ヲトナの普段着

2003年10月30日(木) 君の影を追う

ひとごみに君の影を追う
 
いないとわかっていても
ひとつずつ
ゆっくりと
僕のなかに刻まれた
君の感触を探しつづける
 
君のことを考えている時間は
とても穏やかで
とても温かくて
胸の片隅にある痛みですら
忘れさせてくれる気がする
 
傍にいて欲しいとか
僕だけをみて欲しいとか
そんなことは思わない
 
君には君の世界があって
僕には僕の世界があって
 
ただ僕は
君を探す時間のなかに
身を委ねていたいだけ
 
君をみつけるためでなく
君を抱き締めるためでなく
君を想いつづけるために
僕は君の影を追う
 
ひとごみのなかに
君の影を追う



2003年10月27日(月) わがままな男への対処法

 外面と内面の異なる男というのは結構多くいるようで、家庭内での傍若無人な振る舞いに嫌気がさしている妻族も、決して少なくないのがいまの世というものでしょう。わがままな夫をコントロールできずにいる方々に、今日はヒントを差し上げましょう。
 
 
 妻にレイプまがいのセックスを行う。SMを強要する。自分は外で何をやってるかわからぬくせに、妻には外に出るなと釘を刺す……。
 
 これまでもコラムで書いてきた男の非道さの数々ではありますが、彼らにはおそらく共通する性質があるように僕には感じられます。それは、精神的に幼いということです。自己の理性をコントロールできない。欲しいものは力ずくで手にするくせに、手にしたものが逃げ出すのが怖い。これらはいずれも、幼い子供によくある状況に似ているように思えるんです。
 
 夫の非道に悩む女の声に耳を傾けていると、じつに夫のことを考えて深く悩んでいることに気づきます。けれど、男とは概して、そんなに複雑な生き物ではないんです。男は直感で生き、女は論理で生きるという見方がありますが、そういう非論理的な生き物である男に論理を適用しようと思っても、うまくいく道理がありません。あまり考えすぎないほうが賢明でしょう。
 
 さりとて、いわば男の暴力ともいえる状況に甘んじているだけでは、女としての幸福もままならず、なにか手を打たねばならないということになるわけですが、これからお話しするふたつのヒントを軸に、もう一度男というものを再考し、「術」を試みてみてはいかがでしょうか……。
 
 
 前述したように、男のなかには、どこか幼子に似た心理があるものです。「子供だな」と感じたならば、まずは彼のそこを突く方法を見つけてみましょう。おそらく多くの場合、夫の非道な行為に拒否反応を示したり、「こうして欲しい」と要求をぶつける方がほとんどではないでしょうか。それ、駄目です。絶対に男は言うことをききません。
 
 ディベートというほどのものでもありませんが、僕が最も苦手とする妻の攻撃は、「どうしてわかってくれないの?」と疑問符をストレートに投げかけられることです。自分の弱点を曝してどうするという気もするのですが、これが実は最も効果がある方法のように僕には思えるんです。ディベートの基本は、相手がどう出てくるかを予測することであると同時に、相手が反論できない道を見つけ出すことに他ならないでしょう。
 
 男の心が子供であればあるほど、疑問符を投げかけられると返答に窮するはずです。ただし、疑問符なら何でも良いというわけではありませんよ。「どうしてそんなことするの?」なんて問いただした日には、彼は自分が思うところをずばずばと論じまくることでしょう。自分のことしか考えない夫だからこそ、目の前にいる妻の心など読めるはずがないんです。つまり、疑問符は常に「どうして私の気持ちがわからないの?」という論旨に沿うものとすべきです。
 
 返答に窮するとどうなるか。そこで沈黙が生まれます。その間隙をついてはいけませんよ。そこで彼に時間を与えることです。なぜなら、疑問符を投げる最大の目的は、彼に考えさせる姿勢を持たせることなのですから。答えを妻が提示してもいけません。どんな答えであっても、必ず夫にそれを出させる。そうなるように疑問符を繰り返し投げるんです。
 
 通用しない男もいるかと思われます。けれど、一度は愛し合って夫婦となったのですから、心の底から涙と共に振り絞る疑問符の一撃は、きっと夫の心に隙間を作ってくれることでしょう。何を隠そうこの僕も、遠い過去にそういう思い出がありますからね……。その隙間を、どうぞ大切にしてあげてください。
 
 
 もうひとつ、男を上手に転がすヒントをお教えします。それは「アメとムチ」です。実はこれこそ、子供を育てていく上で忘れてはならない「バランス」であると僕は思うのですが、それを大人である夫にも適用できるということに気づいて欲しいですね。
 
 じつはこの理屈は、前述の疑問符とそう大差ないんです。男というのはどこかプライドの強いところがありまして、わがままであればあるほど、それが自分以外の価値観を拒否しようとします。言い換えると、外部、つまり妻からの言葉に対して、わがままな夫の心には強大な防御線が張られていると考えても間違いではないでしょう。それを上手に利用するんです。
 
