■きみのいうとおりなのかもしれない■ 真夏日のティールーム


「つまり一応は遠慮した、と」

 観月はじめは洗濯機の仕草でティーカップの紅茶を撹拌しながらまとめた。口調はぞんざいではなく、別段馬鹿にした様子もなく、かといってよそよそしいわけでもない。ごく当たり前に事務的なのだった。清純は冷たいグラスがテーブルに作ってしまったみずたまりに人指し指をひたしたまま彼を見た。

 話すことがないんだ。そう言ったら受話器越しの観月が黙ったので切られるのかと思った。沈黙は思いの外続いた。話したくないんだ。自分を奮い起たせて告げると観月はもう少し黙って、わかりましたと事務的に答えた。

 帰るためとは違うホームから電車に乗り、アナウンスだけに意識を集めて、何度か降りた駅名を待つ。昼下がりの下り電車は広かった。景色はなめらかに流れた。迎えに行きますと言った観月は改札の前に立っていて、清純を見つけても手を振ろうなどとはしなかった。

 ウォームグレーの、男物か女物かわからないチャイナブラウスを着て紅茶を飲む目の前の観月は、まるで「幼く見える年上の男」のようだ。そのフレーズが詳細には事実と一つも食い違わないのを清純は知っているし、いつでもそれに心地良い違和感を覚えていたはずだった。

「義理堅い返事はしなくて結構。好きに黙ってなさい」

 綺麗だね。千石清純はここでそう言った、なんの文脈も求めずいつも唐突に、そして観月はじめにうんざりした顔をさせた。清純は黙っていた。淡い翳を落とす観月の柔らかそうな頬を見ていた。

 視界の外で自分の爪や折り曲げた関節が手持ち無沙汰にグラスを撫でている。冷たいな、と思った。まだ冷たいのか。角の取れた氷を浮かべて水滴を纏わらせていくそのガラスの表面をあわれみたいような気持ちが静かに起こった。口元の筋肉がわずかに動いて、笑いかける努力すら放棄していることに気付く。それを気にも留めていない観月がカップを運ぶ。

「けちで言うんじゃないが、君が、喋りもしない電話に通話料を払うのは無駄だし不愉快だ」

 彼の視線が蝶のように自分の瞳にとまるのを清純は見た。

「少なくともここのアールグレイは美味しいですよ」

 磨かれた鏡の湖面がその羽撃きに揺らいで、膨らんだ水は輪をつくりそれぞれの終端へ向かって走った。そしていびつな岸にぶつかった側から溢れた。

「‥‥お前は」
「ごめん!」

 観月は苛立たしげに嘆息し、紅茶をぐいと半分ほど干した。そうだ、そうなのかもしれない。顔が見たいわけでも声が聞きたいわけでもなくて、まして聞いてほしい話なんかひとつも持っていなくて、ただきみに電話をかけたかったのは会いたいということだったのかもしれない。回線が開かれて繋がっているようにずっと、何もなくても側にいたいということだったのかもしれない。

「観月くん」
「観月でいい」

 馬鹿にした様子もなくよそよそしくもなく、彼は温かかった。淡々と世界の在り方に応じるような、姿はかたくなに見えてはいたが、控え目に噛んだ唇のように彼は真摯で穏やかだった。

 誰かが何か引き受けるため人が出会うのだとしたら、あまりに一方的だった。観月の翳は自分には落ちない。千石清純の上には。そうして身綺麗に全て背中へ引っ込めたまま彼は、遠くからこと問いたげに小首を傾げて見せるのだ。

「今日のために君は僕を見つけたんだろうね」

 半分の熱い紅茶を両掌であたためながらそう言って、美しい完璧な微笑みにとてもよく似た表情を浮かべた。

「観づ」
「ラッキーだったね」

 待ってよ。言葉は出なかった。それから観月はゆっくりと美しく立ち上がった。彼が、行ってしまうのだと思ったのは席を立とうとした所作のためでなく、一息に紅茶を飲み干したからでもなく彼が初めて清純に与えた思い遣りを見たからだった。

 もしかしたら本当にそうなのかもしれない。観月に出会ったのは声をかけたのは今日この日のためで、だとしたらもうこれきり、彼に会うためにあの電車に乗ることはないのだ。観月はそれを知っている。

 違う、今日までは確かにそうだったとしても、たった今からはそうじゃないはずだ。少なくとも俺にはそうじゃないんだよと、あの柔らかく濡れた墨色の目に言わなければならない。けれど清純はテーブルの上の、鬱陶しいみずたまりを指先で引っ張って透明な線をひいていくことしかできない。それしかできない。

 グラスのアールグレイは今更口を付ける気も起きないほど明るい色に薄まっていた。置き去りにされたからっぽの観月のティーカップが眩しかった。

「それから」
「わっ」
「暑い暑いと言って冷たいものばかり飲んだり食べたりしないほうがいい。それを飲みたくないんだったらホットミルクティーでも頼みなさい。かえって涼しくなるはずだ」

