■ファミリーレストラン再び■ 3年後の10/7


 だったらきみはリアルを求めてんの。不二はストローを噛みながら(それを持ち上げてぷらぷらさせながら)言った。乾はそれをぴっと引っ張ってオレンジジュースの中に戻した。

「濃縮還元なんて認めない」
「不二、100%は100%だ。文句を言うな」
「フレッシュジュースが飲みたいんだよ」

 悲しそうに、この世の終りみたいに、言った。ぶら下がったランプの明かりもクッションの弱ったソファもこれ以上ないほどオレンジ色を発しているのに、不二周助くん(17)は彼の望むオレンジジュースを飲めないでいるわけで、もはやこの世は終る他ないようだ。乾のサーロインステーキは熱されとろけた油でチカチカまたたいているので、不二に対する乾の同情は他人事だ。

 リアルを求めているか。答えはYESだ。現実的でないことに興味はない。だが不二とこのことについて分かり合うのは恐らく難しかった。ロマンティックなこと、それは全て乾にとっては現実的であることを前提とするものだった。不二にとってロマンは非現実性の上にそびえる雪の城であるらしい。

 その城の細部を不二は見ている。想像のパルテノン神殿の柱を数えられるみたいに。

「ワインでも頼んだらどうだ」
「いらない。エスプレッソが飲みたい」

 なにを頼んだところで今日の日のリアルは癒されない。

「俺がこれ食べ終わるまで待って」

 不二は頬杖をついてオレンジ色をストローのくちばしで突き刺していた。

「すいませんお願いします」

 乾が手を挙げると店内の明かりが薄暗くなった。

ハーッピバースデートゥーユー ハーッピバースデートゥーユー ギャー、と不二が言葉にならない雄叫びをボールに託してスマッシュ&レシーブ(作詞:三ツ矢雄●)薄暗い店内をオレンジ色のあたたかな揺らめきが静かに近付いてきた。ハーッピバースデートゥーユー。丁度歌の終わりで炎の座がテーブルの上に置かれると、あれほど取り乱していた不二は急にこくりと止まり何者かに操られるようにロウソクの火を吹き消した。

 どこからともなく沸き上がる拍手の中、店に照明が戻る。エスプレッソ二つ、と乾はケーキを運んできたウェイトレスに告げた。

 それから携帯電話を開いてある番号にかけた。

「あ、海堂か。いま不二と手塚の誕生パーティをやってるんだ。時間が空いていたら来ないか」
「いい加減にしろよ!」

 不二が大きな声を出したので店内がまた薄暗くなった。どこかでまたハーッピバースデーが聴こえはじめた。



(了)

本人はロンドン。

2005年12月04日(日)

■LOVE定額再び■ リスペクト・ユミエイコ


「ごめんね」

 俺のあざとい第一声の半ばで電話は切れた。けれどそれはきっと俺のあざとさ故ではなくて、きみは気付かないふりをしてるみたいに本当は本当に気付いてないのだ。

 きみの好きな人はいつだって無神経にきみを電話回線の前に引きずり出す。きみの都合なんてお構いなしに、言いたいことを言うために(もしかしたらきみの声を聴くために)着信メロディを鳴らしてきみを苛つかせる。きみを浮わつかせる。

 途切れた電話は数秒後に息を吹き返し不二くんはごめんでも何?でもなくて「もしもし」と初めに言った。

「あ、ごめんね掛け直すよ」

 とか言ったら少しは嫌な顔させられるかななんて期待はあっさり裏切られる。

「いいよ。こっちが切ったんだから」

 どうして切れたのなんて訊いたらきみは退屈する。

「いま話してもいいかな」
「だめなら掛け直さないけど」
「そうだよね」
「でも千石くん話なんかあるの?」

 ないよ! ないけどさ、どうしてきみは今日に限ってそんなこと言うの。

「それが聞いてよ、昨日の夜うちにね」
「うん。もう電話、掛けてこなくていいから」
「えっごめんなんで?!」
「一番あいしてるから」

 それからおもむろにゴトンと電話を投げ捨てるような音がして不二くんの声は止んだ。彼の背後で静かに流れていたクラリネットのテーマが少し大きくなった。俺は次の言葉を探そうとしながら不二くんの帰りを待った。