 「アメ」とはいわば「褒めること」です。「行為を認める」と解釈しても結構でしょう。非道といえども、どこかにひとつやふたつは良い所があるでしょ。それを認めてあげることです。自身を認めて貰えることで、彼の防御線に少しの隙間ができると思います。そこを「ムチ」で突くんです。
 
 手法としては逆でもいいかと思えます。以前ある女性にお話ししたことがあるのですが、アナルセックスを強要する夫に対して「アナルだけは絶対に嫌なの、でもあなたのことを愛しているしあなたの気持ちもよくわかるから、もっと別の愛し方で私を気持ちよくして」という具合に話をもっていくよう提案してみました。彼女が実際にそうしたかどうかはわからないのですが、要はそういう風に否定と肯定のバランスをとるということです。
 
 
 立つ瀬がない、という言葉があります。男をこの状態へ持っていってはいけません。それは決して男を立てるとか、女が退くということではなくて、相互のバランスを考慮しつつ、男を窮地に追い込むことだけはしてはいけないということです。
 
 男の僕がいうのも妙ですが、僕は男よりも女のほうが賢い生き物だと思っています。男なんて単純なものです。褒めれば喜び侮辱すれば怒る。ただそれだけの生き物です。褒めると慎重になり侮辱すると謙虚になる生き物とは違うんです。そこを忘れないことです。
 
 女は賢く生きてください。そして男を上手に手の平に載せ、共に幸福の道を歩んでください。されど僕のアドバイスを実行して失敗しても、責任を当方に持ち込まないでください……おねがいします。賢き女に幸あらんことを。



2003年10月23日(木) オナネタの違いで学ぶ男と女

 オナニーを手伝うネタに何を選ぶかは、男もそれぞれ女もそれぞれという所がありそうにも思えるのですが、概して、そこには男女の性の違いによる背景が潜んでいる気がします。オナネタを考えることは、男女を理解するに好都合なんです。
 
 
 僕がこのヲトナごっこを始めた衝動は、世にアダルトサイトは数あれど、そのなかに大人の女性が愉しめるサイトが少ないのはなぜだろう、という辺りからでした。アダルトというとどこかいけないもののように捉えられがちですが、成人に達すれば楽しんでも誰も文句を言わないコンテンツなのに、三十四十を越えたいい大人がこそこそ見るのは変ですよね。堂々ととは言いませんが、ごく普通に一般のコンテンツと同じように愉しめる世界であっていいはずです。
 
 男だからとか、女だからとかという物言いは、僕はあまり好きではありません。男だからアダルトが好き。女だからアダルトを見るのはおかしい。そういう物事の判断は、どうも僕の性格に馴染みませんし、それが前述した「大人の女性が愉しめるアダルトコンテンツ」の疑問へと繋がっていったのだと思います。
 
 それともうひとつ、かつて僕は某アダルト動画配信サイトのお手伝いをやっていたことがあったのですが、その頃やはり、どうして女性の客が少ないのだろうかと不思議でなりませんでした。いま思えば馬鹿馬鹿しい気もするのですが、男連中がこれほど寄り付いてくる動画の世界を、女だってきっと好きであるに違いないと、当時の僕は本気で思っていたんです。それはおそらく、まだ気づかぬ世の多くの男連中の意識でもあろうかと推察してもいます。
 
 ヲトナごっこを開設して、さまざまな女性から話をきくことができました。当初、僕が女性に寄せる質問はいつも同じで、「アダルト動画は好きですか?」とか「オナニーのネタは何ですか?」という類のものでした。そうストレートに訊いたわけでもありませんが、サイトの性格を理解してくれた女性たちは、割と忌憚の無い言葉を返してくれた記憶があります。
 
 
 冒頭で書いたように、男といえども、女といえども、それをひとまとめに括って論ずることなど無理に違いないのですが、概して「男は視覚に遊び、女は想像に戯れる」傾向が強いように感じています。わかりやすく言えば、男はアダルトビデオをみてオナニーをし、女は官能小説の世界に身を委ねる、という感じでしょうか。男は直感的かつ即物的であって、女は感覚的かつ精神的であるという言い方もできるかと思えます。
 
 その違いの主因をどこに求めるかも、また難しい気はするのですが、ひとつの拠り所として、生き物としての生殖活動にそれをみるのも間違っていないかもしれません。つまり、男は種を撒いて己の種を存続させることを目的に生き、女は胎内に芽生えた生命を大切に育むことを目的とするという考え方です。
 
 種を撒く行為は、極めて即物的です。その為には、あれこれ面倒な回り道などせず、視覚や聴覚という直感的な刺激によって精子を目一杯生産し、それを次から次へと種の存続のために放出することが肝要でしょう。一方女性は、胎内で受精した生命を育てる際に、少しずつ自身の胎内で成長する我が子の将来に思いを馳せます。父親よりも母親のほうが子供への愛着が強いとよく言われますが、その背景には、自分の胎内から生まれ出たという事実以外にも、そのプロセスにおける小さな生命への思いいれもあるのではないでしょうか。それはどこか感覚的であって、やはり精神的な面が大きいもののように僕には思えます。
 