 顔の真横に突き出されたものはあたたかいおしぼりだった。観月は無駄のない動線で椅子を引き再び清純の向かい側に腰を下ろした。

 観月は相変わらずすっきりと綺麗だった。ブラウスの麻の光沢が厭味なほど、頬に差したうさぎの目のような赤を映えさせた。清純はその何の摩擦も含まないだろう滑らかな頬を呆然と凝視した。観月は怪訝そうに眉をひそめた。

「たばかったりはしませんよ」
「ちがうよ!これ! ありがとう」

 ああ、とまたあの事務的な様子に戻って、メニューを開きながら淡々と答える。

「不細工で見るに耐えないからだ」

 そして手を上げウェイトレスを呼んだ。紅茶のおかわりとサンドイッチ、それとどうやら清純の分らしいミルクティー。すらりと背の高いウェイトレスはマスカラの睫毛の下から、薄まって汗を掻いた清純のグラスを走り見た。

 清純はおしぼりに腫れぼったいまぶたを押し当てた。


(了)

ただ「ちゃんとした観月」を書こうと思っただけなのにエイコさんが日記で色々言うからだんだん引きずられてしまって全国後の千石。
この千石は不二と付き合っててこの観月は赤澤(もしかしたら淳)と付き合っている暗黙の了解。

2005年06月25日(土)

■アイガットリーリースィンクそう■


 よしんばそれが事実と違っていたとすれ俺にとっては真実だった。む、俺は今へんなことを言っただろうか。

「嫌だなあ」

 不二が言った。この男のこの言葉をもうすぐ百回というだけ聞いたが、今度の「嫌」は本当に泣きそうなほどの「嫌」なのだなと顔を見て思った。

「お前が悪い」

 不二が下を向こうとするので頭に手を置いてそれを防いだ。前髪が上に引っ張られて額が丸出しになった不二の、細い目はこちらを見なかった。

薄墨色の睫毛が銀狐の毛皮のようにあえかに輝いた。これが不二でなければ美しいと感じたのに、と気付いてしまって後悔した。美しいと感じるには不二はあまりに本当だった。あまりにも本当に近すぎた。

「お前がそいつをそんなに好きになったから悪い」

 今、手塚国光は、俺の想像を超えて正確に言葉を組み合わせ繋いだ。知らず知らずのうちに俺は少し笑っていてそれは得意からきているのだ。

 こんな日が来るなんて思わなかった。今の台詞を(まさに台詞だ)不二のうつむいた剥き出しの額に聞かせられたので俺は、来ると思わなかったその「言葉を話せて良かったと思う日」を噛み締めた。ホッとしたのだった。

「お兄さんみたいなこと言わないでよ」
「そうか? いつもお兄さんみたいだったのは不二だろう」
「そうかな」

 不二は眉の間にぎゅうっとしわを寄せた笑い顔を作って首を振った。

「こんなだったっけ?」

 それは、すでに俺の回答をも一部として含んだ問いかけだった。

 むかし冗談で不二が「てづかと一緒のおはかに入れたらいいのに」と言ったことを俺はまだ覚えていてその時はお前は冗談というか実際には俺達の馬鹿馬鹿しい真実に限りなく近い思いつきが気付かないままに口から出てしまったかあるいは感傷的な馬鹿馬鹿しい冗談だったのだけど俺はとてもいい考えだと思ったからもしお前がどこか日当たりの良い南の島にサボテンで囲まれたお墓を建てて誰かと一緒に入ることがあったとしても俺は(その時まだ生きていたらと仮定して)そこからいくらかの白い骨とか灰とかをつかみ出して持ち帰り自分の墓に入れてしまっても差し支えないだろう、少しなら、とそう思った。


(了)

2005年06月24日(金)

■あしたがすき■ お別れに向けて

「深司! オマエ、やめろよ?」

 肩を強く掴まれて伊武は、冷静にその手を持ち上げた。神尾の、薄ぺらいてのひら、に触れて酷く冷たいと思った。自分の手の熱さを疎ましく感じた。

「何だよ。何を」
「橘さんに」

 神尾は目を合わさない。

「何か言うの、やめろよ」
「だから何かって何だよ。何かあるならはっきり言いなよ本当イライラするなあ」
「だから!高校のことで文句とか言うんじゃねえって」
「なんで」
「な、しんじ」
「なんで文句言わなきゃならないんだよ俺が。橘さんの進学の問題だろ。俺たちは関係ないよ」

 ああ傷付けた。神尾は下を向いて唇をぎゅっと結んだ。神尾は勝手だ。文句を言ってはいけない理由は自分たちがそれに無関係であるからなのに、言われるとそうやって俯く。あの人に言いたいことがあるのは神尾の方だ。

 昨日もその前の日も伊武は学校を休んでいた。時期外れのインフルエンザに罹った。だからたった二日と言っても、自分だけが知らなかったのだ、神尾にその気持ちはわからない。

 もう充分傷付く時間はあっただろう。言いたいことをまとめる時間も、それを殺す時間も自分以上に。一向に振りほどかれる気配のない神尾の手を伊武は無感動に投げ捨てて、踵を返した。