 これでもうきみの貴重な無料通話が俺のために割かれることはなくなった。そもそもきみは誰かにただ声を聴きたいがために電話を掛けたりすることはない。きみが話したい人はいつも無神経に前触れもなく電話してきて、きみはそれをじっと待っている人だ。

 でもだからこそ、きみの「一番あいしてる」は本当なんだろう。きみには俺のほかにそう表すのに適当な誰かがいないんだろう。それは初めからずっと。

 それからきみは笑うでもなく怒るでもない平坦な声で「もう君に謝られる理由はなくなったよね」と呟いた。幾ら黙っても無駄にならない電話越しに俺たちは本当は少しこれからやってくる日々に怯えていたし、逃げ出したいのが自分だけじゃないことが救いなのか全く逆のなにかなのかわからなくて戸惑っていた。



(ユミエイコに逆らう・了)

2005年12月03日(土)

■no error■ 人間関係の混乱


 知るしかできない世界に僕らは住んでいる。僕らの望みは「識りたい」というものなのにいつもそれは叶わず、ただ断続的な知の連なりがあなたを彼岸へと押し遣ってしまう。

「水色が好きなんだってね」

 彼はしっかりと視線を滑らせて俺を振り向いた。驚きも揺らぎも一片すら、その顔は見せない。

「‥‥赤也に聞いたの?」
「きみのことならなんでも知ってるんだよ」

 あまりに冷静なあまりに聡明な判断で応えた彼に、俺は臆せず返した。面白がってはくれないだろうという俺の予想は当たってしまい、彼は、聞こえなかったみたいに靴紐を触った。

 唐突に不二くんのことを思い出す。あの子はどうして俺のことをどうでもよくなかったのかな。いや、少しは、普通よりは大分どうでもよかったはずだけど‥‥

「どっちがいい?」

 意識はここにいない不二くんから目の前の彼へめまぐるしく引き戻された。

「え? ああ、コインまだだよね」
「ちがう」

 英語教師のように彼は断定した。

「だから、俺がラフだとして選べる場合どっちでもいいから訊いてるんだ」

 うわあ。言っちゃなんだけどトスの前に話し掛けてくる人(俺以外では)はじめてだ。なんだか泣いてしまいそう、こんな緊張は、これから先何度味わえるかわからない。

 テニスでないとだめなんだと俺は言う。言い聞かせる。疑っては、途切れてしまっては決してならない信条だった。唯一絶対のコードだった。そう、思えるようやってきて、ついに今ここに立ってる。

 いま彼の前で心の底から思っている。テニスでなければだめだったんだと。

「んじゃ、サーブをもらうよ。スムース」
「いや、だめだ、俺がスムース。サーブをもらう」

 幸村くんはいつのまにか、担いでいたラケットのグリップを手の中でくるくる回していた。ベンチからうちのあの恥ずかしいエールが響き始める。聞こえてるよ。俺はリストバンドを上からぎゅっと掴む。

 幸村くんのシューズの底を前から後ろへ、後ろから前へ、力が滑らかに移動する。きみの好きな色はきっときみより俺の好きな子に似合うってこと、でも残念だけど彼の好きな色は水色じゃないんだなんてこと、きみは興味ないんだろうね。だからさあ、サーブをもらおうか。



(了)




全国大会準決勝、S3。

だっけ?勝ち進んでいれば山吹は立海と当たっていたんですよねという。

うっかりで千不二になるのは由美さんの呪いだけど、私の千不二はきれいに着地するだろうから由美さん自身にかかってる呪いなのかもしれない。

2005年12月02日(金)

■三年、冬の前■ 雨の日の氷帝学園中等部の皆さん



 金持ち学校というのは薄気味悪い。金持ちの子しかいないし金持ちになる奴しかいない。宍戸の善良な父親は小学校の教師だが青山にマンションを持ってる(部屋じゃない建物と土地)し慈郎は学校から歩いて二分の公園前にロフトを個室(別宅)として与えられているし岳人の母親は女優だ。そういう奴に貧乏になる資格はほとんどない。定職に就かず家賃五万のワンルームで毎日インスタントラーメンを食っていても結局親に金がある奴は平気だ。例えば、借金はしても破産はしない。そもそもこの世にはきちんと人並みに働いていても金を貸してくれる所のないような人間もいるのだ。

