LORANの日記
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2006年10月31日(火) ハロウィン


ハロウィンはケルト人の収穫感謝祭がキリスト教に取り入れられたものとされている。ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていた。これらから身を守る為に仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた。

1年のこの時期には、この世と霊界との間に目に見えない「門」が開き、この両方の世界の間で自由に行き来が可能となると信じられていたからである。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


今日はハロウィン。

昭和10年台生まれの私にはなじまないのですが、近くに住む娘の家では

1ヶ月前から飾りつけをしていました。娘はシアトルへ留学していたこと

もあってか、ハロウィンやクリスマスが大好きです。


でも、この時期に「この世と霊界との間に目に見えない『門』が開き、

両方の世界の間で自由に行き来ができる」という考え方は、とても

面白いですね。


私たちが今いる世界と、亡くなった霊が行く世界がはっきり分かれている

ことに、文化の違いを感じます。


西洋の科学偏重の社会でも、古いケルトの信仰はこんな形で残っている

のですね。


私は死後の科学が発達しなければ、いまの混乱は収束しないと思います。

実は死後などというものは迷信であり、肉体が無くなるだけで何にも

変わらないあなたがいるだけなのですが・・・


2006年10月30日(月) 戦争の足音


日本は60年間戦争をしていない大国です。

1945年8月15日に最後の戦争を終えてから、平和を守ってきました。


これはアメリカやイギリスと較べたら、たいへんな違いです。

彼らは自国ではなく、他人の国で戦争をしています。


これを侵略と言わなければ、何と説明するのでしょう。

アメリカとイギリスはとても好戦的な国家です。


イギリスが本家で、アメリカが分家です。

世界の火薬庫、イスラエルはイギリスが後押しをして建国しました。


この三者はとても良く似た性格を感じます。

とても危険な匂いがします。


アメリカが自由と民主主義の国などと、信じている人はいないでしょう。

アメリカ憲法や国連憲章に違反して、イラクを侵略したのですから。


さらに1国の大統領をアメリカへ拉致してきて、アメリカの法律で

裁こうとしているのですから。


その前に起こったニューヨークの「9.11」事件も、アメリカの陰謀と

誰もが思っている位です。


ビン・ラディンというテロリストが同時に旅客機4機を乗っ取り、

アクロバット同然の高度なテクニックでビルへ激突させたとは?


世界一の技術で建築されたビルが、跡形もなく無くなったのは、

高度なビル爆破技術であると伝えられています。


これらを見ると、1963年11月22日のケネディ大統領暗殺事件

を思い出します。

国家権力による大統領の暗殺事件だと言われています。


あの時も、今回も、アメリカ国民は忠誠を求められるだけです。

自国が侵略されていない唯一の大国・アメリカの横暴です。


世界金融を支配し、石油を支配するために、アメリカは途方も無い

軍事予算を組んでいます。


それに擦り寄る日本の政治家は、経済界の代弁者だからです。

戦争の足音が次第に近付いています。


日本国民が気がついたときには、手遅れになっていなければいいの

ですが・・・


2006年10月29日(日) 愛と不安


行動の動機には「愛」か「不安」があります。

「愛しているから・・・」という言葉は、愛が動機でしょうか?


愛が押し付けになっていたら、それは愛ではありません。

「この子が愛される人になるように。」と折檻して殺してしまった

母親がいました。


愛と思っているのですから、罪の意識はありません。

愛とはこれほどまでに、痛々しいのです。


自分の考えを相手に押し付けるのは、愛ではありません。

愛は相手を責めたり、命令することではありません。


愛は相手を認めること。相手を許すことです。

相手を解放すること。相手を手放すことです。


しかし自分に不安があるから、相手を許すことも手放すことも

できません。30歳になってもパラサイトしている例がそうです。


愛国はだれでも自然に持っている愛情です。

それが国家の言う愛国とは内容が異なります。


国民が愛しているのは、自分が育った故郷の山河です。

国家が愛しているのは、権力の支配構造です。


自然な感情を、特定な人々の権力維持に利用されては堪りません。

人が愛と言うとき、それが「愛」か「不安」か確かめる必要があります。


2006年10月28日(土) 意識はふしぎ??


人の顔や姿が違い、服装や持ち物が違うように、意識はそれぞれ違います。

そんなことは知っていると言われますが、知ってはいても理解していますか?


その違いを理解していないから、喜劇や悲劇が毎日演じられています。

「だって、こうするに決まっているでしょう。」はあなたの意識です。


親子、兄弟姉妹、夫婦、その他の人間関係は、意識が違うのに無理やり

同じと強制していませんか?


