ヲトナの普段着

2003年12月29日(月) よいお年をお迎えください

 ヲトナごっこも、いよいよ本年最終コラムとなりました。書くことが好きで、人間観察が好きで、たどたどしくも展開してきた僕なりの世界でしたが、葛藤を繰り返しつつも読者の皆さんに支えられてどうにか年を越せそうな気がしています。
 
 
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとゞまりたるためしなし。
世中にある、人と栖と、又かくのごとし。
 
 これは、ご存知鴨長明「方丈記」の冒頭の一節です。これまでもコラム等で触れたことがあるかと思うのですが、古文が苦手な僕にあって、数少ない記憶に残る一節でもあります。幾度となく紹介するということは、僕の中でこの一節に対する想いが強いということであり、人間関係や世情を見事に描写した文章でもあると感服しています。
 
 人の世の儚さをしみじみ感じ入るようになるのは、年端を重ね身内の死を経てであるのかもしれません。人生には限りがあるということ、時間は止められない絶対的なものであるということ、そして、人の心ほど思うに任せないものはないということを知るにつけ、方丈記の文言にある泡沫(うたかた)が僕の脳裏をかすめます。
 
 ただそのような流れ行く世にあって、黙然と消え行くものを眺めているのではなく、だからこそ澱みのひとつひとつを味わって生きていくべきであろうとも感じています。いうなればそれこそが、僕がこのヲトナごっこで目指しているものであり、人間を描きたいという衝動の根底に流れるものであるように思えているわけです。
 
 
 一年を振り返ると、今年もさまざまな出逢いに恵まれたと思い出されます。世の中には、このインターネットという世界を、さもゲームの延長でもあるかのように捉えている輩も少なくないようですが、僕にとっては、現実の人間関係と寸分違わぬものとして認識されています。それがときに、自身の心を深く傷つける結果となることもありましたが、概してここには人間世界の縮図が盛り込まれているに相違ないと感じています。
 
 生きるということは容易ではありません。精神的にも肉体的にも、もちろん社会的にも、これほど人間を取り巻く環境が多様化している現代にあっては、そこに人知れぬ悩みや苦しみが介在するのも無理はないと思えます。それを手短な言葉で翻訳することは無謀であり、一概に論じられないことも充分に承知しています。それだけに、人間関係の多くを占める男女の問題、とりわけ理解が困難であろう心の文(あや)を考えることは、僕にとって今後も手放せない課題となるでしょう。
 
 出逢いにときめき、出逢いに考えさせられ、そして出逢いに感謝する。いまや僕にとってのインターネットは、コラムという文章表現に留まらぬ世界ともなりつつあるように思えます。それは、書きながら己が研磨されるが如く、僕自身も少なからず変化させられてきたと感じるからです。
 
 想いは文字にすると形を変えます。それはあたかも、自分の姿を第三者に撮影してもらったときのように、自分でありながら新たな自分をそこに具現化して見せつけるんです。僕のなかから出た文字たちは、僕自身でありながらも僕ではないのかもしれません。彼らから僕が学んだこれまでを思うと、ふとそんな気にさせられることもあります。それはきっと、偉そうな能書きを連ねている僕自身が、いまだに本当の自分を探し続けているからなのでしょうね。
 
 
 僕は、コラムはある種の問題提起だと考えています。土台他人の言葉などというものは、指針にこそなれ本質とはなりえません。僕がここで展開する世界は誰のものでもなく僕自身のものであって、ただそれをコラムという形態で公開することによって、何かしら読者の方々に感じてもらい、そこから皆さん個々の展開をしてもらえればと常々思いつつ書いています。
 
 そういう観点においては、ヲトナごっこは僕個人のサイトであり、ここに蓄積された文字たちは明らかに僕という人間を構築しつづけていると感じる一方で、ひとりひとりの読者の方たちこそがここでは主役なのかもしれないと思えるふしもあります。僕が当初、このサイトに「ヲトナごっこ」と名づけた衝動は多少変化している気がするものの、意外と的を得ているのではなかろうかと自負する面も、正直なところ感じている昨今でもあります。
 
 大人になるということはとても大変なことであり、男が男であることを本当に自認し、女が女であることを心底理解する道は、生ある限り果てしない道でもあるのかもしれませんね。
 
 
 サイト運営にも関わることなので、僕の個人的な年末年始を少々書き添えておきますが、明日後半より僕は東京を留守にします。帰京は年明け正月二日となりますが、落ち着いてネットできる状態になるのは、数日してからであろうと推測しています。掲示板やメールに関しては、携帯電話で管理できるようにしていますが、その間は何かと行き届かない点もあろうかと思います。どうぞご了承ください。
 
 最後になりますが、一年間、本当にありがとうございました。かつて、書いても書いても無反響で、どうして自分はこんな礼儀知らずで無責任、非常識な世界で活動しているのかと投げやりになった時期もありましたけれど、ヲトナごっこを開設してからの日々は、そんな僕の心を充分癒すに余りあるものがあったと感じています。それもこれも、すべて読者の皆さんのおかげに相違ありません。
 