 
 このようなコラムを書くようになって、折に触れてトラブルの相談などにも耳を傾けているわけですが、いつも思うのは、その辺の男と女の性に対する認識の違いが、トラブルの背景には見え隠れしているということでしょうか。話をきけばとても単純な違いのように思えるでしょうが、それが現実に目の前にあると、なかなか背後が見えてこないのが当事者というものなのかもしれません。
 
 何をネタにオナニーするかということを、くだらぬ低俗な話だなどと思わず、一度恋人なり夫婦なりで話あってみると面白いかもしれませんね。そこにはきっと、男と女の違いが歴然と見えてくるはずです。違いを知るというのは、とても大切なことなんです。男と女が違うのは当り前だろう、などと思ってはいけませんよ。その当り前を具体的に認識できていないから、さまざまな食い違いが生じるわけですからね。
 
 そしてその違いが、愛撫や性行為そのものの違いにも結びついていることが見えてくれば、ある意味で打開の道も開ける気がします。男に己の直感的かつ即物的な姿を認識させ、女はまるで違う感覚を持っていることを知らしめることができれば、互いの感性を融和させつつ展開する次のステージも、そう遠くないのではないでしょうか。



2003年10月20日(月) 自分を変えたい人々へ

 このようなコラムを書いていると、あたかも人生相談のようなお手紙を頂くことがあります。とりわけ、自分自身への嫌悪を覚えている方は少なくないようで、「変われるかしら」と訊ねられる毎に、僕はいつも「変われます」とお答えしています。
 
 
 生まれ変わりたい、やり直したい、人生にはとかくそういう想いがつき物です。人の心には常に主観が付きまとい、思うに任せない状況を望み叶わずと判断するからなのでしょう。しかし残念というか無情というか、時間というものは逆戻りするどころか、その歩みを留めることすらしてはくれません。思い通りに運ばない人生のなかで、手をこまねいて時間の流れだけをただ見つめている人は、決して少なくないんです。
 
 さりとて、誰もがそれに甘んじているわけでもないでしょう。その状況から脱して、一見何の変化もないように見えても、それまでとはまるで異なる幸せな人生を歩む人も、この世には数多くいます。幸福より不幸を望む者などいないはずです。誰もが幸せを求め、ただその一点のみを目指して歩くのが人生だともいえる気がします。
 
 そのためには、納得しきれない現状から抜け出すには、やはり自分自身を変えなければならないと、そう考えている人も多いことでしょう。ところが、生まれながら体の隅々にまで染み付いている自分の性格というものを、果たして本当に変えられるものだろうか。そこで悩んでしまい、先へと進めない、あるいは進む先を見つけられないでいる方を僕はよく見かけます。
 
 
 十数年ぶりの旧友との再会。僕の中学卒業時のクラス会は二年に一度くらいのペースで行われているのですが、毎回参加する旧友とは別に、およそ卒業以来ではなかろうかと思えるほど久しぶりに再会する仲間がたまにいます。なかには、とても中学時代からは想像できないくらいに、大きな変貌を遂げた友人もいるんです。
 
 彼らと言葉を交わすと、大方はあれこれ考えるのが面倒になったというような、多少投げやりな返答がきかれるものですが、酒の席でのことですので、その言葉の裏には相当の葛藤があったであろうといつも拝察しています。けれど、ぼそっと口にした「面倒になった」という言葉の裏側に、じつは「人は変われるんだ」という確信への道筋が隠されているもののように僕には思えてなりません。
 
 
 まず基本を考えてみましょう。本当の自分の姿です。多くの人たちは、おそらくなにがしかの「しがらみ」のなかで、自分というものを少なからず繕って生きているはずです。自分が所属する環境やグループに適合できるように、自分自身を合わせているといってもいいでしょう。それが本来の自分に極めて近い姿であるならば、誰も悩んだりはしないはずです。異なるから悩みもするし、どうにかしたいと思うのではないでしょうか。
 
 変われるか否かを考える以前に、まずは本当の自分というものをどれだけ正確に把握しているかを見極めて欲しいと思います。大抵は「嫌な奴ですよ」という答えが返ってきそうに思えるのですが、謙遜か理想が高いのかしりませんが、好きであろうが嫌いであろうが、世界でただひとつ確実であり唯一でもある自分という存在から目を背けてしまっては、よりよき人生の道など見つかる道理がありません。
 
 嫌な奴だからそのまま表現したら嫌われるに決まってる。おそらくは、これが「変われない」と思う原因の核心ではないでしょうか。これまでも幾度か書いてきたことですけれど、好きか嫌いかを判断するのはあなた自身ではなく、あなたを取巻く周囲の人たちのはずです。それなのに、「わたしはピーマンが嫌いだから、あなたもきっと嫌いでしょ」と言い張っている。馬鹿らしいとは思いませんか……。
 
 
 自分を見極めることがなぜ大切なのか。それは、自分を最も理解できる人間が、自分自身でしかないからです。自分以上に自分を理解できる人間など、残念ながらこの世には存在しません。であるならば、最も理解できる自分自身で、本当の自分というものをしっかりと認識してあげなければいけないでしょう。
 