強制された方は反発するか、我慢するかのどちらかになります。

我慢させれば自分の正当性が実証されたことになり、反発するのは

相手が素直でないと断罪します。


意識はふしぎです。

意識はどこの世界にも行くことができます。空想もそうですね。


過去に意識の中心を置くお年寄りがいます。

現実に意識の中心を置く現実主義の人がいます。

未来に期待する若者がいます。


それぞれの人生ですから、どれがいいのでもありません。

まったくの自由なのです。


しかし、その意識が現実を決定します。

意識が現実を創造し、人はその現実の中で生きることになります。


ですから、もし幸せになりたかったら意識を変えることで可能です。

自分が幸せになるのにふさわしいのですから、幸せになるのです。


意識を変えるのを躊躇する必要はありません。

毎日、何回でも意識を変えることは可能です。


ただし、現実が実現する前に変更してばかりいたら、いつまでも

現実にならないかも知れません。



2006年10月26日(木) 新しい流れ



今日からLORANティーチャーコース第2回が始まりました。

ご参加いただきました皆様に、厚く御礼申し上げます。


LORANはようやく第3段階へ入ったと思います。


最初の段階は私たちが池に小石を投げ入れたときでした。

それは今から約10年前のことでした。

全国から大勢の人が集まってくれました。


「地球交響曲第3番」上映会をLORANのメンバーさんの

ご協力により、会場の700席を満席にすることができました。


富士山5合目、標高1500mで中秋の名月に「満月コンサート」を

開催したこともありました。


この段階は愛と歓びを共有できる人の集まりで、いろいろな

講師と出会えて楽しかったです。


その後、私たちはそれまでの生活を捨てて東京へ行きました。

2年後に富士市へ帰ってから、第2段階が始まりました。

全くの白紙状態からの出発でした。


第2段階は新しいシステムを構成することから始めました。

そして7年でプロコース11期生を送り出すことができました。


この段階は一人ひとりが自分の意識を高めていき、自分自身が

光になることを目的としました。


いよいよ第3段階が始まりました。

LORANティーチャーコースに大勢のLORANカウンセラ

ーが全国から参加してくださいました。

既にLORANティーチャーになっている方を加えると、正に

一大勢力になると思います。


池に投げ入れた小石は、その波紋を確実に拡大しつつあります。

多くのLORANティーチャーが誕生し、全国で活躍されれば、

波紋は急速に波及していくと思います。


LORANは自分の光を実現することを目的にしています。

それは誰にも依存するものではありません。


自分の本質と向き合い、自分が生まれてきた目的を達成するため

です。


新しい流れが始まりました。

黄河の流れはチベット民族が住む青海省の小川に始まり、延々と

5,464kmの道のりを経て海へ至ります。


願わくば黄河の如く、大河に発展しますように。




2006年10月25日(水) 虚しさ


感情の中で最も大きな感情は虚しさでしょう。

喜びや楽しさ、嬉しい感情は長続きしないのが残念です。


悲しみ、寂しさは、まるで影のように人生と同行します。

弘法大師の同行二人は、このことのようにも思われます。


感情はエネルギーであることに気づきました。

エネルギーは貯まれば巨大化することにも。


よい感情は、その時に使い切ってしまうので貯まりません。

悲しみ、寂しさ、苦しみ、悔しさ、憎しみ、怒り、憎悪、

羨望、恨み、呪いなどは反復することで増大します。


毎日、寝ても覚めても、数十年間も思い続けるのですから、

まるで氷山のように成長します。

体中に貯まっていて、臓器や腰、お腹、足などを冷やします。


エネルギー・ヒーリングによって取り出すことは可能です。

取り出した後は血液が一気に流れ出し、温かくなります。


このエネルギーの中でも、最も大きな氷山化しているのは

虚しさです。


これを知ったとき、とてもショックでした。

でも今は、その通りだろうと思います。






2006年10月24日(火) 見えない暴力


インターネットの普及で、様々な弊害が起きています。

迷惑メールや掲示板などへの書き込み、さらには「なりすまし」と

言われるものまであります。


これらはサイバー犯罪という刑事事件ですが、犯人の顔が見えない

という卑劣な犯罪です。


これから先は本人認証がされなければ書き込みやメールの受信が

できないようになるでしょう。


手間がかかりますが、見えない暴力に対抗するには仕方がありません。

システムの開発や発展に、人のモラルが追いついていないのが原因です。


最近は認証された者同士のブログもありますが・・・


昔、武士が果し合いをする前に、「名を名乗れ」という言葉がありました。

いまでは無言電話や迷惑メールなど、名を名乗らない卑劣な人がいます。


街を通っても、聖書の言葉を書いた看板が掲示されていますが、どこの

誰が、なんの目的で掲示したのか分かりません。


そう言えば、どこかの宗教団体が「人類が・・・」という掲示を

しているようですが、宗教団体の名前や連絡先を明示していません。


掲示物には責任者の氏名や連絡先が無ければ、不審に思われても

仕方がありません。


見えない暴力は恐怖そのものです。

それを許さない断固とした勇気が必要です。







2006年10月23日(月) 酸素の功罪


私たちは酸素が無ければ生きられません。

そんなことは誰でも知っています。


もし酸欠になれば、助かっても脳死状態になります。

かっては未熟児が保育器内で酸素濃度の高すぎで、網膜症を

起こして失明する事故が多発しました。

また活性酸素がガンの原因になることも知られています。


このように酸素は必要ですが、酸素はトラブルの原因でもあります。

どうしてこんなことになるのでしょうか?


酸素は植物が光合成の結果出した廃棄物です。

かって酸素は大気中には無く、炭酸ガスが充満していました。


それで炭酸ガスを呼吸する植物が出現し、繁茂しました。

石炭は古代に繁茂した植物の化石です。


廃棄物である酸素が増えて、それを利用する動物が現れました。

現在の大気中の酸素濃度は、約20.95%で、80%近くは窒素です。


酸素は様々な物質と化合し、酸化します。

鉄などの金属は錆びてボロボロになり、終には自然に還ります。


草や木は水と酸素で腐敗し、土に還ります。

酸素は燃焼を助け、可燃物は燃焼により土に還ります。


このようにエネルギーは酸素と結合し、燃焼して元へ戻ります。

動物や人は酸素を呼吸し、体内のエネルギーを燃焼して生きています。

そしてエネルギーが燃え尽きたとき死亡します。


しかし植物は自分を滅ぼす酸素を排出しています。

ですから植物の生命は動物とは比較になりません。


屋久島に自生する杉は世界でも最も長寿と言われています。

その中でも縄文杉は、なんと推定年齢が 7200年だそうです。

世界最古と言われるメソポタミア文明の6000年前と比べると、その

寿命の長さに圧倒されます。


植物は自分を破壊するシステムが無いので、半永久的に生きます。

動物は自分を破壊する酸素を必要とするシステムですから短命です。


こう考えると、地球の王様は人間ではなく、植物であることが分かります。

私たちは思い上がっていたと反省しなければなりません。


2006年10月22日(日) 新しい海岸

今朝はいつもより少し早く起きました。AM 3:30でした。

AM 5:00 熱い緑茶をすすって、星空の下を自転車で急ぎます。

今朝から強力ライトで前方を照らしながら行きました。

自転車の灯火では田の中の道では用を為しません。

今朝も真っ暗な道を犬を連れて散歩中のお年寄りを発見。

強力ライトの威力は絶大でした。


それにしても本須賀海岸までの道に乗用車が多いことにビックリ!

