ロマンティスト・テイスト...jovanna

 

 

「SWEET CANDY RAIN」PV完全バージョン - 2004年01月27日(火)

「SWEET CANDY RAIN」PVの8分バージョンを見る事が出来た。
いくつかの象徴的な映像、通常とは違う順番で挿入される台詞、
かなり足されていた運転手の台詞によって、このPVのストーリーは
大体理解出来たと思う。
けれど、見終わって心に浮かんで来たのは、
『喪失を、欠落を受容せよ。』という言葉だった。
運転手と女性(妻?)少女(娘?)登場人物達は
皆何かを喪ったかのように傷つき、深い哀しみに囚われているようだ。
YOSHII LOVINSON扮するミステリアスな人物も。
頭にチャックを付けたこの黒タートルのYOSHIIと映像の中で
歌い登場人物達と絡む白シャツのYOSHIIは別の存在なのだろうか。
私は、冒頭のYOSHIIがじっと自分の掌を見つめるシーンや、
女性や少女を導く姿から、サリンジャーの「グラス家の物語シリーズ」の
重要なキャラクター・長男シーモアを連想した。
美しい手をしていて、じっと己の手を眺める事が良くあって、
(鼻がしっかりしていて)そして、生前もそして亡くなった後も、
家族全員に多大な影響力を持ち続けた人物・・・グラス家の家族達に
とってシーモアは彼らが生き続ける限り、ずっと“神”あるいは“天使”の
ような存在であったろうと思う。
真摯で無垢な魂を持ちながらこの世を生きて行く苦しみ、
愛する命の喪失、孤独、残された家族の愛の尊さ、
そういう事柄がこのPVから響いて来た。
曲だけでも勿論心に染みる曲だと思うけれど、
このPVは、非常に素晴らしい作品だと実感する。
SSTVで流して呉れたのは大変嬉しかったのだけれど、
正直言えば、番組ロゴがちょっと邪魔だった。
DVD付き初回盤に収録されてるんだよね?
待ち遠しい。




いちじくが象徴するもの - 2004年01月24日(土)

「SWEET CANDY RAIN」PVにおいて何故いちじくなのか、
ずっと考えている。
いちじくは、とても傷みやすい果物である。
熟し腐る・・・私は、欲望とかエゴとか言うなれば“罪”の
ニュアンスを感じる。
聖書の中でイエスが、本来祈りの家であるべき神殿を
強盗の巣にしてしまったイスラエルを裁いた神殿粛清裁きの象徴として、
「いちじくの木を呪い」そしてイエス殺害が決定された翌朝に、
いちじくの呪いの成就が確認されたと記されている。
神への真実な畏れと敬虔な信仰を忘れ、強欲と肉欲が渦巻く醜いエゴに
染まったエルサレムの民を腐って食べられない「悪いいちじく」だと
喩えている。
イエスは説く。「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると
信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、
そのとおりになります。また立って祈っているとき、だれかに対して
恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられる
あなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」と。
私は、キリスト教徒ではない。
けれど、祈りが真実に力ある祈りになる為に重要なのは、
「信じる」事と「赦す」事であるという事は、真理だと思う。
葉ばかりを茂らせて、あれは駄目、これも駄目
こうせねばならないという事ばかりで、
人を生かす内実が皆無な空虚な繁栄そういう象徴として、
この悪いいちじくを登場させているのではないだろうか。
良いいちじくとは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制に満ちている事だ。
「フラニー/ズーイー」の中で、フラニーが「南無阿弥陀仏」と唱える
仏教の念仏門の人達の話を語る場面があるが、
ゴータマ・シッタルダがが悟りを開いたのは、アシュバッタの樹の下での事で、
「目覚めた人」「悟りを得た人」の意である「仏陀」と、
アシュバッタの樹を「悟りを提供した樹=菩提樹」と呼ばれるようになった。
このアシュバッタの樹は、インドイチヂクと呼ばれるいちじくの一種であったと言われる。
いちじくが持つ色々な意味を調べると大変興味深い。

先行試聴会で流されたという「SWEET CANDY RAIN」8分バージョンでは、
いちじくの部分がどう表現されているのだろう。
今流れているPVでも、運転手がトランクを閉めているシーンと
「私が殺した・・・」の語りで、トランクの中に女性の死体が
あったように思うのだが、いちじくを剥く女性と運転手との関係が
完全バージョンで明かされているのだろうか。
DVDに収録されているんだよね?そうで無かったら堪らない。




BLACK HOLE - 2004年01月22日(木)

