振って振って振りまくって頬張ってほしかったような気がした。初めて見る千石のフリスクの食べ方は、控えめで慎ましかった。

 千石は強くもないし弱くもなかった。特別巧いというわけでもなかった。だが山吹中のエースであることは間違いなかった。強いシングルスがいるということ自体に意味があるのだ、と、気付いた。そういうチームがあるということを跡部は意識したことがなかった。プレイヤーが己の力を確信することが絶対に必要であるのと同じで、自分達は勝てるチームだと全員が思うことは重要だ。今年の山吹を選手層の薄い、五万とあるチームの一つだと言ってしまえば、そこで明暗を分けたのは恐らく千石の存在だった。そしてそう考えた時、同じ立場で、同じくらいの力量の選手が千石のようにプレイできたかという問いにぶつかる。一選手の集中力以上に団体戦は脆い。

 もちろん千石は普通に強かったし普通に巧かった。少なくとも招集にケチのつくレベルではなかった。勝ち気で落ち着きがあり、ずば抜けて目が速かった。

「なんだけどさ、違うんだ」

 掌に出されたひと粒かふた粒のフリスクを口元へ運ぶ。手の陰で多分ついばむような唇の動きをしてそれを拾い上げ、口に含む。口の中にあることを忘れるくらい静かにそれを食べる。もっと騒々しく大袈裟な動きで食っていればよかった、最初に目にした時にうんざりして顔を覆いたくなるような、その髪の色のようなやり方をしてくれていれば。

 あるいは自分を呼び止め隣に座らせた時、食べる?と一言訊いてくれたらよかった。いらねえよそんなもん、と返したらまあまあそう言わずにとこの手を引いて勝手に無理矢理フリスクを握らせて笑う。お前は考えなくたって今までそうやってきたんじゃないのか。千石は黙って自分一人で延々とフリスクを食べ続けた。

(‥‥俺様の鋭い洞察力のせいか‥‥)
「俺がしたかったのはこの話じゃないんだよね、ほんとは」
(‥‥ま、支障はねえ‥‥知ろうが知るまいが‥‥)
「あのね、ガス探知機がその後開発されるんだけどその名前が」
(‥‥眠くなってきやがった‥‥)
「カナリア」
(‥‥)
「て言うんだよ。ね」

 それだけは趣味が悪いと思うんだ。それを言いたかったの。でも可哀想って言われたら、そうだよねーってなっちゃうじゃん。千石はフリスクのケースを振った。それから親指でスムーズに蓋をスライドさせた。掌でひっくり返す。跡部はそれが空になっていればいいと思った。カシャカシャ、見えない箱の中の音を聴いてお前は安心しているんだろう。

『この中身はまだ入っているから絶対に大丈夫!』

 ひっくり返しても何も出てこないケースを千石はそれからどうするのだろうか。蓋を閉めても、二度と振れない。跡部はだんだん可笑しくなって、さっきの考えを訂正した。ちゃんと中身がありますように。

「お前、なんで素なんだ」
「あ、跡部くんでも素とか言うんだ」
「ああ?感心しなくていいぜ。で、何をそんなに油断してる」
「ていうか普段そんなにピリピリして見える?」

 千石は抱え込んだシューズの爪先を曲げたり伸ばしたりした。跡部は千石の髪を撫でた。驚かれたのが手の芯を通じて伝わった。それでも千石は顔を上げなかったし何も言わなかった。千石の髪は慈朗のそれほど柔らかくなくて、日なたの空気をたっぷり吸って暖かかった。眠い。だけど走るつもりで出てきた体はもうそのイメージの中にある。ここでこのまま眠ったらきっと走る夢を見る。

 頭をぽんと叩いたら千石はこちらを見てにやりと笑った。手を差し出したら、フリスクをくれた。蓋を開ける時ケースは振らなかった。跡部は立ち上がって足首を回す。

「跡部くん。今の話最後までしたの、きみがはじめてだよ」
「そうかい光栄だな。てめえロードワーク出て一時間は長過ぎんじゃねえの? 持久力ねぇクセに」
「バテて休んでましたって言う。跡部くんが助けてくれましたって」

 跡部は中指を立てて応えた。




(了)

2006年02月20日(月)

■冗談の春■ 氷帝メン。


 引っ越して、受験するつもりの大学の前のコンビニエンスストアでバイトを始めた。かれこれ半年になる。面接の時履歴書に書いた『酒屋勤務』に突っ込まれ馬鹿正直に「なんとなくノリで在学中に就職してしまいました。前の大学の時に」と答えたらものすごく引かれた。が、採用の電話は次の日に来た。宍戸がケーキを買って祝ってくれたが俺もあいつもそんなに甘いものが好きではない。冷蔵庫に入れておいたら翌日来た慈朗が食った。俺は今、宍戸と同じ部屋に住んでる。

 中学高校の部活仲間といまだにつるんでいるというのは幼く思われるかもしれない。けれどもずっとそうしていたわけではなく実際去年まで俺は東京にいなかった。岳人の家がごく近所だということを宍戸は俺に言わなかったし、鳳と暮らしていた頃の部屋には慈朗は来たことがないらしい。まあ身内からホモが出れば人間自然と疎遠になるものだろうか。さりながら、一度はそうしてほどけかかった繋がりがまた結びあうきっかけとなったのが、人の輪からわりかし距離を置いていた俺の帰還であることは世の味わいである。