いつもはほとんど車がいない道路なのに、行列で走っていました。


途中2店あるコンビニは、こんな早朝なのに混雑していました。

目的地の本須賀海岸は50〜60台ものサーファーの車が集まっていました。


これではとても波打ち際で瞑想できませんので、急遽変更しました。

更に500mほど北上したところに、閉鎖された海水浴場がありました。


その入り口の門の横に自転車が通れる小道があり、そこから進入しました。

低い堤防を自転車を押しながら上ると、人気がない海岸でした。


堤防上へ自転車を置き、椅子と下敷き板を持って波打ち際へ行きました。

左手5kmほどの上空を車輪を出したジャンボジェット機が成田空港へ

向かっています。爆音が低く響いていました。


AM 5:50 瞑想を始めました。約30分後に太陽が雲の上に見えました。

約1時間後に自転車へ乗り、帰り出しました。

新しいワークの場所ができて、とてもハッピーでした。


昼食後、静岡県富士市の住まいへ向かいました。9日ぶりです。

この日記は富士市で書いています。


2006年10月21日(土) 忠君愛国


「忠君愛国」という言葉を知っていますか?

いま70歳以上の人は、戦時中に骨身に沁みるほど教えられたことです。


政治家の中には、今もこの時の教育が基本になっている人がいます。

それで「道徳教育」に熱心なのでしょう。


皆さんは疑問を持ちませんでしたか?

なぜ道徳教育で「忠君愛国」を教えられるのかと。


いまでこそ、「忠君」の二文字は表面に見えなくなりましたが、戦時中は

すべてに「忠君」が優先していました。もちろん国民の生命よりもです。


今でも「愛国」という言葉の裏には、「忠君」がセットになっています。

日本は「象徴天皇制」を標榜していますが、実態は以前として「天皇制」です。


国会の開会を宣言するのも、内閣総理大臣と大臣を任命し、大使を任命し、

パスポートには天皇の臣民であるという「菊の御紋」が押されています。


これは天皇が最高権力者であり、大臣や大使は天皇の意向を政治や外交に

反映させなければならないということです。

国民の証明をするのは、総理大臣や外務大臣ではなく、天皇なのです。


私は「天皇制擁護者」でも、「反天皇制」でもありません。

実は私は「天皇制」があっても、なくても興味がありません。


ただ昨今の政治の流れは、大変危険を孕(はら)んでいると感じます。

いつ日本が戦争に巻き込まれても、不思議ではないと思うからです。


「愛国」や「親に孝行」は政府や学校で教えられることではありません。

政府の教育機関が学校ですから、政府と学校は同じですが・・・


誰でも自分の親や家族は大好きです。

そんなことは教えられなくても知っています。


苦労をしながら自分を生み、育ててくれた両親が大好きだから、年末年始、

お盆には日本中の人々が里帰りするではありませんか。


しかし「愛国」は違う匂いがします。危険の匂いです。

誰でも自分の母国・日本が大好きです。日本人である誇りもあります。


それは自分の家や家族と同じ感覚です。それだけで十分です。

1億2千万人の国民が等しく感じていることです。


政府や学校でいう「愛国」はその感じではありません。

そこに戦争の匂いを感じるのは、私だけではないでしょう。


権力者は政治は国民のためと言い、国民から富を奪ってきました。

所得が増え、便利で快適な生活を与えられたと喜んでいたら、いつの間にか、

国公債の支払いを押し付けられています。

一人当たり間もなく、約1000万円です。


4人家族なら約4000万円。こんなに貯金がある家庭ばかりでしょうか?

誰もこんな国を命がけで守ろうと思わないから、「愛国」を強制しています。


「愛」が強制でないことは知っているはずなのに、どうしたのでしょう?

「愛」はこころの奥深くから自然に湧いてくるはずなのに・・・



2006年10月20日(金) セイタカアワダチソウ


先週から千葉・九十九里海岸近くへ来ています。

私が7月から住んでいる場所は、別荘分譲をした区画らしく、

お洒落な外観の住宅が多くあります。


近所に空き地が多く、建物が建てられていない区画は2〜3倍

以上でしょう。

そこにいま、セイタカアワダチソウが咲いています。


その名の通り、草丈が1.5mもあり、それが数百坪も黄色い

花を満開に咲かせています。


春の菜の花は背も低く、穏やかな感じをうけますが、こちらは

空き地を占拠するかのように、圧倒的な力で繁茂しています。


「里の秋、セイタカアワダチソウで満たされる。」LORAN


あちこちの空き地や休耕田、分譲地などに、旧来のススキに替

わって、色鮮やかなセイタカアワダチソウの群落が見られます。


数十年間で全国を制覇した北米産の帰化植物だそうです。

アメリカの貿易や金融の自由化を、象徴しているように思われます。


ハチミツを取るのに利用されると書いてあった記事を見ましたが、

今年もきっとたくさんのハチミツが取れることでしょう。


2006年10月19日(木) お粥(かゆ)の中





私たちは、まるでお粥(かゆ)の中にいるようです。


お粥の食器は人間社会です。

お粥は人間のエネルギーです。


一粒一粒のお米が、一人ひとりのエネルギーです。

一人ひとりのエネルギーが混じり合い、お粥のようにどろどろ状態です。


どれが自分のエネルギーなのか判(わか)りません。

どこまでが自分のエネルギーなのか判りません。


ただどろどろに溶けて混じりあい、お互いに影響しあい、

相手のエネルギーと自分のエネルギーが混然となっています。


ですから、自分が誰なのかも判りません。

自分がどう生きればいいのかも判りません。


みんなもそうだからと自分を慰め、

少しでも遅れをとらないように努力をします。


みんなと同じお粥にならなければ・・・

その中でも大きいお米でありたいと願って・・・


いまのあなたの状態が、あなたが求めてきた結果です。

それがあなたにとって好ましくても、好ましくなくても。


もしあなたがいまの状態に満足していないのなら、

私に一つの提案があります。


「お粥の食器から出てみませんか?」

「そんなことをしたら、たちまち干からびてしまう。」ですって?

そうです。干からびてしまうかもしれません。


でもあなたは自分の真実を知りたいと思ってはいませんか?

だからお粥の中にいても、満足できないのではありませんか?