 そして、決して畏れることなく、ありのままの自分を表現してみて欲しいと思います。それはときに、あなたの隣人に嫌な思いをさせることもあるでしょう。けれど、所詮人間は、どこかで支えあって生きていかねば生きられないんです。至らない点があればそれを優しく補おうとする気持ちこそが、僕は愛というものではなかろうかと考えています。さらには、そうやってありのままのあなたを受け入れてくれる人こそが、あなたを本当の幸福へと導いてくれる人であろうとも思えます。
 
 変わろうとするのではなく、本当の自分に戻ればいいんです。下手な理想を夢想し、自分らしくない姿へと変身することが幸福への道であるとは、僕には到底思えません。それは周囲を偽るだけでなく、自分自身をも偽ることになるのですからね。
 
 さらに付け加えれば、本当のありのままの自分を曝け出せないということは、それだけあなたの隣人を信用していないという理屈にもなるでしょう。とても失礼な話ですよね。
 
 
 僕は女性の素顔が好きです。化粧をしていない顔という意味ではないですよ。言葉を交わしていると、心のなかが見通せるような女性です。誰にでも一長一短ありますので、なかには気に食わない心を持つ人もいるにはいます。それでも、僕はそういう女性を素晴らしいと思います。反面、心が見通せない人は駄目ですね。つまらぬこだわりに縛られて、実にもったいないと感じてしまいます。
 
 人間は十人十色です。いい所もあれば悪い所もある。けれどそれが、その人の個性へと繋がるんです。個性は意図的に作られたものではなく、その人本来の姿であるべきでしょう。是非ともそんな本来の自分の姿を、見極めて表現できるようになってください。そうすれば自ずと、「なんか最近変わったね」と周囲に言われるようになることでしょう。
 
 それがきっと、あなたの幸せの道に繋がっているはずですよ。



2003年10月16日(木) 精子を飲ませてください

 女と交わした言葉のなかに記憶に残るものは数ありますが、「あなたの精子を飲ませてください」と言われたのは、後にも先にも一度だけでした。男である僕に、その言葉の深い所を探るのは困難ですが、不思議な歓喜に包まれたものです。
 
 
 精子と呼ぶよりはザーメンと称したほうがいいのでしょうか。ザーメンとはドイツ語「samen」だそうです。スペルマと英語を略した言葉で称する人もいるようですが、普段よく使われているオナニー「onanie」がやはりドイツ語ですので、ここはドイツ語に敬意を表してザーメンと呼ぶことにしましょう。
 
 ザーメンマニアという人たちがいます。男にも女にもあるようです。男の場合は、ザーメンを飲んだり顔にかけられたりする女の姿をみて興奮するという類で、女の場合はまさにザーメンの味に通じた類を呼ぶのでしょう。僕のブックマークにも、そんなザーメンマニアのサイトが、ひとつだけ登録されていました。過去形である理由は、昨年末のマシンクラッシュで消失してしまったからです。
 
 さりとて、僕はザーメンマニアだとは自覚していません。多くの「えせマニア」がそうであるように、ザーメンにまつわる女の姿に少なからず興奮は覚えますが、とても追求しようなどという気持ちにはならないからです。それが証拠に、消失したブックマークは復元しておりません。どこかでいまも、地道なマニアの道が展開されていると想像はしていますけど……。
 
 マニアと称すると、なにやら怪しげな雰囲気も加味されてしまうので語弊があるかもしれませんが、僕は彼らを別段変わった趣味の持ち主であるとも思ってはいません。だってそうでしょ、クンニすれば僕の口の中には女の愛液が入り込みます。フェラしていても、ペニスの先からは、濃いザーメンが出るまえにカウパー(「がまん汁」と称する人もいるようですが)が滲み出てきますので、いずれも似たようなものであろうと考えています。
 
 
 ところが、世の多くの人たちの価値観では、おそらくザーメンを飲むことを少なからず異常であると認識している場合が多いのではないでしょうか。それは幾つか理由がありそうな気がしますが、「嫌がる女が多い」ことが大きな理由のひとつであろうと思われます。
 
 フェラをしてもらって口内射精を許可する女は、そう少なくもありません。されど彼女たちの多くは、射精した後にザーメンを口から出します。なんとなくその気持ちが判らなくもないので、特に彼女たちにどうこう言うこともありませんし、口内発射させてくれただけでも感謝するに違いないのですが、あのザーメンを口からティッシュ等に出す瞬間の男心というのは、なんとも喩えようが無く寂しいものでもあります。
 
 それだけに、ザーメンを飲むことを強要する男というのも、世には数多くいるであろうと推測しています。言われて困った女たち。言われて男から離れた女たち。彼女たちはおそらく、男のそんな要求に「異常」を覚えたのでしょうが、精子を女の体内へと注ぎ込むのが「オス(雄)」としての本能であるとするならば、彼らが常日頃抱えている「吐き出される寂しさ」も、少しは理解して欲しいものです。
 