 来年もどうか、ヲトナごっこをよろしくお願いします。
 そして、どうぞよいお年をお迎えください。



2003年12月25日(木) カナシイネ

カナシイネ
ドレホド君ヲ
想ッテイテモ
伝ワラナイノハ
カナシイネ
 
セツナイネ
僕ヒトリノ
君ジャナイ
分カッテイルカラ
セツナイネ
 
サミシイネ
僕ノ姿ガ
映ラナクトモ
輝ク瞳ガ
サミシイネ
 
クルシイネ
幸セニナッテ
欲シイノニ
僕ニワデキナイノガ
クルシイネ
 
カナシイネ
 
カナシイネ
カナシイネ
 
愛スルコトハ
カナシイネ
 
君ノ幸セヲ
願へバ願フホド
僕ノ心ハ
チヂコマル
 
遠クノ空ヘ
見ヘナイ君ヘ
 
メリークリスマス



2003年12月22日(月) 【番外編】そんな所にキスするなんて……

 普通に出逢い、普通に恋に落ち、普通に体を重ねる。そんな「普通」を経験できないどころか、異常な状態を世間一般であると思い込まされた女の存在は、それを目の当たりにした僕にとって衝撃的なものでした。その背後には、男という獣(けだもの)の身勝手と、社会が包括する性問題までも見える気がしたものです。
 
 
 今年一年間に公開したコラムのなかで、第二位に三十ポイント以上の差をつけて堂々の第一位に輝いたのが、三月十七日に公開したこの「そんな所にキスするなんて……」というコラムでした。もちろん、その内容に反響があったとは解釈していません。各日記系リンク集に更新報告をしたところで、所詮はタイトルでしか「最初のワンクリック」を判断できないのですから、内容よりはむしろタイトルに反響があったというべきなのかもしれません。
 
 このタイトルから、果たして読者の方々は何を連想されたのでしょうか。いま改めて考えてみても、その内容は多岐に渡るように思えます。むしろ僕がコラム本編で書いたような僕自身の経験などは、想像しなかった方のほうが多いのではないでしょうか。さりとてそれがウェブ世界の掟であるならば、そこから読者層を広げるのも著者の力量でしょうし、どのような内容を読者が想像したかを考えることも、書き手として学ぶべきもののようにも感じられます。
 
 
 恋愛にしても結婚にしても、互いの位置や関わり方というのを考えるのは、他でもない当人同士でしょう。そんなものはマニュアルがあるわけでもありませんし、当人同士が納得していれば他がとやかくいう筋合いのものではないように思えます。これは、幸せというものに決まった形がなく、その時々、その人たちによって、さまざまに織り成されることに似ています。
 
 けれどだからといって、それを盾に生きてよいという理屈にはならないでしょう。人は誰でも、幸福になる権利を手にしています。それは誰かの価値観で左右されるものではなく、自分自身の人生は自分自身で歩まねばならないという絶対的な論理の下に与えられた権利です。それを無視し、言い換えると相手の人権を尊重せず、自らの価値観のみで恋人や夫婦というものを考えるのは少々乱暴ではなかろうかと僕には思えるんです。
 
 悲しいことに、現代にあっては、じつに幼稚な男の大人が大勢生まれてしまいました。ある意味で頂点に近いともいえる経済立国のなかで生まれ育ち、社会という枠の中で人間性を度外視した機械人間として生きてきた男たちのなかから、野獣にも似た人種が生成されるのも無理はない気がします。上手に人間として生きる術を、身につける事ができなかった人たちです。
 
 そういう男の牙にかかった女も不幸ですけど、男のほうも可哀想だなと思います。社会や組織の価値観を基盤に生きることは、彼らにとって日常であり決められた道筋のようにみえるところもあるでしょう。それを真っ向から否定するつもりは、僕にもありません。されど、いずれは社会や組織から離れ、その役目を終えるときが来る事を思うと、その瞬間の彼らの存在はどうなるのだろうかと胸が痛くなってきます。
 
 
 僕はこのヲトナごっこを通じて、これまで再三にわたって「人間であること」を書いてきたつもりです。社会の一員であることを捨てろとは言いません。組織に組していることをいけない事とも思いません。ただ、それ以前に人間であることを、決して忘れて欲しくないと願っています。世にある問題、とりわけ男女間の問題の多くが、その辺に原因の根を潜めているように思えてならないからです。
 
 結婚して子供までいるのに、クンニすらしてもらったことがない女。夫の自分に対する乱暴で身勝手なセックスが、いわば普通のセックスであると思い込まされていた女。人間としての尊厳など無視され、あたかも檻で飼われた動物の如く扱われている女は、僕が知らない世界にも大勢いるのかもしれません。僕はそんな屈折した社会の、ほんの氷山の一角を見ているに過ぎないのかもしれません。
 
 そう思うと、いかに男というものが身勝手な生き物なのか、社会というものが彼らをどれほど屈折した生き物へと変貌させてしまったのかを痛感もします。
 
 男だけに原因があるわけではないと、そう仰る方もいるでしょうね。その言もわかるところはあります。けれど、相手を思いやることが愛であって、夫婦手を携えて生きていくのが常道であるならば、一方的な価値観や方法論の押し付けはやはり間違っています。悩み苦しむ人たちがすべて、自分と同じように生きられるとは限りませんし、それぞれに事情があり個々の性質を持つ以上は、それを尊重すべきだと思うからです。
 
 単一の社会に組して生きていくからには、そこにあるルールやモラルを遵守すべきであると僕も思います。しかし、それを逆手にとって闊歩している輩をみるにつけ、これでいいのだろうかと思う気持ちもありますし、だからこそそれに抗して、人間として与えられた人生や幸福を考えるべきであろうとも思えるんです。
 