もしあなたに勇気があるなら、お粥の食器から出てみてください。

そこには豊かな自然があります。


人や物やお金はなくても、ゆったりとした時間が流れています。

干からびるかどうかの心配は、それから先のことです。


私はあなたの生活の保障はできません。

でもあなたはきっと干からびないで、輝くお米になると思います。


2006年10月18日(水) 優しさと・・・


昨日のつづきです。


優しさはたいせつですが、そこに強さが必要だと書きました。

その強さは腕力や武力、暴力ではありません。


自分の中にある意識の力を言います。

意識の力は、規制や制限と異なります。


「こうしなければならない」と思っても、それが不安をベースに

していれば、規制や制限になります。


それがもし、自分のこころの奥底から湧き上がってくるのなら、

自らを動かす原動力であり、勇気になります。


このように同じ言葉でも、その原因たるエエネルギーによって、

まったく反対の結果になるのですから、注意が必要です。



「愛」という言葉は誰でも好きですが、思いや行為は反対になるこ

とが多いので、注意を必要とします。


「愛」があるから相手の裏切りを許せないと言う人がいます。

そして相手の非を責め、終には破局に至ります。


「愛」があるから相手の非を許す人がいます。

相手も寛大なこころを汲んで、2度と同じ非を犯さなくなります。


「愛」は執着ではなく、開放です。

制限や規制ではなく、許しと自由です。


大好きな小鳥を鳥かごで飼う人もいれば、育つ環境へ開放する人もいます。

それはその人の意識の問題であり、善悪の問題ではありません。



法律を犯さなければいいと思っている人が多くいます。

法治国家だから、法律を守ることは当然でしょう。


しかし本来、法律は無用だと思います。

法律は規制ですから、違反すれば罰則が適用されます。

罰則があるから法律を守るのでは、本末転倒です。


人と人の関係は、お互いの優しさやいたわりがベースでなければなりません。

ですから法律ではなく、エチケットがあれば十分でしょう。


そうなれば警察も刑務所も要らなくなります。

軍隊も兵器も要らなくなります。


人間にもし叡智があるなら、優しさをベースにした世界を創造しましょう。



2006年10月17日(火) 優しさと厳しさ


現代は優しさを尊重する傾向が強いと思います。

優しさはなによりもたいせつなことであると思います。


傷ついた人を癒す仕事を、私たちはしています。

HPやブログを見ても、優しさに溢れているサイトに人気があります。


人は海や山、空、風、花、木などに触れて、自分を癒しています。

大自然には、人を癒す大きなエネルギーがあります。


今朝も海へ行ってきました。

自宅から自転車で片道40分以上かかります。


今朝は雲ひとつない快晴でした。

その上、長大な海岸線に誰一人いませんでした。


こののどかで優しい海は、私たちに多くの海の恵みを与えてくれます。

ここに住み着いた人々は、永く漁民として生計を立ててきました。


「海は魔物」とも呼ばれます。

幾多の船を沈め、多くの生命を奪ってきました。


漁師の話を本で読みましたが、「板こ一枚下は地獄」と言っていました。

北海道の冬の海では海水温度が5℃以下ですから、落ちたら5分ともちません。


優しさと厳しさは常に同居しています。

同じ愛情でも、母親の優しさと父親の厳しさがあるのと同じです。


どちらが無くても困ります。

自動車のアクセルとブレーキと同じで、片方だけでは運転できません。


いまとても気になるのは、優しさのみが強調されていることです。

武力や暴力を肯定しているのではありません。


優しさは自らの厳しさに裏打ちされたものだからです。

真に優しい人は、とても強い人です。


自分に甘い人は、自分に弱いひとです。

ですから、誰かに守ってもらわなければ生きていけません。


HPやブログの多くが、ただ甘い優しさだけが強調されているように感じる

のは、私だけなのでしょうか?


自らが癒されたら、次には自分を叱咤激励して勇気を持って生きたいですね。




2006年10月15日(日) 秋風


秋風が吹いています。

静岡県富士市から千葉県九十九里海岸へ来たのは3日前です。

同じ太平洋岸で緯度もそう違わないので、気温も同じと思っていました。


富士市は北に富士山が聳え立っているので、北風が吹きません。

九十九里海岸は一望千里の言葉通り、全くの平坦です。

そのため風は何ものにも遮られずに、気持ちよく吹き渡っていきます。


今日も冷たい風が吹いていて、晩秋を思わせます。

でも秋はこれから深まり、柿の実が赤くなるのですね。


久しぶりに東京へ電車で行きました。

大網駅から外房線で東京駅へ、そこから山手線で池袋へ、西武

池袋線で保谷駅へ到着しました。


主催者で仲間のOさんがお迎えに来てくださいました。

会場のホールに仲間が集まってくださいました。

遠く愛媛県からも来ていただいて感謝しています。


外は秋風が吹いていても、仲間はなんて暖かいのでしょう。

人の心は移ろいやすいもの、でも信じられる人がいます。


すべての人に愛され、理解してもらえなくても、自分を信じて

くれる人がいます。


どんなに時代が変化しても、いつも共に居てくれる仲間は

ありがたい存在です。


それが仲間のありがたさだと思いました。


自分と時間を共有してくれるありがたさ。

今も、過去の時代も、そしてこれからも。



2006年10月14日(土) 情報と私(3)


(一昨日からのつづき)


どのように多くの情報が氾濫していても、自分が必要な情報は僅かです。

たくさんの情報を必要としている人もいるかも知れませんが、それも

ごく専門的な情報を集めていると思います。


毎日株式の売買をする人や相場取引をする人は、それが仕事です。

そこには様々な情報のルートがあり、大変な費用を使っています。

一般の人が情報を集めても、彼らに敵うはずがありません。


私たちは自分に必要な情報があればそれで十分です。

それ以上の情報は自分を不安にさせ、情報の収集に夢中にさせます。

こうして不安が不安を呼び込むサイクルができあがります。


今から10年ほど前、私は新聞を6〜7紙読んでいました。

日曜日は記事のスクラップを作るだけで半日以上かかりました。


いまは新聞はおろか、テレビもありません。

インターネットで新聞へアクセスできますから、それで十分です。


必要な情報は、必要なときに届きます。

いまは図書館の本からだったり、インターネットからです。


その情報を検索していくうちに、次々と情報が繋がっていきます。

いまも一つの情報に興味を持っています。


1800年前に生まれたある人が、いまの時代に大きな影響を与えている

というのです。これが本当かどうかを検証中です。


このように自分にとって必要な情報は、情報のほうからやってきます。

私たちは必要でない情報を捜し求めているような気がします。





2006年10月13日(金) 情報と私(2)


(昨日の続きです。)