 
 「精子を飲みたい」と僕に申し出た彼女には、しっかりと飲んで頂きました。ヴァギナのなかに放出するのと口内とでは、どちらがより嬉しいものかと問われれば、「ヴァギナかな……」と応えそうな気がするのですが、それでもやはり、こちらが強要するでもなく喜んで飲んで頂けると、男としては妙な悦びが沸き起こってくるものです。
 
 女の愛液に匂いや味があるように、ザーメンにも当然のことながら匂いも味もあります。「同じ人でも、その時々の体調によって味が違うわね」と彼女は言っていましたが、それを僕自身が確認したことはありません。ザーメンも体液には違いないわけですから、その風味が体調に左右されるであろうとは想像できますけれど……。
 
 これまでの見識によると、概してザーメンとは苦いもののようです。苦いから嫌だという理由が多いかとも推測しています。けれど、世の中に苦いものって沢山ありますよね。ビールだって苦いですし、野菜にも苦いものは沢山あります。けれど、ザーメンの苦味は駄目なのでしょうか。
 
 的を得ていないかもしれませんが、体から排出される他の物質、つまり、尿であるとか糞、鼻くそ耳垢の類と、どこか同じグループとして捉えられているような気もします。芳しい匂いで味もまろやかな甘味でもあれば、そんなこともないのかもしれませんけどね。
 
 
 ザーメンを飲むことを、僕は女たちに勧めたりはしません。そんなのは当事者同士が話し合って決めてください。好きなら飲めばいいし、嫌いなら飲まなければいいという、ただそれだけの話のようにも思えます。
 
 ただ、男の心のなかには、ザーメンを口から出されたときに、ふと寂しさがよぎることを覚えておいて欲しいと思います。だから飲めという論理ではないですよ。そこは誤解せずに読んでください。吐き出すのであれば、口内射精などせずに、体のほかの部分に出したほうがまだましでしょう。一度であっても口という体内に入ったものを吐き出される姿に、男心が少しだけ痛むわけですから……。



2003年10月14日(火) 君は美しい

 人は黙っていても老いてゆきます。肌に艶が無くなりシワが増え、体のあちらこちらに贅肉がつき、若い頃の肉体など見る影も無いほどに変化してゆくものです。殊に女性は、そういう自身の変化にとても敏感ですよね。けれど、君は美しいんです。
 
 
 僕は現在四十一歳です。物書きとしてはまだまだひよっ子、社会人としてはようやく中核の仲間入り、若い子たちにはすっかり「おじさま」として見られる頃合でしょうか。そんなおじさんですけど、自身の過去を振り返ってみてしみじみ思うのは、「年齢相応に女を見るものだな」という感慨です。若い頃は若い自分を通して女をみ、現在は四十を越えた目でみています。
 
 僕自身が若い女にあまり興味がないという理由だとは思うのですが、不思議と僕と言葉を交わす女性は三十代が多いように思えます。そして彼女たちの口からは、多かれ少なかれ、自分の肉体が老いてゆくことへの怖れを耳にするんです。僕が決まって言うのは、「綺麗だと思うけどな」という言葉。彼女たちはそれを社交辞令かなにかのように受け止めているようですが、僕は心から三十代の彼女たちを美しいと感じています。
 
 
 美しさの基準ってなんでしょう。ダヴィンチやミケランジェロが感じていたような美の世界が、美しさの基準なのでしょうか。或いは渋谷を闊歩する若い子たちの感覚が、美の基準となるのでしょうか。僕にはそうは思えません。
 
 なぜそれを美しいと感じるか。それは、美しいと感じる人がいるからです。つまり、僕にとっての美の世界とは、僕がいなければ存在しない世界であって、それは、ダヴィンチやミケランジェロのものとも違うし、流行の先端を闊歩する子たちのものとも違うということです。僕のなかでは、僕が感じる美のみが美しく、他のいかなる基準もそれに当てはまるものではないんです。
 
 いま仮に、美しさの世界標準があったとしましょう。誰もがそれを美の基準とし、世界の多くの人たちがそこを目指しています。けれどそんななかにあって、あなたはあるひとりの男と恋愛関係になりました。あなたは彼に好かれようと、世界標準である美を目指します。しかし、どうも反応が芳しくない。そこで彼によくよく訊いてみたら、彼の好みは世界標準とは全く異なるものでした。
 
 「僕は、君にしかない美しさが好きなのに」と彼はいいます。世界が認める美しさよりも、彼女にしかない美しさが彼は好きだというんです。どのような身なりをしていても、どのような表情をしていても、どんなに疲れた肉体であっても、彼は「君は美しいよ」と微笑みかけます……。
 
 
 女とは、とかく「見られること」を意識して生きているように思えます。「見られてる意識がなくなったら女はお仕舞いよ」という言葉もききますし、「見られてる意識があるから綺麗でいられるんじゃない」という言葉もききます。なるほどそうなのかな、と思うこともあります。けれどそれって、随分と曖昧ですよね。だってそうでしょ、美の世界標準などないのだとしたら、一体なにを基準に彼女たちは綺麗でいようとするのでしょうか。
 