1/21六本木ヒルズで行われたYOSHII LOVINSONデビューアルバム
試聴会には、YOSHII LOVINSON本人が現れたそうだ。
やっぱりね。そうじゃないかと思ってた。
それを聞いた時、抽選に当たらなかった事が非常に残念にも思った
けれど、それなら競争率は物凄かっただろうから仕方ないな、とも
思えた。
それよりも吉井さんが壇上で語ったという『THE YELLOW MONKEY休止直後は
5年間は休むつもりだったけど・・・自分にできる事は音楽しかない』という言葉が
ずしんと胸に刺さった。
12年間凄まじいスピードで走り続けて来たイエローモンキーを
休止させると決断して、ストップして・・・その時の反動の大きさは、
私などには想像も着かない程の大きさだったのだろう。
試聴会で配られたパンフレットには、『活動休止してから現在までの約3年間、
34歳から37歳になる間の暗闇で感じたこと、
決めたことなどを曲にした。』
『これからも僕は僕の心の闇を歌っていくしかない。
ブラックホールだから終わりはない。』
『みなさんの心の闇と交わった時さらに深い闇になって、
ブラックホールに一瞬でも光が見えたら、
こんなに嬉しいことはないです。』そう記されていたそうだ。
著作権違反?けれどこのメッセージは、
我々イエローモンキーファン全てに届けられるべき物と
私は考えるので、敢えて此処に書いて置こうと思う。

私は、今までずっと長い間「自分は何故こうも空虚感に囚われているのか。
何故、表面上は分別臭い大人の振りをしているのに内面は未熟のままなのか。」と悩んで来た。
けれどこの「at THE BLACK HOLE」というアルバムの情報が
出回るにつれて、私は自分の「心の闇」に目を背け続けていた事に気付かされた。
私は、馬鹿げた話だと自分でも思うけれど、成人してからも大分
長い間、自分自身が穏やかな人間だと思っていた。
控えめで人と争う事をせず・・・けれどそれは他人に煩わされる事を
避ける為、本当は非常に我侭な人間だった。
その事に気付かされた時は、愕然としたけれど、根本はもっと根深かった。
認めたくは無かったけれど、これは幼少時における愛の不信感から来ている。
幼い頃家庭が崩壊して、自分は両親のどちらからも
必要とされていないのではないかと感じた「喪失」と「不安」の大きさは、今にして思えば
その時期の細々とした記憶が一切残ってない事からも伺える。
もっと幼かった頃の出来事は覚えているのに。
その頃から自分は、「聞き分けが良く素直な良い子」に成り切ろうと
努めて来たように思う。
それが自然の姿だと思い込む事によって、心の奥底に暗い闇を
作り出していた事にも気付かないままで。
「喪失」を認識しないうちは「成熟」などあり得ない。
自己のあるがままを受け入れる事・・・まずそれからなんだろう。
他様からみれば滑稽でしかないだろう。
けれど、私は「at THE BLACK HOLE」に向き合う時、
表面を繕った偽りの姿では聴きたくないと思った。
YOSHII LOVINSONが剥き出しの心の闇を歌って来るなら、
私もまっさらな自分で対峙したいと願うから。
愚かだと笑われても良い。
そのような雑音に耳を貸すゆとり等、私は無い。




待ち続けたけれど - 2004年01月19日(月)

諦め切れずに、午後の郵便配達まで待ち続けていたけれど、
YOSHII LOVINSONアルバム「at the BLACK HOLE」先行試聴会の
招待状は、遂に届かなかった。
行きたかったなあ、六本木!
赤ステッカーだって当たらなかったし、モンキー関連で何か
抽選で当たったモノなんて一つも無いじゃないか。
でもまあ考えて見れば、今までの私だったら、応募する時点で
「遠いから」「家族が良い顔しないから」と、諦めていた筈だ。
それが今回は、六本木ヒルズの地図を調べ、地下鉄路線図を調べ、
更にはヴァージンシネマズのHPもくまなくチェックし、あれこれ
考えている時間は、楽しかった。
そう思えば、願う事すら諦めていたあの頃よりは、一歩前進したと
言えるだろう。
それにしても、「at the BLACK HOLE」早く聴きたかったなあ。
あと20日間待たなきゃいけないのが辛い。
そしてヨシロヴィがラジオで言っていた「試聴会用の特別映像に
提供したという吉井和哉20歳の画像」を見られない事が
非常に残念だ。この世の憂さが全部吹き飛ぶ位のインパクトだったろうに、返す返すも惜しい(笑)
アルバム自体の方は、「WHAT's IN?」での記事に
『BLACK COCK'S HORSE』という曲の一節に
“君からのメッセージは君に返す 死ぬ時は一人だ
 オレの歌はオレの歌 君のものじゃないぜ”という歌詞がある事が
紹介されていた。編集者の論調が気に掛かる。
別に音楽雑誌の編集者達がどう論評しようと構わないけれど、
私は、アルバムの音が、ヨシロヴィの歌が自分にどう響くのか、
それが問題なのだ。
ヨシロヴィがギリギリの淵に立っているという「BLACK HOLE」の
凄さを体感したい。              




『Sweet Candy Rain』発売 - 2004年01月09日(金)