 
 タイトルを見てこのコラムを開いた方は、「エッチなことが少しも書いてないじゃん」と憤慨されることでしょうね。すみませんでした。けれどもしも、性というものを興味本位や欲望のみで捉えているのであるなら、この機会に是非とも、男と女というものを真剣に考えてみて欲しいと願ってやみません。
 
 決して脅すつもりなどありませんが、あなたのそういう身勝手な考え方や行動は、いずれ必ず、あなた自身へと降りかかってきます。二十歳そこそこのあんちゃんが言うなら信憑性も薄いでしょうけど、不惑の四十を過ぎたおじさんがいうのですから、多少は説得力もあろうかと思います。なにより、あなた自身の幸福のために、身勝手な価値観は捨てて、異性と真正面から向かい合ってみてください。
 
 目先の快楽になど惑わされず、人間として与えられている立場や役割を理解すれば、そこから自ずと、あなたらしい道が開けてくるのではなかろうかと推測します。そういう人がひとりでも増えてくれることを祈りつつ、今年の番外編を締めくくることにします。



2003年12月18日(木) 【番外編】セックスでテクニックは必要ない

 セックスを考えたとき、そこに技術的なエッセンスを無視して語れる人は、やはり皆無に近いのかもしれません。セックスにテクニックは必要ないかと問われれば、「まったくないのも困りものだ」と応えそうな気もします。ただしそのテクニックは、できるなら別の視点で捉えて欲しいものです。
 
 
 自惚れもここまでくれば奥義かと思うのは、自分が著した文章中に、「いいこと言うよな」と自ら感じてしまう一節をみつけたときです。このコラムを公開したのは、ヲトナごっこを開設してちょうど二年目が始まる日、つまり今年の二月十八日でした。
 
 その記念日に公開したコラムのなかに、次のような一節があります。
 
「セックスに未熟だからという理由で、男を喜ばせることができないなどとは、決して考えてはいけないんです。知っているか知らないかよりも、素直に心と体を開けることのほうが、はるかに男にとっては喜びへと繋がるものです」
 
 比較的文章量の少ないコラムだったわりには、いいこと言ってます。僕は常々、女性から相談を受けると「ありのままの姿で思い切って飛び込んだほうがいいよ」と応えています。関係が悪化するなどということを怖れず、いまのありのままの姿を相手が受け入れてくれることを信じなさいという意味でもあります。繕ったり技巧を用いようなどとは考えずに、拙くても行き届かなくても、とにかく相手に心と体を素直に開くことが一番だと思えるからです。
 
 
 ギブアンドテイクの概念というのは、愛し合う者同士では日常的に交わされているものかもしれませんね。自分に捧げられたものを、次は相手に自分なりの形で返してあげたい。与えられるだけで満足している人もなかにはいるようですが、やはり与えられているだけでは、自身が相手を愛しているという証を得られないのが人間というものではないでしょうか。
 
 だからどうしても、折に触れて「何かしてあげたい」と考えてしまう。セックスに際しては、相手を悦ばせるだけの技量が自分にないことを、反面恥ずかしくもじれったくも思えてくる。その心理は自然なものなのかもしれません。セックスの最中に上手にコミュニケートできるならそれほどでもないでしょうけど、寡黙なセックスを常道とする男は多いですからね。息づかいだけの静かなセックスが、女の不安を助長しているともいえると僕には思えます。
 
 相手が悦ぶ姿というのは、言い換えると、こちらの想いを受け入れてくれているということになるでしょう。物を贈るにせよ、行動で伝えるにせよ、そこに込めた想いが伝わり悦びの反応を返してくれると、人は誰でも幸福感に包まれるものです。それを知っているからこそ、どうにかして相手を悦ばしてあげたいと望んでしまう。果てには、セックスの経験にも技量に拙い自分が、相手にとって「申し訳ない」存在へと変貌してしまうのも、どこかわかるような気がするものです。
 
 
 冒頭で僕は、「別の視点で」という表現を使いました。技術的に男を性行為で悦ばせることが叶わなくとも、別の方法で悦ばせることができるのではなかろうかという意味です。乱暴な物言いですが、男には支配欲や征服欲のようなものがあります。程度の差こそあれ、誰もが少なからず意識しているものでもあるでしょう。そしてその亜流として、「女を作り上げたい」という欲求も、やはりあるのではなかろうかと推察しています。
 
 変な喩え話になりますが、見るからに恋愛やセックスに通じていると感じさせる女には、なかなか男は寄り付かないものです。ひとつには組し難いという理由もあるかと思えるのですが、やはりなによりも、自分が「手篭めにされる」可能性が行動を邪魔しているのだと僕には感じられます……僕自身はそうです。
 
 ですから、そういう完成品に近い女よりも、むしろ未完成の女のほうが魅力的に見えてくるものなんです。その背景には、自分でも支配し征服できるという目論みがあるかもしれませんし、しいては自分好みの女に仕立て上げられる可能性があると感じるかもしれません。いずれにしても、男という生き物は、異性に対しては殊のほか冷静に自己判断する面があります。そんな男心をくすぐるというか満たす道を探すことも、僕はひとつのテクニックに違いないと思うんです。
 
 
 フェラチオがとても上手な恋人とめぐり合うと、それはそれは至福に感じるものです。それは正直な男の本音に違いないでしょう。だからといって、常に男が恋人にそのような技量を求めているかといえば、応えは「否」となるように僕には思えます。そんなことよりも、男に心も体も預けて、彼の腕の中で、彼の体の上で、およそ誰にも見せたことのないような歓喜の表情を浮かべることのほうが、僕には遥かに男冥利に尽きると思えるからです。
 