「いらっしゃいま‥‥」
「だせー」

 まじ激ダサ。宍戸が笑いながら、持っていたペットボトルで俺の尻をぶった。自動ドアが開くとついいらっしゃいませと言ってしまう。ここは家の近くのコンビニで俺はいま客で、ヤンマガのグラビアを立ち読みしていたのにだ。確かにだせーが、お前のその口癖もどないやねん。

「愛想ねえ割に染み込んでんのな、口先だけは」
「アホか、ファミマのレジでこんなもっさりしたオトコがにっこり微笑んどったらきしょくて二度と行かれへんやん。お前に俺の営業時代見せたりたいわ」
「ファミマだろうが酒屋だろうがおめーのキモさに変わりねーだろーが」
「バッカ、」
「バカ言いなや」
「モテモテやっちゅうねん。スナックのマスターからバーのマスターまで忍足くんの必殺スマイルにメロメロやっちゅうねん。そら白角1ケース余分に頼むわ」
「つうかマスター専門かよ!」

 こいつとの会話がボケツッコミ調になるのは俺のせいではない。俺は関西人ではあるが決して笑いを取りたい人ではない。むしろ宍戸だ。俺がこれだけまったり喋っているのにこいつのツッコミのせいで微妙にテンポ良く感じられてしまう。東京人であるのに繰り出される『バカ』『バカ言いな』はもはや老練の域に達している。なんでやねん。

 というか本来温和な俺がバカとかアホとか言うこと頻りなのはこいつの口の悪いのが伝染したせいだ。振り返れば俺らの代の氷帝学園は口汚さ関東随一を誇っていた。エロ話と下ネタを言わないだけでなんとなく上品なように思われていたのだから驚きだ。ちなみにその口汚いツートップを張っていたのがこの宍戸と部長の跡部である。

「‥‥なあ、覚えとるか」
「あ?」
「天才不二周助。青学の」

 宍戸は不意に黙って、こっちをじっと見た。何かを訊きたいようでもあり何かを了解したようでもある。俺は横顔のままでいる。

「覚えてるぜ。そいつがどうかしたのか」
「最近よく来るんや。年明けてこっち」
「ファミマに?」
「ああ。なんでやと思う?」
「さあな。家近いんじゃねーの」

 一応本当にわからない態を装って尋ねたが乗ってはこなかった。宍戸は一見ほど短気ではないが面倒臭いことが嫌いだ。あと表面はやはり短気だ。まさに今、本気で俺と話すのを面倒臭いと思った。自分たちが友達ではないなと感心するのはこういう時だ。どこまでいってもこいつと俺の関係は『仲間』であり最終的には『敵』なのだ。

「ちがう言うてた」
「じゃあ大学は」
「ウチ? そんなわけないやろ」
「わかんねえだろ。つうか聞けそれも」
「なんやいっつもポカリとか買ってく。テニスまだやっとるんて聞いたらそうなんやて。弟と一緒にコーチのバイトしてんねんて。弟もわかるやろ、あの」
「だから本人と話したんだったら聞きゃいいだろうが!」

 切れた。付き合いが十年にもなるというのにこのやりとりに飽きない自分が不思議である。

「跡部いま一人暮らしなん。知ってた?」

 岳人の家がごく近所だということをこいつは俺に言わなかった。俺が部屋に越してきた頃宍戸はどこか怯えているように見えた。鳳はそれをちゃんと知っていたしちゃんと自分をわきまえていた。だから部屋の鍵を俺に譲った。そば屋の二階の岳人の部屋で冷やしたぬきを啜りながら、俺はそんなことを岳人に言った。俺たちが全員で寄り道したりする時、言い出しっぺが慈朗でなければ岳人でなければそれは宍戸だったのに。

 跡部の新しいマンション、侑士のいく大学のそばだぜ。春になったらパーティーしようぜ。入学祝いやってやるよ。岳人の言う春はまるで明日のようだった。温かいたぬきそばには店のおごりでほうれん草が乗っていた。

 自分の行く道は先々までずっと、明るく照らされて何もかもすぐそこに見えるようだ。そんな目出度いことは十四の時にはもう思っていなかった気がする。何があるかわかれへんし、正しいことがすべからく為されるとも、納得尽くで生きてゆけるともあまり期待はしていなかった。それでもたまに正解する。適当にめくった二枚のカードがきちんと互いを指し示す。運命は働いている。

 春には跡部が機嫌の悪い子どものような顔をして俺に久しぶりだと言う。岳人がリビングボードに裏返された、跡部ばかり何枚も収められた写真立てを見つける。俺らのよく知っている奴の、俺らが知らない目の閉じ方を、ファインダーを覗く目が教える。長い長い時間をかけて情景は印画紙に焼き付けられる。

「泣くなや」
「泣いてねえ」
「けど泣けるやろ」

 ロマンス映画やん。宍戸は小さな声でまた激ダサだぜと言った。




(了)