昨日『Sweet Candy Rain』を手に入れた。
今回は、CCCDでは無いという事に胸を撫で下ろす。
「TALI」の時のファンの声を吉井さん&レコード会社側が
聞き届けてくれたのだったら非常に嬉しい。
最近は、『Sweet Candy Rain』のPVばかり見ていたけれど、
歌詞カードを見つつ聴いたこの曲は、歌詞、曲調、ヨシロヴィの声、
それらが合わさって、ぐいぐいとこちらの心に深く染み入って来る。
歌の力って凄いものだなあ、と改めて思わされた。
2曲目の「SPIRIT'S COMING(GET OUT I LOVE ROLLING STONES)」は、
“タリランタリランタラリルラン(は〜とマーク)”に
ニンマリとさせられて仕舞うノリの良い曲だ。
“固くなったし 太くなったし”の“し”が実に気持ちイイ。
ROCK'N ROLL SPRIT!
私は、ローリング・ストーンズというバンドそのものではなく、
「結局自分の人生を決めるのは自分だ。」「転がり続けるんだ。」と
自分に活を入れられた思いがした。
またぞろ、ちっぽけな物思いに捉われて、縮こまっていたのが
ビシッと電流流されたみたいに背筋が伸びた。
変に大人ぶってまるく為ったりしません!
にょきにょき触覚伸ばして、ぐわんぐわん転がって生きて行きますゾ。
“認めろ 認めろ 諦めろ”!?
イヤです。私は諦めない。ずっと手を伸ばし続けます!(笑)
“それにしても、SPIRIT'S COMING”“さよならニューヨーク”と
コーラスを入れているのは誰なんだろう?
ドラマーは、今回もジョシュ・フリーズだったのかな?
“さよならニューヨーク”の発音は、日本人だよね?
ヨシロヴィの声と、とても合っていて気に為る。
3曲目は「70GO」鼻歌みたいで面白い。
これで1曲作って仕舞うのだからヨシロヴィは!
最後の「ヴァー」にヤラレタ。




続「Sweet Candy Rain」PV考 - 2004年01月02日(金)

『Sweet Candy Rain』PVに登場するタクシー運転手は、
「自分しか見えてない人って最近多いんじゃないですかね。」と話す。
そう、確かに自分だけの世界に没頭する人間が増えているとは思う。
けれど、だからと言って自分の事が良く見えているかと言ったら、
どうもそれは違うのではないかと感じる。
自分を取り巻く世界の事すら曖昧なのに、否だからこそ、
自分自身も理解し切れないのではないだろうか。
実際私自身がそうかもしれない。
PV冒頭でイチジクの実の皮を剥き続ける女性は、
『「いちじく」って一日一つずつ熟すから、「いちじく」って
言うんだって。「いちじゅく」』と語り掛ける。
何故「いちじく」なんだろう?
「いちじく」は、古来から「知恵の木の実」とされてきた果実だ。
一見花を咲かせる事無く実を結ぶから「無花実」とも書き記される。
けれど実際は、実の中に沢山の白い花を咲かせている。花が外から見えないだけなのだ。
アダムとイヴが禁断の木の実りんごを食べて、真っ先に自分達の身体を
覆ったのは「いちじく」の葉だった。
何故、この部屋の天井の隅の染みは、次第に拡がって沢山の「いちじく」を
実らせているんだろう。
登場人物達は、必死に「何か」を開けようとしている。
「知識」を「真実」を得ようとしているのだろうか。
PVの中で女性とYoshii Lovinson扮する謎の男性は、熱心にサリンジャーの
「フラニー/ズーイー」を読む。
自分を含めた廻りの人間達のエゴと欺瞞に傷つき絶望する女子大生
フラニーと彼女と同根の繊細で鋭敏な頭脳を持ちつつ、孤独と
空虚、疎外感というべきモノに囚われながらも、毒舌と諧謔の顔の
下に優しさを秘めた彼女の兄ズーイーの話だ。
救いを求め苦悩するフラニーにズーイーは彼女自身のエゴを
指摘しさらに追い詰めてしまうけれど、最終的に
彼ら兄弟の子供時代に体験した、7年前自殺した長兄シーモアが
『どこかに居る太った夫人の為に靴を磨いておけ』と
言った出来事を話して聞かせる。
取るに足らない存在のように見えるものの中にも神は宿る。
人間のはるか上空に神が存在するのではない。
人の心の中にこそ神・・・聖性、貴さがある。
その事に気づいた時、フラニーは光を取り戻す。
生きる歓びと世界への愛を快復する。
「フラニー/ズーイー」は、迷える魂の救済の物語だと思う。
翻って『Sweet Candy Rain』は、孤独な女性と男性と少女が
登場する物語だ。
タクシー運転手は「私が殺した・・・私が殺した。
お前は、・・・私の妻に似ている。」などと呟いている。
Yoshii Lovinsonの気ぐるみ?を着た男性は、何者だろう。
この世のものではない存在?
それぞれの登場人物の分身であろうか?
登場人物達は、鏡やガラスに映る自身の姿を見つめる。
その中に何を見ているのだろう。
“もう誰のせいにもしないって”
この最後のフレーズは、やはり私には絶望の叫びだとは聞こえない。
“救いだった神すらもう
SAY GOOD BYE GOOD BYE SAY”
「誰のせいにもしない」という事は、全て自分で引き受けると
いう事なのではなかろうか。
言うなれば『赦し』・・・他者も自分をも赦し受け入れる事、
PVのラストは魂の浄化だと感じた。






My追加

 

 

 

 

INDEX
past  will

溶けた砂
時の谷間