 セックスでテクニックなど必要ありません。必要なのは、どれだけ自分をありのまま投げだせるかということです……。
 
 
----お詫び--------------------
 
 現在掲載している番外編コラムですが、「恋愛コラムより二篇、セックスコラムより二篇」と前触れしておきながら、当方の単純な勘違いで「恋愛コラム一篇、セックスコラム三篇」であることが数日前に判明しました。なにより、当の本人が慌てておりまして……。
 
 書き直すことも考えたのですが、僕のなかでは年内スケジュールの段取りも終了し、ある意味で完結していましたので、甚だ身勝手ではありますが、このまま予定通り更新させていただくことにしました。
 
 ちなみに、置き去りにされた恋愛コラム一篇とは、三月二十四日に公開した「わたし面食いじゃないの」でした。哀れんでやってください……。



2003年12月15日(月) 【番外編】言い出せなくて /セックスレスの一因

 三大欲のひとつともいわれる性欲を、夫婦の関係から切り離して考えるのは、やはり無理があるのでしょうか。セックスレスという言葉を裏返すと、どこか「セックスしている関係が正常」であるかのようなイメージがつきまとう気がして、少々首をひねりたくなってきます。
 
 
 そういえばセックスレスに関して、過去にもコラムを書いたなと思いつつ紐解いたら、昨年末に二篇を公開しておりました。今年の公開ではなかったんですね。もう一年経つのかと感慨もひとしおですけど、やはりあのときも反響がかなりあって、お手紙も幾通かいただいた記憶があります。セックスレスという状況に対する悩みや想いは、人知れずそこここで燻っているものなのだと実感しています。
 
 過去三回、セックスレスをテーマに書きましたが、僕のなかにはふたつのコラムに寄せる想いが現在もあります。ひとつは「夫婦(もしくは親しい間柄)だから言えないこともある」ということと、「セックスだけが夫婦ではない」ということです。前者はセックスレスの原因に関することで、後者はその解決策を模索する上でのヒントといえるかもしれませんね。
 
 
 セックスレスの原因も多岐にわたるとは思いますが……
・浮気行為等により、伴侶以外の異性と関係を持っている
・SM等性行為の認識に隔たりがありすぎる
・思っていることを言えずに縁遠くなる
・セックスそのものに飽きてきた、もしくは淡白
・嫌われた

 他にも色々ありそうですが、こうして列挙したものをよくみてみると、いずれにおいても「コミュニケーションの不具合」が感じられる気がします。
 
 気持ちのやり取りというのは、極めて難しいものです。「言わなくてもわかるでしょ」と仰る方もいますが、そういう人ほど核心を歪めてみていたりします。言わなければ伝わらず、言わなければわからないのが人間であると悟るべきでしょう。さりとて、表題にもあるように、言いたくても言い出せない状況というのがあるから、話はややっこしくなってくるわけです。
 
 僕の経験上からは、同じ要求を幾度も繰り返し拒絶されると、次第に要求し難くなるという状況がありました。意外と多くの方が同じ経験をされているだろうと推察もしています。拒むという行為を、おそらくは当事者はそれほど深く重い意味で成しているわけではないのだと思います。とても単純な理由で、極めて軽い態度で反応を返しているのでしょうが、それが積み重なると、人の心に足かせをはめてしまうということがあるんです。
 
 人は、自分以外の人との関係が悪化することを望みません。夫婦や恋人ともなれば、なおさらのことでしょう。「言ってくれればいいのに」と後になっていわれても、幾度となく拒否されることによって、「これ以上要求すると嫌われるのではなかろうか」という想いが心に芽生え、言い出せない状態を作り出してしまうもののように思えます。
 
 これを回避するには、やはり相手の言葉に真摯に耳を傾けるしかないでしょうね。同じ拒絶するにしても、短い言葉で処理してしまうのではなく、「気持ちは嬉しいけど、いまは〜の理由があるから駄目」とか、「今日は駄目だけど、いついつならいいわよ」とか受け答え方を工夫してみるといいかもしれませんね。
 
 
 セックスレスという状況を目の当たりにして、どうしても相手とのセックス行為に固執してしまうと、少々問題解決は難しくなる場面もあるように思えるのですが、そのようなセックスレス意識から脱却する方法は、幾つかあるような気がしています。とりわけ、「セックスだけが夫婦の関係を決めるものではない」という価値観は、セックスレスという問題にとどまらず、僕にはとても大切なものの見方のように思えるものです。
 
 夫婦がともに人生を歩んでいく上では、セックス以外にも大切にすべきものは沢山あるはずです。心も体も愛して欲しいと望んで、殊に満たされない肉体の火照りに神経が行ってしまうと、とかく人はそれにのみ視線が向いてしまい、視野が狭くなってしまうことも少なくないように思えます。
 
 されど、セックスだけが夫婦ではないと思えるようになれば、他の「繋がり」もセックスと同等もしくはそれ以上に感じられて、そこから新たな夫婦の関係が構築されてゆくのではないでしょうか。僕自身はそのようにして、セックスレスという状況を乗り越えてきたと思い返されます。
 
 
 五月に公開したコラム本編でも触れたのですが、セックスレスだからセックスしてはいけないという道理はありません。多少複雑な物言いになりますが、セックスレスという状況下にあって、あまり必要以上に「セックスできない」と思い込まないほうが、僕はいいのかとも感じることがあります。
 
