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2008年08月31日(日)
宮崎駿監督を悩ませた、『風の谷のナウシカ』の「3つのラストシーン」

『仕事道楽―スタジオジブリの現場』(鈴木敏夫著・岩波新書)より。

【『ナウシカ』というと、ぼくがいつもふれるエピソードが二つあります。
 一つは製作終盤のときの話。当然のように、どんどんどんどん制作期間を食っちゃって、映画がなかなか完成しない。さすがの宮さん(宮崎駿監督)もあせった。じつは宮さんというのは、締切りになんとかして間に合わせたいタイプの人なんです。それで、彼が高畑(勲)さんとかぼくとか、関係する主要な人をみんな集めて訴えた。「このままじゃ映画が間に合わない」と。
 進行に責任を持つプロデューサーは高畑さんです。宮さんはプロデューサーの判断を聞きたいと言う。そこで高畑さんがやおら前に出て言った言葉を、ぼくはいまだによく覚えています。何と言ったと思います?
「間に合わないものはしようがない」
 高畑さんという人は、こういうときよけいな形容詞を挟まない。しかも声がでかい。人間っておもしろいですね。そういうときは誰も声が出ない。ただ、下を向いて黙っている。ぼくもどうしたらいいかわからなくて、そのときはさすがに下を向いていました。
 しばらく沈黙が続いたあと、宮さんは「プロデューサーがそう言っているんだから、これ以上会議をやってもしようがない」。そのあと、宮さんは必死になって徹夜を続けました。それでやっと映画が完成するんです。
 高畑さんの名プロデューサーぶりをいろいろ言いましたけど、最後の最後、高畑さんは監督の立場になっちゃうんです。「間に合わないものはしようがない」、監督・高畑勲のこの言葉に、そのあと何度泣かされたか。
 高畑さんは監督として、そういう時間制限に無頓着といわないまでも、けっこう平気です。『ハイジ』のときにもこんな話があったそうです。毎週放送ですから、とにかくストックを作っておかなければならない。みんなその作業に励んでいたわけですが、ところが来週から放送だぞという、最後の最後の段階でまだ、肝心のオープニングの絵が決まっていなかった。宮さんは絵を描く担当だから、「パクさん(彼は高畑さんをそう呼ぶ)、早くやろうよ」と言うんだけど、高畑さんはなかなか重い腰を上げない。そうこうするうちに、高畑さんがプロデューサーをつかまえて、議論をはじめてしまった。聞くともなしに聞いていたら、「なんで1週間に1本放映しなければいけないのか」。これが1時間で終わらず、2時間たっても3時間たっても、えんえんと続く。スタッフは監督の指示が必要ですから、ただ待つしかない。それで、宮さんはしようがなくて、高畑さんにいっさい相談することなく、あのオープニングを作ったそうです。このエピソードは宮さんから百万回(笑)聞きました。
 そもそも高畑さんのデビュー作『太陽の王子ホルス』のときからそうだったらしい。悠々と急がないから、宮さんが心配する。「パクさん、大丈夫なの? 公開に間に合わないよ」。高畑さんは平気でこう言う、「人質を取ってんだから大丈夫だよ」。「何なの、人質って」「フィルム」だよ。

 もう一つはラストシーンです。王蟲(オーム)が突進してくる前にナウシカが降り立ちます。宮さんは最初、そこでエンドマークというつもりだったんです。あそこで終わっていたら、あの映画はどうだったんだろう? あまりにもカタルシスがないと思いませんか? こういうとき、宮さんはサービス精神が足りないんですよ。
 ラストシーンの絵コンテを見て「これでいいのかなあ」と思っていたら、高畑さんもそう思ったらしい。二人で喫茶店に入って、「これはいかがなものか」という話になった。高畑さん「鈴木さん、どう思う?」、ぼく「終わりとしては、ちょっとあっけないですね。いいんでしょうか?」。高畑さんの疑問は、要するに、これは娯楽映画だ、娯楽映画なのにこの終わり方でいいのか、ということなんです。高畑さんは理屈を考えるの得意でしょう、話が長いんですよ。そしてどんどん話題が広がる。ああでもないこうでもないって、多分、8時間ぐらいしゃべってたんじゃないかなあ。
 で、「鈴木さん、手伝ってください」と言うので、二人でラストシーンの案をいろいろ考えた。案は3つでした。A案は宮さんの案そのまま。王蟲が突進しその前にナウシカが降り立って、いきなりエンド。これはこれで宮さんらしいけどね。B案、これは高畑さんが言い出したもので、王蟲が突進してきてナウシカが吹き飛ばされる、そしてナウシカは永遠の伝説になる。C案、ナウシカはいったん死んで、そして甦る。
「鈴木さん、この3つの案のなかで、どれがいいでしょうかね」
「そりゃ死んで甦ったらいいですね」
「じゃ、それで宮さんを説得しますか」
 それで二人、宮さんのところへ行きました。そういうとき高畑さんはずるいんですよ。みんなぼくにしゃべらせる。どうしてかというと、責任をとりたくない(笑)。自分が決めて、それに宮さんが従ったとしても、もしかしたら宮さんはあとで後悔する、そうすると自分の責任になるでしょう。それが嫌で、ぼくに言わせたいわけ。わかってましたけど、しようがないから、ぼくが案をしゃべる役回りになりました。
「宮さん、このラストなんですけど、ナウシカが降り立ったところで終わっちゃうと、お客さんはなかなかわかりにくいんじゃないですか? いったんバーンと跳ね飛ばされて、死んだのかと思ったところで、じつは甦る、というのはどうでしょう?」
 そのときもう公開間近で、宮さんも焦っていた。宮さんは話を聞いて、「わかりました。じゃ、それでやりますから」と言って、いまのかたちにした。『ナウシカ』のラストシーンに感動された方には申しわけないんですが、現場ではだいたいこんな話をしているんですよ。
 このラストシーンがじつはあとで評判になってしまいます。原作とまるでちがうじゃないかという声もあって、いろいろ論議を呼びました。宮さんはまじめですからね、悩むんです。深刻な顔をして「鈴木さん、ほんとにあのラストでよかったのかな」と言われたときには、ぼくはドキドキしました。いまだに宮さんはあのシーンで悩んでいますね。】