様々な情報が氾濫している中で、自分に必要な情報を得ることが大切です。

そのためには感性を大事にしなければなりません。

氾濫する情報に慣れてしまったら、大切な情報を見分けることができません。


ヨーロッパの有名な某指揮者が東京の有名ホテルへ滞在したとき、部屋へ

案内しようとホテル関係者が一緒にエレベータへ乗ったそうです。


「お役に立ちたいので、お気づきの点をお知らせください。」

「では、この(エレベータ内の音楽の)音を消してください。」


いつも音で耳を刺激していたら、必要な音が聞こえなくなるという理由でした。

家ではテレビやCDをかけ、駅やストリートでは案内放送や音楽がいっぱい。

いつも音が氾濫していたら、自分にとって必要な音を聞き分けられません。


同じように、情報が氾濫している社会は、真実から最も遠い社会です。

商品を売りつける意図的なマインド・コントロールでしょう。

いつも同じ情報を与え続けていたら、意識の80%を閉める潜在意識が書き

換えられてしまいます。

そうなれば無意識で商品を買うようになります。とても恐ろしいことです。



最近、駅や空港、電車の中で「不審な物を見つけたら通報してください。」

と1日中アナウンスしています。

空港の異常な警備状況は戦争中と同じです。郵便局にまでガードマンがいます。


地方自治体の広報無線でも、「小学校児童の安全」のために注意を呼びかけて

います。富士市のこの町内では「安全パトロール」と称して、自動車のドアへ

大きなラベルを貼り、屋根にブルーのパトライトを点滅させて走っています。

児童通学路には警察官そっくりな制服制帽の町内の交通安全係が立っています。


これは「安全は大切」のマインド・コントロールに支配されている状況です。

次には、「不審者を通報、摘発、排除せよ。」になるでしょう。


「安全を脅かされているから、武装しよう。」になり、「自分達以外は敵だ。」、

そして「敵は攻めてくる。戦争は近い」となって、戦争が開始されるでしょう。


私たちは情報に踊らされたらいけません。

あなたはまた戦争の支持者になるつもりですか?


みんなが戦争へ行くから・・

戦場では人殺しをしているから・・

戦争は命令だから・・

自分の子どもが戦死したのは、政治家が悪かったから・・


あなたはこのような人々の仲間ですか?

もしそうなら、あなたは平和も幸せもいらない人なのでしょう。



2006年10月12日(木) 情報と私


情報が溢れています。

テレビや新聞の影響力は絶大です。


「だって、テレビで言っていたから・・・」は常套の文句です。

テレビ中継の海外現地ニュースも、インタビューの吹き替えで変えて

しまうこともあります。まったく反対のコメントもあるそうです。


ここ10年来のチャネリングによる地球外存在からの情報もあります。

地球、金星、火星、小惑星帯や地球型人類の歴史についてなどです。


プレアデスやシリウス、オリオンなどに関わる情報が多くあります。

これらの情報はとても詳細で、驚くことばかりです。

チャネラーの意識や感情などの影響を受けることはないのでしょうか?


さらに超人類などの意識による地球人へのメッセージもあります。

「ロズウェルのUFO墜落事件は、アメリカ政府による攻撃で撃墜された。」

などという情報です。「その兵器は超人類から与えられたものである。」


太陽の中心温度の上昇により、世界的な火山爆発や地震、津波の発生。

東海地震、東南海地震や関東大震災などと原子力発電所の崩壊。


ポールシフトや小惑星の激突など、数え上げたらきりがありません。

どれも信憑性がありそうですし、どれが真実か分かりません。


私は聞いて嫌な気分にならない限り、一応終わりまで聞いています。

「それもあり・・・か」なのです。


どれが真実ではなく、どれにも真実が隠されていると思います。

どれにも創作された部分が存在するのでしょう。


ですから、全面肯定も全面否定もしません。

できる限り自分にらくな聞き方をするだけです。


必ず真実はいつか暴露されるでしょう。

それを証明できるのは、いつもそれが終わってからでしょう。


2006年10月11日(水) 私の本の読み方


本を読むには、先ず本を選ぶことから始まります。

最近はあまり新刊を買わなくなりました。

その代わり図書館やブック・○○を利用しています。


富士市の図書館は10冊、2週間の貸し出し規定です。

大抵目いっぱい10冊近く借りてきます。


1週間か10日後には返却に行きます。

そしてまた10冊近くを借りてきます。


たとえ全部読んでいなくても、一旦返却してから帰りに借り直します。

それによって貸し出し期間が2週間になります。


ですから1ヶ月に20冊以上借りることになります。

年間なら240冊近くということになります。

実際にはこんなには借りていませんが。


しかしそれだけの本を読んでいるかというと、そうではありません。

書架から取り出すときに一応選んでいるのですが、家に帰ってから

手に取りめくると違う感覚を受けることがあります。


これは失敗ですから読むことはありません。

2〜3冊は候補から外れます。


更に3〜4ページ読むとまた違うと思う本があります。

このような本が1〜2冊あります。


これもまた候補から外れます。

読む本はこの時点で5冊ほどになります。



じっくり腰をすえて読む本と、お茶を飲みながら軽く読む本に分かれます。

児童書や絵本、伝説など大好きです。

これを混ぜながら同時に3〜4冊を平行して読んでいます。


じっくり読む本は10冊に1冊位です。

後はほとんど斜め読みです。


読み出すと1日1〜2冊は読みます。絵本ならもっとですね。

「本は読むもの」と思っているので、飛ばし読みは当たり前です。

一字一句を丁寧に読むことはあまりありません。

その本にはまって、1ヶ月間毎日読んだ本もあります。


自分が好きなところを好きなだけ読むことにしています。

このような読み方にしてから、本を読むのが大好きになりました。


人それぞれの読み方があるのですから、自分の好きな読み方がいいと思います。


2006年10月10日(火) 新しい社会



「人は働かなければならない。」と思っています。

「生活資金を得るために」という理由が一番多いのでしょうね。


もし支払うお金が少なくなれば、働く時間は少なくなると思います。

では支払うお金を少なくするには、どうしたらいいのでしょうか?