 それは、前述したように、セックスだけが夫婦関係ではないとはいいつつも、一方では、生き物としての人間を考えたときに、種の存続がその使命であるならば、やはり性行為は自身の存在を裏付ける重要な行為であると、本能的に体に刻まれている側面も否定しきれないからです。ですから、状況は状況としても、せめて思い込みで自身を奈落へと突き落とすようなことだけは、避けたほうが賢明だという風にも思っています。
 
 夫婦間でそのような問題を、忌憚なく話し合えればいいのでしょうけどね……なかなか難しい問題に違いありません。



2003年12月11日(木) 【番外編】既婚者恋愛の正当性

 恋愛という感情の本質を考えたとき、はたしてそこに、既婚者であるという制約はどのように作用するのだろうか。既婚者が伴侶以外の相手と恋に落ちることを、人はわかったような顔でモラルに反するというけれど、人間の核心は、人生の真実は、モラルだけで推し量っていいものなのだろうか……。
 
 
 日本という国に生まれ、ある程度の幅はあるものの共通の価値認識を持つ社会に組して生きている以上は、そこにルールやモラルが必要であることは当然だと思います。そういう意味では、既婚者が恋愛する行為に正当性を見出そうなどということは、至極馬鹿げた無謀な行為なのかもしれません。
 
 既婚者恋愛を語ることすら否定する方がおられるのも事実ですし、僕自身、過去に自分が書いたコラムに対して、「不倫を助長するようなことは書かないでください」と女性からお便りを頂戴したこともありました。けれどその後も、僕は書き続けています。助長するなどという気持ちは更々ありませんし、ましてや弁明するつもりもありません。現実から目をそむけるような行為は、僕が考える物書きの道にはありませんし、むしろそこから人間の本質を探り出すことのほうが、遥かに賢明であると感じられるからです。
 
 人の心を裏切るのはいけないことです。場合によっては、到底許されない行為となることも少なくないでしょう。されど、彼が、彼女が、その道を選ばざるを得なかった心の背景を知らずして、誰が彼らを責められるでしょうか。僕はね、夫や妻である前に、父親や母親である前に、ひとりの人間であることを書きたいと常々思ってきました。それは決して「人間の権利を盾にする」のではなく、「自分も相手も同じ人間である」という原点に立ち返って物事を考えて欲しいという願いでもあるんです。
 
 
 二月末から三月にかけて、延べ五回のシリーズで公開した「既婚者恋愛の正当性」には、じつに数多くのアクセスをいただき、感想等のお便りも沢山頂戴しました。あれやこれや書きましたけど、僕があそこで表現したかったことはただひとつ、「人生は誰のためでもない、自分自身のためにあるんだ」ということでした。
 
 本編では「ある人生」と題して、ある女性のケースを紹介しましたが、あれはフィクションなどではなく現実です。僕がその場を目撃していたわけでもありませんので、断言するのは少々乱暴かもしれませんが、その後も幾つか似たような経験をされた方の話を耳にしていますし、あれ以上のひどい生活を送っている方の声も聞きました。コラムでは僕自身多少「容赦しちゃったかな」という柔らかい表現であったように思い返されるのですが、現実とは驚くほど醜く辛らつなものなのかもしれません。
 
 結婚し子を授かったならば、その子の行く末にある程度の責任を親は持つべきだと僕は考えています。そういう意味では、本編に登場した女性が娘のために自分の人生を送ろうと考え至った経緯に、胸をなでおろすような心境となったのは事実です。されど彼女が、「娘が成人したら、もう自分は死んでも構わないって真剣に思ってた」と続けたとき、それでいいのだろうかと思いました。
 
 生き物の最終目標は、種を存続させることなのかもしれません。異性と交配し子を成すことで、自身の生命の存在を確認する。それは人間にとっても、無意識のうちに体に刻まれている使命のようにも思えます。だからといって、それのみで人生を終えようとする姿には、やはりあまりに悲しいものが多く残ってしまいます。
 
 彼女が思い至った「女としての人生」が、その後どのように展開していったかを、じつは僕はしりません。けれどそれは、決して誰から批難されるものでもなく、彼女の人生という道のりの中では、極めて賢明な選択であったろうと僕は推測しています。不倫とか不義とか、世の中には既婚者が恋愛した際に用いる言葉がいくつかありますが、そんな言葉で人生の何たるかを言い尽くして欲しくなどありません。極めて不愉快です。
 
 ただ悲しいかな、世の中には一方で、そういう人生の背景を持たずに「いい気になってる」馬鹿が大勢いるのが現実でもあるでしょう。だから真剣に人生に悩む者が、より苦しい立場へと追い込まれてしまうようにも感じられます。人間は愚かな生き物だといにしえの賢者が申したそうですが、つくづくそうかもしれないと感じ入ってしまう自分が、また悲しいですね。
 
 
 隣の芝生は青く見えるといいます。人生においてそのような場面は幾度となく登場し、人はそこで繰り返し悩み苦しみ、そして過ちをおかすこともあるでしょう。けれど僕は、それを白黒はっきりさせるような視点ではみたくありません。それは、経験が人生にとっては何よりの師であって、そこから自身が身をもって手にするものこそが、先々の人生を豊かにしてくれると信じているからです。
 
 間違いをおかさないよう努めることは大切かもしれません。されどそれが、本当に間違いであるのかを見極めることのほうが、僕は遥かに大切だと思っています。人間にはとても素晴らしい能力が備わっています。それは「許す」という心です。どうかその「許す」という深い愛情をもって、既婚者恋愛の核心を見極めてみてください。そこにはきっと、ひとことでは言い尽くせない人間の奥深さと真実が、小さな輝きをみせくれると僕は思いますよ。