 そうそれは、女の主観的なものでしかないんです。誰が美しいと評するわけでもなく、自分が「美しいであろう」と感じているだけの話なんです。だから曖昧だと僕は感じるわけです。むしろ、「彼が綺麗だって言ってくれるから」という理由のほうが、僕には遙かに説得力があるようにきこえます。
 
 美しさを気にするのであるなら、自分の美を求めることも多少は大切に違いないでしょうが、見る側の言葉にも充分に耳を傾けるべきではないでしょうか。そして、若さとか端整であることが美の基準では決してないことを、あなたを取巻く人々の反応から察して欲しいと思います。願わくば、自信を持ってください。他の誰にもない、あなただけの本当の姿、本当の美しさを見極めてくれる人は、きっと近くにいるはずですから。
 
 人間の素の姿というのは、実に美しいものです。僕は心からそう思います。



2003年10月09日(木) イッタ振りする女たち /それが男を駄目にする

 「いつも彼(もしくは夫)が先にいっちゃうの。でも嫌われたくないし可哀そうだから、私はイッタ振りをすることが多いわね」という話を幾度か耳にしました。女ってそんなに役者だったのかと驚きもするのですが、反面それではいけないだろうと……。
 
 
 女がセックスに対して抱く不満の多くは、気持ちよくいけないことに対するもののように見受けられます。愛撫やら前戯やら後戯やら、色々そのノウハウはあるにせよ、最終的にすっきりしなければ悶々としたものが燻り続けることでしょう。
 
 いけなくても満足できる時はあると思います。男である僕にも、射精しなくとも満足することはありますからね。多くの男がそうであるとは思えないのですが、射精という行為に最終的な目標を定めていない男も、この世には少なからずいることでしょう。だからといって、いつも射精せずに終わることを是としているわけではありませんし、いけなくとも相手に笑顔で「よかったよ」などと言えるものでもない気がします。
 
 セックスを広範囲に考えれば、そこにはさまざまな満足できる要素があるのですが、やはり男にとっての射精、女にとってのイク感覚というのは、除外して考えられないひとつの到達点であるに違いないでしょう。けれど女たちは、思うようにいけずに「イッタ振り」をする。喜んでいるのは男ばかりで、女は顔で笑って心で涙を流しているのかはたまた男に侮蔑の目を向けているのか……。
 
 
 問題の根を考えてみましょう。なぜ男ばかりが絶頂に達し、女はそれをみながらイッタ振りをせねばならないのか。それには大きくふたつのタイプが考えられます。ひとつは女の反応など無関心で自分勝手にセックスをする男で、もうひとつは女の反応を読めずに果てる男ということになるでしょう。
 
 男が心底自分勝手にセックスをしているのなら、女の反応など何の意味もないですよね。女がいこうがいくまいが、男は自分のペースで勝手に気持ちよくなって果てることでしょう。このタイプほど始末におえない手合いはいません。僕の勝手な当て推量ですが、この手の男は性風俗産業に通じてる輩に多いように思えます。女を性欲処理の道具のように捉えていますから、なにを言っても通じないでしょう。
 
 問題はふたつめのタイプです。女の反応を読めずに果てる男であるならば、まだ共に快楽の淵を彷徨う道は残されています。そして問題の根となっている「女の反応がなぜわからないのか」というところを掘り下げてみれば、すぐに「それは目に見えた終わりがないから」という至極当然の結論が見えてくることでしょう。
 
 男には射精という目に見える最終地点があります。けれど女にはそれがない。女もそれぞれで、「おかしくなっちゃったんじゃないか」と一瞬こちらが引いてしまうほどの反応を示す者もいれば、どこでいったかわからなかったのに「二回もいっちゃった」と仰る者もいます。女性がそれをどう受け止めているか定かではありませんが、これほど厄介な代物はありませんよ。考えてもみてください。仮に男に射精というものがなかったとしたら、あなたは男のイク瞬間を読みきれますか?
 
 
 女は満足させてくれない男に対し、「いかせてくれない」と嘆きます。けれど男の側にしてみれば、「いついったかわからない」わけです。そこが問題の根であるならば、相手にわかるように意思を伝達すればいいということになるでしょう。
 
 ところが、女はあろうことか「イッタ振り」をしてしまう。これでは問題の解決どころか、男に間違った見識を植えつけているだけです。いくら悩んでみたところで、自分の行動が問題の根を地中深くに埋め込んでしまっているのですから、日の目を見るのもままならないと思われます。
 
 
 僕はいつも、女の反応を味わうことに快楽を覚えています。自身の快感はもちろんですが、それは女が快楽に溺れる反応を視覚や聴覚で感じてこそ成立するものなんです。ですから、どこで女がイッテいるのかということにも、常々感心を抱いてきました。それでも、まだまだ確立100パーセントなどとはいえません。
 
 明らかに相手がイッタと思えるときは特に口にしませんが、多少なりとも不安を感じたときは、自分が果てた後に相手に必ず「ちゃんといけた?」と訊くことにしています。まあ台詞はさまざまで、「ひとりでいってごめんね」と言いつつ相手の反応を覗うこともあるように思えますが、いずれにしても女がいったかいかなかったかは重要なポイントだと僕は考えているわけです。
 