「買い物は100円ショップで済ませる。」という買い方もあります。

「できるだけ物を買わない。」のは賢明な方法です。


「公園の青シートで暮らせば、家賃や税金、電気代、水道代など節約できる。」

という究極の選択もありますが、これからの季節はつらいものがあります。


実は根本的な解決方法があります。

多分生活費は半分になるでしょう。


公務員制度を廃止すればいいのです。

「え〜、そんなことをしたら、誰がみんなの面倒を見るのですか?」ですって?


「みんなで見るのです。」

「だって仕事があるのですよ。」


「そうです。ですから退職者を中心にお願いするのです。」

「退職者にできるのですか?」


「退職者の中には公務員だった人もいます。

 その人たちに指導をお願いして、みんなが協力するのです。」


「退職者はお年寄りでしょう?

 お年寄りにできるでしょうか?」


「できますとも。

 出勤のローテーションを細かく組めばできます。

 Aさんは1週間のうち月曜日と木曜日の午前中、Bさんは同じ曜日の午後とか。

 ほかに2時間ならOKとか、1時間ならOKという人たちとチームを組みます。」


「なるほど、短時間で毎日でなければできるかも知れませんね。」

 専門のお仕事はどうしたらいいのですか?」


「もちろん専門のお仕事も同じです。

 専門のお仕事に従事した退職者をリーダーになってもらい、他の人は指示に

 従ってお仕事をされればいいでしょう。」


「老人の介護はどうしたらいいのですか?」

「これが実施されたら、家族は仕事に行かなくてもいいようになるでしょう。

 そうなれば、介護は家族ができます。

 しかし家族にだけ介護をさせたら、家族がまいってしまいます。

 それで同じ地区の人々が互いに手を貸すケアセンターを作り、そこでローテーション

 を組んでいただくようになります。」


「保育園や幼稚園はどうなるのですか?」

「同じ地区の保育士の経験があるかたにリーダーになっていただき、お母さんや

 育児が終わったお母さん、これからお母さんになる方に手伝っていただきます。」


「なるほど、すべて経験者がリーダーになって、他の人がローテーションでお手伝い

 するのですね。

 学校は教員経験者がリーダーになるのですか?」


「学校は本来、文部省の管轄です。

 これは国家を存続するための方法です。

 国家は教育と軍隊の2本の柱を持っています。

 私は究極的には、どちらも無用になると思います。

 しかし、現在はその過渡期ですから、教員経験者にお願いします。

 それが順調に進んだら、寺子屋方式にしたいと思います。」


「寺子屋ですか?」

「そうです、寺子屋です。

 明治時代に西洋式学制が導入されるまで、寺子屋教育でした。

 お寺で和尚様が、商家のご隠居が、近所の子どもに読み書きそろばんを教えて

 いました。

 寺子屋では士農工商などの差別は無く、孔子の大学などの講読を行いました。

 いまより遥かに高い教養を身につけていたと思います。

 ですから、明治維新を担った若者は、20〜30歳代であったのも理解できます。」


「このような計画が実施されたとして、結果はどうなるのですか?」

「いくつかの利点が挙げられます。

 第1には、公務員給与が無くなることで、税収の50パーセント以上が削減できます。

 つまり税金が半分になるということです。

 これは商品価格に反映しますので、多分価格は半額になるでしょう。

 そうなれば生活資金が半額になるので、働く時間も半分になるでしょう。


 第2に、高齢化で老人が急増しています。「団塊の世代」が定年を迎えたからです。

 少子化で若者が減少しているのですから、高齢化の負担に耐えられるはずがありません。

 それでこのような相互扶助の社会を必要としているのです。

 老人から仕事を奪ったら、生きがいが無くなり、ボケが進むことは実証されています。

 いままで培った経験を活用していただき、再度現役として活躍する場を提供しましょう。

 お互いに尊敬される関係が社会を豊かなものにすると思います。」


このような社会を至急作らなければ、すぐに行き詰ります。

最近の地方自治体の財政破綻が、それを証明しています。


2006年10月09日(月) あなたの真実


人は「真実」が好きです。

「真実」を捜し求めることが人生なのかも知れません。


人は宇宙の真実、地球の真実、自然の真実、人の真実などを求めてきました。

これはBC400年に生きたソクラテスの疑問と同じです。


彼の疑問は同時代に生きた釈迦、400年後に生きたイエスと同じです。

これらの疑問が次第に専門化されて、科学や宗教になったと思われます。


私は「真実とはその人である。」と思います。

一人ひとりが異なるのですから、真実は異なります。


「共通の真実はないのですか?」と問われれば、共通認識はあります。

地球が丸いとか、朝日は東から昇るとか、水は高きから低きへ流れるなどです。


これらの共通認識は、確かに「真実」に違いありません。

信じる人にとっては、「真実」だからです。


「では、自分の信じていること以外には真実はないのですか?」という問いには、

「真実はあなたですから、あなたが思い出したことは真実です。」と答えます。


多くの人はこの答えに納得できないでしょう。

それは、すべてが平等であるという偽りを信じているからです。


よく周囲をご覧なさい。どこに平等がありますか?

あなたは毎日食事をして、暖かい寝具で眠ることができます。


しかし、世界中に数百万人もいるストリートチルドレンの中には、一度も暖かい

寝具で寝たことがない子どももいるのです。


今現在も4千万人もの難民が寒空の下で震えていますし、同数のエイズ患者が

死の恐怖の中に震えています。


このような人々とあなたが平等なのでしょうか?