2003年12月08日(月) 恋愛における倦怠期

 恋人であれ夫婦であれ、倦怠期というのは訪れるものです。なかにはそういう時期を経ずに長年連れ添う方もいるでしょうが、倦怠期というものには、人の心のさまざまな性質が見え隠れする気がします。そしてそれは、ネットにおける儚い縁にも繋がっているように思えるんです。
 
 
 ネットという世界では、人と人とが日々天文学的数字で出逢い、そして別れてもいます。ここで出逢うと、実生活での縁より遥かに短い時間で親密になり、じつに些細なことで縁遠くもなります。仮想空間だからとか、うわべだけの関係だからとか、理屈は色々取り沙汰もされるところでしょうが、ひとつには、やはり短時間に構築された関係の希薄さが、別れの背景にあるのではないでしょうか。
 
 別れられるか否か、その判断基準も人それぞれかと推察しますが、別れられない要因の多くは、過去の経緯というものだと僕には思えます。夫婦にとって「子はかすがい」といいます。離婚に悩む人たちのなかには、子供がいることで離婚に踏み切れないという方も少なくないでしょう。それも過去の経緯です。情を交わしてきた年月が長ければ長いほど、相手との関係に終止符を打つのは難しいものです。やはり過去の経緯ですよね。
 
 ネットで男女が急速に親密になるのは、いわずと知れた「匿名性の世界であってしがらみがないから」だと僕は思うわけですが、反面、急速に親しくなった相手との間には、じっくりと時間という流れのなかで温めてきたものが少なく、それ故に別れに際してそれを引き止める要因となるべき過去の経緯も希薄だという論理になろうかと思えます。
 
 そのようなネットにおける希薄な関係の背景には、じつは恋愛における倦怠期に対する上手な処し方のヒントが隠されているように、僕には感じられるんです。
 
 
 倦怠期というものを考えるときに、まず前提としておきたいのが、気持ちが離れている状態は倦怠期とは異なるということです。ここを取り違えては話がややっこしくなってきます。されどそれを倦怠期と勘違いしている人も、意外と少なくないかもしれませんね。その辺をまずはしっかりと見極めてください。
 
 倦怠とは、文字通り飽きたりだらけたりすることです。恋愛に限らずさまざまな場面で、人の心には「慣れ」という感覚が沸き起こります。仕事もそうですし、日々の生活もそうでしょう。それらはよく「新たな刺激がないから」というニュアンスで原因を取り沙汰されるものですが、悲しいかな人生には、そうそう次から次へと新たな刺激など登場しないものなんです。倦怠期には、ある意味「ないものねだり」的な要素もあるように思えます。
 
 現在もしくは「これから」の自分を思うとき、出逢った頃に感じた燃え上がるような情感を再び得られるのだろうか。馴れ合いとなりつつある状況下で、相手は果たして本当に自分のことを想いつづけてくれているのだろうか。そのような不安や疑念が、人の心に影を落とし、倦怠期の悪い側面を見せつけようとします。どうにか事態を打開したくとも、切っ掛けも手立てもなく、悶々としたなかで空気だけが濁っていく……それが倦怠期でしょう。
 
 
 ここまで書けば、勘の良い方ならお分かりかと思います。倦怠期の背景には、過去の「良かった瞬間」のみを強調して思い出す心があって、それを未来に望もうとする願いがあるんです。そしてそこには、ふたりの関係において最も大切であるべき「過去の経緯」が、とかく忘れられがちだということです。もちろん「良かった瞬間」も過去の経緯には違いありませんが、それは一部分に過ぎないでしょう。それ以外の、いわば地道に積み重ねた関係、言い換えれば絆の深さに、意外と倦怠期においては気づかないもののように僕には思えます。
 
 人は残念ながら、常に同じテンションで未来永劫活動しつづける生き物ではありません。時に沈み、時に浮かびあがりつつ、それを繰り返して生きていくものでしょう。恋愛関係も然りです。「付かず離れず」が理想だともききますが、なかなかそういう関係を構築するのも難しく、実際は微妙にくっついたり離れたりを繰り返すものでもあると思われます。
 
 だからこそ、そのくっついたり離れたりしつつも関係が継続してきた理由を、倦怠期という時期にこそ考えるべきではないでしょうか。過去の良い瞬間だけをみず、苦楽をともに過ごした時間の流れを、じっくりと振り返る良い機会だとすら思います。慌ててはいけません、ないものねだりもいけません、自分にできること、相手がしてくれたこと、それらをゆっくりと自分のペースで熟考して、自分がいま置かれている状況を再確認してみることです。
 
 倦怠期って、意外と幸せな瞬間かも……しれませんよ。
 
 
----Information--------------------
 
 次回木曜日の更新より、四回にわたって今年を振り返ることにしたいと思います。方法をあれこれ考えたのですが、手許に日々のカウント集計がありますので、それに基づき、反響が大きかったものから四つを選び出し、現在思うところを番外編としてまとめてみることにします(準備の都合上、集計は11月末日現在で行いました)。
 
 それを前に、総括を少々……。
 
 ヲトナごっこで現在公開されているコラム総数は242篇。うち、昨年著したものが154篇ありますので、今年は88篇を公開したことになります。週に二回の更新頻度で、連休等を考慮しても、90篇以上は書けるかと思ったのですが届きませんでした。それでもまずまずの数字かと自分では感じています。
 