 ただし、前述したように、いかなくとも満足できるセックスというのもあります。ですから、いけないことが即至らぬセックスに繋がるなどとも思ってはいませんが、その辺も含めて、行為後のちょっとした会話は、とても大切だと感じています。
 
 
 満足できなかったら、それをきちんと相手に伝えるべきです。それは自分のためでもあり、相手のためでもあるんです。「イッタ振り」などという詰まらぬ演技はせず、信じあえる相手であるならば、正直に相対することをお勧めします。駄目な男を作らないためにもね……。



2003年10月07日(火) あってないのが下心

 無くて七癖という言葉があります。どれほど癖のない人のように見えても、七つくらいは癖があるものだという意味ですが、いかに無さそうにみえてもあるのが男の下心というやつかもしれません。けれど、それが無くなる岐路が男の心にはあるんです。
 
 
 およそ僕が知る範囲の男のなかには、ひとりとして女に対する下心がないと感じられた男はいません。そういう奴らとばかり付き合っているからだ、などと言われそうですが、男の本能には潜在的に女を狙うなにかがあって、表面に出ようが出まいがそれは下心として存在しているのだと僕には思えます。
 
 かくいう僕にも、下心は常に付きまとっています。明らかにフィーリングが異なる女相手にはないかもしれませんが、恋愛意識以前の段階ですでに、僕の中には何らかの形で多かれ少なかれ下心はあると自覚しているんです。
 
 けれど、それが表面に出ることはそう多くありません。自制心というものを理由に挙げる方もおれらるかもしれませんが、そうではなくて、僕の中で別の視点での「線引き」がされているような気がするんです。つまり、下心を伝えたほうがいいか、あるいはそうでないか、という線引きです。
 
 
 妙な喩え話になりますが、かつて仲間たちと、温泉場や海外を遊び歩きながら、さまざまな色里を見てきました。はじめのうちは、気に入った女とセックスすることに強い関心を抱き、宴会といえば単なるコンパニオンよりは夜の相手もしてくれる手合いを選んでいたものです。しかしある時期から、そういう選択よりもコンパニオンとじっくり楽しむことを選ぶようになったんです。
 
 女とホテルにしけこむよりは、仲間と一緒になってコンパニオンと騒いでいたほうが楽しい。理由は明快です。性的欲望の最終処理をそこで女と行うよりも、それは処理されなくともより時間を楽しめる道を選んだということです。
 
 そう考えるようになった僕のなかには、暗い部屋で女と絡み合う下心よりも、たとえ酒を飲みながらの会話だけであっても、そちらのほうがいいという価値基準が生まれました。つまり、妙な下心など出さずにいたほうが、時として楽しめるし自分を満足させられるものだということを、僕は経験のなかから見出したのだと思います。
 
 
 僕が女に対して下心を出すか出さないかの線引きは、どちらが自分にとってより価値があるであろうかという判断に依ります。もちろんそこには、「相手にとっての有益性」も加味されますよ。自分とどのような関係を持つことが、目の前にいる女にとってより意味があるのか。それを考えることも、僕は自身のなかでの線引きに繋がっているように感じています。
 
 仮に、僕が下心を出さないようにしようと決めた相手に対しては、僕の姿は極めて紳士に映るかもしれませんね。それを偽りだという方もいるかと思いますが、僕はその時点で下心を捨てていますので、いわば「あった下心がなくなった」状態なんです。ないのですから偽りではありません。下心がない状態でも、僕は存分に関係を楽しみ謳歌しているんですからね。
 
 女から見て、そんな男の心の中を見抜くのは、やはり難しい所作なのでしょう。僕と相対した女の反応を顧みると、どちらかというと皆さん僕のことを信頼してくれていたようですが、男が誰しも必ず下心を捨てられるというものでもないと思えます。悟られぬようにするから下心なんですから……。
 
 
 男と女の関係には、じつにさまざまなものがあると思います。ベッドを共にする恋人もあれば、キスすらせずに酒を酌み交わす関係もあるでしょう。ネットが普及している現在では、逢うことがなくとも成立する恋愛関係もあります。
 
 どれが一番だなどという下劣な判断基準は、僕の価値観のなかにはありません。いずれも僕にとっては大切な関係ですし、天から与えられた限られた縁なのだと思います。僕はそれらの縁を大切にしたいから、それぞれの状況で最善と思える道を選ぶんです。それが、僕のなかから下心を消すか残すかの岐路になっているのだと思えます。
 
 ですから、男のなかから下心が消えたからといって、自分を女として見ていないと考えるのも間違っています。体を重ねるだけが男と女ではなくて、互いが持っている性をいろいろな手段で絡めあうのが、本当の男と女の関係なのでしょうからね。



2003年10月02日(木) セックスのメインディッシュ /好みの体位

 俗に四十八手といわれるセックスの体位ですが、それをすべて経験された方はどれほどいるのでしょうか。僕も見識はあるものの、完全制覇していません。その多くは主流となる体位の亜流に違いないのですが、あなたはどんな体位がお好みですか。
 