平等なのは、同じ地球上に生きているという「真実」だけなのです。


ですから「真実」は人の数だけあります。

地球上には人間だけで、64億人の真実があります。


その「真実」は一人ひとり異なります。

その「真実」は、気づく度に変化します。


どうぞあなたの「真実」に気づいてください。

もしもあなたが自分の「真実」に気づけたら、あなたの人生は変わるでしょう。


今よりもきっと、自信に溢れた元気なあなたになるでしょう。

他人やお金や仕事に依存することは無くなるでしょう。


テレビや新聞などのマスコミに踊らされることもなくなるでしょう。

その結果、とても静かで落ち着き、ゆったりとした人生になることでしょう。


あなたが自分の真実に気づく日を、あなたた自身が待っています。



2006年10月08日(日) 大阪から帰りました。


3日間大阪にいました。

中之島のホテルへ2泊しました。

国際色豊かなホテルで、最初は驚きました。


なんば駅の上のビルで2日間のショップを開きました。

ここは繁華街のど真ん中で、同じビルのB2,B1がパチンコ店でした。


向かいのアーケ−ドを夕方歩いて驚きました。

まるでお祭りか、ラッシュの駅構内のような人の渦でした。


ビ○○・カ○○という家電の大手の巨大なビルがありました。

店内の人の多さに驚きましたが、それ以上に店員さんの多さにビックリ。


数百人?の若い店員が店内くまなく配置されていました。

キャンペーン中なのか、ミニスカートのユニフォームの女性も多くいました。


店内アナウンスは早口で切れ目無く、特売の商品をしゃべり続けていました。

外に出ても、あちこちの店で呼び込みをしていました。


これが都会なのだと痛感しました。

これが人間が求めていた世界なのだと。


私は富士山の麓、富士市で生まれて育って60余年になります。

富士市にいなかったのは、学生時代の4年間と7年前の半年?間です。


周囲が田んぼの住まいでしたが、2ヶ月前に千葉・九十九里海岸へ引越しました。

人口は富士市の1/5。 5万人の小さな町です。

ここは周囲の騒音が、ほとんど聞こえません。


夜は冷たい海風に乗って、潮騒がゴーゴーと聞こえます。

静かになれば遠くの音が聞こえるので、無音にはなりません。

自然の音は耳に心地よく、気持ちも安らかになります。

時間はとてもゆったりとしています。



こんなところから繁華街へ行くと、全くの別世界です。

人工的な自然がありますが、イミテーションですからドライフラワーのようです。


人は群集という群であり、個人という存在は消えています。

同じ顔、同じ服装、同じ買い物袋、同じスピードで歩いています。


まるで映画を見ているような錯覚に囚われます。

「この人たちは何を考えて生きているのだろうか?」と。


ショップを早めに片付けて富士市へ帰りました。

私は都会で生きることは不可能であると痛感しました。


人間の未来は、決して楽観できないと感じました。




2006年10月06日(金) トラブルの原因は?


人生いろいろなトラブルが発生します。

トラブルが起きたらどのように対処したらいいのでしょうか?


先ず、被害を最小限に食い止めること。

事後の復旧や対策の早期策定、早急な回復作業でしょう。


ここで忘れてはならないのは、トラブルの原因究明です。

第1には直接的な原因を究明しなければならいことは当然です。


次にはシステム上に原因がないかどうかです。

どうしてトラブルになるまで気づかなかったかという原因のことです。


そして最後に大切なのは、トラブルが教えてくれているメッセージです。

「もうこの仕事は終わりにしなさい。時代に合わないから。」などです。



これらの原因追求の作業をしないで、復旧のみに関心を持っていたら、

いかに注意してもトラブルは繰り返されるかも知れません。


最近私の知り合いが2人入院されました。

2人とも還暦を迎えられているので、体力の限界かも知れません。


そのお一人は間もなく脳の手術を予定されています。

順調な手術と回復を祈るばかりです。


人生は学びともいいます。

60歳を過ぎてからの学びとはなんでしょうか?


人それぞれの学びが異なるのは当然です。

しかし人生50年を過ぎたら、無理をすれば寿命が無くなります。


それを覚悟で物事に対処するのは当然です。

願わくば、老後は悠々自適の生活をされますように。




2006年10月05日(木) 新しい段階へ入りました。



「新しい段階」と言っても、なんのことやらお分かりにならないでしょうね。

私たちは毎日ワークをしています。


毎朝海岸まで歩き、日の出の朝日を浴びながら瞑想をしています。

私は千葉県九十九里海岸近くへ移転したので、歩いて10分足らずに海岸があります。


自転車で片道30〜40分のところに本須賀という海岸があり、そこへ行っています。

今朝は小雨交じりの天気でしたが、濡れるのを覚悟ででかけました。


さすがに海岸には人影がありませんでした。

右手はるかに2〜3人のサーファーが見えました。


空を覆う厚い雲の中から、時折ジャンボジェット旅客機が姿を見せます。

ここは成田空港へ着陸するコースになっていて、多いときは5機も連なっています。


海鳴りが低く鳴っていますが、風は強くありません。

浪打際へ小さな板を置き、折りたたみの小さなパイプ椅子を置いて座ります。


今朝は自分の中の悲しみのエネルギーを取り出しました。

その後、過去のすべてのエネルギーが出て行きました。


猛烈な吐き気がしますが、内容物が出ることはありません。

周囲に人がいないので、心置きなくできます。


しばらく経つと、ようやく治まってきました。

ふと気がつくと、巨大な「光の存在」が私の前に立っておられました。


私は私と「光の存在」の様子を右手から見ていました。

「光の存在」の巨大な「光の剣」が頭上から降り下されました。


私は着ぐるみが真っ二つになり、中から光輝く存在が出てきました。

新しい段階とはこのことです。


2006年10月04日(水) 1日リラックスワーク



今日は「1日リラックスワーク・千葉」を開催しました。

ご参加いただきました皆さまに御礼申し上げます。


リラックスワークが大切なことは、誰でも知っています。

人はそれぞれに緊張や疲れを癒しています。


深いリラックスは経験しないと、ご理解いただけないと思います。

体には指1本触れませんが、全身から力が抜けてしまいます。


手足はもちろんですが、内臓や脳までがリラックスします。

脳がリラックスすると、しばらくの間なにも考えられなくなります。


肉体のリラックスはどこに力を入れていいのか、分かりません。

しばらくすると、まるでリハビリのようにゆっくりと体を確かめながら

動くことができるようになります。


どうしてここまで、深いリラックスすることが必要なのでしょう?