 恋愛コラムとセックスコラムを、後半はできるだけバランスよく出したつもりなのですが、やはり前半に恋愛コラムに偏ったせいか、比率で恋愛コラムが半数に対し、セックスコラムは三割強ということになりました。
 
 ところが、反響をランキングにしてみますと、上位20のなかで恋愛コラムは4篇に留まります。これは、単純にセックスコラムのほうがタイトルからくるアクセスが多いという理由であって、コラムのテーマや内容そのものを反映しているのではない気もするのですが、読者が関心を抱いている分野という点では、やはり重要な資料であろうと思っています。
 
 されど僕としては、やはり恋愛コラムとセックスコラムのバランスをとりたいので(頑固ですみません)、ランキング上位4つということでなく、恋愛コラムから上位2つ、セックスコラムから上位2つを選び出すこととしました。
 
 今年のヲトナごっこを振り返りつつ、ご高覧下さると嬉しく思います。



2003年12月04日(木) 生理中のセックス

 好むと好まざるとに関わらず、お互いが求め合ったときが生理中であったという経験は、ヲトナであれば誰もが一度は経験するのではないでしょうか。そのとき行為に及ぶ者もいれば、何らかの理由を手に避ける者もいる。果たしてその境目にあるものは……。
 
 
 生理のときは、彼氏に逢うのも抵抗があるんです。そういう話を耳にしたことがありました。なんでも生理の際に「独特の匂い」を嗅ぎ取る能力を持つ恋人との経験があったようですが、人間の鼻って、そんなものまで嗅ぎ分けるのでしょうか。僕には到底及ばぬ世界です。
 
 匂いはわかりませんが、それこそフェロモンとでもいうのか、女が発散する空気のようなものを感じることはあります。よく生理の前後には男が無性に欲しくなるという話も聞くのですが、そういうときの女の体からは、目に見えぬなにかが放射しているのかもしれませんね。ご注意ください……。
 
 匂いやフェロモンはさておき、女が男を欲するサイクルというのは、おそらく生物学的には繁殖の頃合と合致するのではないでしょうか。いかにも論理的な物言いに聞こえるかもしれませんが、となると、話が少々食い違ってきます。それこそ排卵日前後に欲しくなるというなら理屈は通るのですが、多少なりとも妊娠の可能性が低い生理中ともなれば、その論理は当てはまらないからです。
 
 ただ、これは僕の無茶な論理かもしれませんけど、生理というのは受精卵の着床を助ける子宮内壁の組織が、その役目を終えて体外へと排出される現象でもあるわけですから、ある意味では「次の受精卵を受け入れる準備をする」段階という見方もできるかと思います。だから男が欲しくなるというのも、どこか強引な気はするのですが、不思議であるだけに想像が広がる女体の神秘といったところでしょうか。
 
 
 生理中のセックスには血液の放出を伴います。それを嫌がる人は、男女問わず多いかと推察しています。僕はそれほど気にしないほうですが、やはり「好んでやるものでもないでしょ」という気はしますね。けれど、男の中にはそれを好んでいる者もいるようです。
 
 「生理中なら中出しできるから」という理由は、おそらく多くの男連中が口にしそうな理由だと思えるのですが、とんでもない間違いですよね。女性はよくご存知だと思いますけど、生理中だから妊娠しないという保証はどこにもありません。確立が低いというだけの話です。
 
 思えば、いわゆる「性教育」の不徹底が、そのような間違いを生み出している気もしなくもありません。大人になってもなかなか真面目に性を語れないのですから、青年期にそれを求めるのも酷だといえるかもしれませんが、愛撫の方法なんかより遥か以前に学ばねばならないことでしょう。愛する者の体のことなのですから……。
 
 
 僕自身、過去に幾度か生理中のセックスを経験したことがありますけど、概して「いつもより敏感に反応している」風に見えました。実際にその辺のことを言葉で交わした女性もいましたけど、特に生理前後に男の体を欲しくなる体質(?)の方は、体がそれを望んでいるからか、いつになく感じてしまうものなのかもしれません。そういえば、ペニスの先端で感じる子宮口の様子も、いつもより硬くなっていたかな……ま、気のせいかもしれませけどね。
 
 生理のときにセックスをすると、「変な感じじゃなかった?」と相手に尋ねられます。無理もない問いかけかと思います。事実、いつもと同じだったとは言えませんから。日頃から愛液の多い人なら意外とそうでもないのかもしれないとか、妙な想像をしてしまうのですが、やはりヴァギナ内にいつも以上に液体状のものがあれば、摩擦係数が低くなるのは当然の話でしょう。
 
 だからといって、「気持ち悪かった」とか「ぜんぜん感じなかった」なんてことはありません。もちろん個人差はあるかと思いますけど、そういう心配は無用かと思います。むしろ僕の場合は、いつになく感じている相手の姿に、やはり平素とは異なる刺激を覚えているといったほうが適当でしょう。セックスはペニスだけでしているのではないんです。どうぞご安心ください。
 
 
 セックスとは、相互理解だという気がします。お互いをより深く知る機会でもあるわけです。そういう意味では、生理を理由にセックスを拒むか或いは行うかも、一対一という関係のなかで正面から話すべき事柄ではないでしょうか。男に女の体の仕組みを知ってもらう、またとない機会だとも思えます。
 
 無知ほど怖いものはありませんよ。生理の仕組みを知らない男、妊娠のシステムを知らない男というのは、驚くほど多いのが実情であろうと僕は想像しています。彼らと上手に愛を交わしていく意味でも、生理中のセックスは、いい題材ではないでしょうか。



