■どんなに速く走ってもきみはちゃんと僕をつかまえた■ 仁王くんのこと


「送るっスよ」と左の見えない位置から聞こえた声は眠そうでかったるそうで当たり前のようだった。先に立ち上がった幸村は俺の見えない左隣を振り返り、可愛らしくびっくりしたあと「アハハ」と意味の判らない笑い声を、これまた可愛らしくあげてばいばいと手を振って降りていった。あいつはかわいいのうと俺は心底から感心して言ったが、「そうスかね。俺はおぞましいと思うけど」と左の奴は言ったのだ。

 あれは秋の記憶だ。幸村の在りし日(とゆーと柳生に怒られる)を思い出そうとすると何故かその時点を思い出す。あの日は柳生となんかしょうもなげな理由で喧嘩をしている最中で、あいつの陰倹な嫌がらせに俺がついにキレて練習中あいつが前衛にいくいつもの変則フォーメーションの時あいつのかわした打球にわざと当たってやった結果、目の上が腫れてまぶたが塞がってしまったので眼帯をして帰ることになったのだった。俺はこれからも柳生とはなんやかや喧嘩をするのだろうと知っていたし、今回は俺が謝らせてやったけどいつかはあいつが俺を謝らせてくれるだろうと知っていた、そういう部活帰りの水曜日だった。俺の左隣に座ってたのは丸井に押し付けられたサンデーを一心不乱に読み耽る赤也だった、そういう日のことだ。

 考えてみれば赤也が「おぞましいっス」なんて精密な日本語をしゃべったのだから驚いてもよかった。ただ俺は降りるべき駅で降りず(幸村を驚かせ)六つ先の海辺の駅までついてきたことに気をとられていたのか、あるいは本当に柳生のことばかり考えていたかして、それを流した。赤也と幸村の降りるその駅の側に二年前まで俺も住んでいただとか、その頃は赤也と同じスクールに通っていたんだとかいう、恐らく俺の左で赤也が考えていただろうすべてのことについて、流していた。

 俺は赤也のランドセルを背負っていた頃のことを知っている。俺はランドセルはもう背負っていなかったけれど、ハイソックスを履いたりしていた。赤也はその頃の俺のことを知っている。

 幸村精市は小学校の三年から四年の間を不登校児として過ごし、五年生の四月に初めて柳蓮二と出会ったのだと言っている。柳蓮二は四年生の二学期に転校生としてやってきた。俺はやつらのことは知らなかったしやつらも俺のことは知らなかったが、幸村精市は切原赤也を知っていたと言っている。なんで知っていたのかはわからないのだと言う。そういう話をする時の幸村は実に美しく澄んで笑う。健康的で明るく、決してやり過ぎず、晴れた日のコートに一直線に引かれたチョークの白さのように見る者を照らす。俺はそれが好きだからよく幸村に昔の話をさせる。そして、俺は、それを柳生によく嗜められるのだがその理由はわからないふりをする。

 俺の駅では数人が降り数人が乗り込んだ。俺は赤也を反対側のホームへ連れていこうと手を引いた。それは無意識に、すれ違う人を目で追うように何気なく、そうしたのだ。そしてそのあまりの何気なさにふと気付き慄然とした。『赤也の手を引く』という行動を『何気なく』する人間としない人間の二種類がいることに気付いた。その瞬間ひどく狼狽した。心細くなった。不安で、その上ひどくさみしく、更に焦りを感じていた。一瞬のことだったのだと思う。それでも俺は真っ暗やみでひたすら出口を探して壁を殴っているような気持ちになって、誰かに助けを求めたがそれは誰にも届かないのだった。真田ではだめだった。柳も同じだった。幸村は助けてくれないと思った。そして最後にはそれはやはりだめななりに真田に向かった。そうなることはどこかでわかっていたように思う。

 で、実際には一瞬のことだったのだと思う、我に返った俺は赤也を振り向いた。そちら側の視界が足りないので少し振り向いたくらいでは見えない、体を半分捻るようにして赤也の表情を覗こうとした。赤也が俺の何かに気付いていないか確かめようとした。赤也はあっという顔をした。俺は完全に進行方向を無視した形で歩いていたため、登る階段に蹴躓いた。

 転ばなかったのは手を繋いでいたからだ。赤也はその場に強く踏み止まった。俺は呆然としていて、赤也は彼の理由があって、俺たちはしばらくそこにそうして立ち止まっていた。人通りが途絶えた時潮の薫りがした。それは二年間の生活の中で俺が忘れたものだった。握られていた手が唐突に不自由を感じる。しかし振り解く前に離される。赤也が一歩俺に歩み寄り、俺の顔にそっと手を伸ばした。今よりも背の高さが違っていた。小さい赤也は手を伸ばして俺の眼帯を外し、熱を持った瞼の横の、存在の希薄なこめかみに触れて言った。「かわいそう」。俺はランドセルの頃の赤也を知っているくせに、屈み込んでその口元にキスをした。深い接吻けの準備のようなキスだった。準備だけがいつまでも続いた。ちぎった榧の葉のように切れ込んだ赤也の唇の端に柔らかく舌を差し入れることは、いつでもできたし、結果から見ればそれは永遠にできなかったのだ。

「仁王先輩! アンタなんつー顔でなんつーカッコしてんだ」

 ポロシャツの裾からタオルを突っ込んだ赤也が叫ぶ。俺は眼鏡を外して鼻の脇に溜まった汗を拭う。そのポロシャツを絞るとじょろじょろいう音を立てて汗が地面に落ちた。

「見てこれ、今年初」
「イヤ、つーか部外者の見てる前で乳首出しはマズイんじゃないすか。仁王さんならともかく柳生先輩が」
「ゆってもお前さん今、大声で『仁王先輩』呼んでしもうたじゃろ。充分マズかろ」
「あー、あーもういいや、とりあえず部室いきましょ、誰も居ないから」
「ブン太とジャッカル以外ちゅう意味か?」
「そうッス!」

 俺の背中を押した赤也の両手の指が、汗でぬるりと滑った。でもそれよりも陽射しが強かった。超快速の電車ごっこで繋がったまま部室棟を目指して走った。ただ、陽射しが強かった。もし半年遅く生まれていたら俺は今でも一人きりでコートに立ちネットの向こう側を見据えていた。反対の道から真田と柳が部室棟へ歩いていくのが見えた。赤也が小声でうわっやべえと呟き、まるでそれが聞こえたみたいに柳がこちらに気付く。突然立ち止まった柳が、持っていたバインダーをとんと肩に担いで、真田の顔が消える。赤也は笑い声を殺したまま早く早く!と俺の背中をどんどん先へと押していった。毎日はまるで足りないものがないかのようだ。



(了)


仁王くんと世界との関わりについて。おおよそ仁王くん内における勢力図など。
自分で書いて自分で「これがもし真幸/赤幸/柳幸/赤柳/真柳だったら‥‥」と更に考えて複数の萌えを一話で補う作戦。
仁王と柳生の関係すらもうわからない。ひとつ言えるのは仁赤ではないな。

2005年07月25日(月)

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