「深司!どこ行くんだよ!」
「部活」
「俺掃除で遅れるって橘さんに」

 言っといてくれよ! 無駄にでかい声にすれちがう女子が伊武を振り返った。伊武は小さく舌打ちした。


 あの人が悪いんじゃない。何もあの人のせいなどではない。ただ自分は、こんなにもあの人を、手前勝手に妄信してきたのだということを知って驚いたのだ。

 そのことに傷付いただけだ。あの人には関係ない。


 ロッカーを開ける金茶の頭が振り向いた。半分は、この人の見ている前で知ったのでなくてほっとしている。

「おう深司。おはよう」
『橘さん高校どこ受けるんですか?』
「オハヨーゴザイマス」
『え、光琳って、私立の‥‥』
「風邪もういいのか?」
『さっすが橘さん、頭いいなあ』
「治りました。インフルエンザだけど」
『俺たちじゃちょっと無理だよなー』
「ハハッそうだったな! 無理するなよ」
『受験頑張って下さいね!』
「‥‥橘さん」

 たちばなさん。そうして唐突に悟った、もう二度とその名前を三日前と同じ声では呼べないという事実に、伊武は言葉をなくした。それじゃあ自分はどうしたかったと言うのだろう。どうしたかったと言うのだろう、手の届くところにこの人が一生いれば良かったのか。

 きっと謝らない。謝る理由をこの人は見つけない。何の負い目も見せずに笑って、全国で会おうとさえ軽々しく言う。そして思い知るのは、間違えたのは自分の方だということだ。

「ん?なんだ深司?」

 テニスが、したかっただけだ。それがこの人のそばであるかどうかなどそれこそ関係なかった。そのはずだった。

「‥‥神尾は掃除当番です」
「そうか」

 橘は小首を傾げて相槌を打った。耐えられないことはないと思う。神尾が、誰かが、みっともなく取り繕って笑う様を見せつけられさえしなければ。理屈はどうあれ捨てられたのだと、思って泣ければまだ救われた。勝手に投げ出したわけじゃない。はじめから、この先なんかはなかったのだ。

「深司」

 橘は変わらない。この名前を呼ぶ声も、吐いた嘘の底まであっさりと照らすような目の光も何もかもはじめのままだ。

「大丈夫か?」

 これからもずっと変えていくだけで変わらない。そうやって独りぼっちのままでいればいい。平気なのだろう。信じることも信じられることもちゃんと知っているあなたは自分の孤独に気付かない。最後の一人がさじを投げたとしても、変わらない。

 さいてい。呟いた声は多分声まで届かなかった。望んだことがあったとすれば、少しでいい変えてみたかった。


(了)

2005年06月23日(木)

■キスして殺してもっとずっと速く走って■ 不二千不二(と手塚)

 千石くんの目はひいてた。ひきまくってた。それで挙げ句の果てに手塚に助けを求めたから、僕は拳を固めてぶん殴ってやった。拳の甲の方で。

これは僕と千石くんとの問題なのに手塚に解決を求めるなんてずるい。でも、手塚の見てる前で問題を引き起こした僕はもっとずるい。わかっている。

 千石くんは僕の拳を避けてその場に倒れ尻餅をついた。僕は彼に手を差し出した。彼は、僕を疑っていた。掴まろうとした途端に手を引っ込めると思っていた。悪いけどそのつもりだ。千石くんは僕に掴まることを躊躇したまま地面にお尻を着いていた。

「どうしたの、さあ」

 まるで怒っているみたいな僕の声は震えていた。手塚は何も言わない。

さあ、ほら。ごらんよ。手塚はもうわかってる。僕がもう手塚のじゃなくて君のだってこと聡明なあの人は気付いている。こう言ったら千石くんみたいな人は僕が手塚と付き合ってたみたいなくだらない想像をするんだろうけど、もっと別の段階でもって僕はずっと手塚のものだった。それは大変居心地悪くて窮屈なことだ。とにかく他にないってことだけが僕と手塚の両方にそれを強いた。

 そうだ強いられていた。けどもう僕は自由だ。手塚はわかっている。僕は自由だ。だけど、そのことにまだ自信が持てない。自信がないんだ。

「さあ、早く」

 僕は冷静に彼を叱咤した。彼が手を伸ばしたら、僕は手を引っ込める。

千石くんはそれを知ってる。けれど、いつか、彼はそれを知った上で僕に手を伸ばす。そのとき奇跡は起こる。僕は手を引っ込める。千石くんは僕に手を伸ばす。僕の手は千石くんから上手く逃げられる。千石くんは僕の手を掴む。千石くんは僕を捕まえる。それらは同時に全て起こる。

 早く立ち上がってさっきのキスを返してくれないか。

 証明して欲しい。僕が君を好きだということ、僕が僕を好きだということ、僕が手塚を好きだってこと、僕がテニスを好きだってこと、立ち上がって早く今すぐ証明して欲しい。僕が胸を張れるように助けて欲しい。大きな声で世界中に言って。証明してくれ。それは君にしかできないことなんだ。


(千石清純にあらん限りのオマージュを・了)

2005年06月22日(水)

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