 そういう金持ちの集まりでも電車に乗る。至って普通に切符を買う。テニスバッグを担いで、いいベルトをした、中学生の集団。立ち食いうどんも食べるし網棚のジャンプも拾う。宍戸が岳人のリュックサックを開けてサイフを探してやっている。あいつが生まれた年にはあったような革のコインパスだ。こういう時、俺は岳人の面倒を見ない。

 岳人は人に面倒を見られるタイプではない。周りがそう思っているとしたらそれは俺のせいだ。ペットボトルを手渡す時にはキャップを開けておいてやる。そのうち、キャップを外す必要性をまるで忘れてしまって、そのまま飲もうとするようになるのではないか。そのような事実は今のところない。俺はそれを望んでいるのだろうか。

 そうならそうで、キャップは必ず開けてやらなければならない。なのにそうしない。宍戸はそれを無責任だと言う。岳人に対して俺が優しい時と冷たい時があるのは自分勝手だと、岳人がまるで気にしていないことを承知で言う。俺が岳人に構わない間、大体宍戸がその代わりをやっている。本来必要のないお守役の代行。岳人はキャップが開いていればそのまま飲むし、開いていなければ自分で開けて飲む。宍戸は別にキャップを開ける係を引き継いでやっているわけではない。

 要するにだ。俺は電車が嫌いだった。

 乗り物は何であれ好きじゃない。本当ならこいつら全員改札に押し込めた後ひとりでタクシーを拾って帰るところだ。それが俺ひとりなら。跡部景吾は会場からまっすぐ運転手のリムジンで学校に戻った。雨が降り出して俺たちは銘々鞄から折り畳み傘を取り出して広げた。当たり前のように先に帰るのが一人でなきゃ格好つかないのはなんとなくわかるだろう。あいつがそうするなら、俺はそうできないのだ。

 降りるべき駅に着くと俺たちは、改札を出て再び折り畳み傘を広げた。折り畳み傘の所持率の高さが俺には耐え難い。

「滝先輩」

 ぞろぞろ連なって歩く傘の列の最後尾で鳳が呼び掛けた。大き過ぎも小さ過ぎもしない声だった。その前の宍戸や、俺の前の岳人が、次々に顔を上げる。向こうからやってきた滝はベージュの大きな格子柄のやはり折り畳み傘を傾けて俺たちを見た。

「おかえり。鳳、部活にも出るの?」
「あ、ハイ。コートいきました?」
「ちらっと見ただけだけど今日は日吉がかなりきれてるよ」
「お。じゃあ俺も寄るわ。オイ、世界史講習どこまでいった」
「あー前回配布したプリントの範囲終わんなかった」
「滝ー跡部帰った?」
「ん、走ってる」

 馬鹿じゃねーのあいつ本当なーなんで外走るんだよジムの使えばよくね?あーでも俺もあれ嫌いだわ走ったーって気がしねえへえじゃ跡部もそういう理由かな違うでしょうねまあいつものことだしあそうだ宍戸次の範囲のプリント貰いに行ってねおぉサンキュじゃ滝またな!またねーお疲れ様でした! それから俺たちはまたぞろぞろと玄関へ行き下足ロッカーの前でそれぞれ別れた。俺は一度傘立てに差し込んだ折り畳み傘を広げて外へ出た。やがて雨が染みるだろう革靴が抗議のためか重かった。

 通用門脇の花壇のところでぼんやりと信号を眺めていると、雨音の中をかれが走ってきた。晴雨両用のトレーニングウェアのフードを目深にかぶり、一定の速さで息を吐きながら、まっすぐに近付いた。速度を緩めることなくそして俺の前に来て、俺の傘に入る一歩手前でゆっくりぴたりと止まった。雨はかれの背後でおびただしい銀色となって光っている、雨音は強く静かでストレートだった。何も言わないのは何か言う必要がないからだとわかっているが、それに耐えられるのはお前だけで俺にはできない。俺にはかれにくちづけるためにずぶ濡れになる度胸はないので、傘のまま少し屈んで濡れた唇にキスした。世界でお前だけは自分が自分であることに不自由を覚えたりしないだろうし俺がお前でなくてよかったと思っているのは本当だ。雨と雨の隙間を満たしている空気はすでに冷たかった。季節がまたひとつ終わるのだ。



(了)

2005年12月01日(木)

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