2003年12月01日(月) 出逢い系徒然

 女を求める男がいて、男を求める女がいれば、そこに出逢いという瞬間が巡ってくるのは自然なことなのかもしれません。フィールドがない時代ならまだしも、ネットという不特定多数の男女が屯する世界が身近になった今、出逢いは天文学的数字で日々繰り返されていることでしょう。
 
 
 どうも出逢い系という言葉に僕は抵抗があるというか、特化するのが間違っているように思えてならないのですが、そもそもネットにコミュニケーションツールとしての特性があることを思えば、このウェブ世界はあらゆる場所に出逢いの要素が隠されているに違いありません。もちろん、出逢い系サイトはその目的を明確にした場には相違ないのですが、それだけをとって出逢いを語るのもどうかと思えるんです。
 
 とはいっても、久しく世話になっていませんが、僕もいわゆる出逢い系サイトを利用した経験があります。それが縁でお付き合いした方も過去にいました。おしなべて、心に風穴を持つ方がほとんどだったように思えますし、到底遊び人という印象は僕のなかに残っていないのですが、それだけに、出逢い系という言葉から一般の方々が連想されるであろう世界に、少々拒絶反応を示してしまう僕でもあります。
 
 僕の場合は、ある考えのもとに、闇雲に出逢い系サイトに登録している女性にメールするということはしませんでした。僕自身が登録時にできるだけ自分を正確に伝えられるメッセージを掲載し、あとはそれを読んで反応してくれるのをひたすら待っていた感じです。僕から先にメールした経験は、ほとんど皆無といっても過言ではないでしょう。
 
 ですから、やり取りはそう頻繁であったとも思えません。けれど、一回の文章掲載で数名の方からメールを頂いておりましたし、返信を数回繰り返すとやはり徐々に絞られてくるというか、フィーリングがあう相手が残るものだなと実感もしました。まあ、現在続いていないということは、それらは長続きしないということにもなろうかと思えるのですが……。
 
 
 その場限りの接点を求めるならば、出逢い系サイトも悪くない気がします。しかし長い付き合いというか、より深く人間の核心に触れたいと考えているのであれば、僕はあの手のサイトは無意味であるとすら思っています。切っ掛けは必要でしょというご意見もあろうかと思いますが、いかんせん軽い輩が群れている状況では、切っ掛けも何もあったものではないでしょう。
 
 さりとて、そういう男女を批難しきれないのも、現在のネット事情というものかもしれません。僕自身も充分にそういう経験をし行動もしてきたのかもしれませんが、やはりネットが持つ匿名性の世界には、どこか人の心の奥底を露呈しやすい環境があるのだと思えます。問題なのは、匿名性の世界で精神を解放できても、現実に「逢う」となるとそう簡単には自己を解放できないということでしょう。当たり前の話なんですけどね……。
 
 ところがその「当たり前のこと」に気づいていない人たちが、出逢い系には意外と多くいるのではないでしょうか。言い換えると、ネットという特殊な世界での自分の存在と、現実世界での自分自身とを上手に繋ぎ合わせることができないということになろうかと思います。
 
 ネットという世界は、とにかく人と人とを短時間で結びつけます。利便性も大きいでしょうけど、やはり匿名性であるということ、実生活のしがらみがないということが、そんな現象を生んでいるように僕にはみえます。ところが実際に逢うとなれば、そこには少なからず自身の人生や生活が関与してきます。ウェブで思い通りになっていたことも、ひとたび逢うという行為の前では、そう易々とはいかないということです。
 
 出逢い系を軸としたトラブルが社会を賑わすことも少なくありませんが、そんな光景をみるにつけ、人の心の弱さというか、ネットという道具に振り回されている人間の悲しさをみる思いがするものです。
 
 
 個人サイト(ウェブ日記等の単一コンテンツも含む)を通じた出逢いというものを経験された方も、おそらく少なくないかと思います。僕自身幾度となくそういう経験をしてきていますが、出逢い系に比べて遥かに素敵で実があるとも感じています。
 
 何より、その人をじっくりと観察することができます。個人サイトの主旨によってさまざまではあるでしょうが、文字であれ写真であれ、また音楽であっても、そこに展開される管理者の世界に触れることで、かなり多くの人間的情報を得られることでしょう。
 
 惜しむらくは、彼らすべてが出逢いを目的としてウェブコンテンツを制作しているわけではないという点でしょうか。恋愛関係や性的関係に関わらず、人と人とが出逢えばそれは出逢いでしょうと思えるならば、僕の意図するところも容易に想像できるかと思えるのですが、そのような人たちばかりとは限りませんからね。
 
 けれど僕は、いわゆる出逢い系サイトの掲示板等を通じた関係よりも、そういった個人サイトを経てのもののほうが、遥かに人間と人間との付き合いに近いように感じますし、そこに男女の恋愛感情の芽が潜んでいないとも言い切れない気がしているんです。目的は別として、切っ掛けとしての場がある限りは、そこに可能性もあって不思議はないということです。
 
 
 ネットが秘めた力には、じつに凄まじいものがあります。それをここで事細かに論ずるのは無理がありますし、僕にできるかどうかもわかりません。けれどその実力のほどは、実際にネットを利用している人ひとりひとりが、それぞれの形で実感されていることでしょう。
 
 そんななかから、素敵な出逢いが生まれますことを、心よりお祈りしております。


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ヒロイ