自分が本当の自分であるためには、自分を支配するエネルギーを手放す必要

があります。


緊張や疲れや痛みは本当の自分ではありません。

悲しみや寂しさ、怒り、不安、羨望などの感情も、自分ではありません。


それらを肉体からゆっくりと開放していくと、本当の自分へ戻ります。

脳がリラックスすると、なにも考えなくなり、脳がゆったりとします。

肉体はどこへ力を入れていいのか分からないほど、ゆったりします。


この状態なら、不安や心配、恐怖などがありませんから、とても平和です。

穏やかで、幸せな気持ちでいられます。

緊張が無いので、肩こりや腰痛、胃痛などが無くなります。


喉も楽になり、声が優しくなります。

安眠ができ、食欲も戻り、手足の冷えもなくなります。


リラックスはとても効果があります。お試しください。







2006年10月03日(火) 人は同じですか?(3)


(昨日のつづきです。)


「人はすべて同じ」という常識は与えられたものでしょう。

そう思うから、人は自分の気持ちを抑えて生活しています。


一人ひとりが自分の思うように生きたら、社会は混乱すると教えられています。

忍耐や我慢ができなければ、社会人として失格と言われます。


「君子は和すれども同ぜず。小人は同ずれども和せず」

孔子と弟子との問答集、「論語」の中の1節が、君子のような生き方を推奨しています。


孔子が生きた春秋戦国時代は戦乱が約300年間も続き、国土は荒れ、民衆は飢えに

苦しむ最悪の時代でした。

孔子はこの時代に仁(愛)を説いて、礼を尊ぶ生き方により、社会の混乱を収拾

しようとしました。


約2500年も昔の言葉を、同じ時代のように適用するのは無理があります。

言葉による支配は過去では通用しても、現在には通用しないでしょう。


昔は無学、文盲の民衆が大部分でしたが、現在は殆どが高学歴です。

現在は「智恵の時代」と、私は言っています。


高学歴なのに、自分の知識や技術、才能などを使えなくて持て余しています。

これは「智恵」の欠如が原因でしょう。


「智恵」は、自分が現実を正確に把握しなければ使えません。

今までのように本や教室で知識だけを収集しても、自己満足で終わります。


教育が役人や教師の仕事であるのは、国の方針に従順な羊の群れを作るためでした。

自分という個性を削って、愛国思想によって自国を防衛させるためでした。


このような孔子時代の思想が、2500年も経った現在を支配しています。

人間の学習能力の無さには、ただただ呆れるばかりです。


今の時代は「アセンションの時代」と言われていますが、「アセンション」は

キリストの昇天の意ですから、人類が全滅すると言い換えることもできます。


「このままでは人類は行き詰ってしまうよ。」という警告でしょう。

「なにもしなくても、アセンションさせてもらえる」と思うのは、あまりに

楽観的に過ぎます。


「天は自らを助けるものを助く。」と聖書でも言っているではありませんか?





2006年10月02日(月) 自分を知ろう(2)


(昨日の続きです。)


「人は誰でも同じ」と信じています。

これが社会の共通認識=常識=認識の基礎になっています。


確かに人類の学名は、脊椎動物門・哺乳綱・霊長目・ヒト科です。

全ての人は「ヒト科」に属しているので、その仲間であることは事実です。


それは肉体という分類においてです。

多くの人は、「人はすべて同じ」という誤解をしています。


それで好き嫌いをすると、「わがままはいけない」などと言います。

しかし、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いなのが自然です。


学校給食で児童に無理やり食べさせるのは、人権侵害です。

では、先生は嫌いなものは食べなくてもいいのでしょうか?


誰でも努力すれば、同じことができると思っている人がいます。

努力によって、多少の進歩は可能かも知れません。


それよりも、好きなことをする方が能率も上がるし、気分もいいでしょう。

いやなことを無理やりさせられるのは、ストレスが溜まってしまいます。


これらの問題は、「人はすべて同じ」という誤解が原因です。

同じように見えても、その中身、意識は一人ひとりが異なります。


「肉体の分類が同じなら、意識も同じである。」とはならないのです。

民族、文化、宗教などが異なるだけで、同じ地域に住んでいても戦争になることもあります。


インドは第2次世界大戦後、イギリスから独立しましたが、ガンジーの死去後、インドから

パキスタンが独立し、その後パキスタンからバングラディッシュが独立しました。


このように意識の相違から様々な問題が生じ、戦争にまで発展してしまいます。

同じ親から生まれた兄弟でさえ、殺し合いになることもあります。


もしすべてが同じなら、もっと仲良く暮らすことが可能ではないのでしょうか?

それができないのは、単に感情の問題ではないと思います。


一人ひとりの意識が異なることを理解する必要があります。

相手と自分を比較しても、意味がないことを理解できるでしょう。


相手には相手の価値感や生き方があることを理解できれば、相手の批判や非難を

しなくなるでしょう。

お互いが批判や非難をしない社会は、平和な社会であると思います。


2006年10月01日(日) 自分を知ろう。


この社会での問題のほとんどは、自分を理解していないことが原因です。

問題が起こる前提がまったくの見当違いから起こっているのです。


どうしてそんなことが起こるのでしょうか?

偶然か恣意的にか、「すべての人は同じ」という前提を信じているからです。


人はすべて同じでしょうか?

あなたと未開の土地に住む石器を使う人は同じでしょうか?


かって狼に育てられた少年(少女?)が保護されたことがありました。

その子は四足で狼と同じ位の速さで走ることができ、生肉を食べ、腐敗した

肉を食べても下痢しなかったそうです。


確かに普通の子どもが狼同様になれることの証明にはなるでしょう。

しかし、この子とあなたが同じ意識で生きているでしょうか?


100mを10秒で走ることができる人がいます。

マラソンで2時間5分の記録を持つ人がいます。

砂漠に住む人の中には4.0という視力の人がいるそうです。


これらの人々とあなたは同じことができますか?

多分、いやきっとできないでしょう。


でも100mを30秒〜60秒なら走ることができるかも知れません。

マラソンの距離を幾日かかけて歩くことは可能でしょう。

たとえ視力が弱くても、メガネや望遠鏡があれば生活には困らないでしょう。


このように人には個体差があります。

同じことができると思っても、同じ条件では不可能です。


同様に考え方や意識には、更に大きな差があります。

肉体的な制約がないのですから、考えていることが完全に違うこともあります。


そんな違いを無視して同じ価値観を強制しても、まったく異なる行動になることもあります。

更に民族、宗教、思想などの大きな相違があるから、衝突が起こるのです。


正義は個人の数だけあります。

誰にでも、そう考え信じる根拠があります。

それなのに「すべての人は同じ」とすることが無理なのです。

できないことをさせる無理が、問題を起こすのです。


では平和は不可能でしょうか?

そんなことはありません。


お互いがお互いを認めること、相手の立場や考え方を尊重すること。

決してお互いを批判しないことができれば、いつでも平和は達成できます。


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