 
 和洋問わずフルコースには料理の順序があるように、セックスにもその時間のなかで織り込まれるさまざまなエッセンスや順序があるような気がします。前戯や後戯という言葉もありますけど、挿入する行為そのものにも、やはり人それぞれに無意識のなかにも序列があるのではないでしょうか。即ち、好みの体位です。
 
 僕は、極端にアクロバティックなものは好みません。いつもとっている体位を思い浮かべても、正常位から挿入したままそこを軸に横向きになり、後背位へといったら回転して元の正常位へと戻る、それから相手を抱え上げての対面座位、そして騎乗位。クライマックスは正常位が多いでしょうか。おそらく多くの方々が普通に行っている流れではなかろうかと、リサーチしたわけでもありませんが想像しています。
 
 ちなみに、「四十八手」と称される体位のなかには、これら「正常位」や「後背位」「座位」といった表現は使われておりません。ご存知でしたか。四十八手が出来たのがいつの時代なのか定かではないのですが、およそ日本文化らしい名称が使われていますので、興味がある方はネットで検索でもしてみてください。
 
 
 僕が最も好きな体位は、対面座位です。セックスの流れの中でも、正常位や後背位の後になりますので、順序としても僕の中では、この対面座位がメインディッシュと称して間違いないでしょう。なぜ好きかという理由ですが、幾つかありそうな気はしますけど、総じて「密着度が高いから」ということになろうかと思えます。
 
 人はなぜセックスをするのか。そこにはふたつの大きな柱があるでしょう。ひとつは紛れもなく「種の存続」です。生殖活動は、生き物にとって本能的なものでもあります。そしてもうひとつは、人間ならではの感情を伴う性行動、即ち「合体してひとつになること」であろうと僕は考えています。もちろん、性的快感を覚えたいからという理由もあるでしょうが、僕の中では、どうも前述したふたつの理由に比べると核心の部分で弱い気がするんです……。
 
 
 合体してひとつになるとは、はたしてその背景にはどんな心理が隠されているのでしょうか。過去に恋愛コラムでそのエッセンスを綴ってきましたが、恋愛の究極は「君になること」であろうと僕は推測しています。つまり、自己という殻から飛び出して、自分が惚れた相手そのものになることです。相手のことをもっと知りたいとか、自分の気持ちを理解して欲しいとか、想いは色々あるでしょうが、その根本には、このような「君自身になってしまいたい」という核心があるように思えます。
 
 それは所詮叶わぬことです。けれど人はそれを追い求めようとする。そしてセックスという行為において、ひとつの「幻影」のなかに到達点を見出すわけです。それが「一緒にいきたい」という衝動であったり「ひとつになりたい」という衝動であろうと、僕にはそう思えます。いかにして「ひとつになった」手応えを得るか。それは人それぞれだと思いますが、僕の場合は、それが対面座位という形である場合が多いということです。
 
 もちろん、ひとつになる感覚以外にも、僕が対面座位を好きな理由はあります。挿入した状態で胸を愛撫し易いとか、挿入感そのものが奥深くまで挿入されてる感覚(或いは性器同士の密着感)を得られやすいとか、対面座位ならではの醍醐味はあると感じています。けれどやはり、互いが互いの体を両腕でしっかりと抱擁しつつ「ひとつになる」感覚は、不思議と他の体位では得られないもののように思えるんです。
 
 
 かつて恋人と対面座位にあったとき、「混ざっていくみたい」と言われたことがありました。彼女はそれまで、座位に対してそれほど強い嗜好を感じていなかったようですが、そのときはじめて、座位によって「ふたりが混ざり合ってひとつになっていく」感覚を覚えたのでしょう。
 
 性感というものも、実に多岐に渡ると思えます。女性の体には性感帯が沢山あると聞いていますし、ヴァギナひとつとっても、クリトリス、ラビア、子宮口、Gスポットと、それぞれに感じる箇所はあるようです。けれど、そういう物理的な快感という側面ではなく、「ひとつになりたい」という究極の願望を満たす要素が、対面座位にはあるのでしょうし、それこそが、性感帯に囚われない五感を研ぎ澄ました総体的な快楽へと繋がるもののように僕には思えます。
 
 セックスが単なる欲望処理の行為であるならば、それは動物と何ら変わらないでしょう。人間が人間でありながら行うからこそ、そこには直接的な刺激以外の世界を展開できるのだと僕は考えています。体面座位という体位は、そんな僕にとっては、昔もいまも、そしておそらくこれからも、メインディッシュでありつづけることでしょう。
 
 でも、対面座位では射精しないんですよね。これ不思議でしょ。射精は正常位が一番気持ちいいんです。つまり、射精する体位だからそれが最も好みの体位であるとは限らないということです。それからも、セックスの主目的が性器の刺激によるとは限らないという論理が、少なからず見えてくる気がしませんか。
 
 みなさんのメインディッシュは、どんな体位でしょうか……。


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ヒロイ