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 あのラストシーンに感動してしまい、涙が止まらなかった僕としては(映画を観て泣いたのはあれが生まれてはじめてのことだったので、いまでもよく覚えているんです)、「あのラストでいいに決まってるじゃないですか!というより、あれ以外にありえない!」と強く主張したいところではあります。あの「青き衣をまといて金色の野に降りたつ」ナウシカの姿こそが、『風の谷のナウシカ』の「最大の見せ場」のはずなのに。
 
 ところが、スタジオジブリの名プロデューサーであり、宮崎駿・高畑勲両監督の盟友でもある鈴木敏夫さんによると、あのラストシーンは、「本来、宮崎駿監督が考えていたもの」とは、全然別物になってしまったんですね。
 もし、「王蟲が突進してくる前にナウシカが降り立った場面でエンドマーク」とか、高畑さんの案の「王蟲が突進してきてナウシカが吹き飛ばされる、そしてナウシカは永遠の伝説になる」というようなラストになっていれば、たぶん、『風の谷のナウシカ』に対する世間の評価というのは、まったく違ったものになっているのではないでしょうか。
 完成版のラストシーンよりも「メッセージ性は高い」ような気もしますけど、その結末を見せられれば、気分よく映画館を出てくるのは難しいはず。

 鈴木敏夫さんは、『アニメージュ』という雑誌の編集に関わったのをきっかけに宮崎駿、高畑勲両監督と知り合い、彼らの作品に惹かれて、徳間書店の編集者から「スタジオジブリ」の主要スタッフとして活躍されています。
 元々「アニメ制作者」ではない鈴木さんの「映画に声優ではなく、タレントを起用しての話題づくり」や「タイアップによる宣伝」などに対しては、批判的な声も根強くあるようですし、僕も「やり手の営業マン」「豪腕」のイメージがあって、ちょっと苦手なタイプの人だな、と思っていました。 
 でも、この本を読むと、「宮崎駿のもの」だと思い込んでいた「ジブリ作品」は、けっして、宮崎駿ひとりの力で成り立っているのではないのだな、とうことがよくわかります。高畑勲監督のさまざまなエピソードも紹介されているのですが、それを読んでいると、高畑監督に比べたら、宮崎駿監督のほうが、まだ「常識人」だと感じずにはいられません。
 にもかかわらず、高畑勲という人間と一緒に仕事をすることを最も望んでいるのは、やっぱり宮崎駿監督なんですよね。そして、高畑さんは肝心なところではいつも、「宮崎駿の弱点」をしっかりサポートしているのです。
 
 もし鈴木さんがいなければ、少なくとも、ラストシーンへの違和感を宮崎駿監督に告げなかったら、『風の谷のナウシカ』は、ここまで歴史的な作品にはならなかったでしょう。どんなに優れた作品でも、ラストシーンの印象って、すごく大事ですから。
 そして、『ナウシカ』が失敗していたら、現在の「スタジオジブリ」も存在しなかったと思われます。

 もちろん、鈴木さんの力だけで「ジブリのアニメ作品」そのものを制作することはできないでしょうけど、「ジブリの作品は、宮崎駿ひとりのものではない」のです。
 
 それにしても、「いまだに宮さんはあのシーンで悩んでいる」という鈴木さんの言葉には驚かされます。売れたからいい、世間で評価されているからいい、というふうに割りきることができないのが、宮崎駿監督の「らしさ」であり、「創作者としてのプライド」なのかもしれませんね。