2006年02月19日(日)

■ラプンツェルという名の娘■


 うわあ、と俺が言ったらきみはちゃんと振り向いた。人込みの中で、マフラーに顔を埋めて、三角定規をあてがったみたいに正確であてずっぽうな斜め下をみつめてた不二周助。きみを見つけたらまず最初にうわあと言おうと決めてた。理由なんかはきっとなんか持ってる。きみが俺を驚かせるのに材料が足りないなんてありえないし、俺が驚かされたいってこときみは知ってる。目が合ったきみのすぐ隣りまで歩いて行って俺は、その通り、ちょうどよく目に止まった理由を吐き出した。

「髪が伸びたね」

 それから俺たちは混雑した駅前通りを抜けて、高架沿いのゆるい坂道を歩き始めた。今日はとても暖かく、風も穏やかで陽射しは優しかった。

 優しいというよりか同情されてるみたいだ。俺は、きみは、そういう態度に抗うことに慣れてない。だから今日も黙ってそれを受け入れた。きみは黒いジャケットに濃い茶色のマフラーをきっちり巻いて、肩まで伸びた髪の毛をはちみつ色に輝かせた。きみが同情を享ける正当なゆえんが俺にはいつもどおりまったく分からない。

 だから本当は、この俺も、きみに降り懸かるそれを払い除けたいと思うんだよ。自分のことはさておきさ。不二くんは会ってから今までの沈黙をものともしないカジュアルさで口を開いた。

「普段は結構、ずっと結わえてるんだよ。邪魔だしさ」
「なんかバンドやってるひとみたいだねえ。ビジュアル系?」
「今日は100%そう思われるだろうね。きみがいるから」

 なんか感じが変わったね、とか。そのスタイル似合わないよ、とか。そういうことを言うのをプライドが邪魔する。俺は自問自答していた。プライド?! 俺は確かに『プライドがない』と自称してしまえるくらいにはつまらない高慢さの持ち主だ、だけど、なんだってこんなことで傷付く?「きみは変わらないね」

 不二くんが微笑う。俺は条件反射で作り笑いする。

「あは、よく言われる」
「本当? おかしいな、嘘をついたのに」

 気を引きたいだけみたいな会話を、不二くんが俺にするのはいつもただの気まぐれだ。こうして会ってくれるのもそうだ。なんて今までの俺は自分に言い聞かせてきたのだけど、それ自体おかしなことだと気がついたのは年が明けたすぐ後だ。あけましておめでとうのメールを元旦の昼下がりにきみがくれて、俺は誰にも返さなかったその返信をした。俺はきみがメールをくれたのが少しもうれしくなかったのに。息苦しいとさえ感じてたのに。

 きみのメールだけは無視することの方が億劫だった。返してしまって早く忘れたかった。メールを無視することにかけては当代一と謳われる俺の、自分でも信じがたい無様な行いだ。

「きみは言わないんだ」
「ん?」
「邪魔なら切ればいいのにって」
「だって似合ってるからね。自分でそう思わない?」
「思わない。きみがそう思ってるとも思わない」
「思ってるよ」
「思ってないよ」

 そして、きみは遂に立ち止まった。そこには高架のコンクリートの壁しかなかった。立ち止まる理由はなく、それはただ俺たちがどこにも向かっていなかったことを明らめてしまった。

「ここでいいじゃない?」

 きみは微笑った。そこまで言わなくたっていいのに、と俺は思った。

 俺は不二くんの側へ行き、隣りに並んで、二人同じように壁に背中を付けた。少しずつお互いの方を向き合うように傾いて、ほとんど変わらない目の高さでお互いの顔を覗き込んだ。俺は追い詰められるように指先できみの長く伸びた髪の毛を掬った。

「九月から二月だよ。変わらないはずないじゃないいくらきみだって」

 うん、そうだね。そう返すだけの力しか今の俺にはない。

「気付いてる? 僕はすごく背が伸びたんだよ」
「すごく?」
「うん、四センチ」
「そんなに‥‥」
「きみと同じくらい」

 指にからまったひとすくいの髪の毛に、俺は目を閉じてキスした。祈るようにした、本当は祈ることなど何もなかったけど。

「僕の言いたいことはね、千石」

 なんだってこんなことになってしまったのだろう。きみはどう思ってるんだろうか、今の俺たちのことを、これでよかったって思っているんだろうか。

 救いの蜘蛛の糸のように俺にその髪の一束を与えて、きみはまたなんでもない斜め下を穏やかに視線で宥めている。陽射しが俺たちに与えたような許しをきみもまた陽射しのために誂えている。

「二月十四日に、僕とデートする理由をなにか考えてきたの」

 それは、その気になればいくつだって探せるような答えなのだ。俺はきみが俺に俺が自惚れないための言い訳をやめるように望んでいる気がしている。きみが俺のきみにきみを取り上げられた時の負け惜しみを用意するのをやめるように望んでいる気がしている。この世界にはいつの間にか俺ときみしかいないんだ。不二くんの髪の毛はまだ冷たい春の匂いがしてる。




(2/14、帰途)

2006年02月14日(火)

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